2017年05月27日

『光をくれた人』

The Light between Oceans


1.ゴーン・ベイビー・ゴーン


ベン・アフレックが弟のケイシー・アフレックを主演した初監督作品『ゴーン・ベイビー・ゴーン』(2007)は、消えた赤ちゃんを捜査する探偵(ケイシー・アフレック)が最後に市(ボストンだったか)全体をまきこんでいる大きな陰謀をつきとめる話だったが、その陰謀とは貧困層に生まれた赤子を比較的裕福な中産階級以上の夫婦が引き取って(養子にするのだったか)育てるというのもので、その際、赤ん坊を貧乏人の親から奪い、新しい両親のものとへ届ける。これを市ぐるみで、つまり市長や市の幹部、また警察署までがシステムを構築して長く実践してきた。だが、いなくなった赤ん坊を探すよう依頼をうけた探偵が粘り強い探索の末に市の陰謀をあぶりだす。


ここまでだと、ひどい話だと思うかもしれない。母親から子供を非道さは言語を絶する。しかし実際にはそんなに簡単ではないことがわかる。赤ん坊を奪うのは営利目的の人身売買ではない。むしろ人道的見地から子供の幸福を願っての最善の策として秘密のシステムが構築されたのである。貧困層に生まれた赤ん坊は、周囲の劣化した環境から、育児放棄されたり虐待されたり殺されたりする。たとえ無事に成長するとしても、すさんだ環境のなかで育った子供は犯罪者予備軍でしかない。貧困層の子ども全員が犯罪者になるわけではないが、まっとうに生きようとしても数々な困難に逢着する苦難の人生を強いられる。貧困層の子どもたちは生まれながらにして悪人ではない。環境が彼らを犯罪者にする。とすれば彼らの多くは適正な環境のなかで育てられればりっぱな市民に成長するだろう。また子供をほしがっている人びとは多い。たとえ富裕層ではなくても、生活に余裕のある家庭に引き取られたら、子供にとっても、これ以上に幸せなことはないのではないか。赤ん坊の頃に母親から引き離せば心の傷が残ることもない。


ただし、それは違法行為でもある。となると法や正義を求めることと、幸福を追求するとが鋭く対立する。正義か幸福か。このふたつは両立することが望ましいが、往々にして、一方を追求すると他方がないがしろにされることになる。カント的倫理とアリストテレス的倫理の対立といってもいい。正義か幸福か。この困難な選択を主人公が迫られたとき、ケイシー・アフレックは組織ぐるみの犯罪を告発し、赤ん坊を本来の母親のもとに返すことになる。市長や警察署長、さらには恋人の反対を押し切って。


彼にしてみれば、善意による行為であっても、違法は違法であり(違法であることがわかっているからこそ、システムが秘密になっているのであり)、これを許してしまうと、幸福の追求のために法をつぎつぎと捻じ曲げる、いや法に反することが常套化してしまう。そのため法を破ることは許されない。彼は彼なりに、きちんと筋を通すことになる。そして母親のもとにもどされた赤ん坊。再会時にはうれし涙にくれていた母親だったが、ほどなくして自堕落な生活にもどり、赤ん坊の世話もやかなくなることがわかる。映画は答えをだしていないが、はたしてこれでよかったのか。このままいけば、赤ん坊がこの母親あるいは周囲の環境のせいで死んでしまうかもしれないし、死ななくとも悲惨な人生を送るしかないという暗示はある。違法によって得られる幸福は真の幸福ではないが、法を人間の幸福を作り出すものではないので、法を順守すれば、そのまま幸せになれるわけではなく、むしろ不幸せになる。


もちろん逆も考えられる。子どもは何も知らないだろうが、ここでの育ての親は自分たちが違法なかたちで子供を手に入れたことを知っている。もちろん養子縁組して、書類上、問題ないようにはなっているのだろうが、赤ん坊は、ほんとうの産みの母親から奪ってきたものであることを育ての親は知っているのである。そのように子供を不正によって得たということを、たとえ墓場までもっていくとしても、子供にも周囲にも隠したまま生き続けることで自分たちが、あるいは子供を、ほんとうに幸せにできなるのだろうか。大金を強奪して幸福な生活を実現しても、精神的に幸福かどうかわからないことになる。映画では探偵が赤ん坊を産みの親に返すことで、育ての親になる男女を救ったということにもなるかもしれない(もちろん階級問題もあって、中産階級から富裕層は、貧困層から子供を奪っても許されると思いあがっているふしがあるし、これは貧乏人の子どもを肉として食べるという解決法と比べても、あまり変わらないともいえる)。


正義か幸福か。正義をとれば幸福がきえるかもしれず、幸福をとれば正義が消えるかもしれない。これは、赤ん坊は誰のものか。産みの親か、育ての親か――という問題とも関連する。言えることは、ここからいくつかの可能性が考えられるということ、そしてその可能性の中には誰もが不幸になるという事態も含まれるということである。


しかし映画ジャンルは答えをだしている。『ゴーン・ベイビー・ゴーン』も、ジャンルの規則に実は従っているのだが、赤ん坊は生みの親のものである。産みの親から奪ってはいけない。産みの親のもとに赤ん坊は返すべきである。育ての親のもとで、健やかに、また幸せに暮らしましたという話にならないのである。


ここまで確認したうえで、『光をくれた人』を考えるとすると、灯台のある島に海から漂着した船のなかにいた赤ん坊を、自分たちの子どもにしようと灯台守の妻が提案するところから運命が大きく傾き始めるのだが、灯台守としては、この件は報告しなければいけない。小舟にいっしょにいた父親らしき若者が死んでいたということもあって、このまま報告しなくても、誰も気に賭けないという判断したふしもある。幸福が、違法性の認識を凌駕したのである。


この幸福がゆらぐのは、死んだ男性の妻であり赤ん坊の母である女性(レイチェル・ワイズ)がいて悲嘆にくれる人生を送っていることを灯台守の男(マイケル・ファスベンダー)が知ったときである。自分たちの幸福が、違法によって支えられているというだけなら、実は、耐えられるのかもしれないが、産みの母親を不幸にしていたこと、他人の不幸によって、自分たちの現在の幸福が得られたことへの罪の意識から、やがて、赤ん坊(いまや二、三歳になっている)を、産みの母親のもとに返すということになる。もちろん警察に逮捕され投獄される灯台守と、育ての親を親と思っている女の子のつらい生活の変化、そして娘を失った喪失感と夫の裏切りへの怒りによって悲嘆の日々を送ることになる妻という劇的な変化が登場人物たちを待ち受けている。とはいえ、これは予告編をみて予想できることなのだが。


ここでは絶対的な区分ではないとしてもジェンダー的な区分をある程度指摘できるだろう。正義を貫き、法をも守り、筋を通すことにこだわるのは、どちらかというと男性であり、幸福の追求を優先するのが、女性であるというような。もちろん、そうでない男性や女性がいるということは承知のうえで、ステレオタイプ的なジェンダー化された区分を導入できるかもしれない。


しかし、この映画は、産みの母親が失った娘を再会し、たとえ悪意はなくとも産みの親から子供を不当に奪った人間は罰せられねばらないというジャンルの規則を、この映画も守っているのだが、同時に、産みの親になつかない娘(もちろん最初はそうだが、いずれ抵抗はなくなることを描くこともできるのだが、幼い娘はなつかないままである)を描くことによって、産みの親絶対視に対して疑問を投げかけている、あるいは別の選択肢を暗示しているということもできる。違法なことではなくても産みの親と育ての親の二人ができることがある。その場合、産みの親がつけた名前と育ての親が付けた名前がぶつかることがある。


同じくオーストラリアを舞台にした映画『LION/ライオン~25年目のただいま~』(2016)では、インドで母親と離れ離れになり孤児となってからオーストラリアの夫妻のもとに養子にもらわれたインド生まれの男が、生き別れになった母親をもとめてインドに旅立つ。もちろん育ての親との縁を切るのではなく、オーストラリア人として、出身地のインドへの一時帰国するのである。そしてまだ生きていた実の母親と再会する。育ての母親と父親は不法な手段で孤児を養子にしたのではないし、またインドで生活するというつもりも本人にはないので、二人の母親の間を行き来しながら、二つの国、二つの世界で生きていくことになるのだが、ただ、ここでは産みの母やと産みの母親のつけた名前が最終的に勝利する。映画のタイトル『ライオン』の意味が、最後の最後であかされる。それは幼い主人公が、自分の名前をいい加減なというかまちがった発音で覚えていたのだが、産みの親と出会って、そのほんとうの名前がわかるのである。つまり「ライオン」という意味の名前だった。


『光をくれた人』では、女の子に、灯台守夫妻はルーシーと名前を付けるのだが、もともとの名前はグレースだった。女の子は産みの母親のところにもどされても、グレースと呼ばれることを拒み、ルーシーが自分の名前だと言い張る。すると彼女の祖父が、それでは名前は「ルーシー・グレース」としよういうと、女の子はそれで納得する。う~ん、なんという簡単な解決。しかし、グレースという最初の名前を特権化することなく、ルーシーとして育った彼女の人生をも尊重し、彼女をルーシーと呼んでかわいがった灯台守夫妻のことも記録するという二重性ももたせていることに感銘を受けた。過去と未来、産みの親と育ての親、憎しみと許し、幸福と正義、それがまじわるところにいる女の子「ルーシー・グレース」は灯台の光のように、両方向に光をあたえることになった。そこに、ジャンルの規則にやすらぐことなく、別の選択肢をも登録しようとした映画の強い姿勢があらわれているようにも思えるのである。


『ライオン』の話がでたついでに、産みの親と育ての親ではないが、二種類の親の存在にゆる動く話に、ちょっと古い映画だが『アメリカン・ラプソディー』(エヴァ・ガルドス監督2001)がある。私は以前、この映画をコンピューターの小さな画面でみたのだが、それでも涙がとまらなくなって、情緒不安定になったのかと自分でも心配になったのだが、ネットなどではアメリカ人もまた、この映画に涙していたことがわかり、なかには泣きたいときには、この映画をみるとまでコメントしているアメリカの女性もいて、私も含めみんな情緒不安定なのかもしれないが、同時に、泣かせるポイント抑えた映画でもあることがわかった。これは第二次世界大戦後、ハンガリーからアメリカへと亡命するようなかたちで移住した家族が、事情により、まだ赤ん坊の女の子をひとり、ハンガリーの祖父母(たんに里親というだけだったかもしれないが)のもとに預けなければならないことにある。農家で祖父母によって育てられたその女の子は、やがてアメリカにいる両親家族からアメリカへと迎い入れられることなり、慣れないアメリカの生活に苦労しながら、やがて高校生か大学生くらいになる。しかし、彼女はハンガリーで過ごした幸福な過去の生活と祖父母のことが忘れられず、単身、ハンガリーに一時帰国する。現在と回想の過去が交互にあらわれるような栄華のなかで、彼女が祖父母と過ごしたハンガリーでの生活は、客観的にみれば共産主義体制下での、そんなに幸せな生活ではないようにみえるが、彼女におっては祖父母にかわいがられ、貧しいながらも、幸福で輝いていた至福の一時期だったのである。猿顔の女の子と、老人夫妻との愛情あふれる生活ぶり回想シーンが、映画のすべてをもっていくところがある。やがて彼女もハンガリーでの祖父母のもとを去りアメリカに帰る。もう二度と会うこともない祖父母のもとを。そして幸福な幼年時代ともこれを限りの別れを告げ、産みの親のもとで暮らすことになる――喪失感を心の片隅にかかえながら。この女の子と同じような体験をした人は、そんなにいないと思うが、なぜか涙が出てくるのは、どこかで共通する経験を誰もがもっているからだろ。とにかく猿顔の幼い女の子のシーンは泣ける。彼女が大きくなってからをスカーレット・ヨハンセンが演じているのだが、彼女の部分は、べつに泣けるというわけではない。


『ライオン』とこの『アメリカン・ラプソディー』を並べると、どちらの二種類の親の間を揺れ動き、みずからの出自へと帰還するのを、子供の側から描いている。これに対して『光をくれた人』は子供の視点ではなく親の視点から描いている。そのためどちらの親も子供を中心に対峙することになる。二つの大洋が、この灯台のある島で、対峙しているように。またこの日本語のタイトル「光をくれた人」というのは、夫婦の物語をタイトルに選んでいる。子どもがまだ小さいといこともあるが、親の側からの視点の映画であり、だったら『ゴーン・ベイビー・ゴーン』のほうと接近するが、ただ、『ベイビー』も実はそうであったかもしれないのだが、産みの親を尊重し、正義を重視するというジャンルの規則から、大きくはなくても、すくなくとも外れている方向へと、この『光をくれた人』は踏み出したかのようにみえる。 つづく

posted by ohashi at 19:54| 映画 | 更新情報をチェックする