今週2度目のクリスティン・スチュアートだが、彼女の出演映画は『パビック・ルーム』からみている(もっともあの男の子にみえる女の子が彼女だったというのはあとでわかったのだが)。『ランナウェイ』がけっこうよくて、『アリスのままで』くらいまで観たのだが、『トワイライト・シリーズ』は部分的にのぞいただけで全部はみていない。まあ、それはともあく、二人のクリスティンについて語るまえに、あるいは語らないまえに。
ウッディ・アレン監督の『カフェ・ソサエティ』(2016)は、1930年代のハリウッドとニューヨークを舞台にした映画。ネット上のサイト(KINENOTE)では、こんなあらすじ紹介がある(【】は私の挿入)。
1930年代。もっと刺激的で、胸のときめく人生を送りたい……。漠然とそんな願望を抱いたニューヨークの平凡な青年ボビー(ジェシー・アイゼンバーグ)【なおボビーはニューヨークのユダヤ系移民の子という設定であり、ユダヤ系であることは最後まで強調され続ける】は、ハリウッドを訪れる。華やかな映画の都には、全米から明日の成功を目指す人々が集まり、熱気に満ちていた。そんななか、業界の敏腕エージェントである叔父フィル(スティーヴ・カレル)のもとで働き始めたボビーは、彼の秘書ヴェロニカ“愛称ヴォニー”(クリステン・スチュワート)の美しさに心を奪われる。ひょんな幸運にも恵まれてヴォニーと親密になったボビーは、彼女との結婚を思い描くが、実はヴォニーには密かに交際中の別の男性がいることに彼は気付いていなかった【その男性とは、彼の叔父フィルであり、彼女は結局、ボビーを捨てて、フィルと結婚する。傷心のボビーはニューヨークにもどるが、そこでナイトクラブを経営しているギャングの兄ベンから経営をまかされ(前のオーナーは不正をしたためベンに殺されコンクリート詰めになって埋められる)、クラブを繁盛させてニューヨークの上流社会(カフェ・ソサエティ)で一流経営者として成功する。やがて、ボビーはもうひとりの美女ヴェロニカ(ブレイク・ライブリー)と出会うのだが……そして結婚するのだが、ある日、ハリウッドからフィルとヴォニー夫妻が仕事でニューヨークにやってきて、ボブのナイトクラブを訪問すると、ボビーは、ヴォニーのことをいまも忘れられないことに気づくのだった…… となる。】
映画は、ずっとステレオタイプのパレードである。1930年代にこういう人物がいたということの再現ではなく、いかにもいそうな人物のステレオタイプを演じているという印象が強い。なるほど、もし1930年代にはこうした人物は、時代を真摯に生きていたことだろう。たとえ気障でも、偉ぶっているとみえても、ほんとうに気障で、ほんとうに偉かったのである。しかしもし私たちが1930年代にタイムスリップしたら、周囲の人間は、1930年代というジャンルの映画や物語の人物を、まじめくさって演じているとしかみえないだろう。
それと同じようというべきか、この映画では、あたりまえのことといわれなねないが、誰もが1930年代を演じているのである。ちなみにウッディ・アレン的人物というのは、口ごもったり、おどおどしたりする神経質な、現実不適合者だが、その人物をジェシー・エイゼンバーグが演じているのだが、うまく演じすぎで、実に達者なウッディ・アレン的ステレオタイプをよどみなく演じている。そしてウディ・アレン自身は、ナレーションにまわっているが、それもプレディクタブルなセイム・オールド・ストーリーをよどみなく語っている。たとえ予想外のことが起こるというナレーションであっても。ここでは予想外のことが、予想通り起こるのである。
ユダヤ系ギャングというのは、最近のアメリカ映画によくでてくるロシア系マフィア(ときにはイスラエル系マフィアというのもある)のように1930年代では珍しいのかもしれないが、ユダヤ系一族の生活習慣や考え方はしっかりステレオタイプ的である。
かくしてステレオタイプの饗宴、あるいは登場するのはステレオタイプ的人間でしかないというこの映画の世界が出現する。また物語もとんとん拍子に、よどみなく進む。すべてが想定内の出来事であるからだ。
しかし、そのステレオタイプ的想定内的世界に、亀裂が入る。元カレ、元カノの登場である。ジェシー・アイゼンバークとクリステン・スチュアートがニューヨークで再会するとき、彼ら二人のよどみない、つぎはぎもない、ほつれもない、想定内のステレオタイプ的スムーズな人生に、影が生まれる。後悔と無力感。あらたな方向にはすすめないが、かといって、このままでいるのは虚無感がつのだけの人生。予想内のステレオタイプの人生に、ふと生ずる絶望と落胆と虚しい希望。つまり二人は、観客は、ここではじめてリアルに触れることになる。表情豊かに演じていた役者たちが、素の自分にもどるとき、もしそれを観客がみていたら驚くにちがいない無表情。それと同じものを、真実の瞬間を、素にもどるリアルな瞬間を、最後に見せてくれることで、この映画は、ステレオタイプのヴァーチャルな現実を超えた、いやその現実の生じた亀裂と、その亀裂の背後にあるものを観客に教えるのである。