映画館の近くで、知人の女性から、夫という人を紹介してもらったことがある。ただ、そのとき夫婦の間に、なにか気まずさというか緊張感みたいなのが漂っていて、どうしたのかいぶかったが、その女性と夫もふくめ、その後、数人で食事をということになっていたが、彼女の夫のほうは急用ができたからとその場を去った。
あとで女性が話したことによれば、その直前、夫婦で映画をみていたとき、夫の方がポップコーンをむしゃむしゃと食べつづけいて、音がうるさいし映画に集中できないから、夫に英語で厳しく注意した。紹介されたときは気づかなったのだが、夫という人物は外国人だった(アジア系の)。そして夫からポップコーンを取り上げた。夫のほうは、なぜ、そんなことで怒るのか理解できず、逆に気分を害したのか、映画の終わりまで、いや映画が終わってからも怒りモードがつづいたという。
その映画は私も別の映画館でみていたが、私の隣に座った外国人(白人系)は、終始ポップコーンを食べていたが、べつに気にならなかった。と、そのことを伝えて、まあ、気持ちはわかるけれども、映画でポップコーンを食べるのはあたりまえと考えているその夫に、そんにな非があるわけでもないので、もっと穏やかにことを運べばよかったのではと私は話したが、その女性も、夫の機嫌はすぐになおると話していたし、痴話げんかみたいなものかと、私もふくめ周囲も心配はしなかった。
最近、映画『ライオン』を見た時、同じことが起こった--私に。たくさん人が入っていたが、100%満席ということではなかったので、私のすぐ隣に座ったバカップルにちょっとむっとしていた。席ひとつぐらいあけて座れよと、いらいらしていたが、やがてそのカップルといっても男性のほうだが、その男がポップコーンを食べる音が妙に大きく聞こえ、気になってしょうがなくなった。まあ、ポップコーンもいつかはなくなると思ったのだが、とくに時間が短い映画ではないのだが、映画が終わるまでポップコーンは残っていた。
問題は、映画が緊迫感をましてくるときである。ポップコーンを食べる音が気になってくる。
いよいよ生まれ故郷の村近くまでやってきた。むしゃむしゃ。はたして彼は子供のころのかすかな記憶だけを頼りに地理をはあくできるのか。むしゃむしゃ。手掛かりはあって、そこで失われた記憶が……むしゃむしゃ。子どもが(あとから指摘されたのだが)上からの俯瞰で道や街並みを把握していただのろうか。むしゃむしゃ。いよいよ村に到着し……むしゃむしゃ。時間の経過が……むしゃむしゃ、すべてを消し去……むしゃむしゃ……はたして彼は……、ほんとうに母親に会える……ほんとうにこれから母親……むしゃむしゃ………会える……むしゃむしゃ………のか、いよいよこれから母親に会うことに、むしゃむしゃ、………………
いい加減にせんかい。
気でも狂ったのかと思えるくらい、その男は映画がクライマックスに近づいていると、ポップコーンを食べる手がとまらなくってくる。思い出した。あの女性が夫からポップコーンを取り上げたことを。彼女の気持ちがいまになってよくわかった。
映画が緊迫度を増すと、なにか食欲もましたみたいで、食べる頻度が高くなる。しかも映画が盛り上がりを見せると食欲ももりあがりをみせるのだ。おまえには映画に集中するという気持ち、集中からうまれる緊迫感と快楽というものを感ずることはないのか、むしゃむしゃ馬鹿みたいに食いやがって。だいたい、それに周囲にも迷惑をかけるということがわからないのかと、私はひとり怒りをたぎらせていた。
すると、その男が泣いているのである。べつに私と女性をはさんで隣にいた男が、私の憤怒をテレパシーで感じて、自分のことを恥じて泣いていたのではないだろう。まあ、そんなことがわかるのなら、そもそもポップコーンをむしゃむしゃ食べ続けるという暴挙には出ないだろう。そうではなく、端的にいって映画の内容に涙しているのである。私の怒りもここでマックスに。
そもそも人の迷惑をかえりみず、ポップコーンを食べまくり(だいたい連れの女性もどうかしている、少しは注意して、ポップコーンをとりあげたらどうか。先に紹介した女性は実に正しいことをしていたのだ。この私の隣の女性はただの……)、そして自分一人で感動して涙を流しているのだが、同じ料金を払ったほかの観客の貴重な時間をむちゃくちゃにして、自分だけは平気なんだから、天罰が下るぞ。
最初に紹介した女性の怒りが、そのときはピンとこなかったが、いまでよくわかった。というのがこの話のオチではない。というものさらなる驚きがあったのだ。
『林先生が驚く初耳学』5月28日放送の回で、「泣ける映画を見ると太る」という知識が紹介されたのである。泣ける映画と笑える映画を見る場合、泣ける映画をみるときのほうがポップコーンを食べる量が増す、つまり観客の食欲が増すという実験結果が得られたのこと。
悲しさが募ると「グレリン」という食欲増進ホルモンが分泌される傾向があるということである。
もっともこの実験というかこの情報というのは、私のようなまともな知性のない人間がみても、説明不足で、ずさんな情報だとわかる。悲しい映画の定義がよくわからない。またこれは映画をみている体験である、つまり自分自身に悲しい出来事が起こったのではなく、悲しい出来事か生き方か感情を映像や音楽や音や光をとおして体験していることであって、そこにも違いがあるだろう。ただ、泣ける映画と笑える映画をみたときになにか分泌されるホルモンに量的か質的に差があるらしいということはわかる。
またこの実験結果については、最終結果ではなく、思考の契機とみて、想定してみることはできる。たとえば笑える映画から先に考えてみると、どんな悲惨な出来事でも距離を置いてみれば笑い事になる。若い頃の失恋も老齢になってふりかえれば笑い話になるのは、時間的距離のせいである。いじめだって、自分が被害者でなければ、あるいは自分が被害者に近い立場でなければ、面白いし楽しい(べつにいじめをすすめているわけではないし、また容認しているわけでもなが)。笑える映画というのは、推測の域を出ないのだが、スクリーン上の出来事に対して、どんなに共感できるものであっても。それを突き放してみることができるようなポジションを観客に与えるものだろう。この時には食欲はわかないようだ。居間でテレビのヴァラエティ番組をみながら笑っている家族が、なにかつまみながら、なにか飲みながらみているとしても、お腹はすいていない。
これに対し泣ける映画というのは、どういうものか定義がはっきりしないのだが、ただ笑える映画との対比でいえば共感・没入型の映画ということになろう。ただ没入していたら悲しくなるということではないだろうが、泣ける映画というのは、没入しないと泣けないだろう。となると手に汗握るような、展開に一喜一憂するような、スクリーンと一体化できるような映画も、泣ける映画と同じような効果をもつのかもしれない。
たとえばジェットコースターにのって怖くて絶叫している人物を正面からとらえて笑うような映像と、ジェットコースターに乗った人間の一人称的な目線の映像とを見比べるということでもいいのかもしれない。後者の場合には食欲がでるということなのかもしれない。
もちろん泣ける映画、笑える映画という、ずさんな対比にもとづくずさんな推測で申しわけないが、『ライオン』という泣ける映画でもあるし、また結末にいたるまでに共感と没入とが自然と要求されるような映画の場合、食欲が増すということがあるのかもしれない。
ああ、そうなると地獄じゃ。みんなが息をひそめてみるような、ハンカチで涙をふくような、ときにはハンカチを口にいれて嗚咽を押し殺すようなそんな映画をみながら、みんな食欲がでてきて、むしゃむしゃ、ポップコーンを食べている。地獄じゃい。映画館は、とりわけ、泣ける映画、共感没入型の映画、サスペンス映画の場合、絶対にポップコーンを販売していはいけない。
注記:ある演劇の上演で、これは楽しい芝居なので、客席でも飲み食いしてリラックスしてみてくださいと、普段は売っていない軽食や飲み物を販売していたことがある。小さな劇場のことである。しかし、その上演は楽しいものだったので、軽食などを購入した観客も、たんに夕食の代わりに食べていたのなら話は別だが、食欲はでなかったはずである。やはりシェイクスピアの悲劇なんかをみている場合のほうが、食欲がわくのかもしれないが、その場合、むしゃむしゃ食っていたらほかの客からぶん殴られるかもしれない。やっぱり食べながら見るのは、劇場や映画館の場合、たばこと同様に禁じたほうがいい。