本日は、大学では現代文芸論研究室主催の重要な講演会があったのだが、東京宝塚劇場の観劇という先約があったので、そちらを優先するしかなかった。宙組のミュージカル『王妃の館』とレヴュー『Viva Festa』である。
娘役トップの実咲凜音の退団記念公演でもあったのだが、ミュージカル公演は、レヴューともども満足した。浅田次郎原作の『王妃の館』は読んでいないのだが、映画はみた(映画館で)。そしてそれに不満だったこともあって、今回の公演で鬱憤を晴らしたようなところがある。
水谷豊主演・橋本一監督の映画『王妃の館』について、以下の、AMAZONのDVD評が私の感想に近いので引用したい――
5つ星のうち 3.0 現代のシーンに挟まれる近世パリのシーンに違和感。 投稿者 アジアの息吹 投稿日 2015/7/18
原作は未読。冒頭の旅行会社のダブルブッキングに伴うドタバタ劇の部分は楽しく観ることができたが、中盤から現代のシーンに挟まれる近世パリのシーンに違和感。王族を日本人が演じ、かつ後半がミュージカル仕立てとなっている理屈がどうにも理解できない。以下略。
まさに、このとおりであって、ダブルブッキングに伴うドタバタ喜劇は楽しく観ることができたし、実際にパリでロケをしていることからも臨場感もあり映像的に見てもすばらしく、また水谷豊の怪演もよかった。そこまではいいのだが、ルイ十四世とその愛妾と隠し子をめぐる悲しくもまた心温まる騒動は、後半、ルイ十四世とその愛妾との悲恋物語を作家が幻視するというか推測する方向に転じていくのだが、そのとき再現される過去の歴史的逸話のなかでルイ十四世を石丸幹二が、その愛妾を安田成美が演ずるにおよんで、観る者は唖然とすることになる。
なぜルイ十四世が日本人なのだ、いや気づくと歴史的逸話に登場するフランス人全員が日本人なのである。いやさらに気づくと、歴史的逸話の部分が、ミュージカルになっている。全員日本人で、彼らが登場するミュージカルの舞台が出現する。
せっかくフランスのパリでロケをして、今現在のパリの姿を生々しく見せてくれて、ありがたいと思ったら、この非現実感はなんだ。たとえ本当にフランス人でなくとも、フランス人にみえる俳優を現地で雇うことができなかったのか。無名の俳優でもいいので、フランス人かフランス人にみえる白人にルイ十四世を演じてほしかったと誰もが思うのではないか。この違和感は、なんだろうか。
実のところ、理屈はわからないわけではない。日本人が西洋の歴史的事件や人物を思い浮かべるとき、脳内に登場する人物は、西洋人でも日本語をしゃべるのではないか、そうだとすれば、脳内に存在するのはルイ十四世のコスプレをしている日本人にすぎないのでは。
たとえば私の頭のなかにいるシェイクスピアやハムレットやリア王は、英語(しかも当時の英語)を話しているのではなく、日本語を話し、日本語で思考している。わたしたち日本人の脳内劇場に登場する織田信長だろうがルイ十四世だろうが秦の始皇帝だろうが、彼らはみんな現代の日本語を話すコスプレ日本人なのだ。ルイ十四世が石丸幹二だとすれば、それはかなり上質の脳内劇場ということになるだろう。
しかもそれだけではない。映画のなかでルイ十四世をめぐる物語が後半ミュージカル仕立てになるのは、水谷豊扮する作家・北白河右京の脳内劇場がミュージカル化したともとれるが、おそらくそれは作家・北白河がパリ滞在とルイ十四世の物語に想を得て、帰国後に創作したミュージカルの舞台ということだろう。それはこのパリ滞在を機に、帰国後作家が創作したミュージカルの、その公演の前倒し映像とでも、あるいはフラッシュバックではなく、フラッシュフォーワードそれも一瞬ではなく一定期間つづく未来映像ということだろう。
だから理屈はわからないわけではないが、しかしフラッシュフォーワードでもいいから、たとえば帰国後に制作されたミュージカルであることを明確に示せば違和感は、ある程度、解消すると思われるのだが、そこのところ曖昧なままで観る者の想像にゆだねられているため、違和感が残る。
そしてこの違和感は、おそらく原作を読んでいるときには感じないものというのも、しゃくにさわるところである。残念ながら原作は読んでいないのだが、小説のなかでルイ十四世が登場して日本語で話していても違和感はない。
あるいは今回の宝塚版では、ルイ十四世の亡霊を宙組男役二番手の真風涼帆が演じているのだが、この場合、なぜルイ十四世が日本人なのかという疑問はまったく生じない。映画版『王妃の館』をみて違和感をもたないような観客たちは、結局、小説版あるいは演劇版を観るのと同じ感覚で、頭の中でイリュージョンを調整してみているのだろうか。いや、そんなことはあるまい。もし小説の翻訳ならば、最初からナターシャやアンドレがピエールが日本語で話をしナレーションも日本語でもなんら違和感がないが、映画版の違和感は、たとえば原書で小説を読んでいたら、突然、あるページから日本語が印刷されているような、そんな違和感、不条理感をもたらしてしまうのだ。
なお映画版しかみていない私としては、宝塚版で真風涼帆がルイ十四世になるのはいいとしても、その愛妾を実咲凜音が演ずるのかと思っていたら、彼女はツアー会社の社長を演じて、作家北白河/朝夏まなととのロマンスがはじまるという設定だったのは意外だった。つまりルイ十四世と愛妾とその子供との関係がじっくり描かれると思ったら(実際、映画ではそうだったが)、力点はそこになかった。ただいずれにせよ、宝塚ミュージカル版の場合、ルイ十四世が日本人で日本語を話していても違和感はなかった。これは演ずる者の問題ではなくて、パフォーマンスのジャンルの問題なのだろうが、なぜ違和感が、そしてなぜそれが心地よくないかについて、答えがあるようで、ないようで、そこが困るところなのだが。