2017年08月13日

『少女ファニーと運命の旅』第0回

この映画について、5つの面から考えていきたい。予告編である。


1)長距離踏破 『ファニー13歳の指揮官』という翻訳も岩波少年文庫から出版されたばかりだが、ある種の児童文学的味わいがあって、子供たちだけの長い距離を踏破する逃避行の実録物語といっていいだろう。子どもや子供たちが長距離を踏破する物語としては『クオレ』にある、いわゆるイタリアから南米までの「母を訪ねて三千里」をはじめとして、いろいろある。ただそれらは植民地主義とも連携していて、今回の映画とは違う。


2)敵中突破 この映画の子どもたちの逃避行は、ユダヤ人の子供立ちが中立国スイスへの逃避行でもあって、自由と解放を求める旅である。まわりにはドイツ兵がいっぱいいる。というかドイツ占領地域あるいはナチス政権に協力したフランスのヴィシー政権下での逃避行である。そしてこれはこの種の逃亡劇の王道でもある、敵中突破物である。とりわけ幼い子供たち、リーダーは13歳というのは、心もとないことこの上もない。成功の確率はゼロに等しい。にもかかわらず、主人公の彼女はメンバーを助け、また助けられ、成長してゆくという感動の物語となる。


3)少女物 ちくま学芸文庫書下ろしとして、池上英洋・荒井咲紀著『美少女美術史』がこの6月に刊行された。私が購入したのは630日刊行ですでに第二版だったが、映画においても、これは誰でも気づいていることだが、少女は特権的な立場にある。『美少女映画史』が書かれておかしくないのであって、この『ファニー』も少女物の映画として、まさに映画の王道をいくものである。この少女物としての映画も無視することはできない。


4)黒歴史 この映画の主題は、ヴィシー政府が、ナチスに協力してユダヤ人迫害をしたことである。ホロコーストはドイツ人の事件だけではない。フランス人も、あるいはナチス占領下でのヨーロッパ全土(実はスイスも例外ではなかった)でホロコーストに協力した。このヨーロッパの黒い歴史の掘り起こしが20世紀世紀末からおこなわれてきた。たとえばジャン・レノ、メラニー・ロラン主演の『黄色い星の子どもたち』などが典型の映画だが、そこでは、フランス人がホロコーストに協力した事実が赤裸々に描かれていた。


5)善き人 この映画には、これと関連して、もうひとつの裏のテーマがある。それはナチス占領下でもユダヤ人を直接、間接的に助けた人たちもまたいたということだ。これは、いっぽうで、ホロコーストに協力したフランス国民の罪を軽減する口実にも使われかねないという危険性がある。ただ、救う人、「善き人」「正義の人」のテーマは、ナチスへの抵抗のテーマとともに、いま重要なテーマとして踊りでた気がする。


こうした点を考えてみたい。予告編である。

posted by ohashi at 13:24| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年08月12日

『夜明けの祈り』

『ボヴァリー夫人とパン屋』、『美しい絵の崩壊』のアンヌ・フォンテーヌ監督の新作で、フランス映画祭でも公開された映画が一般公開されることになった。

内容はすでに紹介されているのでネタバレでもなんでもないのだが、第二次世界大戦中のポーランドの寒村、ドイツ軍撤退の後、進駐してきたソ連軍兵士が女子修道院で暴行におよび、修道院長をはじめ多くの修道女たちが妊娠し、時満ちて出産することになる。事件が公になるのは不名誉なことで修道院では秘密裏に事を運ぼうとする。また、この段階でポーランドがソ連傘下に入っていたかどうかよくわからないのだが、ソ連にとってもこれは一大不祥事であって内密にするだろうし、ポーランドも同じようにもみ消すだろう。そうなるとどこに救いを求めたらいいのかわからない。ソ連もポーランド当局も、そしてカトリック教会も、この件を隠蔽しようとするだろう。だが出産間近な修道女もいる。思い余った若い修道女の一人が、駐留中のフランスの赤十字に助けをもとめる。門前払いされるものの、願いを聞き入れてくれたフランス人の女性医師(とはいえ当時のことで男女差別があって仕事は男性医師の助手、看護師とあまりかわらない仕事しかあたえられていない)が出てくる。彼女の手で帝王切開の手術に成功するが、妊娠している修道女はほかにもたくさいんいた。


ここまでが映画の冒頭。それからどうなるか、困難は予想され、犠牲も出るだろうが、最後はすべてうまくいくのではないかと予想される。まあ、誰もが抱く、この予想は的中するのだが、しかし、最後の妥当な解決にいたるまでが長い。というか最後の解決については、もっと早く自然に思いついてもよいのではないかと思う。


敵は全体主義・共産主義のソ連とその傘下にあってポーランド当局だけではないのだ。このふたつが敵ならば、ソ連兵の蛮行を国際機関に訴えればすむことである。プライヴァシーは守られるだろう。ところが事件をもみ消そうするのは、スキャンダルの発覚を恐れる修道院側もそうであって、敵は三方にいる。しかもやっかいなことに、修道院という敵は、外部ではなく、内部にいって、修道女が死んでもかまわない、生まれてきた子供は放置して殺すこともいとわないのだ。この因襲芬々たる女子修道院の組織そのものもが、ある意味、一番やっかいな敵として立ちはだかり、観ていてイライラする。


修道院長は、この件が発覚したら、この女子修道院は解散させられるという。それを聞いて、」解散させられて何が不都合なのかと思う。伝統と格式など、苦しむ修道女たちを前にして何の意味があろうかと考える。この発想は人間中心的であって、信仰に身を捧げる彼女たちにとって、修道院長の命令は絶対で、組織の守護と維持こそがすべてで、世俗を超越した信仰の道がすべてであって、それを妨げる人間的叡智なり判断は、すべて退けられてしまう。くそカトリックとしかいいようがない(とはいえカトリック教会も、この修道院長の判断は断罪するだろうが)。


またキリスト教では、むしろプロテスタントのほうが、その傾向が強いかもしれないのだが、人間ひとりひとりは、原罪を背負い、汚れていると考える。汚れてしまい、絶望の淵に沈んだ人間が、神にすがる、この構図こそが、キリスト教信仰の中枢にあるものだ。貧しき者こそ幸いなるかな。また修道女たちの朝の祈りで、汚れた者の救済をもとめる神への祈りが朗誦される。しかし、彼女たちの責任でもなんでないにもかかわらず、汚れた身体を余儀なくされたとき、彼女たちがとる態度は――人間だから仕方がないといえば、それまでだが――自らの汚れを恥じて信仰心がゆらぐのである。汚れた者こそ幸いなれ。汚れた者の絶望こそ信仰の中心であると、頭では理解していても、いざ自分が当事者になってしまうと、汚れを徹底的に恐れ忌嫌う。ということは汚れた罪人に同一化するという祈りを繰り返しながら、その結果、汚れた者、罪人たちへの蔑視しか生まなかったことになる。自分が汚れた者になったとき、汚れた者たちを遠ざける(みずからソ連兵にレイプされそうになるという恐怖体験から、修道女たちへのシンパシーをつよめていく女性医師とは正反対の姿勢である)。この非人間性を日々修道女が生きていたからこそ、修道院は、街にあふれる戦争孤児たちに救いの手を差し伸べることすら思いつかなかったのである。信仰とは、そのような人間のクズをつくるのではなく、人間を救うためのものではなかったか。


原題は『罪なき者たち』英訳するとThe Innocent. 修道女たちは被害者であって、罪があるわけではない。だから、彼女たちも女性医師の医療行為を通して、また彼女との接触をとおして、人間的慈愛の念をはぐくみ、苦しみを克服していくようになる。それはまたかたくなに修道院のメンツにこだわり、生まれたばかりの赤ん坊を殺していく――最後には「人殺し」とまで若い修道女から言われる――修道院長(ネタバレではない。早い段階で、修道院長が子供を捨てていることは予想がつくのだから)とは正反対の人間主義的な立場である。だが、むしろ困難を克服していく修道女たちは人間的であり、またキリスト教の信仰を守る人たちでもあって、両者は本来両立するはずなのが、因襲と格式を守ることに汲々とする院長の妨害によって、対立構造への変えられてしまったのである。


解決は、そんなにむつかしいものではない。つまり本来ならすぐにそこにたどり着いてもよかったのだが、それだと映画がすぐに終わってしまうので、長い妨害期間が入る。そして見ているほうは、ずっと腹立たしい気持ちをかかえながら、最後までつきあうのである。観客は修道院の苦行につきあわされるのか。ただ、あまりこのことにこだわりすぎるとBlaming the Victimsとなって、加害者ではなく、被害者を非難することと誤解されかねないので、一言。社会主義が、いくら宗教を否定するからといって、修道女をレイプするというのは言語道断の犯罪である。責められるべきはソ連兵とその指揮者たちである。だが、その処理のまずさ、その非人道的隠蔽体質によって修道院の運営側もまた非難されるということである。


なお作品のイデオロギー的側面をみれば、ソ連とポーランドの全体主義的共産主義を断罪し、あと古臭いカトリックの非人間性を断罪することで、一石二鳥あるいは一石三鳥の効果を上げていることは付記すべきだろう。フランスはカトリックの国ではなかったかというなかれ。フランスの公式の国家的あるいは文化的イデオロギーでは、宗教は最終解決ではない。フランス革命を経たフランス国家は、啓蒙主義と脱宗教をイデオロギーとしている。カトリックあるいはキリスト教徒だけを優遇することはない。むしろ宗教性に対して寛容ではなく、いかなる宗教に対しても、厳正な中立的な姿勢を貫くことで、イスラム教徒の反発をかったことは記憶に新しい。ただ、それによってこの映画の場合、カトリックにも厳しい姿勢は、最終的に犠牲者となった女性たちの苦境を浮かび上がらせることになる。


ネット上のあるブログには、つぎのような記事があった。


この映画の上映会の後、監督と主演女優によるティーチインがあった。

そこでも、監督がそのことに言及していた。

「知って欲しいのは、この映画の中で起きているような事件が、現在も戦場や紛争地帯で起きているということです」

と監督は言っていた。

慎ましく、真面目に生きている人たちに、こんな悲しい出来事が襲いかかり、加害者は罪の意識もなく日常を生きているという不条理。

どうしたら、そのような蛮行をなくすことができるのか。

どうしたら、世界中の人々の意識を変えていくことができるのか。

こういう事件は中々表に出にくい性質のものだけれども、こうして映画などのメディアで何度も繰り返し描き、拡散していくことで、少しずつでも意識が改善できるものだと思いたい。


これだけでは、書いた人間の真意は、あるいは人格を測ることができないから、個人的な見解というよりも、一般的見解の典型として考えていただき、書き手に責任はないということを前提として、「慎ましく、真面目に生きている人たちに、こんな悲しい出来事が襲いかかり、加害者は罪の意識もなく日常を生きているという不条理。」とはよく言ったものだと感銘を受けた。同じことは日本兵はアジアで大陸でやってきたのではなかったか。そしてそんなことはなかったかのように、罪の意識もなくのうのうと日常を生きてきたのではなかったか。


慰安婦問題もそうである。戦後、「加害者」の元日本兵たちは「罪の意識もなく日常を生きているという不条理」。もし書き手が、このソ連兵以上の日本兵の暴虐について念頭を置いているのなら、いいのだが、そうでないとすれば、その無自覚の罪は計り知れない。


もし映画のなかの事件をロシアにつきつければ、そんな事実や記録などどこにもないとはねつけるだろう。たぶん、日本の現政権や右翼の言い訳と同じことをするだろう。おそらくポーランド政府も、いまはどうかしれないが、当時だったらソ連政権の姿勢を「忖度して」、事件を否定しただろう。強制連行の記録はない、慰安婦たち、いや修道女たちは、自分からすんでソ連兵に身をささげたのだ、と。この映画で責められるべきは、アジアでの日本兵の暴虐でもあることは自覚すべきであろう。

posted by ohashi at 22:49| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年08月06日

『ダイ・ビューティフル』

ミスコンの光と影

私はミスコンというのは、いまでも女性差別の悪しきイヴェントだと思っている。というかそれ以外の何物でもない。フェミニズムが今よりも元気だったころには、ミスコンは激しく批判されたが、その批判は、いまも継承すべきだと思う。


男性が女性のランク付けをする。たとえミスコン主催側が、たんに女性の見た目ではなく内面も判断すると弁解しても、内面だろうが外面だろうが、そうやってランク付けする側は、いったい何者だといいたい。


芥川賞とか直木賞ではないと弁解されるかもしれない。芥川賞とか直木賞が、勝手に賞をあたえるのは、いいとしても、選考過程を報告し、選にもれた作品にをぼろくそにいうという常識を疑う作家たちの愚行いや蛮行には、ただただあきれかえるほかないし、ぼろくそに言われた作家の誰かが名誉棄損で訴えたらいいと思うのだが、つまり、自分から競争とか賞取りレースに参加するのなら、順位をつけられ、その過程で、欠点とか問題点を批判されてもしかたがない。それを甘んずるという条件でレースに参加しているわけだから。ところが芥川賞とか直木賞というのは、候補作を、勝手に選んで、賞を決める。そして選考結果まで発表することで、直接あるいは間接的に受賞を逃した作品を批判することになる。最低である。アカデミー賞の場合も、勝手に候補作を選んでいるのだが、選考結果は発表しない。あたりまえである。また勝手に選んでいるのだが、候補作とか候補者として選ばれることも名誉になるかたちにしている。受賞を逃したのは欠陥があるからというふうにけなされることはない(そして、それでも勝手に順位をつけるのはけしからんとアカデミー賞を批判したマーロン・ブラントのような俳優もいた)。


ミスコンの場合、勝手に候補者を選んでランク付け、順位付けをしているのでなく、自発的に、みずからの意志で競争に参加している女性に対しての辞順づけなので、けなされても、文句は言えないということになる。またさすがに芥川賞とか直木賞の選考委員の愚劣な作家たちとは異なり、たとえば、この女性は、胸が小さすぎるから、この女性は鼻がでかすぎるから、この女性は不健康なまでに痩せすぎているからというような理由で受賞できなかったなどという選考過程を公表するという非常識なことはしていない。女性に勝手に順位付けするのは、もってのほかだが、自分から順位をつけてもらいたいと望む女性たちに順位付けするのはかまわないということになるかもしれない。私も、選考委員をしているものがあるが、それは特定の賞をもとめて応募してきた作品を審査しているのであって、好き勝手に、なんであれ、順位をつけているわけではない。


しかし問題は、人間の特定の技能とか、特定の業績について審査はできても、女性そのものを審査することなどできない。見た目だけで審査しているのではないというのであれば、まず見た目で審査することは愚かであり犯罪的であることを認めたうえで、さらには見た目ではない内面まで審査するとは、いったいどれほど過激な愚行なのか。内面など審査できるはずもない。それを審査できるというのなら、その内面は、外面にすぎない。外面は審査できる――たとえその基準があやふやでも。そして外面だけで審査することは人間の場合、愚行である。また審査の対象となるというのは、結局、女性を物化している。あるいはペット化している。とにかくミスコンは、なにもかもまちがっているし、私はミスコンに対しては、その開催者から参加者にいたるまで、なんらリスペクトしていない。よく大学でもミスコンは行われているが、あれは学生団体が主催しているのであって、けしからぬものであっても、法に触れない限り、学生の活動に介入はでいないので放置されているのであって、もしミスコンを大学側・教育側がおこなったら、これ徹底的に避難されてしかるべきである。


『ダイ・ビューティフル』を観たら、フィリピンでは、女装する男性たち、ドラッグ・クイーンといっても男性たちが、著名な世界規模のミスコンのまねごとをしている。ドラッグ・クイーンたちによるミスコンを主催、そのなかでミスコンの女王を決めるということがテレビ番組として放送されていること。その際、ミスコンの女王に選ばれるドラッグ・クイーンは、たんに見た目の美しや、魅力だけでなく、審査員との質疑応答での受け答えの良さも評価の対象となる。だからおこなっていることはミスコンそのものである。ただ参加者が、女性ではなくて、女装する男性、コスプレする男性、ドラッグ・クイーンであるということだ。ミスコン嫌いの私も、これは素晴らしいと思った。


ある種のミスコン遊びなのだが(実際、映画の冒頭では、ミスコンごっこをしている子供たちが示される)、またこのミスコン遊びをしている人たちは、本物のミスコンに対して、私とは異なり、リスペクトしているかもしれないが、リスペクトの有無にかかわらず、ごっこ遊びは、面白いし、本物を愚弄する面もあるので、本物の持つ危険で悪辣な面が前景化されると同時に、その毒気が抜かれる。戦争行為は地獄の一季節だが、戦争ごっことかサバイバルゲームは楽しい。それと同じで、このミスコンごっこは、ミスコン嫌いいや、ミスコン批判者にとっても、じゅうぶん楽しめるものである。まあ新宿歌舞伎町二丁目のゲイバーのアトラクションというかパフォーマンスのようなものだが、そこに遊戯性と批判性とが、熱狂と嘲笑とが、共存する。遊戯性と熱狂しかないのではと問うなかれ。ドラッグクイーンのパフォーマンスは、どこまでいっても贋物感がつきまとう。そして縮めることのできない距離が介在する。そこに醒めた視線、批判性がおのずと生まれるからこその、熱狂と嘲笑なのだ。


Imitation of Life

映画そのものは急死したミスコンの女王である男性を、ミスコンの女王として埋葬するため10日の通夜をおこない、そのつど、着せ替え人形にように、死体にセレブの女性の化粧をする。そしてその間、フラッシュバックで、死んだミスコン・クイーンの人生が断片が示され、最後には、彼女の幼少期から死に至るまでの人生の全体像が浮かび上がることになる。


予告編とか宣伝では、彼女の父親は、彼女/息子を、男性に戻して埋葬したがっているが、彼女の意志は女性として埋葬されることであって、ドラッグ・クイーンのミスコン仲間たちは、彼女の意志を尊重して、遺体の奪還をはかるというのが大きな事件となると予想された。ただ、映画のなかでは親族のもとに返され、男装(?)された彼女の遺体だが、ミスコン仲間たちは、彼の姉を説得して、死体を運び出すことに成功する。ただしこの事件は、直近の過去の回想として、けっこう終わりのほうで示されるだけで、大事件というよりも、遺体がなぜ葬儀屋にあるのかの簡単な説明的エピソードという扱いで、大事件というようなものではない。


しかし、それによって映画の魅力がそがれることはない。ここで、Imitation of Lifeという言葉を、そして映画を思い出す。1934年の映画は日本語で『模倣の人生』と訳された。問題のある訳語かもしれない。そもそもここでいうImitationとは模造品のこと。強いて言えば模造の人生、贋物の人生、偽りの人生ということで、これが主たる意味だろう。模倣か模造。リスペクトをこめた〈ものまね〉か〈なりきり〉でも、つまり模倣でも、冷笑的な視線にさらされれば、たんなる〈まがい物〉〈贋物〉となる。この二重性こそ『ダイ・ビューティフル』の主人あるいは彼/彼女の仲間たちの生きざまの表象であろう。彼女たちの人生は、決して本物ではありえない。彼女たちは彼らなのだから。しかし彼/彼女の人生は、レイプされ、恋人となり、母親になり、ミスコン優勝者になり、芸人になりと多彩をきわめ、その華やかさ変幻自在さ、そして真摯さは、たとえ贋物でも、りっぱな模倣、本物をしのぐ、あるいは本物と見まごうばかりの密度と強度を誇示するものでもある。どれほど似せても本物に限りなく遠いが、にせものだけども本物に限りなく近いという二重性。これをイミテーション・オブ・ライフと呼ぶことは理にかなっている。


また『模倣の人生』の1959年のダグラス・サーク監督によるリメイク版も思い出す。日本語タイトルは『悲しみは空の彼方へ』。原題は同じImitation of Life。ダグラス・サークお得意の50年代のメロドラマ映画なのだが、なんと悲しく、またなんと強烈な社会批判かと感銘を受ける映画である。映画の最後、黒人の女性の死が、驚くほど豪華な葬儀をもって締めくくられる。そこに若い白人としてパッシングしている黒人女性が、この死んだ母の遺体に許しを乞いに来る。泣きじゃくりながら。思い出すだけでも泣けてくる場面なのだが、侮蔑され差別され、娘からも黒人であるがゆえに嫌われた女性の苦難の人生に対する、監督の、社会の謝罪と償い、それがこの豪華な葬式となって出現する。おそらく当時の現実の社会にあって、黒人女性を、これほど豪華な葬式をもって弔うことはないだろう。それゆえ、この葬式は社会に対する強烈な批判でもあった。


『ダイ・ビューティフル』も、無理解と差別の人生を、笑い飛ばしながら、また人生と真摯に向き合った、急死したドラッグ・クイーンの男性の生涯をふりかえって、追悼する映画でもある。フィリピン全土で葬儀のメイクについて話題になり、有名人セレブからミスコン仲間たちが数多くつめかけ、10日の通夜が、祝祭的熱狂をもって、繰り広げられるのである。その豪華あるいは豪華を模倣した通夜は、『悲しみは空の彼方に』の豪華な葬式のように、迫害された者への――ドラッグ・クイーンの短くも楽しい苦難の人生への――深い追悼なのである。


『彼らが本気で編むときは』

萩上直子監督、生田斗真主演『彼らが本気で編むときは』(2017)を思い出してもいい。


『彼らが』のほうはトランスジェンダー(こちらは完全に性転換している――失ったペニスを埋葬するのだから)の生田斗真と桐谷健太の夫婦が、女の子(母親から見捨てられている)の世話をすることになり、子持ちの家族となる話である。最終的には産みの母親が、親権を主張して、女の子を連れて帰るのだが、『ダイ・ビューティフル』もまた、同級生でミスコン仲間の二人が女の子を引き取って育て家族となる話でもある。また準トランスジェンダーの彼女/彼は、死んだら、親族がひきとって、ミスコン女王としてのトランスジェンダーの生き方を全否定しようとする。血縁による暴力性。また血縁を超えたところ、性差を超えたところにある人間的関係への無理解と差別。


この二つの映画に共通するモチーフのうち、『彼らが本気で編むときは』というタイトルは、憤りを意味している(映画の内容は怒ってばかりいるということはない)。つまり「彼らが本気で編むとき」とは、映画のなかでの設定では、彼らが社会の無理解と差別に憤っているときなのである。同じく『ダイ・ビューティフル』も、社会の無理解と差別にさらされ苦難の人生を送ったミスコンの女王への哀悼である。ただタイトルは美を強調している。その人生が、ありふれた人生を送る人間にくらべてはるかに波乱にとみ、また注目を浴びた華麗な人生だからであり、その美の追求は、たとえ贋物の美、安物感から逃れられないB級、C級の美にすぎないとしても、贋物が、ふと本物を凌ぐというのではなく、贋物であることの独自の美に向けられているからでもある。ふたつの映画というよりも、ふたつの映画のタイトルは、支え合っている。同じ一つのコインの両面なのである。


追記

10日の通夜のときには、何も語られていないのだが、明らかに、マライア・キャリーのものまねの一夜――マライア・キャリーのメイクと衣装を遺体が身に着ける一夜がある。男性のドラッグ・クイーンなので、どうしても肉体的にたくましい女性になってしまう。しかし、報道されている超肥満化した今のマライア・キャリーに比べると、映画のなかのたくましいマライアが、けっこう痩せて見えるところが、おかしい。

posted by ohashi at 10:14| 映画 | 更新情報をチェックする