2017年08月31日

『ボブという名の猫』

『ボブという名の猫 幸せのハイタッチ』--ホームレスで路上ミュージシャンの青年と猫との心温まる交流で、しかもイギリス映画ということもあって、軽い気持ちで見に行った。


現代のロンドンの雰囲気、そして場の空気感までもよく出ていて、そこは満足した。いかにも観光名所という場所も出てくるのだが、トラファルガー広場(これは観光名所)などがそうだが、それよりもコヴェントガーデン(ここも観光名所だが、よく舞台になるアーケードの中ではなく、外の広場が多い)が、首都というよりも、地方都市の繁華街的な雰囲気を出していて、そこも面白かった。Islington, Angel行きのバスが走っているのだが、イスリントンって、いったいどこの地名だと初めてロンドンでそのバスをみたとき思ったことがある(りっぱなロンドンの地名なのだが)。最後のサイン会の書店ウォーターストーンはピカデリーの店なのかどうか、わからなかったが、ピカデリーの店なら、そこには数回行ったことがある(ロンドンに住んだことがない田舎者なので、数回どまりなのだが)。


と、まあなんとなく懐かしく思いながらも、路上ミュージシャンでホームレスの青年が猫と出会い、パフォーマンスに猫を同行すると、猫のほうに人気が出で、それまで見向きもされなかった彼のパフォーマンスに人気がではじめる。そしてメディアにもとりあげられ、猫との出会いを中心とした自叙伝がベストセラーになるというのは、まあ、実話でなかったら、ただのおとぎ話である。実際、猫一匹を連れているだけで、そんなに人気がでるものか。実話だからこそ作れる話であって、虚構としては蓋然性がない。まさに子供向けのファンタジーである。観るもほうも、実話でなければ、白けるかもしれない。


ただ実話の部分と物語としての蓋然性がうまく合致するするところがある。それがおとぎ話に似つかわしくないリアルな細部である。主人公は薬物依存症である。依存症から抜けられない。そのため父親や家族、ガールフレンドからも見捨てられるか、見捨てられそうになる。しかも薬物依存を治療するのに、代用薬物のようなものを毎日摂取することで徐々に治療するとか(まあ、煙草をやめるために、いきなり禁煙するのではなく、代用たばこのようなものを吸い続けるということか)、それでも完全にドラッグと縁を切るときは、地獄の禁断症状が待っている。また街には麻薬の売人が消えない。ホームレスもなくなることはなく、依存症になると過剰摂取で死ぬ場合もある。ゴミ箱をあさるホームレス生活のつらさ。増え続ける貧困層の寄る辺なき生活。この映画は、都市の空気感だけでなく、ホームレス感覚の強烈さ、あるいは重さという点でも特筆に値する。ただ心温まるだけの、子供向けのおとぎ話ではない(もちろん、子供も絶対に見るべき映画だが)。


実話だからということで、はぐらかされてしまう疑問点はないわけではない。ガール・フレンドは猫アレルギーだったのだが、あれはどうなったのか。またイギリス人、そんなに猫が好きなのか。たしかに、これは、実話でなかったら、心温まる物語、あるいは主人公への共感を確保するための仕掛けが、まさにお約束どおりなのである。


つまり「猫を救う」。


このブログでもこれまで触れてきたのだが、猫を助ける主人公というのは、主人公へのシンパシーを確保する常套手段なのである(ブレイク・スナイダー『SAVE THE CATの法則――本当に売れる脚本術』(フィルムアート社2010)参照)。実話でなかったら、あまりにありきたりな展開として嫌われる。逆にフィクションでは、ここまでベタな展開ははずかしくて書けない。実話だから許された話であり、ほんとうにSaving the catという珍しさもある。ただ、それにしても、ここまでイギリス人は猫好きなのか? 逆に、犬を連れているのは、アンダークラスのクズ男という、やや差別的な印象操作も映画のなかにある(なお猫とロンドン市長との交流をあつかった伝説じみた物語があるが、それとも関係しているかもしれない)。。


また、あんなふうに家のなかに入り込んでくる猫は野良猫ではない。おそらくもとは飼い猫で、捨てられてホームレスになった。そのため窓が開いている家に入って来た。人間にも慣れている。生まれながらの野良猫ではない。元飼い猫であった可能性は高い。だから飼い猫がまぎれてきたからと、近所に、行方不明になった猫はいないかと尋ねる主人公の行為もおかしいといえばおかしい。飼い猫が、自分の家を間違えるはずはないからである。ただ、家から追い出されたか、家を見失ったかという可能性によって、主人公と猫の境遇が同じという主題を出したかったのかもしれないが。


ちなみに、これは誰にも言ったことがないし、これからも言うつもりはないのだが(ここで書いたら、それも無理か)、人生に一度だけ牝猫と同棲したことがある(これは文字通りのことであって、女性もくは男性のことを比喩的に語っているのではない)。たぶん、もと飼い猫であって、捨てられたのであろう。寝ていると布団のなかに入りこんできて、体が接触てしいないと安心して眠ることができないようだった。猫のハイタッチではないが、片方の前脚が、私の体のどこかに触れていないと眠れなかったようだ。だから野良猫ではない。実際、ひいき目かもしれないが、なかかの美形の猫だった。


映画の主人公と同じように、毎日、キャットフードの缶詰を買っていた。ある時キャットフードをきらしてしまい、夜猫に起こされた。いまだったら近所のコンビニに猫の餌を買いにいけるのだが、当時は、コンビニはなかった。しかし駅の近くの、何でも屋という店が深夜12時まで開いていたことを思い出し、わざわざ買いに出たことがある――映画『ロング・グッドバイ』の冒頭のエリオット・グールドだと思いながら。フィリップ・マーロー/エリオット・グールドと、私は、猫を助けるいい人でした。そして私の場合、その結末は……


……


……


主役のルーク・トレッダウェイについては、どこかで観た顔なのだが、思い出せなかったので、調べてみたら、『嘆きの王冠 ホロウ・クラウン リチャード三世』(日本公開2017)にリッチモンド役で出ていたかということだが、よく覚えていない。『アンブロークン』(2016)に出ていたかと何となく思い出してきた、そして『ナショナル・シアター・ライヴ 2016 「夜中に犬に起こった奇妙な事件」』の主役だったのか、ということで思い出した。マーク・ハッドン原作の同名の小説は、サヴァンの少年が語り手の面白い小説で、その演劇化は工夫をこらした面白い舞台だったが、原作の小説の面白さにはいま一歩及ばなかったことという印象を持った。


あとアメリカ文学への言及がある。この映画の原題を日本語に訳すと『ボブという名の野良猫』だが、これはテネシー・ウィリアムズの戯曲『欲望という名の電車』を踏まえている。どこがと言われそうだが英語ではASteet Cat Named Bob とAStreetcar Named Desireで、両者の類似はあきらか。それから主人公がネズミの穴をふさぐときの本があるのだが、それがスタインベックの『二十日鼠と人間』。日本語で書くとわからないが、原題はOf Mice and Manと韻を踏んでいる。アメリカ文学に、なにか思い入れがあるのだろうか。

posted by ohashi at 22:03| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年08月30日

『関が原』

徹子の部屋に平岳大が出演していて、父、平幹二郎の思い出とか、自分が舞台にたつようになったいきさつなどを語り、興味深かった。ちなみに平幹二郎の最後の舞台はトラムシアターでの『クレシダ』で、私自身、その舞台を観たのだが、あの劇が最後の舞台だというのは、劇の内容も考慮すると、深い感慨にとらわれずにはいられない。実際、死にかかっているか、天国に行ってしまった俳優の物語でもあるのだから。

ただ平岳大が徹子の部屋に出演したのは、映画の宣伝でもあった。大作『関ケ原』の。なんの予備知識もなかった私は、平岳大が何の役なのか興味を持ったのだが、なんと島左近。英雄のいない関ヶ原の戦いのなかで、唯一、英雄といえる役どころ。これはうらやましい。


私は俳優経験もないので、あくまでも妄想だが、もし『関ケ原』という映画を撮るから何か役をやれといわれたら、英雄のいない戦いなので、誰もやりたくないので、頭をかかえてしまうしかない。


徳川家康は、司馬版では狸オヤジだろうから、いやだ。石田三成は、ストレスがたまると下痢をしてしまって戦線離脱をくりかえすというのは、かっこ悪すぎる。実際、いくさ上手ででもない。映画『のぼうの城』(2012)で描かれたように石田軍は野城ひとつを攻めあぐね、むしろ野村萬斎演ずるところの城主成田長親に翻弄されている(ちなみに『のぼうの城』では石田三成は上地雄輔、大谷吉継が山田孝之、そして長束正家が平岳大(この『関が原』では島左近)だった)。


あと毛利輝元はバカだし、島津は卑怯者だし、小早川秀秋は裏切り者だし、どいつもこいつもろくなもんじゃない。強いて言えば大谷吉嗣か。三成の盟友でもあり、戦場でも奮戦し、小早川の裏切りによって、あえなく敗退する悲運の武将である。ただ、持病があるというのは演技するときにはつらい。あとそうなると残っているのは島左近しかない。「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」という歌が残っているくらいで、三成ごときにはふさわしくない武将で経験も豊富で、またいくさ上手だった。そういえば前回紹介した、昔TBSが創ったテレビ・ドラマで島左近を演じたのは三船敏郎だった。まあ、そういうかっこいい役どころなのである。


と、前置きが長くなったが、映画そのものは、予想通りの面も多いが、予想を裏切る面もあて、映画が依拠する歴史観には全面的に反対なのだが、十分に楽しむことができた。石田三成もただ義を、観念的に求める理想主義者あるいは理論家肌の人間というのではなく、現実を見据え、政治の表と裏を充分に把握している、むしろ卓越した現実主義者でもあるのだが、しかし現実主義の中に埋没するのではなくあえて挙兵したという理想と行動の人でもあるという演出だった。そしてそこにリアル感を濃厚に漂わせる結果になった。三成は戦場において下痢で引っ込んでしまうということはなく、行動の人としても描かれ、陣頭指揮のみならず先頭に立って敵軍と渡り合う場面すら登場する。


リアル感というのは、映画的には限りなくドキュメンタリー感を出すというかたちになる。CGやドローン撮影など昔に比べれば、はるかに簡単にできるようになったのだが、これをしないように(VFXを多用した『のぼうの城』とは違うということだろう)。なるほど上から直下を見下ろすようなカットもあるのだが、大規模合戦を撮影するとき昔の映画のように真上から大軍の衝突を示すということはしない。平原を将棋の碁盤にみたてて、そこに両軍が入り乱れ、また激突することを、真上から、あるいは俯瞰するシーンというのは存在しない。


カメラは、ほとんど、地上を動く人間の目線を維持していて、戦場の全体像あるいは俯瞰像は開示されることなく、カメラはどこまでも兵士たちといっしょに移動する。完全なドキュメンタリーではもちろんないが、ドキュメンタリー的なものとしえ映画を構築しようとしたことはまちがいないだろう。


合戦の前日からはじまり、フラッシュバックを交ええ合戦までの経緯を解き明かす。少年時代の司馬遼太郎も登場させるのは意表を突くが、それ以外はある意味安定した語り口である。そのため映像のリアル感によって全体のリアル感を出そうとしているように思われる。画面はけっこう暗い。夜の場面でなくても、細部がわからないところは多い。自然光で撮っているように思われるところもある。また台詞も、聞きづらいところはある。音声を拾いきれてないように思われるのだが、そこは放置しているように思われる。すみずみまで一言一句聞こえるのではなく、よくわからない聞こえ方がリアルを増すというように思われる。


もちろんその極致は島津勢の台詞で、音声は聞き取れても、内容はまったくわからない。字幕でも出してもらわらないと、なにを言っているのか全然わからない。すべての台詞が当時の言葉や方言を再現しているわけではないが、方言などを生々しく出すことで、臨場感、リアル感を出すしかけになっている(あの汚い尾張弁/名古屋弁も、聞きづらいと思う観客は多いだろう)。


また字幕情報を最小限に抑えてある。福島正則、黒田長政、小早川秀秋が、家康や三成、島左近が誰かはわかるのだが、それ以外は、なんの説明もない。名前がわからない人物(足軽などの名もなき脇役ではない人物)が圧倒的に多い。これは、まさに戦場に投げ出され、誰が誰だか、またどこがどこだかわからないまま、右往左往する、そんな感覚を観客に「体感」させることを狙っているのではないだろうか。映画館で体感せよというのは、スペクタクルの迫力を見よというのではなく、むしろ、右往左往感覚を体感することだったのかとわかる。まあコピーを作る側は、何も考えずに前者の意味を想定していたのだろうが。で、そうなると、これは観客が難民化するということでもある。現代の世界において、一市民が、戦争からどのような行為をもたらさせるかというと、雄々しく戦うことでもなければ玉砕することでも捕虜になって拷問されることでもなく(ネトウヨなら拷問することしか考えないだろうが)、ただ、わけのわからぬまま逃げまどうことではないだろうか。現代において戦争と人間とをつなぐのは難民化現象であろう。


有村架純ほか伊賀忍者が活躍する。中嶋しゅう氏も、けっこう重要な役で出演していた(冥福を祈るばかりである)。ただ、こうした架空の人物を登場させることは、もちろん史実に登場する人物を通してだけでは描ききれない歴史の真実を、虚構人物を通して描くという由緒正しい技法なので、いいのだが、ただ、こうしたやり方は、昔ながらの時代小説の常套手段として、なにか古臭さを感ずる。もちろん、こういう設定をやめれば、時代小説や、NHKの大河ドラマなどは成立しなくなるのだが、しかし、その機能や意義がなんであれ、大衆エンターテインメント小説の指標であることはまちがない。そういう原作・小説に、歴史を勝手に解釈してもらいたくない。とはいえこれは私が司馬遼太郎の小説を嫌いだという個人的な嗜好にすぎず、意味のない繰り言かもしれないのだが。


posted by ohashi at 15:31| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年08月29日

関ケ原

実は、とくに見る予定はなかったのだが、事情があって映画『関ケ原』を見ることに。関ヶ原の戦いについては、今回の映画とは関係なく、いろいろ思い入れが強い。というか思い入れがない。


かつてTBSが大型テレビ・ドラマとして『関ケ原』を制作したことがある。加藤剛の石田三成、森繁久彌の徳川家康をはじめとしてオールスター総出演のドラマだった。それにあわせて予習か復習かどちらか忘れたのだけれども、司馬遼太郎の『関ケ原』を新潮文庫で読んだ記憶がある。ただ、その頃は司馬遼太郎の小説をとおして、史実を知ろうという目的が強くえ、今回の映画で再現してある少年時代の作者の思い出から語られるということを完全に忘れていた。時代小説を歴史的事実への窓として読んだのであり、語りの様式など、すっかり記憶から消えていた。


司馬版『関ケ原』を読んで、愕然としたことは、この天下分け目の大決戦については、英雄はいないということだった。西軍と東軍が激突していない。両軍のごく一部が戦ったにすぎない。家康の調略によって戦う前から勝敗は決まっていた。まさに大軍が正面から激突するという戦国時代の戦いは、もうすでに過去のものとなっていた。新しい時代の、物語性も、英雄も存在しない駆け引きだけの無味乾燥な戦い。ただ強いて言えば「義の人」としての石田三成像が司馬版にはあったし、TBSのドラマはそれを強調した。それまでは冷酷な官僚として描かれていた石田三成が、悲運の英雄として家康を凌ぐ偉大さを獲得する。これがある意味、不満でもあった。


私は名古屋市の出身だから、尾張の三英傑として信長、秀吉、家康には、興味があった。この三人は、最後に家康がすべてを狡猾にもっていったというイメージがあるかもしれないが、名古屋の人間としては、天下統一をし、新しい時代をつくったのは、この三人の偉業であって、秀吉が信長らの遺志を、そして秀吉の遺志を家康が引き継いだというイメージがあって、三人は同じ運命の流れに乗っていた、まさに三英傑であり、そこに石田三成ごときが入りこむ余地はない。近江出身の石田三成は好きではない。やはり家康は偉い。焼け落ちたととはいえ、再建された名古屋城のオリジナルを造ったのは家康だし、名古屋城は大阪城に対抗していて、大阪城よりも大きいのである。徳川時代に尾張は徳川御三家のひとつだったし。


また私の子供の頃、山岡荘八の小説『徳川家康』の影響も大きかったし、NET(現・テレビ朝日)系列のテレビ・ドラマ『徳川家康』(1964年)主演:北大路欣也、壮年期は市川右太衛門も、人気があった。北大路欣也の熱演も人気に貢献した――父親の市川歌右衛門に家康役が引き継がれた時は、魅力が半減したような気がした。小説で、テレビドラマで描かれる家康は、権謀術策の狸オヤジではなく、とにかく苦労人で艱難辛苦を舐め、とにかく誠実な人柄で数多くの悲運に恵まれながら、泰平の世をつくりあげた偉人であった。信長も秀吉も限界か、欠陥があったモンスターであった。家康こそが人間味を失うことのない義の人だった。


それが家康像の凋落がいつ頃のことかわからないが、始まった。たぶん司馬遼太郎もその戦犯の一人だろうと思うのだが、私の子供の頃は、信長も秀吉も、あんな汚い名古屋弁をドラマで話していなかった。家康は三河だから名古屋弁とは違うかもしれないが、それをいうなら石田三成は近江の言葉あるいは関西弁をなぜ使わないのかということにもる。


加藤清正、福島正則、黒田長政など、秀吉の家臣ながら、関ケ原では家康側についた武将たちは、ただの乱暴者(福島正則などはとくに)というイメージも強いのだが、実像は異なるだろう。


と、まあ、司馬遼太郎の『関ケ原』で定着したようなイメージは変革しないと、すべて石田三成という脇役が、とんでもなく偉大な英雄に変貌をとげ、本来、英雄的であった人物たちが次々の矮小化されてしまう。


BS-TBSで最近放送された『諸説あり』では、関ケ原の戦いの見直しがすすんでいて、当時の一次資料を読み解くと、主戦場は関ケ原ではなく山中(「さんちゅう」ではなく、地名)で、戦闘も2時間余りで終わり、当時は宇喜田秀家が家康と戦って負けたといわれた。小早川秀秋の裏切りはなかった。最初から東軍だった。また首謀者は石田三成ですらなかったという。石田三成は大谷吉継を説得して仲間に引き入れたとされるが、むしろ大谷吉継のほうが石田三成を説得したのではないか。そもそも石田三成と家康は昵懇の仲だった(番組では触れられていなかったが、実際、三成は、福島正則ら武将に襲われたとき、家康の屋敷に逃げ込んでいるのだが、この行動は、敵の裏をかく大胆不敵な行動と思われているものの、単に家康に助けを求めたにすぎなかったのでは)。首謀者は結局、誰だか、わからない。反家康で結束する勢力があり、そこに石田三成も巻き込まれたという説もあるようだ。


もう、こうなると物語のへったくれもない。ただただ面白みのない、英雄たちが消えた、無味乾燥な事実の展開ということになってしまう。まあ、これがリアルなのかもしれないが……。


しかし、物語は死んだ、物語れ。


石田三成が、大谷吉嗣に説得されて、反家康勢力の最終的に中心人物とみなされるようになるというは、ジュリアス・シーザーとブルータスの物語ではないか。シーザー暗殺の首謀者と目されるブルータスは、シーザーの息子でもあったか、息子同然の扱いを受けたといわれ、だからこそ、「ブルータス、おまえもか」というシーザーの言葉は、自分の息子に裏切られた父親の驚愕の声なのである。同じく石田三成も家康とは父と息子くらいの関係であったかもしれないが(秀吉と三成の関係とは異なり)、盟友の大谷らに家康打倒のための勢力の中心人物に祭り上げられるという悲劇。だか、これだと石田三成をもうひとりの英雄にする物語で、面白くないのだが。


ちなみに信長の旗印は「永楽通宝」だった。また三成の旗印「大一大万大吉」というのは、 「万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば太平の世が訪れる」というような意味だと言われているが(今回の映画でも)、しかし、それをその意味で解釈するのは、後世であって、当時の意味がどうであったのか、わからないという。


信長の「永楽通宝」も、経済を重視したからという説もあるそうだが、はっきりしたことはわからない。信長の旗印も、三成の旗印も、まあ縁起をかついで、お宝の象徴である貨幣、めでたい言葉「大・一・万・吉」を列挙したものだろう。映画のなかでは「利」と「義」が二項対立となっていて、世の中「利」に走っているが、自分は「義」を重んずるということを三成がいう。しかし、「大一大万大吉」という旗印は、「義」というよりも「利」ではないか。それを後世に勝手にこじつけめいた解釈を行なった。家康の旗印は有名な「厭離穢土欣求浄土」である。宗教思想と連携したユートピア運動のスローガンである。私が兵士だったら、「大一大万大吉」などという思想も理念もへったくれもない旗印の下ではなく、「厭離穢土欣求浄土」という旗印のもとで命をなげうちたいと思うだろう。まあ、そんな度胸もないが、超越性、脱俗性、理想性は心を打つ。三成ではなく家康こそ「義」の武将である。つづく


posted by ohashi at 18:49| コメント | 更新情報をチェックする

2017年08月26日

『ギフト』

『ギフト 僕が君に残せるもの』Gleason(2016)


映画の内容とは関係ない話で恐縮だが、ヒューマントラスト有楽町で、この映画をみたあと、館内も明るくなり観客(満席だった)も出口にむかって移動しはじめた。私のすぐ隣の高齢の御婦人二人連れは、ハンカチで目をおさせて、あまりに悲しくてと興奮冷めやらぬ様子だた。私が座っているいたのはD列の8番。横列の右端である。ただ、右端は壁に面していて、こちらから出るわけにはいかない。そこで私はご婦人二人が、ひとしきり落ち着いて席を立つのを待った。待った。待った……。いっこうに立ち上がる気配はない。さらにいうと、ご婦人がたの隣の列、つまりD2からD7の席まで、6人が席にどっかり居座って立ち上がろうとする気配はないく、映画の余韻にひたって、のんびりくつろいでいる。さすがにいい加減しびれを切らして、私は一人D8の席から立ちあがって、まだ座っている客の前をとってD1の席まで行って通路に出た。なかには人が通るからと足をひっこめるように注意する、このD列の観客がいる。私はすみませんと低姿勢であやまりながら前を抜けていく。まるで迷惑をかけているかのように。だが、みると、他の席の観客はみんないなくなっている。ただD列だけ、6人のクソジジイとクソババア(中年のオヤジもいたようだが)が、まるで駅の待合室かのように横一列で、なごんでいて、帰ろうともしない。迷惑をかけているのは私ではない、あんたらだ。なんなんだ、こいつらは。映画が感動的で席を立てなかった? いや、年輩の観客はたくさんいたが、彼らはすでに席を立っていなくなっている。このD列のアホ老人だけが、どういうわけか残っているのだ。わけがわからんわい。


ただ、なんの因果か、映画館では頻繁に、劇場でもちょくちょく、変な観客が周りに座ることが多い。変なというよりも態度が悪い、鑑賞・観劇の邪魔になる観客というのは、いつも私の周りに集まってくる。この6月に新国立劇場小劇場で『これはあなたのもの 1943-ウクライナ』(地人会)を観た時、86歳になる八千草薫が出演していたということでも話題になったが、作品そのものは素晴らしかったが、ただ、全体に声が小さくて、聞こえるか、聞こえないかのぎりぎりの台詞の音量になっていた。八千草薫の年齢からしたら、声は通るので聞こえないことはないのだが、声が小さいことは否めない。NHKの衛星放送でもこの舞台を録画して放送していたが、あれをご覧になれば、全体的に音が小さいことはなんとなくわかる。で、なにがいいたいかというと、そのとき劇場では、私の席の近くに二人ぐらい咳が止まらない観客がいて、始終咳をしていて、そのつど気が散ったり、台詞が聞こえなくなる。あるいは昨日観た映画では、E列の観客がG列の私の席に座っていた。アルファベットが分からないからといって、適当に座ったということだが、指定席なので適当に座られても困る。そして私の隣にいた女は、ずっと携帯をみていた。まあ、マナーの悪い観客と病気なのだから来るなといいたい咳き込んでいる観客が私のところに寄ってい来る。どうしてなのだ、神さまに嫌われているのか。この理不尽さは何か。ついつい声を挙げたくなる。


ただ私の場合、理不尽さは、まだ少ない。ないしろ花形フットボール選手が、引退後、ALSを発症することにくらべたら。


筋萎縮性側索硬化症(英語:Amyotrophic lateral sclerosis 略してALS)と診断されてから現在にいたるまでの姿を、子供に残すとして診断後から撮り続けているビデオ日記の映像を中心したドキュメンタリー映画である。予告編をみて、思わず涙ぐんでしまったため、ある意味、お涙頂戴映画でもあって、ほんとうのところ、心から観たいという映画ではなかった。しかし、実際、観てみると、そんな可哀そうだという安易な感傷にひたっているような映画ではなかった。


映画は、この元フットボール選手の死をもって閉じられると思っていた。予備知識ゼロで観たので。


確かに見ているとALSの進行は早い。ほんとうにあっという間に言葉を発することすらできなくなっていく。進行の速さに唖然とするとき、もはや死は避けられない、それも最速でやってくるという思いにとらわれる。映画の終わりは、スティーヴン・グリーソンは、かなりやつれ、やせ衰えている。息子を抱くというよりも、車椅子の身体の上に、幼い息子を載せてぐったりしている、この父子の姿で、映画は終わる。エンドクレジットでは何も報告されず、その後、映画の日本公開に際して来日した奥さんの映像コメントが入る。


夫は、まだというのは、とても残酷な言い方がだが、まだ生きている。しかも奥さんが来日しているから、介護を他人に完全に任せてもよくなっている。症状がよくなったということではない。ALSになってから、失うべきものはすべて失ったが、その喪失状態に慣れたということ。そう妻は伝えていた。テクノロジーの支援によって、全身がマヒしても、また食事ができなくなっても、呼吸ができなくなっても、それでも生きていける。残酷なというべきか、救いというべきか、頭脳はしっかりしている。したがってコミュニケーションはできる。苦しみを訴えることはできる。苦しみを認識できる。


そして慣れることもできる。たとえ言葉を失っても、慣れることはできる。この当人の、そして人間の強さに、言葉を失う。


これが最低であると言えるうちは、最低ではないということだろうか。


と同時に、どれほど欠乏しても、どれほど失っても、人間は苦しみ悲しみながらも慣れることができる。それが人間性であるかのように思えてくる。病気になる場合、あるいは生活環境が変わる場合、それまでのクォリティ・オヴ・ライフ(QOL)は失いたくないものだし、それをなんとか維持したい。それがプライドとまではいわなくとも、人間の最低限の尊厳ということもできる。だが、QOLは、相対的なもので、客観的にみて、明らかな低下あるいは劣化でも、人間はそれに順応でき、順応できた状態がQOLとなる。以前3.11の大震災のとき、私は外出先(神奈川県相模原市)で、停電にあって帰宅できず、小学校の体育館で一夜を過ごすことになった。私のQOLは劇的に劣化した。夕食は、乾パンとバナナ一本と水一杯だけとなったからだ。しかし、そのときはそれでも平気だった。普段は大ぐらいなのに空腹すら感じなかった。身体が完全に節電モードのようになってしまい、このまま何日も過ごせるように思った。幸い、この状態は一晩で終わり、翌日の午前中には帰宅できたし、被災地で避難された住民の苦労には足元にも及ばないものだったが、ただQOLがいくら劣化しても、人間は適応できるし、また劣化状態がQOLになることを悟ったような気がした。そのときは。


映画はリアルであること、夫婦の対立とか病人の愚痴、夫を愛していながら疲弊していく妻の複雑な思いなど、美化したり美談に仕立て上げることなく、冷静に提示しているのはりっぱとしかいいようがない。そのリアリズムは貴重である。


たとえば父親のすすめで信仰療法に出かけるところがある。伝道師のような人物が語るところによれば、自分で自分の体に触れ、歌をうたい、神をたたえ祈ることで、病気を克服できるらしい。最後に、病気をもっている人たちに、自分のできなかったことしてごらんなさいと伝道師はいう。するとグリーソンは、感極まってと思うのだが、走ってみるという(ALSと診断された彼は筋肉が衰えて歩くこともやっとという状態になっているので)。そこで会場で、フットボールの試合のときのようにひざまずいた姿勢からダッシュするのだが、数歩歩んだだけで倒れ込んでしまう。すると伝道師は、それが奇跡であるかのように4歩も歩めたとほめそやす。なんといういんちき。妻は、信仰療法など信じていない。信仰心篤い父親の勧めなのだが、しかし、父親を責めるわけにいかない。家族に病人がでれば、その病気が重ければ重いほど、奇跡を信じて、なんにでも手をだすのだし、私も同じことをしていたかもしれない。ともかく、このへんのリアルさには圧倒された。


実際に映画をみることで得たこともある。カメラは原則として固定している。とりわけビデオ日記はそうである。固定したカメラのむこうで、撮影された人物の動き、人物の振る舞いかた、現前のありようが不思議な感銘をもって伝えられる。また固定カメラは演出のゼロ度にむかうことで、媒介されない生の人物の言動に接することができる(という幻想をあたえる)。まさにそれがドキュメンタリー映画ということなのだが。


ただ途中からの展開は予期せぬものであり、いろいろと考えさせられたところがある。グリーソンはALSのため、話す能力を奪われていく。シェイクスピアの『リチャード二世』のなかに、死にゆくジョン・オブ・ゴーントが、いまわの際にこれを最後にと必死で言葉をつむぐ者の言葉は必ず心に響くというようなことを語るのだが、グリーソンのしゃべる能力を失ってしまう直前の必死の発話は、内容はわかりにくくなっているが、聞く者の心を打つ。予告編で泣きそうになったのも、まさにそこのところだった。


しかし言葉を話せなくなる時を予期して、自分の声を、また自分が使う単語を自分の音声でコンピュータで録音しておく。またコンピュータのディスプレイ上の文字を目で追うだけで文字入力できる装置を使いこなせるようになる。そうすると自分では言葉を発する力がなくなっても、視線で追った文字を入力し、それを自分の録音した声で音声化することによて、明瞭、明晰な声でコミュニケーションできるようになる。


本来なら言葉を発することができなくて、沈黙するところ、コンピュータを使うことで、それまでの苦しい発話から解放されて自由に言葉を駆使できる。元気な頃に録音した声には張りあがる。また機械処理した言葉だから明瞭である。いったいこれはどうしたのだろう。音声すら失った男が、機械技術の助けをかりて雄弁に意志伝達ができる。もちろん顔は話していない。口はつぐんでいる。ただコンピュータのスピーカーから声が伝わってくる。これは文字言語、エクリチュールを、機械によって音声化したもので、肉声のもつ身体性や現前性は失われている。


ただ、ちょうどエクリチュールが身体性と現前性を欠落させているがゆえに、死と結びついたように、この機械音声もエクリチュールと同様に死せる機械の声なのかというと、そういう面(どうしても違和感が消えない)と同時に、音声にはない超越的な面もあることに気づく。本人はALSの進行とともに、衰弱しているのだが、その本人から、機械を媒介として聞こえてくる元気な明瞭な人工的な声。だがこの人工的な声、疲れも苦痛も知らず、さらには歳もとらず、雑音にも邪魔されないこの声は、エクリチュールであるとともに、魂の声である。あるいは魂そのものの形態であるといえるかもしれない。


外的年齢、身体状態に左右されない内なる声の現前化、それが文字であるし(英語では文章の要旨というときの「要旨」というのはspirit「精神」あるいは「霊・魂」である)、その文字が進化してコンピュータの声(本人の)となったといえよう。このコンピュータの声は、エクリチュール、文字言語である。そしてそれは魂の声でもあった(キットラーは何て言っていたか、もう一度読みなおす必要がありそうだ)。


この映画は、人間の尊厳とは、人間であることとの意味は、またコミュニケーションを可能にするテクノロジーの意義は。考えさせられることがやまのようにある。それは簡単に答えが出せない難問ばかりだが、グリーソンの生きざまそのものが、ひとつの解答にもなっている。


だから映画館で私が退出するのをさまたげた横一列に座ったまま立ち上がろうとしない**どものように、哀れだと感傷に浸っている場合ではないぞ。映画館が明るくなって、他の列の客はすべて退席したというのに、なにか、くつろいで座って、涙をながして、結局、難病に陥った人物を見下げている**どもよりは、グリーソン本人が、その周囲が、はるかに偉大であること、観る者に限りない思索の糧をあたえてくれる素晴らしい教師であることは肝に銘じたほうがいいだろう。



posted by ohashi at 19:31| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年08月25日

『ハートストーン』

英語訳題は原題をそのまま訳していてHeartstone。とはいえこれがどんな意味なのかわからないのだが(heart of stoneとかstony heartならわかるのだが)。東京での上映は終わってしまったが、これから全国各地で順次上演される。東アイスランドの寒村を舞台にした、ゲイ映画、LGBT映画である。


まず最初にカサゴは日本では高級魚である。どう調理しても美味しい。私は塩焼きかから揚げなどが好きだが、鍋に入れても、煮てもなんでもおいしい。ところがアイスランドのこの地方では、カサゴが釣れるとがっかりして、唾を吐いて海に捨てる。なんというもったいないことを、と思わずにはいられない。西洋料理でもブイヤベースとかアクアパッツアなんかには絶対に使うと思う。


たしかに見た目はごついが、カサゴを捨てるアイスランド人は絶対におかしいとしかいえない(まあ、似たようなこともあって、私の母の故郷は瀬戸内の漁港(山口県)だが、そこではシャコが網にかかると、みんな捨ていたとのこと。ところが名古屋に来たら、シャコが寿司店で食べられている。しかも高級なネタとして。なんであんなグロテスクな、捨てるしかなかったものが、都会では食べているのかとびっくりしたらしいが、まあ、それと同じだろう。流通経路がなくて売れない、あるいは地方独自の迷信とか伝承があって嫌われているとか。それと同じようにアイスランドではカサゴが嫌われているということのようだ)。カサゴの話は最後に触れる(映画の最後にも出てくる)


最初は思春期を迎えた少年少女たちの日常が淡々と映画かれる。ドキュメンタリー映画かと思えるほどで、これからどの方向に向かっていくか、中盤まで見極めにくい。ただ、その淡々としたところが心地よく、アイスランドの自然のなかで、のびのびと春の目覚めを体験していく少年少女たちの屈託のない牧歌的日常は観ていて癒される感じがする。


おそらく予備知識なしでみると、たとえば男の子ふたりが互いに股間の性器にふれて、ふざけあうところも、仲のいい男の子どうしの、異性への性的渇望を、同性との戯れというか、おふざけで紛らわす行為として、すんなり受け止めることができる。予備知識があると他愛もおないおふざけでも、そこに本気が透けて見える。ボーイズ・ラブというのは日本語としえ正しい用法ではないかもしれないが、映画の最初から「ボーイズ・ラブ」は濃厚に感じ取ることができる。


予備知識があると、この牧歌的世界のなかで、男性どうしの同性愛がすんなり自然に目覚めていくことが確かな手ごたえとともに感ずることができて、なんとも心地いいのだが、予備知識なしでみれば、事態は、そんなに牧歌的でも、自然的でもない。幼なじみの少年どうしだが、相手に強い愛情を抱くのは、とにかく一方だけで(クリスチャン)、もう一方のソールは、異性にしか性的興味はない。片思いの同性愛であり、少年どうし、堅い友情でむすばれ、相手のことを好きであることを自他ともに認めるのだが、それが同性愛的感情であることを自覚しているのはクリスチャンだけで、もう一方のソールの愛情は異性に向けられ、同性を愛情の対象とすることはない。となると片思い、相手に伝わらぬ思い、そしてさらに同性愛を差別的にしかとらえない因襲的な田舎町において、悶々とする少年の苦悩、それが物語の後半に色濃くなる。


それにつれてアイスランドの風景も、寂寥感を増し、まさにメランコリックな風景へと変貌してゆく。白夜なのか、完全に暗くならない薄明の夜の世界、そして曇り空がつづく季節の暗さ……。そのなかで遂げられぬ欲望をかかえて悶々とする少年。もはや牧歌的な風景や世界は後退し、救いのない望みのない灰色の光景が、メランコリーの強度を増すように貢献する。アイスランドの、ある意味、過酷な自然が、後半の同性愛者を襲うデプレッションとシンクロしはじめるのである。


カメラは少年たちの顔に密着する。正面からのアップではなく、側面からの、やや下から見上げるようなカメラが、繊細な心理的揺れ動きを暗示して素晴らしいし、見上げるカメラは時折、抜けるような青空を移して、透明で爽やかな空気の流動を伝えるのだが、また、アイスランドの覆いかぶさる一面の雲を見上げることになり、陰鬱な圧迫感の増大に貢献する。


映画も中盤以降は、デプレッション、メランコリーとしか形容できない風景と物語が展開する。ゲイ映画にふさわしく、この映画は冒頭から海辺の町であることが強調される。水と海ほど、同性愛的欲望の背景としてふさわしいものはない。そして冒頭で少年たちは、埠頭で多くの魚を釣り上げる。そのなかでカサゴだけは嫌われるのだが……。少年は、大量にとれた魚の一部をバケツ一杯に盛って家に持ち帰るのだが、母親は盗んできた魚だろうからと、大量の魚を家の外に放置する。あれだけりっぱな魚があれば、毎日、なにかの料理ができて、一週間は食事に困らないのではと思うが、母親は肉食系らしく、魚に見向きもしない。いつしか大量の魚は放置されて腐るだけで、海に捨てるしかなくなる。


魚を食べないとDHAが摂れないので頭が悪くなるのだが、それはともかく、腐った魚は、いっぽうで、この寒村に暮らす住民たちの、神に見放されて腐るしかないような日常を暗示することになる。


カサゴへの嫌悪は、同性愛嫌悪(ホモフォビア)の表象だろう。しかしグロテスクなカサゴが嫌われること=同性愛嫌悪であるとすれば、寒村の生活は健全かというと、腐った魚が表象しているように、村人たちの生活も腐っている。むしろ同性愛嫌悪を正義と思っている村人たちの知能と精神年齢の低さこそが(重要なのは、子供たちの世界と、大人たちの世界に断絶はないからである。大人たちも、子供のまま大人になったかにみえる)抑圧的風土をつくりあげる。この腐った日常のなかで、抑えられれば抑えられるだけ、盛り上がる同性愛感情は、むしろ、それこそが純愛である、あるいは真正の恋愛感情のように思えてくる。


ただ腐った日常であればあるほど、不寛容になり、同性愛を嫌悪することで、かろうじて自らを正当化するという貧困な精神的姿勢が強まり、犠牲者をたえず輩出することになる。やりばのない怒りとむくわれない愛をかかえた少年は、自殺に走る。幸い、未遂に終わるのだが、たとえ、ふたりとも同性愛を強く自覚しても、もはや、もとのような牧歌的なおふざけやいちゃつき、あるいは同性愛的感情の自然な無自覚な発露へと戻ることはない。少年二人の同性愛は終わりを告げるかにみえる。自殺未遂をしたほうは村を去るしかないようだから。


異性愛中心主義あるいは強制的異性愛の解釈をすれば、子供から大人への成長過程で、幼なじみの男の子どうしは、健全な友情へと発展するかにみえて、決して悪意ではなく邪悪なものに魅了されたわけでもないが、道を誤り、同性愛へと傾斜することで、当人も、友人も、家族を傷つけてしまった。現代は同性愛に寛容であるかにみえる。しかし同性愛は異常性愛であり、伝統的な健全な恋愛観からすれば嫌悪すべきものであり、健全な大人の恋愛を妨げるものである。だが、同性との強い友情関係が、同性愛的感情へと発展する可能性あるいは危険性は常にある。むしろそれを経験し、倒錯の道を歩んだこと、世間の不寛容や差別を体験したことは悪いことではない。つらい経験を通して人は成長できる。この思秋期の過ちは決して無駄ではない。むしろ有益ですらあった……。


映画の最後は、冒頭と同じ、子供が埠頭で魚を釣っている。冒頭ではグループで、最後のほうでは子供が一人。それを主人公の一人ソールが離れたところから観ている。彼は冒頭での子供どうしの遊びから距離を置くような成長を遂げたことが暗示される。最後に子供が一人、カサゴ(!)を釣り上げる。カサゴはアイスランドか、この寒村では嫌われているようで、カサゴに侮蔑の言葉を投げかけ、その開いた大きな口に、唾をぶつけ、海に捨ているのである。冒頭ではソール自身が同じことをしていた。このカサゴは、あるいみ嫌忌される同性愛者の象徴でもあろう。唾を吐かれて嫌われる。


最後は捨てられて海中をおちていくカサゴの姿がある。硬直して、一定の距離を沈んだあと、死んだと思われたカサゴは不意に生き返る。そして何事もなかったかのように、泳いでいく。ヘテロな解釈などくそくらえ。成長などゴミ箱に捨てろ。同性愛的欲望は、負けはしない。同性愛を失うな。頑張れと応援したくなる。たとえ、どのような暴力も、大人たちが、ヘテロ中心主義者たちが、みずからの腐敗を棚に上げて、どれほど差別的に接しようと、同性愛の欲望を抑圧することはできない。それが最後のメッセージである。


追記:誰か教えてほしいのだが、この映画のなかで子供たちは、学校に行かない。就学年齢の子供たちの学校生活は、一度も描かれることがない。長い夏休みとか冬休みなのだろうか。とにかく学校は影もかたちもない。そのため子供たちの言動は、大人の縮図いや大人と同じようにみえてくる。あの子供たちがたむろする店はなんなのか。ダイナーでもなければレストランでも居酒屋でもない。ただ、お酒こそ売られていないのだが、それを除けば、大人たちがたむろする飲食店となんらかわりはない。物語は子供の物語だが、大人の物語でもある。子供と大人との根源的断絶はない(成長はない)。少年物語にみえて、これは大人たちのクィア物語なのである。


posted by ohashi at 19:56| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年08月24日

『ハイドリヒを撃て』

この映画が扱っている歴史的事件はラインハルト・ハイドリヒの暗殺事件である。以下ウィキペディアで「ハイドリヒ」の項を引用すると


ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒ(Reinhard Tristan Eugen Heydrich, 190437 - 194264日)は、ドイツの政治家、軍人。最終階級は親衛隊大将(SS-Obergruppenführer)および警察大将(General der Polizei)。

国家保安本部(RSHA)の事実上の初代長官。ドイツの政治警察権力を一手に掌握し、ハインリヒ・ヒムラーに次ぐ親衛隊の実力者となった。ユダヤ人問題の最終的解決計画の実質的な推進者であった。その冷酷さから親衛隊の部下たちから「金髪の野獣(Die blonde Bestie)」と渾名された。戦時中にはベーメン・メーレン保護領(チェコ)の統治にあたっていたが、大英帝国政府およびチェコスロバキア亡命政府が送りこんだチェコ人部隊により暗殺された(エンスラポイド作戦)。


映画の原題はこの作戦名Anthropoid。ウィキペディアの「エンスラポイド作戦から引用すると:


エンスラポイド作戦(Operation Anthropoid)は、第二次世界大戦中、大英帝国政府とチェコスロバキア駐英亡命政府により計画された、ナチス・ドイツのベーメン・メーレン保護領(チェコ)の統治者ラインハルト・ハイドリヒの暗殺作戦のコードネームである。日本語では、「類人猿作戦」などとも訳される。ハイドリヒは、ナチスの秘密警察を束ねる国家保安本部の長官であり、ユダヤ人や他の人種の虐殺に対する「ユダヤ人問題の最終的解決」(ナチスはユダヤ人や少数民族の絶滅政策のことを婉曲的に「最終的解決」と称していた)を行うナチスの主要計画遂行者であった。


この事件を扱った映画として、おそらくもっとも有名なのは大戦中の1942年に上映されたフリッツ・ラングの『死刑執行人もまた死す』(Hangman Also Dies)だが(現在DVDでも簡単に見ることができる。またこの映画のシナリオにはブレヒトが関係していた)、映画化作品はほかにもあり、さらに小説『HHH』を原作とした映画も2017年にはつくられている(公開されるかどうかわからないが)。


またハイドリヒと最終解決については、これもテレビ映画『謀議』が制作された。私はDVDで観たのだが、ナチス高官がハイドリヒを議長にして最終解決問題を検討した会議で、ホロコーストを法的に正当化する手続きを検討し、大量にでる死者をどう処理するかという難問を検討する白熱の議論を会議室だけを舞台にして再現するテレビ映画だった。検討されているのは難問ばかりで、要はホロコーストは辞めたほうが得策だと誰もが思うところ、最初からホロコーストありきで、会議を強引に導いていくハイドリヒの不条理さ、そしてハイドリヒのお友達ヒトラーが怖くて、ハイドリヒの意図を忖度する会議メンバーたちが印象的だった。ケネス・ブラナーがハイドリヒを演じていて(スティーヴン・トゥッチがアイヒマンを演じている)、ちょっと金髪の野獣というイメージとは程遠くて、そこに難があったのだが。


『謀議』(原題: Conspiracy)は、第二次世界大戦中にドイツのヴァンゼーでナチス・ドイツ高官達が集まって開かれた、ヨーロッパ・ユダヤ人絶滅を議論したヴァンゼー会議をテーマにした、アメリカ・イギリス共同制作のテレビ映画。


ヴァンゼー会議(独: Wannseekonferenz、英: Wannsee Conference)は、15名のヒトラー政権の高官が会同して、ヨーロッパ・ユダヤ人の移送と殺害について分担と連携を討議した会議である。会議は1942120日にベルリンの高級住宅地、ヴァンゼー湖畔にある親衛隊の所有する邸宅で開催された。


もうひとつ私が、この『ハイドリヒを撃て』に興味をもったのは、監督がショーン・エリスであること。『フローズン・タイム』とか『ブロークン』の監督(『メトロマニア』は観ていない)だったからだ。世界的に活躍する写真家でもあって日本にも来ている。あと映画のなかでの暗殺実行者の二人、ヨゼフ・ガブチーク を キリアン・マーフィが、ヤン・クビシュを ジェイミー・ドーナンが演じているが、ジェイミー・ドーナンは『フィフティ・シェイズ』の男でしょう、ちょっと見る気が失せるのだが、この映画では熱演していた。


前置きが長くなったが、この映画は、パラシュートで降下した二人が、プラハの街に潜入して暗殺実行するまでが前半(時計で測ったわけではないので、かんたんにそんな感じと思っているのだが)。モノクロ映画かと思われるくらいに、抑えた色調(セピア色的)の映画で、潜入してからは淡々とした日常がつづいていく。


この猛暑のなか新宿武蔵野館に到着する頃には、体の表面が溶け始めて、どろどろになっている。また新宿武蔵野館の館内、いつも臭い。生臭い。同じビルに入っている居酒屋から料理の煙がもれてくるみたいで(実際にどうかわからないが、そうとしか思えないのだ)、いつも変な臭いがロビーに満ちている。ためしに帰りに階段から降りてみるとよい。階段は、冷房がないので、夏だと生暖かいが、まったくの無臭である。で、そんな謎の臭いの漂う映画館に、体の表面が溶けかかっている(『ナウシカ』の巨神兵みたいなものである)私が到着して映画館のシートに身を沈めたら、すぐに睡魔が襲ってくる。そのため前半は記憶をなくしているところがある。


記憶喪失は私の責任だが、ただ、映画のなかで潜入するといっても、異国や他国ではなく、ナチスに占領された自国である以上、アットホーム感が出ていて、緊張感が和らいでしまう。そして淡々とした日常。実際、暗殺実行者たちは、プラハで、それぞれ恋に落ち、結婚の約束まで交わしてしまうのだ。そのため緊張感はミニマムで、溶けかかっている私はいつしか……。


ただ暗殺実行のあとは、結末はわかっているとはいえ、胃が痛くなるような緊張感とともに、最後の銃撃戦にいたるまで一挙に緊迫した展開に入る。潜入して暗殺にかろうじて成功する以上、あとはお約束の敵中突破物となるのだが……ということになる。


ハイドリヒがオープンカーに乗車中に銃撃され、手りゅう弾を車の下に投げ込まれてその爆発によって死に至るのだが、護衛がいない。これについては、いろいろと言われているようだが、市民に警戒心をあたえないように、護衛も最小限あるいは護衛をつけずにいたことが裏目に出たという説がある。しかしチェコの国民を徹底的に弾圧していた張本人が暗殺あるいは襲撃の可能性を考えなかったのかということは謎かもしれない。おそらく、みくびっていたのだろう。反抗なり抵抗はない。かりにナチスの高官なり指導者を暗殺しようものなら、報復が恐ろしい。だからいくらナチスの軍隊を憎んでも、大規模な報復をおそれてなにもしないと見くびっていたのではないだろうか。護衛を少なくしてオープンカーにして市民と壁をもうけないというのは、サンケイ新聞的な解釈で、むしろそれは潜在的威圧行為でもあるかもしれない。


独裁者というのはそういうことをするのである。記憶にないという無責任な答弁で安部一族を守った佐川宣寿を国税庁長官にしたり、首相の妻のお付きの役人谷査恵子をイタリア日本大使館一等書記官に任命したりというのは、ご褒美であり、口封じであり、そして国民をバカにする所業だろう。人種差別で避難された警官をトランプ大統領が恩赦にしたのも(←8月28日に追記)、アメリカ国民を愚弄する暴挙だろう。批判してもしょせん、臆病者、根性なし、烏合の衆でであって、そんなやつらなど怖くないぞと、ハイドリヒが、安部一族が、トランプ一族が意思表示する。


だがチェコの場合、そこに予期せぬ強烈なしっぺ返しが来る。臆病者、根性なしと見くびっていたチェコ人からの反撃が生まれた。


もちろんその後の報復は予想通り、激烈をきわめ、映画では5000人の市民が犠牲になったとのこと。それはまた国際社会からの批判を浴び、同盟の見直しとなったことが語れる。これに対しては、突発的に起こった暗殺ではなく、計画的な暗殺であり、その結果は、予測できたことであって、そのような作戦を敢行しなければよかったという考え方もあろう。多くのプラハ市民は、何もわからないまま、殺された。だから暗殺実行者たちを非難することも可能だが、悪いのは、ナチスの軍隊である。指導者が殺されたことを、口実として、見せしめ的な大虐殺を心おきなく実行した凶悪さは、まさに悪魔の軍隊である--この凶悪さは、大陸における日本の軍隊のそれと選ぶところがない。


これは連続殺人犯が死刑執行人となったということであり、連続殺人犯を非難する前に連続殺人犯を告発した側を批判することは筋違いなのである。そして恐ろしいのは連続殺人犯が死刑執行人になるという体制ができてしまっていたことだ。この点は、どれほど強調しても強調しすぎることはない。


そもそも第二次世界大戦は占領戦であるといわれている。初戦でドイツがヨーロッパ全土をほぼ占領してしまう。ヨーロッパ各国は、ドイツ帝国下の植民地扱いになる。もはや大軍が対峙して正面衝突するのは過去の時代の戦いとなり、占領下におけるレジスタンスが主となる。占領と抵抗。このなかで占領軍の中枢に潜入し指揮系統の頂点にいる指揮官を殺害することは、戦術上当然の作戦であって、7人の降下兵は、最後まで最善を尽くしたということになる。戦時下において。犠牲は多かったが、私たちにできることは犠牲者を追悼することである。


映画の中で、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』が引用され、また読まれている。降下兵の一人が、踏みとどまって抵抗するときに、シェイクスピアからの引用をする。


Cowards die many times before their deaths.

The valiant never taste of death but once.(2.2)

(臆病者は、死ぬ前に何度も死んでいるが、勇者は、一度しか死を味あわない)


と。この台詞は、どの作品の誰の台詞だったかすぐに思い出せなかったが、映画のなかで『ジュリアス・シーザー』の本が出てきたので、『シーザー』であることはまちがいないと思った。ただ、これはシーザーの台詞で、不吉な予言とか噂があって、外出を辞めさせようとする妻にむかってシーザー自身が言う台詞なのだ。自分はそんな臆病者ではないと。ただこれには違和感がある。シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』というのは、シーザーの偉業をたたえる話ではなくて、シーザーの暗殺を企ている側の物語である。そしてシーザーは劇の途中で殺される。ちょうど、この映画のラインハルト・ハインリヒのように。そう、ハインリヒ=シーザーであり、シェイクスピアの作品は本来なら『シーザーを撃て』というタイトルでもおかしくないのである。


『ジュリアス・シーザー』とこの映画とのアナロジーは、両作品に対する評価の再考を促す。シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』は、ソフィスティケイトされた解釈が横行しすぎているか、逸脱的解釈が主流になっているのところがある。しかし愚直なまでに、素朴な解釈をすれば、シェイクスピアの作品は、独裁者シーザーを倒した7人が、やがて独裁体制側に圧殺されていく物語であって、ファシズムと戦い最後に散っていった勇者たちの追悼劇である。だからシーザー暗殺劇は、ハインリヒ暗殺映画と重なり合う。独裁者/死刑執行人を倒し、圧倒的な数の敵の前にやがて倒れた者たちの物語として。


シーザーを倒したあと、キャシアスは次のような台詞をいう――


How many ages hence.

Shall this our lofty scene be acted over

In states unborn and accents yet unknown!(3.1)

これからさきどれだけの時代が、この我らの英雄的な場面を上演してゆくことだろうか、いまだ生まれざる国で、いまだ知られざる言語で。


ハイドリヒ暗殺の映画は、フリッツ・ラングから数え、今回の映画もふくめて、6回か7回あるという。独裁者への抵抗の瞬間は、これからも上映されるだろう。これは帝国との勝ち目のたない戦いに一矢報いえた奇跡の瞬間である。それを上演・上映しつづけることは、独裁体制への戦いは決して終わることがないことを意味するだろう。また同時に、この戦いのなかで死んでいった者たち、犠牲者たちへの終わりなき追悼行為ともなろう。


映画の終わりにクレジットがでる。監督の名前ショーン・エリス。彼はイングランド出身のようだが名前はアイルランド系である。キリアン・マーフィー、そしてジェイミー・ドーナンともに、アイルランド出身である。アイルランドの映画ではないが、あるいは私の勝手な印象かもしれないが、ナチス・ドイツとチェコ人の戦いは、イングランド帝国とアイルランドとの戦いの影も帯びているだろう。そんな気もする。また、もちろん大日本帝国と、その暴虐の前に犠牲になったアジアの人びとのことを忘れてはいけないだろう。


posted by ohashi at 20:09| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年08月19日

『ベイビードライバー』

エドガー・ライトEdgar Wright監督がはじめてアメリカで撮影した映画ということもあって見に行った。上映館が少ないせいか、あるいは夏休みのせいか、けっこう人が入っているというか、満席状態なので、そんなに評判の映画かと思ったが、まあ、面白い映画なので、人気がでても当然か。


主人公は子供の頃の事故とトラウマで耳鳴りがするというので、始終、耳鳴りを打ち消すような音楽をiPodで聴いていないと生活ができない。またその運転技術を見込まれ、ギャングのボスに銀行強盗団のドライヴァーとして雇われている。犯罪と逃亡、カーチェイス、そして強烈な音楽。この三つの相乗効果によって、映画は音楽と映像のみごとなコラボをはたすエンターテインメント映画となっている。


まあ冒頭近くのタイトルが入る場面のシークエンスは、驚異のワンショット・ワンシーン、トラッキング・ショットというのかいわないのかわからないが、監督は、こんな撮影をいままでしたのかと思ったが、『ドーン・オブ・ザ・デッド』の冒頭が、まさにこれだったので、記憶喪失を恥じることとなった。大胆な撮影テクニックも、この監督の魅力だったことをあらためて思い起こした。


音楽と映像との見事なコラボといえばそれまでだが、行為に音楽は伴奏として入るのか、音楽があって、これに行為が追い付くのかどちらかわからないところもある。はじめに行為ありきではなく、はじめに音楽あり、それがこの映画の魅力ともなっている。


主役のアンセル・エルゴートは、『ダイヴァージェント』とか『きっと星のせいじゃない』に重要な役で出演しているのだが、観ていない(クロエ・モリッツ主演の『キャリー』にも出演していたらしいが記憶にない)。ジョン・ハムの出演映画はいくつか観ているのだが、ワンダーウーマンのガルガ・ドットと夫婦になった『Mr & Mrsスパイ』以外は、記憶にない。まあ、ある意味、よく見る顔なのだが。また今回の役どころは、最後まで主人公につきまとう、お約束のキャラなのだが、こういうお約束のキャラというか展開に追従したことが、先に触れたロシアのSF映画『アトラクション-征圧-』が、傑作映画になりそこねているところだった。


リリー・ウィリアムズは、これよりも前の第二次大戦物に出ていた映画を、新宿のシネマカリテで上映していたが、どうしてもスケジュールが合わず見そびれた。残念。今回の役どころは、シンデレラよりも彼女にマッチしているような気がした。とはいえシンデレラも、本質はメイドなのだが。


あと音楽映画ということではないが、作曲家のポール・ウィリアムズが出ていることに驚いた。あっというまに殺されてしまうのだが。


映画のタイトルは、サイモン&ガーファンクルの1970年のアルバムBridge Over Troubled Water に収録されている"Baby Driver"より。ネット上でも観ることができるはずだが、いまのところ私のPCでは失敗している。

posted by ohashi at 16:06| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年08月18日

『海底47m』

『海底47m』(原題:47 Meters Down)は2017年にイギリスで製作されたホ映画。監督はヨハネス・ロバーツ、主演はマンディ・ムーア、クレア・ホルト。


ブレイク・ライブリー主演の『ロスト・バケーション』(原題: The Shallows2016年)という映画がある。沖合の岩場に取り残された女性が人食いザメとひとりで戦う話で、目と鼻の先に砂浜が見えるのに、人食いざめのせいで、助けも呼べず、そこに泳いでもいけないという恐怖を描いた作品だった。登場するのはブレイク・ライブリーだけといってもよく、ワン・シチュエーション映画なのだが、予想外におもしろくまた奇想天外で、最後には彼女が巨大人食いザメをやっつけてしまうのである。どうやったはか映画を観てのお楽しみ。


同じく人食いザメに襲われる映画として、この『海底47m』は、ハラハラドキドキのエンターテインメント映画と期待できた。だが、残念ながら期待は裏切られた。『ロスト・バケーション』に比べると、何倍も劣るのである。映画.comの作品情報は以下のとおり――


水深47メートルの海に沈んだ檻の中で、人喰いザメの恐怖と対峙する姉妹の姿を描いたシチュエーションパニックスリラー。メキシコで休暇を過ごしていたリサとケイトの姉妹は、現地で知り合った男から、海に沈めた檻の中からサメを鑑賞する「シャークケイジダイビング」に誘われる。水深5メートルの檻の中からサメを間近に見て興奮する2人だったが、ワイヤーが切れて檻が一気に水深47メートルまで沈んでしまう。無線も届かず、ボンベに残された空気もわずかという極限状態の中、サメの餌食になる危険におびえながら、2人は生還を目指すが……。「塔の上のラプンツェル」で声優を務めたマンディ・ムーアと、テレビシリーズ「ヴァンパイア・ダイアリーズ」などで知られるクレア・ホルトが主人公姉妹を演じた。監督は「ストレージ24」のヨハネス・ロバーツ。


この姉妹の人間ドラマ部分は無視する。サメよけの檻に入って、海中でサメを観察するというスリルに満ちた体験は、映画のなかでは違法行為で闇商売であり、だからこそ檻をつるすワイヤーが外れるという事故も起こる。これが正規の観光事業なら、事故が起これば決死のレスキュー作業が行われるのだが、違法操業なので、サメの出る海底に沈んだ女性二人を置き去りにして逃げてしまうという可能性を最後まで払拭できない……。


と欠点をあげつらっていたら、ほんとうにきりがないのでやめる。47mというのは相当深い。実際には真っ暗な可能性もあるが、それだと映画にならないから薄暗い感じで女性二人の絶体絶命の危機が描かれる。とにかく薄暗い。ウエットスーツ姿の女性二人の身体もはっきりみることもできず、おまけに、海底で顔全体を覆う酸素マスクを着けているので、事故があってから、女性二人の身体どころか顔までも最後までよくわからない。サメも襲い方が生ぬるい。最後に変なひねりがあるが、ひねりなどなくてもいいのではないか。


ちなみに深度47メートルでは、酸素ボンベでの呼吸もむつかしく、光もとどかないから、赤い血が緑色にみえるらしい。とにかく想像を絶した深さなのである。


まあダメ映画でしょう。

  

追記  8月25日記す

 この映画を、もし深いものと考えるなら、最後のひねりが重要だろう。

 つまりXというかたちで終わりだと思っていたら、実はYが真の終わりだったという構成である。

 このときXとYに何が入るかである。

 一般に、ハッピー・エンディングだと思ったらバッド・エンディングだった。あるいはその逆というパターンが考えられる。

 この映画は、変わっていて、XとYとが程度の差こそあれ、ほぼ同じなのである。別の表現を使うと、Xは実はフェイクで、Yが真の終わりだったということでもある。ただ、こうした二重の終わり方が生ずる原因を考えると、実はYもまたフェイクではないかという可能性が生まれる。となるとこの映画、にわかに深いものとなる。新海47mどころではなく、底なしの悪夢となる。

posted by ohashi at 11:20| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年08月17日

『タイタス・アンドロニカス』

カクシンハン公演『タイタス・アンドロニカス』(814~20)を吉祥寺シアターでみる。5周年記念公園ということで、もう5周年かという思いが強いが、カクシンハン版『タイタス・アンドロニカス』は新宿三丁目の遊座で上演したものもみているが、今回、劇場も大きくなり、またスケールや仕掛けも大きくなった。


吉祥寺シアターはスタジオのような小劇場とは違うが、かといって大劇場でもないと思っていたのだが、今回、客席は、ギャラリー席、さらには立体的に活用された舞台を目の当たりにすると大劇場の公演であるかのような錯覚を覚えた。


前回の『タイタス・アンドロニカス』も面白かったのだが、今回は、さらにいろいろな趣向が加わり、しかもいつものようにシェイクスピアの台詞は、これ以上ないともいえるほど丁寧に扱われ、鮮明に発せられていて、見どころの多い感動的な舞台だった。


私がいつもバカペディアと呼んでいるウィキペディア日本版の『タイタス・アンドロニカス』にはこうある――


シェイクスピア全作品中、最も残虐で暴力に溢れているという点で異質な戯曲であり、そのため最近まで上演される機会も少なかった。だが20世紀後半以降は徐々に上演が増え、近年では2006年にイギリスにて、ロンドンのグローブ座での上演、ストラトフォード・アポン・エイヴォンで行われたRSC主催のフェスティバルに招聘された蜷川幸雄演出版の上演が共に注目を集めた。


この記述によると「最近まで上演される機会も少なかった」とあるが、その最近とは20世紀前半ということみたいで、雄大な時間感覚に圧倒されるが、「上演される機会が少ない」というのは嘘である。カクシンハン版も2回めだし、個人的なことをいえば私は大学院の修士課程で、翻訳劇の『タイタス・アンドロニカス』をみている。劇団昴が、いまはなき三百人劇場で上演したもので、大学院の授業のあと地下鉄にのって見に行ったことを覚えている。タイタスは石田太郎が演じた(銀座セゾン劇場版とはちがう)ことも覚えている。2006年のフェスティヴァルでの蜷川版『タイタス』もふくめ、この「シェイクピア全作品中、最も残虐で暴力に溢れている」この作品は、現代性がかわれて、よく上演されているのである。


しかし、それだけではない。作品の梗概を知れば、ただ、必要以上に残酷・残虐なだけで、けっこう一本調子の芝居ではないかと予想するかもしれない。タイタスとその子供たちを襲う悲劇、そしてタイタスの度を越した悲嘆は、確かに、圧倒的だが、それだけではない。素朴な、あるいは未熟な劇作術なのか、それとも洗練された劇作術なのか、どちらともとれれるし、またどちらでもない、不思議な展開をする。


たとえばタイタスはあまりに残酷な仕打ちに狂気に陥るのだが、狂気が度を越してブラックな笑いを誘うまでになる。そうなるとこれは現代の不条理演劇に限りなく接近するのだが、気づくと、タイタスの狂気は敵を欺くための戦術であることもわかる。なんとも一筋縄ではいかない作品なのだ。


したがってカクシンハン版『タイタス・アンドロニカス』を通して、はじめてシェイクスピア作品に接する観客は、さまざまな趣向が凝らされ、原作にいろいろ盛られていると思うかもしれないが、もちろん盛っている部分も多いが、同時に、これはやりすぎだろうとか、これはおかしすぎるという趣向は、実は、原作に忠実な演出なのである。カクシンハン版で使われている松岡和子氏訳の『タイタス・アンドロニカス』をぜひあわせて読まれることを。変だと思ったところは、実は、原作通りであって、驚くと思う。


『タイタス・アンドロニカス』という、粗雑なのか洗練されているのかわからない不思議な芝居は、現代風の趣向が満載で、ブラックな笑いも盛り込み、同時に、悲劇的悲嘆の極致を追及するというカオス的・祝祭的カクシンハン演劇と、妙に性があうといえるかもしれない。演出のほうは、どんどん暴走して原作の束縛から逃れ自由な趣向を追及していくのだが、気づくと、原作に忠実な演出になっている。ブラックでポップで不条理な演劇。まさにシェイクスピアは、カクシンハンのために、この『タイタス・アンドロニカス』を創作したのだ。そう私は信じている。



河内大和のタイタスと真以美のラヴィニアは予想通りの俳優だが、前回の『タイタス・アンドロニカス』(河内大和のタイタス)と比べると、カクシンハンは第二期に入ったのではないかと思えるようになった。演出も違うが、演者たちも様変わりしているところがある。


その一番の特徴は、前回には出演していない、岩崎MARK雄大の活躍だが(今回のエアロンははまり役だと思った)、同時に、岩崎君(といわせてもらうが)が、素晴らしい俳優になった。カクシンハンの顔とも言えるし、またカクシンハン以外にも活躍の場が増えることをほんとうに願っている。


彼の英語の語りは、私にはよくわかるが(英語もきれいだし)、一般の観客には、絶対にわからないか、わかりにくいと思う。そこで、今回は通訳が入った。舞台に通訳として登場したのは演出の木村龍之介氏で、たぶん、彼はいまでこそ演出だが、これまで舞台に立ったことがあるにちがいないという落ち着きとたたずまいで、通訳の役をこなしていたが、やがてお約束というべきか、途中で通訳のほうが思わず英語で岩崎氏に話しかけると、それまで英語で話していた岩崎氏が、日本語をしゃべりはじめ、どちらが通訳かわからなくなる。またこのときわかるのである。木村龍之介氏も英語が上手いということ。


岩崎雄大君と、木村龍之介君、どちらも東大英文の卒業で、あれだけ英語が流ちょうに話せるというのは東大英文の誇りである。文学部卒業生インタヴューにも出てもらいたい気がするのだが、このところインタヴューには、英文の卒業生がつづいているので、すぐにというわけにはいかないのだが。


最後に、今回、はじめてみた大洞雄真君。彼のことを子役といっていのだとすれば、この子役、まさに神童じゃないかと思われるくらいの演技で驚いた。

posted by ohashi at 07:25| 演劇 | 更新情報をチェックする

2017年08月16日

SF映画二篇


『スターシップ9』(2017 スペイン・コロンビア映画)

Orbita 9

予告編からもだいたい予想がつくと思うので、驚きの展開といっても予想済みである。以下ネット上にあったコメントの一部だが、これなどははっきりいってステマの一種だろう。


さて、開始20分でショックシーンといったが、その後も観客をあちこちにふりまわす同レベルの驚きが仕掛けられ、まったく退屈することはない。 //ラストもこの監督は、ちゃんと言葉ではなく絵で必要十分な物事を観客に伝え、きっちり結末をつける。//ストーリー全体の解釈としては、恋愛ものとして見る視点ももちろんあろう。私などはそれに加えて移民問題についても考えさせられた。//とくにこの映画がユニークなのは移民問題を移民の側から考え直した点で【中略】//「スターシップ9」は、テクニカル的にも良くできているし、意外性と満足感の高いエンディングもすばらしい。この夏見られるSF映画としてはかなり良い部類に入る。 //それにしてもNetflixが手がける映画はいま、「BLAME!」にしろこれにしろ、実に勢いがある。もはやそのブランドで見ようと思えるほどである。


私は自信をもっていえるが、そんなにすごい映画ではない。理由はアイデアがないことである。最初の驚きの――かなり予想できるものだが――のあと、次の段階でどうなるのか、明確なプランがないように思われる。いや、あるのかもしれない。愛は地球を救うというような。しかし、それはノープランに等しいだろう。次の段階が無計画・無策で、最後のところで取引をして、解放のテーマめいたものを暗示して終わる。


上記コメンテイターも「ラストもこの監督は、ちゃんと言葉ではなく絵で必要十分な物事を観客に伝え、きっちり結末をつける」と書いているが、絵で示すことはたしかだが、その絵が鮮明ではない。まあそれは説明不足を、設定をぼかすための方便である。低予算だがら、たとえば地球にどのような異変が起こったのか逆に絵で示すことができずに言葉だけである。


上記コメンテイターは移民問題がどうのと書いているが、それがテーマとなっているとも思えない。移民ではなく移住はテーマかもしれないが。これは昔のSF小説ではなつかしい。世代交代宇宙船物であって、遠い惑星に行くいまひとつは、『パッセンジャー』の宇宙船であるところの冷凍睡眠状態での飛行である。世代交代宇宙船なのに少女一人というのも変な話だし、そこに修理のために他の宇宙船からエンジニアがやってくるというのも変な話だ(いや別に意地悪くあら捜しをしなくても、たとえばあんなに皮膚が弱くては、未知の惑星に移住することなどむりでしょう。そもそも皮膚を脆弱なままにする実験というのはどういう意味があるのだろう)。


またこの映画『テンペスト』のヴァリエーションともなっていて(これを書くとネタバレになるのでやめる)、そこに新鮮味はない。また映画の王道である少女物にしてもよかったのだが、それも後半では生かされていない。


低予算映画なので実際、ロケ・レベルでいえば、この映画、学生が創る映画とかわりない。つまり予算がないせいか、チープな背景とか舞台設定が目立つ。べつに低予算映画が悪いということはない。予算がなくてもアイデアがあればいい。予算がなくても迫力があればいい。このふたつをこの映画は欠いている。残念な映画だった。


これを毎日数回上演するくらいなら、つぎのロシアのSF映画『アトラクション』を毎日上演したほうがいいのではないか。驚異のCGをみることができるし。


付記:朝一番の回でもあったのか、よくわからないが、ヒューマントラスト渋谷のスクリーン3、ほぼ満席か満席状態だったが、私の見る限り、最初は、女性がひとりもいなかった。若い男性もいなかった。中年からジジイまでの男ばかりだった。開映間際になって女性が三人か四人にふえた(とはいえ五人はいなかった)。SF映画というのはオジサンかジイサンに人気のあるジャンルなのだろうか。


『アトラクション―征圧―』

PrityazhenieAttraction


こちらはロシアのSF映画で、予算があって高精度のCGを使って観る者をあきさせない。といいたいのだが、観客として、SF映画だとしてもどういう映画なのかとまどうことがあり、視座が確定しない。最終的にヤングアダルト映画だとわかるときにはもう映画がおわりかけている。


ただ、冒頭のシークエンスは、これぞSF特撮スペクタクル映画だといえる迫力がみなぎっている。隕石雨の話を高校の科学の授業でしている。隕石がたくさんふってくる。それって『君の名は。』を思い出した。ただ、隕石雨だけではない。『君の名は。』の魅力が、明るく鮮明なアニメ画面で、しかも実写かと見まごうリアルさであったことを思いうかべたのである。このロシア映画も、画面が実に鮮明で、CGらしがみじんもない。また出てくる宇宙船のデザインも斬新で、その巨体が都市の上空にあらわれ徐々に降下して建物を壊しながら墜落するまでのシーンは、実に見事の一言に尽きる。


隕石雨にまじって謎の飛行物体が宇宙から飛来、ロシアでは空母アドミラル・クズネツォフのスキージャンプ甲板からSu33(スホーイ27ではなくて、33だと思う)を発艦させる。Su27系列の戦闘機は世界中にファンがいる。今回、実際に飛行しているスホーイ33をみて、かっこよすぎておしっこをちびりそうになった。あとカモフの二重反転式ローターの攻撃ヘリコプター(Ka50Ka52)。見かけはよくないけれど、実際に飛行している姿は、けっこうさまになっている。まあプラモデルでスホーイ33はいろいろなスケールのものが販売されているが、カモフは調べてみると小スケールで出ている。小さいから安い。今度、買ってみようかともも思う。


閑話休題。この謎の飛行物体が、攻撃をうけて、モスクワの北にある都市にゆっくりと落ちてきて、高層マンションなどを破壊、都市の一画を廃墟と化す。この墜落シーンもすごいのだが、そこからさらに飛行体の中から不気味な姿の宇宙人――これまで見たこともないような面妖な生物あるいはロボットもしくは宇宙服にもみえる――が登場し、地区の軍の責任者と下院議員とファースト・コンタクトする……。ここまでが面白い。だが以後の展開は予想を裏切るものだ。


映画は、若い女の子とペットの犬が大規模な団地を背景として、過去の思い出を語るシーンからはじまる。場面は高校の授業。そこで教師の話をそっちのけにしてボーイフレンドの話をしている女子生徒のふたり(そのひとりが飛行体の墜落に巻き込まれて死亡)が、どうやら物語の中心となることがわかる。女子高校生の父親は軍の幹部、また彼女は不良グループの男とつきあっている。飛行体墜落の大迫力場面は、実は、彼女が自宅で、この男とセックスをしている場面と交互にスクリーンに登場する。しかし観客がみたいのは、こんなバカップルのセックス場面ではなく、見事なCGで描かれる巨大飛行体(とはいっても映画『インデペンデンス・デイ』に出てくるような巨大宇宙船ではない。真上から落ちてくれば高層マンションをひとつ下敷きにする程度の大きさ)墜落のシーンなのだが、この思いは、墜落後の展開にも引き継がれる。


実は彼女と不良グループが暴走しないと物語が混迷を深めつつ先に進まないことはわかる。このバカグループの活動というか活躍なくして、この映画が成立しないことがわかる。最終的に彼女の中心としたヤングアダルト映画だということがわかる、というかそういうふうに観客の頭をリセットするまでに時間がかかるということである。簡単にリセットできる観客と、それよりもリアルなSF映画をみたいという観客の間に、評価の差があらわれるのではないかと思う。


終わり近くで、主人公の女性は宇宙人に、ロシアではなく別の国に墜落すればよかったと語るのだが(宇宙人とロシア語で語りあえるというのも最初には予想できなかったことだが)、たしかにそれは一理あるのだが、同時に、この女子高校生と不良グループが当局の目を盗んで不法行為に走らなければ、こんな面倒なことはおこらなかった、おまえのせいだぞ、と、その女の子や不良グループにつっこみを入れたくなる。さらにいえばその女の子と、父親(地区の軍司令官)とのこじれた親子関係がなければ、問題はもっと早く解決されたことはわかる。つまり観ている側は、いらいらする。通常は軍の抑圧的・統制的性格が宇宙人と地球人とのコミュニケーションを阻み、問題を生じさせるのだが、ここではバカ不良グループが、こそこそ動きまわることで、問題がこじれてくる。


好意的に解釈すれば、謎の飛行体墜落後の社会の混乱を、ある意味、シミュレーションするために、実は不良グループは必要とされたともいえる。確かに興味深いのは、ロシアも、現在の他の世界とあまりかわらないことである。つまり、右傾化していて、ポピュリズム、扇動家、ヘイト・グループが跳梁跋扈する。アメリカもロシアも、日本も、イギリスもフランスも、かわらないことが、この映画からわかる。つまりドキュメンタリーではないのだが、これは日本に堕ちてきても、同じような展開になることがわかる。ネトウヨが市民を扇動して、宇宙人ヘイトへと走るだろう。ロシアも日本もかわりはない。この狂気を生き延びる道を教えよ。


もうひとつは、ここでもまた『テンペスト』のパターンが、アメリカ映画のこの手のSF物のパターンともども踏襲されている。なにか最初は観たことがないような驚異的CGの新しい世界が展開すると期待できたのだが、最後にはThe Same Old Storyという落胆が支配的にとなる。


『テンペスト』に関して言えば、プロスペロが父親で軍司令官の大佐。ミランダが、その娘となり、彼女が外宇宙から到来した宇宙人=ファーディナンドに惚れてしまう。いっぽうキャリバンは彼女のボーイフレンドであり、不良グループのボスともなり、最後の最後まで、ミランダ、ファーディナンド、プロスペロを苦しめる。


クロエ・グレース・モレッツ主演のSF映画『フィフス・ウェイブ』は、地球を襲ってきた異星人たちが第一波から第四波まで攻撃をしかけてくる。この映像はかなり衝撃的で、地球の多くの部分が廃墟となっていくさまを冒頭の短い時間で一挙にみせる。そして最後の第五波が迫りくるというところから映画ははじまるのだが、衝撃的な映像は、ここまでで、あとはとりわけスペクタクルなシーンもなく、異星人に征圧された地球での若者たちの逃避行とレジスタンスということになる。原作はヤングアダルト小説。映画は、さらにつづくというかたちで終わるのだが、続編はつくられてはいないようだ。予告編でも使われる驚異的な映像は、冒頭のみで肩透かしをくらうのだが、ヤングアダルト映画であることは最初からわかる。見る側のクロエ・グレース・モレッツが出演していればそれでいいのだから(これは私のことだけかもしれないが)、彼女の顔をみていればそれでよく、いらいらすることもない。むしろ若者たちがいかに暴走しても、確立された異星人の支配体制はゆるがないかにみえるので、逆に、若者たちの暴走を、応援したくなることはあっても、そこに不快感はない。ジャンルの規制を明確にして期待の地平を制約するからである。


ところがこのロシア映画は、期待の地平の制約感がない。むしろ冒頭から期待マックスで展開する。いや飛翔体の墜落と若者のセックスシーンが同時進行することからも、彼ら二人がこれから主役になることはわかる。しかし彼らは善人ではない。彼らは猫を助けない。むしろ猫(この場合は地球人の女性)を助けるのは宇宙人のほうである(宇宙人はまた犬も助ける)。そして助けれてくれた宇宙人を今度は助けることになる女の子の、この二人が観客のシンパシーの中心となるのだが、しかし、女の子は父親と仲が悪い。人間関係も、プロットも、ずっとこじれたままである。


結論として、これは日本の技術をつかってアニメ化しても面白かったのではないか。それこそ新海誠風のアニメ映画としたほうが、登場人物全員のアクの強さが薄まって、宇宙人と地球人少女との愛が世界を救う物語になったのではないかと思う。とはいえアニメ版は実写版にくらべると驚異の度合いは薄まるのだが。

                       

posted by ohashi at 10:06| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年08月15日

『ハクソー・リッジ』

モグラ戦

 戦争映画のファンではないし、ましてや戦争についての専門家ではないが、第二次世界大戦中の日本軍陸軍の戦い方の表象について、日本映画では、敵との撃ちあい、白兵戦、敵の強力な火力の前に犠牲者の山、英雄的行為による勝利、恐怖のあまり硬直する新兵、敗北を予感して自決など、いろいろなイメージがあるが、日本人の観客として、地下通路をはりめぐらせ、砲撃があれば地下深くに待機して、砲撃が止んだら進出してくる歩兵に対し奇襲攻撃をかける。神出鬼没なその行動で、敵をさんざん悩ませる。というイメージは、日本の陸軍の戦闘イメージではない。


ところがアメリカ映画では、ずっとこうなのだ。クリント・イーストウッド監督の硫黄島の戦いを描く二部作でも、地下トンネルを巡らせて攻撃する神出鬼没の日本の守備隊が描かれた。『ハクソー・リッジ』の沖縄戦でも、日本の守備隊は地下トンネルを構築して、艦砲射撃によって損害を受けることがない。どちらも史実に基づいていると考えたい。実際のところ、朝鮮戦争における共産軍の攻撃は、逃げも隠れもせず、ただ横一列に並んで防御することもなく押し寄せるという恐怖の人海戦術だった。だから朝鮮半島と硫黄島や沖縄では戦い方が違うのだろう。


しかし気になることもある。メル・ギブソン主演の『ワンス・アンド・フォーエヴァー』We Were Soldiers(2002)は、1965年のヴェトナム戦争中のイア・ドラン渓谷の戦いを扱った映画で、北ヴェトナム軍との激戦(双方ともに多くの犠牲者を出した)、「ブロークン・アロー」命令を出すまでい追い詰められる米軍、また兵士たちの家族(米国の陸軍基地の周辺か基地内に居住し、同じ舞台の兵士たちの家族は皆隣人という状況)の生活、さらには戦闘終了後、戦場にメディアを招いて状況説明するというような、従来の戦争映画で描かれることのない部分も映像化されていて、変にリアルな映画だった。この映画、どういうわけかテレビで放送されることが多く、私もはじめて観たのは旅先のホテルのテレビ(地上波での放送)だったが、その後、自宅のテレビでもみることになった。


で、このメル・ギブソン主演の映画では、北ヴェトナム軍は、洞窟というか地下トンネルに身を潜め、まさに神出鬼没な動きと攻撃で米軍を苦しめる。これも史実にも基づいているのだろうか。どっちが先かわからないのだが、つまりヴェトコンや北ヴェトナム軍の地下トンネル・モグラ戦術が、時代錯誤的に過去に投影され、硫黄島とか沖縄戦でもモグラ戦術に光があたったのか。あるいはその逆で、硫黄島とか沖縄戦の日本軍の戦い方のイメージが、ヴェトナム戦争の映像化においてリサイクルが起こったのか。映画『野火』では日本軍は敗走しているだけだが、地下トンネルは作らなかったのだろうか。映画『太平洋の奇跡』ではサイパン島で洞窟らしきところに司令部があったようだが、そこで司令官南雲中将は玉砕する前に先に自決し、あとは全軍の兵士が平原で突撃する。地下道は存在しない。地下道はオリエンタリズム的表象ではないかとも思うのだが。


無謀な突撃

 一方、攻める側だが、最初に砲撃をして敵の陣地を叩く、次に歩兵隊が突撃して敵陣を征圧するという、常套的な作戦だが、映画では、砲撃によって征圧ができず、歩兵同士の白兵戦となるのも常套的な展開である。ハクソー・リッジの場合、断崖絶壁の一部に縄梯子的なロープがすでに垂らしてある。先遣部隊が創ったのか。あるいは米軍を何度も撃退した日本軍が、なぜロープの梯子をすきをみて外さないのか、わからないことが多い。ただ絶壁を上った台地での戦闘で米軍は、地下にはりめぐらされた坑道に潜んで砲撃によるダメージを受けない日本軍の攻撃によって最終的に撤退を余儀なくされる。


しかも台地に米兵が残っているときに艦砲射撃を要求するほど、逼迫した状況に追い詰められる。これは、先ほど述べた映画『ワンス・アンド・フォーエヴァー』We Were Soldiers(2002)におけるブロークン・アローのシークエンスを思い起こさせる(なお「ブロークン・アロー」というのは核兵器の紛失事故を意味する暗号名ということらしいが(実際『ブロークン・アロー』という映画もあった)、この『ワンス……』では、窮地にたった軍隊が味方への被害を承知のうえで航空攻撃を要請するコール・サインとして使われていた。その用法でいいのかどうかは不明だが)。


いっぽう砲撃を避けて地下壕に逃れた日本軍が砲撃が止んで砲兵が進軍してくると、それを迎え撃つというシークエンスは、砲撃後の突撃のタイミングがずれて迎撃準備が完了した敵前に歩兵が突撃して甚大な被害を出したという第一次大戦中のガリポリの戦いをほうふつとさせる、というかメル・ギブソン主演の映画『誓い』(第一次大戦の激戦地であった「ガリポリ」が原題で、監督はオーストラリア出身のピーター・ウィアー)が、オーストラリア兵の悲劇を描くものだった。『ハクソー・リッジ』は、メル・ギブソン主演のふたつの映画『誓い』と『ワンス……』の遺伝子を受け継いでるとでもいえようか。そして突撃するオーストラリア軍の歩兵の悲劇は、オーストラリア出身の俳優をつかったアメリカ軍の突撃の映画へと変貌を遂げた。



オーストラリア映画

メル・ギブソン監督だからということではないが、オーストラリアの俳優は多い。


主人公のデズモンド・ドス/アンドリュー・ガーフィールドは『スパイダー・マン』や遠藤周作原作『沈黙』でおなじみだが、その父親トム・ドスはオーストラリア出身のヒューゴ・ウィーヴィングが演じている(年取りすぎていて、最初、誰だかわからなかった)。


ドス/ガーフィールドの恋人で妻となるのがオーストラリア出身のテレサ・パーマー。彼女は『ロミオとジュリエット』のゾンビ版である『ウォームボディ』でジュリエット役だったし、さらには『Xミッション』や『トリプル9』でも観ているはずだが、あまり覚えていない。また私が、一応、理由があって引き合いに出すことが多いオーストラリアの学園映画『明日君がいない』では彼女は主役だった。
部隊長のグローヴァ―大尉は、オーストラリア出身の有名な俳優サム・ワージントンが演じている。このほか軍曹役ヴィンス・ヴォーンが出ている(私の印象に残っているのは『サムサッカー』と『ドッジボール』という、いまから10年以上も前の映画だが)。
こうしてみると主要な俳優たちは、よく知られた中堅俳優といってよく、それがこの残酷で、ある意味、悲惨な戦争映画を、安心してみることができるエンターテインメント映画にしているといえようか。しかもメル・ギブソン監督の仲間かもしれないオーストラリア人俳優たちがアメリカ人を演じている。実際、一瞬、この軍隊はオーストラリア軍かアメリカ軍かと、ふとわからなくなるときがある。

変人

 主人公は「良心的兵役拒否者(Conscientious objector)」なのだが、その彼が陸軍に志願したというのは、誰もが思うことだが、なにを考えているのかということになる。衛生兵となって負傷した兵士を救うという志は立派なものかもしれないが、衛生兵も自己防衛用に武器を扱うこともあり、その訓練もあるのだろうから、それをわかっていて志願・入隊し、兵器は手に取らないというのは、ほんとうに迷惑な人間である。ただ実際に衛生兵は戦場では武器をもたないようだから、最初から衛生兵志願者として、その訓練を集中的に受ける、あるいは受けさせれば、周囲も迷惑しないと思うのだが、またほんとうにこんな頭のおかしな迷惑を者を除隊させることができなかった米国陸軍は、おかしいのではないかと思う。


おかしいといえば、主人公は「セヴンスデー・アドヴェンティスト教会」(SDA)の敬虔な信徒ということだが、このアドヴェンティストというのは、よくわからず、調べてみても、キリスト教系新興宗教で異端か正統かは意見が分かれているようだ。これもおかしな話である。私の見るところ、異端の新興宗教だろう(だからといって悪いとか、いけないということではない)。


とにかく主人公は頭がおかしい。良心的兵役拒否者であるのはいい。だったら、その反戦の姿勢をつらぬけばいいのに、志願して入隊するとは。もうめんどくさい行動をとるなといいたくなる。また軍隊で周囲に迷惑をかけるために入隊したのではないだろうが、結果的に、ものすごい迷惑をかけることになる。しかも異端的新興宗教の熱心な信者。


ああ、これが実話でなかったらいいと思う。というのも変な新興宗教の信者、その信仰のせいか、良心的兵役拒否者にもかかわらず、志願して、戦地へ。そこで衛生兵として多くの負傷兵を助けたというのが実話での因果関係であり、それはまた特殊例として強調されることになるが、しかし、これが実話に基づくものでなければ、特殊例としてではなく、通例として考えられていたかもしれない。


というのも、このように戦地において、なおざりされる人命を、任務の範囲を超えて助けることは、変人か狂人でなくてはなしえないとみなされるからだ。戦争という狂気のなかでは、人命救助という行為そのもの(味方を支援するという意味では戦闘行為だが、彼のように味方を重視するが場合によっては敵も助ける無差別な救命行為)が、正気ではなく狂気とみなされるからだ。あるいは新興宗教に洗脳された変人か狂信者とみなされるからだ。


だから戦争という狂気のなかで、戦争に反対する、あるいは戦争行為とは逆のことをする者は狂人か変人扱いされる。今回の場合、良心的兵役忌避者ながら陸軍に志願して、結果的に75人の負傷兵を後方に送って助けたという奇跡的な偉業によって勲章までもらったのだから、戦争に反対しているのか協力しているのか、よくわからない変人の行為、あるいは反対か協力かの区別がつかない脱構築状態なのだが、聖人か、いかがわしい偽善者なのか、いずれにしても、戦争という狂気のなかで、正気を保つものは、変人、狂人、いかがわしさという負のイメージを点けられる。


今回は、それが実話に基づくというせいで、変人イメージが押し付けられるというよりも、ただの変人でしかなかったが、これがフィクションなら、正気の人間に変人イメージが押し付けられるという、まさに狂気が前景化されていたはずである。


この映画、内向的で自己表現が下手な主人公――のちの妻になる女性、テレサ・パーマーというちょっときつめの女優が演じている彼女に対しては、ひるむどころか押しの強さ丸出しだったが――が、危機に対して、誰もがもちえなかった強さを示すという点で、『風と空と星の詩人』のユン・ドンジュンの、内向的で繊細で誤解もされやすいが弾圧に対してはひるむことなく抵抗するという人物像に通ずるものがある。


どちらも現実の人物は、映画のなかよりも、もっと表面的にも強い人ではなかったのかという感じもする。とまれ周囲から変人あつかい異物扱いされる人間が英雄になる。


善き人

 他方で、この映画は、衛生兵と兵士、殺戮と救命という相反する行為、あるいは大量殺戮のなかの救命を描くことによって、最近、ずっと気になっている「善き人」あるいは「正義の人」のテーマと繋がっている。ホロコーストのなかでユダヤ人を助けたりかくまったりした「善き人」「正義の人」のテーマは、戦闘行為と変人の衛生兵という対比のなかで表象されているのではないかと思う。この点は、今後も考える余地がある。


その意味で衛生兵というのは興味深い存在である。クリント・イーストウッド監督の『父親たちの星条旗』でも、中心はライアン・フィリップ演ずる海軍の衛生兵であった。衛生兵からみた戦争。そして沸騰するお湯のなかの氷、あるいは氷山のなかの沸騰する湯のようなパラドクシカルな存在様態である衛生兵は、いまひとつの戦争の姿、戦争の裏面へといたるへの回路ではないだろうか。


結果的に『ハクソー・リッジ』の主人公は、勲章をもらい戦争における英雄として、戦争と国家に包摂されてしまう。人命救助が、国家による殺戮への批判と抵抗行為であったとしても、それも国家と権力の側に呑み込まれてしまった。


衛生兵ではないが、第一次世界大戦中に看護師として大陸に渡った英国人女性を、アリシア・ヴィキャンデル(主演)が演じた『戦場からのラブレター』(Testament of Youth2014日本では劇場公開されなかったがDVDは販売されている)の最後のシーンを思い出す。


(ちなみにアリシア・ヴィキャンデル、調べたら彼女がAIを演じた『エキス・マキナ』が山のように賞にノミネートされたり受賞しているが、あれはそこまでいい映画だったのだろうか)。また最近では斉藤由貴が不倫相手とみたという、マイケル・ファスベンダー、ヴィキャンデル主演の『光をくれた人』が話題になったが、芸能スキャンダルには詳しくても、映画など観たこともない芸能記者が、観ていないことを公言したうえで、ロマンス映画だと書いていたが、流産をして子供ができない灯台守の妻が、たまたま海から流れ着いたボートに乗っていた赤ん坊(その父親らしき人物は死亡)を自分の子供として育てるという内容の映画のどこがロマンス映画なのだろうか、まあ不倫をしない夫婦愛の映画だが)。


『戦場からのラブレター』の最後の場面。第一次大戦終戦直後、英国では、敵国だったドイツに対する憎悪が消えるどころか大きくなり、街の集会場では、家族を戦争で失った者たちが敵国を呪詛しているのだが、看護師として大陸に従軍し疲弊して帰国したヴィキャンデルも、思い余って登壇する。


自分は看護師として大陸にわたり戦争の悲惨さをつぶさにみてきた。戦争が始まった頃は、半年くらいで終わると思っていたし、自分の弟にも、男だったら戦争に行くべきだったと従軍することをすすめた。戦争に協力することが義務だったと思っていた。だが、弟は戦死した。戦場で死にかかっていたところを看護して回復した弟だったが、ふたたび戦場におもむけ戦死した。自分の幼馴染だった男も戦死した。結婚を約束したフィアンセだった男も戦死した。しかも、自分は志願して看護師となって、大陸にわたって、そこで負傷したドイツ兵の看護をまかされた――ここで、さぞかしドイツ兵をいじめて殺したんだろうな、という野次が入る――。ドイツ人も苦しんでいた。イギリス人も、皆、苦しんでいた。自分は、どうしてあのとき戦争に反対しなかったのか。どうしてもっと声を上げて戦争に反対しなかったのか……。


実話に基づく話である。彼女はヴェラ・ブリテンVera Britain(1893-1970)。オックスフォード大学に在学中に看護師となって、この従軍体験をもとにした小説Testamemt of Youth(1933)を出版しベストセラーになる。そして、以後、彼女は作家として、それ以上に、反戦運動家として死ぬまで活動する。「善き人」、真の英雄である。

posted by ohashi at 21:36| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年08月14日

『空と風と星の詩人』

くりかえすが詩人ユン・ドンジュを迫害した日本のファシズム勢力、特高警察に憲兵隊は、日本の庶民をも弾圧した。このことは忘れてはならない。ちなみにユン・ドンジュは、この映画で見る限り、独立運動の集会に出ていなくても逮捕されている。つまり冤罪である。いくら友人が、彼をまきこまないように配慮してくれても、日本の官憲は、冤罪だろうがおかまいなしに逮捕した。それは当時の治安維持法に基づく逮捕だった。いまふうにいうと共謀罪で逮捕され、殺されたのである。ユン・ドンジュンは。

続きを読む
posted by ohashi at 20:33| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年08月13日

『少女ファニーと運命の旅』第0回

この映画について、5つの面から考えていきたい。予告編である。


1)長距離踏破 『ファニー13歳の指揮官』という翻訳も岩波少年文庫から出版されたばかりだが、ある種の児童文学的味わいがあって、子供たちだけの長い距離を踏破する逃避行の実録物語といっていいだろう。子どもや子供たちが長距離を踏破する物語としては『クオレ』にある、いわゆるイタリアから南米までの「母を訪ねて三千里」をはじめとして、いろいろある。ただそれらは植民地主義とも連携していて、今回の映画とは違う。


2)敵中突破 この映画の子どもたちの逃避行は、ユダヤ人の子供立ちが中立国スイスへの逃避行でもあって、自由と解放を求める旅である。まわりにはドイツ兵がいっぱいいる。というかドイツ占領地域あるいはナチス政権に協力したフランスのヴィシー政権下での逃避行である。そしてこれはこの種の逃亡劇の王道でもある、敵中突破物である。とりわけ幼い子供たち、リーダーは13歳というのは、心もとないことこの上もない。成功の確率はゼロに等しい。にもかかわらず、主人公の彼女はメンバーを助け、また助けられ、成長してゆくという感動の物語となる。


3)少女物 ちくま学芸文庫書下ろしとして、池上英洋・荒井咲紀著『美少女美術史』がこの6月に刊行された。私が購入したのは630日刊行ですでに第二版だったが、映画においても、これは誰でも気づいていることだが、少女は特権的な立場にある。『美少女映画史』が書かれておかしくないのであって、この『ファニー』も少女物の映画として、まさに映画の王道をいくものである。この少女物としての映画も無視することはできない。


4)黒歴史 この映画の主題は、ヴィシー政府が、ナチスに協力してユダヤ人迫害をしたことである。ホロコーストはドイツ人の事件だけではない。フランス人も、あるいはナチス占領下でのヨーロッパ全土(実はスイスも例外ではなかった)でホロコーストに協力した。このヨーロッパの黒い歴史の掘り起こしが20世紀世紀末からおこなわれてきた。たとえばジャン・レノ、メラニー・ロラン主演の『黄色い星の子どもたち』などが典型の映画だが、そこでは、フランス人がホロコーストに協力した事実が赤裸々に描かれていた。


5)善き人 この映画には、これと関連して、もうひとつの裏のテーマがある。それはナチス占領下でもユダヤ人を直接、間接的に助けた人たちもまたいたということだ。これは、いっぽうで、ホロコーストに協力したフランス国民の罪を軽減する口実にも使われかねないという危険性がある。ただ、救う人、「善き人」「正義の人」のテーマは、ナチスへの抵抗のテーマとともに、いま重要なテーマとして踊りでた気がする。


こうした点を考えてみたい。予告編である。

posted by ohashi at 13:24| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年08月12日

『夜明けの祈り』

『ボヴァリー夫人とパン屋』、『美しい絵の崩壊』のアンヌ・フォンテーヌ監督の新作で、フランス映画祭でも公開された映画が一般公開されることになった。

内容はすでに紹介されているのでネタバレでもなんでもないのだが、第二次世界大戦中のポーランドの寒村、ドイツ軍撤退の後、進駐してきたソ連軍兵士が女子修道院で暴行におよび、修道院長をはじめ多くの修道女たちが妊娠し、時満ちて出産することになる。事件が公になるのは不名誉なことで修道院では秘密裏に事を運ぼうとする。また、この段階でポーランドがソ連傘下に入っていたかどうかよくわからないのだが、ソ連にとってもこれは一大不祥事であって内密にするだろうし、ポーランドも同じようにもみ消すだろう。そうなるとどこに救いを求めたらいいのかわからない。ソ連もポーランド当局も、そしてカトリック教会も、この件を隠蔽しようとするだろう。だが出産間近な修道女もいる。思い余った若い修道女の一人が、駐留中のフランスの赤十字に助けをもとめる。門前払いされるものの、願いを聞き入れてくれたフランス人の女性医師(とはいえ当時のことで男女差別があって仕事は男性医師の助手、看護師とあまりかわらない仕事しかあたえられていない)が出てくる。彼女の手で帝王切開の手術に成功するが、妊娠している修道女はほかにもたくさいんいた。


ここまでが映画の冒頭。それからどうなるか、困難は予想され、犠牲も出るだろうが、最後はすべてうまくいくのではないかと予想される。まあ、誰もが抱く、この予想は的中するのだが、しかし、最後の妥当な解決にいたるまでが長い。というか最後の解決については、もっと早く自然に思いついてもよいのではないかと思う。


敵は全体主義・共産主義のソ連とその傘下にあってポーランド当局だけではないのだ。このふたつが敵ならば、ソ連兵の蛮行を国際機関に訴えればすむことである。プライヴァシーは守られるだろう。ところが事件をもみ消そうするのは、スキャンダルの発覚を恐れる修道院側もそうであって、敵は三方にいる。しかもやっかいなことに、修道院という敵は、外部ではなく、内部にいって、修道女が死んでもかまわない、生まれてきた子供は放置して殺すこともいとわないのだ。この因襲芬々たる女子修道院の組織そのものもが、ある意味、一番やっかいな敵として立ちはだかり、観ていてイライラする。


修道院長は、この件が発覚したら、この女子修道院は解散させられるという。それを聞いて、」解散させられて何が不都合なのかと思う。伝統と格式など、苦しむ修道女たちを前にして何の意味があろうかと考える。この発想は人間中心的であって、信仰に身を捧げる彼女たちにとって、修道院長の命令は絶対で、組織の守護と維持こそがすべてで、世俗を超越した信仰の道がすべてであって、それを妨げる人間的叡智なり判断は、すべて退けられてしまう。くそカトリックとしかいいようがない(とはいえカトリック教会も、この修道院長の判断は断罪するだろうが)。


またキリスト教では、むしろプロテスタントのほうが、その傾向が強いかもしれないのだが、人間ひとりひとりは、原罪を背負い、汚れていると考える。汚れてしまい、絶望の淵に沈んだ人間が、神にすがる、この構図こそが、キリスト教信仰の中枢にあるものだ。貧しき者こそ幸いなるかな。また修道女たちの朝の祈りで、汚れた者の救済をもとめる神への祈りが朗誦される。しかし、彼女たちの責任でもなんでないにもかかわらず、汚れた身体を余儀なくされたとき、彼女たちがとる態度は――人間だから仕方がないといえば、それまでだが――自らの汚れを恥じて信仰心がゆらぐのである。汚れた者こそ幸いなれ。汚れた者の絶望こそ信仰の中心であると、頭では理解していても、いざ自分が当事者になってしまうと、汚れを徹底的に恐れ忌嫌う。ということは汚れた罪人に同一化するという祈りを繰り返しながら、その結果、汚れた者、罪人たちへの蔑視しか生まなかったことになる。自分が汚れた者になったとき、汚れた者たちを遠ざける(みずからソ連兵にレイプされそうになるという恐怖体験から、修道女たちへのシンパシーをつよめていく女性医師とは正反対の姿勢である)。この非人間性を日々修道女が生きていたからこそ、修道院は、街にあふれる戦争孤児たちに救いの手を差し伸べることすら思いつかなかったのである。信仰とは、そのような人間のクズをつくるのではなく、人間を救うためのものではなかったか。


原題は『罪なき者たち』英訳するとThe Innocent. 修道女たちは被害者であって、罪があるわけではない。だから、彼女たちも女性医師の医療行為を通して、また彼女との接触をとおして、人間的慈愛の念をはぐくみ、苦しみを克服していくようになる。それはまたかたくなに修道院のメンツにこだわり、生まれたばかりの赤ん坊を殺していく――最後には「人殺し」とまで若い修道女から言われる――修道院長(ネタバレではない。早い段階で、修道院長が子供を捨てていることは予想がつくのだから)とは正反対の人間主義的な立場である。だが、むしろ困難を克服していく修道女たちは人間的であり、またキリスト教の信仰を守る人たちでもあって、両者は本来両立するはずなのが、因襲と格式を守ることに汲々とする院長の妨害によって、対立構造への変えられてしまったのである。


解決は、そんなにむつかしいものではない。つまり本来ならすぐにそこにたどり着いてもよかったのだが、それだと映画がすぐに終わってしまうので、長い妨害期間が入る。そして見ているほうは、ずっと腹立たしい気持ちをかかえながら、最後までつきあうのである。観客は修道院の苦行につきあわされるのか。ただ、あまりこのことにこだわりすぎるとBlaming the Victimsとなって、加害者ではなく、被害者を非難することと誤解されかねないので、一言。社会主義が、いくら宗教を否定するからといって、修道女をレイプするというのは言語道断の犯罪である。責められるべきはソ連兵とその指揮者たちである。だが、その処理のまずさ、その非人道的隠蔽体質によって修道院の運営側もまた非難されるということである。


なお作品のイデオロギー的側面をみれば、ソ連とポーランドの全体主義的共産主義を断罪し、あと古臭いカトリックの非人間性を断罪することで、一石二鳥あるいは一石三鳥の効果を上げていることは付記すべきだろう。フランスはカトリックの国ではなかったかというなかれ。フランスの公式の国家的あるいは文化的イデオロギーでは、宗教は最終解決ではない。フランス革命を経たフランス国家は、啓蒙主義と脱宗教をイデオロギーとしている。カトリックあるいはキリスト教徒だけを優遇することはない。むしろ宗教性に対して寛容ではなく、いかなる宗教に対しても、厳正な中立的な姿勢を貫くことで、イスラム教徒の反発をかったことは記憶に新しい。ただ、それによってこの映画の場合、カトリックにも厳しい姿勢は、最終的に犠牲者となった女性たちの苦境を浮かび上がらせることになる。


ネット上のあるブログには、つぎのような記事があった。


この映画の上映会の後、監督と主演女優によるティーチインがあった。

そこでも、監督がそのことに言及していた。

「知って欲しいのは、この映画の中で起きているような事件が、現在も戦場や紛争地帯で起きているということです」

と監督は言っていた。

慎ましく、真面目に生きている人たちに、こんな悲しい出来事が襲いかかり、加害者は罪の意識もなく日常を生きているという不条理。

どうしたら、そのような蛮行をなくすことができるのか。

どうしたら、世界中の人々の意識を変えていくことができるのか。

こういう事件は中々表に出にくい性質のものだけれども、こうして映画などのメディアで何度も繰り返し描き、拡散していくことで、少しずつでも意識が改善できるものだと思いたい。


これだけでは、書いた人間の真意は、あるいは人格を測ることができないから、個人的な見解というよりも、一般的見解の典型として考えていただき、書き手に責任はないということを前提として、「慎ましく、真面目に生きている人たちに、こんな悲しい出来事が襲いかかり、加害者は罪の意識もなく日常を生きているという不条理。」とはよく言ったものだと感銘を受けた。同じことは日本兵はアジアで大陸でやってきたのではなかったか。そしてそんなことはなかったかのように、罪の意識もなくのうのうと日常を生きてきたのではなかったか。


慰安婦問題もそうである。戦後、「加害者」の元日本兵たちは「罪の意識もなく日常を生きているという不条理」。もし書き手が、このソ連兵以上の日本兵の暴虐について念頭を置いているのなら、いいのだが、そうでないとすれば、その無自覚の罪は計り知れない。


もし映画のなかの事件をロシアにつきつければ、そんな事実や記録などどこにもないとはねつけるだろう。たぶん、日本の現政権や右翼の言い訳と同じことをするだろう。おそらくポーランド政府も、いまはどうかしれないが、当時だったらソ連政権の姿勢を「忖度して」、事件を否定しただろう。強制連行の記録はない、慰安婦たち、いや修道女たちは、自分からすんでソ連兵に身をささげたのだ、と。この映画で責められるべきは、アジアでの日本兵の暴虐でもあることは自覚すべきであろう。

posted by ohashi at 22:49| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年08月11日

『ビニー/信ずる男』

『ビニー/信じる男』Bleed for This2016) ビニーではなくヴィニーでしょう。いまどきウに点々が入っていると何と読むかわからないという人間は、日本語が読めない人間ぐらいでしょう。ビニーというのはそもそも人の名前かといぶかってしまう。


またスペイン語ではないのだから、日本語はbとvを区別する表記をしてもいいのではないか。実際にはブとヴの区別は、ほとんどの日本語文献で行なわれていて、文科省だって、昔決めた原則をゆるめているにもかかわらず、映画会社が岩盤規制を破っていないのはどうしてなのか。


それはともかく、実話に基づく映画とあるだが、実話そのものではない。Wikipediaをみるとちょっと驚く。瀕死の重傷を負った後の経緯だが――


19911112日、正面衝突の交通事故を起こし、首を骨折するなどの瀕死の重傷を負う。

19931228日、リッツ・カールトンでIBO世界スーパーミドル級王者ダン・シェリーと対戦し11KO勝ちで王座獲得に成功した。【これが復帰戦】

1994625日、MGMグランド内MGMグランド・ガーデン・アリーナでIBC世界スーパーミドル級王者で元世界4階級制覇王者ロベルト・デュランと対戦し123-0の判定勝ちで王座獲得に成功した。【これが映画での復帰戦。映画では2-1の判定】

1995114日、ロベルト・デュランとリマッチを行い123-0の判定勝ちで初防衛に成功した。

1995624日、IBF世界スーパーミドル級王者ロイ・ジョーンズ・ジュニアと対戦し6258TKO負けで3階級制覇に失敗した。


あとは2004年の引退まで、勝ったり負けたりの選手人生であるが、映画は実話どおりではない。


【この映画を見てロベルト・デュランにも興味をもったので、デュランを扱ったもうひとつのボクシング映画『ハンズ・オブ・ストーン』を観ようと新宿のシネマカリテのホームページをみたら813日の最終上映回、満席で予約できず。8月13日に記す。】


それはともかく、実話にもとづくからというわけではないが、『ロッキー』の嘘くさいボクシング・シーンからみれば隔世の感のあるリアルなボクシング・シーン――リアルなというのは実際に会場でリングをみあげたり、テレビで試合中継をみているのと同じようなという意味だが。また世界選手権であるのだが、ローカル色の消えない試合シーン。主人公を支援するコーチや家族たち、そして金儲けのことしかないけっこうあくどいプロモーター親子といったリアルな人物像――リアルなというは美化されることなく醜悪な面、愚劣な面、愚行と紙一重のナイーヴさ、そして計算高さと、それを裏切る打算性のなさなどを丁寧に示しているということだが――で、見ごたえのあるドラマが展開する。


おそらく、イタリア系移民でボクシングによって成功したか人生をかけている家族と、その家族をとりまく地域共同体の記録としては、よくできているし、マーティン・スコセッシがプロデュースしたのもわからないわけではない。


ただ同時に事実にもとづきながら、多くの改変がある。つまりフィクションの部分もけっこうある。それが悪いということではなく、改変されたり省略されたり盛られたりした部分があるなら、虚構性の特権で、たんに事実を追うだけではない、事実の裏側、リアリズムでは汲み取れない特徴などを顕在化できるはずだが、その部分は弱い感じもしないではない。事実よりも嘘によってとらえられる真実もあるのだから。たとえば衝突事故。なぜ対向車線の車が突然、こちらの車線に跳び出てきたのか。映画では説明がない。たんなる事故なのか。悪意ある出来事なのか。不条理なまでに説明不可能な事件なのか。なにもわからない。ただの天災のようなかたちになっているのは、いかがなものか。


しかし、気になるのは主人公がバカすぎるし、またバカすぎない、そのバランスがおかしい。バカというのは、たとえばボクシング馬鹿というように、良い意味もふくむ。観客が期待するのは、この良い意味でいうバカだからこそ、ここまでできた、頑張れたという物語だが、そこはどうなのか。


誤解のないように注記しておくと、スポーツ選手は頭が悪くてはやっていけない。自己管理から試合の作戦計画にいたるまで、スポーツ選手は小脳だけでなく大脳も発達していなければ、よい成績を残すことはできない。なるほど彼らは学業成績が悪いかもしれない。しかしそれは彼らがスポーツに専念し、学業を割く時間がないわけだから当然のことであり、また学業成績が悪いからといって、頭が悪いとはかぎらない。むしろスポーツ選手は、バカではできないというよりも、人一倍、頭がよくなければやっていけないだろう。


ではヴィニーの場合はどうか。たとえば頭部を固定留守器具を外すとき、ヴィニーは麻酔を拒否する。器具のネジは、頭蓋骨の表面に穴をあけたうえで止められているのだから、ネジをとりはずすときには激痛が走る。その激痛にヴィニーは耐えるのだが、理由は、自分はこれまで酒を飲んだことはない、ドラッグはしない、だから麻酔注射もしたくないのだとということ。馬鹿か、そもそも大けがをして、固定器具をつけるとき、頭皮の数か所に麻酔注射をしている。その映像もでてくる。たとえ本人は意識不明であっても、器具の取り付け時には麻酔が使われていることはわかるだろう。麻酔注射は最低一回はしている。いや、そんなこともわからないのかというのではなく、そもそもそれを我慢すること自体意味がない。


ただ好意的にとれば、要するに、こんなバカだから首の骨を折って脊椎を損傷しても、リハビリ後はボクシングを続けたいという、正気の沙汰ではない願望を抱いたのだということだろう。もうバカだからしょうがない、ということになる。そしてそれが映画における再起への必死の重みと奇跡を生み出すということになる。


ただ、この場合、バカだからというのは、ひとつには、精神年齢の低さを意味している。怪我からの再起をかけて、主人公は、自分の家の地下室で家族に黙って、ウエイトトレーニングをはじめようとする。それに気づいたコーチが、適切な助言をして、肩を鍛えることからはじめたほうがいいという。そして家族にだまってひそかにリハビリ、トレーニングをしはじめた二人は、うれしくてしょうがなくなって――実際、そのはしゃぎようは、小学生児童と同じで、観ている側が恥ずかしくなる--、家族にも不思議がられ、最後には父親にみつかってしまう。


もうひとつのバカっぽさは、これしか自分の生きる道はないという一途な思いとむすびついている。このバカっぽさが今述べたような、主人公の行動の原動力になっている。首の骨折とは関係のない分野で第二の人生を送ることは、むつかしいけれども、それしか選択の道はないように思われる。それは安易な選択どころか困難な選択であって、自己の努力、周囲の応援によってかろうじて乗り切れるものだ。しかし、主人公は、この選択肢を無視して、ふたたびボクシングを始めるという、あってはならない選択をする。


それはおそらく、自分にとってボクシング以外に生きる道がないということかもしれない。ボクシング以外のことをしても、使い物にならないバカなのだから。そのことを本人は自覚しているから、バカだからボクシング以外のことはできないと自覚しているのだが、再起にむけてがんばりはじめる。ここまではいいのだが。


ということは、本人はバカではない。困難だが最善の選択をしていることになる。そうなるとバカではなくなる。バカではなくなる(なんであれ計算とか子考慮が入ると)逆に観客の共感が得られなくなる。


おそらくこの映画では、悪辣なプロモーター親子の存在が印象操作の面で大きな役割を演じている。ボクシング以外にやれることはない男を、ボクシングに復帰させる。それで再び首の骨を折っても話題にはなる。それで死んでも話題になるし、死ねば終わりという危険性はある。また、そんな男との対戦相手などいなくなることは考えられるが、そこは復帰する美談に置き換えて、注目を浴び、人気をあおる。こうプロモーター親子は判断するようだが、それ以前に、主人公自身が、自己プロモーションによってそう考えてしまうのだ。本来なら、プロモーターと主人公の思いは、相反するはずが(交通事故前は相反していた)、事故後の復帰ドラマでは、一致してしまう。どちらも危険な打算がある。ある意味、すべてを見込んだうえでの計算づくのプロモーションかもしれない――頭部を固定する痛々しい器具も、ひょっとしたらウソかもしれないと私は考えている(実際に頭部を固定する器具をつけている映像が残っているのだが、パフォーマンスかもしれないでしょう)。


スポーツ選手は頭はいいと私は考えているが、その頭の良さが、狡猾さへとつながるようだと、悪いイメージができてしまう。一見、破天荒で、悲惨なまでに絶望的なあがきのようにみえる主人公の決断と行動が、狡猾な自己プロモーションという負の可能性をひきよせているように見えてしまうところがある。そのため応援したくなくとまでは言い切れないが、複雑な思いは残る。


『セッション』以来のマイルズ・テラーの演技というか印象によって、負の印象は抑えられると思うのだが、エンドクレジットに登場する本人の映像をみると、なんだかかなというお思いを禁じ得ない。


posted by ohashi at 19:36| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年08月10日

教科書と入試問題

これはもう20世紀での出来事なのだが、ある大学の先生と話をしていたとき、その先生が、この歳になると自分の書いた文章のひとつかふたつが大学の入試問題に使われるものだと話したので、実は、私も入試問題で使われているのだと話して意気投合したことがある。自慢でもなんでもない。ある時は、別の大学の先生で、私よりもずいぶん年下で、作家でもあって長編小説を上梓している人でもあるのだが、その先生も、自分の文章が入試で使われたことがあると言っていたので、まあ大学の先生と出会えば、100人中、かなりの人数の人が入試問題提供者となっている。


だから、これは自慢話ではない。


入試問題に選ばれる文章というのは、基本的に、あたりさわりのない文章である。政治的ではないこと。また専門的でないこと。


毎ページ、シェイクスピアとか夏目漱石という固有名詞がある場合、これはまあ許容範囲かもしれないが、ヘイドン・ホワイトとか、アントニオ・グラムシとか、ジョルジョ・アガンベンなどという名前が出ていたら、まず使われることはない。


英語で、これにぴったりの単語がある。blandであること。まあblandというのはほめ言葉かもしれないが、ほめ言葉でないことのほうが多い。ちなみに日本語で言う商標とか銘柄でいうブランドはbrandなので誤解のないように。


しかし同時に、あまり口当たりがよくてわかりやすかったら入試問題にならない。そのため小骨がいっぱいあって、しかも頭がぐるぐるするような文章でなくてはならない。以前、文学部の先生方と話をしていたとき、入試問題に使われる日本語の文章の話しになって、実は私も入試問題に使われているのですと言おうとしたところ、話題は、悪文が入試問題に使われるのだという方向に進んでしまい、口をさしはさめなくなった。というのも悪文であるというのは真理だからである。


実際、入試問題に使われた自分の文章を読んでみると、悪文である。受験生諸君を一度ならず、過去問題集でも苦しめることになり、もっとわかりやすい文章を書こうと反省した次第である。これはほんと。


なお以上のようなことは過去にも、このブログで書いたことがあるので、今回はそのつづきを。


問題作成するほうも、進化洗練されてきて、良い問題をつくるようになった。近年。私の文章が行政書士の資格試験問題に使われているのだが、空欄を埋める問題で、ちょっとむつかしいが、論理的に考えればできる問題で、なにより驚いたのは、私はけっこう論理的な文章を書いているということだった。


自分では、論理をはずしたり、ひねったりするような文章を書いていたつもりでも、まさに言語構造、あるいは論理構造の力というか、文法の力とでもいうべきもので、書き手の意志を超越したかたちでというか、書き手が書いているのではなく、論理が書いているという状態が出来していた。だから私の文章(とくに悪文ではなかった)の論理をつかめばが解答できる問題で、良い問題だと思った。


余談だが、行政書士の過去問題集に掲載されるとお金が入る。といってもわずかな金額だし、それに対して出版社側がいちいち源泉徴収の書類を用意するというのはめんどうだろうし、そうした書類を税金申告のときにそろえておくというのもめんどうなので、版権料不要という選択肢がある書類の場合、迷わず不要にして返送していた。行政書士の過去問題集を出版する書店は二社か三社くらいだろうと思って。ところが、次々といろいろな出版社が過去問題集への掲載許可を求めてくる。こんなにたくさんの出版社が行政書士の過去問題集を出しているとは夢にも思わなかった。お金をもらっておけば、けっこうな額になっていたはずなのにと後悔した。実際、掲載料はほんとど不要としたのだから。


閑話休題。入試問題というと、私の場合、翻訳文も使われていて、これは複雑な思いをしている。翻訳の文章というのは、どうしても原文にひっぱられるため、日本語として不自然なものが多いというか、どうしても不自然になる。私の翻訳文も例外ではない。だから国語の問題の文章としては、そもそも翻訳文はふさわしくないと思うのだが、それでも使われるというのは、私の翻訳文が日本語として優れているということの証ではないか。だとしたら、これは誇らしく、また嬉しい限りである。


しかし先の例ではないが、不自然な日本語の翻訳文は悪文と同じだから使われているとも考えられる。こうなると、あまりうれしくはないのだが、そうであっても、設問をみていると、内容が優れているから、問題として選ばれているということもわかる。悪文だけれども興味深いということか。いや、悪文でもいい。翻訳文が選ばれるということは、うれしいことではある。


最近、これまで選ばれたことのない私の文章から論説問題が出題された。事後承諾で、あとから使わせてもらいましたという報告がくる。それはそれでいいのだが、昨年度だったが、私の文章を使った入試問題のサンプルが事後承諾で送られてきて、そのとき出題ミスがありましたというコメント入ってて、目の前が真っ暗になった。


というのも論述問題の出題ミスとなると、解答できないということではないか。つまり私の文章があまりに非論理的で稚拙で受験生はどんなに頑張っても、解答が書けないということになる。つまりは私の文章がひどすぎる。こんな問題を出す大学も責任を問われるだろう。そうなると受験生、出題側の大学に大変な迷惑をかけたことになる。私の文章が。


しかし、おそるおそる書類をみてみたら、出題ミスといっても、出題文での漢字の使い方が私の原文とは異なっていたというだけのことで、ミスかもしれないが、ささいなミス、とるにたらないミス、ミスともいえないものである。受験生に迷惑をかけてはないので、ほっとした。それにそんなに悪文でもなかったし。


ところで、この記事のタイトルは「教科書と入試問題」とある。「教科書」はどうなったのか。それは次回につづく。

posted by ohashi at 12:14| エッセイ | 更新情報をチェックする

2017年08月06日

『ダイ・ビューティフル』

ミスコンの光と影

私はミスコンというのは、いまでも女性差別の悪しきイヴェントだと思っている。というかそれ以外の何物でもない。フェミニズムが今よりも元気だったころには、ミスコンは激しく批判されたが、その批判は、いまも継承すべきだと思う。


男性が女性のランク付けをする。たとえミスコン主催側が、たんに女性の見た目ではなく内面も判断すると弁解しても、内面だろうが外面だろうが、そうやってランク付けする側は、いったい何者だといいたい。


芥川賞とか直木賞ではないと弁解されるかもしれない。芥川賞とか直木賞が、勝手に賞をあたえるのは、いいとしても、選考過程を報告し、選にもれた作品にをぼろくそにいうという常識を疑う作家たちの愚行いや蛮行には、ただただあきれかえるほかないし、ぼろくそに言われた作家の誰かが名誉棄損で訴えたらいいと思うのだが、つまり、自分から競争とか賞取りレースに参加するのなら、順位をつけられ、その過程で、欠点とか問題点を批判されてもしかたがない。それを甘んずるという条件でレースに参加しているわけだから。ところが芥川賞とか直木賞というのは、候補作を、勝手に選んで、賞を決める。そして選考結果まで発表することで、直接あるいは間接的に受賞を逃した作品を批判することになる。最低である。アカデミー賞の場合も、勝手に候補作を選んでいるのだが、選考結果は発表しない。あたりまえである。また勝手に選んでいるのだが、候補作とか候補者として選ばれることも名誉になるかたちにしている。受賞を逃したのは欠陥があるからというふうにけなされることはない(そして、それでも勝手に順位をつけるのはけしからんとアカデミー賞を批判したマーロン・ブラントのような俳優もいた)。


ミスコンの場合、勝手に候補者を選んでランク付け、順位付けをしているのでなく、自発的に、みずからの意志で競争に参加している女性に対しての辞順づけなので、けなされても、文句は言えないということになる。またさすがに芥川賞とか直木賞の選考委員の愚劣な作家たちとは異なり、たとえば、この女性は、胸が小さすぎるから、この女性は鼻がでかすぎるから、この女性は不健康なまでに痩せすぎているからというような理由で受賞できなかったなどという選考過程を公表するという非常識なことはしていない。女性に勝手に順位付けするのは、もってのほかだが、自分から順位をつけてもらいたいと望む女性たちに順位付けするのはかまわないということになるかもしれない。私も、選考委員をしているものがあるが、それは特定の賞をもとめて応募してきた作品を審査しているのであって、好き勝手に、なんであれ、順位をつけているわけではない。


しかし問題は、人間の特定の技能とか、特定の業績について審査はできても、女性そのものを審査することなどできない。見た目だけで審査しているのではないというのであれば、まず見た目で審査することは愚かであり犯罪的であることを認めたうえで、さらには見た目ではない内面まで審査するとは、いったいどれほど過激な愚行なのか。内面など審査できるはずもない。それを審査できるというのなら、その内面は、外面にすぎない。外面は審査できる――たとえその基準があやふやでも。そして外面だけで審査することは人間の場合、愚行である。また審査の対象となるというのは、結局、女性を物化している。あるいはペット化している。とにかくミスコンは、なにもかもまちがっているし、私はミスコンに対しては、その開催者から参加者にいたるまで、なんらリスペクトしていない。よく大学でもミスコンは行われているが、あれは学生団体が主催しているのであって、けしからぬものであっても、法に触れない限り、学生の活動に介入はでいないので放置されているのであって、もしミスコンを大学側・教育側がおこなったら、これ徹底的に避難されてしかるべきである。


『ダイ・ビューティフル』を観たら、フィリピンでは、女装する男性たち、ドラッグ・クイーンといっても男性たちが、著名な世界規模のミスコンのまねごとをしている。ドラッグ・クイーンたちによるミスコンを主催、そのなかでミスコンの女王を決めるということがテレビ番組として放送されていること。その際、ミスコンの女王に選ばれるドラッグ・クイーンは、たんに見た目の美しや、魅力だけでなく、審査員との質疑応答での受け答えの良さも評価の対象となる。だからおこなっていることはミスコンそのものである。ただ参加者が、女性ではなくて、女装する男性、コスプレする男性、ドラッグ・クイーンであるということだ。ミスコン嫌いの私も、これは素晴らしいと思った。


ある種のミスコン遊びなのだが(実際、映画の冒頭では、ミスコンごっこをしている子供たちが示される)、またこのミスコン遊びをしている人たちは、本物のミスコンに対して、私とは異なり、リスペクトしているかもしれないが、リスペクトの有無にかかわらず、ごっこ遊びは、面白いし、本物を愚弄する面もあるので、本物の持つ危険で悪辣な面が前景化されると同時に、その毒気が抜かれる。戦争行為は地獄の一季節だが、戦争ごっことかサバイバルゲームは楽しい。それと同じで、このミスコンごっこは、ミスコン嫌いいや、ミスコン批判者にとっても、じゅうぶん楽しめるものである。まあ新宿歌舞伎町二丁目のゲイバーのアトラクションというかパフォーマンスのようなものだが、そこに遊戯性と批判性とが、熱狂と嘲笑とが、共存する。遊戯性と熱狂しかないのではと問うなかれ。ドラッグクイーンのパフォーマンスは、どこまでいっても贋物感がつきまとう。そして縮めることのできない距離が介在する。そこに醒めた視線、批判性がおのずと生まれるからこその、熱狂と嘲笑なのだ。


Imitation of Life

映画そのものは急死したミスコンの女王である男性を、ミスコンの女王として埋葬するため10日の通夜をおこない、そのつど、着せ替え人形にように、死体にセレブの女性の化粧をする。そしてその間、フラッシュバックで、死んだミスコン・クイーンの人生が断片が示され、最後には、彼女の幼少期から死に至るまでの人生の全体像が浮かび上がることになる。


予告編とか宣伝では、彼女の父親は、彼女/息子を、男性に戻して埋葬したがっているが、彼女の意志は女性として埋葬されることであって、ドラッグ・クイーンのミスコン仲間たちは、彼女の意志を尊重して、遺体の奪還をはかるというのが大きな事件となると予想された。ただ、映画のなかでは親族のもとに返され、男装(?)された彼女の遺体だが、ミスコン仲間たちは、彼の姉を説得して、死体を運び出すことに成功する。ただしこの事件は、直近の過去の回想として、けっこう終わりのほうで示されるだけで、大事件というよりも、遺体がなぜ葬儀屋にあるのかの簡単な説明的エピソードという扱いで、大事件というようなものではない。


しかし、それによって映画の魅力がそがれることはない。ここで、Imitation of Lifeという言葉を、そして映画を思い出す。1934年の映画は日本語で『模倣の人生』と訳された。問題のある訳語かもしれない。そもそもここでいうImitationとは模造品のこと。強いて言えば模造の人生、贋物の人生、偽りの人生ということで、これが主たる意味だろう。模倣か模造。リスペクトをこめた〈ものまね〉か〈なりきり〉でも、つまり模倣でも、冷笑的な視線にさらされれば、たんなる〈まがい物〉〈贋物〉となる。この二重性こそ『ダイ・ビューティフル』の主人あるいは彼/彼女の仲間たちの生きざまの表象であろう。彼女たちの人生は、決して本物ではありえない。彼女たちは彼らなのだから。しかし彼/彼女の人生は、レイプされ、恋人となり、母親になり、ミスコン優勝者になり、芸人になりと多彩をきわめ、その華やかさ変幻自在さ、そして真摯さは、たとえ贋物でも、りっぱな模倣、本物をしのぐ、あるいは本物と見まごうばかりの密度と強度を誇示するものでもある。どれほど似せても本物に限りなく遠いが、にせものだけども本物に限りなく近いという二重性。これをイミテーション・オブ・ライフと呼ぶことは理にかなっている。


また『模倣の人生』の1959年のダグラス・サーク監督によるリメイク版も思い出す。日本語タイトルは『悲しみは空の彼方へ』。原題は同じImitation of Life。ダグラス・サークお得意の50年代のメロドラマ映画なのだが、なんと悲しく、またなんと強烈な社会批判かと感銘を受ける映画である。映画の最後、黒人の女性の死が、驚くほど豪華な葬儀をもって締めくくられる。そこに若い白人としてパッシングしている黒人女性が、この死んだ母の遺体に許しを乞いに来る。泣きじゃくりながら。思い出すだけでも泣けてくる場面なのだが、侮蔑され差別され、娘からも黒人であるがゆえに嫌われた女性の苦難の人生に対する、監督の、社会の謝罪と償い、それがこの豪華な葬式となって出現する。おそらく当時の現実の社会にあって、黒人女性を、これほど豪華な葬式をもって弔うことはないだろう。それゆえ、この葬式は社会に対する強烈な批判でもあった。


『ダイ・ビューティフル』も、無理解と差別の人生を、笑い飛ばしながら、また人生と真摯に向き合った、急死したドラッグ・クイーンの男性の生涯をふりかえって、追悼する映画でもある。フィリピン全土で葬儀のメイクについて話題になり、有名人セレブからミスコン仲間たちが数多くつめかけ、10日の通夜が、祝祭的熱狂をもって、繰り広げられるのである。その豪華あるいは豪華を模倣した通夜は、『悲しみは空の彼方に』の豪華な葬式のように、迫害された者への――ドラッグ・クイーンの短くも楽しい苦難の人生への――深い追悼なのである。


『彼らが本気で編むときは』

萩上直子監督、生田斗真主演『彼らが本気で編むときは』(2017)を思い出してもいい。


『彼らが』のほうはトランスジェンダー(こちらは完全に性転換している――失ったペニスを埋葬するのだから)の生田斗真と桐谷健太の夫婦が、女の子(母親から見捨てられている)の世話をすることになり、子持ちの家族となる話である。最終的には産みの母親が、親権を主張して、女の子を連れて帰るのだが、『ダイ・ビューティフル』もまた、同級生でミスコン仲間の二人が女の子を引き取って育て家族となる話でもある。また準トランスジェンダーの彼女/彼は、死んだら、親族がひきとって、ミスコン女王としてのトランスジェンダーの生き方を全否定しようとする。血縁による暴力性。また血縁を超えたところ、性差を超えたところにある人間的関係への無理解と差別。


この二つの映画に共通するモチーフのうち、『彼らが本気で編むときは』というタイトルは、憤りを意味している(映画の内容は怒ってばかりいるということはない)。つまり「彼らが本気で編むとき」とは、映画のなかでの設定では、彼らが社会の無理解と差別に憤っているときなのである。同じく『ダイ・ビューティフル』も、社会の無理解と差別にさらされ苦難の人生を送ったミスコンの女王への哀悼である。ただタイトルは美を強調している。その人生が、ありふれた人生を送る人間にくらべてはるかに波乱にとみ、また注目を浴びた華麗な人生だからであり、その美の追求は、たとえ贋物の美、安物感から逃れられないB級、C級の美にすぎないとしても、贋物が、ふと本物を凌ぐというのではなく、贋物であることの独自の美に向けられているからでもある。ふたつの映画というよりも、ふたつの映画のタイトルは、支え合っている。同じ一つのコインの両面なのである。


追記

10日の通夜のときには、何も語られていないのだが、明らかに、マライア・キャリーのものまねの一夜――マライア・キャリーのメイクと衣装を遺体が身に着ける一夜がある。男性のドラッグ・クイーンなので、どうしても肉体的にたくましい女性になってしまう。しかし、報道されている超肥満化した今のマライア・キャリーに比べると、映画のなかのたくましいマライアが、けっこう痩せて見えるところが、おかしい。

posted by ohashi at 10:14| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年08月05日

『忍びの国』

『忍びの国』は、予想外に面白い映画だった。


予告編で見る限り、戦国時代、伊賀の国に織田信長の軍勢が攻め入り、熾烈な戦いが展開するが、そのなかで、おそらく首領格ではないかもしれないが有能な忍び(大野智)が、圧倒的に強大な織田軍を前に苦戦するも、叡智によって敵の裏をかき、仲間を鼓舞して、勝利に導く、いや伊賀の国が信長軍に勝利したという記録はないから、勝利をまぢかにして、信長の調略によって敗北するという話かと思った。実際、伊賀の国と信長軍との衝突は、二回にわたって起こっている。ということは最初に撃退したことになる。でかした忍者軍。まあ、そういう話かと思った。


予告編から伝わってくる大野智の熱い演技も、こうした予想を裏付けるように思われえた。ただ、そうなると大阪冬の陣と夏の陣みたいなもので、大野智扮する忍びが、真田幸村に見えてくる。昨年のNHKの大河ドラマ『真田丸』の人気の余韻がまだ残っているのかもしれない。繰り返すが、予告編からみると、そんな映画かと思ったが、観てみると全然違った映画だった。


考えちゃダメ!

楽しんで!深く考えないで観ると面白いと思います。深く考えると、もはや人間ではない自分に気づかない無門が悲しいです。人間ではない者達が集まると、もはやこれが正義になるのですね。お国が人間で良かった。


これはたまたまネットで目にした一般の映画評なのだが、舌足らずで、なにを言っているのかわからないコメントなのだが、とりわけ「人間でない」とか云々のところがまったく理解不可能だった。ところが映画を見てみると、この映画評、それなりに正鵠を射ている立派なコメントなのである。


とはいえ、上記のコメンテイターにはまったく失礼ながら、これは考えさせられる映画でもある。そして上記コメント最後の「お国が人間で良かった」というのは、お国=国家ではなく、お国は石原さとみが演ずる、大野智の妻のことである。でもなぜ妻が人間でよかったのか。主人公が人間でない? 


実際、映画の途中まで忍者版『真田丸』だと思っていたので、その印象を退け、一度、頭をリセットするまで、けっこう時間がかかった――私の頭の回転がのろいせいで。そして『真田丸』ではないと悟れば、俄然、映画が面白くなる。


実際、大野智演ずる主人公の無門(←これが名前)は、伊賀の下忍仲間では一匹狼の、それも最高の技能を誇る忍者、つまりは最強の戦士=殺し屋あるいは最強の殺人マシーンであり、その超人的な殺人技の冴えを映像で堪能できる。また、人の命をなんとも思わない殺人マシーンが、自分の行動に疑問をもちはじめ、人間性にめざめていくのだが、時すでに遅くという展開に、この映画の予想を裏切る面白さがあった。


結局、この映画は『真田丸』ではなく、忍者軍団での非人間的な価値観(正確にいえば無価値観か)を疑いもせず、欲望のままに生きる殺人マシーンたちのうち、一人(鈴木亮平)は自らの弟の死をきっかけにして忍者軍団の非人間性に目覚め、伊賀の国を裏切ることになるのだが、主人公(大野智)もまた、鈴木亮平や妻の石原さとみとの出会いによって、みずからの生き方に疑問を抱き、自分と同じような境遇の下忍仲間を利用する忍者軍団の冷徹非情な幹部たちへの怒りを覚えるようになる。


『真田丸』とは全然違うジャンルである。実際、この人間ではない忍者軍団と織田軍との最初の戦いでは、本来なら、織田軍つまり数にものをいわせる権力者側の軍隊ではなく、伊賀の忍者軍団つまり反権力のマイノリティ集団のほうに肩入れしたくなるのがふつうだが、この映画では、人間ではない忍者軍団をぶっつぶせる織田軍に肩入れしたくなるのだ。それほどまでに忍者軍団の非人間っぷりがすごい。


類似のジャンルの映画はいろいろ思い浮かぶといいながら、出てこないのだが、たとえばリュック・ベッソン監督の『レオン』(1994)はどうか。マフィアに雇われている有能な最強の、そして非情な殺し屋が少女と出会うことで人間性にめざめ、彼自身を殺し屋に仕立てるために子供のころから自分を養育してきた父親代わりのボスを裏切り、少女を助けるため、みずから死んでいく--このレオン/ジャン・レノの物語は、『忍びの国』に通ずるものがある。他国から子供を拉致して殺人マシーンに仕立て、その殺人マシーンを使い捨てにする冷酷な忍者軍団のボスたちと、最後には、その彼らに怒りをぶつけ復讐しようとする主人公の運命が同じだということだけではない。ふたつの映画を通して。根無し草的な存在(レオンと観葉植物、無門(どのような門も破るということから、つまり守るべき家などない)と、他国から拉致されてきた妻のお国)そして子どもというモチーフが共有されていることもまた興味深いのだ。


あと時代劇としては、日置大膳役の伊勢谷友介の存在感がハンパでないし、 マキタスポーツ(長野左京亮役)は、彼の本来の居場所は、時代劇のなかにしかないと思えるほど、時代劇のために生まれてきたようなタレントにもみえる。織田信雄役のHey! Say! JUMPの 知念侑李も本来なら軽薄な悪役というところだが、伊勢の忍者軍団が人間ではないがゆえに、そのぶん、人間味を引き受けた観があり、応援したくなるヒーローにもなった。これはこの映画の特異なところだろう。


ちなみに83日のNHKBSプレミアム【英雄たちの選択】「真説・山崎の戦い~なぜ光秀は天下をとれなかったのか?~」午後8時~午後9時の最後で司会の磯田道史が、光秀が本能寺で信長を討ったことによって、これで信長による大虐殺が終わりを告げることになったというようなコメントをしていて、なるほどと目を開かれた。実際、信長の軍団は、戦闘員・非戦闘員を問わず無差別の大量殺戮を繰り返してきた。それが止んだだけでも、本能寺の変は、意味があったのだ。そして伊賀の国への侵略をみても、二度目の侵攻では大虐殺を行なっている。だから人間ではないのは織田軍も同じなのだ。ところが映画のなかでは忍者軍団を極度に悪魔化しているために、織田軍が正義の戦いをしたかのような、そして伊賀忍者という悪を征服したかのような印象を与えるのである。


しかも映画のなかでは伊賀忍者の悪魔化にさらに追い打ちをかけるように、伊賀忍者は征服されたのではなく、全国に散らばり、やがて、そのおのれの欲望のみに生きて、人道も命も平気で踏みにじる悪鬼(とは言っていないが、そんなようなものでしょう)となってよみがえるのだとを日置大膳/伊勢谷友介が語る。そして、そこで伊賀の下忍たちの姿が現代の若者たちの姿にかわっていくシーンがある。そのため、たしかに人の心をもたず大量虐殺をなんとも思わない織田軍もまた本来なら伊賀の忍者軍団に劣らずあさましい獣的な存在であるのだが、そのように感じさせないところに、この映画の魔力があるといえようか。【なお磯田道史氏の著作『無私の日本人』なかの一編「穀田屋十三郎」を、この『忍びの国』の中村義洋監督が映画化するという話があったのだが、実現したのだろうか】


なお、そう考えると主人公の無門を大野智に演じさせているというのも、絶妙のキャスティングかもしれない。主人公は、最強の忍者戦士なのだが、同時に、金のためには平気で人殺しをし、守るべき大儀などない、心のない人間なのだが、それは大野智のイメージ(演技上の)に良く似合う。ある意味アンチヒーローである。その彼が人間性に目覚め、苦悩し、怒り、悲しみ、人間味あふれたヒーローへと変貌していくところを、大野智が熱演している。最初は主人公に対する距離のとりかたに戸惑うものの(この戸惑いは織田軍に対してもいえる)最後には、距離がなくなる、主人公への対応が安定する。それはまた主人公のアンチヒーローからヒーローへの変貌を意味している。


Last but not least 残忍で人の心を欠いているのは、伊賀の忍者軍団で、織田信雄率いる織田軍・伊勢軍は、そうでないという設定になっているが、織田信雄に従って伊賀の国への侵攻を決意するとき、家臣団は軍団をまとめ奮い立たせるがごとく、動物のように吠える。一方伊賀の忍者軍団も、信長からは(あるいは当時から?)「虎狼の族」と呼ばれ侮蔑されまた恐れられている。彼らは獣であり、実際、彼らが群れて攻撃する様は、サル山の猿の群れにもみえるし、地を這うウルフパックのようにもみえる。そして史実としてみれば、伊賀の忍者軍団と織田軍とは、どちらも獣的で非情かつ非道な集団で、選ぶところはない。


そもそも映画の冒頭で、忍者軍団は、二手に分かれて争っている。どちらも忍者なのであって、これは戦闘の準備、予行演習、訓練かと思うと、そうではなくて、ほんとうに殺し合っている。なぜ同じ忍者どおしで殺し合うのか。異なる一門あるいは家系は無意味に争い、多くの命を無駄にしていると語られる。同族どうしで殺し合い、仲間の命を恐ろしく軽んじている。だが、この無意味な内部抗争は、戦国の世の象徴ともなっている。この映画における戦闘も、敵と味方に分かれているのだが、大局的にみれば同族の争いである。


実際、この映画はいっぽうで、明確な二項対立によって対照的なふたつ世界を構築しているが、単純に二分化できない可能性もしっかり垣間見せているといえよう。この脱構築状態は、この映画のもうひとつのテーマである「術」の問題とも関係があるかもしれない。


忍者は、人間の精神を操る「術」をもっている。「術」とは特殊技能ではなくて、言葉によって相手に暗示をかけて行動を操作することをいっているようだ。忍者のひとりを裏切らせ、その裏切り忍者の助言によって、織田軍が伊賀の国に侵攻するという展開も、すべて「術」のなせるわざであり、すべては忍者軍団の幹部のシナリオどおりだということになっているのだから。


しかし、このような「術」を問題にすれば、どこからが術に操られた結果であり、どこまでが自由意思なのか区別がつかなくなる。術によれば、なんでもありなのである。織田信長は次男に伊賀の国は「虎狼の族」の国なので攻め入ってはいけないと釘をさしているのだが、この禁令は、実は父親をあてにせずに自分の才覚で成果をあげよという暗示あるいはフリであると伊勢の国では解釈するのである。暗示あるいはフリであるという解釈は、術の世界である。つまり直接的な命令は、その意図を分析され慎重な判断を促すことにもなるが、間接的命令あるいは暗示あるいはフリだと、無批判に受け入れてしまう。まさに催眠術と同じなのである。術であれ、間接的命令であるフリであれ、催眠術であれ、それられと自由意思や決断との境界線はないことになる。もはやすべてが術による操作ともいえてしまうのだから。


ちなみに主人公の無門は、人殺しの技術は伊賀随一であり並ぶ者なき腕前なのだが、人心をあやつる、つまり術をかけることだけでは下手である。妻のお国を拉致するときも、術をかけて連れ去ろうとするのだが、石原さとみは、その術にかからない。ほかにも無門/大野智が術をかけることが下手だった場面もあったような気がする。結局、これは、彼女が自由意思で伊賀の里までやってきたということであり、ある意味、二人の絆が、催眠術的なものではないことの証明だともいえよう。


またこの原作と映画は、伊賀の忍者を悪く描いているという点で、特異なものかもしれないが、冷静に考えれば、江戸時代になっても御庭番として、地方の大名や武家の動向の監視、諜報活動をおこない、ときには暗殺をも請け負った忍者集団は、ろくなものではない。アサシンである。国家の闇の部分をすべて背負い、すべてを闇から闇へと葬る恐怖の殺人集団である。まあCIAあるいは内閣調査室みたいなもので、権力者に重用される国家の犬であり、庶民感情からは許しがたい卑劣なクズ集団である。スパイ物の小説や映画のおかげで、彼らは美化されることも多いが、冷静に考えれば、およそ好まれる集団ではない。


しかしである。彼らをCIAや内閣調査室と同等に考えるというのも歴史錯誤であろう。戦国の世に国家統一を目指して大虐殺を繰り返す悪魔のような織田軍に対して、少数で徹底抗戦して、皆殺しにされた伊賀の忍者軍団とその一族は、「虎狼の族」と呼ばれさげすまれ恐れられても、ほんとうはどうだったのか、わからない。彼らは統一と全体化を阻む勇気あるレジスタンスだったかもしれない。彼らは民主的共同体を実現し、伊賀の里は、ある意味、ユートピア、つまり戦国の世であればこそ可能だったユートピアだったのかもしれない。


だが、原作とこの映画は、彼らを虎狼の族として、術によって人心を操作しつつ、金銭という資本主義の術に操られている卑劣で愚劣な一族として悪魔化している。だが、それは原作あるいは映画が、わたしたちにかけた「術」かもしれないのだ。


かくして「術」をひとつのテーマとして提示したこの映画は、そのために、テーマそのものも、どこまでも未完結な開かれたものとしている。


posted by ohashi at 16:27| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年08月02日

『ザ。マミー』

『サハラに舞う羽』という映画があった。監督は『エリザベス』『エリザベス ゴールデン・エイジ』のシェカール・カブール。主演は今は亡きヒース・レジャー。私ははじめて見る映画/物語だったが、これはAEW・メイソンの小説『四枚の羽根』のなんと六度目の映画化。 原題はThe Four Feathers。この羽というのは臆病者に送られる白い羽のこと。アフリカのスーダンへの着任を前にして除隊した英軍士官(ヒース・レジャー)に送られこの羽。四枚の羽根を送られた、つまり臆病者と非難されたヒース・レジャーは、汚名をはらすため、ひそかにアフリカにわたり、現地の反乱軍の抵抗にあって苦境に陥る英軍の仲間(4枚の羽根の送り手たち)を、ひそかに助け、臆病者の汚名を晴らすことになる。


ワーテルローの戦いあたりではまだ効果的だった英軍の方形陣も、ヨーロッパでは時代遅れになっていたのだが、アフリカではまだ使われていたものの、それもスーダンで反乱軍に破られていくという歴史的な時代、ゴードン将軍の戦死の時代を背景としている。シェカール・カブールの演出は力強く、また原作である、やや古臭い、友情と名誉の物語を、リアルな映像によって現代によみがえらせている。だが……。


捕虜になった友人を助けるべく、みずからも捕虜収容所というか、捕虜収地下洞窟に潜入する主人公は――とにかく見ている側が窒息しそうなくらい、人間がひしめき合いおりかさなり身動きもとれない洞窟の映像は一見の価値あり――、そこで策を講じて脱出する。その策とは、一時的に仮死状態になる薬物によって、死体と扱われて収容所から外に捨てられるというもの


仮死状態になる薬。え、『ロミオとジュリエット』か。そんな薬など、『ロミオとジュリエット』の時代にもなかったというか、あると信じられていたかもしれないが、そんなものはない。この仮死状態になる薬が、重要な設定になるところで、この映画は一挙に百年以上も前に後戻りしたかのようだ。


どんなにリアルな映像をまとってても、結局、仮死状態になる薬を利用することで、腐乱した死体の死臭に気づかされる。厚化粧という比喩はよくないことを知りつつ、あえて使えば、厚化粧の下の老いた肌に気づかされるとでもいおうか。若作りしていても、実は相当な年齢である、いやひょっとしたら生きていないのかもしれないと気づかされる、それが『サハラに舞う羽』の仮死状態になる薬だった。


差別的な比喩をお詫びするが、逆のことも考えられる。どんなに今風であっても、実は古めかしい、ノスタルジアを喚起するような作品づくりもできる。『サハラに舞う羽』は、むしろノスタルジアからは縁をきった現代性を追及したようだが、ただどんなに縁を切ろうとも、古めかしさのくびきからは逃れられなかったということができるとすれば、一見新しいそうで、実は古めかしい、いやその古さを楽しむような、ポストモダン的な方向性というのもありうるだろう。


『ザ・マミー』は1932年公開の映画『ミイラ再生』をリブートした作品ということだが、『ハムナプトラ』も、『ミイラの再生』のリブートということなので、この作品は、『ハムナプトラ』のリブートということにもなる。またユニヴァーサル・ピクチャーズのダーク・ユニバースの第1作目となる作品でもあるということ。うまくいけば現代の映像技術をふんだんに使いながら、どこかなつかしい物語や雰囲気などがあって、新しいとともにノスタルジックな作品が誕生すればいいということになる。


ただ問題は、ひとつあって、昔のユニヴァーサル・ピクチャーズのモンスター物というのは、B級ホラーでしょう。ノスタルジックというよりもB級映画感が支配的になってしまうと、いくらCGをふんだんに使っても、安物映画にみえてしまう。ノスタルジアには骨董品がもつ高級感がある。しかしB級ホラー・モンスター映画には高級感がない。そこをどうするかということかもしれない。


実際、映画制作側も模索しているのかもしれない。『ザ・マミー』は面白い映画だが、アメリカでの批評家の評判はよくない。それもわからないわけではない、トム・クルーズとかラッセル・クロウというスターを使っていながら、軽い。軽いのはいいのだが、それが安っぽさにつながってしまう。


そのため軽さを、どう評価するかで、全体の評価が左右されるのかもしれない。というのもこの映画、たとえばよみがえった闇の女王が、どこまで逃げても追いかけてきたり、時として悪夢の世界に引きずり込まれるということになっても――このあたりは、けっこう工夫が凝らされていて、それなりに興味ぶかいのだが――、全然怖くない。まえに映画『ウィッチ』が怖くないと書いたが、『ザ・マミー』と比べたら『ウィッチ』はずいぶん怖い映画だということがわかる。ということは、逆に、恐怖がうまくコントロールされていて、家族向き映画という作りをされているのかもしれない。


だから好意的に言えば、B級ホラーの世界を、家族向き映画にしたということかもしれない。とはいえ、たとえばジェイムズ・ホエイルの映画『フランケンシュタイン』が公開されたころの観客は、ボリス・カーロフ扮するモンスターにおびえたかもしれないが(ちなみにこの映画の科学者はヘンリー・フランケンシュタインとなっている(原作はヴィクター・フランケンシュタイン)、またモンスターには名前がない)、いまからみれば、怖くもなんともない、むしろ愛嬌のある、文化的アイコンとなった、ゆるキャラに近いモンスターである。


B級ホラーは時がたてば怖くなくなる。するとますます安っぽくなる。この怖くなくなることを、安っぽさと接続するか、家族向きホラーと接続するか、今後の作品展開を待つしかないだろう。


最後に、この映画『ザ・マミー』では、実は、怖い場面がひとつある。ほんとうに心臓の鼓動が激しくなり、あとあとも夢をみそうな怖いシーンがある。それは飛行機が墜落するシーンである。ミイラの棺を載せた輸送機は、ミイラの強力な霊力によって英国上空で空中分解しはじめ、墜落してゆく。トム・クルーズは、女性に唯一のパラシュートをあたえて脱出させたあと、みずから墜落する輸送機と運命をともにする。輸送機の壊れたドア付近に身を寄せるトム・クルーズと、画面に迫ってくる地表。飛行機に乗っていて墜落を経験した場合は、まさにあんなふうだろうと思い、恐怖に身がすくんだ。


そして暗転。死んだと思われるトム・クルーズは、死体安置所で、よみがえる。死んでも死なないのだ。もちろん多くの死人がでる映画だが、トム・クルーズの相棒も死んでも幽霊となってつねにつきまとっている。怖くない。やっぱり安っぽいか。


posted by ohashi at 14:34| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年08月01日

『メアリと魔女の花』

映画館で場内が暗くなって予告編がはじまってもしゃべっているカップルがいると心配になる。以前、テレビで芸能人が映画館で予告編の時、友達としゃべっていたら注意されたことがあるが、予告編のときはしゃべってかまわないのではと話していた。まあ本編のときにしゃべらなければ問題ないのだが、しかし暗くなって予告編がはじまってもしゃべっている人間は、本編がはじまってもしゃべっているのではないかと心配になる。私がみた映画館でも予告編がはじまってもしゃべっているカップルがいて、嫌な感じがした。本編では黙っていたのだから問題はないのだが。しかし、予告編のと、なにもしゃべらなくても黙っていていいのではないか。そのカップル、映画が終わったら、エンドクレジットのところでぼそぼそしゃべりはじめ、場内が明るくなってからは、いやあ、映画を見ると疲れる、眠くなると話している。結局、映画が好きじゃないし、映画を見てもわからないタイプの人間だろう。とっと帰れ、あるいは映画館なんかに来るなと言ってやりたい。


というのもその映画『メアリと魔女の花』で、夜の回で、私自身、睡眠不足で疲労気味だったので、寝てしまうのではと心配したが、映画がはじまってからは目が覚めた。よくこの映画で眠たくなるものだと、あきれた。


『メアリと魔女の花』――『借りぐらしのアリエッティ』と『思い出のマーニー』を監督した米林宏昌の監督作品であり、ジブリを退社したプロデューサー西村義明とともに立ち上げたスタジオ・ポノックの第一作品である。面白い長編アニメで、楽しませてもらったのだが、なにか物足らないものがある。いや、その逆かもしれないのだが、スタジオ・ジブリの過去の作品のモチーフの集大成、あるいは過去のモチーフのてんこ盛りのようなところがあり、まさにジブリが名前を変えて再出発したという趣がある。盛りだくさんで、物足りなさとは程遠いのだが、むしろそこのとが物足りなさとでもいえようか。


とにかくジブリの集大成になっている、あるいは集大成たることにこだわりすぎて、監督本来の持ち味のようなものが出ていないのではないという気がした。


『借りぐらしのアリエッティ』と『思い出のマーニー』は、いかにもというスタジオ・ジブリ系の絵柄のアニメだが、しかし、どこかに米林監督の、たとえば宮崎駿監督作品とは異なるテイストのようなものがあって、そこが面白かった。二作のうち、どちらもイギリスの児童文学作品を原作としているのだが、とりわけ『思い出のマーニー』は、泣けた。実際、観た人の多くが泣けたと思う。


だが、今回の『メアリと魔女の花』は、次から次へと繰り出されるジブリ的なモチーフに、なつかしさのような安心感を覚えるのだが、しかし物語そのものは、泣ける話ではない。いや、泣かなくてもいいのだが、たとえハッピーエンディングとはいえ、そこになにかぐっとくるようなものがない。面白いことはまちがいないが感銘を受けることはないといえばいいのか。


『借りぐらしのアリエッティ』と『思い出のマーニー』は、ジブリ作品の一部、ある意味、宮崎アニメとメトニミカルな関係をもっていて、ジブリ系アニメでも、独自路線を行くことも可能だったのが、今回は、ジブリ作品のメタファーであるために、ジブリの遺産をすべてもらさず受け継ごう、あるいは再生産しようという意気込みが強くて、ジブリのメタファーたらんとして、ジブリ作品の反復とリサイクルに終始したという感がある。


ジブリにいた頃は、ジブリ離れを目指していて、ジブリ亡きあと、今度はジブリに限りなく近づこうとしている。まあ、そういうものかもしれないが。

posted by ohashi at 22:49| 映画 | 更新情報をチェックする