モグラ戦
戦争映画のファンではないし、ましてや戦争についての専門家ではないが、第二次世界大戦中の日本軍陸軍の戦い方の表象について、日本映画では、敵との撃ちあい、白兵戦、敵の強力な火力の前に犠牲者の山、英雄的行為による勝利、恐怖のあまり硬直する新兵、敗北を予感して自決など、いろいろなイメージがあるが、日本人の観客として、地下通路をはりめぐらせ、砲撃があれば地下深くに待機して、砲撃が止んだら進出してくる歩兵に対し奇襲攻撃をかける。神出鬼没なその行動で、敵をさんざん悩ませる。というイメージは、日本の陸軍の戦闘イメージではない。
ところがアメリカ映画では、ずっとこうなのだ。クリント・イーストウッド監督の硫黄島の戦いを描く二部作でも、地下トンネルを巡らせて攻撃する神出鬼没の日本の守備隊が描かれた。『ハクソー・リッジ』の沖縄戦でも、日本の守備隊は地下トンネルを構築して、艦砲射撃によって損害を受けることがない。どちらも史実に基づいていると考えたい。実際のところ、朝鮮戦争における共産軍の攻撃は、逃げも隠れもせず、ただ横一列に並んで防御することもなく押し寄せるという恐怖の人海戦術だった。だから朝鮮半島と硫黄島や沖縄では戦い方が違うのだろう。
しかし気になることもある。メル・ギブソン主演の『ワンス・アンド・フォーエヴァー』We Were Soldiers(2002)は、1965年のヴェトナム戦争中のイア・ドラン渓谷の戦いを扱った映画で、北ヴェトナム軍との激戦(双方ともに多くの犠牲者を出した)、「ブロークン・アロー」命令を出すまでい追い詰められる米軍、また兵士たちの家族(米国の陸軍基地の周辺か基地内に居住し、同じ舞台の兵士たちの家族は皆隣人という状況)の生活、さらには戦闘終了後、戦場にメディアを招いて状況説明するというような、従来の戦争映画で描かれることのない部分も映像化されていて、変にリアルな映画だった。この映画、どういうわけかテレビで放送されることが多く、私もはじめて観たのは旅先のホテルのテレビ(地上波での放送)だったが、その後、自宅のテレビでもみることになった。
で、このメル・ギブソン主演の映画では、北ヴェトナム軍は、洞窟というか地下トンネルに身を潜め、まさに神出鬼没な動きと攻撃で米軍を苦しめる。これも史実にも基づいているのだろうか。どっちが先かわからないのだが、つまりヴェトコンや北ヴェトナム軍の地下トンネル・モグラ戦術が、時代錯誤的に過去に投影され、硫黄島とか沖縄戦でもモグラ戦術に光があたったのか。あるいはその逆で、硫黄島とか沖縄戦の日本軍の戦い方のイメージが、ヴェトナム戦争の映像化においてリサイクルが起こったのか。映画『野火』では日本軍は敗走しているだけだが、地下トンネルは作らなかったのだろうか。映画『太平洋の奇跡』ではサイパン島で洞窟らしきところに司令部があったようだが、そこで司令官南雲中将は玉砕する前に先に自決し、あとは全軍の兵士が平原で突撃する。地下道は存在しない。地下道はオリエンタリズム的表象ではないかとも思うのだが。
無謀な突撃
一方、攻める側だが、最初に砲撃をして敵の陣地を叩く、次に歩兵隊が突撃して敵陣を征圧するという、常套的な作戦だが、映画では、砲撃によって征圧ができず、歩兵同士の白兵戦となるのも常套的な展開である。ハクソー・リッジの場合、断崖絶壁の一部に縄梯子的なロープがすでに垂らしてある。先遣部隊が創ったのか。あるいは米軍を何度も撃退した日本軍が、なぜロープの梯子をすきをみて外さないのか、わからないことが多い。ただ絶壁を上った台地での戦闘で米軍は、地下にはりめぐらされた坑道に潜んで砲撃によるダメージを受けない日本軍の攻撃によって最終的に撤退を余儀なくされる。
しかも台地に米兵が残っているときに艦砲射撃を要求するほど、逼迫した状況に追い詰められる。これは、先ほど述べた映画『ワンス・アンド・フォーエヴァー』We Were Soldiers(2002)におけるブロークン・アローのシークエンスを思い起こさせる(なお「ブロークン・アロー」というのは核兵器の紛失事故を意味する暗号名ということらしいが(実際『ブロークン・アロー』という映画もあった)、この『ワンス……』では、窮地にたった軍隊が味方への被害を承知のうえで航空攻撃を要請するコール・サインとして使われていた。その用法でいいのかどうかは不明だが)。
いっぽう砲撃を避けて地下壕に逃れた日本軍が砲撃が止んで砲兵が進軍してくると、それを迎え撃つというシークエンスは、砲撃後の突撃のタイミングがずれて迎撃準備が完了した敵前に歩兵が突撃して甚大な被害を出したという第一次大戦中のガリポリの戦いをほうふつとさせる、というかメル・ギブソン主演の映画『誓い』(第一次大戦の激戦地であった「ガリポリ」が原題で、監督はオーストラリア出身のピーター・ウィアー)が、オーストラリア兵の悲劇を描くものだった。『ハクソー・リッジ』は、メル・ギブソン主演のふたつの映画『誓い』と『ワンス……』の遺伝子を受け継いでるとでもいえようか。そして突撃するオーストラリア軍の歩兵の悲劇は、オーストラリア出身の俳優をつかったアメリカ軍の突撃の映画へと変貌を遂げた。
オーストラリア映画
メル・ギブソン監督だからということではないが、オーストラリアの俳優は多い。
主人公のデズモンド・ドス/アンドリュー・ガーフィールドは『スパイダー・マン』や遠藤周作原作『沈黙』でおなじみだが、その父親トム・ドスはオーストラリア出身のヒューゴ・ウィーヴィングが演じている(年取りすぎていて、最初、誰だかわからなかった)。
ドス/ガーフィールドの恋人で妻となるのがオーストラリア出身のテレサ・パーマー。彼女は『ロミオとジュリエット』のゾンビ版である『ウォームボディ』でジュリエット役だったし、さらには『Xミッション』や『トリプル9』でも観ているはずだが、あまり覚えていない。また私が、一応、理由があって引き合いに出すことが多いオーストラリアの学園映画『明日君がいない』では彼女は主役だった。部隊長のグローヴァ―大尉は、オーストラリア出身の有名な俳優サム・ワージントンが演じている。このほか軍曹役ヴィンス・ヴォーンが出ている(私の印象に残っているのは『サムサッカー』と『ドッジボール』という、いまから10年以上も前の映画だが)。こうしてみると主要な俳優たちは、よく知られた中堅俳優といってよく、それがこの残酷で、ある意味、悲惨な戦争映画を、安心してみることができるエンターテインメント映画にしているといえようか。しかもメル・ギブソン監督の仲間かもしれないオーストラリア人俳優たちがアメリカ人を演じている。実際、一瞬、この軍隊はオーストラリア軍かアメリカ軍かと、ふとわからなくなるときがある。変人
主人公は「良心的兵役拒否者(Conscientious objector)」なのだが、その彼が陸軍に志願したというのは、誰もが思うことだが、なにを考えているのかということになる。衛生兵となって負傷した兵士を救うという志は立派なものかもしれないが、衛生兵も自己防衛用に武器を扱うこともあり、その訓練もあるのだろうから、それをわかっていて志願・入隊し、兵器は手に取らないというのは、ほんとうに迷惑な人間である。ただ実際に衛生兵は戦場では武器をもたないようだから、最初から衛生兵志願者として、その訓練を集中的に受ける、あるいは受けさせれば、周囲も迷惑しないと思うのだが、またほんとうにこんな頭のおかしな迷惑を者を除隊させることができなかった米国陸軍は、おかしいのではないかと思う。
おかしいといえば、主人公は「セヴンスデー・アドヴェンティスト教会」(SDA)の敬虔な信徒ということだが、このアドヴェンティストというのは、よくわからず、調べてみても、キリスト教系新興宗教で異端か正統かは意見が分かれているようだ。これもおかしな話である。私の見るところ、異端の新興宗教だろう(だからといって悪いとか、いけないということではない)。
とにかく主人公は頭がおかしい。良心的兵役拒否者であるのはいい。だったら、その反戦の姿勢をつらぬけばいいのに、志願して入隊するとは。もうめんどくさい行動をとるなといいたくなる。また軍隊で周囲に迷惑をかけるために入隊したのではないだろうが、結果的に、ものすごい迷惑をかけることになる。しかも異端的新興宗教の熱心な信者。
ああ、これが実話でなかったらいいと思う。というのも変な新興宗教の信者、その信仰のせいか、良心的兵役拒否者にもかかわらず、志願して、戦地へ。そこで衛生兵として多くの負傷兵を助けたというのが実話での因果関係であり、それはまた特殊例として強調されることになるが、しかし、これが実話に基づくものでなければ、特殊例としてではなく、通例として考えられていたかもしれない。
というのも、このように戦地において、なおざりされる人命を、任務の範囲を超えて助けることは、変人か狂人でなくてはなしえないとみなされるからだ。戦争という狂気のなかでは、人命救助という行為そのもの(味方を支援するという意味では戦闘行為だが、彼のように味方を重視するが場合によっては敵も助ける無差別な救命行為)が、正気ではなく狂気とみなされるからだ。あるいは新興宗教に洗脳された変人か狂信者とみなされるからだ。
だから戦争という狂気のなかで、戦争に反対する、あるいは戦争行為とは逆のことをする者は狂人か変人扱いされる。今回の場合、良心的兵役忌避者ながら陸軍に志願して、結果的に75人の負傷兵を後方に送って助けたという奇跡的な偉業によって勲章までもらったのだから、戦争に反対しているのか協力しているのか、よくわからない変人の行為、あるいは反対か協力かの区別がつかない脱構築状態なのだが、聖人か、いかがわしい偽善者なのか、いずれにしても、戦争という狂気のなかで、正気を保つものは、変人、狂人、いかがわしさという負のイメージを点けられる。
今回は、それが実話に基づくというせいで、変人イメージが押し付けられるというよりも、ただの変人でしかなかったが、これがフィクションなら、正気の人間に変人イメージが押し付けられるという、まさに狂気が前景化されていたはずである。
この映画、内向的で自己表現が下手な主人公――のちの妻になる女性、テレサ・パーマーというちょっときつめの女優が演じている彼女に対しては、ひるむどころか押しの強さ丸出しだったが――が、危機に対して、誰もがもちえなかった強さを示すという点で、『風と空と星の詩人』のユン・ドンジュンの、内向的で繊細で誤解もされやすいが弾圧に対してはひるむことなく抵抗するという人物像に通ずるものがある。
どちらも現実の人物は、映画のなかよりも、もっと表面的にも強い人ではなかったのかという感じもする。とまれ周囲から変人あつかい異物扱いされる人間が英雄になる。
善き人
他方で、この映画は、衛生兵と兵士、殺戮と救命という相反する行為、あるいは大量殺戮のなかの救命を描くことによって、最近、ずっと気になっている「善き人」あるいは「正義の人」のテーマと繋がっている。ホロコーストのなかでユダヤ人を助けたりかくまったりした「善き人」「正義の人」のテーマは、戦闘行為と変人の衛生兵という対比のなかで表象されているのではないかと思う。この点は、今後も考える余地がある。
その意味で衛生兵というのは興味深い存在である。クリント・イーストウッド監督の『父親たちの星条旗』でも、中心はライアン・フィリップ演ずる海軍の衛生兵であった。衛生兵からみた戦争。そして沸騰するお湯のなかの氷、あるいは氷山のなかの沸騰する湯のようなパラドクシカルな存在様態である衛生兵は、いまひとつの戦争の姿、戦争の裏面へといたるへの回路ではないだろうか。
結果的に『ハクソー・リッジ』の主人公は、勲章をもらい戦争における英雄として、戦争と国家に包摂されてしまう。人命救助が、国家による殺戮への批判と抵抗行為であったとしても、それも国家と権力の側に呑み込まれてしまった。
衛生兵ではないが、第一次世界大戦中に看護師として大陸に渡った英国人女性を、アリシア・ヴィキャンデル(主演)が演じた『戦場からのラブレター』(Testament of Youth2014日本では劇場公開されなかったがDVDは販売されている)の最後のシーンを思い出す。
(ちなみにアリシア・ヴィキャンデル、調べたら彼女がAIを演じた『エキス・マキナ』が山のように賞にノミネートされたり受賞しているが、あれはそこまでいい映画だったのだろうか)。また最近では斉藤由貴が不倫相手とみたという、マイケル・ファスベンダー、ヴィキャンデル主演の『光をくれた人』が話題になったが、芸能スキャンダルには詳しくても、映画など観たこともない芸能記者が、観ていないことを公言したうえで、ロマンス映画だと書いていたが、流産をして子供ができない灯台守の妻が、たまたま海から流れ着いたボートに乗っていた赤ん坊(その父親らしき人物は死亡)を自分の子供として育てるという内容の映画のどこがロマンス映画なのだろうか、まあ不倫をしない夫婦愛の映画だが)。
『戦場からのラブレター』の最後の場面。第一次大戦終戦直後、英国では、敵国だったドイツに対する憎悪が消えるどころか大きくなり、街の集会場では、家族を戦争で失った者たちが敵国を呪詛しているのだが、看護師として大陸に従軍し疲弊して帰国したヴィキャンデルも、思い余って登壇する。
自分は看護師として大陸にわたり戦争の悲惨さをつぶさにみてきた。戦争が始まった頃は、半年くらいで終わると思っていたし、自分の弟にも、男だったら戦争に行くべきだったと従軍することをすすめた。戦争に協力することが義務だったと思っていた。だが、弟は戦死した。戦場で死にかかっていたところを看護して回復した弟だったが、ふたたび戦場におもむけ戦死した。自分の幼馴染だった男も戦死した。結婚を約束したフィアンセだった男も戦死した。しかも、自分は志願して看護師となって、大陸にわたって、そこで負傷したドイツ兵の看護をまかされた――ここで、さぞかしドイツ兵をいじめて殺したんだろうな、という野次が入る――。ドイツ人も苦しんでいた。イギリス人も、皆、苦しんでいた。自分は、どうしてあのとき戦争に反対しなかったのか。どうしてもっと声を上げて戦争に反対しなかったのか……。
実話に基づく話である。彼女はヴェラ・ブリテンVera Britain(1893-1970)。オックスフォード大学に在学中に看護師となって、この従軍体験をもとにした小説Testamemt of Youth(1933)を出版しベストセラーになる。そして、以後、彼女は作家として、それ以上に、反戦運動家として死ぬまで活動する。「善き人」、真の英雄である。