2017年05月19日

『メッセージ』

全体としてテッド・チャンのSF短編というか中編の展開と設定を踏襲していて、原作に感銘を受けた読者のひとりとして見た場合、映画化作品に違和感は感じなかった。原作にない状況なり展開を盛り込んであるのだが、それによって原作の宇宙観と人生観がそこなわれることがないのはよかった。原作の設定という酔うよりもアイデアをどう映像化するのか心配していたところもあるが、脚色を加えながらうまく処理していると思う。満足できるSF映画である。


ドゥニ・ヴィルヌーヴの映画としても、エイミー・アダムズ演ずる言語学者がみる夢のなかに巨大タコがでてくる、それも、クロゼットいっぱいに、そこからはみでるくらいの大きさになってというシーンは、『複製された男』を思い起こさせ、ヴィルヌーヴ映画の明確な刻印を帯びている。


ここでも以前書いたのだが、アレクセイ・ゲルマンの『神々の黄昏』は、ストロガツキー兄弟の傑作SF『神様はつらい』の強烈な政治的告発をまったく無効にし、泥まみれ、つばと痰まみれてにした愚作だったのだが(『神々の黄昏』を観た人なら泥まみれ、つばと痰まみれというのが比喩ではないことがわかると思う)、今回の映画は原作をアイデアの部分も、変更を加えながらも丁寧に再現していると思う。


問題は、そのアイデアである。これは原作の場合もそうだけれども、映画でも、けっこうむつかしい。いったいどこまで観客が理解し納得できるのか、不安になったが、ネット上で調べた限られた情報から判断すると、この映画を見た観客は、それなりに納得しているようだった。だったら、それでいいのだが、私自身、原作のアイデアも、また映画のアイデアについても未消化のところがあるため、完全に理解していないのだが、魅力的なアイデアである。そしてそれを映画の物語レヴェルにおいてもシンクロさせている。


たとえば映画の冒頭で、主人公の言語学者(エイミー・アダムズ)は娘を失ったことが告げられる。生まれたときから幼い頃の娘と仲の良い母親。思春期か反抗期になる娘、そしてまだ若くして死ぬ娘。みじかい断続的な回想が涙をさそうが、娘の死を乗り越えたか乗り越えないかというときに、異性からの謎の巨大な物体が地球上の12か所に到来するという大事件が起こり、優秀な言語学者としての彼女は、異星の生物とのコミュニケーションという困難ンな仕事をまかされるが、最後には彼女の洞察がブレイクスルーとなって異星生物との遭遇から人類は新たな段階へ進むことになる。


ちょっと歪曲気味に内容紹介だが、こう書くと、コテコテのSF物という印象を受けるかもしれないが、コミュニケーションのための科学は言語学であり、これは映像化しにくい。Sピルバーグの古典的映画『未知との遭遇』のような異星人とのコミュニケーションのリアリティを無効にするような、言語コミュニケーションのむつかしさが描かれる。そして片言ながら異星生物との交流が可能になったとき、異星生物が言語学者である彼女にあたえるの時間に関する洞察なのである。時間を線的・継起的にとらえるのではなく、非線形的・同時的共時的把握をするような、あるいは空間的に把握するような見方を教えるというかテレパシーみたいに伝えてしまうのである。まあ、このへんは原作でも同じなので、読まれんことを。


これは彼女のひらめきによって、文字を使ったコミュニケーションを契機としている。アルファベット文字で意思疎通をはかろうとした彼女の前に異星生物が示してきたのは、象形文字・表意文字(もっと専門的な用語が使われるのだが、わかりやすくこう表記しておく)なのである。音声を転写したアルファベットに対して、漢字のような表意文字は、概念を一種にして空間的に把握できる。異星生物は、これを書いてくるのである。しかも、水ににじんだ墨のような、水墨画のような図を。しかもしれはウロボロスの図に似た円形なのである。この円形は、異星生物が授けてくれる時間概念と関係している。円形で示される時間というのは、はじめもなければ終わりもない。あるいははじめと終わりがくっついているのであり、不可逆的な時間経過というのではなく、反復と往復、前進と後退、過去と未来とがまざりあい、それらが一望できるように時間が空間化される。と、こういう説明はないのだが、おそらくこういうことだろう。表意文字と非線的時間把握がつながるのである。


映画の中では、まだ若い娘を失った言語学者の女性が、要所要所で、娘と過ごした幸福な過去を思い出しながら、そこから異星生物とのコミュニケーションのヒントを得るような展開となる。彼女の過去の体験が、フラッシュバックとしてよみがえる。ところが物語の終わりでは、彼女はこれから結婚して子供ができる。フラッシュバックと思っていたシーンは、実際には彼女が未来を一瞥したときに脳裏によぎったイメージなのだとわかる。彼女は、娘などいなかった。これから結婚するからである。しかも、結婚して娘ができるが、たぶん、その娘が若くして死ぬということだろう。彼女の脳裏によぎったのは過去の一場面ではなく未来の一場面だったのである。


というか、そうでもないのである。彼女が異星生物とのコミュニケーション作業のときにみていたイメージは脳裏のよぎった過去の出来事であり、フラッシュバックであると同時に、それは、まだ起こっていない未来の出来事、つまりフラッシュフォーワードでもあるという二重性が存在する。それは時間を過去から未来へと続く、線形的、不可逆的、一方通行路としてみるのではなく、その全体像を空間的に把握するときに生ずる現象なのである。


たとえば彼女の娘が幼い頃に映画いた絵には、異星人生物とコンタクトする母親(と父親)の姿が描かれている。これが過去に死んだ娘が映画いたとなると、彼女は未来を予見していたことになる。いっぷこれが彼女がこれから結婚して生む娘が描いた絵なら、娘は両親から異星生物とのコンタクトの話を聞いて、過去の出来事としてそれを描いたことになる。一枚の絵が、映画では過去の絵でもあり未来の絵でもあるという二重性あるいは決定不可能性を帯びているのだ。


ただ、これははじめもなく終わりもな円環として時間を把握したときのことであって、娘の死という同じ一つの出来事が、未来の出来事でもあるし過去の出来事ともなる。たとえば円を描く。その特定の一点に娘の死を記入する。かりに左回りで過去から未来へと流れるとすれば、娘の死の前後を左回りで過去と未来にふりわけることができる。仮の出発点というのは、彼女が結婚したか出産したときとしよう。


異星生物とのコンタクト→空間的・非線形的時間意識の獲得→中国の提督の説得→12地域の団結→世界団結の祝典→結婚→出産→娘の死


継起的に過去から未来へと進行する線形の時間の流れがあるとする。不可逆的一方通行の時間の流れも、異星生物の時間意識からすると、不可逆的でも一方的でも線形でもない。上記の流れを、細ながい紙に書かれた出来事のつらなりと考え、終点である娘の死を、異星セ物とのコンタクトとつなげれば、この映画のシークエンスになる。映画は娘の死から異星生物とのコンタクトへと進むのだから。また暴騰の回想シーンは出産からはじまっていた。そのため結婚あるいは世界団結の祝典がはじまりかもしれない。


では起点と終点をつなげると


娘の死→異星生物とのコンタクト→空間的・非線形的時間意識の獲得→【中国の提督の説得】→12地域の団結→世界団結の祝典→結婚→出産


となる。


これはまさに映画の流れそのものである。未来の娘の死は、このシークエンスでは過去の出来事となる。問題なのは中国の提督の説得という出来事である。物語進行が過去(未来)から未来(過去に体験された)へと進むについれて、自分の体験なのに、まだ語られていない出来事が生じてくる。それが中国の提督への説得である。


コンタクトが終わってから18か月後、アメリカで行なわれた祝典に中国からやってきた提督は、彼女に会いに来たのだと語り、18か月前のことで彼女に感謝する。彼女が提督の個人用携帯番号に電話をかけてきて説得しなかったら、いまの世界の平和はなかったと感謝の言葉を述べる。


しかし彼女は(観客と同じく)何が起こったのか忘れているというよりも知らないように思われる。もちろん、ひとつの読み方をすれば、提督の登場によって、彼女の過去がフラッシュバックとしてよみがえる。そこで何があったのかが、このときはじめて思い出されるのでる。しかし、また、この時点で、彼女は忘れているのではなく、何も知らない。そして提督によって何が起こったのかを教えてもらった感がある。その出来事の映像は過去のフラッシュバックではなく、過去の出来事ながら、いまだ誕生していなかった未来の出来事のようにみえてくる。過去はつねに未来にとなり、未来はつねに過去となる。この錯綜とした時間意識の獲得が、原作とこの映画、双方におけるカギとなる。


とはいえ、これだけでは何を言っているのか、頭がおかしくなったのかと思われてもしかたがない。このウロボロス的時間意識は、客観的相関物がないという欠陥がある。これを駆使する異星生物という存在は、相関物としては弱い。東洋の漢字、象形文字は、非線形時間意識の実現であるというのも、そうだが、だからといって深い感銘をもたらすことはない。もっとなにか感動的な客観的相関物が欲しい。原作では、それが娘を失った母親の、悲しみの追憶というのがそれに相当していたのだが、映画は、私たちになじみ深く、なおかつ感動的な客観的相関物をみつけられないでいる。もちろん私たち一人一人が探せばいいのだが、はたして今後の観客に、それを見つけられる余裕とか可能性があるのだろうか。


原作では「光は最短距離をすすむ」にはじまり、光の屈折にまでかかわる現象を通しての説明が、実に魅力的かつ示唆的で考えさせられた。同じ現象でも、受け止め方、解釈によってまったく別の者に見えてくる。自然現象あるいは物理現象が、一定の法則に従っているだけなのに、まるで意志をもった現象なり運動に見えてくること。あるいは予測不可能で自由な動きが、見方によっては、合目的的な目標に拘束された合目的的運動に過ぎないと見えてくることもある。ただし、それは二つの現象があるのではなく、ひとつの現象でしかない。解釈によって二つに分岐するが同時に最初から最後まで一つの現象にすぎない。さらにいえば全く異なる二つの解釈から、同じ一つの現象が誕生するということもできる。ちょうどこの映画で主人公が娘にHannahと名前を付けて、前から読んでも後ろから読んでも、同じ名前だからという説明するとき、二方向からの読み方であっても、同じ一つの名前を出現させるのと同じことがこの世界ではたくさん起こっているはずである。その客観的相関物なんだろか(Hannahという回文めいた名前というのは、感動的な客観的相関物にはならない)。


私は原作からも、この映画からも何かを得たような気がするが、私が得たことなど、ほとんどの人にとって、どうでもいいことだと思うで、いずれどこかで発表することにして、もうひとつの客観的相関物というのは、『マンチェスター・バイ・ザ・シー』における、過去の悲劇にとらわれて、その亡霊に絶えず悩まされ、また、過去の亡霊と折り合いをつけながら生きていくというテーマと関係するだろう。
posted by ohashi at 10:27| 映画 | 更新情報をチェックする