2017年05月22日

『パーソナル・ショッパー』

またも他人の映画評を引用して、それをこけにして喜ぶのかと思われるかもしれないが、そんなことはしない。以下部分的に引用するネット上の映画評は、全く同感であるがゆえにここに引用する。


◇都会的オカルトfilm (投稿日:5/21) ポスターとタイトルだけを見て失敗? おしゃれと人間関係云々のstoryかと思いきやオカルト?霊媒師ってことか。あちゃー(汗)パーソナルショッパー、セレブの御用聞きというのは大変だし、空虚だけど、やってみたい(笑)

 C.スチュアート、セミヌード的に頑張る、何故? 肌もきれいで、スタイルも良いのだがキーラは背丈があるので、彼女の服ではバランスが… 後半はスリラー+オカルトでモウリーンが狂気じみたのかと思ったが、そんなこともなく。こういうことって目に見えないし、それが真実かなんてわからないからstoryはどうとでもできる。うーむ、簡単にこういうもの製作してしまって良いのかい?少しstoryを知っておけば、観に行かなかったなぁ。この監督のC.スチュアートも出演した前作は好きなんだけど。


◇スピリチュアル要素がある心理ミステリー映画はよくわからない終わり方をするものが多く、今回も危惧していたが、カンヌで監督賞を獲ったことと、予告編で鑑賞を決めた。残念ながら私の感性には合わず、勿体ぶる割に中途半端で要するに何を言いたいのかわからないスピリチュアル系映画であった。予告編で充分。クリステン・スチュアートの美乳が救い。


(なおクリスティン・スチュアートのヌードとか美乳に関するコメントに私が同意しているわけではない。)


「パーソナル・ショッパー」(rというのは買い物相談係の意味で、デパートかなにかが買い物客にファッションその他のアドヴァイスを与えるためにデパート側が雇う人間と理解していたが(英和辞典などでは、そういう定義なのだが)、この映画では、セレブの雇い主の代わりに買い物を代行する役割。でもそれはBuying Agentというのではないかと思ったのだが、ちがうのかもしれない。買い物代行業といっても、たんに買い物リストの品を購入して運んでくるというのではなくて(これだとたんなるパシリにすぎないが)、自分のセンスと判断で購入するものをみつくろうので、買い物代行業と買い物相談係の両方をかねているのだろう。


上記に引用した映画評のように、最初はミステリアスなサスペンス映画というふうに思っていたのだが、映画がはじまってすぐに、あれこれはホラー映画かと、意表をつかれ、しかも最終的に、これはホラー映画でもないスピリチュアル映画だとわかって、これでは大川隆法監修の映画とあまりかわらなくなったとがっかりした。


前作の『アクトレス』(これは日本でのタイトルで、原題はちがうが、まあ「女優」というのは内容にあっているとはいえる)はよかった。ベテラン女優の役のジュリエット・ビノチェを最終的には追い落とす若い女優にクロエ・モリッツが出演していて、純情可憐そうな少女にみえて、ものすごく腹黒いという少女という役どころがなんともすばらしかったし、彼女の対極に、ベテラン女優の秘書のような役割をはたすクリスティン・スチュアートがいて、最終的に映画のなかでは、彼女はビノチェットの妄想のなかの存在で、現実にはいなかったことがわかり、余韻を残すいい映画となった。


また前作『アクトレス』におけるクリスティン・スチュアートと、セレブでもある女優との関係性は、今回のパーソナル・ショッパーにも引き継がれているようで、期待感大であったのだが、最初の方から、彼女が夜に霊をもとめて、古い舘の内部を探索するというところが、方向性が予想外のへんなところをめざすものであるとわかり、ただただ唖然とするほかはなかった。


というのも彼女が依頼主のセレブのために試着するだけでなく、依頼主の留守中にクローゼットから依頼主のドレスを選んで着て、依頼主のベッドで一晩過ごすというのは、セレブの依頼主になりきるという、それこそ、最近、引退を発表したアラン・ドロンの『太陽がいっぱい』と同じ世界ではないか。またそれは依頼主との一体化のみならず、依頼主にとってかわる象徴的殺人でもあって、やがてこれが事件に発展してゆくというふうに予告編段階ではわかるのだが、本編をみていると、まったくその予想は裏切られる。


実際、事件に発展しそうなときに、彼女のもとにラインでメッセージが入ってくる。そしてそのラインでのやりとりに魅了されていく彼女のエピソードが長い(長く感じられる)。人のラインでのやりとりをずっとみせられているようで、それはそれで謎のメッセージなので興味深いのだが、映像的には面白くない。


事件は起こり、それは心霊超常現象であるかのように見せかけられた、実際には人為的犯罪であったことがわかる。その部分では、予想外でもあり、また手掛かりは与えられていた犯人でもあったので、サスペンスとしてはきちんとできているのだが、だとしたらスピリチュアルな世界はどうなるのかということがあげられる。


映画のなかでは心霊現象、超常現象は、実在するというのが原則である。ちょうど、たとえば映画のなかでは少女が(たとえ殺されても)最後には勝利し(最近作では『アイ・イン・ザ・スカイ』から『アリス』や『美女と野獣』にいたるまで)、育ての親は生みの親には負けるしかない(『ゴーン・ベイビー・ゴーン』から『光をくれた人』にいたるまで)。まさにそれと同じで、超常現象は、どんなに合理的に説明しても、存在するというのが映画の大前提である。そのため事件は解決したあとも、もうひとつの霊の世界は実在するという物語がつづかなければならない。


と同時に、超常現象とは無縁だった事件も、実は、霊の存在がひきおこしたかもしれないという可能性も示される。また19世紀の交霊会・降霊会における霊との通信手段は、音声でもなければ絵でもなく、タップであったということらしいが、それはモールス信号が発明されたのと軌を一にしていて、モールス信号をまねた詐欺であるという可能性が示唆される。しかし、そこから心霊現象はみんな詐欺であるという方向にはすすまず、犯罪には心霊現象がからんでくるという暗示にむかうように思われる。象徴的なシーンは、最終的に犯人が捕まる前に、目に見えない存在が、ホテルから通りへでていくところである。つまり、この目に見えない霊(おそらく彼女の死んだ双子の兄で、彼女の守護霊でもある)が、疑われた彼女を、真犯人を示すことで救ったのかもしれない。また彼女が犯行現場で感じた異常な存在は、人間ではなく霊であったかもしれない。となると霊は、彼女の意を汲んで、殺人をおかしたともとれないことはない。また見方をかえれば、一連の事件は、彼女の抑圧された欲望が、引き起こしたことで、彼女は自分で手を下すようになるまえに、悪霊あるいは自分の守護霊が彼女の代行者となった、つまり霊もまた、彼女をという依頼主の欲望によって呼び出され、買い物のならぬ殺人を代行したということになる。パーソナル・ショッパーは、彼女ではなく、悪霊か守護霊のほうだったということだろう。


ただ、すべては、そのように暗示されているというだけで、私の気のせいかもしれない。


そうだという声が聞こえてきそうだが。ちなみに、映画の最後は、観た人はわかるのだが、すべては「私の気のせいか」と彼女が霊に問う場面である。トーンと霊は大きな音のタップによって答えを返してくる。気のせいだ、と。The End.

posted by ohashi at 21:42| 映画 | 更新情報をチェックする

『マンチェスター・バイ・ザ・シー』

ネット上にあった、ある映画評から、執筆者は文章はうまいが、言っていることに内容がない。


「マンチェスター・バイ・ザ・シー」はケネス・ロナーガン監督の長編3作目だが、とてもそうは思えないほどドラマの組み立てがうまい。とくに年齢なりに人生経験を組み立ててきた大人が見れば、この映画の良さはすぐにわかる。


何だこの言い方は?まるで、あなたが年齢なり人生経験を組み立ててきた大人であるかのような口ぶりだが、どこからその自信がわいてくるのだろう。こういう慢心した自信家は、ケイシー・アフレック(映画のなかでは酒乱の役でもある)にぶちのめされればいいのだ。


だいたい年齢なりに人生経験を積むと、人間が悪くなることはあっても、良くなることはない。それがここにあらわれている。わたしに高齢者だが、こういう愚か者をからかい、上げ足を取ってよろこんでいるのだから人間のクズ、最低の人間である。これは認めるしかない。一方この評者は、自分のことを賢者のようにみなしている愚か者である。こんな人間にほめてもらっても、映画のほうが迷惑だろう。「年齢なりに人生経験を組み立ててきた」??? こいつは日本語を知らない。「年齢なりに人生経験を重ねる・積む」と表現するのがふつうでしょう。「組み立てる」?「人生経験を組み立てる」?年齢なりに人生経験を積んだ人間が普通の標準的な日本語能力だけは身に付けなかったとしたら。あるいは自分は40歳代で、結婚してからも長いので、そろそろ浮気のひとつかふたつしてみて、浮気・不倫というものがどんなものか、自分なりに人生経験を組み立てたということか。バカか。


ボストン郊外で便利屋をするリー(ケイシー・アフレック)は、兄の死をきっかけに故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーに戻ってくる。彼を驚かせたのは、遺言に兄の息子で16歳のパトリック(ルーカス・ヘッジズ)の後見人になれとあったこと。だがリーはある過去の事情から、この町にとどまるわけにはいかないのだった。


死んだ兄の息子の面倒を見ろと遺言で言われる。なんとも奇妙な依頼である。そこだけ聞けば、はた迷惑な依頼といってもよい。


だが、実際は全く違うことがやがてわかってくる。


この紹介はまちがっていないと思うけれども、「死んだ兄の息子の面倒を見ろと遺言で言われる。なんとも奇妙な依頼である。そこだけ聞けば、はた迷惑な依頼といってもよい。」なるほど迷惑な話かもしれないが、しかし身内だ、当然のことといえば当然のことで、よほどの事情がないかぎり後見人になるでしょう。しかも映画の冒頭では、ケイシー・アフレックと、その甥とその両親(アフレックの兄夫妻)が、仲良くボートに乗っている場面であって、甥と仲が悪いわけではない。だから、なぜ、ケイシー・アフレックが嫌がるのかというのが映画の焦点となる。


甥の後見人になれとの依頼→奇妙な依頼?→迷惑な話→引き受けられない事情となれば、そこにドラマもなにもない。つまりこれでは「理不尽な要求をつきつけられ、理由を説明するまでもなく理不尽な要求をはねつける」という、なにも展開しない、くありきたりなシークエンスでしかない。


仲のよい甥の父親が死んだので後見人になれとその父親が遺言を残す→迷惑かもしれないが理不尽な依頼ではないし、甥のためにもそれがベストらしい→にもかかわらず、後見人になることを断る→それはなぜか?


こうでなければドラマが成立しないでしょう。年齢なりに人生経験を組み立てるだけの人生を送っているとこういうことになる。なにも理解しないままで終わってしまう。実はこの評者は、映画評論家と自称している。ひどい話だ。


主人公リーには、この街を離れざるを得なくなった過去がある。それは逃れられない罪であり、古い住民の多いこの寒々とした町で暮らすということは、永遠にその罪を意識し続けて暮らすと同義である。これは確かにたまらない苦痛であろう。


以下、ネタバレ。しかしネタバレでも、映画を鑑賞する際には、じゃまにならないし、ここに重いテーマが集約されているので、触れずにはいられないし、わたしは映画評論家でも紹介者でもなんでもない、ただの人間のクズなので、書かせもらえば、火事を出すのである。ふつう火事の原因となっても、放火しない限りに罪に問われない。しかし火事の火元となった家の住人は、その火事が隣家に及んだりしたら、結局、引っ越すという。まさに、いたたまれなくなるからであろう。主人公の場合、火事を起こしても、自分の家が焼けただけで、他人に迷惑をかけていない。火事によって、他人が迷惑をこうむったわけではない。しかし、自分の子どもたちが焼死するのである。そのために妻とも離婚する。自分のミスで、火事を起こし、自分の幼い子供たちを死なせてしまう。自責の念からは逃れられない。しかも周囲からミスで自分の子どもを死なせてしまった人間のクズとみなされてしまう。いたたまれなくなるのは当然である。故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーに帰りたくなくなるのも当然である。


はっきりいって、こうなると死んだほうがましである。断罪されたり罰を下されたりしたほうがましである。それがかなわないまま贖罪の人生を送らざるを得ないのである。繰り返すと、こうなれば死んだほうがましである。そしてこういうことは誰にもでもおこる。それが怖いし辛い。


それでも彼は迷い続ける。なぜか。それは観客にもすぐにわかる。それは兄が弟に託した息子パトリックが、本当に素晴らしい少年だからだ。彼と暮らすことはリーにきっと素晴らしい幸福をもたらすと誰もが思う。あの出来事以来、消化試合をひたすら繰り返すような人生を歩んできたリーにとって、パトリックとの新しい人生は未来そのものだ。


「あの出来事以来、消化試合をひたすら繰り返すような人生」という言い方はうまい。日本語能力に疑問がある一方で(「年齢なりに……組み立てる」)、表現力はあることは認めざるをえない。そしてまた判断力はないことも認めざるを得ない。「それは兄が弟に託した息子パトリックが、本当に素晴らしい少年だからだ」はあ? え、本当に素晴らしい少年だから?


このパトリック少年、高校のガールフレンドを二股かけている。最後にはばれてしまうようだが、二人の女の子を手玉にとっている。ホッケー・クラブの選手のようだが、練習試合中に、相手の威嚇的暴力プレーに切れて、襲い掛かるというのは、酒乱で暴れる叔父の血をひいているところがある。いつもスマホをいじっていて、叔父の話相手にはならない。話をするときは、自分自身の利害がからむときである。アル中で家を飛び出して行方不明となった母親とひそかにメールのやりとりをしている。大学には進学したくないようだ。


ファシストが牛耳っていて、不寛容とヘイトが専門の今のネット住民の基準では、このパトリックは人間のクズだが、冷静にみれば、ふつうの高校生でしょう。『本当に素晴らしい少年』? やっぱり「年齢なりに人生経験を組み立て」てきた人間のくせに、人間のクズばっかりに出会ってきたようで、この程度の普通の少年でも「本当に素晴らしい」と「本当に」とまでいいたくなるのかもしれない。やはり「年齢なりに人生経験を組み立てる」ような人間は、頭が弱いのだろう。


そもそも「本当に素晴らしい」という人物は、この映画のどこにも登場しない。本当に素晴らしい人物を登場させないことがこの映画のリアリティをつくっているといっても過言ではない。そこがこの映画の本当に素晴らしき、心を揺さぶるところなのだ。本当に素晴らしい人物など本当にこれっぽっちも、一人たりともいない、この殺伐とはしてないが、本当に本当に凡庸でありふれた現実の世界で、悩み、苦しみ、過去の経験を克服できないまま生きていかなければならない、この本当に凡人たちの世界こそ、この映画が本当に提示している、本当に素晴らしいとかいいようがないものだろう。


だから、『ガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシー』といった派手なスペースオペラでもないのだから、以下の評言は、実に場違いとしかいいようがない――


兄の遺言によってはからずも過去、そして未来と向き合うことになったリー。その選択を観客はドキドキして見守り、あまりに魅力的な登場人物たちに思い切り感情移入して感動のクライマックスを迎えることになる。


しぶい映画である。地味な映画である。感動のクライマックスというのは、たぶんこいつは眠っていたのだ。だから派手にほめておけば罪にならないと考えているのだろう。映画評とか書評の場合、観たり読んだりしていない場合には、ほめるしかないのである。


主演ケイシー・アフレックはじめ役者たちの抑制した演技も心に染み入るものがある。そして、ここぞとばかりに感情を爆発させるときの落差に激しく打ちのめされる。


「心に染みる」ということに異存はない。確かにそのとおりである。ただし日本語としては一般的に「心に沁みる」と書く。まあささいなことを取り上げるわたしは人間のクズで、あんたは外国人ならしかたがないが、日本人なら、年齢なりに自分の人生を組み立てた大人=バカとしかいいようがない。まあ、それはともかく、「ここぞとばかりに感情を爆発させる」というのは、酒乱になることを意味しているのだが、どうしたものだろうか。ケイシー・アフレックの役は、抑え込んでいる苦悩を酒の勢いで爆発させる酒乱の役である。鬱屈した感情が酒の力で爆発する。「ここぞとばかりに感情を爆発させる」というのは、そのことを指しているが、だとすれば、その表現の組み立て方はいいのだろうか。なにか抑えているいるものがあるのだろうとしかいいようのないほど、酒を飲んで人格がかわったり、暴力をふるったりする迷惑な人間はけっこういるが、そういう人に対して、あなたは「ここぞとばかりに感情を爆発させる人ですね」と言ってやりたいものだ。こちがらぶちのめされそうで、そんな怖いことはできないのだが。


とくに主人公が元妻とばったり出会うシーン。このときスクリーンの中では明らかに空気が一変する。ここで観客は元妻のとてつもない愛情の純粋さを知ると同時に主人公の心の傷の深さを痛感させられる。ケイシー・アフレックの表情が素晴らしい。大した場面である。


まあ、そのとおりだけれども、また表現に文句はないのだけれども、ケイシー・アフレックの元妻をミシェル・ウィリアムズが演じている。彼女は有名な女優として出演が宣伝されているのだが、全体で10分くらいしか出ていない。ちょっとでてきて、泣きの演技で、すべてもっていくという感じであることは付け加えておいていい。


この物語がまったくもって感動的なのは、兄の風変わりな遺言の真の意味が、終盤にずしりと効いてくるところである。この兄は、要するに自分の命より大切なものをこの弟に託したのである。それはなぜか。その理由を2時間17分かけて観客は知る。本物の感動がそこにある。


兄の風変わりな遺言というのは、そんなに風変りではない。ちなみにミシェル・ウィリアムズが主演していた映画で、母親が癌で死んだか、余命いくばくもないとき、娘を夫ではなく、兄に託すという映画があった。ヴィム・ヴェンダースの『ランド・オブ・プレンティ』。ただ託された兄が頭がおかしくなっていたという話なのだが、『ランド』の場合、娘を、まだ夫がいるのに、自分の兄に預けるというというところが変だが、父親が死に、母親が行方知れずであるのなら、息子を、自分の弟に託すというのは、風変りでもなんでもない。それを風変りだと思うのは、年齢なりに人生経験をもっとうまく組み立てたほうがいい。


ちなみに『ランド・オブ・プレンティ』を観たあと、わたしは自分の妹に、もしあなたが病気になったとき、自分の娘を、兄であるわたしに託すかと聞いたら、託すとふつうに答えたことを記憶している。自分の夫は信用できないから、娘は、自分の兄に託す。兄は独身だし娘一人くらいの面倒はみてくれるだろう、と。わたしは、そのとき、でもそのお兄さんが頭がおかしくてもいいのかと映画のことを引き合いに出して聞いたつもりだったが、妹はわたし自身のことを念頭において、わたし(兄)が頭がおかしいことは前からわかっているから気にしないとすんなりと答えていたことを思い出す。


本当に深い傷は、決して癒えることはない。忘れることはできない。だが、忘れる必要などはないし、それでも希望は湧いてくるのだとこの映画はいっている。なんと力強く、温かいメッセージだろう。


すべての苦しんでいる人に、この温かさを知ってほしい。いち紹介者として、思わずそんな気分にさせられる。


まあ、こういう陳腐な言い方しかできないのかとあきれる。「なんと力強く、温かいメッセージだろう」。たしかにそういう映画はあっていいし、またそういう映画は多いと思うが、力弱く、消え入りそうで(ケイシー・アフレックの話し方がそうだが)、ようやく春が来たのだが、まだ冷凍保存している食料か遺体のように、解けることはない、寒々とした心情の世界こそ、本当に素晴らしいこの映画の世界だろう。


「あの出来事以来、消化試合をひたすら繰り返すような人生」という比喩はすばらしいのだが、文学を教えている教員としては、こうした場合、スポーツとりわけ野球にたとえるという中高年のクソオヤジのメタファーではなく、なるべく作品に即したメタファーを使うほうがいいことを付け加えておく。そうすると冬とか雪解けとか、冷凍保存などが有力なメタファー候補として浮上する。春まで病院で冷凍保存されている(日本の病院では考えられないのことであって、アメリカは豊かな国だと思う)兄の遺体と同じく、あるいは家の冷凍庫に保存されている冷凍食品のように、ケイシー・アフレックの心は凍ったままである。彼の親族の者たちは、死んだ兄を除けば、みなそれぞれ新しい人生を歩み始めている。彼だけが心を冷凍保存されたままだ。しかし、いつしか春が来る。春になって、冷凍保存された遺体を墓地に埋葬できる。兄の真冬の死から、春になってからの埋葬――この映画の時間経過は、また主人公の心情の雪解けも意味している。自分の人生経験を組み立てるという元気のいい大人=バカにはわからないかもしれないが、苦しみは、自分の力で乗り越えることはできない。しかし、時間が空間が癒してくれる。


時と場所がゆるやかにまた着実に問題を解消してくれる。癒しと慰めをあたえてくれる。このとき、大げさなクライマックスとか、希望をもて苦しみを克服せよというお説教ほど、ただ淡々と進行してゆくこの映画に似つかわしくないものはない。記憶を沁み込ませたマンチェスター・バイ・ザ・シーの風景、そしてゆるやかな時の流れ、それがいつか壊れた心を癒してくれ、冷凍保存された情念を解凍していくれる。これは自分の人生経験を組み立てることのできる人間には思いも及ばぬことだろう。


なにかバカをいじめているように思われるかもしれないが、偉そうにしている人間を徹底していじるのはいじめではない。あるいは権力者への揶揄を批判をいじめとみるのは、弱い者いじめをしていながら、批判が自分にむけられるとあわてる*****でしかない。とはいえ、批判しながら語るのは、対象を掘り下げてじっくり考える方法としては、効率がいいとはいえないので、反省している。いずれまた語りなおす機会があればと思う。


posted by ohashi at 19:21| 映画 | 更新情報をチェックする