2017年05月17日

『スウィート17モンスター』

The Edge of Seventeen(2016)が、どうしてこういうタイトルになるのかよくわからないが、予告編をちょっとみだたけでは、観たことのない10代の女優がでている青春映画というか不良映画だろう、けっこう痛い映画かという勝手な先入観をもった。ところが見てみたら、私のような中高年の男にも、めちゃくちゃ面白い映画。よくある話だともいえるのだが、主役のヘイリー・スタインフェルドの強烈な毒舌といじけぶりがすさまじく、また下ネタを満載で、とにかく笑える。彼女がゴールデングローブ賞にノミネートされたのはよくわかる。


高校の教師役のウディ・ハレルン(良い味を出しすぎ)と母親役のキーラ・セジウィク(テレビの『クローザー』で主役だった)がしっかり脇をかためているし、全員が、結局いい人ばかりで、痛いところがありそうでまったく痛くない青春ラブコメ成長物語となっている。まあ新しい若き喜劇女優の誕生かと思ったが……。


ヘイリー・スタインフェルド、調べたら『トゥルー・グリット』(映画館で観た)の、あの女の子。彼女は、この『17』の最後で、一皮むけた美人の大人の女性に変貌するのために、ちょっとわからななかったのだが。いや『はじまりの歌』(映画館で観た)にも出演していたのだが、どこにいたのか思い出せない。しかも彼女、アメリカ映画の『ロミオとジュリエット』にも出演している。ジュリエット役でもある(アメリカ版のAmazonビデオでみるしかない)。ということで、ヘイリー・スタインフェルド、すでにいろいろな映画にでている、若きヴェテラン女優だった。その実力は折り紙付きとでもいうべきで、『トゥルー・グリット』からずっとみているのに気が付かず。これぞボケ中高年の真骨頂というべきか。


とはいえ今現在(517)、関東では東京のシネマカリテとヒューマントラスト渋谷、あと吉祥寺オデオンでも週末から上映するらしいが、この3館だけでは惜しい。ふつうに面白い映画だからもっと多くの人にみられるべきだろう。


ちなみに彼女が男性とのデートに出かけるとき、口臭スプレーかワキガスプレーかわからないものの、口の中と、脇の下にシュッとしたあと、スカートのすその方から手を入れて、自分の股間にシュッとスプレーする。これは、けっこうよくある、ギャグみたいなものだが、今回の映画は、その先をいっていて、ヘイリー・スタインフェルドは股間にスプレーした後、スカートの上から股間を抑えて、沁みる、沁みると、言いながら、へっぴり腰で部屋を出るのである。これ、おかしいし、こういうの大好きだい。


なお内容について。ヘイリー・スタインフェルドは、皆から愛され世渡り上手の兄と比較され、また自分でも兄と比較し、いじけているのだが、兄への近親相姦的欲望が根底にあることが、この映画の、あまり意識されることのない通奏低音となっている。自分の友達が兄とできてしまうことで、友情が破綻するというのは、おかしい、変だ。友人が身内(この場合は兄)と結婚することは、ふつうならうれしいはずであって、怒ることではない。唯一の友達を兄にとられる、あるいは友達が兄に向い、自分()を捨てるからという理由はあるが、友が兄と結婚でもすれば、その友とは義理の姉妹となるはずで、絆は強まるはずである。そうならないということは、兄をめぐって友人と彼女がライバル関係になるということだろう。兄への憎しみは兄への愛の裏返しでもある。愛憎は表裏一体化している。そのむすぼれがいかにして解きほぐされるかが、この映画の物語の中軸を形成するだろう。映画は、だれもが納得するようなハッピーエンディングになっているが、最終的に諦念をふくみこんでいるようにもみえる。



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『マンチェスター・バイ・ザ・シー』

ある映画評から、この人は文章はうまいが、言っていることに内容がない。


「マンチェスター・バイ・ザ・シー」はケネス・ロナーガン監督の長編3作目だが、とてもそうは思えないほどドラマの組み立てがうまい。とくに年齢なりに人生経験を組み立ててきた大人が見れば、この映画の良さはすぐにわかる。


何だこの言い方は?まるで、あなたが年齢なりに人生経験を組み立ててきた大人であるかのような口ぶりだが、どこからその自信がわいてくるのだろう。こういう慢心した自信家は、ケイシー・アフレック(映画のなかでは酒乱の役でもある)にぶちのめされればいいのだ。だいたい年齢なりに人生経験を積むと、人間が悪くなることはあっても、良くなることはない。それがここにあらわれている。私は高齢者だが、こういう愚か者をからかい、上げ足を取ってよろこんでいるのだから人間のクズ、最低の人間である。これは認めるしかない。一方この評者は、自分のことを賢者のようにみなしている愚か者である。こんな人間にほめてもらっても、映画のほうが迷惑だろう。「年齢なりに人生経験を組み立ててきた」??? こいつは日本語を知らない。「年齢なりに人生経験を重ねる・積む」と表現するのがふつうでしょう。「組み立てる」?「人生経験を組み立てる」?年齢なりに人生経験を積んだ人間が普通の標準的な日本語能力だけは身に付けなかったとしたら、人生経験に何の意味があるのか。


あるいはひょっとして、たぶんこちらのほうが正解かもしれないが、たとえば自分は40歳代で、結婚してからも長いので、そろそろ浮気のひとつかふたつしてみて、浮気・不倫というものがどんなものか、自分なりに人生経験を組み立てたということか。もしそうだとしたら、この場合も、バカかとかいいようがない。


ボストン郊外で便利屋をするリー(ケイシー・アフレック)は、兄の死をきっかけに故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーに戻ってくる。彼を驚かせたのは、遺言に兄の息子で16歳のパトリック(ルーカス・ヘッジズ)の後見人になれとあったこと。だがリーはある過去の事情から、この町にとどまるわけにはいかないのだった。


死んだ兄の息子の面倒を見ろと遺言で言われる。なんとも奇妙な依頼である。そこだけ聞けば、はた迷惑な依頼といってもよい。


だが、実際は全く違うことがやがてわかってくる。


この紹介はまちがっていないと思うけれども、「死んだ兄の息子の面倒を見ろと遺言で言われる。なんとも奇妙な依頼である。そこだけ聞けば、はた迷惑な依頼といってもよい。」なるほど迷惑な話かもしれないが、しかし身内だ、当然のことといえば当然のことで、よほどの事情がないかぎり後見人になるでしょう。しかも映画の冒頭では、ケイシー・アフレックと、その甥とその両親(アフレックの兄夫妻)が、仲良くボートに乗っている場面であって、甥と仲が悪いわけではない。だから、なぜ、ケイシー・アフレックが嫌がるのかというのが映画の焦点となる。


甥の後見人になれとの依頼→奇妙な依頼?→迷惑な話→引き受けられない事情


となれば、そこにドラマもなにもない。つまりこれでは「理不尽な要求をつきつけられ、理由を説明するまでもなく理不尽な要求をはねつける」という、なにも展開しない、くありきたりなシークエンスでしかない。


仲のよい甥の父親が死んだので後見人になれと父親が遺言を残す→迷惑かもしれないが理不尽な依頼ではないし、甥のためにもそれがベストらしい→にもかかわらず、後見人になることを断る→それはなぜか?


こうでなければドラマが成立しないでしょう。年齢なりに自分の人生経験をを組み立てるだけの人生を送っていると、まさにこういうことになる。なにも理解しないままで終わってしまう。実はこの評者は、映画評論家と自称している。ひどい話だ。


主人公リーには、この街を離れざるを得なくなった過去がある。それは逃れられない罪であり、古い住民の多いこの寒々とした町で暮らすということは、永遠にその罪を意識し続けて暮らすと同義である。これは確かにたまらない苦痛であろう。


以下、ネタバレ。しかしネタバレでも、映画を鑑賞する際には、じゃまにならないし、ここに重いテーマが集約されているので、触れずにはいられないし、私は映画評論家でも紹介者でもなんでもない、ただの人間のクズなので、書かせもらえば、火事を出すのである。


ふつう火事の原因となっても、放火しない限りに罪に問われない。しかし火元となった家の住人は、その火事が隣家に及んだりしたら、結局、引っ越すという。まさに、いたたまれなくなるからであろう。主人公の場合、火事を起こしても、自分の家が焼けただけで、他人に迷惑をかけていない。火事によって、他人が迷惑をこうむったわけではない。しかし、自分の子どもたちが焼死するのである。そのために妻とも離婚する。自分のミスで、火事を起こし、自分の幼い子供たちを死なせてしまう。自責の念からは逃れられない。しかも周囲からミスで自分の子どもを死なせてしまった人間のクズとみなされてしまう。いたたまれなくなるのは当然である。故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーに帰りたくなくなるのも当然である。


はっきりいって、こうなると死んだほうがましである。断罪されたり罰を下されたりしたほうがましである。それがかなわないまま贖罪の人生を送らざるを得ないのである。繰り返すと、こうなれば死んだほうがましである。そしてこういうことは誰にもでもおこる。それが怖いし辛い。


それでも彼は迷い続ける。なぜか。それは観客にもすぐにわかる。それは兄が弟に託した息子パトリックが、本当に素晴らしい少年だからだ。彼と暮らすことはリーにきっと素晴らしい幸福をもたらすと誰もが思う。あの出来事以来、消化試合をひたすら繰り返すような人生を歩んできたリーにとって、パトリックとの新しい人生は未来そのものだ。


「あの出来事以来、消化試合をひたすら繰り返すような人生」という言い方はうまい。日本語能力に疑問がある一方で(「年齢なりに……組み立てる」)、表現力はあることは認めざるをえない。そしてまた判断力はないことも認めざるを得ない。「それは兄が弟に託した息子パトリックが、本当に素晴らしい少年だからだ」はあ? え、本当に素晴らしい少年だから?


このパトリック少年、高校のガールフレンドを二股かけている。最後にはばれてしまうようだが、二人の女の子を手玉にとっている。ホッケー・クラブの選手のようだが、練習試合宙に、相手の威嚇的暴力的プレーに切れて、襲い掛かるというのは、酒乱であばれる叔父の血をひいているところがある。いつもスマホをいじっていて、叔父の話相手にはならない。話をするときは、自分自身の利害がからむときである。アル中で家を飛び出して行方不明となった母親とひそかにメールのやりとりをしている。大学には進学したくないようだ。


ファシストが牛耳っていて、不寛容とヘイトが専門の今のネット住民の基準では、このパトリックは人間のクズだが、冷静にみれば、ふつうの高校生でしょう。『本当に素晴らしい少年』? やっぱり「年齢なりに人生経験を組み立て」てきた人間のくせに、人間のクズばっかりに出会ってきたようで、この程度の普通の少年でも「本当に素晴らしい」と「本当に」とまでいいたくなるのかもしれない。やはり「年齢なりに人生経験を組み立てる」ような人間は、頭が脆弱なのだろう。


そもそも「本当に素晴らしい」という人物は、この映画のどこにも登場しない。本当に素晴らしい人物を登場させないことがこの映画のリアリティをつくっているといっても過言ではない。そこがこの映画の本当に素晴らしき、心を揺さぶるところなのだ。本当に素晴らしい人物など本当にこれっぽっちも、一人たりともいない、この殺伐とはしてないが、本当に本当に凡庸でありふれた現実の世界で、悩み、苦しみ、過去の経験を克服できないまま生きていかなければならない、この本当に凡人たちの世界こそ、この映画が本当に提示している素晴らしいとかいいようがないものだろう。


だから、『ガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシー』といった派手なスペースオペラでもないのだから、以下の評言は、実に場違いとしかいいようがない――


兄の遺言によってはからずも過去、そして未来と向き合うことになったリー。その選択を観客はドキドキして見守り、あまりに魅力的な登場人物たちに思い切り感情移入して感動のクライマックスを迎えることになる。


しぶい映画である。地味な映画である。感動のクライマックスというのは、たぶんこいつは眠っていたのだ。だから派手にほめておけば罪にならないと考えているのだろう。映画評とか書評の場合、観たり読んだりしていない場合には、ほめるしかないのである。


主演ケイシー・アフレックはじめ役者たちの抑制した演技も心に染み入るものがある。そして、ここぞとばかりに感情を爆発させるときの落差に激しく打ちのめされる。


「心に染みる」ということに異存はない。確かにそのとおりである。ただし日本語としえは一般的に「心に沁みる」と書く。まあささいなことを取り上げる私は人間のクズで、あんたは外国人ならしかたがないが、日本人なら、年齢なりに自分の人生を組み立てたバカとしかいいようがない。まあ、それはともかく、「ここぞとばかりに感情を爆発させる」というのは、酒乱になることを意味しているのだが、どうしたものだろうか。ケイシー・アフレックの役は、抑え込んでいる苦悩を酒の勢いで爆発させる酒乱の役である。鬱屈した感情が酒の力で爆発する。「ここぞとばかりに感情を爆発させる」というのは、そのことを指しているが、だとすれば、その表現の組み立て方はいいのだろうか。なにか抑えているいるものがあるのだろうとしかいいようのないほど、酒を飲んで人格がかわったり、暴力をふるったりする迷惑な人間はけっこういるが、そういう人に対して、あなたは「ここぞとばかりに感情を爆発させる人ですね」と言ってやりたいものだ。こちがらぶちのめされそうで、そんな怖いことはできないのだが。


とくに主人公が元妻とばったり出会うシーン。このときスクリーンの中では明らかに空気が一変する。ここで観客は元妻のとてつもない愛情の純粋さを知ると同時に主人公の心の傷の深さを痛感させられる。ケイシー・アフレックの表情が素晴らしい。大した場面である。


まあ、そのとおりだけれども、また表現に文句はないのだけれども、ケイシー・アフレックの元妻をミシェル・ウィリアムズが演じている。彼女は有名な女優として出演が宣伝されているのだが、全体で10分くらいしか出ていない。ちょっとでてきて、泣きの演技で、すべてもっていくという感じであることは付け加えておいていい。


この物語がまったくもって感動的なのは、兄の風変わりな遺言の真の意味が、終盤にずしりと効いてくるところである。この兄は、要するに自分の命より大切なものをこの弟に託したのである。それはなぜか。その理由を2時間17分かけて観客は知る。本物の感動がそこにある。


兄の風変わりな遺言というのは、そんなに風変りではない。ちなみにミシェル・ウィリアムズが主演していた映画で、母親が癌で死んだか、余命いくばくもないとき、娘を夫ではなく、兄に託すという映画があった。ヴィム・ヴェンダースの『ランド・オブ・プレンティ』。ただ託された兄が頭がおかしくなっていたという話なのだが、『ランド』の場合、娘を、まだ夫がいるのに、自分の兄に預けるというというところが変だが、父親が死に、母親が行方知れずであるのなら、息子を、自分の弟に託すというのは、風変りでもなんでもない。それを風変りだと思うのは、年齢なりに人生経験をもっとうまく組み立てたほうがいい。


ちなみに『ランド・オブ・プレンティ』を観たあと、私は自分の妹に、もしあなたが病気になったとき、自分の娘を、兄である私に託すかと聞いたら、託すとふつうに答えたことを記憶している。自分の夫は信用できないから、娘は、自分の兄に託す。兄は独身だし娘一人くらいの面倒はみてくれるだろう、と。私は、そのとき、でもそのお兄さんが頭がおかしくてもいいのかと映画のことを引き合いに出して聞いたつもりだったが、妹は私自身のことを念頭において、私(兄)が頭がおかしいことは前からわかっているから気にしないとすんなりと答えていたことを思い出す。



本当に深い傷は、決して癒えることはない。忘れることはできない。だが、忘れる必要などはないし、それでも希望は湧いてくるのだとこの映画はいっている。なんと力強く、温かいメッセージだろう。


すべての苦しんでいる人に、この温かさを知ってほしい。いち紹介者として、思わずそんな気分にさせられる。


まあ、こういう陳腐な言い方しかできないのかとあきれる。「なんと力強く、温かいメッセージだろう」。たしかにそういう映画はあっていいし、またそういう映画は多いと思うが、力弱く、消え入りそうで(ケイシー・アフレックの話し方がそうだが)、ようやく春が来たのだが、まだ冷凍保存している食料か遺体のように、解けることはない、寒々とした心情の世界こそ、本当に素晴らしいこの映画の世界だろう。


「あの出来事以来、消化試合をひたすら繰り返すような人生」という比喩はすばらしいのだが、文学を教えている教員としては、こうした場合、スポーツとりわけ野球にたとえるという中高年のクソオヤジのメタファーではなく、なるべく作品に即したメタファーを使うほうがいいだろう。そうすると冬とか雪解けとか、冷凍保存などが有力なメタファー候補として浮上する。春まで病院で冷凍保存されている(日本の病院では考えられないのことであって、アメリカは豊かな国だと思う)兄の遺体と同じく、あるいは家の冷凍庫に保存されている冷凍食品のように、ケイシー・アフレックの心は凍ったままである。彼の親族の者たちは、死んだ兄をのぞけば、みなそれぞれ新しい人生を歩み始めている。彼だけが心を冷凍保存されたままだ。しかし、いつしか春が来る。春になって、冷凍保存された遺体を墓地に埋葬できる。兄の真冬の死から、春になってからの埋葬――この映画の時間経過は、また主人公の心情の雪解けも意味している。自分の人生経験を組み立てるという元気のいいバカにはわからないかもしれないが、苦しみは、自分の力で乗り越えることはできない。しかし、時間が空間が癒してくれる。


時と場所がゆるやかにまた着実に問題を解消してくれる。癒しと慰めをあたえてくれる。このとき、大げさなクライマックスとか、希望をもて苦しみを克服せよというお説教ほど、ただ淡々と進行してゆくこの映画に似つかわしくないものはない。記憶を沁み込ませたマンチェスター・バイ・ザ・シーの風景、そしてゆるやかな時の流れ、それがいつか壊れた心を癒してくれ、冷凍保存された情念を解凍していくれる。これは自分の人生経験を組み立てることのできる人間には思いも及ばぬことだろう。


なにかバカをいじめているように思われるかもしれないが、偉そうにしている人間を徹底していじるのはいじめではない。あるいは権力者への揶揄を批判をいじめとみるのは弱い者いじめをしていながら、批判が自分にむけられるとあわてる*****でしかない。とはいえ、批判しながら語るのは、対象を掘り下げてじっくり考える方法としては、効率がいいとはいえないので、反省している。いずれまた語りなおす機会があれば、その時に。


posted by ohashi at 19:38| 映画 | 更新情報をチェックする