2017年07月31日

常時点灯

私の住んでいる団地では一階にある郵便物用のボックス・ロッカーのあるスペースの照明の節電化がおこなわれていた。3.11の震災以降。つまり電力が足りないので、節電のため、こまめに照明を点けたり消したりしましょうということになった。そのため昼も夜も、郵便ボックスのコーナーを利用するときには、自分で照明スイッチを点灯し、それ以外のときにはこまめに消灯するということになった。そうなってから56年たったので、それ以前つまり3.11以前はどうだったのか、記憶になくなっている。


基本的に昼間、とりわけ冬とか夏は、電力消費が多いので、郵便物コーナーは消灯する。利用するときはそのつど点灯する。夜も原則として消灯しておき、利用するときはそのつど点灯することになった。しかし夜、消灯するのは防犯上好ましくないと私は考えてきた。


3.11直後、節電が叫ばれていた頃、ニュース番組で、バカなコメンテイターが、夜、これまでのように街路灯などの照明をつけておくこと節電のためなくなったことに触れて。街全体が薄暗くなったものの、ヨーロッパの街のように、雰囲気のある街にかわったということでもあって、良いじゃないですかと語っていた。バカと言ってやりたかった。なぜならヨーロッパの街は、夜は薄暗い、だから犯罪も多い。それに対して、夜、ヨーロッパよりもはるかに明るいに日本の都会は、そのぶん犯罪も少なく安全性で世界の他の都市を上回っている。


夜、煌々と照明が輝いているのは、電気の無駄遣いのイメージが強い。しかし電力は貯蓄できない。もし貯蓄できるのなら深夜、電気を使わないようにして、たまった電気を昼間使ってもいいだろう。それはむりなのだ。そのため深夜電力は、使う人が少ないので、無駄につくって消えていくだけです。だからつねに深夜電力の利用が叫ばれてきた。深夜には、防犯のためにも照明のために電気を使ったほうがいいのである。それに深夜料金は安い。


ところが団地には、昼間、郵便物コーナーの照明をつけたままにし、夜になると消すという本末転倒なことを平気でする輩がいた。私は帰宅するときが遅くなって、郵便コーナーの照明が消えていると、明かりを点けておいた。誰かにその行為を非難されることはなかったが、もし見とがめられて何か言われたら、防犯のためにも夜、照明をつけておくべきっだというのが自分の考えなのであり、信念に従って電気を点けている。ただし深夜電力が安いからといっても夜も節電しておいたほうがいいという考え方もある。だから、わたしが点灯した照明を、あなたが消しても、それについては見解の相違なので文句は言わないし、またあえてもう一度点灯はしない。しかし、私には信念があるので、気づいたら夜の照明は点灯すると答えるつもりだった。


で、どうなったのか。最近、照明がLED照明に変わった。そして常時点灯となった。点灯スイッチは押してはいけないことになった。こうして昼も夜も、郵便ボックス・コーナーは明るく輝き続けている。そのほうが防犯にいいしということで、文明の進歩(とはいえ LED のおかげだが)によって、問題はあっけなく解決したのであった。


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2017年07月28日

『ウィッチ』

『ウィッチ』原題The VVitch(2015)、正直いって、やや地味なのだけれども、あるいはシブいというべきか、しかし、次のようなネットにあった感想とは程遠い映画である。


あ~怖かった・・・

「貴方はまだ、本当に恐ろしい魔女映画を知らない!!」のキャッチコピーの映画ウィッチ。/M・ナイト・シャラマン監督の「スプリット」(5月公開)の主役だったアニヤ・テイラー=ジョイの主演(実際はこっちが先でそれが好評だったので、「スプリット」の主役に抜擢されたのだが・・・)で、しかも、サンダンス映画祭で監督賞も受賞しているのに、地味な公開です【地味な公開というのは関東では新宿武蔵野館一館のみの上映だから】。/ で、感想ですが、とにかく怖かったです。確かに、魔女狩りとかでなく、今作のように魔女伝説のみに特化した作品は、数ある魔女映画で初めてではないでしょうか?【「魔女伝説のみに特化した作品」というのは意味不明。】ということになるのですが、/しかも、すっかりワンパターン化しているこの手のホラーを冴える演出で低予算ながら、一級のホラー映画になっていました。/一応、「ダーク・ファンタジー・ホラー」と謳って言いますが、「ファンタジー」が付くかは、観た人次第だと思います。(私にはダーク・ホラーでした!)【ファンタジーの要素もある。現実に起こっていることなのか、妄想なのかわからない部分もあるので】/やはり、主演のアニヤは今後、注目したい女優の一人です。また、監督、脚本のロバート・エガース(次回作は吸血鬼ノスフェラトゥのリメイクに抜擢らしい)にも注目したいです!/これから今夏のハリウッド大作が目白押しで公開されますが、もしかすると、一番の掘出し物かもしれません!【ステマか?】


「あ~怖かった」とか「とにかく怖い」というのは、まったくあてはまらない。不気味な、ある意味、陰惨な部分もある映画だけれども、「とにかく怖い」などという映画ではないので、どうか、こういうステマもどきの愚劣な評言には惑わされないように。


ただ上記のコメントにあるようにナイトシャマラン監督の『スプリット』に重要な役で出演していて印象深かったアニヤ・テイラー=ジョイ。彼女が主演の『ウィッチ』が日本で公開されるということで、新宿武蔵野館まで足を運んだのだが、しかし、アニヤ・テイラー=ジョイは、すでにけっこう活躍していて、それはSF映画で、『エクスマキナ』の対抗馬でもあった(日本未公開、DVD化されている)『モーガン』に出演していることからも明らかである。『スプリット』は、影のある、めんどくさい少女の役だったが、魔女役は似合っていると思ったが、『ウィッチ』のほうが先に制作され、また、こちらのほうが彼女の美しさが目立つ。


原題はThe VVitch: A New-England FolktaleWではなくVをつなげているのは、当時、Wの文字がなく、二連のVWを表していたから。ついでにいえば、シェイクスピアの時代、アルファベットはJWUがなかった(それぞれiとVVVで代用していた)。そのためアルファベットは23文字である。もっと正確にいうと、シェイクスピア時代は過渡期で、たとえばWVVとが並行して使われていた)。


ということはこの映画は、歴史的再現性にこだわっているということだ。それは時代考証に基づく、風俗、ファッション、生活習慣などの徹底した再現だけでなく、当時の人間の心理や思考、その情動や恐怖までもヴィジュアル化し示そうとしているのである。そこがなんともすばらしい。


言語的にも1630年の英語を、そうまさにシェイクスピア時代の英語を使っている。だから最初、なにを言っているのかよくわからなかったところもある。方言なのかなとも思ったのだが、まさに当時の英語を使っているのである。たとえばこんなふうに(シェイクスピアの英語じゃい)


Thomasin: Black Phillip, I conjure thee to speak to me. Speak as thou dost speak to Jonas and Mercy. Dost thou understand my English tongue? Answer me.

Black Phillip: What dost thou want?

Thomasin: What canst thou give?

Black Phillip: Wouldst thou like the taste of butter? A pretty dress? Wouldst thou like to live deliciously?

Thomasin: Yes.

Black Phillip: Wouldst thou like to see the world?

Thomasin: What will you from me?

Black Phillip: Dost thou see a book before thee?... Remove thy shift.

Thomasin: I cannot write my name.

Black Phillip: I will guide thy hand


もちろん、こだわりすぎて意味がなくなっているところもある。映画のなかで魔女がサバトで唱える呪文は、なんと「エノク語」なのだ。とはいえ、エノク語を実際に観たり聞いたりしたことはないので、本物とか贋物とかは何も言えないのだが、ただ、いままで聞いたこともない言語なので、新鮮味というよりも不気味さMAXでもあるのだが。


ちなみにエノク語については、Wikipediaから定義の一部を引用するので参考までに。


エノク語(エノクご)あるいはエノキアン(英: Enochian)は、16世紀後半ジョン・ディーと霊視者エドワード・ケリーの日誌に記録されている天使の言語とされるものである。彼らはそれは天使により啓示されたものだと主張していたが、現代の一部の魔術研究者は人工言語と見なしている。


この言語を「エノク語」というのは現代の慣例によるもので、ディー自身の著述には見えない。彼はこの言語を「天使語」、「天上の言葉」、「天使の言語」、「神-キリストの最初の言語」、「神聖言語」と呼んでいた。彼はこの言語に使われるアルファベットを「アダムの」(Adamical) と呼ぶときもあったが、それは(ディーの天使によれば)エデンの園でアダムが全ての物に名前をつけるときに用いられたからである。ディーはなおかつ(彼とケリー以前は)父祖エノクがこの言語を知っていた最後の人間だったとした。そのため、後世の研究者たちはこの言語およびディーの魔術理論全体を「エノク的」(Enochian) と呼称するようになった。


あと、山羊のことをブラック・フィリップといって双子がからかっているところがあるのだが、この「フィリップ」というのは、どこから来ているのか謎であるが、まあ時代錯誤なのだが、「フィリップ王戦争」と関係があるのかもしれない。


Wikipediaによると


フィリップ王戦争(King Philip's War)とは、16756月から翌年8月まで、ニューイングランドで白人入植者とインディアン諸部族との間で起きたインディアン戦争(民族浄化)。フィリップ王とはワンパノアグ族の酋長メタコメット(メタコム)の事で、白人入植者は彼をそう呼んでいた。


なにか歴史的共鳴といったものを映画は追及しているように思われる。


では映画の物語の中身は次のようになる。


1630年、ニューイングランド。敬虔なキリスト教徒のウィリアムとキャサリンの夫婦と5人の子供たちは敬虔なキリスト教にのっとった生活を送るため、村はずれにある森の近くの荒地に引っ越してきた。

しかしある日、5人の子供の1人赤ん坊のサムが何者かに連れ去られ、行方不明となってしまう。家族が悲しみに沈む中、ウィリアムは美しく成長した娘のトマシンが魔女ではないかとの疑いを抱く。それをきっかけにやがて一家全員が疑心暗鬼になり、次第に狂気の淵に沈んでいく。


「敬虔なキリスト教にのっとった生活を送るため、村はずれにある森の近くの荒地に引っ越してきた。」というのは映画の内容をゆがめている。自発的に一家がここにやってきたようにとれるからだ。実際には共同体から追放されて、村はずれどころか、村の姿もみえない荒野、それも森林地帯の入り口にあたる荒野で細々と暮らす、まさにエグザイル生活なのだから。


また現実なのか妄想なのかと述べたが、それに関しては、この映画は、知的な示唆をおこなっている。麦角菌の存在である。この映画のなかの一家は、不毛の地で農作物を栽培しても、作物が枯れてしまって育たなくて、窮地に陥るのだが、そのときトウモロコシだか麦だかわからないが、黒く枯れている。枯れて、その一部が黒くなっているのだ。そう、これって麦角菌じゃないのか。


以前、荒木正純氏にもらった翻訳(共訳)があって、それがメアリー・ギルバーン・マトシアン『食物中毒と集団幻想』(パピルス2004)という驚異的な本。AMAZONにおける記述をそのまま引用すると、


中世ヨーロッパに猛威をふるった黒死病と魔女裁判。フランス革命時に地方で多発した恐慌。一八世紀後半以降の人口の急増。一六八九年、マサチューセッツ州セイラムで起こったアメリカ史上最悪の魔女裁判―こうした無関係にみえる歴史上の現象の背後には、知られざる麦角中毒症という原因があった。穀物、とくにライ麦に付着するカビの毒素(マイコトキシン)が、人間の免疫機能を損ない、中枢神経に作用してLSDと同様の効果を及ぼし、広範な集団幻覚を引き起こした。


Wikipediaによると、

麦角菌(バッカクキン)とは、バッカクキン科バッカクキン属 (Claviceps) に属する子嚢菌の総称である。いくつかのイネ科植物(重要な穀物や牧草を含む)およびカヤツリグサ科植物の穂に寄生する【日本の稲には麦角菌は寄生しない――引用者】。

特によく知られる種がC. purpureaで、ライ麦をはじめ小麦、大麦、エンバクなど多くの穀物に寄生する。本種が作る菌核は黒い角状(あるいは爪状で、悪魔の爪などとも形容される)なので、麦角(ばっかく)と呼ばれるようになった。

麦角の中に含まれる麦角アルカロイドと総称される物質は様々な毒性を示し、麦角中毒と呼ばれる食中毒症状をヨーロッパなどで歴史上しばしば引き起こしてきた。麦角菌には約50種が知られ、世界的に分布するが特に熱帯・亜熱帯に種類が多い。現在では技術の進歩により製粉段階で麦角菌の除去が行われている。


映画における枯れた穀物が示す禍々しくも黒く変色した部分。あれ、あれこそが麦角菌のありかを強烈に示唆しているのだ。もちろん魔女狩り、魔女裁判、魔女幻想、すべてが麦角菌のせいではないだろう。しかし映画は、よく指摘されるこの可能性についても、おそろかせにせず、人物たちをとりまく環境の重要な要素それも妄想の引き金になる要素として使っている。となると外的環境にある麦角菌。それによって生ずる魔女幻想、妄想。そのふたつを境界をもうけずに映像化しているため、映画は、外的環境と内的妄想の融合体となる。ドゥルーズの言葉を使えば、運動イメージではなく、時間イメージ。客観でもあるし主観でもあるという分離できない二重性。まさにこの映画は、映画の王道をいくといってもいい。


もちろん1630年のニューイングランドにおける精神風土も映画は精緻に再現している。罪にまみれた人間の救済と断罪を中軸とする清教徒主義がもたらす、強烈な自己否定、自己抑圧と禁欲的生活。しかも過剰なまでの清浄を求めるがゆえに、寛容さを失い、ささいなことでも重罪となるがゆえにかえって罪を認めることができなくなって、そこに自己欺瞞と隠蔽体質が生まれ、敬虔な善良な人間も一皮むけばただの偽善者となる。懺悔と自己処罰の日常。みずからも他人からも断罪されことにおびえる日々。まさにこのような潤いも喜びもない暗鬱で陰惨な日々においては、悪あるいは悪魔に誘惑されること、それはまた押さえつけていた欲望を解放することでもあるのだが、これこそが真の解放となる。救いは、もはや神ではなく悪魔がもたらすのであり、人間性の解放と堕落とが融合する。女性たちは、魔女となることで、初めて幸福になる。あるいは春のめざめを経験する若い男女が、みずからの欲望に忠実であるとき、その精神状態を、悪魔の誘惑、魔女の誘惑というかたちで自己表象することになる。


理屈はわかる。問題は、それを映像としてどう伝えるかである。歴史的再現性を重視する際、外的な現実のみならず、精神史あるいは心性の歴史的再現性をも重視するこの映画は、現代の生活や文化のアレゴリカルな暗示へと向かう可能性を残しつつも、ここでは、力点を、歴史的に再現された最終的には心的現実といえるものへと観客を導いていくことに置いている。魔女幻想や悪魔妄想におびえつつ、同時にそれらを再生産しつづけた当時の人間の精神構造の表象を通して、最終的に私たちの前に示されるのは、自然と人間との関係である。


この映画のなかでは、森のなかに悪魔や魔女が住んでいるかのようにみえる。しかし、彼らが先住民族のように、あるいは飛来した宇宙人のように、森のなかで隔絶され独自の生活をいとなみ、ときおり周辺住民を誘惑したり、子供を誘惑して、殺しているとはにわかに信じがたい。森に棲む宇宙人のような悪魔は、この一家が、ひいては村人たちが、みずからの恐怖を森に投影したものにすぎないだろう。


ホーソンの有名な短編‘Young Goodman Brown’では平穏で善良な生活を送っている市民あるいは村人たちが、夜になると、本来の姿、悪魔や魔女となって、森のなかでサバトを繰り広げていたという設定になっている。悪魔や魔女は、森の住人ではないのである。だが、この映画では、また当時の人間の想像の風景のなかでは、森になにか魔物がいるのである。そしてこの魔物は、いっぽうで、人間の心の闇にひそむ無意識の欲望であるとともに、人間を武装解除し無防備にして、人間に、その本来の姿をさらすように促す恐怖の存在、自然が人間に、自然に戻るように差し向ける恐怖の存在でもある。この時代、まだ人間は、自然と対峙していた。自然にむきあうことによって、また自然と向き合うことの恐怖のなかで、人間性のありようを模索していた。そんなふうにこの映画の映像美は観客に訴えているように思われる。


この一家は、自然と文明とのインターフェイスでもある。ウサギの姿を借りた悪魔、山羊の姿の悪魔あるいはブラック・フィリップ。だが、こうした動物たちは、恐怖の存在ではなく、自然と人間とのインターッフェイスとして、両者の深い交流の可能性の中心でもある。だが、人間は、その対話の誘惑を、恐怖としか受け入れることができなかったともとれる。


そのほか、いろいろな可能性が、脳裏に去来しているのだが、それはまあ別の機会に語ることができるのかもしれない。


ひとつだけ、ささいな感想を。この映画を単館上映している新宿武蔵野館。臭い。以前、入口近くの座席でみることがあったのだが、なにか臭いがするので、入口から離れた座席でみることようになったのだが、臭い。最初はトイレに近いので、臭うのかと思ったが、トイレの臭いではない。なにか魚系、それも焼き魚のような変な臭いが漂っているのだ。今日もそれを強く感じた。下の階の居酒屋かなにかが出す煙が映画館のなかに入ってきているのではないだろうか。ロビーも何となく臭うのである。しかし、これは私の体臭とか加齢臭ではない(その種の臭いではないのだ)。またエレベーター・ホールとか階段は、全く何の臭いもない。どうかこれが悪魔の臭いではないことを。また換気などして臭い対策が講じられることを祈るばかりである。

posted by ohashi at 04:04| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年07月23日

『ボン・ボヤージュ』


『ボン・ボヤージュ 家族旅行は大暴走』。原題は、A fond、フランス語はよくわからないが英語ではto the bottom。ただし関与九九としてほかに意味があるのだろう。


ネットではこんな紹介記事が


「世界の果てまでヒャッハー!」のニコラ・ブナム監督が、ハプニングに見舞われた家族旅行を取り上げたコメディー。コックス一家は自慢の新車でバカンスに出かけるが、ブレーキが故障して車は高速道路を暴走。絶体絶命の危機の中、家族の秘密も明かされ……。個性豊かな家族たちが、次々に起こる思わぬ事態にパニックに陥る。


あるいは「ハートフルコメディ」と紹介しているものもあるが、基本的にハートフルではない。


そもそも登場人物、とりわけこの家族は、バカばっかりで、それだけなら愛されキャラからもしれないが、バカで、嫌なやつばっかりで、実は、最初の方は、このバカの癖が強くて、ちょっと引いてしまうところもある。


いや、そもそもこの喜劇、かなり毒があって、痛い笑いも多い。やはり笑いには毒がないと面白くない。ただこの映画の場合、毒と言っても特定の対象に対する風刺ではないのだが。


また突き放してみるしかない、この家族を、最後には観客は愛するようになるのかというと、それも微妙で、極限状態にある家族を、最終的にどう助けるのかということで緊張するために、この家族の癖の強さというか、あくどさを忘れてしまうのだが、しかし、しょうもない家族であるように思われる。


夫婦と子供たちは、この事件をきっかけに絆を強めたようだが、諸悪の根源たる、おじいちゃんは、いったいどうなのか。そもそも、このパパはおじいちゃんの息子なのかどうか、それは解決していないぞ。


あとボットクス注射ネタは、ヨーロッパでは好まれているようで(イギリスではよくある)、ここでもかなりきついかたちで、差別的かどうかぎりぎりのところというよりも、差別的に使われているのは問題だろう。


またフランスのヘリコプター、遠くからの撮影で、機体ははっきりわからなかったが東京消防庁でもつかっているASなんとかという大型の機種でしょう。フランスの大型ヘリコプター、かっこいいですよね。ああいう使い方で救助できるのは、危険だけれども、コロンブスの卵だった。

posted by ohashi at 12:37| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年07月16日

監視社会と共謀罪

共謀罪の成立によって、いよいよ日本も世界に冠たる監視社会になったといえるのだが、監視社会は、個人のプライヴァシ―が侵害されると批判すると、やましいところがなければ監視されてもいいのではないかと反論される。また、そもそも監視社会といっても、自分には関係ない(自分にやましいところはないから)という能天気な人間(能天気な若者と書こうとして、愚かさに年齢の壁はないと悟ったのでやめた)は多い。


本日の報道番組で、スノーデンも日本の共謀罪では国民のプライヴァシ―は守られないこと、そして潔白な人なら関係ないということはナチスもプロパガンダで広めていたとインタヴューに答え、そして警鐘を鳴らしていた。


関係ない(潔白だから)というのは、国民のプライヴァシーがすべて開示されたとしても、犯罪者は困るだろうが、そうでない国民にとっては、なんら損失はないとしいう考え方であって、この場合、国民のプライヴァシーがすべて公になることは、よいことで、また悪い人でなければ、何ら問題ないということが前提となっている。このとき忘れられているのは、まさに盲点となっているのは、監視者は誰が監視するのかということである。


監視社会では監視者は、その立ち位置から、たんに透明で中立的存在であるだけでなく、超越的な存在とみなされ、そこからなんの根拠もなく善であるとみなされるのである。犯罪を取り締まる警察は、自然と、公正中立で不可侵な正義の体現者と想定されてしまう。これはポジションの問題であって、実際のところ、警察のなかにも不正はあるだろう。そしてそれが警察や司法組織だけでなく、政権全体となると、たとえば現在の日本の政権のようになること(腐敗と悪の巣窟みたいになることは)は、権力は腐敗する原則からすれば、当然のこととなる。そしてもしこの監視者を監視するシステムが完備しない限り、監視者側になれば、あとはやりたいほうだいである。監視者のポジションは、誰もみることができない完全な盲点となる。


もし監視社会が、すべてをすみずみまでまんべんなく監視する体制であるなら、その分、監視者だけが、この監視ネットワークの埒外に置かれることになる。完璧な盲点である。つまり監視システムは、誰にも邪魔されない、つまりやましさマックスの独裁権力を誕生させることになる。


共謀罪も同じである。改憲勢力というのは、日本の政体を根底から覆そうと、まさに共謀している勢力で、自民党と、その協力政党、さらには極右団体など、どうみても共謀罪で逮捕されても当然の、ならず者集団、国家転覆をはかるテロリストといてもいいだろう。だが、共謀罪は、彼らに適用されない。彼らを共謀罪で裁くことができない。とりわけ既存の政党関係者は完全に共謀罪の埒外にある。そしてまた共謀罪は、権力者の独裁(と腐敗)に対しては適用されないのである。共謀罪をつくった共謀者たちは、この共謀罪から免れているのである。


そして監視社会は、絶対にプライヴァシーを開かされることのない犯罪者、監視者という犯罪者を野放しにするだけでなく、このやましさマックスの犯罪者に絶対的権力を与えるのである。


おそらくこれがファシズムというのものだろう。

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2017年07月15日

『ヒトラーへの285通の手紙』

フランス人監督が、脚本も書き、ドイツ人の原作を、英国の俳優を使って映画化した作品というとパトリス・ルコントが、シュテファン・ツヴァイクの原作をもとに、脚本を書き、レベッカ・ホール、リチャード・マッデン、アラン・リックマンといった英国人俳優を使って作った『暮れ逢い』(2014)がある。


舞台はドイツだが、台詞は全編英語だった。フランス人監督、英国人俳優、ドイツ人の原作、舞台はドイツ、台詞は英語という、仏独英参加国をまたがる映画だった。


これを思い出しのは、今回の『ヒトラーへの285通のハガキ』も同じだからだ。監督は、脚本も書いている(共同執筆)、ヴァンサン・ペレーズ! 俳優でもあるペレーズが、すでに映画監督でもあることを知らなかった。原作はドイツ人作家ハンス・ファラダ『ベルリンに一人死す』。原作は1947年刊行。2014年にみすず書房のより翻訳刊行。これが新訳か初訳なのわからない。この時期、つまり2014年頃、ハンス・ファラダの作品を見直す機運が高まったのだろうか。


俳優は英国人。エマ・トンプソン、ブレンダン・グリアソン、ダニエル・ブリュール。舞台はドイツのベルリン。台詞は全編英語。映画の中で、本や新聞はドイツ語で印刷されているが、台詞は英語である。なんとまあ国際的な。ただそれにしてもヴァンサン・ペレーズが映画も撮っていたことは知らなった。しかも前作『秘密』は東野圭吾原作で、日本でも映画化、連続テレビドラマ化された『秘密』のフランス版だったとは!


『ヒトラーへの……』は、全編英語の映画なので映画のタイトルがAlone in Berlinでもおかしくないのだが、これはイギリス版英訳タイトルで、アメリカ版はEveryman Dies Alone、そして日本語訳もハンス・ファラダ『ベルリンに一人死す』(みすず書房2014)となっている。しかしAloneは内容から察するに、夫婦ふたりだけになったということで、ふたりで孤独な戦いをしたということになって、なぜベルリンで一人死すなのだろうか。そこのところはよくわからない。


しかし、いっぽうで息子を失った夫婦が、悲しみと怒りによって、政権と体制に抗議するささやかで孤独な戦いを展開し、たとえ傷心と絶望を癒すことができなくても、消えそうになっていた夫婦の絆を強めていくという、ある意味、これは、強烈な愛の物語である。またそれにあわせて見事なまでの映像表現(とこの種の映画にありがちな抒情的な音楽)を堪能できるのだが、同時に、その背景となっている、ファシズム体制下での日常が今の日本(あるいは全世界的現象か)とシンクロしすぎて絶句するところがある。


原作がもとにした事実はOtto HempalElize Hempal夫妻のことで、妻Elizeの弟の戦死がもとで、夫妻はナチス政権を批判するハガキ・カードを285通書き、ベルリンのいろいろな場所(郵便受けとか建物の階段)に置いたという事件。原作・映画ではオットーとアンナ・クワンゲルと名前を変え、戦死したのは息子に変えた。配布したカードは285通に及ぶのだが、そのほとんどが発見したベルリン市民によって当局に届けられたので(未届けは映画によれば18通)、影響力はなかったかもしれないが、この犯罪によって、夫妻は死刑になった(斬首刑)。


ほとんど流通しなかったハガキ・カードを秘密裏に配布したことで、斬首刑。つまりこれは政治犯罪でもなくて、ファシズム下では、反逆罪という扱いを受けたのだろう。


唯一の救いは、斬首刑だったこと。首をはねるのは残酷に思われるのだが、絞首刑と違って苦しむことがない。実際、シェイクスピアの時代には、庶民は絞首刑だったが、王族、貴族は斬首刑だった。斬首刑のほうが楽に死ねたからである。そして当時、ナチス政権を批判した市民たちは、処刑されて食肉のように吊るされたのだから、それに比べれば、幸せな処刑法でもあった。もっとも首か首なし死体を辱めるようなことを親衛隊のクズどもはしたかもしれないのだが。


実はこのヘンペル夫妻(映画ではクワンゲル夫妻)の事件は、すでに映画化あるいはテレビ・ドラマ化されているらしく、今回の映画化はリメイクというかたちになるようだが、歴史的再現度とその映像美、エマ・トンプソンとブレンダン・グリーソンという英国の俳優たちの内面の動揺を感じさせながらも抑えた演技によって、見ごたえのある映画となっている。そして、すでに述べたように、この映画は戦場ではなく銃後の市民生活の現実というかその裏面を暗示的ながらも明確に提示しているのだが、そこで描かれる日常が、今の日本のそれとあまりにも似ていることに慄然とする。


ナチスの一党独裁、あるいなナチス一教の政治。ファシズム体制における建前だけの理想社会と、腐敗しきった権力者たち。戦争状態という口実のもとに統制を強め、暴力支配を蔓延させる。親衛隊とならず者とが市民生活を圧迫する。警察国家と監視体制。ファシストどもは、当然、共謀罪によって、恣意的に警察権権力を行使でき、恐怖政治を常態化させる。反対する者に対しては、これを徹底的に弾圧する。警察による監視体制を活用し、印象操作をおこない、相手が反発したら、権力者を悪者にする印象操作をおこなっていると何度もぶちぎれる。それでも批判がやまなければ、共謀罪によって一掃する。しかも権力者は抑圧し弾圧することに喜びを見出す犯罪者サディストであり、権力者は権力を濫用して身内に友人に利益誘導をも辞さず、国民に忍耐と自制を強いる一方で自らは特権を享受して安逸な生活をいとなむ。みずからに甘く腐敗しているのに、国民に対しては、清浄と勤勉と愛国と清廉さを求めるという権力者の病理……


さらにいうなら暴力的権力体制を前にして、ひたすら忠誠と従順さを強いられる市民生活の悲惨さも理解できる――たとえカードの内容に賛同しても、それを表明したら殺されるがゆえに、当局にカードを届け、あとは沈黙を守るしかない市民について、理解できるが、同時に、そしてこれが重要あなことだが、だからこそ、たとえどんなにささやかななものでも、どんなに賛同者も仲間もないまま孤独を強いられていても、みずからの命を、身内を危険にさらすことになっても、体制を批判せずにはいられない市民が存在すること、その動機と行動もまた理解できることである。


若い人たちにとって体制を批判することは将来にかかわる危険なことである。むしろ老人こそが、たとえ老後の不安のなかで行動できないことが多いとはいえ、若者のよりも失う未来がないぶん堂々と体制批判ができるのではないだろうか。老人は、仏(ほとけ)になっている場合ではない。怒れる鬼神となって、ファシストの跳梁跋扈を許してはならない。


いまファシストたちが日本を破壊しようとしている、いまこの時に。

posted by ohashi at 22:36| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年07月12日

中嶋しゅう氏追悼

中嶋しゅう氏は。今月76日に東京芸術劇場シアター・ウェストでの公演『アザー・デザート・シティーズ』で、舞台から客席に転落し、病院に搬送されたが同日22時頃に亡くなられたとのこと。最初は舞台からの転落事故で死亡かと思われていたが、舞台上で急性大動脈解離を発症したことが死因だったようだ。


翻訳劇をよく見ている私としては、昨年は、中嶋しゅう氏の舞台を、『あわれ彼女は娼婦』(新国立劇場中劇場)『いまここにある武器』(シアター風姿花伝)『ヘンリー四世』(新国立劇場中劇場)とみてきただけに、その死が悔やまれる。実は勘違いして今年のKAATの『春の目覚め』にも出演されていたと思い込んでいたのだが、出演していたのは大鷹明良氏であった。ただ二人は似てはいないのだが、風貌、性格付けなど同じタイプといえなくもなくて、翻訳劇を見に行けば、なんとなく中嶋しゅう氏に会っているような錯覚を覚えた。それほどまでに中嶋しゅう氏は、出演していると、その劇作品が一挙に緊迫感と立体感を増すような、珠玉の俳優だったし、同時に、どんなにつまらない作品でも中嶋氏の存在が、その作品を重厚な傑作にするようにも思われたのだ。7月は忙しすぎて、『アザー・デザート・シティ』を観劇予定からはずしていたのだが、また初日に行くことはめったにないのだが、目撃していたら、ショックが大きすぎて、こちらもどうかなってしまっていたかもしれない。本日葬儀がいとなまれたとのこと。謹んで哀悼の意を表したい。


posted by ohashi at 22:48| コメント | 更新情報をチェックする

2017年07月10日

『ジョン・ウィック 第2章』

前回、『ジョン・ウィック』はどんな内容だったか、必死で思い出すことにした。詳しいあらすじ紹介を読みながら。とはいえ細部は憶えていない。前回、鉛筆一本で人を殺していたかどうか、思い出せない――まあ、割りばしか箸一本で人を殺すというのは、北野監督の『アウトレイジ』がそうだが、あの映画では鮮明に覚えているのに。あと「また、会おう」というのがキーワードみたいなのだが、前回、最後がどうなったのかよく覚えていない。ロシア。マフィアのボスをロシアまで行って殺してきたと覚えていたのだが、どうもあれは、『イコライザー』の最後と勘違いしていたようだ。では、『ジョン・ウィック』はどうだったのか。たしか犬用の薬品を自分に注射して一命をとりとめ、殺処分か実験用の犬を連れて帰ったことまでは思い出した。ロシアのマフィアのボスは、殺したのだったか?


ネット上には


この映画の見どころはキアヌさんのアクションと演出効果の芸術性だと思います。

 1作目でのクラブの銃撃戦で青いライト に光る壁にバタバタと人が倒れて血が飛び散るシルエットはもはやアートのようでしたし、今作は舞台がローマなので、イタリアの彫刻だったり、噴水だったり、景色の背景がすでに芸術なのでそれをバックにした人々の様々なやりとりは見ものですよ!


というようなコメントがあって、このコメントの主は、プロかと思われるほど鋭いのだが、あるいは監督の芸術性重視とか、先行作品のオマージュということは定着した評価でもあるので、ひょっとしたらそんなに珍しくない反応なのかもしれないが、前作との共通性について、私から付け加えるのなら、肉体的に「痛い」という特徴がある。


キアヌ・リーヴズが無傷で活躍して人を殺しまくるというのではなくて、満身創痍状態で逃げ周り、殺しまくるというのは、まさに、そこもねらい目なのだろうが、けっこう観ていて痛い。肉体的な痛さが伝わってくる。もちろん、ある意味不死身の主人公なのだが、同時に、安定して歩くことすらできず、ずっと傷を負っていて、ほぼ全編、苦しくて顔をゆがめ体の一部を手で押さえ、体を傾け脚を引きずり出血しつつ、でも殺しまくるという、傷つくことで前景化される肉体も特徴のひとつであろう。


おそらくこれは、アクション映画に数多く出演していながら、いまや50歳代になったキアヌ・リーヴズ自身のアクションが、やはり切れを失ってしまうせいだろうか。群衆のなかで的確にボディーガードや刺客だけを殺すというのは、たとえば『コラテラル』におけるトム・クルーズが演ずる殺し屋の動きと比べれた場合、残念ながら、やや劣るといわざるをえない(ちなみに地下鉄の座席に座って殺し屋が死ぬというのは『コラテラル』が入っているので、『コラテラル』へのオマージュもあるのだろう)。そのためにも動きの鈍さを、本人が傷を負っているという設定によって隠しているのかもしれない。


しかし同時に、それはたんにいいわけではなく、主題的にも関係してくる。それは、本人、心身ともに、満身創痍状態であることの暗示でもある。そもそもロシア・マフィアから取り戻した車も、結局、壊れる寸前のボロボロ・ガタガタ状態なのだが、あの高級車の無残な姿こそ、主人公の心身の今が集約されているのだろう(たとえ取り戻したいのが車そのものではなく、中にあった亡き妻の思い出の手紙であったとしても)。


そしてそこに、殺しの掟が関係してくる。契約の束縛とか契約による保護を設定とするこの作品世界においては、まさに裏社会・闇社会においても、法と秩序が支配していることを示しているが、それゆえに殺し屋の掟が重要になる。『ブラッド・ファーザー』あるいは『ローガン』のところでも述べたが、またとりわけ『ローガン』における映画『シェーン』のいう一人でも人を殺したら永遠に殺人者の汚名がついてまわるという殺しの掟は、『ジョン・ウィック』では、これほど、殺しまくっていれば、なきに等しいだろう。しかし、契約とか掟の重視、そして、これほどの殺しの代償も支払わねばならないというのが、この作品世界とは別個かもしれないが、常識的な世界観のひとつでもあろう。しかも彼がなにかを守っているのならいいのだが、それもない。愛する妻は殺された、その遺品すら今回は消滅する以上、彼にとって守るのは犬一匹なのである。


彼と観客をつなぎとめているのは、Saving the Dogでしかない。なおこのSaving the dogSaving the catのヴァリエーションだろう。


となると第三作はどうなるのか。今回は、たとえばローレンス・フィッシュバーンは、いったい何のために出てきたのか、よくわからない。イタリアのコンチネンタル・ホテルの支配人にフランコ・ネロが出てきたときは驚いたが、彼は、次の作品に出番はないだろうが、フィシュバーンはなやらしでかそうである。実際、終わり方も、まさにTo be continuedというかたちだったから、ジョン・ウィックの運命は、次にもちこされるのだろう。


そこで今回中心的なのは、命を狙われて助からないと悟った女ボスが、自らの手で、両手首の動脈を切って、殺される前に死ぬことである。これまで自分の流儀で生きてきたのだから、死ぬ時も自分の流儀で死ぬのだと言い残すのだが、おそらくこれはジョン・ウィックの行動も暗示しているのだろう。


すべてを失って、全世界を敵に回した彼は、結局、死に場所を求めているのだが、同時に、自分の手でみずからの死を演出したいと望んでいる。まさに死のアーティスト。芸術的な殺人場面の構築に全力を注いでいるようにみえる映画(今回は、鏡の間での殺し合いが後半登場するオーソン・ウェルズの映画のような/ブルース・リーの映画のような)であればこそ、主人公もまた、自分の死の芸術作品化をめざしているかのようだ。


次回作をお楽しみにということか。


posted by ohashi at 22:31| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年07月08日

『ライフ』

日本版ウィキペディアに、この映画の評価がこう書いてあるが、まあ率直なところ同感である。


本作は批評家から好意的に評価された。映画批評集積サイトのには174件のレビューがあり、批評家支持率は66%、平均点は10点満点で5.9点となっている。サイト側による批評家の見解の要約は「どこかの空間に閉じ込められるというシチュエーションを題材にした映画に新味を吹き込むには至っていない。しかし、『ライフ』はスリリングで、演技の質も高い。それは欠点を補うに足るものだ。」となっている。また、Metacriticには44件のレビューがあり、加重平均値は54/100となっている。なお、本作のシネマスコアC+となっている。


ということは大傑作ではないかもしれないが、水準以上の作品であって、一部の日本のSFおたくが低い評価を与えているのは彼らの感性と知性を疑わせるのに十分なものがある。


監督の先行作品は『デンジャラス・ラン』 Safe House 2012年)と『チャイルド44』 Child 44 2015年)、後者は台詞は英語だが全編ソ連が舞台のサスペンス(主演トム・ハーディ)で、面白かったので、今回も期待値は高い。そして期待どおりの面白い映画だった。


そのため、たとえば以下のような映画評にまどわれないことを祈りたい。


宇宙ではなくB級とC級の間を彷徨ったSFパニック映画! (投稿日:7/8)

 ジェイク・ギレンホール、ライアン・レイノルズと主役を張れる2人が出演しているのに、なぜか話題にならずに公開された「ライフ」!
 観てみたら、話題にならないのは納得、しかし、ラストに納得がいかず、暗黙のルールを破ってしまったこの映画に「悪い意味で」裏切られてしまいました!
 そのおかげで、私的には評価がB級からC級に成り下がってしまいました。
 ちなみに、殆どの映画を「ぜひ、大画面での鑑賞を・・・」と勧めていますが、この映画には言いません!
 唯一、主役級に出番が多く、頑張っていた真田広之に★2つ!


この映画評で、唯一わからないのは「暗黙のルール」を破ってしまったということ。そもそも、なにが「暗黙のルール」なのか。最近、映画・演劇における殺人をめぐる「暗黙のルール」について語ってばかりいる私にとっても、なにが暗黙のルールなのかわからない。


こういう場合、もっともやってはいけない暗黙のルールというのは、ありもしないルールをでっちあげるだけでなく、自分の勝手な好み、根拠もなければ意味もない自分の好みを暗黙のルール化することだ。これだけはやっていはいけないと思う。


この映画のインスピレーションが『エイリアン』であることは誰もが認めているところである。リドリー・スコット監督の第1作ではリプリーがエイリアンを宇宙空間に放り出して消滅させるところで終わった。しかしつづく第2作から第4作までどうなったかといえば、結局、第4作では、エイリアンとリプリーから生まれた子供が地球に到着するところで終わる。地球の破滅のはじまりで終わるのである。努力と犠牲のかいなく、侵略を許してしまうという設定の映画は、やまののようにある。なにかハッピーエンディングではなく嫌だから勝手に暗黙のルールとか言い始めたのか。いずれにせよ、暗黙のルールが何であるか暗黙のうちのするという暗黙のルールはない。


ちなみにこのモンスター、成長型というのはエイリアン風だが、最初は単細胞であり、それが成長するのだが、初期状態では可愛い。そして実験室の隔離装置から逃げ出したのをバーナーで焼き殺そうとする乗組員の姿は、逃げ回るゴキブリを殺虫剤で殺そうとする私自身の姿と重なった。そう、侵略する宇宙生物であるこのモンスターのアレゴリーを考えると、国境を越えて侵入する不法移民とか、あるいは工作員やテロリスト、あるいは社会の中枢に潜むスパイや裏切り者というよりも、すばやいゴキブリといった、小動物以下の昆虫である。


実際、この映画をみながら、侵入を食い止めようとする必死の努力にもかかわらず、侵入を許してしまうであろう結末を考えると(これは予測可能なので、ネタバレではない)、いま現在、まだ少数が発見されたというに段階であったのが、いつもまにか完全に繁殖していることが確認されたヒアリのことを思い浮かべずにはいられなかった。


実際、ヒアリとこの映画の宇宙生物とは共通するところがある。だから奇しくも、日本人にとって、この映画は、妙にリアルなものとなった。外国での評価はともかく、この映画のモンスター、エイリアンは、ヒアリそのものである。その意味で充分に怖い映画なのだが、日本のSFおたくは(とはいえ全員というわけではないが)、この映画のもつリアリティに鈍感なことこのうえもない。そもそもSFは「せんす おぶ わんだー」などではなくて風刺ではなかったか。その意味でこの映画を低く観ている一部のSFおたくボケどもはSFの精神にも背いていることになる。


なおこの物語、サスペンスというか意外性は、けっこうあって、ソユーズが助けにきたかと思うと、ドッキングの仕方が荒っぽくて、ステーション内の機材にひびかはいるほどの衝撃があたえられる、しかし、それには理由があったというのは面白かった。また、最後にどちらが地球に着水しても、結果は同じだと思っていた(あのモンスターにひっかかれた傷からの出血は何の意味だったのだ)が、しかし結末は、予想外の人物の着水で終わっていあ。ただ、どちらが着水しても同じだと思っていたので、予想外の人物という流れそのものが予想外のことだった。


あと2点。どうもSF映画はシェイクスピアの『テンペスト』ねたを使うことが多い。『ローガン』でも「キャリバン」という人物が、ミュータントを発見できるミュータントとしえ登場していた。これはキャリバンという名のモンスターが登場する『テンペスト』の設定の応用だろう。そして今回の『ライフ』には、カルヴィンと命名されるエイリアン・モンスターがいる。これは絶対温度の単位ケルヴィンKelvinのもじりかもしれないが、キャリバンのもじりかもしれない。なぜなら、この映画には、レヴェッカ・ファーガソン演ずる検疫官が登場するが、彼女の名前はミランダ。『テンペト』に登場する魔術師プロスペロの娘の名前である。となるとこのケルヴィンは、キャリバンだろう。


あと、このモンスター、水が好きで、女性よりも男性にとりついている。しかも単細胞から発育していく。つまり単性生殖。つまり自家発電型。そして女性を嫌うようで、水の惑星たる地球を好んでいる。あきらかにこのモンスター、ゲイの人間の特性を備えている。となると、そこに、祈るしかない、ホモフォビアが入っていないこと、を。

posted by ohashi at 21:32| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年07月01日

『22年目の真実』

入江悠監督のことを『サイタマノラッパー』の、と紹介している場合が多いのだけれども、『サイタマノラッパー」を観たことがあるのだろうか。そもそもそれは『SR サイタマノラッパー』(2009)『SR サイタマノラッパー2 女子ラッパー傷だらけのライム』(2010)『SRサイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者』(2012)を指すのだけれども、そのすべてなのか、第一作だけなのか。そして全部を観たことがあるのだろうか。私は観ているのだれど、残念ながら『タマフルTHE MOVIE 〜暗黒街の黒い霧〜』(2012)とか『日々ロック』(2014)はみていない。演劇版と映画版どちらにしようかと思って、結果、どちらもみそびれているのが『太陽』――映画版のDVD2016年でているが。ただ『ジョーカー・ゲーム』(2015)は映画館でみて、ごくふつうに面白かった。ただ良質なエンターテインメント映画だが、監督ならではの特徴があるのだろうかといぶかった。


今回の『22年目の告白 -私が殺人犯です』(2017年)は、韓国映画のリメイクで、韓国映画のほうはみていないのだが、先が読めず、二転三転する物語がなんとも心地よく、飽きさせない。またなにより映像が攻めている。これはすくなくとも『ジョーカー・ゲーム』にはなかったようだ(『太陽』はみていないが)。


たとえばテレビの報道番組とかニュース番組の事件映像、新聞雑誌の写真的なスチール、そしてテレビ番組のスタジオ内部からの映像、またネット上の動画など、特殊な事件のメディア報道の、ある種のステレオタイプ的な映像を、スピーディにたたみかけてくる映像構成は、事件の本質が、メディアによってつくられるだけでなく、メディアを通しても構成されることの雄弁な例証となっている。


それらステレオタイプ的映像は、メディア映像の限界を示す風刺的な意図でもって示されるのではなく、むしろ事件を構成するメディア手法を前景化すること、その限界でなく、仕掛けの露呈であるように思われる。


この点、どれほど強調してもしすぎることはないのは、たとえばテレビ局のスタジオ収録の場面などは、ひと昔というか昭和の時代の映画では、どこかのビジネスホテルのロビーに机と照明器具と衝立と、それらしいテレビカメラを置いて、それらをむりやりテレビスタジオに見立てるという安っぽい映像が、ほんとうにふうつだったのだが、いまや21世紀も17年目の映画としては、日本テレビの協力もあって、夜の報道番組が、タイトルからスタジオ、ニュースキャスターの語り口や全体の演出にいたるまで、ほんとうにこういう番組があってもおかしくないというつくりかたをしているのだ。つまり映像が、何かの再現表象ではなく、すべてが本物なのである。本物そっくりということではない。こういう報道番組があったら、それを実際のテレビ番組として、コンテンツを現実の事件の報道として、放送できるということである。


つまり演技者がピアノを演奏しているふり、演技をしているのではなく、演技者が、実際にピアノを演奏している映画、高いところから飛び降りる場面で、俳優が、スタントマンを使ったり、CGで処理することなく、自分で飛び降りるというようなことを考えてもらっていい。そのような本物感が、テレビの報道番組の場面では漂っていた--とでもいえようか。


その意味で、この映画の映像の攻め方は、メディアによる報道をどこまでも正確に再現することによって、そこにさまざまなモードのメディア表現を実現させていた。そこがなんとも刺激的であった。知的にも、映像美的にも。


あと特筆すべきは、いまふれたテレビの報道番組のスタジオ撮影のところで、すべてが振出しに戻るように感じられるところがあることだ。


ドミノ倒しで、予定枚数の98%くらいドミノ版を立てたところで、アクシデントで、全部倒してしまったような、絶望感、虚脱感のようなものを、映画のなかで観る者が感ずるところがある。すべてが振出しにもどり、またゼロから一から始めるしかないという、なんともいえぬ絶望感。まさにここまでの虚無感をかもしだす映画というのは、そんなにない。


だが絶望のなかに希望がある。もしこれが現実の出来事なら、すべてを投げ出したくなるし、完璧にやる気をなくすことだろう。しかしこれは、あくまでも現実の話である。映画の場合、話はちがう。たとえ時計で確認しなくても、この段階で、いよいよ最後の部分に物語が入ろうとするとき、つまり佳境に入るわけだから、いくら、すべてが振出しに戻ってしまうように見えたとしても、それは見せかけであって、続篇とか後篇でも造る予定なら、それでもいいのだろうが、一話完結では、それはないだろう。となると、一見、振出しに戻るようにみえても、実は、もう終結部に入っている。つまり解決への糸口に、たとえそんなふうにみえなくともたどり着いているということである。


絶望する必要はない。絶望感と戯れながらも、また明確な理由はつかめなくても、ここで希望をいだいていのだとわかる。解決編に、もう入っているのだ。それがどんな解決とはわからなくても。あとはサプライズ・エンディングの到来を目撃すればいいという感覚。


絶望と、絶望から生まれる希望。こんな感覚を味会わせてくれるのもこの映画の魅力のひとつだと思う。

posted by ohashi at 19:36| 映画 | 更新情報をチェックする