2017年05月29日

映画と食欲

映画館の近くで、知人の女性から、夫という人を紹介してもらったことがある。ただ、そのとき夫婦の間に、なにか気まずさというか緊張感みたいなのが漂っていて、どうしたのかいぶかったが、その女性と夫もふくめ、その後、数人で食事をということになっていたが、彼女の夫のほうは急用ができたからとその場を去った。


あとで女性が話したことによれば、その直前、夫婦で映画をみていたとき、夫の方がポップコーンをむしゃむしゃと食べつづけいて、音がうるさいし映画に集中できないから、夫に英語で厳しく注意した。紹介されたときは気づかなったのだが、夫という人物は外国人だった(アジア系の)。そして夫からポップコーンを取り上げた。夫のほうは、なぜ、そんなことで怒るのか理解できず、逆に気分を害したのか、映画の終わりまで、いや映画が終わってからも怒りモードがつづいたという。


その映画は私も別の映画館でみていたが、私の隣に座った外国人(白人系)は、終始ポップコーンを食べていたが、べつに気にならなかった。と、そのことを伝えて、まあ、気持ちはわかるけれども、映画でポップコーンを食べるのはあたりまえと考えているその夫に、そんにな非があるわけでもないので、もっと穏やかにことを運べばよかったのではと私は話したが、その女性も、夫の機嫌はすぐになおると話していたし、痴話げんかみたいなものかと、私もふくめ周囲も心配はしなかった。


最近、映画『ライオン』を見た時、同じことが起こった--私に。たくさん人が入っていたが、100%満席ということではなかったので、私のすぐ隣に座ったバカップルにちょっとむっとしていた。席ひとつぐらいあけて座れよと、いらいらしていたが、やがてそのカップルといっても男性のほうだが、その男がポップコーンを食べる音が妙に大きく聞こえ、気になってしょうがなくなった。まあ、ポップコーンもいつかはなくなると思ったのだが、とくに時間が短い映画ではないのだが、映画が終わるまでポップコーンは残っていた。


問題は、映画が緊迫感をましてくるときである。ポップコーンを食べる音が気になってくる。


いよいよ生まれ故郷の村近くまでやってきた。むしゃむしゃ。はたして彼は子供のころのかすかな記憶だけを頼りに地理をはあくできるのか。むしゃむしゃ。手掛かりはあって、そこで失われた記憶が……むしゃむしゃ。子どもが(あとから指摘されたのだが)上からの俯瞰で道や街並みを把握していただのろうか。むしゃむしゃ。いよいよ村に到着し……むしゃむしゃ。時間の経過が……むしゃむしゃ、すべてを消し去……むしゃむしゃ……はたして彼は……、ほんとうに母親に会える……ほんとうにこれから母親……むしゃむしゃ………会える……むしゃむしゃ………のか、いよいよこれから母親に会うことに、むしゃむしゃ、………………


いい加減にせんかい。


気でも狂ったのかと思えるくらい、その男は映画がクライマックスに近づいていると、ポップコーンを食べる手がとまらなくってくる。思い出した。あの女性が夫からポップコーンを取り上げたことを。彼女の気持ちがいまになってよくわかった。


映画が緊迫度を増すと、なにか食欲もましたみたいで、食べる頻度が高くなる。しかも映画が盛り上がりを見せると食欲ももりあがりをみせるのだ。おまえには映画に集中するという気持ち、集中からうまれる緊迫感と快楽というものを感ずることはないのか、むしゃむしゃ馬鹿みたいに食いやがって。だいたい、それに周囲にも迷惑をかけるということがわからないのかと、私はひとり怒りをたぎらせていた。


すると、その男が泣いているのである。べつに私と女性をはさんで隣にいた男が、私の憤怒をテレパシーで感じて、自分のことを恥じて泣いていたのではないだろう。まあ、そんなことがわかるのなら、そもそもポップコーンをむしゃむしゃ食べ続けるという暴挙には出ないだろう。そうではなく、端的にいって映画の内容に涙しているのである。私の怒りもここでマックスに。


そもそも人の迷惑をかえりみず、ポップコーンを食べまくり(だいたい連れの女性もどうかしている、少しは注意して、ポップコーンをとりあげたらどうか。先に紹介した女性は実に正しいことをしていたのだ。この私の隣の女性はただの……)、そして自分一人で感動して涙を流しているのだが、同じ料金を払ったほかの観客の貴重な時間をむちゃくちゃにして、自分だけは平気なんだから、天罰が下るぞ。


最初に紹介した女性の怒りが、そのときはピンとこなかったが、いまでよくわかった。というのがこの話のオチではない。というものさらなる驚きがあったのだ。


『林先生が驚く初耳学』528日放送の回で、「泣ける映画を見ると太る」という知識が紹介されたのである。泣ける映画と笑える映画を見る場合、泣ける映画をみるときのほうがポップコーンを食べる量が増す、つまり観客の食欲が増すという実験結果が得られたのこと。


悲しさが募ると「グレリン」という食欲増進ホルモンが分泌される傾向があるということである。


もっともこの実験というかこの情報というのは、私のようなまともな知性のない人間がみても、説明不足で、ずさんな情報だとわかる。悲しい映画の定義がよくわからない。またこれは映画をみている体験である、つまり自分自身に悲しい出来事が起こったのではなく、悲しい出来事か生き方か感情を映像や音楽や音や光をとおして体験していることであって、そこにも違いがあるだろう。ただ、泣ける映画と笑える映画をみたときになにか分泌されるホルモンに量的か質的に差があるらしいということはわかる。


またこの実験結果については、最終結果ではなく、思考の契機とみて、想定してみることはできる。たとえば笑える映画から先に考えてみると、どんな悲惨な出来事でも距離を置いてみれば笑い事になる。若い頃の失恋も老齢になってふりかえれば笑い話になるのは、時間的距離のせいである。いじめだって、自分が被害者でなければ、あるいは自分が被害者に近い立場でなければ、面白いし楽しい(べつにいじめをすすめているわけではないし、また容認しているわけでもなが)。笑える映画というのは、推測の域を出ないのだが、スクリーン上の出来事に対して、どんなに共感できるものであっても。それを突き放してみることができるようなポジションを観客に与えるものだろう。この時には食欲はわかないようだ。居間でテレビのヴァラエティ番組をみながら笑っている家族が、なにかつまみながら、なにか飲みながらみているとしても、お腹はすいていない。


これに対し泣ける映画というのは、どういうものか定義がはっきりしないのだが、ただ笑える映画との対比でいえば共感・没入型の映画ということになろう。ただ没入していたら悲しくなるということではないだろうが、泣ける映画というのは、没入しないと泣けないだろう。となると手に汗握るような、展開に一喜一憂するような、スクリーンと一体化できるような映画も、泣ける映画と同じような効果をもつのかもしれない。


たとえばジェットコースターにのって怖くて絶叫している人物を正面からとらえて笑うような映像と、ジェットコースターに乗った人間の一人称的な目線の映像とを見比べるということでもいいのかもしれない。後者の場合には食欲がでるということなのかもしれない。


もちろん泣ける映画、笑える映画という、ずさんな対比にもとづくずさんな推測で申しわけないが、『ライオン』という泣ける映画でもあるし、また結末にいたるまでに共感と没入とが自然と要求されるような映画の場合、食欲が増すということがあるのかもしれない。


ああ、そうなると地獄じゃ。みんなが息をひそめてみるような、ハンカチで涙をふくような、ときにはハンカチを口にいれて嗚咽を押し殺すようなそんな映画をみながら、みんな食欲がでてきて、むしゃむしゃ、ポップコーンを食べている。地獄じゃい。映画館は、とりわけ、泣ける映画、共感没入型の映画、サスペンス映画の場合、絶対にポップコーンを販売していはいけない。


注記:ある演劇の上演で、これは楽しい芝居なので、客席でも飲み食いしてリラックスしてみてくださいと、普段は売っていない軽食や飲み物を販売していたことがある。小さな劇場のことである。しかし、その上演は楽しいものだったので、軽食などを購入した観客も、たんに夕食の代わりに食べていたのなら話は別だが、食欲はでなかったはずである。やはりシェイクスピアの悲劇なんかをみている場合のほうが、食欲がわくのかもしれないが、その場合、むしゃむしゃ食っていたらほかの客からぶん殴られるかもしれない。やっぱり食べながら見るのは、劇場や映画館の場合、たばこと同様に禁じたほうがいい。

posted by ohashi at 14:42| エッセイ | 更新情報をチェックする

2017年05月28日

『光』

映画は、視力を失った写真家と、彼を助ける若い女性との交流、そして絶望から生きる希望を見出していくヒューマン・ドラマかと思ったら、たしかに、その要素はある――もちろん、河瀬監督の映画だから、安易な希望の光などなく、たとえ悲惨な境遇や運命にあっても尊厳を失わずに逃避することなく自力で生きる人物たちのドラマだろうという予想はあたったし、そのとおりで安易なヒューマン・ドラマではなかったが。それと並行して、これは映像と言葉、イメージと音、それらの表象可能性のリミットを出現させた驚異のメタ映画であることがわかって、言葉を失うほど驚愕した--もちろん驚愕という言葉は大げさすぎて、もっとつおだやかな、もっと深いものであるとしても。


事実、この映画は、目をつむって見る映画でもある。映像を見ないで見る映画でもある。映画の冒頭から驚くのだが、これは目が不自由な人のために、映画の音声解説をつける仕事をする若い女性(水崎綾女)の物語でもある。映画のスクリーンを観ることができない人のために付ける音声解説。そのために、映画の中で、音声解説をつけられるもうひとつの映画が存在する。この映画は、もちろん部分的にしか映像化されていないし、むつかしそうな観念的映画でもあって、それゆえ音声解説をつける彼女は悪戦苦闘する。目が不自由な人たちに、まえもって音声解説を聞いてもらいながら、ときには厳しいダメ出しをもらいながら。そして最後に音声解説が完成し、わたしたち観客には音声解説の完成試写会の場面が見える。


この映画は、もうひとつの〈映画・内・映画〉の音声字幕の完成という物語をみせる映画であり、映画はふたつある。いや、それだけではない。完成試写会に来ている観客たちは、みな目が不自由な人たちなので、イヤホンで音声解説も聞きながら、目をつむって映画をみている。見えない映画を見ている。映画は観客ひとりひとりの頭のなかに生成している。それを映し出す映画がある。これだけでも映画の無限の広がりを、無限増殖を観取できる。どこまでが現実でどこまでが映画なのかわからないなどということがあるが、この映画は、その先をいっている。どこまでが、いまみているこの映画で、どこまでがいまみている映画でなのか、わからなくなるからだ。


ちなみに私が見た映画館もそうだったが、たぶん、この映画は、目の不自由な人が、イヤホンで音声解説を聞きながら見ることができるのである。目を閉じて、見えないスクリーンを、見るのである。しかも、映画の音声解説をつくるという映画だから、そこにさらに音声解説がつくのである。考えただけでめまいがしてくる。しかし、音声解説で、この映画を見る人にとっては、めまいというメタファーは意味をなさないのだろう。その等価的な体験とはなんだろうか。それを考えるだけでも、めまいが、いやめまいも含む精神的眩惑のただなかに放り込まれるような気がする。


私は正直なところ、視力を失った人たちが、なにも無理をしても映画をみる必要はないのではないかと思っていた。視力の補助をすることは必要だが、映画的快楽は望めないのだから、むしろ一般人よりも鋭敏になっている聴力を駆使して、音あるいは音楽の快楽を、追及すればよく、映画は見るのは無駄な営みではないかと考えていた。もちろん見えない人に視覚的説明をするなというのではない。映画あるいは視覚芸術は、言葉では完璧に表現できない世界であって、それをどうしても不備が残り限界から免れない言語表現をとおして見るというのは無理がある。だから、たとえば原作の小説を読んで、映画館でみなくても映画の内容を想像するようなもので、それはそれでいいのだが、それ以上のことは求めてもしかがたないと考えてきた。いいかたをかえれば音声解説は、いくらすぐれた解説をつけても、解説者が見ているものと同じ映像を見てもらうことはできないので、無駄な努力ではないか、と。


しかし私の先入観は、この映画を見て打ち砕かれた。目が見えない人にも映画を見る権利があるということがわかったというのではない。目が見えない人にも、あるいは目が見えない人だからこそ、映画が見えるのだということがわかったのだ。スクリーンを見ていなくても、映画本来の音と、わずかな音声解説で、映画を見ることができる。しかも目が見えない人が見ている映画のほうが、ほんとうの映画ではないかとも思えるのだ。それは決して単なる比喩ではない。視覚芸術でありながら、同時に、目がみえない人/映像から解放された人の脳裏に実現する芸術でもあること、それが映画の究極のかたちではないかと、わずからながらでも理解できたように思われる。


見えない映画こそが、ほんとうの映画かもしれない。この歳になって、それを思い知らさせることになるとは、私のつまらない人生のなかで、最大の事件である。


とはいえ、私のこの記述は、この映画の音声解説者がつくる最終稿にはとても及ばない稚拙なものであって、これで映画をみてない人を納得させる、あるいは心の目でこの映画をみてもらえるとは思えないので、無力感にとらわれるのだが。


裸の王様ではないが、見えない映画がほんとうの映画だということがわからない人は、頭が悪いというようなことを伝えるつもりはまったくないことは、断っておきたい。とりあえず映画を見た第一報として。

posted by ohashi at 21:19| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年05月27日

『光をくれた人』

The Light between Oceans


1.ゴーン・ベイビー・ゴーン


ベン・アフレックが弟のケイシー・アフレックを主演した初監督作品『ゴーン・ベイビー・ゴーン』(2007)は、消えた赤ちゃんを捜査する探偵(ケイシー・アフレック)が最後に市(ボストンだったか)全体をまきこんでいる大きな陰謀をつきとめる話だったが、その陰謀とは貧困層に生まれた赤子を比較的裕福な中産階級以上の夫婦が引き取って(養子にするのだったか)育てるというのもので、その際、赤ん坊を貧乏人の親から奪い、新しい両親のものとへ届ける。これを市ぐるみで、つまり市長や市の幹部、また警察署までがシステムを構築して長く実践してきた。だが、いなくなった赤ん坊を探すよう依頼をうけた探偵が粘り強い探索の末に市の陰謀をあぶりだす。


ここまでだと、ひどい話だと思うかもしれない。母親から子供を非道さは言語を絶する。しかし実際にはそんなに簡単ではないことがわかる。赤ん坊を奪うのは営利目的の人身売買ではない。むしろ人道的見地から子供の幸福を願っての最善の策として秘密のシステムが構築されたのである。貧困層に生まれた赤ん坊は、周囲の劣化した環境から、育児放棄されたり虐待されたり殺されたりする。たとえ無事に成長するとしても、すさんだ環境のなかで育った子供は犯罪者予備軍でしかない。貧困層の子ども全員が犯罪者になるわけではないが、まっとうに生きようとしても数々な困難に逢着する苦難の人生を強いられる。貧困層の子どもたちは生まれながらにして悪人ではない。環境が彼らを犯罪者にする。とすれば彼らの多くは適正な環境のなかで育てられればりっぱな市民に成長するだろう。また子供をほしがっている人びとは多い。たとえ富裕層ではなくても、生活に余裕のある家庭に引き取られたら、子供にとっても、これ以上に幸せなことはないのではないか。赤ん坊の頃に母親から引き離せば心の傷が残ることもない。


ただし、それは違法行為でもある。となると法や正義を求めることと、幸福を追求するとが鋭く対立する。正義か幸福か。このふたつは両立することが望ましいが、往々にして、一方を追求すると他方がないがしろにされることになる。カント的倫理とアリストテレス的倫理の対立といってもいい。正義か幸福か。この困難な選択を主人公が迫られたとき、ケイシー・アフレックは組織ぐるみの犯罪を告発し、赤ん坊を本来の母親のもとに返すことになる。市長や警察署長、さらには恋人の反対を押し切って。


彼にしてみれば、善意による行為であっても、違法は違法であり(違法であることがわかっているからこそ、システムが秘密になっているのであり)、これを許してしまうと、幸福の追求のために法をつぎつぎと捻じ曲げる、いや法に反することが常套化してしまう。そのため法を破ることは許されない。彼は彼なりに、きちんと筋を通すことになる。そして母親のもとにもどされた赤ん坊。再会時にはうれし涙にくれていた母親だったが、ほどなくして自堕落な生活にもどり、赤ん坊の世話もやかなくなることがわかる。映画は答えをだしていないが、はたしてこれでよかったのか。このままいけば、赤ん坊がこの母親あるいは周囲の環境のせいで死んでしまうかもしれないし、死ななくとも悲惨な人生を送るしかないという暗示はある。違法によって得られる幸福は真の幸福ではないが、法を人間の幸福を作り出すものではないので、法を順守すれば、そのまま幸せになれるわけではなく、むしろ不幸せになる。


もちろん逆も考えられる。子どもは何も知らないだろうが、ここでの育ての親は自分たちが違法なかたちで子供を手に入れたことを知っている。もちろん養子縁組して、書類上、問題ないようにはなっているのだろうが、赤ん坊は、ほんとうの産みの母親から奪ってきたものであることを育ての親は知っているのである。そのように子供を不正によって得たということを、たとえ墓場までもっていくとしても、子供にも周囲にも隠したまま生き続けることで自分たちが、あるいは子供を、ほんとうに幸せにできなるのだろうか。大金を強奪して幸福な生活を実現しても、精神的に幸福かどうかわからないことになる。映画では探偵が赤ん坊を産みの親に返すことで、育ての親になる男女を救ったということにもなるかもしれない(もちろん階級問題もあって、中産階級から富裕層は、貧困層から子供を奪っても許されると思いあがっているふしがあるし、これは貧乏人の子どもを肉として食べるという解決法と比べても、あまり変わらないともいえる)。


正義か幸福か。正義をとれば幸福がきえるかもしれず、幸福をとれば正義が消えるかもしれない。これは、赤ん坊は誰のものか。産みの親か、育ての親か――という問題とも関連する。言えることは、ここからいくつかの可能性が考えられるということ、そしてその可能性の中には誰もが不幸になるという事態も含まれるということである。


しかし映画ジャンルは答えをだしている。『ゴーン・ベイビー・ゴーン』も、ジャンルの規則に実は従っているのだが、赤ん坊は生みの親のものである。産みの親から奪ってはいけない。産みの親のもとに赤ん坊は返すべきである。育ての親のもとで、健やかに、また幸せに暮らしましたという話にならないのである。


ここまで確認したうえで、『光をくれた人』を考えるとすると、灯台のある島に海から漂着した船のなかにいた赤ん坊を、自分たちの子どもにしようと灯台守の妻が提案するところから運命が大きく傾き始めるのだが、灯台守としては、この件は報告しなければいけない。小舟にいっしょにいた父親らしき若者が死んでいたということもあって、このまま報告しなくても、誰も気に賭けないという判断したふしもある。幸福が、違法性の認識を凌駕したのである。


この幸福がゆらぐのは、死んだ男性の妻であり赤ん坊の母である女性(レイチェル・ワイズ)がいて悲嘆にくれる人生を送っていることを灯台守の男(マイケル・ファスベンダー)が知ったときである。自分たちの幸福が、違法によって支えられているというだけなら、実は、耐えられるのかもしれないが、産みの母親を不幸にしていたこと、他人の不幸によって、自分たちの現在の幸福が得られたことへの罪の意識から、やがて、赤ん坊(いまや二、三歳になっている)を、産みの母親のもとに返すということになる。もちろん警察に逮捕され投獄される灯台守と、育ての親を親と思っている女の子のつらい生活の変化、そして娘を失った喪失感と夫の裏切りへの怒りによって悲嘆の日々を送ることになる妻という劇的な変化が登場人物たちを待ち受けている。とはいえ、これは予告編をみて予想できることなのだが。


ここでは絶対的な区分ではないとしてもジェンダー的な区分をある程度指摘できるだろう。正義を貫き、法をも守り、筋を通すことにこだわるのは、どちらかというと男性であり、幸福の追求を優先するのが、女性であるというような。もちろん、そうでない男性や女性がいるということは承知のうえで、ステレオタイプ的なジェンダー化された区分を導入できるかもしれない。


しかし、この映画は、産みの母親が失った娘を再会し、たとえ悪意はなくとも産みの親から子供を不当に奪った人間は罰せられねばらないというジャンルの規則を、この映画も守っているのだが、同時に、産みの親になつかない娘(もちろん最初はそうだが、いずれ抵抗はなくなることを描くこともできるのだが、幼い娘はなつかないままである)を描くことによって、産みの親絶対視に対して疑問を投げかけている、あるいは別の選択肢を暗示しているということもできる。違法なことではなくても産みの親と育ての親の二人ができることがある。その場合、産みの親がつけた名前と育ての親が付けた名前がぶつかることがある。


同じくオーストラリアを舞台にした映画『LION/ライオン~25年目のただいま~』(2016)では、インドで母親と離れ離れになり孤児となってからオーストラリアの夫妻のもとに養子にもらわれたインド生まれの男が、生き別れになった母親をもとめてインドに旅立つ。もちろん育ての親との縁を切るのではなく、オーストラリア人として、出身地のインドへの一時帰国するのである。そしてまだ生きていた実の母親と再会する。育ての母親と父親は不法な手段で孤児を養子にしたのではないし、またインドで生活するというつもりも本人にはないので、二人の母親の間を行き来しながら、二つの国、二つの世界で生きていくことになるのだが、ただ、ここでは産みの母やと産みの母親のつけた名前が最終的に勝利する。映画のタイトル『ライオン』の意味が、最後の最後であかされる。それは幼い主人公が、自分の名前をいい加減なというかまちがった発音で覚えていたのだが、産みの親と出会って、そのほんとうの名前がわかるのである。つまり「ライオン」という意味の名前だった。


『光をくれた人』では、女の子に、灯台守夫妻はルーシーと名前を付けるのだが、もともとの名前はグレースだった。女の子は産みの母親のところにもどされても、グレースと呼ばれることを拒み、ルーシーが自分の名前だと言い張る。すると彼女の祖父が、それでは名前は「ルーシー・グレース」としよういうと、女の子はそれで納得する。う~ん、なんという簡単な解決。しかし、グレースという最初の名前を特権化することなく、ルーシーとして育った彼女の人生をも尊重し、彼女をルーシーと呼んでかわいがった灯台守夫妻のことも記録するという二重性ももたせていることに感銘を受けた。過去と未来、産みの親と育ての親、憎しみと許し、幸福と正義、それがまじわるところにいる女の子「ルーシー・グレース」は灯台の光のように、両方向に光をあたえることになった。そこに、ジャンルの規則にやすらぐことなく、別の選択肢をも登録しようとした映画の強い姿勢があらわれているようにも思えるのである。


『ライオン』の話がでたついでに、産みの親と育ての親ではないが、二種類の親の存在にゆる動く話に、ちょっと古い映画だが『アメリカン・ラプソディー』(エヴァ・ガルドス監督2001)がある。私は以前、この映画をコンピューターの小さな画面でみたのだが、それでも涙がとまらなくなって、情緒不安定になったのかと自分でも心配になったのだが、ネットなどではアメリカ人もまた、この映画に涙していたことがわかり、なかには泣きたいときには、この映画をみるとまでコメントしているアメリカの女性もいて、私も含めみんな情緒不安定なのかもしれないが、同時に、泣かせるポイント抑えた映画でもあることがわかった。これは第二次世界大戦後、ハンガリーからアメリカへと亡命するようなかたちで移住した家族が、事情により、まだ赤ん坊の女の子をひとり、ハンガリーの祖父母(たんに里親というだけだったかもしれないが)のもとに預けなければならないことにある。農家で祖父母によって育てられたその女の子は、やがてアメリカにいる両親家族からアメリカへと迎い入れられることなり、慣れないアメリカの生活に苦労しながら、やがて高校生か大学生くらいになる。しかし、彼女はハンガリーで過ごした幸福な過去の生活と祖父母のことが忘れられず、単身、ハンガリーに一時帰国する。現在と回想の過去が交互にあらわれるような栄華のなかで、彼女が祖父母と過ごしたハンガリーでの生活は、客観的にみれば共産主義体制下での、そんなに幸せな生活ではないようにみえるが、彼女におっては祖父母にかわいがられ、貧しいながらも、幸福で輝いていた至福の一時期だったのである。猿顔の女の子と、老人夫妻との愛情あふれる生活ぶり回想シーンが、映画のすべてをもっていくところがある。やがて彼女もハンガリーでの祖父母のもとを去りアメリカに帰る。もう二度と会うこともない祖父母のもとを。そして幸福な幼年時代ともこれを限りの別れを告げ、産みの親のもとで暮らすことになる――喪失感を心の片隅にかかえながら。この女の子と同じような体験をした人は、そんなにいないと思うが、なぜか涙が出てくるのは、どこかで共通する経験を誰もがもっているからだろ。とにかく猿顔の幼い女の子のシーンは泣ける。彼女が大きくなってからをスカーレット・ヨハンセンが演じているのだが、彼女の部分は、べつに泣けるというわけではない。


『ライオン』とこの『アメリカン・ラプソディー』を並べると、どちらの二種類の親の間を揺れ動き、みずからの出自へと帰還するのを、子供の側から描いている。これに対して『光をくれた人』は子供の視点ではなく親の視点から描いている。そのためどちらの親も子供を中心に対峙することになる。二つの大洋が、この灯台のある島で、対峙しているように。またこの日本語のタイトル「光をくれた人」というのは、夫婦の物語をタイトルに選んでいる。子どもがまだ小さいといこともあるが、親の側からの視点の映画であり、だったら『ゴーン・ベイビー・ゴーン』のほうと接近するが、ただ、『ベイビー』も実はそうであったかもしれないのだが、産みの親を尊重し、正義を重視するというジャンルの規則から、大きくはなくても、すくなくとも外れている方向へと、この『光をくれた人』は踏み出したかのようにみえる。 つづく

posted by ohashi at 19:54| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年05月26日

『カフェ・ソサエティ』2

二人のヴェロニカ


『カフェ・ソサエティ』では主人公ボビー/ジェシー・アイゼンバーグが、二人の女性に恋をする。最初の女性ヴォニー/クリスティン・スチュアートとは結ばれないが、二番目の女性ヴェロニカ/ブレイク・ライブリーとは結婚する。正確には二番目の女性は人から紹介された見合い結婚みたいなものだから、ほんとうに愛しているかどうかはわからないが、円満な夫婦生活を送るようにみえる。


面白いのは二人の女性が同じ名前なのである。ふたりのヴェロニカ。


最初の女性ヴォニーというのはヴェロニカの愛称のひとつだとわかる。ふたりのヴェロニカ――というような台詞があったような気がする。そうなるとクシュフトフ・キエストロフスキー監督の『二人のヴェロニカ』(1991)を思い出しすしかないのだが、イレーネ・ジャコブ主演のこの映画は、分身映画だが、『カフェ・ソサエティ』の二人のヴェロニカとは関係がないだろう。そもそもキエストロフスキーのこの映画、「ヴェロニカの二重生活あるいは二つの人生」というようなタイトルで、日本でつけた「ふたりのヴェロニカ」は「ふたりのロッテ」からの連想によるものだろう。ふたりのロッテが双子ものなら、ふたりのヴェロニカは双子なのかもしれないがドッペルゲンガー物でもある。で、『カフェ・ソサエティ』とは関係がない。


しかし女性がふたり同じ名前であるということは気になった。古い本だが、いまでも読み返すことがあり、またお勧めの本だが、マイケル・リチャードソン編『ダブル/ダブル』というアンソロジーである(柴田元幸・菅原克也訳、白水社1990)。私がもっているのは1990年の4刷で、同じ年に、すくなくとも4刷がでている(たぶん最終的にはもっと刷りが多いのだろう)。分身とか双子ものの短編を集めたもので、いうまでもなく翻訳はよくできていて興味の尽きない短編集である。


そのなかにルース・レンデルの「分身The Double」という作品があって、これが奇妙な(まあ分身物はみんな奇妙だとはいえ)物語で、主人公が二人の女性に恋をする。というか二股をかける。ならば主人公の男性が、ジキル博士とハイド氏ではないが、ふたりの異なる女性に対して、二重人格のように性格を変えるのかというとそうではない。分身関係がどこに成立するかというと、二人の女性がよく似ているのである。男が同時に愛する二人の女性が分身関係にあるのである。デッドリンガーというか、ふたりがそっくりなのである。


二人が実は双子だったというような種明かしはまったくなく、ふたりは出会うことで同時に死んでしまう。これは異色だが、同時に、なっとくできる心理を描いているとも感じた。というのは、男女どちらも同じだろうが、ひとりの相手に満足せず、べつの相手を求めるとき、性格とは見た目が正反対のパートナーを求めることも多いかもしれないが、同時に、似たようなパートナーを求めることも多いのだ。ある男性の浮気相手の女性が、その男性の妻とそっくりだった、あるいは同じようなタイプだったということは、統計的にどうだが知らないが、ありえないことではない。よくありすぎることかもしれない。


つまり浮気する男女は、相手に、前の相手と同じタイプの人間を求めたり選んだりする。私がプレイボーイタイプの人だとして、私がつぎつぎとみつけ、また捨て去っていく相手の女性はみんな同じタイプの女性だということになる。奥さんと愛人が似ているということ。


これについて、奥さんと愛人が似ているというのは、ふたりはもうひとりの女性と似ているからだと考えたのフロイトである。つまり、ふたりの女性に似ている第三の女性とは、男性の母親だということだ。


ひとりの女性に満足せず、つぎつぎの女性をかえていく男性は、結局、むすばれることのない(近親相姦のタブー)母親の代理となる女性を求め続ける。したがって妻だろうが愛人だろうが恋人だろうが、ひとりの女性に満足しない男性は、母親のヴァリエーションをずっと求め続ける。したがって女性たちはみんな同じタイプになる。女性たちはみな分身であるが、その分身の究極のモデルは母親なのだから。


母親とは結ばれないから、その代理を求め続けるが、母親の存在が大きすぎると、代理の女性では満足できなくり、つぎつぎと母親と同じタイプの女性を求め、そしてまた別の女性と取り換えることになる。プレイボーイタイプの人間が求める究極の女性は母親である。


だが、これは不可能な要求なので、この欲望は満たされることなく、落胆とともに、つぎの女性を求めるしかない。求めては落胆する。手に入れては捨てる。なんという悲しい人生、なんという落胆の人生。だが究極の女性像を母親のなかに見出すとなると、代理の女性で満足させられることがあってはならない。むしろ母親の代理として求めた女性に落胆することで、母親の大きさが確認できる。


だからほんとうに落胆しているのではない。落胆している瞬間ほど、母親を強く愛している瞬間はない。母親を聖女の立場に置くのは、地上の女が誰も、この母親の代理になれないことが証明されるときである。だから母親以外のすべての女性に落胆することが最高の喜びなのである。だからプレイボーイが求めているのは、女性に落胆することなのである。


しかし、そこまでのプレイボーイはめったにいないかもしれないが、男性誰もがエディプスコンプレックスの犠牲者だとするなら、男性が、浮気したり二股をかける相手の女性は、みな同じタイプということになる。


だから『カフェソサエティ』におけるボビーが愛する女が、同じ名前であるのは、ある種のアレゴリーなのだ。名前だけが同じで外見から性格まで同じではないのだが、同じ名前であることは偶然ではなく、二人の女性が同じタイプの女性であることの暗号なのである。私が愛する女性、好きになる女性は、いつもヴェロニカなのである。


そして『カフェ・ソサエティ』は、この二人の、三人の、無数のヴェロニカの背後に母親への満たされぬ欲望があることを暗示している。そうではないだろうか。ボビーが最初に愛した女性クリスティン・スチュアートには、すでに恋人がいて、それがボビーの叔父だったとわかる。自分が愛している女性が、自分にとって近しい人間あるいは父親代わりの人間に奪われること、これこそ母親を愛する息子が、母親が別の男(息子の父親)を愛していたこと、自分(息子)ではなく別の男性(母親の夫、息子の父親)を選んだことの衝撃と落胆をとおして、強固なエディプス三角形が形成される。


したがって母親であるヴォニーを、父親(叔父)に奪われたボビーが、もうひとりのヴォニー/ヴェロニカを求めたことは、かれがエディプス・コンプレックスの犠牲者であることの証拠でもある。またもうひとりのヴェロニカは、母親の代理であるがゆえに、簡単に裏切られてしまう、捨てられてしまうのである。まあそれに自分の叔父に愛する者(母親)を奪われてしまうというのはハムレットと同じである。『カフェ・ソサエティ』が『ハムレット』の翻案とまでいうつもりはないが、主人公が悩めるハムレットであることはまちがいなだろう。




posted by ohashi at 23:09| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年05月25日

『カフェ・ソサエティ』

今週2度目のクリスティン・スチュアートだが、彼女の出演映画は『パビック・ルーム』からみている(もっともあの男の子にみえる女の子が彼女だったというのはあとでわかったのだが)。『ランナウェイ』がけっこうよくて、『アリスのままで』くらいまで観たのだが、『トワイライト・シリーズ』は部分的にのぞいただけで全部はみていない。まあ、それはともあく、二人のクリスティンについて語るまえに、あるいは語らないまえに。


ウッディ・アレン監督の『カフェ・ソサエティ』(2016)は、1930年代のハリウッドとニューヨークを舞台にした映画。ネット上のサイト(KINENOTE)では、こんなあらすじ紹介がある(【】は私の挿入)。


1930年代。もっと刺激的で、胸のときめく人生を送りたい……。漠然とそんな願望を抱いたニューヨークの平凡な青年ボビー(ジェシー・アイゼンバーグ)【なおボビーはニューヨークのユダヤ系移民の子という設定であり、ユダヤ系であることは最後まで強調され続ける】は、ハリウッドを訪れる。華やかな映画の都には、全米から明日の成功を目指す人々が集まり、熱気に満ちていた。そんななか、業界の敏腕エージェントである叔父フィル(スティーヴ・カレル)のもとで働き始めたボビーは、彼の秘書ヴェロニカ愛称ヴォニー”(クリステン・スチュワート)の美しさに心を奪われる。ひょんな幸運にも恵まれてヴォニーと親密になったボビーは、彼女との結婚を思い描くが、実はヴォニーには密かに交際中の別の男性がいることに彼は気付いていなかった【その男性とは、彼の叔父フィルであり、彼女は結局、ボビーを捨てて、フィルと結婚する。傷心のボビーはニューヨークにもどるが、そこでナイトクラブを経営しているギャングの兄ベンから経営をまかされ(前のオーナーは不正をしたためベンに殺されコンクリート詰めになって埋められる)、クラブを繁盛させてニューヨークの上流社会(カフェ・ソサエティ)で一流経営者として成功する。やがて、ボビーはもうひとりの美女ヴェロニカ(ブレイク・ライブリー)と出会うのだが……そして結婚するのだが、ある日、ハリウッドからフィルとヴォニー夫妻が仕事でニューヨークにやってきて、ボブのナイトクラブを訪問すると、ボビーは、ヴォニーのことをいまも忘れられないことに気づくのだった…… となる。】


映画は、ずっとステレオタイプのパレードである。1930年代にこういう人物がいたということの再現ではなく、いかにもいそうな人物のステレオタイプを演じているという印象が強い。なるほど、もし1930年代にはこうした人物は、時代を真摯に生きていたことだろう。たとえ気障でも、偉ぶっているとみえても、ほんとうに気障で、ほんとうに偉かったのである。しかしもし私たちが1930年代にタイムスリップしたら、周囲の人間は、1930年代というジャンルの映画や物語の人物を、まじめくさって演じているとしかみえないだろう。


それと同じようというべきか、この映画では、あたりまえのことといわれなねないが、誰もが1930年代を演じているのである。ちなみにウッディ・アレン的人物というのは、口ごもったり、おどおどしたりする神経質な、現実不適合者だが、その人物をジェシー・エイゼンバーグが演じているのだが、うまく演じすぎで、実に達者なウッディ・アレン的ステレオタイプをよどみなく演じている。そしてウディ・アレン自身は、ナレーションにまわっているが、それもプレディクタブルなセイム・オールド・ストーリーをよどみなく語っている。たとえ予想外のことが起こるというナレーションであっても。ここでは予想外のことが、予想通り起こるのである。


ユダヤ系ギャングというのは、最近のアメリカ映画によくでてくるロシア系マフィア(ときにはイスラエル系マフィアというのもある)のように1930年代では珍しいのかもしれないが、ユダヤ系一族の生活習慣や考え方はしっかりステレオタイプ的である。


かくしてステレオタイプの饗宴、あるいは登場するのはステレオタイプ的人間でしかないというこの映画の世界が出現する。また物語もとんとん拍子に、よどみなく進む。すべてが想定内の出来事であるからだ。


しかし、そのステレオタイプ的想定内的世界に、亀裂が入る。元カレ、元カノの登場である。ジェシー・アイゼンバークとクリステン・スチュアートがニューヨークで再会するとき、彼ら二人のよどみない、つぎはぎもない、ほつれもない、想定内のステレオタイプ的スムーズな人生に、影が生まれる。後悔と無力感。あらたな方向にはすすめないが、かといって、このままでいるのは虚無感がつのだけの人生。予想内のステレオタイプの人生に、ふと生ずる絶望と落胆と虚しい希望。つまり二人は、観客は、ここではじめてリアルに触れることになる。表情豊かに演じていた役者たちが、素の自分にもどるとき、もしそれを観客がみていたら驚くにちがいない無表情。それと同じものを、真実の瞬間を、素にもどるリアルな瞬間を、最後に見せてくれることで、この映画は、ステレオタイプのヴァーチャルな現実を超えた、いやその現実の生じた亀裂と、その亀裂の背後にあるものを観客に教えるのである。

posted by ohashi at 21:27| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年05月23日

映画館と眠り

私も映画館でよく眠ってしまうので、人のことは言えないのだが、前回触れた『パーソナル・ショッパー』を観た時、私の隣に座ったメタボ男は寝ていた。映画は、予想外の展開はしたが、つまらない映画ではなかった。『カフェ・ソサエティ』のなかの絵にかいたような美女のクリスティン・スチュワートよりも、こちらの主役のクリスティン・スチュワートのほうが、あえてオーラを消しているようなところもあって女性としても人間としても魅力的なかたちで提示されていたのだから。


そのメタボ男、席に着くなり、いろいろ食べまくって、映画が始まる頃には、ぷしゅと音がした。缶ビールか、炭酸入り清涼飲料水をあける音がした。ビールの場合、アルコールで、清涼飲料水の場合、血糖値があがり、眠くなるぞと、他人ごとながら心配したら、いきなり寝始めた。


まあ私もよく映画館で寝てしまうので、人のことをとやかくはいえない。またこのメタボ男、とくに私もふくめ周囲に迷惑をかけているわけではないので、べつにかまわないのだが、目が覚めて映画が進んでしまっているときに、どんな反応をするのか。しばらくみて筋を追ってみて追えないとわかったらどうするのか。あきらめて眠ってしまうのか。そのへんは、すぐ隣なので気配でわかるので、ちょっと興味を思って、メタボ男の寝覚めをまっていた。


そうしたらいびきが聞こえてきた、本格的に眠るつもりなのかと、ややあきれた。私もまあ人のことはいえなくて、以前『CIジョー バック2リヴェンジ』では、最初から眠ってしまい、激しい戦闘シーンが続いても眠っていて、気づくと、前作で主役だったチャンニング・テイタムが、その姿を映画のなかで観る前に、戦死していた。まあそれでも目が覚めてからは筋が追えたし、あとで振り返れば、寝ていて損はない映画だった。


あるいはテレンス・マリックの映画『ツリー・オブ・ライフ』を観た時。映画がはじまってすぐに眠ってしまって、目が覚めたら大きなスクリーンに恐竜の親子が出ていて、さすがにこのとき映画館を間違えたと、あわてて席をたとうとした。ただ、寝ぼけ眼で少し見ていたら、この映画でいいとわかって席をたつのをやめたのだが。


ただ、いずれにせよ眠っていたの15分から30分以内で、仮眠状態だから必ず目が覚める。目が覚めてから反省し後悔しつつ、筋が追えて内容が把握できたら、それでよしとする。内容がわからないこともあってけっこうスリリングな体験でもあるのだが、映画上映中に眠ってしまっても、上映時間内に目が覚める。ところが隣のメタボ男、結局、映画終わるまで、エンドクレジットが終わるまで、いや終わってからも眠り続けていた。いびきをかいているので死んでいるのではない。しかし、まあ、いったい何をしに映画館に来ているのだ。仮眠するか熟睡するのなら、もっとよい環境のところがあるのだろう。いや、映画館に眠りにきたわけではないので、お金も時間も無駄ではないか。もったいないのではないか。はずかしくないか。自己嫌悪に陥るのではないか、ほんとうにチケット代が、安いか高いかは別にして、ほんとうにもったいないぞ。


とはいえ私も最初から最後まで眠ってしまった映画もあるので、人のことは言えない。その映画は、さすがに筋も内容もなにもわからなかったので、後日、もう一度見た。内容はわかったが、それでも途中、意識不明になっている時間があったのだが。しかし菓子やスナックをむしゃむしゃ食ってビール(だろう)まで飲んだら眠くなることはわからないのか。わかっていてやめるくらいならメタボにならないだろうから、言ってもむだか。


ただ、もったいないことについては、わたしのほうがうえだぞ。今週、映画館でネットで購入したチケットを発券しようとしたら発券できない。機械の不調かと受付へ行こうとしてメモをみて驚いた。私が予約したのは昨日分のチケットで、本日のチケットではなかった。結局、受付で当日券を購入して映画をみたが。もったいないぞ。恥をしれ、この人間のクズと自分に言い聞かせた。


また次の日に発券して席につこうとしたら誰かが座っている。その席は違いませんかと尋ねたら、その女性がもっているチケットにはまちがいはなかった。自分のチケットをみたら、明日のチケットだった。あわてて映画館を出た。翌日出直すしかない。しかし翌日になると大学で急用ができ、おまけにその発券したチケット、ごみといっしょに捨ててしまった。なんてもったいないことを。これで2回分のチケット無駄にした。映画館に眠りにきたメタボ男以下の私だ。頭の中がメタボ状態で、これでは廃人の一歩手前だ。人間のクズと自分をののしった。

posted by ohashi at 21:12| エッセイ | 更新情報をチェックする

2017年05月22日

『パーソナル・ショッパー』

またも他人の映画評を引用して、それをこけにして喜ぶのかと思われるかもしれないが、そんなことはしない。以下部分的に引用するネット上の映画評は、全く同感であるがゆえにここに引用する。


◇都会的オカルトfilm (投稿日:5/21) ポスターとタイトルだけを見て失敗? おしゃれと人間関係云々のstoryかと思いきやオカルト?霊媒師ってことか。あちゃー(汗)パーソナルショッパー、セレブの御用聞きというのは大変だし、空虚だけど、やってみたい(笑)

 C.スチュアート、セミヌード的に頑張る、何故? 肌もきれいで、スタイルも良いのだがキーラは背丈があるので、彼女の服ではバランスが… 後半はスリラー+オカルトでモウリーンが狂気じみたのかと思ったが、そんなこともなく。こういうことって目に見えないし、それが真実かなんてわからないからstoryはどうとでもできる。うーむ、簡単にこういうもの製作してしまって良いのかい?少しstoryを知っておけば、観に行かなかったなぁ。この監督のC.スチュアートも出演した前作は好きなんだけど。


◇スピリチュアル要素がある心理ミステリー映画はよくわからない終わり方をするものが多く、今回も危惧していたが、カンヌで監督賞を獲ったことと、予告編で鑑賞を決めた。残念ながら私の感性には合わず、勿体ぶる割に中途半端で要するに何を言いたいのかわからないスピリチュアル系映画であった。予告編で充分。クリステン・スチュアートの美乳が救い。


(なおクリスティン・スチュアートのヌードとか美乳に関するコメントに私が同意しているわけではない。)


「パーソナル・ショッパー」(rというのは買い物相談係の意味で、デパートかなにかが買い物客にファッションその他のアドヴァイスを与えるためにデパート側が雇う人間と理解していたが(英和辞典などでは、そういう定義なのだが)、この映画では、セレブの雇い主の代わりに買い物を代行する役割。でもそれはBuying Agentというのではないかと思ったのだが、ちがうのかもしれない。買い物代行業といっても、たんに買い物リストの品を購入して運んでくるというのではなくて(これだとたんなるパシリにすぎないが)、自分のセンスと判断で購入するものをみつくろうので、買い物代行業と買い物相談係の両方をかねているのだろう。


上記に引用した映画評のように、最初はミステリアスなサスペンス映画というふうに思っていたのだが、映画がはじまってすぐに、あれこれはホラー映画かと、意表をつかれ、しかも最終的に、これはホラー映画でもないスピリチュアル映画だとわかって、これでは大川隆法監修の映画とあまりかわらなくなったとがっかりした。


前作の『アクトレス』(これは日本でのタイトルで、原題はちがうが、まあ「女優」というのは内容にあっているとはいえる)はよかった。ベテラン女優の役のジュリエット・ビノチェを最終的には追い落とす若い女優にクロエ・モリッツが出演していて、純情可憐そうな少女にみえて、ものすごく腹黒いという少女という役どころがなんともすばらしかったし、彼女の対極に、ベテラン女優の秘書のような役割をはたすクリスティン・スチュアートがいて、最終的に映画のなかでは、彼女はビノチェットの妄想のなかの存在で、現実にはいなかったことがわかり、余韻を残すいい映画となった。


また前作『アクトレス』におけるクリスティン・スチュアートと、セレブでもある女優との関係性は、今回のパーソナル・ショッパーにも引き継がれているようで、期待感大であったのだが、最初の方から、彼女が夜に霊をもとめて、古い舘の内部を探索するというところが、方向性が予想外のへんなところをめざすものであるとわかり、ただただ唖然とするほかはなかった。


というのも彼女が依頼主のセレブのために試着するだけでなく、依頼主の留守中にクローゼットから依頼主のドレスを選んで着て、依頼主のベッドで一晩過ごすというのは、セレブの依頼主になりきるという、それこそ、最近、引退を発表したアラン・ドロンの『太陽がいっぱい』と同じ世界ではないか。またそれは依頼主との一体化のみならず、依頼主にとってかわる象徴的殺人でもあって、やがてこれが事件に発展してゆくというふうに予告編段階ではわかるのだが、本編をみていると、まったくその予想は裏切られる。


実際、事件に発展しそうなときに、彼女のもとにラインでメッセージが入ってくる。そしてそのラインでのやりとりに魅了されていく彼女のエピソードが長い(長く感じられる)。人のラインでのやりとりをずっとみせられているようで、それはそれで謎のメッセージなので興味深いのだが、映像的には面白くない。


事件は起こり、それは心霊超常現象であるかのように見せかけられた、実際には人為的犯罪であったことがわかる。その部分では、予想外でもあり、また手掛かりは与えられていた犯人でもあったので、サスペンスとしてはきちんとできているのだが、だとしたらスピリチュアルな世界はどうなるのかということがあげられる。


映画のなかでは心霊現象、超常現象は、実在するというのが原則である。ちょうど、たとえば映画のなかでは少女が(たとえ殺されても)最後には勝利し(最近作では『アイ・イン・ザ・スカイ』から『アリス』や『美女と野獣』にいたるまで)、育ての親は生みの親には負けるしかない(『ゴーン・ベイビー・ゴーン』から『光をくれた人』にいたるまで)。まさにそれと同じで、超常現象は、どんなに合理的に説明しても、存在するというのが映画の大前提である。そのため事件は解決したあとも、もうひとつの霊の世界は実在するという物語がつづかなければならない。


と同時に、超常現象とは無縁だった事件も、実は、霊の存在がひきおこしたかもしれないという可能性も示される。また19世紀の交霊会・降霊会における霊との通信手段は、音声でもなければ絵でもなく、タップであったということらしいが、それはモールス信号が発明されたのと軌を一にしていて、モールス信号をまねた詐欺であるという可能性が示唆される。しかし、そこから心霊現象はみんな詐欺であるという方向にはすすまず、犯罪には心霊現象がからんでくるという暗示にむかうように思われる。象徴的なシーンは、最終的に犯人が捕まる前に、目に見えない存在が、ホテルから通りへでていくところである。つまり、この目に見えない霊(おそらく彼女の死んだ双子の兄で、彼女の守護霊でもある)が、疑われた彼女を、真犯人を示すことで救ったのかもしれない。また彼女が犯行現場で感じた異常な存在は、人間ではなく霊であったかもしれない。となると霊は、彼女の意を汲んで、殺人をおかしたともとれないことはない。また見方をかえれば、一連の事件は、彼女の抑圧された欲望が、引き起こしたことで、彼女は自分で手を下すようになるまえに、悪霊あるいは自分の守護霊が彼女の代行者となった、つまり霊もまた、彼女をという依頼主の欲望によって呼び出され、買い物のならぬ殺人を代行したということになる。パーソナル・ショッパーは、彼女ではなく、悪霊か守護霊のほうだったということだろう。


ただ、すべては、そのように暗示されているというだけで、私の気のせいかもしれない。


そうだという声が聞こえてきそうだが。ちなみに、映画の最後は、観た人はわかるのだが、すべては「私の気のせいか」と彼女が霊に問う場面である。トーンと霊は大きな音のタップによって答えを返してくる。気のせいだ、と。The End.

posted by ohashi at 21:42| 映画 | 更新情報をチェックする

『マンチェスター・バイ・ザ・シー』

ネット上にあった、ある映画評から、執筆者は文章はうまいが、言っていることに内容がない。


「マンチェスター・バイ・ザ・シー」はケネス・ロナーガン監督の長編3作目だが、とてもそうは思えないほどドラマの組み立てがうまい。とくに年齢なりに人生経験を組み立ててきた大人が見れば、この映画の良さはすぐにわかる。


何だこの言い方は?まるで、あなたが年齢なり人生経験を組み立ててきた大人であるかのような口ぶりだが、どこからその自信がわいてくるのだろう。こういう慢心した自信家は、ケイシー・アフレック(映画のなかでは酒乱の役でもある)にぶちのめされればいいのだ。


だいたい年齢なりに人生経験を積むと、人間が悪くなることはあっても、良くなることはない。それがここにあらわれている。わたしに高齢者だが、こういう愚か者をからかい、上げ足を取ってよろこんでいるのだから人間のクズ、最低の人間である。これは認めるしかない。一方この評者は、自分のことを賢者のようにみなしている愚か者である。こんな人間にほめてもらっても、映画のほうが迷惑だろう。「年齢なりに人生経験を組み立ててきた」??? こいつは日本語を知らない。「年齢なりに人生経験を重ねる・積む」と表現するのがふつうでしょう。「組み立てる」?「人生経験を組み立てる」?年齢なりに人生経験を積んだ人間が普通の標準的な日本語能力だけは身に付けなかったとしたら。あるいは自分は40歳代で、結婚してからも長いので、そろそろ浮気のひとつかふたつしてみて、浮気・不倫というものがどんなものか、自分なりに人生経験を組み立てたということか。バカか。


ボストン郊外で便利屋をするリー(ケイシー・アフレック)は、兄の死をきっかけに故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーに戻ってくる。彼を驚かせたのは、遺言に兄の息子で16歳のパトリック(ルーカス・ヘッジズ)の後見人になれとあったこと。だがリーはある過去の事情から、この町にとどまるわけにはいかないのだった。


死んだ兄の息子の面倒を見ろと遺言で言われる。なんとも奇妙な依頼である。そこだけ聞けば、はた迷惑な依頼といってもよい。


だが、実際は全く違うことがやがてわかってくる。


この紹介はまちがっていないと思うけれども、「死んだ兄の息子の面倒を見ろと遺言で言われる。なんとも奇妙な依頼である。そこだけ聞けば、はた迷惑な依頼といってもよい。」なるほど迷惑な話かもしれないが、しかし身内だ、当然のことといえば当然のことで、よほどの事情がないかぎり後見人になるでしょう。しかも映画の冒頭では、ケイシー・アフレックと、その甥とその両親(アフレックの兄夫妻)が、仲良くボートに乗っている場面であって、甥と仲が悪いわけではない。だから、なぜ、ケイシー・アフレックが嫌がるのかというのが映画の焦点となる。


甥の後見人になれとの依頼→奇妙な依頼?→迷惑な話→引き受けられない事情となれば、そこにドラマもなにもない。つまりこれでは「理不尽な要求をつきつけられ、理由を説明するまでもなく理不尽な要求をはねつける」という、なにも展開しない、くありきたりなシークエンスでしかない。


仲のよい甥の父親が死んだので後見人になれとその父親が遺言を残す→迷惑かもしれないが理不尽な依頼ではないし、甥のためにもそれがベストらしい→にもかかわらず、後見人になることを断る→それはなぜか?


こうでなければドラマが成立しないでしょう。年齢なりに人生経験を組み立てるだけの人生を送っているとこういうことになる。なにも理解しないままで終わってしまう。実はこの評者は、映画評論家と自称している。ひどい話だ。


主人公リーには、この街を離れざるを得なくなった過去がある。それは逃れられない罪であり、古い住民の多いこの寒々とした町で暮らすということは、永遠にその罪を意識し続けて暮らすと同義である。これは確かにたまらない苦痛であろう。


以下、ネタバレ。しかしネタバレでも、映画を鑑賞する際には、じゃまにならないし、ここに重いテーマが集約されているので、触れずにはいられないし、わたしは映画評論家でも紹介者でもなんでもない、ただの人間のクズなので、書かせもらえば、火事を出すのである。ふつう火事の原因となっても、放火しない限りに罪に問われない。しかし火事の火元となった家の住人は、その火事が隣家に及んだりしたら、結局、引っ越すという。まさに、いたたまれなくなるからであろう。主人公の場合、火事を起こしても、自分の家が焼けただけで、他人に迷惑をかけていない。火事によって、他人が迷惑をこうむったわけではない。しかし、自分の子どもたちが焼死するのである。そのために妻とも離婚する。自分のミスで、火事を起こし、自分の幼い子供たちを死なせてしまう。自責の念からは逃れられない。しかも周囲からミスで自分の子どもを死なせてしまった人間のクズとみなされてしまう。いたたまれなくなるのは当然である。故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーに帰りたくなくなるのも当然である。


はっきりいって、こうなると死んだほうがましである。断罪されたり罰を下されたりしたほうがましである。それがかなわないまま贖罪の人生を送らざるを得ないのである。繰り返すと、こうなれば死んだほうがましである。そしてこういうことは誰にもでもおこる。それが怖いし辛い。


それでも彼は迷い続ける。なぜか。それは観客にもすぐにわかる。それは兄が弟に託した息子パトリックが、本当に素晴らしい少年だからだ。彼と暮らすことはリーにきっと素晴らしい幸福をもたらすと誰もが思う。あの出来事以来、消化試合をひたすら繰り返すような人生を歩んできたリーにとって、パトリックとの新しい人生は未来そのものだ。


「あの出来事以来、消化試合をひたすら繰り返すような人生」という言い方はうまい。日本語能力に疑問がある一方で(「年齢なりに……組み立てる」)、表現力はあることは認めざるをえない。そしてまた判断力はないことも認めざるを得ない。「それは兄が弟に託した息子パトリックが、本当に素晴らしい少年だからだ」はあ? え、本当に素晴らしい少年だから?


このパトリック少年、高校のガールフレンドを二股かけている。最後にはばれてしまうようだが、二人の女の子を手玉にとっている。ホッケー・クラブの選手のようだが、練習試合中に、相手の威嚇的暴力プレーに切れて、襲い掛かるというのは、酒乱で暴れる叔父の血をひいているところがある。いつもスマホをいじっていて、叔父の話相手にはならない。話をするときは、自分自身の利害がからむときである。アル中で家を飛び出して行方不明となった母親とひそかにメールのやりとりをしている。大学には進学したくないようだ。


ファシストが牛耳っていて、不寛容とヘイトが専門の今のネット住民の基準では、このパトリックは人間のクズだが、冷静にみれば、ふつうの高校生でしょう。『本当に素晴らしい少年』? やっぱり「年齢なりに人生経験を組み立て」てきた人間のくせに、人間のクズばっかりに出会ってきたようで、この程度の普通の少年でも「本当に素晴らしい」と「本当に」とまでいいたくなるのかもしれない。やはり「年齢なりに人生経験を組み立てる」ような人間は、頭が弱いのだろう。


そもそも「本当に素晴らしい」という人物は、この映画のどこにも登場しない。本当に素晴らしい人物を登場させないことがこの映画のリアリティをつくっているといっても過言ではない。そこがこの映画の本当に素晴らしき、心を揺さぶるところなのだ。本当に素晴らしい人物など本当にこれっぽっちも、一人たりともいない、この殺伐とはしてないが、本当に本当に凡庸でありふれた現実の世界で、悩み、苦しみ、過去の経験を克服できないまま生きていかなければならない、この本当に凡人たちの世界こそ、この映画が本当に提示している、本当に素晴らしいとかいいようがないものだろう。


だから、『ガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシー』といった派手なスペースオペラでもないのだから、以下の評言は、実に場違いとしかいいようがない――


兄の遺言によってはからずも過去、そして未来と向き合うことになったリー。その選択を観客はドキドキして見守り、あまりに魅力的な登場人物たちに思い切り感情移入して感動のクライマックスを迎えることになる。


しぶい映画である。地味な映画である。感動のクライマックスというのは、たぶんこいつは眠っていたのだ。だから派手にほめておけば罪にならないと考えているのだろう。映画評とか書評の場合、観たり読んだりしていない場合には、ほめるしかないのである。


主演ケイシー・アフレックはじめ役者たちの抑制した演技も心に染み入るものがある。そして、ここぞとばかりに感情を爆発させるときの落差に激しく打ちのめされる。


「心に染みる」ということに異存はない。確かにそのとおりである。ただし日本語としては一般的に「心に沁みる」と書く。まあささいなことを取り上げるわたしは人間のクズで、あんたは外国人ならしかたがないが、日本人なら、年齢なりに自分の人生を組み立てた大人=バカとしかいいようがない。まあ、それはともかく、「ここぞとばかりに感情を爆発させる」というのは、酒乱になることを意味しているのだが、どうしたものだろうか。ケイシー・アフレックの役は、抑え込んでいる苦悩を酒の勢いで爆発させる酒乱の役である。鬱屈した感情が酒の力で爆発する。「ここぞとばかりに感情を爆発させる」というのは、そのことを指しているが、だとすれば、その表現の組み立て方はいいのだろうか。なにか抑えているいるものがあるのだろうとしかいいようのないほど、酒を飲んで人格がかわったり、暴力をふるったりする迷惑な人間はけっこういるが、そういう人に対して、あなたは「ここぞとばかりに感情を爆発させる人ですね」と言ってやりたいものだ。こちがらぶちのめされそうで、そんな怖いことはできないのだが。


とくに主人公が元妻とばったり出会うシーン。このときスクリーンの中では明らかに空気が一変する。ここで観客は元妻のとてつもない愛情の純粋さを知ると同時に主人公の心の傷の深さを痛感させられる。ケイシー・アフレックの表情が素晴らしい。大した場面である。


まあ、そのとおりだけれども、また表現に文句はないのだけれども、ケイシー・アフレックの元妻をミシェル・ウィリアムズが演じている。彼女は有名な女優として出演が宣伝されているのだが、全体で10分くらいしか出ていない。ちょっとでてきて、泣きの演技で、すべてもっていくという感じであることは付け加えておいていい。


この物語がまったくもって感動的なのは、兄の風変わりな遺言の真の意味が、終盤にずしりと効いてくるところである。この兄は、要するに自分の命より大切なものをこの弟に託したのである。それはなぜか。その理由を2時間17分かけて観客は知る。本物の感動がそこにある。


兄の風変わりな遺言というのは、そんなに風変りではない。ちなみにミシェル・ウィリアムズが主演していた映画で、母親が癌で死んだか、余命いくばくもないとき、娘を夫ではなく、兄に託すという映画があった。ヴィム・ヴェンダースの『ランド・オブ・プレンティ』。ただ託された兄が頭がおかしくなっていたという話なのだが、『ランド』の場合、娘を、まだ夫がいるのに、自分の兄に預けるというというところが変だが、父親が死に、母親が行方知れずであるのなら、息子を、自分の弟に託すというのは、風変りでもなんでもない。それを風変りだと思うのは、年齢なりに人生経験をもっとうまく組み立てたほうがいい。


ちなみに『ランド・オブ・プレンティ』を観たあと、わたしは自分の妹に、もしあなたが病気になったとき、自分の娘を、兄であるわたしに託すかと聞いたら、託すとふつうに答えたことを記憶している。自分の夫は信用できないから、娘は、自分の兄に託す。兄は独身だし娘一人くらいの面倒はみてくれるだろう、と。わたしは、そのとき、でもそのお兄さんが頭がおかしくてもいいのかと映画のことを引き合いに出して聞いたつもりだったが、妹はわたし自身のことを念頭において、わたし(兄)が頭がおかしいことは前からわかっているから気にしないとすんなりと答えていたことを思い出す。


本当に深い傷は、決して癒えることはない。忘れることはできない。だが、忘れる必要などはないし、それでも希望は湧いてくるのだとこの映画はいっている。なんと力強く、温かいメッセージだろう。


すべての苦しんでいる人に、この温かさを知ってほしい。いち紹介者として、思わずそんな気分にさせられる。


まあ、こういう陳腐な言い方しかできないのかとあきれる。「なんと力強く、温かいメッセージだろう」。たしかにそういう映画はあっていいし、またそういう映画は多いと思うが、力弱く、消え入りそうで(ケイシー・アフレックの話し方がそうだが)、ようやく春が来たのだが、まだ冷凍保存している食料か遺体のように、解けることはない、寒々とした心情の世界こそ、本当に素晴らしいこの映画の世界だろう。


「あの出来事以来、消化試合をひたすら繰り返すような人生」という比喩はすばらしいのだが、文学を教えている教員としては、こうした場合、スポーツとりわけ野球にたとえるという中高年のクソオヤジのメタファーではなく、なるべく作品に即したメタファーを使うほうがいいことを付け加えておく。そうすると冬とか雪解けとか、冷凍保存などが有力なメタファー候補として浮上する。春まで病院で冷凍保存されている(日本の病院では考えられないのことであって、アメリカは豊かな国だと思う)兄の遺体と同じく、あるいは家の冷凍庫に保存されている冷凍食品のように、ケイシー・アフレックの心は凍ったままである。彼の親族の者たちは、死んだ兄を除けば、みなそれぞれ新しい人生を歩み始めている。彼だけが心を冷凍保存されたままだ。しかし、いつしか春が来る。春になって、冷凍保存された遺体を墓地に埋葬できる。兄の真冬の死から、春になってからの埋葬――この映画の時間経過は、また主人公の心情の雪解けも意味している。自分の人生経験を組み立てるという元気のいい大人=バカにはわからないかもしれないが、苦しみは、自分の力で乗り越えることはできない。しかし、時間が空間が癒してくれる。


時と場所がゆるやかにまた着実に問題を解消してくれる。癒しと慰めをあたえてくれる。このとき、大げさなクライマックスとか、希望をもて苦しみを克服せよというお説教ほど、ただ淡々と進行してゆくこの映画に似つかわしくないものはない。記憶を沁み込ませたマンチェスター・バイ・ザ・シーの風景、そしてゆるやかな時の流れ、それがいつか壊れた心を癒してくれ、冷凍保存された情念を解凍していくれる。これは自分の人生経験を組み立てることのできる人間には思いも及ばぬことだろう。


なにかバカをいじめているように思われるかもしれないが、偉そうにしている人間を徹底していじるのはいじめではない。あるいは権力者への揶揄を批判をいじめとみるのは、弱い者いじめをしていながら、批判が自分にむけられるとあわてる*****でしかない。とはいえ、批判しながら語るのは、対象を掘り下げてじっくり考える方法としては、効率がいいとはいえないので、反省している。いずれまた語りなおす機会があればと思う。


posted by ohashi at 19:21| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年05月20日

放課後

「放課後」というのは、ごくふつうに使う日本語だと思うが、要するに授業時間が終わったあとのことである。そのことはわかっているのだが、私は個人的にこの言い方にどうしてもなじめない。いまでもなじめない。放課後といわれると、いったいいつのことなのか、わからなくなって、混乱してしまう。


理由はわかっている。私が名古屋出身だからである。私の学校時代に「放課後」というのは、「授業後」「授業時間後」という意味ではなかった。「放課後」というのは「休み時間後」ということである。そのためこの後者の意味がしみついているので、どうも東京都か関東近辺では「放課後」の意味が私の親しんだ意味とちがうことに、大学生時代に気づいてから今日にいたっているが、いまだに自分から小中高の「授業後」という意味で「放課後」という言葉を使ったことがないし、使えない。


何をバカなとか、私の勝手な勘違いというなかれ。私の持っている電子辞書の『広辞苑』(第6版)には、こうある。

放課 ①その日の所定時間の課業が終わること。

②(名古屋で)学校の休み時間。


放課後 学校で、その日の授業が終わった後。「――の練習」

『広辞苑』の最新版に、この定義がいまも継承されていることを願っている。ほかの辞書には名古屋での定義が載っていないことが多いので。また名古屋の定義だと「放課後の練習」といわれてもなんのことはわからないのも、これで理解してもらえると思う。

posted by ohashi at 10:34| コメント | 更新情報をチェックする

2017年05月19日

『メッセージ』

全体としてテッド・チャンのSF短編というか中編の展開と設定を踏襲していて、原作に感銘を受けた読者のひとりとして見た場合、映画化作品に違和感は感じなかった。原作にない状況なり展開を盛り込んであるのだが、それによって原作の宇宙観と人生観がそこなわれることがないのはよかった。原作の設定という酔うよりもアイデアをどう映像化するのか心配していたところもあるが、脚色を加えながらうまく処理していると思う。満足できるSF映画である。


ドゥニ・ヴィルヌーヴの映画としても、エイミー・アダムズ演ずる言語学者がみる夢のなかに巨大タコがでてくる、それも、クロゼットいっぱいに、そこからはみでるくらいの大きさになってというシーンは、『複製された男』を思い起こさせ、ヴィルヌーヴ映画の明確な刻印を帯びている。


ここでも以前書いたのだが、アレクセイ・ゲルマンの『神々の黄昏』は、ストロガツキー兄弟の傑作SF『神様はつらい』の強烈な政治的告発をまったく無効にし、泥まみれ、つばと痰まみれてにした愚作だったのだが(『神々の黄昏』を観た人なら泥まみれ、つばと痰まみれというのが比喩ではないことがわかると思う)、今回の映画は原作をアイデアの部分も、変更を加えながらも丁寧に再現していると思う。


問題は、そのアイデアである。これは原作の場合もそうだけれども、映画でも、けっこうむつかしい。いったいどこまで観客が理解し納得できるのか、不安になったが、ネット上で調べた限られた情報から判断すると、この映画を見た観客は、それなりに納得しているようだった。だったら、それでいいのだが、私自身、原作のアイデアも、また映画のアイデアについても未消化のところがあるため、完全に理解していないのだが、魅力的なアイデアである。そしてそれを映画の物語レヴェルにおいてもシンクロさせている。


たとえば映画の冒頭で、主人公の言語学者(エイミー・アダムズ)は娘を失ったことが告げられる。生まれたときから幼い頃の娘と仲の良い母親。思春期か反抗期になる娘、そしてまだ若くして死ぬ娘。みじかい断続的な回想が涙をさそうが、娘の死を乗り越えたか乗り越えないかというときに、異性からの謎の巨大な物体が地球上の12か所に到来するという大事件が起こり、優秀な言語学者としての彼女は、異星の生物とのコミュニケーションという困難ンな仕事をまかされるが、最後には彼女の洞察がブレイクスルーとなって異星生物との遭遇から人類は新たな段階へ進むことになる。


ちょっと歪曲気味に内容紹介だが、こう書くと、コテコテのSF物という印象を受けるかもしれないが、コミュニケーションのための科学は言語学であり、これは映像化しにくい。Sピルバーグの古典的映画『未知との遭遇』のような異星人とのコミュニケーションのリアリティを無効にするような、言語コミュニケーションのむつかしさが描かれる。そして片言ながら異星生物との交流が可能になったとき、異星生物が言語学者である彼女にあたえるの時間に関する洞察なのである。時間を線的・継起的にとらえるのではなく、非線形的・同時的共時的把握をするような、あるいは空間的に把握するような見方を教えるというかテレパシーみたいに伝えてしまうのである。まあ、このへんは原作でも同じなので、読まれんことを。


これは彼女のひらめきによって、文字を使ったコミュニケーションを契機としている。アルファベット文字で意思疎通をはかろうとした彼女の前に異星生物が示してきたのは、象形文字・表意文字(もっと専門的な用語が使われるのだが、わかりやすくこう表記しておく)なのである。音声を転写したアルファベットに対して、漢字のような表意文字は、概念を一種にして空間的に把握できる。異星生物は、これを書いてくるのである。しかも、水ににじんだ墨のような、水墨画のような図を。しかもしれはウロボロスの図に似た円形なのである。この円形は、異星生物が授けてくれる時間概念と関係している。円形で示される時間というのは、はじめもなければ終わりもない。あるいははじめと終わりがくっついているのであり、不可逆的な時間経過というのではなく、反復と往復、前進と後退、過去と未来とがまざりあい、それらが一望できるように時間が空間化される。と、こういう説明はないのだが、おそらくこういうことだろう。表意文字と非線的時間把握がつながるのである。


映画の中では、まだ若い娘を失った言語学者の女性が、要所要所で、娘と過ごした幸福な過去を思い出しながら、そこから異星生物とのコミュニケーションのヒントを得るような展開となる。彼女の過去の体験が、フラッシュバックとしてよみがえる。ところが物語の終わりでは、彼女はこれから結婚して子供ができる。フラッシュバックと思っていたシーンは、実際には彼女が未来を一瞥したときに脳裏によぎったイメージなのだとわかる。彼女は、娘などいなかった。これから結婚するからである。しかも、結婚して娘ができるが、たぶん、その娘が若くして死ぬということだろう。彼女の脳裏によぎったのは過去の一場面ではなく未来の一場面だったのである。


というか、そうでもないのである。彼女が異星生物とのコミュニケーション作業のときにみていたイメージは脳裏のよぎった過去の出来事であり、フラッシュバックであると同時に、それは、まだ起こっていない未来の出来事、つまりフラッシュフォーワードでもあるという二重性が存在する。それは時間を過去から未来へと続く、線形的、不可逆的、一方通行路としてみるのではなく、その全体像を空間的に把握するときに生ずる現象なのである。


たとえば彼女の娘が幼い頃に映画いた絵には、異星人生物とコンタクトする母親(と父親)の姿が描かれている。これが過去に死んだ娘が映画いたとなると、彼女は未来を予見していたことになる。いっぷこれが彼女がこれから結婚して生む娘が描いた絵なら、娘は両親から異星生物とのコンタクトの話を聞いて、過去の出来事としてそれを描いたことになる。一枚の絵が、映画では過去の絵でもあり未来の絵でもあるという二重性あるいは決定不可能性を帯びているのだ。


ただ、これははじめもなく終わりもな円環として時間を把握したときのことであって、娘の死という同じ一つの出来事が、未来の出来事でもあるし過去の出来事ともなる。たとえば円を描く。その特定の一点に娘の死を記入する。かりに左回りで過去から未来へと流れるとすれば、娘の死の前後を左回りで過去と未来にふりわけることができる。仮の出発点というのは、彼女が結婚したか出産したときとしよう。


異星生物とのコンタクト→空間的・非線形的時間意識の獲得→中国の提督の説得→12地域の団結→世界団結の祝典→結婚→出産→娘の死


継起的に過去から未来へと進行する線形の時間の流れがあるとする。不可逆的一方通行の時間の流れも、異星生物の時間意識からすると、不可逆的でも一方的でも線形でもない。上記の流れを、細ながい紙に書かれた出来事のつらなりと考え、終点である娘の死を、異星セ物とのコンタクトとつなげれば、この映画のシークエンスになる。映画は娘の死から異星生物とのコンタクトへと進むのだから。また暴騰の回想シーンは出産からはじまっていた。そのため結婚あるいは世界団結の祝典がはじまりかもしれない。


では起点と終点をつなげると


娘の死→異星生物とのコンタクト→空間的・非線形的時間意識の獲得→【中国の提督の説得】→12地域の団結→世界団結の祝典→結婚→出産


となる。


これはまさに映画の流れそのものである。未来の娘の死は、このシークエンスでは過去の出来事となる。問題なのは中国の提督の説得という出来事である。物語進行が過去(未来)から未来(過去に体験された)へと進むについれて、自分の体験なのに、まだ語られていない出来事が生じてくる。それが中国の提督への説得である。


コンタクトが終わってから18か月後、アメリカで行なわれた祝典に中国からやってきた提督は、彼女に会いに来たのだと語り、18か月前のことで彼女に感謝する。彼女が提督の個人用携帯番号に電話をかけてきて説得しなかったら、いまの世界の平和はなかったと感謝の言葉を述べる。


しかし彼女は(観客と同じく)何が起こったのか忘れているというよりも知らないように思われる。もちろん、ひとつの読み方をすれば、提督の登場によって、彼女の過去がフラッシュバックとしてよみがえる。そこで何があったのかが、このときはじめて思い出されるのでる。しかし、また、この時点で、彼女は忘れているのではなく、何も知らない。そして提督によって何が起こったのかを教えてもらった感がある。その出来事の映像は過去のフラッシュバックではなく、過去の出来事ながら、いまだ誕生していなかった未来の出来事のようにみえてくる。過去はつねに未来にとなり、未来はつねに過去となる。この錯綜とした時間意識の獲得が、原作とこの映画、双方におけるカギとなる。


とはいえ、これだけでは何を言っているのか、頭がおかしくなったのかと思われてもしかたがない。このウロボロス的時間意識は、客観的相関物がないという欠陥がある。これを駆使する異星生物という存在は、相関物としては弱い。東洋の漢字、象形文字は、非線形時間意識の実現であるというのも、そうだが、だからといって深い感銘をもたらすことはない。もっとなにか感動的な客観的相関物が欲しい。原作では、それが娘を失った母親の、悲しみの追憶というのがそれに相当していたのだが、映画は、私たちになじみ深く、なおかつ感動的な客観的相関物をみつけられないでいる。もちろん私たち一人一人が探せばいいのだが、はたして今後の観客に、それを見つけられる余裕とか可能性があるのだろうか。


原作では「光は最短距離をすすむ」にはじまり、光の屈折にまでかかわる現象を通しての説明が、実に魅力的かつ示唆的で考えさせられた。同じ現象でも、受け止め方、解釈によってまったく別の者に見えてくる。自然現象あるいは物理現象が、一定の法則に従っているだけなのに、まるで意志をもった現象なり運動に見えてくること。あるいは予測不可能で自由な動きが、見方によっては、合目的的な目標に拘束された合目的的運動に過ぎないと見えてくることもある。ただし、それは二つの現象があるのではなく、ひとつの現象でしかない。解釈によって二つに分岐するが同時に最初から最後まで一つの現象にすぎない。さらにいえば全く異なる二つの解釈から、同じ一つの現象が誕生するということもできる。ちょうどこの映画で主人公が娘にHannahと名前を付けて、前から読んでも後ろから読んでも、同じ名前だからという説明するとき、二方向からの読み方であっても、同じ一つの名前を出現させるのと同じことがこの世界ではたくさん起こっているはずである。その客観的相関物なんだろか(Hannahという回文めいた名前というのは、感動的な客観的相関物にはならない)。


私は原作からも、この映画からも何かを得たような気がするが、私が得たことなど、ほとんどの人にとって、どうでもいいことだと思うで、いずれどこかで発表することにして、もうひとつの客観的相関物というのは、『マンチェスター・バイ・ザ・シー』における、過去の悲劇にとらわれて、その亡霊に絶えず悩まされ、また、過去の亡霊と折り合いをつけながら生きていくというテーマと関係するだろう。
posted by ohashi at 10:27| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年05月17日

『スウィート17モンスター』

The Edge of Seventeen(2016)が、どうしてこういうタイトルになるのかよくわからないが、予告編をちょっとみだたけでは、観たことのない10代の女優がでている青春映画というか不良映画だろう、けっこう痛い映画かという勝手な先入観をもった。ところが見てみたら、私のような中高年の男にも、めちゃくちゃ面白い映画。よくある話だともいえるのだが、主役のヘイリー・スタインフェルドの強烈な毒舌といじけぶりがすさまじく、また下ネタを満載で、とにかく笑える。彼女がゴールデングローブ賞にノミネートされたのはよくわかる。


高校の教師役のウディ・ハレルン(良い味を出しすぎ)と母親役のキーラ・セジウィク(テレビの『クローザー』で主役だった)がしっかり脇をかためているし、全員が、結局いい人ばかりで、痛いところがありそうでまったく痛くない青春ラブコメ成長物語となっている。まあ新しい若き喜劇女優の誕生かと思ったが……。


ヘイリー・スタインフェルド、調べたら『トゥルー・グリット』(映画館で観た)の、あの女の子。彼女は、この『17』の最後で、一皮むけた美人の大人の女性に変貌するのために、ちょっとわからななかったのだが。いや『はじまりの歌』(映画館で観た)にも出演していたのだが、どこにいたのか思い出せない。しかも彼女、アメリカ映画の『ロミオとジュリエット』にも出演している。ジュリエット役でもある(アメリカ版のAmazonビデオでみるしかない)。ということで、ヘイリー・スタインフェルド、すでにいろいろな映画にでている、若きヴェテラン女優だった。その実力は折り紙付きとでもいうべきで、『トゥルー・グリット』からずっとみているのに気が付かず。これぞボケ中高年の真骨頂というべきか。


とはいえ今現在(517)、関東では東京のシネマカリテとヒューマントラスト渋谷、あと吉祥寺オデオンでも週末から上映するらしいが、この3館だけでは惜しい。ふつうに面白い映画だからもっと多くの人にみられるべきだろう。


ちなみに彼女が男性とのデートに出かけるとき、口臭スプレーかワキガスプレーかわからないものの、口の中と、脇の下にシュッとしたあと、スカートのすその方から手を入れて、自分の股間にシュッとスプレーする。これは、けっこうよくある、ギャグみたいなものだが、今回の映画は、その先をいっていて、ヘイリー・スタインフェルドは股間にスプレーした後、スカートの上から股間を抑えて、沁みる、沁みると、言いながら、へっぴり腰で部屋を出るのである。これ、おかしいし、こういうの大好きだい。


なお内容について。ヘイリー・スタインフェルドは、皆から愛され世渡り上手の兄と比較され、また自分でも兄と比較し、いじけているのだが、兄への近親相姦的欲望が根底にあることが、この映画の、あまり意識されることのない通奏低音となっている。自分の友達が兄とできてしまうことで、友情が破綻するというのは、おかしい、変だ。友人が身内(この場合は兄)と結婚することは、ふつうならうれしいはずであって、怒ることではない。唯一の友達を兄にとられる、あるいは友達が兄に向い、自分()を捨てるからという理由はあるが、友が兄と結婚でもすれば、その友とは義理の姉妹となるはずで、絆は強まるはずである。そうならないということは、兄をめぐって友人と彼女がライバル関係になるということだろう。兄への憎しみは兄への愛の裏返しでもある。愛憎は表裏一体化している。そのむすぼれがいかにして解きほぐされるかが、この映画の物語の中軸を形成するだろう。映画は、だれもが納得するようなハッピーエンディングになっているが、最終的に諦念をふくみこんでいるようにもみえる。



posted by ohashi at 22:14| 映画 | 更新情報をチェックする

『マンチェスター・バイ・ザ・シー』

ある映画評から、この人は文章はうまいが、言っていることに内容がない。


「マンチェスター・バイ・ザ・シー」はケネス・ロナーガン監督の長編3作目だが、とてもそうは思えないほどドラマの組み立てがうまい。とくに年齢なりに人生経験を組み立ててきた大人が見れば、この映画の良さはすぐにわかる。


何だこの言い方は?まるで、あなたが年齢なりに人生経験を組み立ててきた大人であるかのような口ぶりだが、どこからその自信がわいてくるのだろう。こういう慢心した自信家は、ケイシー・アフレック(映画のなかでは酒乱の役でもある)にぶちのめされればいいのだ。だいたい年齢なりに人生経験を積むと、人間が悪くなることはあっても、良くなることはない。それがここにあらわれている。私は高齢者だが、こういう愚か者をからかい、上げ足を取ってよろこんでいるのだから人間のクズ、最低の人間である。これは認めるしかない。一方この評者は、自分のことを賢者のようにみなしている愚か者である。こんな人間にほめてもらっても、映画のほうが迷惑だろう。「年齢なりに人生経験を組み立ててきた」??? こいつは日本語を知らない。「年齢なりに人生経験を重ねる・積む」と表現するのがふつうでしょう。「組み立てる」?「人生経験を組み立てる」?年齢なりに人生経験を積んだ人間が普通の標準的な日本語能力だけは身に付けなかったとしたら、人生経験に何の意味があるのか。


あるいはひょっとして、たぶんこちらのほうが正解かもしれないが、たとえば自分は40歳代で、結婚してからも長いので、そろそろ浮気のひとつかふたつしてみて、浮気・不倫というものがどんなものか、自分なりに人生経験を組み立てたということか。もしそうだとしたら、この場合も、バカかとかいいようがない。


ボストン郊外で便利屋をするリー(ケイシー・アフレック)は、兄の死をきっかけに故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーに戻ってくる。彼を驚かせたのは、遺言に兄の息子で16歳のパトリック(ルーカス・ヘッジズ)の後見人になれとあったこと。だがリーはある過去の事情から、この町にとどまるわけにはいかないのだった。


死んだ兄の息子の面倒を見ろと遺言で言われる。なんとも奇妙な依頼である。そこだけ聞けば、はた迷惑な依頼といってもよい。


だが、実際は全く違うことがやがてわかってくる。


この紹介はまちがっていないと思うけれども、「死んだ兄の息子の面倒を見ろと遺言で言われる。なんとも奇妙な依頼である。そこだけ聞けば、はた迷惑な依頼といってもよい。」なるほど迷惑な話かもしれないが、しかし身内だ、当然のことといえば当然のことで、よほどの事情がないかぎり後見人になるでしょう。しかも映画の冒頭では、ケイシー・アフレックと、その甥とその両親(アフレックの兄夫妻)が、仲良くボートに乗っている場面であって、甥と仲が悪いわけではない。だから、なぜ、ケイシー・アフレックが嫌がるのかというのが映画の焦点となる。


甥の後見人になれとの依頼→奇妙な依頼?→迷惑な話→引き受けられない事情


となれば、そこにドラマもなにもない。つまりこれでは「理不尽な要求をつきつけられ、理由を説明するまでもなく理不尽な要求をはねつける」という、なにも展開しない、くありきたりなシークエンスでしかない。


仲のよい甥の父親が死んだので後見人になれと父親が遺言を残す→迷惑かもしれないが理不尽な依頼ではないし、甥のためにもそれがベストらしい→にもかかわらず、後見人になることを断る→それはなぜか?


こうでなければドラマが成立しないでしょう。年齢なりに自分の人生経験をを組み立てるだけの人生を送っていると、まさにこういうことになる。なにも理解しないままで終わってしまう。実はこの評者は、映画評論家と自称している。ひどい話だ。


主人公リーには、この街を離れざるを得なくなった過去がある。それは逃れられない罪であり、古い住民の多いこの寒々とした町で暮らすということは、永遠にその罪を意識し続けて暮らすと同義である。これは確かにたまらない苦痛であろう。


以下、ネタバレ。しかしネタバレでも、映画を鑑賞する際には、じゃまにならないし、ここに重いテーマが集約されているので、触れずにはいられないし、私は映画評論家でも紹介者でもなんでもない、ただの人間のクズなので、書かせもらえば、火事を出すのである。


ふつう火事の原因となっても、放火しない限りに罪に問われない。しかし火元となった家の住人は、その火事が隣家に及んだりしたら、結局、引っ越すという。まさに、いたたまれなくなるからであろう。主人公の場合、火事を起こしても、自分の家が焼けただけで、他人に迷惑をかけていない。火事によって、他人が迷惑をこうむったわけではない。しかし、自分の子どもたちが焼死するのである。そのために妻とも離婚する。自分のミスで、火事を起こし、自分の幼い子供たちを死なせてしまう。自責の念からは逃れられない。しかも周囲からミスで自分の子どもを死なせてしまった人間のクズとみなされてしまう。いたたまれなくなるのは当然である。故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーに帰りたくなくなるのも当然である。


はっきりいって、こうなると死んだほうがましである。断罪されたり罰を下されたりしたほうがましである。それがかなわないまま贖罪の人生を送らざるを得ないのである。繰り返すと、こうなれば死んだほうがましである。そしてこういうことは誰にもでもおこる。それが怖いし辛い。


それでも彼は迷い続ける。なぜか。それは観客にもすぐにわかる。それは兄が弟に託した息子パトリックが、本当に素晴らしい少年だからだ。彼と暮らすことはリーにきっと素晴らしい幸福をもたらすと誰もが思う。あの出来事以来、消化試合をひたすら繰り返すような人生を歩んできたリーにとって、パトリックとの新しい人生は未来そのものだ。


「あの出来事以来、消化試合をひたすら繰り返すような人生」という言い方はうまい。日本語能力に疑問がある一方で(「年齢なりに……組み立てる」)、表現力はあることは認めざるをえない。そしてまた判断力はないことも認めざるを得ない。「それは兄が弟に託した息子パトリックが、本当に素晴らしい少年だからだ」はあ? え、本当に素晴らしい少年だから?


このパトリック少年、高校のガールフレンドを二股かけている。最後にはばれてしまうようだが、二人の女の子を手玉にとっている。ホッケー・クラブの選手のようだが、練習試合宙に、相手の威嚇的暴力的プレーに切れて、襲い掛かるというのは、酒乱であばれる叔父の血をひいているところがある。いつもスマホをいじっていて、叔父の話相手にはならない。話をするときは、自分自身の利害がからむときである。アル中で家を飛び出して行方不明となった母親とひそかにメールのやりとりをしている。大学には進学したくないようだ。


ファシストが牛耳っていて、不寛容とヘイトが専門の今のネット住民の基準では、このパトリックは人間のクズだが、冷静にみれば、ふつうの高校生でしょう。『本当に素晴らしい少年』? やっぱり「年齢なりに人生経験を組み立て」てきた人間のくせに、人間のクズばっかりに出会ってきたようで、この程度の普通の少年でも「本当に素晴らしい」と「本当に」とまでいいたくなるのかもしれない。やはり「年齢なりに人生経験を組み立てる」ような人間は、頭が脆弱なのだろう。


そもそも「本当に素晴らしい」という人物は、この映画のどこにも登場しない。本当に素晴らしい人物を登場させないことがこの映画のリアリティをつくっているといっても過言ではない。そこがこの映画の本当に素晴らしき、心を揺さぶるところなのだ。本当に素晴らしい人物など本当にこれっぽっちも、一人たりともいない、この殺伐とはしてないが、本当に本当に凡庸でありふれた現実の世界で、悩み、苦しみ、過去の経験を克服できないまま生きていかなければならない、この本当に凡人たちの世界こそ、この映画が本当に提示している素晴らしいとかいいようがないものだろう。


だから、『ガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシー』といった派手なスペースオペラでもないのだから、以下の評言は、実に場違いとしかいいようがない――


兄の遺言によってはからずも過去、そして未来と向き合うことになったリー。その選択を観客はドキドキして見守り、あまりに魅力的な登場人物たちに思い切り感情移入して感動のクライマックスを迎えることになる。


しぶい映画である。地味な映画である。感動のクライマックスというのは、たぶんこいつは眠っていたのだ。だから派手にほめておけば罪にならないと考えているのだろう。映画評とか書評の場合、観たり読んだりしていない場合には、ほめるしかないのである。


主演ケイシー・アフレックはじめ役者たちの抑制した演技も心に染み入るものがある。そして、ここぞとばかりに感情を爆発させるときの落差に激しく打ちのめされる。


「心に染みる」ということに異存はない。確かにそのとおりである。ただし日本語としえは一般的に「心に沁みる」と書く。まあささいなことを取り上げる私は人間のクズで、あんたは外国人ならしかたがないが、日本人なら、年齢なりに自分の人生を組み立てたバカとしかいいようがない。まあ、それはともかく、「ここぞとばかりに感情を爆発させる」というのは、酒乱になることを意味しているのだが、どうしたものだろうか。ケイシー・アフレックの役は、抑え込んでいる苦悩を酒の勢いで爆発させる酒乱の役である。鬱屈した感情が酒の力で爆発する。「ここぞとばかりに感情を爆発させる」というのは、そのことを指しているが、だとすれば、その表現の組み立て方はいいのだろうか。なにか抑えているいるものがあるのだろうとしかいいようのないほど、酒を飲んで人格がかわったり、暴力をふるったりする迷惑な人間はけっこういるが、そういう人に対して、あなたは「ここぞとばかりに感情を爆発させる人ですね」と言ってやりたいものだ。こちがらぶちのめされそうで、そんな怖いことはできないのだが。


とくに主人公が元妻とばったり出会うシーン。このときスクリーンの中では明らかに空気が一変する。ここで観客は元妻のとてつもない愛情の純粋さを知ると同時に主人公の心の傷の深さを痛感させられる。ケイシー・アフレックの表情が素晴らしい。大した場面である。


まあ、そのとおりだけれども、また表現に文句はないのだけれども、ケイシー・アフレックの元妻をミシェル・ウィリアムズが演じている。彼女は有名な女優として出演が宣伝されているのだが、全体で10分くらいしか出ていない。ちょっとでてきて、泣きの演技で、すべてもっていくという感じであることは付け加えておいていい。


この物語がまったくもって感動的なのは、兄の風変わりな遺言の真の意味が、終盤にずしりと効いてくるところである。この兄は、要するに自分の命より大切なものをこの弟に託したのである。それはなぜか。その理由を2時間17分かけて観客は知る。本物の感動がそこにある。


兄の風変わりな遺言というのは、そんなに風変りではない。ちなみにミシェル・ウィリアムズが主演していた映画で、母親が癌で死んだか、余命いくばくもないとき、娘を夫ではなく、兄に託すという映画があった。ヴィム・ヴェンダースの『ランド・オブ・プレンティ』。ただ託された兄が頭がおかしくなっていたという話なのだが、『ランド』の場合、娘を、まだ夫がいるのに、自分の兄に預けるというというところが変だが、父親が死に、母親が行方知れずであるのなら、息子を、自分の弟に託すというのは、風変りでもなんでもない。それを風変りだと思うのは、年齢なりに人生経験をもっとうまく組み立てたほうがいい。


ちなみに『ランド・オブ・プレンティ』を観たあと、私は自分の妹に、もしあなたが病気になったとき、自分の娘を、兄である私に託すかと聞いたら、託すとふつうに答えたことを記憶している。自分の夫は信用できないから、娘は、自分の兄に託す。兄は独身だし娘一人くらいの面倒はみてくれるだろう、と。私は、そのとき、でもそのお兄さんが頭がおかしくてもいいのかと映画のことを引き合いに出して聞いたつもりだったが、妹は私自身のことを念頭において、私(兄)が頭がおかしいことは前からわかっているから気にしないとすんなりと答えていたことを思い出す。



本当に深い傷は、決して癒えることはない。忘れることはできない。だが、忘れる必要などはないし、それでも希望は湧いてくるのだとこの映画はいっている。なんと力強く、温かいメッセージだろう。


すべての苦しんでいる人に、この温かさを知ってほしい。いち紹介者として、思わずそんな気分にさせられる。


まあ、こういう陳腐な言い方しかできないのかとあきれる。「なんと力強く、温かいメッセージだろう」。たしかにそういう映画はあっていいし、またそういう映画は多いと思うが、力弱く、消え入りそうで(ケイシー・アフレックの話し方がそうだが)、ようやく春が来たのだが、まだ冷凍保存している食料か遺体のように、解けることはない、寒々とした心情の世界こそ、本当に素晴らしいこの映画の世界だろう。


「あの出来事以来、消化試合をひたすら繰り返すような人生」という比喩はすばらしいのだが、文学を教えている教員としては、こうした場合、スポーツとりわけ野球にたとえるという中高年のクソオヤジのメタファーではなく、なるべく作品に即したメタファーを使うほうがいいだろう。そうすると冬とか雪解けとか、冷凍保存などが有力なメタファー候補として浮上する。春まで病院で冷凍保存されている(日本の病院では考えられないのことであって、アメリカは豊かな国だと思う)兄の遺体と同じく、あるいは家の冷凍庫に保存されている冷凍食品のように、ケイシー・アフレックの心は凍ったままである。彼の親族の者たちは、死んだ兄をのぞけば、みなそれぞれ新しい人生を歩み始めている。彼だけが心を冷凍保存されたままだ。しかし、いつしか春が来る。春になって、冷凍保存された遺体を墓地に埋葬できる。兄の真冬の死から、春になってからの埋葬――この映画の時間経過は、また主人公の心情の雪解けも意味している。自分の人生経験を組み立てるという元気のいいバカにはわからないかもしれないが、苦しみは、自分の力で乗り越えることはできない。しかし、時間が空間が癒してくれる。


時と場所がゆるやかにまた着実に問題を解消してくれる。癒しと慰めをあたえてくれる。このとき、大げさなクライマックスとか、希望をもて苦しみを克服せよというお説教ほど、ただ淡々と進行してゆくこの映画に似つかわしくないものはない。記憶を沁み込ませたマンチェスター・バイ・ザ・シーの風景、そしてゆるやかな時の流れ、それがいつか壊れた心を癒してくれ、冷凍保存された情念を解凍していくれる。これは自分の人生経験を組み立てることのできる人間には思いも及ばぬことだろう。


なにかバカをいじめているように思われるかもしれないが、偉そうにしている人間を徹底していじるのはいじめではない。あるいは権力者への揶揄を批判をいじめとみるのは弱い者いじめをしていながら、批判が自分にむけられるとあわてる*****でしかない。とはいえ、批判しながら語るのは、対象を掘り下げてじっくり考える方法としては、効率がいいとはいえないので、反省している。いずれまた語りなおす機会があれば、その時に。


posted by ohashi at 19:38| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年05月12日

『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』vol.2

『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス』という日本語のタイトルだが、原題は、もっとそっけなく、vol.2がつくだけ。


それはともかく、このタイトル「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」というのは、ガードマンあるいはれに類する役割を担う人を、かっこよく、あるいは大げさに修飾するために、「銀河の」とか「宇宙の」といったフレーズを付帯させたのかと思うが、また確かに前作は、そのようなことがなきにもしもあらずだったが、続編ともなるとスケールがアップして、まさに「銀河」や「宇宙」を崩壊から守ることになる。主人公の名前もスターロードというように大げさなのも続篇になると納得できるようになる。


なにしろこの続編では、神と対決するからである。またスターロード/クリスプラットは、地球人の女性と宇宙人、それも神のごとき宇宙人との子どもであり、いうなれば半神である(見た目と行動は、コテコテのアメリカンではあるが)。そしてテーマが宇宙的・神話的になる。それは北朝鮮の暴走からどうやって国を守るとか、新聞社を私物化し友人に口利きをする腐敗しきった首相夫妻をどうするかでもなければ、捜査妨害をし、それが功を奏しないとわかると長官を解任するような大統領をどう処分するかという、ちっちゃな問題ではない。大きな問題、そう、それは親と子、家族の問題である。これこそが、ギリシア神話のテーマでもあった。家族問題こそ、神話や宇宙そのものにふさわしい。まさにそれは銀河のテーマである。宇宙のテーマである。


したがってここでは、かつてレヴィ=ストロースが『構造人類学』のなかで「神話の構造分析」を説明する際に、典型例としてオイディプス神話群を取り上げたときの、二項対立、すなわち過大評価された親族関係と、過小評価された親族関係のことが思い浮かぶ。この映画でも家族や親族は、殺し合い、つぶし合うか、相手のために犠牲になるかのいずれかである。子どもを利用して殺す実の父親と、子供を守るため犠牲になる育ての親たる父親。この対立から、浮かび上がるというか、この対立がその効果ともいえるのが、ガードすること、守ること、守護すること、4号警備することというこの物語のテーマである。ギリシア神話やギリシア悲劇にあらわれる、時として神をも巻き込む、壮大なテーマ、それこそ親子関係のテーマだろう。


まあ子供のために犠牲になるどころか、子供を犠牲にする親が、私の周りに多くて、うんざりするのだが、この映画でも見て、本当の親だったら、子供を殺すな、子供を守って死ねやといいたいのだが、それはともかく、お金のかかっていそうなCGも、まあ目を見張るのだが、それよりもキャラが面白い。けっこうせこいというか人を食ったようなキャラの面白さが豪華なCGをバックにしていっそう際立つように思われる。スターロードの父親のエゴの惑星のCG映像は、見事なものなのだが、それよりも冒頭の映像のほうが面白い。


そこでは貴重な電池を異次元からの怪物からガーディアンたちが守るところだが、怪物が強力すぎて、ガーディアンたちが苦戦する。ガーディアンたち全員が怪物にぶちのめされて、最後のぎりぎりのところで倒すというシークエンスを、まだ子供だから戦いに加われないベイビー・グルートが、ただぎとり楽しそうに踊っている。その踊るグルートに焦点をあわせ、巨大モンスターと戦うガーディアンたちの奮闘ぶりを背景にもってくる映像構成が、なんともいえず洗練されまた刺激的であって、冒頭からいきなり目を奪われることになる。しかも、かわいいベイビー・グルートの踊りを満喫しながら。


ガモーラ役のゾーイ・サルダナは、前作よりも魅力を増したなと思っていたが、調べてみたら彼女の映画は『アバター』以来よく見ている。アバターでは当然メイクによって本人とはわからず、どちらかというと女優の杏(父親が最近、安倍政権を批判したため報復として不倫が暴かれた渡辺謙)に似ているのだが、しかし、よく考えたら彼女は新しい『スタートレック』シリーズではウーフラ役だった。『コロンビーナ』は彼女の魅力がよく出ていた映画だが、SFスペクタクル映画だけでなく、多くの映画に出演していて、最近作はベン・アフレック監督『夜に生きる』(もうすぐ日本でも公開)である。


今回は、また今回限りだが、その存在感とキュートさで、やはりベビー・グルートが際立っている。声をヴィン・ディーゼルがしているのも驚きだが、日本語吹き替え版でも、意外性を狙ったのか遠藤憲一が声を担当している。ヴィン・ディーゼルといい遠藤憲一といい強面の俳優が声を担当するのは、おかしいといいえばおかしい。なおベイビー・グルートもエンドクレジットでは、もう成長して思春期になっていて、部屋に引きこもってスマホがゲームをいじっていて親の言うことに耳を貸そうとしない。それはそれでいかにもという感じで面白いのだが、ベイビー・グルートの姿は今回の映画だけのようだ。


追記(2017年5月19日)

主人公が神と地球人の女性の間に生まれて半身で、銀河の守護者どころか、イエスのように人類の救世主であったり、子供のころに宇宙人に拉致されるというのは、ある意味、アメリカ人のポピュラー・カルチャー・レヴェルにおけるステレオタイプ化された誇大妄想をみごとに反映しているといっていいだろう。もし本当に神様がいれば、アメリカ人の女性と結婚して、その息子を救世主にはしないだろう。アメリカ人のイセスは、「心貧しき人こそ幸いなれ」とは絶対に口にすることなく、ただ’I wanna be with you’といって歌うおめでたい信者にかこまれて、にこやかに微笑んでいるか、ただただチャラい男にすぎないだろうから。


まあ、アメリカ人を救世主に選ぼうものなら、この救世主は何をしでかすかわからない。まっさきにするのは、ロシアの機密を漏洩して、捜査当局の最高責任者を首にして、貧しいのはメキシコ人がいるからだと叫び始めることだろうから。もしアメリカ人を救世主に選ぶ神がいれば、おそらくその神は、神ではなく悪魔か、悪魔が変装したものだろう。


ウィリアム・ブレイクだったか、誰だったか忘れたが、私たちがふつうに神と思っていたり、神と想像する存在は、たいてい、神ではなく悪魔であると語っていた。これは至言で、私たちが思い描く全能の神は、神というよりも悪魔に近い。実際、この映画でも神といっていい存在が登場するが、それは悪魔といってもいい存在でもあって、この神をやっつけ、悪魔の惑星を壊しても、見ている側は嫌な思いをしないどころか、むしろ爽快に思うのは、この神が、実は悪魔だからである。


この神は、自分の子どもを殺す神である。もうひとり、育ての親は、主人公を助けるためにみずから死ぬ。この育ての親のほうが、ほんとうの神である。だが、私たちは、自己犠牲のはてに死んでしまう存在を弱いと思い、宇宙を征服し、自分の子どもを殺す存在を、神として崇拝するのである。悪魔を神とまちがえて

posted by ohashi at 20:19| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年05月03日

ミシャ展

実は、その前に、サントリー美術館の「絵巻マニア展」に。こちらは午前中だったこともあり、連休中にもかかわらず、そんなに人がいなくて、じっくりみることができた。とはいえ、私のまったく知らない世界なので(正直なところ、付き合いでついていったので)、さすがに、こちらには予備知識も何もない。ふだんは使わないイヤホンガイドで会場をみてまわった。これがあって助かった。さもないと何をどうみていいのかもわからなかったので。


ちなみに出口にイヤホンガイドを置いていく箱が用意してある。まあどこの展覧会でもそうだが、私が出ようとしたとき、箱はからっぽでイヤホンガイドはおいていない。会場で、イヤホンガイドを使っていた人は私以外にも何人もいたのだが、その人たちは会場からまだ出ていないのか、それともスタッフがすぐに片づけたのか、いぶかしい思いのまま、展示会場を出た。


売店では、ふつうめったに買わない絵葉書を購入した。オナラというか放屁合戦の絵巻の一部である。とはいえ面白い絵葉書だが、実際に、使えないので、永久保存である。


そしてミッドタウンから坂をおりて国立新美術館へ。


草間彌生展は混んでいるので、最初からあきらめてミシャ展へ。とはいえミシャ展も相当な込みようで、国立新美術館で、こんなに人がいるのは初めてだったのだが、それ以上に、ミシャ展、スラヴの叙事詩の連作、でかい。サントリー美術館で、ちまちまとした絵巻の絵を展示ケースのガラスに顔をおしつけるようにしてみていた私にとって、この大きさハンパじゃない。絵から遠ざかって見上げないと全体像がつかめない。そのため前に人がたかっていても全然気にならないほど。とにかくでかい。


いったいどうやってこんな大きな絵画をもってきたのか、空輸? 船便? それが知りたくて図録を買おうとしたら、売店に長蛇の列が。ずいぶん並んで当日券を購入したのだが、またここで図録を買うために並ぶ? 今回はあきらめて出直すことにした。


ミシャの連作のなかでフス戦争を扱ったものは、ヤン・フスとイングランドのウィックリフとの関係もあって、英国史や英国文化に関心がある者には、とりわけ興味深いものがある。フスもウィクリフも反カトリック運動というか当時の教会の腐敗を告発したことで、両者には影響関係があったし、シェイクスピアのフォルスタッフのモデルになったというか、フォルスタッフに改名するまえの人物名であったサー・ジョン・オールドキャッスルとも関係があったようだ。ジョン・フォックスの『殉教者列伝』のサー・ジョン・オールドキャッスルの項目にはフスとの関係が延々と論じられていた記憶がある。ちなみに隠れカトリックであったシェイクスピアは、プロト・プロテスタントとでもいうべき、プロテスタントの英雄オールドキャッスルを道化的人物にしたたため、オールドキャッスルの子孫から抗議され、名前をフォルスタッフに変えたとされている。


あとミシャの大作以外にもミシャの名前をアールヌーヴォーの世界とともに知らしめたポスターがあって、とりわけサラ・ベルナールのポスターが興味ぶかかった。有名なポスターであるが、ハムレット、ジヒスムンド、ロレンザッチョ、メデを演じたベルナールのポスターをみることができた。メデ(メディア)以外は、男性人物であり、ベルナールは男性役をよく演じた。ちなみに、私はサラ・ベルナールの伝記(英語版)をもっているが、そこにある本人の写真とミシャのポスターが描くところのベルナールの顔はあまり似ていないようにも思えるのだが、まあ、舞台衣装でのベルナールは、ポスターみたいな感じだったのだろう。それにしてもロレンザッチョの名前は懐かしい。戯曲を読み返してみようかとも思う。



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posted by ohashi at 21:16| コメント | 更新情報をチェックする