2017年06月25日

暴言国会議員2

追記

今回のコメントは、豊田議員の離党が、安倍政権の数々の不祥事あるいは問題から目をそらすための口実にすぎないということだったが、実際には、安部一強政治のもたらす弊害として、今回の事件をとらえ、都議選にとっての逆風であるという評価がされていて、ちっとも目をそらす口実になっていないのではと思われる。


しかし安倍政権、内閣府の策謀あるいは印象操作を甘く観てはいけない。政権にとって不利になるようにみせかけて敵を倒すことは、日常的に行われる。肉を切らせて骨を切る戦略である。今回、自民党の女性議員の不祥事を示すという肉を切らせて、なんの得があるのか。内閣府は策謀に長けているが、同時に、内閣府でうごめいる警察公安官僚の頭のなかは、思想的に保守反動である。


たとえば女性について古いイメージしかもっていない。つまり女性が高い地位に就く、指導的役割につく、たとえば国会議員になる、そうするお秘書を顎で使うようになる。するとこれだ。


女性は指導者、上司にはなれない。いくらエリート官僚から議員へと転身しても、ヒステリックで、前後の見境がつかなくなる。女性は、指導者として不適切である。このことを示すために、読売新聞と同じく自民党の御用メディアである週刊新潮に材料を提供した。


たとえば小出恵介事件では、相手の女性に対して美人局、ハニートラップではないかとバッシングしていのに対し、この無能な秘書に対して、無能さを装ったスパイではないかというようなバッシングはなされていない。


スパイだからであろう。そして最終的、高い地位の女性、女性指導者に対する負の印象ができあがれば、それで印象操作は完了する。女性指導者は決断できない。決断してもろくなことにならない。女性はヒステリックである。この印象操作のターゲットが都議選の有権者であることは、まちがいないだろう。


実際、小池知事を貶めるような印象操作を内閣府がおこなっていることは指摘されている。


posted by ohashi at 21:40| コメント | 更新情報をチェックする

2017年06月24日

『山田孝之3D』

20171~3月にかけて金曜日深夜にテレビ東京で放送されていたドキュメンタリー『山田孝之のカンヌ映画祭』はみていない。長澤まさみも登場する面白いドキュメンタリーだったようだが見てない。このドキュメンタリー最終話で制作発表されたのが、主演山田孝之、監督松江哲明・山下敦弘の3D映画『山田孝之3D』。言葉と映像を通して「山田孝之」を3Dで体感する作品というふれこみの、この3D映画を、結局、何の予備知識もなく観ることになった。


インタヴュー映画なので、テレビ東京のドキュメンタリー番組のほうが面白かったのではなかったかという推測とともに、心配していたような難解な映画でも、悪ふざけ映画でもなかったのでほっとした。リラックスして観ることができて、それはよかった。山田孝之へのインタヴューを中心に、そこに記録映像やスタイリッシュに加工された映像を展開し、山田孝之という、ある意味、怪物的俳優の、素の部分を垣間見ることができた。


もちろん、フェイク・ドキュメンタリーという可能性もないわけではないだろうが、それについてほのめかしたり、つまり現実と虚構の区別があいまいで、どこまでが現実/真実で、どこまでが虚構/虚偽なのかはわからなくなったり、どこまでがマジメで、どこまではオフザケなのかわからないというようなことはない。もしこれがフェイクだとしたら、最初から最後までフェイクということになるとしかいえないほど、なにか二重性を感じさせる仕掛けなりヒントはなかったと思う。


家庭でテレビで観てもいいような映画で、あえて映画館で観る必要性あるいは必然性はあるのかと疑問にも思うのだが、3Dだから映画館でみるしかないということもあろう(久しぶりに3D映画をみた。ふだんは3D映画でも2Dでみるので)。しかしインタヴューによって、山田孝之の素の部分、カメレオン俳優と呼ばれた彼の正体(というほど大げさなものではないのだが)を暴く、あるいは、垣間見せるという形式の映画の場合、家庭の茶の間でみるよりは一人での視聴がふさわしいように思われる。その意味なら、映画館で飛び出ている3Dの山田孝之に観られつつ(もちろん当人は撮影カメラを観ているだけなのだろうが、観客は、自分が山田孝之に直接観られている、あるいは話しかけられているようにみえるので)、じっくり、その語りに耳を傾けるかっこうになる。だったらこれは映画館の暗がりでみるのが一番の映画といえるのかもしれない。


もちろん観ていて引き込まれ緊張して耳を傾けるような面白い話や珍しい話が聞けるわけではない。時には4歳の頃にまでさかのぼる山田孝之の自分語りは、退屈はしないが、熱狂もいない、そこそこに面白いが、そこそこに凡庸なのである。最後まで飽きることなく見ることができたのだが、なにかが足りないような気もする。せっかく山田孝之の自分探しの自分語りなのだから、目指すのは山田孝之の真実の姿というよりも、そのキャラクター(人物/性格/変人)を観客に好きにならせるということではなかったか。その意味でなら、たとえこれがフェイクであろうがリアルであろうが、とくに山田のことを好きになるような映画ではないのである。


「猫を救う」


そう、猫を救ったらどうかと、途中から思い始めた。ブレイク・スナイダーはSaving the Cat 

という本のなかで(翻訳もある。『Saving the Catの法則』)、映画などで、どうしたら観客が主人公を好きになるか、その秘訣を「猫を救う」主人公を示すことだとした。べつにほんとうに猫を救わなくてもいい。犬を救ってもいいのだが、とにかく、そういうやや英雄的な行動あるいは心の優しさのようなものを示すこと。そうすれば、つまり主人公なり特定の人物が、自己犠牲もいとわず、躊躇することのなく救助・救出行為に出ることができるよい人、善人、ヒーローであるとわかれば、その特定の人物が、どんなにいい加減な人間であろうと、嘘つきであろうと、悪人であろうと、詐欺師であろうと、信頼し、好きになる。観客は、キャラクターの真実を知りたいのではなく、キャラクターが好きになりたいのである。そのためにも、主人公は猫を救わなければならない。山田孝之は、猫を救わなけれればならいのだ。


興味深いのは、いや、ほんとうにドキドキしたのは、山田孝之が、かつて住んでいた鹿児島の実家を訪れる場面である。もうそこには家屋はなく、土地も、新地になって、売りに出されている。かつての実家があとかたもなくなって呆然とする山田孝之の目からは涙がほとばしる。ここは感動的な場面かもしれないが、同じようなことは私自身経験していて、そのときは、たしかに呆然としたけれども、涙までは出てこなかった。


ちなみに私の生まれた家は、いまはない。戦後で一、二位を争う大きな台風であった伊勢湾台風によって地形までかわったため、生まれた家はない(家屋はなく、その土地は、小学校の敷地の一部になっていた)。伊勢湾台風が来る前に引っ越したのだが、もし引っ越さなければ、生家どころか私自身、消えてなくなっていたかもしれない。引っ越した先の家は、昨年、名古屋での日本児童英文学会の帰りに立ち寄ったのだが、再開発の波にあらわれ、完全に真っ平らな新地になっていて、山田孝之の実家跡と同じ状態だった。とはいえ涙は出てこなかったのだが。


実家跡で、思い出にひたる山田孝之は、鎖のようなものに目を止める。それはかつて飼っていた犬の首輪を鎖でつないだ杭のようなものの残骸だった。さすがに、ここで緊張した。彼は、猫ではないが、犬を救う話をするのではないか、と。あるいは心のなかで、猫でなくていいから、犬を救え、犬を救え、そうすれば山田孝之を絶対に好きになるからと、念じていた……


結果、彼の話は、その実家でのかつての幸福な家族団らんの瞬間の思い出にシフトしてしまった。そして犬については、かわいそうなことをしてしまって、と、ただ謎めいた言葉を残すだけだった。


これが本当のことなら、結局、猫を救うどころか、犬を殺したんかい!?としかいえない事態となって、これは、だめだと思うほかはない。もしこれがフェイクあるいはフィクションなら、もっとうまくつくれよ、せっかく犬を出してきたのだから、「悪いことをした」じゃだめでしょう、と、心のなかでつぶやくしかなかった。


猫を救え。

posted by ohashi at 15:17| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年06月23日

『セールスマン』

『セールスマン』(ペルシア語: فروشنده‎)は、アスガル・ファルハーディー監督・脚本による2016年のイラン・フランスの映画である。第69回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門で上映され、男優賞、脚本賞を獲得した。第89回アカデミー賞外国語映画賞にはイラン代表作として出品されて受賞した


アスガル。ファルハーディの映画は、つねに淡々と進むのだけれども、そこにひりひりするような緊張感が漂っていて、一瞬たりとも目を離せない、一種たりとも聞き逃せない。そんな非日常ではなく、日常にこそ、ひそむ謎と不安を、極端なほど危険なあるいは重大ではなくとも、それなりに重大な事件の発声をとおしてあぶりだしてゆく。


それはまた真実を知りたいという激しい欲求につき動かされるか、まら知りたくもない真実を突き付けられるかして、ようやくたどり着く真実は、問題の解決ではなく、さらなる大きな問題へと開かれたり、行き詰まりであったりして、不穏な真実なのだが、そこに、これまで触れられたり開示されたりしなかった真実を得たという確かな手ごたえのある感慨、そしてそれによって湧き上がる限りない不安の思い、この新たな次元に観客は置き去りにされる。


『セールスマン』は、まさにファルハディの世界である。異様なまでの重苦しい緊張感。真相解明への着実な足取り。そしてポスト真相(ポスト・トゥルースとは違う)におけるどこまでも不穏な雰囲気。


今回は、ここに愚行が加わる。人物の行動は、どれも問題があるが、そうせざるをえなかった必然性のようなものはある。人物の行動は正しい行動ではないが、同時にまた、そうせざるをえなかった必然性は感じられる。それはまた愚行にはしらざるを得ない必然性なのである。


また今回、アーサー・ミラーの『セールスマンの死』を上演する俳優夫妻の話と重なるという劇中劇構造ももっていて、この重層性に限りなく引き付けられた。


原題のペルシア語はわからないが、たぶん「セールスマン」というタイトルなのだろう。これはミラーの『セールスマンの死』から来ているのだと思うのだが、ミラーの戯曲は『セールスマンの死』であって『セールスマン』ではない。たぶんこれはイランでは『セールスマン』として翻訳されているのではないか。したがってペルシア語に翻訳された作品名をそのまま使ったということもかもしれない。


ミラーの『セールスマンの死』は、私が大学の1年生のとき授業で生まれてはじめて英語で最後まで読んだ戯曲である。今から思うと、そんなにむつかしい英語の芝居ではないと思うのだが、高校卒業したての大学一年生にとっては、高校英語のレヴェルでは、とても出会うことのない英語表現の台詞に、驚き戸惑ったことを覚えている。まさにこれがアメリア口語の洗礼だという感じがした(ただ、繰り返すが、今にして思うと、それほどのことではなかったのだが――あと、授業では、日本で注釈をつけたような教科書ではなく、ペンギン版を使うから、各自購入するようにと、教員に言われ、東京の書店について何も知らない私は、クラスメイトに教えられて、神田神保町の東京堂の、いまはなき洋書売り場で、ペンギン版の『セールスマンの死』を購入した。なつかしすぎるぞ。)。


内容面ではいうまでもなくアメリカン・ドリームの破綻であり、父親ウィリー・ローマンの教え――学校でスポーツ万能の人気者であれば、人生の勝者になれる――を忠実に実践したあげく、若くして人生の落伍者になったビフとハッピー兄弟の挫折と夢からの覚醒の物語は大学一年生の私には強烈な印象を残した。また隣人の家族で、ビフとハッピーの同級生でもあった男は、スポーツの才能はなく、めだたないまじめな学生だったが、社会に出て仕事に成功しているというのも、けっこう説得力があった。またこのウィリー・ローマンの妻や隣人の男が善人で、はったりで生きてきたようなウィリーとは好対照だったことも印象に残っている。とりわけ妻が、いわゆるアメリカンな強い女性ではなくて、まるで日本の古いホームドラマ映画に出てくるような善良で夫をたてる女性であったことは、授業中で教師もアメリカン・ワイフとは思えないと指摘していたし、私もその通りだと思ったことも鮮明に記憶に残っている。居間から40年前のことである。


この映画のなかで上演される『セールスマンの死』は、少し大きめの小劇場公演で、その舞台を見る限り、完全に本格的な舞台で、あそこで実際に上演しようと思えば完全に可能である。ステージのデザインも、けっこうしゃれている。映画のなかでは、基本的に、毎日上演しているのだが、映画そのものなかでは、稽古風景から、上演中の光景、そして映画の最後には舞台の最後の場面が登場するというように、毎日上演されている舞台だが、映像としてみせられる舞台・劇場のシーンは、映画の進行にそって、はじめ、中、おわりと区切られる。そして映画のなかで示される舞台上演は、この『セールスマンの死』を夫婦のドラマとみているようなところがある。それはアーサー・ミラーの原作のテーマとは異なる。そのため『セールスマンの死』を知っている者にとっては、映画のなかの事件と、この戯曲とがどういう関係にあるのか、つまり内容的にはシンクロしていないので、そこをいぶかしむことになる。


だが、この戯曲の稽古や上演から、映画のなかの事件について、解明のための重要な手がかりを得ることができるのも事実である。


端緒は、稽古の場面で、ウィリー・ローマンと長男ビフと娼婦が絡むところだった。そういえばウィリー・ローマンは愛人がいて、そのことを長男に発見されて、父親の権威の失墜、父親の偽善性が一挙に暴かれるという痛い場面があったことを思い出した。ウィリーと娼婦とのからみ、そこにいる長男ビフ。娼婦役の女性がウィリーのもとを捨て台詞とともに去っていくとき、ビフが手で顔を覆って、泣いているのか笑っているのか、わからない仕草をする。これは理想的な父親像が崩壊したことに対しする長男の側からの、まさに泣き笑いという悲痛な場面かと思ったら、たんに娼婦役の女優のことを笑っているのである。そのため稽古が中断する。観ている側は、なにがおかしいのかよくわからない。笑われた女優は憤慨するが、他の劇団員たちは男女ともに、ビフ役の男優に同調して笑っている。この笑いの理由が、ほんとうによく分からない。いや、ビフ役の男優は、娼婦役の女性が、裸で(まあ下着姿でということだが)部屋を出ていくという台詞を発するのに、稽古ではコートをはおっていることがおかしいからといって笑うのだが、衣装をあわせの稽古ではなく、あくまでも稽古なので、裸だという台詞を発するとき服を着ていることが、そんなにおかしいとも思わない、というか、なにもおかしくない。


ところが笑われた女優も、なにか大きく侮辱されたかのように反応する。おそらく、ここにあるのは、娼婦という存在を蔑視する笑いだろうが、その笑いは娼婦役の女性に、侮蔑のターゲットとなる穢れを帯びさせているのだろう。なにかここには、女性に対する、いわくいいがたい蔑視的姿勢が垣間見えるのだ。


主人公の男性、主役のウィリー・ローマンを演ずる男優は、高校の国語の教員でもあり、ある意味、アマチュア劇団での『セールスマンの死』公演なのかもしれないのだが、高校での授業風景もよく出てくる。国語や文学の授業をしているのだが、最初、この教室風景をみて、なにか違和感があった。そう、女子高生がいないのである。男子高校生しかいない。これはたまたま男子校ということだけなのか、あるいは共学が認められていないのか、わからないが、強烈な男性中心主義を感じ取ることはできる。


(実際そうらしく、学校は共学でも、生徒はほとんどが男性で、教員は男性教員しかないため、女子を学校にやることはなかったらしい。ただ近年は、就学する女子生徒も多くなり、教育改革もすすんでいるようだ。だとすると、女性の地位改革にもかかわらず、それを好ましく思わない無意識、精神の古層が、隠れた原因として女性の活動を束縛,阻害する、まさにそれが、この映画のテーマだともいえるかもれない。)


実際、高校生の一人は、タクシーのなかで、主人公の男性教師に対して無礼な態度をとった女性を批判するのであり(あれが相乗りのタクシーだったとは、わからななかった)、またクラスの高校生が問題を起こすとき、呼び出されるのは母親ではなく父親なのである。女性たちはヒジャブの着用を義務付けられているので、『セールスマンの死』の舞台でも、ウィリー・ローマンの妻は、舞台上の寝室でも、ヒジャブを着用(アメリカに場所設定されているアメリカの戯曲にもかかわらず)。ヒジャブは夫婦しかない寝室では着用しなくてもよいらしいのだが、映画では、ヒジャブの着用を強調して、イラン社会で女性が置かれている立場を暗示しているのではないかと思う。


実際のところイランは、イスラム圏では、もっとも多くの女性の社会進出がみられる国である(サウジ・アラビアのようなジェンダーに関しても保守的な国の対極にある)。そのイランにおいても、女性の立場は、おおっぴらにではないにしても、なおも伝統的なジェンダー観に立脚し、女性たちは制度的に束縛されている。そしてそこにあるジェンダー前提とは、1)女性は、男性の所有物・財産であり、また2)すべての女性は娼婦であるという差別的な考え方なのである。


それゆえ、主人公の妻をレイプした犯人は、まるで娼婦への支払いであるかのように現金を犯行現場にあえて残しておくのである。現金を盗むのではなく、自分のお金を置いておく。実は、自宅で客をとっていた娼婦の家に引っ越したため、その娼婦の顧客が、まだ娼婦がいるものと思って訪問したら、別人がシャワーを浴びていた(なぜ、そんな客を招き入れたかはについては、偶然のいたずらによるのだが、夫や隣人たちは、それを疑うところもある)。


だが別人であっても、むらむらっときた犯人は、レイプしたようだ。また残した現金は、娼婦への支払いともとれるし、お詫びのお金ともとれる――いずれかは定かではない。ただ、イランではレイプして逮捕された犯人が終身刑で、レイプされた女性が死刑になった例があるようで、レイプされた女性被害者への同情よりも、レイプされた女性をさげすみ侮蔑し、財産として傷者になったことを重視するようで、ここには男性中心社会の歴然たる性差別が存在する。またこれは女性が本来、娼婦にすぎないという侮蔑的ジェンダー観。つまり、女性のなかには家庭の妻あるいは母に収まってうまくやる女性もいるが、女性の根本は娼婦にすぎないという性差別もあるのだろう。だからレイプした女性に金を残した。相手は娼婦ではなく素人の女性だったが、性差別社会では素人とプロの区別はないのである。たとえ、残したお金が、詫びのお金だとしても、その意味は支払いという意味にかき消されてしまう。


となると性差別社会において、女性に対する差別的前提は男性の言動にも影響する。女性への暴行は、その女性の所有者たる父親とか夫が帯びる権利の重大な侵害なのである。主人公の高校教師/俳優が、犯人をつきつめ、執拗に罪を問うのは、傷ついた妻の無念を晴らすというよりも、自分の名誉が汚されたことへの怒りのほうが強い。いわゆる伝統社会とか部族社会におけるような「名誉コード」がここで影響力を発動させているとみることができる。


たとえばパスタを食べる場面。夫妻が自宅で、男の子(たまたま預かった仲間の女優の子ども――先ほど触れた稽古中に笑われた女優の子どもであるが、嘲笑の原因は、彼女がシングルマザーではないが、夫と別居し母子家庭を形成していることにもあるのかもしれない。母子家庭の女性は母親ではなく娼婦なのである)とパスタを食べる場面がある。妻は家計(かけい)の責任をもたないから、たまたま家にあった現金で料理の材料を買う。夫は、それが犯人が残していった現金であることを知ると、ただちに食べるのをやめ料理を捨てて、ピザをとることにする。夫である自分を嘲笑するかのように犯人が置いて行った現金で購入された材料でつくった料理は汚れていて、さらには夫である自分への侮辱であり、名誉コードでは絶対に許されないことなのだ。現実的に考えれば、置いて行った現金を使ったとしても、自分の財布から補填しておけば済む問題であって、お金にも、またそのお金で料理をつくった妻にも、罪はないのだが、名誉コードがそれを許さないのである。


そう、この映画は、『愚行録』とタイトルをつけてもいいような作品なのだが。その愚行、愚行だけれども、そうするしかない必然性を伴い、その隠れた原因、不在の原因ともいえるのが、名誉コードあるいは、それを存続させる性差別社会における女性蔑視のジェンダー観なのである。


この現代生活にある古層が露呈すること、そしてその古層からは、それが運命であるかのように逃れられないこと。日常こそが、非日常であるという危険性、それを、思い知らさせるのが、この作品の静かな、だが強い緊張感にみちた展開だろう。ここには悲劇をみることの喜びがある。またいうまでもないが、この差別的男女観、名誉コードはイランだけの話ではない。日本では、もっとひどいといえるかもしれないのだから、決して他人ごとではない。


そして今回は、『セールスマンの死』について、私の大学生活(学生、研究者、教員としての)の出発点にあったこの作品について、記憶をあらたにできたことに、なつかしさとともに、個人的に感謝したい。

posted by ohashi at 19:29| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年06月22日

暴言国会議員

テレビで豊田真由子国会議員の暴言のことを伝えていた。「豊田真由子」という名前には聞きおぼえがあった。覚えどころか、その名前は知っていた。だが、テレビのワイドショーで見るその顔には見覚えがなかった。というか、ポスターの顔と実物、ちがいすぎるでしょう。


テレビで最初見たとき、知らない顔だった。しかし私は豊田真由子の選挙区である埼玉四区の住人である。その選挙ポスターは、選挙があるときなど、毎日見かけていて、豊田真由子の名前は、すぐにポスターの顔を喚起するものだった。ところがテレビで見る豊田真由子とは、初対面である。というかあのポスター、事務所などにも貼ってあるポスター、写真写りがよすぎて、まったく別人である。テレビで見る実物とポスターの顔は違いすぎる。むしろ、この点で国民を、有権者を裏切っている。これは許しがたい。


暴言、そんなの関係ない。支持者に送るハガキの宛名を50通くらい間違えたという秘書。なんという無能な秘書か。暴言も吐きたくなる(暴言がよいということではない)。歌もうたいたくなる。もし私が彼女の立場なら。


もうこの時点で豊田真由子は自民党を離党したようだが、しかし、暴言で離党するなんてことは、その暴言が国際問題を引き起こすとか、国民を愚弄しているとか、差別を助長するようなものならまだしも、ただ、品のない暴言で、身内に対する暴言にすぎない。こんなことでやめる必要はない。


実際には、党にも国民にも迷惑をかけてやめなければいけないのは、森友問題、加計問題に関与した首相夫妻並びに、その犬たちだろう。彼らこそ離党するなり、やめるべきである。まさにそれをしないために、国民の注意をそらすために、魔の2回生議員という、ありがたいスケープゴート軍団がいるのである。森友問題や加計問題で、追いつめられると、いつもこうい不祥事をやらかす議員が出てきて、首を切られなくてもいいくらいの不祥事で、首を切られるのである。そして首相一派(彼らこそ、日本を破壊する恐るべきテロ共謀者そのものではないか)の立場は安泰なのである。


まあ豊田議員も離党したら、むしろふっきれて、上西議員のように、政権や党を徹底的に批判する側にまわったらどうだろうか。その時は、これまで投票したことはなかったが、一票投じてもいいと思っている。ポスターの件は、なかったことにして。


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2017年06月20日

『怪物はささやく』

映画のタイトルは、映画会社が勝手につけたタイトルかと思っていたら、原作本の翻訳のタイトルだと知って、ちょっと驚いた。翻訳本は、手にとったことがないので、あえて誤訳したことを断っているのならいいのだが、某高校生(実在します)は「原作は『A Monster Calls』。直訳すると「怪物は呼ぶ」「怪物は命じる」で、「ささやく」とはなりません。」と書いている(ネット上に掲載)。ということはタイトルについては翻訳書では、なにも断っていないということだろう(あるいはこのように原題を説明しているのかもしれないが)。


この高校生、文章はうまいのだが、『怪物はささやく』について、まるで出版社の宣伝係みたいに(そうなのかもしれないが)、おもしろい本として推薦しているが、彼自身がどう思うかについてはどこにもかいていないし、その数少ないコメントのひとつが、このタイトルに関するもの。もう少し英和辞典を丁寧に調べてほしかった。文章はうまい。その文章は、とても高校生とは思えないほど、卓越しているので。


A Monster CallsCallsは自動詞の三人称単数形で、「大声で叫ぶ」あるいはイギリス英語で「訪問する、訪れる」という意味。そして英文学の知識がここで役に立つ。J.B.プリーストリーの有名な戯曲にAn Inspector Callsというのがある。英語のかたちが同じ。岩波文庫に翻訳があって、そこでは『夜の来訪者』と訳されている。直訳すれば『捜査員が訪れる』。ちなみにこの刑事、とくに命じてもいなければ、呼んでもいない。有名な戯曲なので誰でも読んでいる。おすすめ本。またこの刑事、やささやいてもいない。大声で告発している。

ちなみに映画を見る限り、怪物は、毎回、深夜の127分にやってくる、訪れる、訪問する。命じたり、呼んだりしていない。ささやいてもいない。ささやくつもりでも、巨大なので大声になる。というか原作の翻訳者や出版社は、おそらく原題とは別にささやいているという印象を受けたのかもしれないが、映画を作ったほうは、べつにささやいているとは思わなかったので、怪物に大声で怒鳴らせている。

で、タイトルは『怪物が訪れる』で、強いて言えば、『怪物が叫ぶ』ととれないこともないということになる。あえてタイトルを変えたと断らないかぎり誤訳とされる。もちろん出版社のほうで自由いタイトルをつけることは許される。

また、高校生がいまから、英語もわかりはしないのに、誤訳して偉そうにしているのは、滑稽だ。翻訳書に、そのように説明してあるのかもしれず、その受け売りかもしれないが、しかし、翻訳書のあとがきか何かに、こう書いてあると明記するのが当然。すぐにでも心をあらためないと、将来、ろくなものになりませんよ。


おそらくこの高校生は、わからないというと負け犬となると思っているかもしれないが、この作品における怪物は決定不可能である、つまり来歴がわからないのである。


この怪物は、少年の心のなかにすまう無意識の願望なり力のようにもとれる。彼の奔放なイマジネーションが生み出した、まさにオルター・エゴなのかもしれない。しかし映画の最後で(たぶん原作でも最後に)この怪物こそ、死んだ母親が彼のために生み出したものであることが判明する。残されたスケッチ帖から、それがわかる。


となると、この怪物は母からの贈り物、外部からの訪問者である。通常、スーパーエゴは外部から私たちの心にはいりこみ、私たちを支配する社会的規範であり、それは父の名となる。だが、この作品において、外部からのスーパーエゴは、少年を統制しない。むしろ、少年の内部にあるような欲望を開花させる。規範を破ることすらいとわない。少年が、怒って無分別な行動に走っても許してくるのである。となるとこれは通常の社会規範とか道徳のことではない。父の名ですらない。


もちろん、それは文学的芸術的な道徳である。アーティストになれなかった母親は、しかし、アーティストのルールでもって、自己に忠実であること、人間性に忠実であること、そしてそのために道徳を無視すること、社会規範を破ることすらいとわないことを子供に教えるのである。それが芸術(文学といってもいいが)の教えであり、芸術における道徳性の意味である。極端なことをいえば、社会的規範は父の名であるとすれば、規範から自由になり自己自身に忠実であること喜怒哀楽を爆発させることをいとわないことを促すのは、芸術における道徳性であり、それは母の名なのである。


実際、少年の実の父親が登場するが、彼は、母親のようにやさしい。いっぽう母親はやさしいのだが怪物の産みの親であり、その母である祖母は、とくに厳しい。想像界的な母親は、たしかに画家で、画像を通して子供とコミュニケーションするが、同時に、父親の世界に回収されない強さと大きさをもっている。怪物のジェンダーは男だろう(リーアム・ニーソンが声を担当している)が、怪物は母親の分身ともいえる。同時にこの怪物は失われた父でもある。またこの怪物は命令する存在だが、建前を押し付けることはない、むしろ本音で生きることを要求するのであり、第4の命令は、少年が自分で話をすることであり、それはまた少年が認めたくない本音の部分を語ることであった。


怪物は決して建前を押し付けない。あくまでも本音で、自分自身に忠実に生きること。それが建前を要求する父ではなく、母の命令ならざる命令である。


4の物語は、少年が自己それも自己の暗黒面に直面するのであって、それまでの自己中心的世界から脱中心化されるため、想像界から象徴界への移行の契機ともいえる。実際、第4の物語で少年は去勢されるわけだから。


しかし、誰もが経験すること、母親を失う経験は、ある種の普遍性があるために、共感の涙を誘うのだが、観ていた私自身、涙を流すことはなかったのは、怪物とな何であるのか、よくわからなくて、そのほうに気をとられて、情動的反応ができなかったからである。


精神分析的にある程度絵解きできるとしても、そもそも怪物が、少年の外でもあり内でもあるという二重性、あるいは少年の母親由来と少年の内面由来という二重性つまり分離不可能性であること、このことに圧倒されていたら、分離不可能性が増殖しつづけることになった。たとえば死にゆく人は、後に残す者たちに、いつも、あなたたちを見守っているという。たぶん私も死ぬときに同じことをいうかもしれない。だが、それは、死者の霊魂が守護天使のように、私の姿を外から見守っているというようにイメージとは異なる。


実際のとこと、私の頭のなかにある死者の記憶が見守っているように語りかけてくるということもできる。それは私が作り出す声である。死者は当然のことながら、この世には存在していないので。と同時に、死者によって私のなかにぽっかり空いた穴を、死者の記憶が、あるいは死者の種が埋め、死者が私のなかで、私が生きている間、生かされているのなら、それが死者の見守りとなる。見守る死者の由来は、死者であるが、その存続は私の営みである。見守る死者は他者由来だが、それはまた自己由来でもあり、自他との分離がむつかしい。と、こんなことを考えていたら、『怪物はささやく』の原作そのものの、死者の企画を活かして完成させたものであることを思い出した。


この小説は、本来、シヴォーン・ダウドの原案をもとにしていた。彼女がの死後、パトリック・ネスが完成させたもので、怪物はダウド由来だが、同時に、ネスによる育成と錬成がなければ、物語が完成しなかった。そしてこれはどこまでがダウドで、どこからがネスの七日めなのか判然としない、決定不可能状態にある。この決定不可能状態は、小説の形成にまで、反復されているのである。おそるべしとしか言いようがない。

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2017年06月19日

『ブラッド・ファーザー』

タイトルは日本の映画会社が勝手につけたものと思っていたが、原題そのままということに驚いた。まあ、それはともかく、なぜこの映画が今頃公開されたのだろうか。おもしろい映画だから、べつに見て損をするということはないのだが、メル・ギブソン監督の『ハクソー・リッジ』が公開されるからか。BFはエンドクレジットをみていたら2015年の映画とあるが、資料などで2016年映画とある。同じ2016年映画でもある『ハクソー・リッジ』の影響か。

内容といえば若い女の子(ここでは娘)をジジイの父親が守るとなると、『ローガン』と同じではないか。あるいは娘役のエリン・モリアーティも出演している『はじまりへの旅』が公開中だからか。まあ、これはたまたまだからだろう。

いずれにせよ、映画そのものはメル・ギブソン役の男がアルコール依存症で、なおかつ犯罪者で刑務所にいれられたのち、仮釈放中という設定は、自身の姿と重なり合うが、このあたりは、意図的に仕組まれているものだろう。本人も苦笑いか。というのも飲酒運転で逮捕されメル・ギブソンは、依存症であったことが判明したからである。そして映画のなかでも酒を断っていることを明言しているし、結局、最後まで主人公は酒を一滴も飲まないのはりっぱ。

あと見ているときには何も思わなかったが、トレーラーハウスに住んでいるという設定は『リーサル・ウェポン2』を思い起こさせるという者もいる(私は完璧に忘れているのだが)。ショットガンを振り回して殺し屋のバイカーと戦うところは、まさに『マッド・マクス』そのものともいえる。殺し屋のバイカーが撃たれて道路上に転倒・回転して、大型トラックにひかれそうになる、あるいはひかれた場面といのは、スタントマンが死んだのではないかと言われている『マッドマックス』の一場面をふっと思い出したのだが(実際、あとで調べると、これはネットでもけっこう指摘されていた)、『マッドマックス』そのものの現代版ともいえる面をもっている。

親娘で入っていく酒場は『ゲスト』TheGuestで使われた酒場と同じだそうだが、たしかに既視感はあった。とはえい、よくある酒場ではあるのだが。ちなみに『ゲスト』について、あの「デイヴィッド」という謎のゲストは、姉と弟がつくりだした幻想の存在で、彼らの願望が実体化した、あるいは彼らが手を下した犯行を、その幻想の存在のせいにしたというように考えている。マイカ・モンローなどが出演していた映画だが、その「デイヴィット」を演じたのはダン・スティーヴンズ、『美女と野獣』のビースト/王子である。

それから、なんとか族の殺し屋『アポカリプト』に出ていたラオウル・トルヒーヨではないか。その強烈なタトゥーによって思い出した。彼はまた『ボーダーライン』にも出ていた。この『ボーダーライン』の監督が今、公開中の『メッセージ』の監督ドゥニ・ヴェルヌーヴ。

また、そういえばメル・ギブソンの映画では、娘を守るのではなく、娘の復讐をする映画としては、『復讐走査線』(2010年、日本公開は2011年)がある。企業の犯罪を告発しようとして殺された娘の復讐のためにその軍需産業だったかの企業の社長宅に乗り込み、放射能で汚染された牛乳(娘を殺す手段のひとつとして使われた汚染牛乳)を社長に無理やり飲ませるシーンは、3.11と同じ年に見た映画ということもあって、強烈な爽快感をもたらしたことを鮮明に記憶している(実際には放射能汚染された牛乳ではないのだが、牛乳をむりやり飲まされパニックになる社長の姿をみて、娘(ならびに父親自身)の殺害を指示したのが社長であることを確信するという仕掛けだった)。この映画は、あまりに面白かったのでブルーレイを購入した。

あとメル・ギブソンは『アサイラム監禁病棟と顔のない患者たち』のプロデュースもおこなっていて、エドガー・アラン・ポウ原作のこの映画は、精神病院の患者が精神病院をのっとって精神病院院長とそのスタッフになりかわるというもので、ポウの原作をすこしひねって使っているのだが、ポウの原作のほうは、いつも、思い出すたびに、アメリカのトランプ政権を思い浮かべることになる。トランプはサイコパスだという本もあるのだが、トランプ政権は、ほんとうに精神病患者が、医院長あるいは大統領になって威張っているとしか思えない政権なのだから。

まあ、こんな連想ゲームをつづけていたらきりがないので、この『ブラッド・ファーザー』にもどると、前作の、死んだ娘の復讐をする父親の映画の原題は、The Edge of Darkness.今回も社会の闇と向き合う話だった。闇の先端がそこにある。

闇の世界と堅気の世界の住人はどうちがうのか。それは人を殺すか殺さないかの違いである。もしあなたが人を一人でも殺したら、闇の世界のとりこまれ、堅気の世界に生きては帰れないだろう、あるいはみずから死ぬしかない。The Road to Perditionという映画があった。ナレーターは子供の頃、父親と過ごした時代を回想しているのだが、父親はギャングである。そして殺し屋に命を狙われ、最後の幼い息子(ナレーター)を守って銃弾に倒れる。同士討ちになるのだが、ジュード・ロウ演ずる殺し屋は、撃たれも起き上がって、生き延びた少年を狙うが、少年も銃を握って、いままさにジュード・ロウを撃とうとしていた。

これはものすごく緊張した場面だった。ここで幼い少年が殺し屋/ジュード・ロウを射殺したら、彼は闇の世界に取り込まれ、堅気の世界には戻ってこれなくなるだろう。一線を超えることになるのだから。

あるいは映画がこれまでのルールを破って、たとえ正当防衛とはいえ、殺し屋を射殺した男の子は、なんのお咎めもなく、のうのうと生き延びて、ジャーナリストになって、この映画のなかで語り手になる。これはルール破りとなる。一人でも人を殺した人間は、殺されるか、死ぬか、償いを受けねばならない。

だが、幸い、映画なかで、次の瞬間、息を吹き返したトム・ハンクス(少年の父親)が殺し屋を射殺して、今度はほんとうに息絶えるのである。だから、少年は人と殺さずにすんだ。長じてジャーナリストにもなれた。ルールは、破られそうになって、土壇場で守られたのだ。これは『ロード・トゥ・パーディション』のなかの話。

『ブラッド・ファーザー』もこのルールをぎりぎりのところで守っている。そしてこのルールを守るために必要なことを無駄なくおこなっている。

もちろん、こう書くと驚くかもしれない。映画の冒頭で、娘のほうがメキシコ系ギャングの男を拳銃で射殺するからである。そしてギャングたちに命を狙われる。父親のところにもどっても、ギャング一味が追いかけてくる。ただ、いくら人殺しとはいえ、殺したのはギャングであり、父親としてはギャングを殺した娘を必死で守るしかない。ただ仮釈放中の身なので暴力沙汰にはならない。飲酒もしない。ルールを守るしかない。だが、これも限度があり、娘の窮地に際して、ついにリミッターが外れる。そして酒こそ飲まないが、娘を救出するため、殺し始める。たとえ悪い奴らでも、一民間人それも仮釈放中の民間人が殺し始めたら、ただではすまない。これによって、主人公の死は確定する。彼は、おそらく生きて娘と幸せに暮らすことはないだろう。もちろんと同時に彼の死によって娘は守られるだろうが。

ただ問題は、娘は最初に人を殺していた。もちろん実は撃たれた相手も、死ななかったことがあとでわかる。そして、その相手が復讐にくる。これはネタバレかもしれないが、その相手というのはディエゴ・ルナ(最新出演作はスターウォーズ・シリーズの『ローグ・ワン』)、『天国の口、終わりの楽園』『フリーダ』『ダンシング・バナナ』の頃から見ているディエゴ・ルナが、ほぼ冒頭で殺されて終わりということはありえないと、誰にでもわかるだろう。ネタはわかる。案の定、彼は生きていた。しかし、それで娘の闇の世界の汚れがなくなるわけではないだろう。

メルギブソンの役割は、娘の命を守りつつ、娘の穢れを浄化することである。

そしてそれは彼が殺しまくること必要とする。メル・ギブソンが、娘の命を狙う者たちを殺せば殺ほすほど、娘の穢れが消えていくという論理である。まさに血の浄化。他人の血を流すことで、娘の帯びた穢れを自分で引き受ける父親。血の浄化、血を身に浴びることで、娘から穢れを消す父親。そしてこの父親はもはや引き返す道はない。みずから血を流すことが、最後の浄化となる。ブラッド・ファーザーである。

posted by ohashi at 05:34| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年06月13日

『スプリット』

ネタバレ注意

といっても、最後の最後にブルース・ウィリスが『アンブレイカブル』の主演のデイヴィッド・ダンとして登場し、映画が『アンブレイカブル』と同じ世界、同じ時空を共有していることを予告して終わることではない。たしかにブルース・ウィリスの名前はクレジットには出ないから秘密にされているのだろうが、まあ、誰でも知っていることだし、それがわかったところ映画の面白さが半減するとも思えない。だから、これがネタバレということではない。


『アンブレイカブル』のなかにデイヴィッドらしき人物(子供)が出ていたということもあり、また場所とか音楽などからも、『スプリット』と『アンブレイカブル』とが、後で気づくと同一の世界(a cinematic world)におけるふたつの物語だとわかるようになっている。


『アンブレイカブル』はアメコミなどではスーパー・ヒーローと、スーバー・ヴィランがもともと友人であり、ただ物差しの両端のように、片方はガラスのように壊れやすい肉体(ミスター・グラス)と、何事があっても傷つかないというスーパー・ヒーロー(アンブレイカブル)というかたち危ういバランスをとっていたという興味深い設定だった。


以下ネタバレ注意WarningSpoiler

今回スーパーヴィランの誕生の物語となっている。『アンブレイカブル』の超人は、ヴィランのほうではない。ヴィランであるサミュエル・ジャクソンの特異体質は超人といっても壊れやすさの度を越し超人的なもろさにあり、彼がスーパー・ヴィランであるとは誰も思わないのだが、実は、彼は凶悪なテロリストであったということがわかるのが『アンブレイカブル』であった。そして『アンブレイカブル』ではもうひとつ超人の誕生というのがテーマとしてあって、サミュエル・ジャクソンのテロ行為は、たんに凶悪な愉快犯というのではなくて、みずからの対極にあるはずのスーパーヒーローをみつける実験という面があった。そして何事にも傷つかない超人を発見する。それはまた超人の発見発掘であるとともに超人の誕生という二つの面があった。それはまた自分も宿敵でもあると同時に自分のかけがえのない友人の発見でもあった。発見か創造化。宿敵か友人か。その決定不可能性あるいは両面性が『アンブレイカブル』の柱でもあった。


ネタバレ注意。Warning:Spoiler

今回はスーパーヴィランの誕生である。超能力者の誕生には、突然変異のように、予測のつかないかたちで進化の飛躍が見られる場合と、下支えがあり、広いすそ野に押し上げられるようにして誕生する超人というふたつの可能性があった。それはまた偶然的進化と必然的進化の対立でもあり、突然変異という孤立した単独の現象と、試行錯誤と蓄積のうえにたった集団的協同との対立でもある。今回は、多重人格物であることは、予告編でもわかるので、これはネタバレではないが、ビリー・ミリガンのように23の人格をもつ人物が、その23人の人格の共同あるいは対立排除から、最終的に無敵の超人を、24番目の人格として生み出すのである。アメコミに登場するスーパーヴィランは、それぞれ面白い来歴をもつが、これもそれを踏襲している。そして今回、あらためてわかったのだが、アメコミのスーパーヴィランは、ルーザーであること、いろいろな心的身体的外傷を負って絶望の淵から這い上がって超人化することもわかった。もちろんこの超人誕生秘話は差別的なものでることはまちがいが、しかし魅力的超人性によって差別性を目立たなくしている。あるいはルーザーだからこそ超人になるというのは、差別的なものを超越しているのかもしれない。


 また『アンブレイカブル』と同様に、アメコミの宿敵どうしは、同時に、友人どうしでもあって、『スプリット』のスーパーヴィランの誕生は、また同じく虐待を受けた少女をスーパーヒーロー的超人として誕生させている。ヴィランと心のなかでむすばれた少女。やがて彼女が、続編『グラス』のなかで、スーパーヴィランにとって最強のライヴァル戦士となるだろうことは、予測できる。


完全なネタバレ要注意 Warning: Spoiler

 動物フレンド

 強いて不満をいうと『スプリット』って動物フレンドの話ではないか。それぞれの人格は、人間というよりも動物を反映しているはずなのだが、動物園の地下であることを最後の最後まで隠しているために、23の人格(実際の登場するのは8人格)となった:Barry, Jade, Orwell, Kevin, Heinrich, Norma, Goddard, Dennis, Hedwig, Bernice, Patricia, Polly, Luke, Rakel, Felida, Ansel, Jalin, Kat, B.T, Samuel, Mary Reynolds, Ian, Mr. Pritchard. Barry, Jade, Orwell, Kevin, Heinrich, Norma, Goddard, Dennis, Hedwig, Bernice, Patricia, Polly, Luke, Rakel, Felida, Ansel, Jalin, Kat, B.T, Samuel, Mary Reynolds, Ian, Mr. Pritchard Barry, Jade, Orwell, Kevin, Heinrich, Norma, Goddard, Dennis, Hedwig, Bernice, Patricia, Polly, Luke, Rakel, Felida, Ansel, Jalin, Kat, B.T, Samuel, Mary Reynolds, Ian, Mr. Pritchard. 登場する8Dennis, Patricia, Hedwig, The Beast, Kevin Wendell Crumb, Barry, Orwell, Jade。つまり異なる人格となったが、何度でもいうが、本来、23の動物であるはずだった。だから最後に登場する24番目の人格は、最強の動物The Beastだったのだ。

 動物性、動物園というのは、実に魅力的な設定でありテーマ、それもきわめて現代的なテーマなのだが、それがネタバレを防ぐために抑圧されたことは、なんとも惜しい。


 またアメコミのスーパー・ヴィランやスーパー・ヒーロー/ヒロインは、動物であったことも、今回あらためて思い起こさせてもらった。バットマンとロビン、ペンギンとキャット・ウーマン……

posted by ohashi at 19:37| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年06月12日

年齢確認

以前、上野の美術館のどれだったか忘れたが展覧会の入場券を購入するために窓口前に並んだが、私とは別の窓口の列に並んでいた男性が、入場券を購入するとき、年齢のわかるものをみせるようにと言われ、腹を立て、吐き捨てるように「見ればわかるだろう」と窓口の女性に言って、なにもみせずに入場券を手に展覧会会場に向かったのをみたことがある。


その受付の女性は、おびえたような、バツの悪そうな表情をしていた。


だが彼女が悪いことをしたわけではない。そのクソジジイが横柄きわまりないのであって、もし私がすぐ後ろに並んでいたら、つべこべいわずに見せればいいんだよ、このクソジジイとまでは、まあ怖くて言わなかったと思うが、窓口の女性に、あれはみせるべきですよね、規則だから、なんだあの威張りくさったクソジジイ、あんなやつ死ねばいいの。もう何を言われても気にすることはないですよと、そのクソジジイの姿が見えなくなってから、こそこそと受付の女性につぶやいていたかもしれない。あいにく窓口がちがったので、それはできなかったのだが。


その窓口の女性を責めないでほしい。美術館なので、65歳以上が割引になり、年齢確認が必要になる。65歳より上か下かは、けっこう線引きがむつかしい。自己申告だけでは信用できない。年齢確認が必要となる。実際、その男性は、その時も今もまだ65歳ではない私とくらべても、けっこう若く見えた。私よりも若くみえたことは確か。だから年齢確認は、必要だったのだ。みればわかるという問題ではなかった。65歳以上かどうか、そのときは見てもわからなかったのだ。


それに、その時の受付の女性は、若くて聡明そうな誰が見ても美人だった。そんな彼女を叱るなんて、地獄におちるぞ、その自称65歳以上男め。


と、こんなことを思い出したのも、610日の夜、コンビニ(住所は正確にはわからないが、その地区の最寄りの駅はJRの新検見川)でアルコール飲料を購入したら、セブンイレブンの店員から、年齢確認をお願いしますと言われたからだ。


え、


年齢確認をお願いします。


え、


年齢確認をお願いします。


あのどうやれば年齢確認ができるのか、身分証でも見せるのかと、どうだったかわからなくなって混乱しそうになったそのときに、レジの下部にあって客側に向いている画面にタッチすればいいことを、まさにその画面をみて思い出した。一瞬ドキドキしてしまった。


だがそれにしても、おいおい、見ればわかるだろう。私をみて60歳か65歳かは、見てもわからないとだろうが、未成年ではないことぐらい、見ればわかるだろう。あとで周囲に、なんで私が年齢確認なんだと、さんざん愚痴ったら、まあ、そういう規則なのだから、店員も規則通りに年齢確認の声をかけただけれだから、かっかしないでと言われた。だが、これこそ、見ればわかるだろう。私は地獄に行くべきクソジジイなのか。


まあ気持ちは若い。気持ちはいまでも10代の少年の頃と変わってはいない。歳はとったが、精神は15.16歳の少年と同じだと思う。私は精神年齢的には、いまも未成年だ。それが見抜かれたか。そんなことはないだろう。

posted by ohashi at 15:25| エッセイ | 更新情報をチェックする

2017年06月11日

祖母と将棋

藤井四段の活躍が世間をさわがせているようだし、たとえばネット上にはこんなコメントが紹介されている。


その強さを、40年間真剣勝負を見続けてきた将棋写真家の某氏がこう語る。「彼は将棋を始めた最初の頃からコンピューター将棋に親しんできた新世代です。師匠や先人の戦術を地道に踏襲するといったそれまでの世代の成長の仕方とは違い、一貫して合理的です。『黒船が来た』と、多くの棋士たちが戦々恐々としていることでしょう。


もしこれが本当なら、たぶん本当ではないと思うので名前は伏すが、この将棋写真家(というジャンルのプロがいることを初めて知ったが)は、何もみていないくて、幻想を語っているようだ。というのも、たぶん、これも本当かどうかわからないのだが、こんなコメントがネットにあるからだ。


藤井四段は、5歳のとき祖母が買ってきた「スタディ将棋」という玩具に興味を示し、あきずに祖母と遊んだ


藤井君が将棋を始めたのは5歳。祖母が持ってきた「スタディ将棋」という、子供には難しい将棋の駒の漢字を、動き方が矢印で書いてありわかりやすく遊べるという玩具がきっかけだと言う。


お婆ちゃんに連れられて通い始めた将棋教室では、まず「詰め将棋」を解いたり「駒落ちの定跡」を覚えたりといった勉強をしたそうです。


将棋教室なのかスタディ将棋という玩具なのか、テレビでは将棋ソフトとか言っていたが、真相は不明。ただ、ご両親は将棋とは無縁で、祖母が将棋の手ほどき、もしくは将棋に興味をもたせたということが言われている。


これだって本当はどうかわからないのだが、祖母の存在が大きかったことはわかる。そこになにか説得力を感じてしまう。


ある時、別の大学の先生で、将棋とかチェスがプロ級の腕前の先生に最初誰に将棋をならったのかと聞ことがある。そうしたら祖父だという。そう、私たちの世代で将棋というのは、子供の頃、親とか兄とか姉に手ほどきを受けたのではなく、祖父母に手ほどきを受けた者がけっこういる。その先生の場合、祖父だったが、私の場合は祖母だった。そして藤井四段の場合も、祖母の手ほどきがあったようだ。


将棋教室か、将棋玩具か、将棋ソフトかわからないないが、藤井四段の祖母は、将棋を知っていたはずで、孫と将棋で遊ぼうとしたという可能性が高い。


私の場合も祖母が私に将棋を教えた。私の両親は、たぶん将棋を知らなかったと思う。で、どうなったのか。私は祖母から将棋のルールから定石をいくつか教わった。しかし私の祖母は、ほんとうに性格が悪くて、負けず嫌いなのかサディストなのかわからないが、子供相手の将棋で絶対に負けない。子どもの私は、いつも将棋で、徹底的に打ち負かされるか、もしくは瞬殺された。子ども相手なのだから、ときにはわざと負けてやるとか、そうやって子供をよろこばせるとかいう配慮などまったくない、ほんとうにク*ババ*だった。たんなる意地悪****でしかなったような気がする。


その結果、さすがに私はいつまでたっても勝てない将棋が嫌になって、祖母と将棋で遊ぶことはやめたが、ルールは記憶しているし、いくつかの定石も記憶している。ただ将棋はトラウマになっているので、自分からすることはないし、私の将棋のノウハウは子供の頃で止まてちるので、誰とやっても勝てないだろう。だから面白くもないだろう。。


ということで、私の祖母が、負けず嫌いではなくて、もう少し人が良かったら、べつに私が藤井四段のような天才将棋士になっているとまではいわなくても、へぼ将棋でも楽しめていたのではなかったかと思う。藤井四段の祖母のほうが、私の祖母よりの人間が上だったし、たぶん愛情も私の祖母よりも強かったのだと思う。

posted by ohashi at 22:09| エッセイ | 更新情報をチェックする

2017年06月10日

『マンチェスター・バイ・ザ・シー』追記

この映画のなかで一番怖いシーンというのがあって、それは主人公のケイシー・アフレックが自宅でうたたねをするところである。彼は故郷の町に戻ってくるのだが、不幸な事件がトラウマとして残っていて、現在の光景が過去の追憶に浸潤される。現在の光景と追憶の光景とは、とくに差異化をしていないため、一瞬、現在のことなのか過去のことなのかわからなくなることが何度もある。


そしていま現実の出来事なのか夢のなかの出来事なのかわからない事態が生ずる。彼がうたたねをしたあと目が覚めると、隣に、彼の幼い娘が二人座っている。そしておもむろに、「私たちは焼かれているの」(というような台詞だが、正確に覚えていない)という。と、そこで彼は目が覚める。二人の娘に出会ったのは、目が覚めてからではなく、夢のなかの出来事だった。二人の娘の言葉でほんとうに目が覚める。それは過去の出来事の記憶でもあるとともに、警告でもあった。


この不思議で恐ろしい夢については、なにか気になった。私自身、どこかで見た夢だった。正確にいえば、私は主人公のような恐ろしい体験をしたわけではないので、映画のなかの夢はみることはないのだが、不思議と既視感のある夢だった。


そしていま思い出した。フロイトの『夢解釈』にあった不思議な夢だ。父親が息子の言葉で目が覚める夢だ。この不思議な夢は、ラカンもセミネールでとりあげていた。


ねえ、お父さん、わからないの、ぼくが燃えているのが」と息子が父親に話しかけてくる。はっとして目が覚める父親は、死体安置所で、ろうそくの火が、息子の死体に燃え移ろうしていることを発見する。これがフロイトが報告している夢だが、ラカンは『精神分析の四基本概念』のなかの「無意識と反復」のなかでこの夢を扱っている――V「テュケーとオートマトン」の章、参照(岩波書店刊。なお岩波版『フロイト全集』刊行前の翻訳なので、本文ではフロイトの『夢判断』と書いてある)。


フロイトは、夢の機能を「願望充足」であると同時に「夢を見続けること/目を覚まさせないこと」と規定するところで、この夢を扱っている。目を覚まさせないどころか。目を覚まさせる悪夢がなぜでてくるのか、よくわからないところもある。ラカンの説明も、この夢の特異性を扱いながら、実は、この夢も眠りつづけるためのものであることを説明している――と同時に現実に直面させる機能もあることを指摘しつつ。


ここでは、フロイトとラカンの議論について考察できる準備はないが、『マンチェスター・バイ・ザ・シー』の例が、この夢について、なにかを教えてくれるのではないだろうか。映画の原作、あるいは映画の制作者が、このフロイトの夢について知っていたか、参照したか、パクったかについては、それについて語った証言があるのかどうかもしらない。ただ、つぎのようなことは言えそうだ。


焼死した人間、あるいは非業の死をとげた人間は、肉親とか家族とか関係者の夢のなかにあらわれる。関係者が、そういう夢をみることは、よくあるのではないだろうか。とすれば、それは願望充足か眠りの継続か、それ以外のものか、考える価値はあるだろ。


もうひとつ、フロイトの夢で父親が見る夢のなかの息子の死因がわからないことが気にかかる、フロイトは、この息子は熱病で死んだのだろうと推測している。まあ何かの病気で死んだのだろうということらしい。


しかし、この夢は、実は『マンチェスター・バイ・ザ・シー』と同じような状況だったのではないか(それを隠蔽するために死体安置所という舞台装置が考案された)。つまり息子は焼死したのである。そして今、自宅でうたたねをしている父親の夢のなかで、「ねえ、お父さん、わからないの、ぼくが燃えているのが」と語りかけてくる。はっと目をさます父親はいましも台所で火がでかかっているのを発見する……。


息子の焼死を助けられなかった、あるいは息子を(故意か事故で)焼死させた父親の見た夢というのが、フロイトの夢の表層下に潜んでいる深層の夢ではないだろうか。



posted by ohashi at 11:48| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年06月07日

『ザ・ダンサー』

2016年フランス映画・ステファニー・ディ・ジュースト監督


面白い映画だし、最後まで目が離せないというかあっというまに終わった感じがしたのだが、しかし絶えず緊張感の漂う、やすらぎの見出せない窮屈な映画という印象をもった。『光』と同様に顔のアップを多用する映像で、しかもカメラも下からあおることが多い。つまりこれだと映画館で最前列に座ってスクリーンを見上げているような、そんな印象がずっとつづく。そしてまた顔のアップ。そして見上げるカメラ。


またソコ(ソコロフスキー)演ずるロイ・フラー自身、この映画の物語展開のなかでは、いつもいっぱいっぱいの生き方をしていて、せわしない。それはまた生き方が不器用な印象もあたえつづける。つまりいつもいつも遅刻寸前でぎりぎりセーフというような生き方をしている。すこしは余裕をもって生きたらどうかと、よけない世話をやきたくなる。いつもいっぱいいっぱいなのであり、ようやく最後に一定の成功とともにやすらぎがやってくる。そおれまでは、もうほんとうにせわしない、息苦しい、緊張のしっぱなし、息抜きも、余裕もない。そんな映画だといえば、わかってもらえるだろうか。


ただ、もし、私の印象が、それになり共有されるものであるのなら、問題は、はたして、この伝記映画が、どこまで伝記なのかどうかということである。ロイ・フラーについて何も知らない私は、多少、調べてみたら、伝記的事実とこの映画との接点は、驚くほど少ない。どうしたのだろうか。ギャスパー・ウリエル演ずる貴族は、ロイ・フラーの活動に大きな影響をあたえたようだし、また彼女の成功とひきかえに死を選んだようが、いったい誰なのだ。


映画のなかの彼女は、つねにいっぱいいっぱいで、公演のあとは力尽きて倒れ病院に運び込まれるようなことを繰り返しているようにみえる。まさに全力の命がけのパフォーマンスなのだが、だとすればオペラ座の公演のあと力尽きて即引退となってもおかしくないようにみえるが、実際の彼女は65歳まで生きた。またパリのみならず各地でも公演をおこなったようなのだが、映画ではパリのオペラ座での初演時に彼女は心身ともにボロボロになっているようにみえる。


リリー・ローズ・デップ(ジョニー・デップの娘)が演ずるイサドラ・ダンカンは、ロイ・フラーをしたって渡仏し、またロイ・フラーにその才能を見出され高く評価されたことはわかるのだが、ふたりの関係は最後に決裂したようにみえるのだが、そもそもイサドラ・ダンカンは契約したのかしなかったのかもわからない。日本の川上貞奴との関係も結局どうなったのかもよくわからない。時系列、地理関係、いろいろなことが曖昧なまま終わっている。顔のアップが多い映像は、彼女の心理面を重視し、彼女から10センチ離れた外の世界で何が起こっていようが関係ない物語が展開する。


そのため伝記的事実は曖昧なままだが、彼女の踊りの再現は見事で、もしこのようなパフォーマンスだったら当時のパリの観客を魅了したであろうことは想像に難くない。また彼女が、衣装から照明さらに舞台装置にいたるまで一人でデザインし、総合芸術を目指していたし、複数の女性ダンサーを訓練し演出する才能ももっていて、ただのパフォーマーではなく、プロデューサーでもあったことはわかるのだが、どこでそのような関心をいだくようになり、またその技能を開花させるようになったのかについて説明はない。まあ彼女より10センチ外の世界には興味をいだかない映画なのだから、しかたがないか。


ただ興味深い点も多くあった。ひとつはこれはオスカー・ワイルドの『サロメ』におけるサロメの踊りでもあろう。ワイルドのテクストからはどんな踊りだったかはわからないが、今回のロイ・フラーのパフォーマンスをみて、あんな踊りだったのだと、その全貌がつかめたような気がする(映画のなかで彼女はワイルドの『サロメ』を読んでいた)。


イサドラ・ダンカンの登場によって、ふたりのモダン・ダンスの先駆者の相違が際立つところは面白かった。つねに全力パフォーマンスで短く燃え尽きようとするロイ・フラーに対してイサドラ・ダンカンは力を温存し休養をとりつつ余裕をもってパフォーマンスをつづける息の長いダンサーを目指している。ロイ・フラーの公演は肉体を酷使し消耗させる過酷極まりないものだが、イサドラ・ダンカンの公演は1回の公演でぶっ倒れるような激しいものではない。またロイ・フラーの踊りは衣装がすべてで、その衣装に照明があたり、衣装と照明のおりなす幻想性が売りだが、イサドラ・ダンカンの踊りは舞台装置とか照明も簡素にしてダンサーの身体の躍動と美を観客に見せるものとなっている。ロイのパフォーマンスは体の何倍もヴォリュームのある衣装を着こむのだが、イサドラはむしろ肌をおおく露出して身体性を誇示する。当時にあってはストリップまがいのイサドラのパフォーマンスは反感を買う面もあったのだが、ロイのそれはスペクタクルな芸術として広く受け入れられたようだが、体力の消耗が著しいわりに身体性が希薄で、大掛かりな装置によるスペクタクルは、現代では商業演劇の世界であって芸術性とは方向性が違うようなところもある。


ギャスパー・ウリエル演ずる貴族は、ほんとうならもっと癖が強くて、ロイの芸術的成熟の障害となるような存在のはずが、ロイのほうが癖が強くて、むしろ彼は放蕩貴族というよりも信頼のおけるパトロンのようなところがあるが、最後には、おそらく当初予定されていた役割にもどり、彼女の芸術的発展を阻害しないように死んでしまう。ギャスパー・ウリエルは『ジョヴォーダンの獣』『ロング・エンゲージメント』の頃からみているのだが記憶にない。最近では『イヴ・サンローラン』と『たかが世界の終わり』に出演しているが、後者はまだ見ていない。まあ人気俳優なので、彼目当てにこの映画を見る観客もいるだろう。


ソコ(ソコリンスキー)は、『パーソナル・ショッパー』『カフェ・ソサエティ』のクリスティン・スチュアートとできていたようだが、いまは関係は解消したようだ。ただ、この映画は、クリスティン・スチュアートも出演していた『アクトレス』を思い起こさせるものがある。ベテラン女優(ジュリエット・ビノシュ)、彼女をサポートする秘書(クリスティン・スチュアート)、そして新しい若い女優(クロエちゃん)の三角関係は、ロイ(ソコ)と、メラニー・ティエリーと、イサドラ・ダンカンとの三角関係に重なり合う。このままロイがイサドラの存在の前にかすんでいくのかと思ったのだが、まだ彼女はオペラ座にデビューもしていなかったのだ。


リリー・ローズ・ディップについては、『コンビニ・ウォーズ〜バイトJK VS ミニナチ軍団〜』という、ぶっとんだおバカ映画の予告編でみていたのだが、あれが彼女だっと今回はじめて気が付いた。絶対に、『コンビニ・ウォーズ〜バイトJK VS ミニナチ軍団〜』見るぞ。それにしてもなんというおバカなタイトルなのだ。

posted by ohashi at 22:29| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年06月06日

梅酒とらっきょう

梅とらっきょうを漬ける季節になった。今年は、有機栽培のらっきょうの入手に手間取っているので、先に入手した青梅で梅酒をつくることにした。


母が生きていた頃は、毎年、梅酒を作っていたが、ある時、テレビで、どこかの居酒屋の主人が、うちはブランデーで梅酒をつくっていると話していて、実物を見せていた。昔の話だが、たまたま高級ブランデーをもらったこともあり、ブランデーを日常的に飲む習慣のない我が家では、面白いアイデアだと思い、ブランデー梅酒をつくってみた。味にコクが出るのではと思ったのだが、もちろん、それは予想通りで、ブランデー梅酒は信じられないくらい美味しかった。


その後、ブランデーをもらうことなどまったくなくなって、ブランデー梅酒を味わう機会はなくなったのだが、今年はブランデー梅酒をつくることにした。


らっきょうと梅では、どちらかが漬けるのがたいへんかというと、一概には言えないのだが、らっきょうは薄皮をとることがむつかしい(洗っているうちに取れるというのだが、らっきょうの状態にもよるが、薄皮は簡単にとれないことも多い)。どのくらいの大きさまで皮をむくべきか迷うことも多い。大量にらっきょうを漬ける場合、らっきょうの処理には手間がかかる。


その点、梅酒は、簡単で、青梅のお尻の蓋というか蔕の残骸をとるだけで下ごしらえはできる。竹串で簡単に取れる。あとは氷砂糖とかハチミツと焼酎があればいい。ただ、梅酒をつくる容器が2リットル瓶しかなくて、これでは1キロの青梅(必要な焼酎は1.8リットル)には小さいので、スーパーで、3リットル以上の容器を購入することにした(この時期、梅とからっきょうを漬ける材料を売っている)。するとそこにパック入りの梅酒用焼酎だけではなく、梅酒用のパック入りブランデーまであるではないか。最近は、梅酒用にブランデーを売っていることを初めて知った。気づくのが遅すぎた。


もちろん梅酒用なので安価である。高級ブランデーではない。高級ブランデーのほうが絶対に美味いと思うのだが、高価で、そんなお金もないので、今年は梅酒用ブランデーでつくってみることにした。実は、2日前に3リットルの瓶に青梅をブランデーでつけ終わった。あとは3か月か4か月後に梅酒になる。味わえるのは早くて夏の終わり。そもそも糖尿病の私が、梅酒なんか飲んでいていいのかということになるのだが、がぶ飲みするわけではないし、糖尿病にも糖分は必要なので。また昨年つくった焼酎梅酒は昨年内に飲み切った。がぶ飲みはしなかったにしても、けっこう、毎日飲んでいた気もする。糖尿病が悪化したかもしれない。

posted by ohashi at 08:31| エッセイ | 更新情報をチェックする