2017年08月06日

『ダイ・ビューティフル』

ミスコンの光と影

私はミスコンというのは、いまでも女性差別の悪しきイヴェントだと思っている。というかそれ以外の何物でもない。フェミニズムが今よりも元気だったころには、ミスコンは激しく批判されたが、その批判は、いまも継承すべきだと思う。


男性が女性のランク付けをする。たとえミスコン主催側が、たんに女性の見た目ではなく内面も判断すると弁解しても、内面だろうが外面だろうが、そうやってランク付けする側は、いったい何者だといいたい。


芥川賞とか直木賞ではないと弁解されるかもしれない。芥川賞とか直木賞が、勝手に賞をあたえるのは、いいとしても、選考過程を報告し、選にもれた作品にをぼろくそにいうという常識を疑う作家たちの愚行いや蛮行には、ただただあきれかえるほかないし、ぼろくそに言われた作家の誰かが名誉棄損で訴えたらいいと思うのだが、つまり、自分から競争とか賞取りレースに参加するのなら、順位をつけられ、その過程で、欠点とか問題点を批判されてもしかたがない。それを甘んずるという条件でレースに参加しているわけだから。ところが芥川賞とか直木賞というのは、候補作を、勝手に選んで、賞を決める。そして選考結果まで発表することで、直接あるいは間接的に受賞を逃した作品を批判することになる。最低である。アカデミー賞の場合も、勝手に候補作を選んでいるのだが、選考結果は発表しない。あたりまえである。また勝手に選んでいるのだが、候補作とか候補者として選ばれることも名誉になるかたちにしている。受賞を逃したのは欠陥があるからというふうにけなされることはない(そして、それでも勝手に順位をつけるのはけしからんとアカデミー賞を批判したマーロン・ブラントのような俳優もいた)。


ミスコンの場合、勝手に候補者を選んでランク付け、順位付けをしているのでなく、自発的に、みずからの意志で競争に参加している女性に対しての辞順づけなので、けなされても、文句は言えないということになる。またさすがに芥川賞とか直木賞の選考委員の愚劣な作家たちとは異なり、たとえば、この女性は、胸が小さすぎるから、この女性は鼻がでかすぎるから、この女性は不健康なまでに痩せすぎているからというような理由で受賞できなかったなどという選考過程を公表するという非常識なことはしていない。女性に勝手に順位付けするのは、もってのほかだが、自分から順位をつけてもらいたいと望む女性たちに順位付けするのはかまわないということになるかもしれない。私も、選考委員をしているものがあるが、それは特定の賞をもとめて応募してきた作品を審査しているのであって、好き勝手に、なんであれ、順位をつけているわけではない。


しかし問題は、人間の特定の技能とか、特定の業績について審査はできても、女性そのものを審査することなどできない。見た目だけで審査しているのではないというのであれば、まず見た目で審査することは愚かであり犯罪的であることを認めたうえで、さらには見た目ではない内面まで審査するとは、いったいどれほど過激な愚行なのか。内面など審査できるはずもない。それを審査できるというのなら、その内面は、外面にすぎない。外面は審査できる――たとえその基準があやふやでも。そして外面だけで審査することは人間の場合、愚行である。また審査の対象となるというのは、結局、女性を物化している。あるいはペット化している。とにかくミスコンは、なにもかもまちがっているし、私はミスコンに対しては、その開催者から参加者にいたるまで、なんらリスペクトしていない。よく大学でもミスコンは行われているが、あれは学生団体が主催しているのであって、けしからぬものであっても、法に触れない限り、学生の活動に介入はでいないので放置されているのであって、もしミスコンを大学側・教育側がおこなったら、これ徹底的に避難されてしかるべきである。


『ダイ・ビューティフル』を観たら、フィリピンでは、女装する男性たち、ドラッグ・クイーンといっても男性たちが、著名な世界規模のミスコンのまねごとをしている。ドラッグ・クイーンたちによるミスコンを主催、そのなかでミスコンの女王を決めるということがテレビ番組として放送されていること。その際、ミスコンの女王に選ばれるドラッグ・クイーンは、たんに見た目の美しや、魅力だけでなく、審査員との質疑応答での受け答えの良さも評価の対象となる。だからおこなっていることはミスコンそのものである。ただ参加者が、女性ではなくて、女装する男性、コスプレする男性、ドラッグ・クイーンであるということだ。ミスコン嫌いの私も、これは素晴らしいと思った。


ある種のミスコン遊びなのだが(実際、映画の冒頭では、ミスコンごっこをしている子供たちが示される)、またこのミスコン遊びをしている人たちは、本物のミスコンに対して、私とは異なり、リスペクトしているかもしれないが、リスペクトの有無にかかわらず、ごっこ遊びは、面白いし、本物を愚弄する面もあるので、本物の持つ危険で悪辣な面が前景化されると同時に、その毒気が抜かれる。戦争行為は地獄の一季節だが、戦争ごっことかサバイバルゲームは楽しい。それと同じで、このミスコンごっこは、ミスコン嫌いいや、ミスコン批判者にとっても、じゅうぶん楽しめるものである。まあ新宿歌舞伎町二丁目のゲイバーのアトラクションというかパフォーマンスのようなものだが、そこに遊戯性と批判性とが、熱狂と嘲笑とが、共存する。遊戯性と熱狂しかないのではと問うなかれ。ドラッグクイーンのパフォーマンスは、どこまでいっても贋物感がつきまとう。そして縮めることのできない距離が介在する。そこに醒めた視線、批判性がおのずと生まれるからこその、熱狂と嘲笑なのだ。


Imitation of Life

映画そのものは急死したミスコンの女王である男性を、ミスコンの女王として埋葬するため10日の通夜をおこない、そのつど、着せ替え人形にように、死体にセレブの女性の化粧をする。そしてその間、フラッシュバックで、死んだミスコン・クイーンの人生が断片が示され、最後には、彼女の幼少期から死に至るまでの人生の全体像が浮かび上がることになる。


予告編とか宣伝では、彼女の父親は、彼女/息子を、男性に戻して埋葬したがっているが、彼女の意志は女性として埋葬されることであって、ドラッグ・クイーンのミスコン仲間たちは、彼女の意志を尊重して、遺体の奪還をはかるというのが大きな事件となると予想された。ただ、映画のなかでは親族のもとに返され、男装(?)された彼女の遺体だが、ミスコン仲間たちは、彼の姉を説得して、死体を運び出すことに成功する。ただしこの事件は、直近の過去の回想として、けっこう終わりのほうで示されるだけで、大事件というよりも、遺体がなぜ葬儀屋にあるのかの簡単な説明的エピソードという扱いで、大事件というようなものではない。


しかし、それによって映画の魅力がそがれることはない。ここで、Imitation of Lifeという言葉を、そして映画を思い出す。1934年の映画は日本語で『模倣の人生』と訳された。問題のある訳語かもしれない。そもそもここでいうImitationとは模造品のこと。強いて言えば模造の人生、贋物の人生、偽りの人生ということで、これが主たる意味だろう。模倣か模造。リスペクトをこめた〈ものまね〉か〈なりきり〉でも、つまり模倣でも、冷笑的な視線にさらされれば、たんなる〈まがい物〉〈贋物〉となる。この二重性こそ『ダイ・ビューティフル』の主人あるいは彼/彼女の仲間たちの生きざまの表象であろう。彼女たちの人生は、決して本物ではありえない。彼女たちは彼らなのだから。しかし彼/彼女の人生は、レイプされ、恋人となり、母親になり、ミスコン優勝者になり、芸人になりと多彩をきわめ、その華やかさ変幻自在さ、そして真摯さは、たとえ贋物でも、りっぱな模倣、本物をしのぐ、あるいは本物と見まごうばかりの密度と強度を誇示するものでもある。どれほど似せても本物に限りなく遠いが、にせものだけども本物に限りなく近いという二重性。これをイミテーション・オブ・ライフと呼ぶことは理にかなっている。


また『模倣の人生』の1959年のダグラス・サーク監督によるリメイク版も思い出す。日本語タイトルは『悲しみは空の彼方へ』。原題は同じImitation of Life。ダグラス・サークお得意の50年代のメロドラマ映画なのだが、なんと悲しく、またなんと強烈な社会批判かと感銘を受ける映画である。映画の最後、黒人の女性の死が、驚くほど豪華な葬儀をもって締めくくられる。そこに若い白人としてパッシングしている黒人女性が、この死んだ母の遺体に許しを乞いに来る。泣きじゃくりながら。思い出すだけでも泣けてくる場面なのだが、侮蔑され差別され、娘からも黒人であるがゆえに嫌われた女性の苦難の人生に対する、監督の、社会の謝罪と償い、それがこの豪華な葬式となって出現する。おそらく当時の現実の社会にあって、黒人女性を、これほど豪華な葬式をもって弔うことはないだろう。それゆえ、この葬式は社会に対する強烈な批判でもあった。


『ダイ・ビューティフル』も、無理解と差別の人生を、笑い飛ばしながら、また人生と真摯に向き合った、急死したドラッグ・クイーンの男性の生涯をふりかえって、追悼する映画でもある。フィリピン全土で葬儀のメイクについて話題になり、有名人セレブからミスコン仲間たちが数多くつめかけ、10日の通夜が、祝祭的熱狂をもって、繰り広げられるのである。その豪華あるいは豪華を模倣した通夜は、『悲しみは空の彼方に』の豪華な葬式のように、迫害された者への――ドラッグ・クイーンの短くも楽しい苦難の人生への――深い追悼なのである。


『彼らが本気で編むときは』

萩上直子監督、生田斗真主演『彼らが本気で編むときは』(2017)を思い出してもいい。


『彼らが』のほうはトランスジェンダー(こちらは完全に性転換している――失ったペニスを埋葬するのだから)の生田斗真と桐谷健太の夫婦が、女の子(母親から見捨てられている)の世話をすることになり、子持ちの家族となる話である。最終的には産みの母親が、親権を主張して、女の子を連れて帰るのだが、『ダイ・ビューティフル』もまた、同級生でミスコン仲間の二人が女の子を引き取って育て家族となる話でもある。また準トランスジェンダーの彼女/彼は、死んだら、親族がひきとって、ミスコン女王としてのトランスジェンダーの生き方を全否定しようとする。血縁による暴力性。また血縁を超えたところ、性差を超えたところにある人間的関係への無理解と差別。


この二つの映画に共通するモチーフのうち、『彼らが本気で編むときは』というタイトルは、憤りを意味している(映画の内容は怒ってばかりいるということはない)。つまり「彼らが本気で編むとき」とは、映画のなかでの設定では、彼らが社会の無理解と差別に憤っているときなのである。同じく『ダイ・ビューティフル』も、社会の無理解と差別にさらされ苦難の人生を送ったミスコンの女王への哀悼である。ただタイトルは美を強調している。その人生が、ありふれた人生を送る人間にくらべてはるかに波乱にとみ、また注目を浴びた華麗な人生だからであり、その美の追求は、たとえ贋物の美、安物感から逃れられないB級、C級の美にすぎないとしても、贋物が、ふと本物を凌ぐというのではなく、贋物であることの独自の美に向けられているからでもある。ふたつの映画というよりも、ふたつの映画のタイトルは、支え合っている。同じ一つのコインの両面なのである。


追記

10日の通夜のときには、何も語られていないのだが、明らかに、マライア・キャリーのものまねの一夜――マライア・キャリーのメイクと衣装を遺体が身に着ける一夜がある。男性のドラッグ・クイーンなので、どうしても肉体的にたくましい女性になってしまう。しかし、報道されている超肥満化した今のマライア・キャリーに比べると、映画のなかのたくましいマライアが、けっこう痩せて見えるところが、おかしい。

posted by ohashi at 10:14| 映画 | 更新情報をチェックする