2017年07月01日

『22年目の真実』

入江悠監督のことを『サイタマノラッパー』の、と紹介している場合が多いのだけれども、『サイタマノラッパー」を観たことがあるのだろうか。そもそもそれは『SR サイタマノラッパー』(2009)『SR サイタマノラッパー2 女子ラッパー傷だらけのライム』(2010)『SRサイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者』(2012)を指すのだけれども、そのすべてなのか、第一作だけなのか。そして全部を観たことがあるのだろうか。私は観ているのだれど、残念ながら『タマフルTHE MOVIE 〜暗黒街の黒い霧〜』(2012)とか『日々ロック』(2014)はみていない。演劇版と映画版どちらにしようかと思って、結果、どちらもみそびれているのが『太陽』――映画版のDVD2016年でているが。ただ『ジョーカー・ゲーム』(2015)は映画館でみて、ごくふつうに面白かった。ただ良質なエンターテインメント映画だが、監督ならではの特徴があるのだろうかといぶかった。


今回の『22年目の告白 -私が殺人犯です』(2017年)は、韓国映画のリメイクで、韓国映画のほうはみていないのだが、先が読めず、二転三転する物語がなんとも心地よく、飽きさせない。またなにより映像が攻めている。これはすくなくとも『ジョーカー・ゲーム』にはなかったようだ(『太陽』はみていないが)。


たとえばテレビの報道番組とかニュース番組の事件映像、新聞雑誌の写真的なスチール、そしてテレビ番組のスタジオ内部からの映像、またネット上の動画など、特殊な事件のメディア報道の、ある種のステレオタイプ的な映像を、スピーディにたたみかけてくる映像構成は、事件の本質が、メディアによってつくられるだけでなく、メディアを通しても構成されることの雄弁な例証となっている。


それらステレオタイプ的映像は、メディア映像の限界を示す風刺的な意図でもって示されるのではなく、むしろ事件を構成するメディア手法を前景化すること、その限界でなく、仕掛けの露呈であるように思われる。


この点、どれほど強調してもしすぎることはないのは、たとえばテレビ局のスタジオ収録の場面などは、ひと昔というか昭和の時代の映画では、どこかのビジネスホテルのロビーに机と照明器具と衝立と、それらしいテレビカメラを置いて、それらをむりやりテレビスタジオに見立てるという安っぽい映像が、ほんとうにふうつだったのだが、いまや21世紀も17年目の映画としては、日本テレビの協力もあって、夜の報道番組が、タイトルからスタジオ、ニュースキャスターの語り口や全体の演出にいたるまで、ほんとうにこういう番組があってもおかしくないというつくりかたをしているのだ。つまり映像が、何かの再現表象ではなく、すべてが本物なのである。本物そっくりということではない。こういう報道番組があったら、それを実際のテレビ番組として、コンテンツを現実の事件の報道として、放送できるということである。


つまり演技者がピアノを演奏しているふり、演技をしているのではなく、演技者が、実際にピアノを演奏している映画、高いところから飛び降りる場面で、俳優が、スタントマンを使ったり、CGで処理することなく、自分で飛び降りるというようなことを考えてもらっていい。そのような本物感が、テレビの報道番組の場面では漂っていた--とでもいえようか。


その意味で、この映画の映像の攻め方は、メディアによる報道をどこまでも正確に再現することによって、そこにさまざまなモードのメディア表現を実現させていた。そこがなんとも刺激的であった。知的にも、映像美的にも。


あと特筆すべきは、いまふれたテレビの報道番組のスタジオ撮影のところで、すべてが振出しに戻るように感じられるところがあることだ。


ドミノ倒しで、予定枚数の98%くらいドミノ版を立てたところで、アクシデントで、全部倒してしまったような、絶望感、虚脱感のようなものを、映画のなかで観る者が感ずるところがある。すべてが振出しにもどり、またゼロから一から始めるしかないという、なんともいえぬ絶望感。まさにここまでの虚無感をかもしだす映画というのは、そんなにない。


だが絶望のなかに希望がある。もしこれが現実の出来事なら、すべてを投げ出したくなるし、完璧にやる気をなくすことだろう。しかしこれは、あくまでも現実の話である。映画の場合、話はちがう。たとえ時計で確認しなくても、この段階で、いよいよ最後の部分に物語が入ろうとするとき、つまり佳境に入るわけだから、いくら、すべてが振出しに戻ってしまうように見えたとしても、それは見せかけであって、続篇とか後篇でも造る予定なら、それでもいいのだろうが、一話完結では、それはないだろう。となると、一見、振出しに戻るようにみえても、実は、もう終結部に入っている。つまり解決への糸口に、たとえそんなふうにみえなくともたどり着いているということである。


絶望する必要はない。絶望感と戯れながらも、また明確な理由はつかめなくても、ここで希望をいだいていのだとわかる。解決編に、もう入っているのだ。それがどんな解決とはわからなくても。あとはサプライズ・エンディングの到来を目撃すればいいという感覚。


絶望と、絶望から生まれる希望。こんな感覚を味会わせてくれるのもこの映画の魅力のひとつだと思う。

posted by ohashi at 19:36| 映画 | 更新情報をチェックする