2017年04月28日

『王妃の館』

本日は、大学では現代文芸論研究室主催の重要な講演会があったのだが、東京宝塚劇場の観劇という先約があったので、そちらを優先するしかなかった。宙組のミュージカル『王妃の館』とレヴュー『Viva Festa』である。


娘役トップの実咲凜音の退団記念公演でもあったのだが、ミュージカル公演は、レヴューともども満足した。浅田次郎原作の『王妃の館』は読んでいないのだが、映画はみた(映画館で)。そしてそれに不満だったこともあって、今回の公演で鬱憤を晴らしたようなところがある。


水谷豊主演・橋本一監督の映画『王妃の館』について、以下の、AMAZONのDVD評が私の感想に近いので引用したい――


5つ星のうち 3.0 現代のシーンに挟まれる近世パリのシーンに違和感。 投稿者  アジアの息吹   投稿日 2015/7/18


原作は未読。冒頭の旅行会社のダブルブッキングに伴うドタバタ劇の部分は楽しく観ることができたが、中盤から現代のシーンに挟まれる近世パリのシーンに違和感。王族を日本人が演じ、かつ後半がミュージカル仕立てとなっている理屈がどうにも理解できない。以下略。


まさに、このとおりであって、ダブルブッキングに伴うドタバタ喜劇は楽しく観ることができたし、実際にパリでロケをしていることからも臨場感もあり映像的に見てもすばらしく、また水谷豊の怪演もよかった。そこまではいいのだが、ルイ十四世とその愛妾と隠し子をめぐる悲しくもまた心温まる騒動は、後半、ルイ十四世とその愛妾との悲恋物語を作家が幻視するというか推測する方向に転じていくのだが、そのとき再現される過去の歴史的逸話のなかでルイ十四世を石丸幹二が、その愛妾を安田成美が演ずるにおよんで、観る者は唖然とすることになる。


なぜルイ十四世が日本人なのだ、いや気づくと歴史的逸話に登場するフランス人全員が日本人なのである。いやさらに気づくと、歴史的逸話の部分が、ミュージカルになっている。全員日本人で、彼らが登場するミュージカルの舞台が出現する。


せっかくフランスのパリでロケをして、今現在のパリの姿を生々しく見せてくれて、ありがたいと思ったら、この非現実感はなんだ。たとえ本当にフランス人でなくとも、フランス人にみえる俳優を現地で雇うことができなかったのか。無名の俳優でもいいので、フランス人かフランス人にみえる白人にルイ十四世を演じてほしかったと誰もが思うのではないか。この違和感は、なんだろうか。


実のところ、理屈はわからないわけではない。日本人が西洋の歴史的事件や人物を思い浮かべるとき、脳内に登場する人物は、西洋人でも日本語をしゃべるのではないか、そうだとすれば、脳内に存在するのはルイ十四世のコスプレをしている日本人にすぎないのでは。


たとえば私の頭のなかにいるシェイクスピアやハムレットやリア王は、英語(しかも当時の英語)を話しているのではなく、日本語を話し、日本語で思考している。わたしたち日本人の脳内劇場に登場する織田信長だろうがルイ十四世だろうが秦の始皇帝だろうが、彼らはみんな現代の日本語を話すコスプレ日本人なのだ。ルイ十四世が石丸幹二だとすれば、それはかなり上質の脳内劇場ということになるだろう。


しかもそれだけではない。映画のなかでルイ十四世をめぐる物語が後半ミュージカル仕立てになるのは、水谷豊扮する作家・北白河右京の脳内劇場がミュージカル化したともとれるが、おそらくそれは作家・北白河がパリ滞在とルイ十四世の物語に想を得て、帰国後に創作したミュージカルの舞台ということだろう。それはこのパリ滞在を機に、帰国後作家が創作したミュージカルの、その公演の前倒し映像とでも、あるいはフラッシュバックではなく、フラッシュフォーワードそれも一瞬ではなく一定期間つづく未来映像ということだろう。


だから理屈はわからないわけではないが、しかしフラッシュフォーワードでもいいから、たとえば帰国後に制作されたミュージカルであることを明確に示せば違和感は、ある程度、解消すると思われるのだが、そこのところ曖昧なままで観る者の想像にゆだねられているため、違和感が残る。


そしてこの違和感は、おそらく原作を読んでいるときには感じないものというのも、しゃくにさわるところである。残念ながら原作は読んでいないのだが、小説のなかでルイ十四世が登場して日本語で話していても違和感はない。


あるいは今回の宝塚版では、ルイ十四世の亡霊を宙組男役二番手の真風涼帆が演じているのだが、この場合、なぜルイ十四世が日本人なのかという疑問はまったく生じない。映画版『王妃の館』をみて違和感をもたないような観客たちは、結局、小説版あるいは演劇版を観るのと同じ感覚で、頭の中でイリュージョンを調整してみているのだろうか。いや、そんなことはあるまい。もし小説の翻訳ならば、最初からナターシャやアンドレがピエールが日本語で話をしナレーションも日本語でもなんら違和感がないが、映画版の違和感は、たとえば原書で小説を読んでいたら、突然、あるページから日本語が印刷されているような、そんな違和感、不条理感をもたらしてしまうのだ。


なお映画版しかみていない私としては、宝塚版で真風涼帆がルイ十四世になるのはいいとしても、その愛妾を実咲凜音が演ずるのかと思っていたら、彼女はツアー会社の社長を演じて、作家北白河/朝夏まなととのロマンスがはじまるという設定だったのは意外だった。つまりルイ十四世と愛妾とその子供との関係がじっくり描かれると思ったら(実際、映画ではそうだったが)、力点はそこになかった。ただいずれにせよ、宝塚ミュージカル版の場合、ルイ十四世が日本人で日本語を話していても違和感はなかった。これは演ずる者の問題ではなくて、パフォーマンスのジャンルの問題なのだろうが、なぜ違和感が、そしてなぜそれが心地よくないかについて、答えがあるようで、ないようで、そこが困るところなのだが。



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posted by ohashi at 22:48| 演劇 | 更新情報をチェックする

2017年04月26日

作家性

誰の作家性のことかと思われるかもしれないが、それは私の作家性のことである。


いま現在(426)、この文学部のホームページに、卒業生インタヴューとして佐藤祐輔氏のインタヴューが掲載されている。佐藤氏は英文卒業で、その興味深いインタヴューのなかで、「平石貴樹さんや大橋洋一さんみたいな作家性のある教授の授業は大好きでしたね」と話されている。


いやあ、そういってもらえると嬉しいのは確かだが、ただ、平石貴樹東大名誉教授には、作家性があることはまちがいないだろう。事実、退官というか退職後に作家として推理小説を出版している。もちろん小説を書いているから作家性があるという単純なことではなく、平石先生の文章に作家性があることは、誰もが認めることだと思う。また、その授業も、私は聴講したことはないが(実際、現在の英文研究室のなかで、平石先生の授業を聴講したことがないのは私一人だけである(年齢的な問題)。私以外の英文教員は、全員、平石先生の授業に出ているのだが、それはともかく)、一日一冊は本を読んでいたという佐藤氏のような優れた学生にとって、きっと面白いものだったにちがいない。


問題は、私である。私に作家性があるのだろうか。いま、小説家だからといって作家性があるかどうかわからないと述べたばかりだが、それにしても私は小説を書いたことがない(詩であれ、戯曲であれ、そういったものは書いたことがない)。だから作家性がないというのは、単純な話だが、それを差し引いても、私の文章には、作家性だけはないのではなと謙遜なしに感じている。


いや、作家性をいうのなら、すでに英文を辞められた柴田元幸とか高橋和久、両氏のほうが、私の足元にも及ばないほど、強烈な作家性をにじませているように思う。佐藤祐輔氏が在学中は、まだ阿部公彦先生は教えていなかったかもしれないが、阿部さんは小説も書いているし、その文章力は私の比ではない。となると、過去から現在の英文研究室のスタッフは、みんな作家性に恵まれているように思うし、そのなかで唯一の例外は私ではないかと思えてくる、いや、そう確信している。


となると、もしかしたら佐藤氏は私以外の誰かを作家性があり、その授業を面白い授業だったと勘違いしているのではないか。しかし、それは佐藤氏にあまりに失礼だし、私としても、作家性があるといわれて嫌な気がしない、いや、それどころかちょっと有頂天になってしまうくらい嬉しいので、佐藤氏の言葉を、ほんとうにありがたく受け止めることにしたい。


ただ、いま現在の在校生諸君は、佐藤氏が勘違いしているのではないかと思うかもしれない。というのも、いま現在の私の授業には、作家性もなければオーラもくそもない、無味乾燥なつまらない授業でしかないようだから。そうなると佐藤氏に申し訳ない。いやいまの学生職人にも申し訳ない。佐藤氏は、決して勘違いしていないという確信はある。というのも、佐藤氏が在籍してた頃の私の授業は、たぶん、作家性という点も含めて、いまとは比べ物にならないくらい、面白いものだったに違いないからだ。その自覚は、私にもある。


佐藤氏のような優れた学生に私の授業を聴いてもらったのは、私にとって、この上なく幸福な事態であったと思うし、また、作家性とでもいえる私のよい特徴が出ていた時期の授業であった点で、私としても佐藤氏に誇らしさを感じてもよいように思っている。


そしてまた佐藤氏に感謝したい。さらっとほめてもらったからではない。私に、昔の元気をいま失いつつあることを自覚させてくれたことに対して。また、これでは現在の学生に申しわけないことを自覚させてもらったこと対して。さらに佐藤氏が在学していた頃と同じとまではいかなくても、その頃にあった元気をもう一度とりもどすように間接的に私を叱咤激励してもらったことに対して。

posted by ohashi at 21:43| コメント | 更新情報をチェックする

2017年04月25日

pageantの発音

人間、誰でも勘違いして覚えていること、たとえば漢字の読み方とか、英語の単語などがあって、いい年をした人間が、こんな単純な漢字の詠みを間違えているのかと思うこともあるが、しかし、誰でも、そうしたことがあり、自分自身にもはねかえってくることも十分に考えられるので、責めた笑ったりすることなく、自戒の契機とすることにしている。


実際、本日、私自身もそうした過ちを犯していたことを発見した。英語のPageantは、現代英語では「ページェント」だが、シェイクスピアの時代では「パジェント」と発音していたと思い込んでいた。そのため学生がシェイクスピアの台詞にあるpageantを「ページェント」と発音したら「パジェント」だと訂正していた。


これがとんでもない間違いだった、というかシェイクスピアの時代に「パジェント」と発音していたことについては、正しいのだが、現代の英語でも発音は「パジェント」なのだ。


えっ、ということで英和辞書で調べてみたら、どの辞書でもpageantの発音は--カタカナ表記で恐縮だが--「パジェント」のひとつだけ。英米の違い関係なし。ヴァリエーションなし。ただ発音は「パジェント」の一種類だけ。え、そうだったのか、と、唖然。しかも英和辞書の定義の欄に「ページェント」と書いてある。つまりこの英単語pageantの意味は「ページェント」のことだと辞書で説明しているのだが、じゃあ、この「ページェント」は、どこから来たのか。「ページェント」という発音は、英語の発音ではない。


自分の無知を恥じる以上に、謎がふかまった。「ページェント」とは、いったいなんだ!

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2017年04月24日

『作家、本当のJ.T.リロイ』

『作家、本当のJ.T.リロイ』


まだ見ていないドキュメンタリー映画(2016)について、レヴューは無理だが、語ることを許してもらえれば、ネット上にある映画評とか感想などのコメントをみていたら、いろいろなことが語られていたが、総じて、みんな他人ごとなのだ。それにちょっとむっとした。


映画については、


1990年代後半に彗星のごとく文壇に現れ、女装の男娼となった自らの過去を綴った『サラ、神に背いた少年』で時代の寵児となったJ.T.リロイ。しかし天才少年作家は実在せず、その正体はサンフランシスコ在住の中年女性ローラ・アルバートだった。本作は世界中を驚かせた事件を検証し、自分以外の人間になりきったローラの真実に迫る。『ぴあ映画生活』より


ということ。実際には日本のテレビでも、この事件について扱っていた番組を放送したことがあって、知らないことではなかったのだが、その番組について知っていたのか、知らないのか、わからないが、ネット上での反応は、みんな他人ごとなのだ。それがちょっとむかつく。


というのも『サラ、神に背いた少年』『サラ、いつわりの祈り』の2冊、いずれも自伝的作品どころかただのフィクションだったのだが、全世界的ベストセラーになって、日本でも金原瑞人訳で、翻訳も出た。私は、その2冊を買ったのだ、ぞ。


もうページが黄ばんだその本が目の前にある。


どうしてくれるのだ。金原瑞人も、出版社も騙されたので、被害者ではあるのだが、たとえそうであっても、金原瑞人の翻訳なら、みんな買うでしょう。読者、購入者に一言謝罪か何かあってもいいのでは。しかも私のような被害者はそっちのけで、ネットでは、本など買ったことも読んだこともないような**が好き勝手なことを書いている。


まあ、冷静になれば、文学作品は作者のことを考えずに読むことが正しい読み方かもしれない。実人生に基づこうか、空想の産物だろうが、できあがった作品にとっては、どうでもいいわけで、うまく書けているか否かが重要なのだと、オスカー・ワイルドみたいな物言いができるかもしれない。いくら興味深い実人生に基づいていても文章が下手なら感銘をあたえないし、またいかにも嘘っぽい話でも読者を感動させることがある。


リロイの件は、よい実験例かもしれない。作家の実人生に基づくか否かに関係なく、作品の良さを判定できるのか。この問題に決着をつけることができるかもしれない。とにかく、ふうつのフィクションと思って読めばいいわけで、その時、どんなふうに感ずるのか。


いや、無理。偽りの人生を装い、作者自身も贋物を用意したという、とんでもない事実は、実人生という真実というか事実にとってかわって、作者のもうひとつの真実になってしまい、この贋物の伝記という詐欺行為が、結局、伝記になってしまうのだ。もう、これは作者から独立した文学作品としては読むことができない。どうしてくれるのだ。その意味で、この実作者の、偽りの人生によって売り込んだ詐欺行為は、限りない被害を読者に与えている。まあ、今の世の中、この本を出版社の売り文句、翻訳者のあとがきに惹かれて買った読者は、ほぼ死滅してるのかもしれないのだが。

posted by ohashi at 21:27| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年04月13日

『ジャッキー』

キャメロット神話の誕生


映画『ジャッキー』をみてきた。実は、次のような嘘情報を操られて


 “ジャッキー”の愛称で親しまれ、今なお高い人気を誇る世紀のファースト・レディであるジャクリーン・ケネディ。そんな彼女の“JFK”暗殺後の知られざる姿を描いた映画『ジャッキー/ファーストレディ 最後の使命』。ダーレン・アロノフスキー監督とナタリー・ポートマンの『ブラック・スワン』コンビで、同作は世界各国の映画賞を席巻している。

 舞台は1963年のアメリカ。1122日、夫であるジョン・F・ケネディ大統領が暗殺されてから人生が一変したジャンクリーン・ケネディ(ナタリー・ポートマン)。しかし、愛する夫の死を悲しむ時間などのない彼女は、「夫が築き上げたものを単なる過去にはさせない」とする決意を胸に、葬儀が行われるまでの4日間に夫を伝説にしようと奮闘する。


このネット上の記述は嘘ではないのかもしれない。しかし、この書き方で監督はダーレン・アロノフスキーであると勘違いする人間(私もそうだが)がいてもおかしくない。ナタリー・ポートマンとは離婚したのだが、そののちもいっしょに映画を撮っているのかと思ったが、アロノフスキーはプロデュースにまわって監督はパブロ・ラライン(Pablo Larraín,1976)だった。う~ん、聞いたことのない監督だと思ったのだが、調べてみたら、あ、あの『NO』の監督だった。また『NO』を見た時、それと関連してラライン監督の『トニー・マネロ』(白いタキシードをウンコ(人糞)で汚すシーンは思い出すだけで吐きそうだ)、『Postortum』はみたと思う。『ザ・クラブ』というのは見たかどうか覚えていない。


ラライン監督の最新作。どうりで、よくできていると思った(けっして監督のことを同定できてからの後知恵発言ではない)。ナタリー・ポートマンの演技も鬼気迫るものがあって、主演女優賞はエマ・ストーンよりもこっちでしょうと言いたくなる。しいて言えば、ナタリー・ポートマンはジャックリーヌ・ケネディと似ていない。また最近、毎月映画館でみているピーター・サースガードのロバート・ケネディも似ても似つかないのだが、みているうちに、みんな何となく似ているように思えてくるのは不思議だ。ナタリー・ポートマンが現実のジャッキーにそっくりだと書いているネットの記事もあるのだが、頭おかしいのかと突っ込みも入れたくなるが、同時に、似ているように思えてしまう迫力ゆえの印象かもしれない。


夫の死後、ジャックリーヌ・ケネディは、まだ任期半ばでろくな業績も上げていない大統領であったケネディの大々的な葬儀を行う。そして暗殺された大統領の神格というか神話化を行う。キャメロット神話というのは、いつ頃、出来たのかといぶかっていたが、この映画によれば、大統領暗殺後、ジャックリーヌ・ケネディが創ったことになる――実際、そういうことらしい。私たちは、その神話創設事件に立ち会うことになる。


ラライン監督の関心は、メディアと社会あるいは政治の関係であり、この映画も、大統領の葬儀後1週間くらいなってから新聞あるいは雑誌記者のインタヴューにジャックリーヌ・ケネディが答える場面を枠物語として設定している。しかし、そのインタヴューで彼女は真実も語るのだが、彼女が記者には自分の望み通りの記事を書いてくれるようにいう。ビリー・クルーダップ(「クラダップ」ではない)演ずるところの記者が、なぜ元大統領夫人のリクエストを簡単に受け入れてしまうのかは、よくわからない。おそらく、ジャッキーの迫力に負けたということなのだろうが、ただ、ジャッキーは、たんなるきれいごとで収めようとしているのではない(結果としてはそうなのだが)。彼女は現実のありようと直面している。そして自身が、掘り下げれば掘り下げるほどその真の姿に困惑するくらいに現実とむきあっている。そして片やその現実を視界のなかに常に置きながら、それをあえて糊塗する夢物語を必死に紡ぎだすとするのである。現実を見据える眼と、現実を隠そうとする眼、いずれもがとことん真剣なのである。矛盾しているといえば、それまでだが、矛盾のもつ迫力とでもいうべきものに記者は圧倒されたということだろう。実際、記事を電話で社に送るとき(今のようにメールとかファックスはないので、電話の向こうの社の人間に書きとらせるのである)、ジャッキーの望む通りミュージカル『キャメロット』の最後の歌の引用で締めくくるのである。


ラライン監督の『NO』は、国民投票に際して反ピノチェト勢力によってテレビCMを依頼された広告マンが、経験と勘によって、誰もが予想もしなかったCMを作成、それが国民の支持を得てピノチェト政権を倒す大きな流れの源流となったという、その事実に基づく映画だったが。それは左翼勢力が、メディアの力によって、独裁政権を倒す話であったが、『ジャッキー』は、政権側が、というかジャックリーヌ・ケネディが、メディアの力を借りておとぎ話をつくったという映画となった。いずれの場合もメディアがカギを握っている。そして今回の映画は、ジャッキーの作ったおとぎ話は、現実を、あまりにも歪めてしまったということだろう。大統領を記憶に残すという代償として。


もしケネディ大統領の功績をたたえ、その死を悼むとすれば、それは理想に燃えた若き大統領が、目的を達成する途上、あるいはその半ばで、邪悪な闇の勢力によって暗殺されるという悲劇そのものを嘆くことにほかならない。まあ、これも美化あるいは理想化といわれるかもしれないが、同時に、ケネディ大統領の真実の一端に触れるものでもあろう。そしてそれは日本で、あるいは世界で、共有されている理想化されたイメージでもあろう。


ところがジャックリーヌ・ケネディがつくりあげた物語は、大統領の任期中のホワイトハウスは、きらびやかで明るく光り輝く、楽しく陽気で希望にみちた、そして洗練された芸術と文化に満たされた理想郷、中世のアーサー王伝説に登場する優雅なキャメロット宮殿のようだったというのだから、どこまで、どうでもいい場違いな、そして何も理解していない幼稚園児の少女が思いつくようなイメージなのだと、ほんとうにあきれる。実際、キャメロットというのはアーサー王伝説というよりも、それにもとづく能天気なミュージカルのなかの能天気な歌から来ているのであって、さらに度し難いものとなっている。


その意味でこの映画の最終的メッセージは、まさにラライン監督らしくメディアと政治なのである。


posted by ohashi at 01:17| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年04月07日

今村復興相のネクタイ

今話題になっている今村復興相だが、激高している映像がニュースで流されている。アップになった、その見たくもない顔をみると、ネクタイがなんとエヴァンゲリオンのネクタイ(キャラクター商品である)。アニメの一部というよりも、コミック版エヴァンゲリオンの一部をネクタイのデザインに使ったもののようだ。


私はエヴァンゲリオンのファンなので、そのネクタイが欲しい気がするが、復興省を代表する立場で記者会見にのぞむとき、エヴァンゲリオンのネクタイを身に着けるかな。人の好みなので、あれこれ言ってもしょうがないが、エヴァンゲリオンのネクタイについて、記者あるいは周囲から指摘してほしい、ほめてほしい、あるいはいじってほしいとでも思っていたのだろうか。もし、そうだとしたら精神年齢が子供だ。エヴァンゲリオンのファンが子供だということではない(たぶん子供のよりも大人のほうがファンだろう)。そうではなくて、エヴァンゲリオンのネクタイを見せびらかすことが子供だということである。


そして自民党の国会議員というか大臣だから、あえていうが、おまえは天皇陛下に会う時にも、そのエヴァンゲリオンのネクタイを身に着けていくのか。結局、被災者をバカにしているか、被災者のことを軽く考えているだけなのだろう。


とはいえこの質問も愚問だろう。大意の意向をもらした天皇のいうことを無視するような自民党であってみれば、天皇のことをどう思っているか、あやしいものである。


追記:今村大臣は、東京電力を株を多く所有しているというような報道もあった。それが真実かどうかわからないのだが、しかし、今村大臣も原発マフィアの一員というのであれば、これは被災者に寄り添うどころか、東電に寄り添う人間が大臣になっているということになる。犯罪者が法務大事になるようなもので、もう現政権の腐敗具合でむかつきそうになる。



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2017年04月06日

『暗黒女子』

映画『暗黒女子』は、話題になった清水富美加を見に行くためでもなく、ただ面白そうだからという単純な理由で見に行った。原作は読んでいないが、原作に忠実な脚本のようで、映画化にあたって大きな変化はないようだ。となると、この作品は、「毒入りチョコレート事件」物に属する。


「毒入りチョコレート事件」(毒もチョコレートも、映画の内容とは無関係)とは、そもそも何か。Wikipediaを引用すると(省略、削除あり。追加はしていない)


『毒入りチョコレート事件』(The Poisoned Chocolates Case)は英国の作家アントニー・バークリー作の推理小説である。1929年発表。バークリーのシリーズ探偵の一人である作家ロジャー・シェリンガムが率いる「犯罪研究会」に、スコットランド・ヤードのモレスビー首席警部から未解決の毒殺事件が報告される。この事件に対し、バークリーのもう一人のシリーズ探偵であるアンブローズ・チタウィックを含む同研究会の面々が推理合戦を繰り広げる。

犯罪研究会の6名は一週間かけて各個独自の捜査を行い、翌週毎日一人ずつ推理を発表することになった。提出された推理は7件で、警察と合わせると、一つの事件に対して8件の推理がもたらされることになった。複数探偵による多重解決という趣向は以前よりあったが、バークリーはそれを徹底した。


で、その後、この多重解決物を「毒入りチョコレート事件物」と称するようになった。バークリーの作品は翻訳で読むことができる(創元推理文庫)。で、以上の説明からわかるように、事件に対して複数の解釈、推理が提示され、推理合戦となる。最終的に、矛盾や欠陥のある推理が淘汰されるというか、たいていは最後に示される推理が、正しい推理となって事件は解決される。


ただ、複数の推理、複数の解決策というは、個々の推理を相対化し、唯一無二の絶対に正しい推理というものがなくなるという、脱構築状態になる。実際、「毒入りチョコレート事件物」では、続篇とか別作品でさらに新たな推理が示されるというようなことも起こり、正しい推理がどこまでも遠ざかっていく。ただ、この脱構築状態が、このサブジャンルの醍醐味で、それを楽しむ面白がるということもあろうが、やはり中心となるのは、複数の推理のあと正しい推理が示されて事件が落着するという終わりあるプロセスを楽しむという要素であろう。それは一つの出来事に対して複数の視点から解釈するという面白さ、しかも、それは一つの解釈がくつがえされて次の解釈が生まれること、つまり裏があり、またその裏の裏がありという意外性とか驚きの連続が、息苦しくもまた心地よく、限りなく知的好奇心を刺激してくれるということ。それがなんとも面白いのだ。


『暗黒女子』では、推理クラブは登場しないが、文学クラブが登場し、そのメンバーたちは、なぞの死を遂げたクラブの部長――ミッション系女子校の理事長の娘で、学院内でアイドル的な存在であった――の事件の真相をめぐって、それぞれが推理する。誰が犯人か、複数の推理が示される。まさに、これぞ「毒入りチョコレート物」という展開となる。


もちろん「毒入りチョコレート物」のヴァリエーションでもあって、通常の展開からはずれる面もある。そもそも「推理クラブ」ではなく「文学クラブ」である。メンバーがそれぞれ推理を発表するのではなく、小説を書く。もちろん、その小説は、メンバーそれぞれが自分の視点から事件を見直し犯人が誰かを明示的あるいは暗示的に指定して終わるという構成をとるのだから、推理あるいは推理合戦といってもいい。また複数の小説は、事件の真相を部分的に反映していることも、映画の最後ではわかるのだが、しかし、小説であって、それはフィクションである、つまり純然たる推理ではないという面がある。


そして話がすすむにつれて、なぜ推理合戦ではなく、小説でなければいけないのかということもわかってくる。また、これは「毒入りチョコレート事件物」であると同時に、自意識的にそこにひねりをくわえた、「メタ・毒入りチョコレート事件物」でもある。謎の死という出来事。そしてそれをめぐる推理を示す小説合戦というもう一つの出来事。二つの出来事が切り結ぶことで作品は重層化しまた複雑さをますが、それがまた刺激的でもある。


しかしこの『暗黒女子』がさらに先に行くのは、複数の推理を複数の小説・フィクションとすることで、推理という、本来なら事実確認陳述を、小説という遂行的陳述としたことである。つまりこの小説は、たんに事実を指示しているのではなく、なぜ書くのか、なにをしようとしているのか、その行為面を思考させるはたらきがある。この時あからなのは、メンバーによる個々の小説構が、真実を解明するというよりも真実から目を遠ざけるようなはたらきをすることである。


私たちは推理が示されるとき、その整合性、無矛盾性、論理性、洞察性に注意がいって、なぜ、その推理がなされるのかという行為面には注意が行かない。いや、これはテッド・チャンの「あなたの人生の物語」のなかで語れていたことだが、騙し絵、たとえば若い女性の後ろ姿にみえるとともに、うつむいた老婆の顔にもみえるという騙し絵について、どちらかいっぽうの見え方しかしないのと同じで、言説の事実確認命題性と遂行的命題性は同時にみることはできない(テッド・チャンの小説は、言語行為論に関するすぐれた導入をおこなっている)。推理の事実確認命題性(正確にいえば推理なので事実確認ではないのだが)と推理の遂行的命題性とはいっしょに生起しないのだ。


『暗黒女子』はというと、文学会メンバーの小説が、メンバーの人生の物語となっている。ただしそれはまた自己正当化の物語でもあり、そのためにも現実あるいは事件の真相ならびに、自分の立場をよくするために、自作自演的な物語をでっちあげているのだ。そこから、なぜそれが書かれたのかということに光があたるとともに、そこから、暗黒面がみえはじめる。多層推理の事実確認命題性を、遂行的命題性にシフトさせる展開を用意したことで、最終段階の裏の裏の状況、怒涛のどんでん返し状況を用意したことで、この作品は、「毒入りチョコレート事件物」を一歩も二歩も先に進めたということができるだろう。


もちろん設定の人工性、嘘っぽさについては、つっこまれること覚悟の上で。


園子温監督の『冷たい熱帯魚』でもわかるように、人間の死体の解体というのは、マグロの解体以上に、たいへんな作業で、二人がかりでも長時間かかり、一息ついたらコーヒーが欲しくなる受労働なのだが、それを女子高生が人で短時間でやりとおせるはずはないのだが、そこは目をつむろう。


この文学クラブで新メンバー(平祐奈)が加わったあとの初回の読書会の題材がエズラ・パウンドの詩――レヴェル高すぎて驚く。しかし映画の最後に次の読書会の内容が提示されるのだが『ああ無情』。え、『ああ無情』。今ではミュージカルやミュージカル映画にもなったので『レ・ミゼラブル』(略してレミゼ)といったほうが通用しやすいと思うのだが、また今では若い人は知らないなかもしれない『ああ無情』という訳題。私が子供の頃、はじめて読んだ『レ・ミゼラブル』は、子供向けに書き直されたもので、タイトルは、たぶん明治時代から伝統となっていた黒岩涙香の『ああ無情』(もっとも、その後『レ・ミゼラブル』を翻訳でも読み、原作は、こんなめんどくさい話だったのかと驚いたことがある)。その『ああ無情』というタイトルが映画の最後で言及される。なぜ『レ・ミゼラブル』でいけなかったのか。メンバーの一人はフランスで暮らしていたこともあり、他のメンバーも、女子高生でありながらフランス語も少しはわかるという設定のようだから、翻案あるいは子供向けの書き直し作品のタイトル『ああ無情』は、ないでしょう(なにしろエズラ・パウンドから始まる高度すぎる読書会なのだし)と思ったのだが、しかし、『ああ無情』という書名を言いたかったのだろう。なにしろ、この映画の物語の最後は、「ああ無情」としかいいようがない暗い終わりなのだから。

posted by ohashi at 22:50| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年04月05日

出題ミス

某大学から入試問題に私の翻訳を使ったという書類が、その入試問題の問題用紙とともに届いた。よくあることで、事後承諾だけれども、それはそれで問題ない。これまでにも私が書いた文章、ならびに私の翻訳が、入試問題に使われている。


自分の書いた文章よりも、翻訳が使われることのほうが嬉しい。翻訳文は、どうしても生硬にならざるをえず、国語の問題にはどうかと思うが、逆に、それがねらいなのかもしれない。今回使われたのはイーグルトンの『文学とは何か』(岩波文庫)だが、これまでとはちょっと様子がちがっていて、問題用紙以外に同封されている文書があって、みると「出題ミス」と書いてある。


さすがに、これを見てあせった。そもそも出題ミスといえば、解答できなかったり、解答が複数あったりして、点数評価ができない欠陥問題ということになる。で、私の翻訳を使った問題は、小論文問題であって、出題されている問題が、問題文とまったく関係なかったりしたら問題だが、たとえば内容を要約せよとか、ここに書かれていることをどう思うかというような設問に対してミスなどありえない。つまり出題者の側にミスなどありえない問題というか設問なのだ。


となると、私の翻訳文そのものに欠陥あるいは出題ミスがあるということになる。え、誤訳がばれてししまったとか、日本語がおかしいとか、翻訳文が日本語として成立しないとか、そういう私の翻訳そのものに、出題ミスとしかいいようのない、なにか重大な欠陥があったということかと、にわかに目の前が真っ暗になりかかった。


ただ、幸い、ショックは一瞬ですんだ。出題ミスとは、問題文にミスプリントがみつかったということで、ひとつは元の翻訳文とは意味は同じだが異なる漢字を使ったというもの。よく気づいたと思う。あと明らかにミスタイプとわかるミス。幸い、受験生の解答に影響はなかったようで、よかったが、同時に、私の翻訳文に欠陥があったわけではないことで、ほっとした。



追記1:いくら私の文章がよく入試に使われるといっても、東京大学の教員の文章は、東京大学の入試には絶対に使われないので、あしからず。


追記2:入試問題に使われるというのは、よく読まれているということでもあるが、しかし、またほんとうによく読まれていたら、逆に、入試問題に使うのがためらわれるので、ものすごく読まれているというわけではないということである。


追記3:以前、文学部の他の研究室の先生方と同席することがあって、話題が、国語の入試問題に使われる文章になったので、実は、私の書いた文章は入試問題に使われたことがありますよと自慢しようとしたら、悪文だから入試問題に使われるのだという方向に話が進んで、自慢話ができなくなった。しかも、悪文という批判には、反論できず。実際、入試問題に使われた私の文章は、めんどくさくて難しい文章、要するに悪文なので、自分でも、こういう文章を書くのはやめようと反省したくらいだから。


追記4:とはいえ、これは自慢でもなんでもない。この歳になると、大学の教員で人文系の教員は、誰でも一度くらい入試問題にその文章が使われている。大学(同じ大学、あるいは他大学を問わず)の教員の集まりで、たまたま入試問題が話題になると、その場には、入試問題で文章が使われたことのある教員が必ず複数いるのだから。今回の記事は、自慢でもなんでもない。

posted by ohashi at 01:36| コメント | 更新情報をチェックする

2017年04月02日

『ムーンライト』2

映画をみたときの興奮さめやらぬまま、自分が映画を見ていることを忘れ、どこの映画館であったかもわからなくなったと、前の記事で書いたが、それは、たんに勝手な感想というのではなく、この感想自体、映画の内容そのものとシンクロしているのである。


三つの時代、少年時代、思春期の時代、そして大人になって中年に差し掛かろうかという三つの時代というか時期において、三つの時期に共通して登場するのは主人公の母親(ナオミ・ハリス演ずるところの)だけであって、主人公もその友人も、異なる俳優たち計6人が演じている。しかし三つの時期、6人の俳優たちが、最後において、ひとつに溶け込む。あるいは中年にさしかかりそうな大人たちも、少年の日に回帰していく。年齢も、職業も、異なる人生も、みんな溶け去ってしまい、ひとつの情念に純化されていくような、そんな陶酔感がある。またこのとき外的現実も外的環境も、その堅固な輪郭を失ってゆき、惹かれあい、愛し合う二つの魂の静謐な充足感しか残らなくなる。


だからであろう。この映画について、アフリカ系アメリカ人からは、けっこう辛口な批評も寄せられているのは。『キングコング』のサミュエル・ジャックソンからはアカデミー賞獲得に合わせたあざとい作品という批判が寄せられたのだが、それはわからないわけではない。ここには前年度アカデミー賞にいわゆる黒人の映画をノミネートすらさせなかった厳しい人種差別も、トランプ政権における人種民族ヘイトも存在していないかにみえる。黒人は、まったく差別されていないかにみえる。なにしろ愛の物語が、歴史も社会も完全に溶解させてしまっているからで、気づけば、これは社会性ゼロの映画なのだから。


もちろん、この映画のように、黒人たちが貧民街で暮らし、黒人街がドラッグの売人に牛耳られ、裕福な黒人はドラッグ・ディーラーだけというような状況は、黒人たちが白人によって差別され迫害されていることの証明そのものである。歴史と社会をともに忘却することによって得られる愛、あるいは歴史と社会を忘却させる愛、このふたつの愛の在り方には違いがあることはまちがいないが、しかし、結局は同じであるともいえる。無視し忘れれば忘れるほど思い出す過酷な歴史と社会と現実。


だが、私が、映画館のなかで映画を見ていることすら忘れ、映画館の存在そのものを忘れたとしても、アルツハイマー病ではいので、無事に帰宅してこれを書いているのと同じで、いくら歴史と社会と現実を忘れる愛の強度に圧倒されようとも、現実は回帰してくる。現実を忘れるほどの愛の強度は、現実の強度によっても支えられている。そう考えれば、この映画を裏返しの社会派映画とみることはできるかもしれない。


前回の数人と毎月開催している映画会は、『アイヒマンを追え』であったが、その冒頭で、検事長フリッツ・バウワーが風呂で溺れそうになるのだが、それはバウワー自身が風呂場で謎の死を遂げたことへの暗示であるというようにパンフレットでは説明していた。そうかもしれないが、同時に、それは映画がゲイ物語・ゲイ映画であることを最初から明確に予告するものでもあった。実際、『アイヒマンを追え』は、この『ムーンライト』と同じようにゲイ映画であることは見ればわかるのだから。と、このようなことを指摘したところ、何物も、水や海をゲイ文学・ゲイ映画と結びつける大橋先生の眼光を逃れることはできないと、映画会ではからかわれたが、しかし『ムーンライト』もゲイ映画にふさわしく、水と海の物語である。それは映画をみればわかることであって、二人がはじめて結ばれる砂浜、そして夜の月明かりのなか青くみえる黒人の子どもたち。海と海岸が、同性愛の欲望の、まさに呼び水になっているのである。

posted by ohashi at 19:40| 映画 | 更新情報をチェックする