2017年03月31日

『ムーンライト』

『ムーンライト』Moonlight(2016) ゲイ映画の傑作だと思った。


ゲイ映画――LGBT映画という表現は、好きではないし、この映画のなかにLBTもないのだから、ゲイ映画と呼ぶ。ただ、こう書くとネタバレではないかと言われそうだが、むしろゲイ映画であることを伝えないことがネタバレ以前の差別である。ある映画サイトでは、内容というかあらずじを以下のように伝えている(全体ではなく抜粋)


〔略〕ある日、同級生に罵られ、大きなショックを受けたシャロンが夜の浜辺に向かったところ、ケヴィンが現れる。シャロンは、密かにケヴィンに惹かれていた。月明かりが輝く夜、2人は初めてお互いの心に触れることに……。しかし翌日、学校である事件が起きてしまう。その事件をきっかけに、シャロンは大きく変わっていた。高校の時と違って体を鍛え上げた彼は、弱い自分から脱却して心身に鎧を纏っていた。ある夜、突然ケヴィンから連絡が入る。料理人としてダイナーで働いていたケヴィンは、シャロンに似た客がかけたある曲を耳にしてシャロンを思い出し、連絡してきたという。あの頃のすべてを忘れようとしていたシャロンは、突然の電話に動揺を隠せない。翌日、シャロンは複雑な想いを胸に、ケヴィンと再会するが……。


アンダーラインの一文にある、思わせぶりな「……」。ふつうなら、そこが謎で関心を惹起する役割をはたす。だが、それを口実に、同性愛への言及を封印することができる。「お互いの心にふれる」とは、よくもまあ言ったものだ。そもそも心に触れることなどできなし、それは比喩にすぎないし、このとき二人が触れ合うのは、互いの性器(ペニス)である(というかそう推測できる映像になっている)。ケヴィンはシャロンのペニスを握って抜いてやるのだ(比喩。誤解のないように)


ただ、こう書くと、なんと露骨なと思うかもしれないが、映画はむしろその逆で、露骨な描写はまったくなく抑えれば抑えるほど静かに燃え上がる情念という構成だし、明確なセックスシーンはない。強いて言えば、朝起きてみると柄物のトランクスの一部が少し濡れていて夢精したことがわかるという一瞬のシーンが、露骨といえば露骨といえるだけで、それ以外に露骨なシーンは皆無。ということは、このどこがR15なのだ。つまり同性愛というだけで、不謹慎、不潔、猥褻で、子どもに見せられない露骨な性行為映像と同等の猥褻さを有しているということだろう。それは差別に加担することだと、なぜわからないのか。差別があることは明言しておく(別の映画ではないが、こういう憤慨する出来事があると、本気で編み物を編むしかないぞ)。


最初に抱いていた予想では、「黒人」(と表記させてもらうが)の子どもが仲間からいじめられ、やがて大人になるにつれて道をあやまっていく、そして貧困から犯罪にいたる社会の裏面が生々しく露になるとような痛そうな映画というものだったが、そうであればこそ、あまり見たくない映画だったのだが、そういう面ももちろんあるにはあるが、それ以上に、これが愛の映画であることがわかって、映画のなかに完璧に引きずり込まれた。


良い映画、おもしろい映画をみると、なんだか映画が終わってほしくない、このままずっと映画をやっていてほしい、このままずっとこの映画を見ていたいという気になるのだが、今回は、そういう気持ちになることはなく、むしろ、映画を見ていることを忘れて映画の世界に没入してしまった。息をのんで映画をみていた。そのため、いったい今、自分が何をしているのかわからなくなった。あえて気を取り直し、いま映画をみているのだと、やっとのことで認識したが、今度は、どこの映画館でみているのか、ここはどこか、わからない自分がいた。もちろん次の瞬間、どこの映画館かは思い出したが。


べつにこれは手術後、体調が悪くなって、意識を失ったということでは絶対にない。映画の世界に取り込まれて抜け出せなくなったのだ。まさにそれほどまでに、すぐれた愛の映画であり、まさにゲイ映画の傑作である。

posted by ohashi at 23:17| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年03月29日

『わたしはダニエル・ブレイク』

映画紹介から引用する。もちろん、以下の紹介の通りなのだが、しかし、この紹介文は、映画の社会的問題提起をぼかしていて、なにか心温まる映画に偽装している。この映画に込められた怒りと悲しみを回避しているのが問題だろう。


ケン・ローチ監督が二度目のカンヌ国際映画祭パルムドールに輝いた社会派ドラマ。ダニエルは心臓疾患により医師から仕事を止められるが、複雑な制度に翻弄され支援を受けられない。手助けしたシングルマザーの家族と交流を深め、貧しくとも支え合うが……。一貫して社会問題に目を向けてきたケン・ローチ監督は「ジミー、野を駆ける伝説」を最後に劇映画からの引退を表明していたものの、拡がる格差や貧困を鑑み、引退を撤回し本作を制作した。


複雑な制度に翻弄される? バカかというか、意図的に問題を隠している。生活保護を受けるような奴は人間のクズだ、働くなら支援してやるが、働かないなら徹底的に迫害してやるという行政の在り方が、罪もない人々を、いや、社会を支えてきた立派な市民を死に追いやっているという話である。


日本よりは、まともな福祉制度が完備していると思っていたイギリスが、これである。つまり移民、難民にも保護の手を差し伸べ、決して冷遇しないがゆえに福祉関係予算にしわ寄せがきていて、難民受け入れを拒否したりユーロからの脱退をするのようになったりしたのかと思っていたが、そんな甘いものではなく、そもそもが生活保護を受けようとするイギリス人そのものをイギリスの行政が難民扱い、邪魔者扱いして、徹底して迫害する。この行政の姿勢は、日本と同じではないか。そこに唖然とする。


神奈川県小田原市の福祉課の職員たちの「生活保護なめんな~」グッズが問題になったが、公務員がクズだとは夢にも思わないが、小田原市福祉課の職員たちは、まちがいなく人間のクズである。そして彼らがクズなのは、生活保護を受ける人間を世間の無理解や迫害から守るのではなくて(実際、「生活保護なめんな」というのは、生活保護を受けている人間を差別するな、蔑視するな、彼らだって好きで生活保護を受けているのではない、そういう生活保護者擁護のスローガンかと思ったが、まったく逆であって唖然とした)、みずからが先兵となって迫害し、クズ扱いするという、まさに血も涙もない、人間のクズである。


今回の映画の場合、心臓発作を起こして、医師からも仕事を休むようにいわれている主人公が、その間の失業手当をもらうとすると、審査に落ち、働け、仕事がないのなら求職活動をせよといわれる。審査に不服なら申し立てろといわれるが、手続きを煩雑化して、容易に審査結果を撤回しないようにしている。そもそも行政の側は、失業手当を出すつもりなど毛頭なく、難癖をつけては、働くように仕向ける。求職活動をするなら、その結果を残せと命じ、履歴書の書き方の講習を受けろといい、講習を受けなければ処罰が待っている。


だが、肝心の問題は、手続きが煩雑であったり、制度が複雑であるということではなく、医師が仕事を休むように通告している患者を、勝手な判断で働かせようとすることである。医師の判断など全く無視して、生活保護手当を受けようとする怠け者の人間のクズ扱いする行政なり福祉事務所の職員が、小田原市福祉課の職員こそが、人間のクズである。


いや福祉課の職員の、みんなクズ扱いにするのは、どうかと思うと反論させるかもしれない。彼らは、自分の意志で、生活保護を受ける人間をクズ扱いしているのではなく、そのように上から命じられているにすぎないということはあろう。これは映画『アイヒマンの後継者』(『アイヒマンの後継者』2の記事参照)に登場したミルグラム博士によれば「代理状態」ということで、彼らは自己責任を放棄して、ただ上司に命じられたからという言い訳をするし、実際に、自分の倫理観に基づいて判断することなく、事務手続き、役所仕事に徹している。これは、救急車ではなく自分の力で病人にきた人間に対し、まず質問票を書くように求めて処置を遅らせ死に追いやることから(ミルグラム博士自身、病院の受付の人間の代理状態行動によって、処置が遅れて死を迎えたらしいことが映画のなかで暗示される)、ただ命じられておこなったというアイヒマンの行為にいたるまで、おびただしい数の死人を生み出してきた元凶である。だから、命じられてしたまでという代理状態の言い訳を絶対に許してはいけない。


ホロコーストの場合もそうであったのだが、彼ら福祉課の人間は迫害し殺す対象である人間をクズだと本当に思っている。だから彼らは。生活保護を受ける人間から尊厳を奪い、人権を無視して、徹底して卑しめることを正義だと勘違いしている。まさに福祉課の人間がクズである。アイヒマンがホロコーストの責任者になったのは、ユダヤ人をクズだと信じていたからにほかならい。そしてホロコースト関係のクズどもが、代理状態に逃げ込むのなら、次のように反論すればいい。たとえば、生活保護を受けるような貧困層が、格差社会のことを批判すれば、福祉課の人間は、貧困層を、自己の責任なり怠慢を隠して、社会に責任を押し付けようとする無責任な人間とみなすのだが、つまり自分で頑張りもせず、社会のせいだという人間の怠慢と嘘を暴くのが自らの使命だ福祉課の人間が考えているのだが、そうならば彼ら自身が、ただ命じられてやっているだけだと制度や規則のせいにして自らの責任を回避するという矛盾を犯しているのだ。彼らが生活保護を受ける人間を無責任だと非難するのなら、彼ら自身が、貧困層への迫害を制度のせいではなく自己の責任においておこない、厳しく処分されるしかないだろう。彼らは迫害を楽しんでいる悪魔なのだが(「生活保護なめんな」というのは、あきらかに楽しそうではないか)、その悪魔が正義を振りかざすのである。私たちは、生活保護者を迫害する福祉課の人間を養うために税金を払っているわけではない、ぞ。


『わたしはダニエル・ブレイク』は、怒りと悲しみの映画である。それを映画会社は隠している。タイトル、I , Daniel Blakeを、なんという訳しかたをしているのか、バカかあるは悪魔かとここで声を大にしていいたい。これは誤訳である。


「わたしはダニエル・ブレイク」という、いまの題名のままだと、たんに自己紹介しているみたいではないか。「わたし、ダニエル・ブレイクは、」と訳すべきなのである。「わたし、ダニエル・ブレイクは」という形式のフレイズは、ことのあとに宣言なり抗議の内容をつづけるときの形式である。「わたし、誰々は」行政のあり方に抗議する、格差社会の仕組みに断固反対する、安倍政権に反対する、という時に使うフレイズである。これはダニエル・ブレイクという個人が、代理状態の匿名性に逃げ込むことなく、堂々と非難する、公的な宣言、公的な抗議なのである。おそらくタイトルは無知ゆえの誤訳ではないだろう。抗議、抵抗を隠蔽する意図的誤訳にちがいない。


posted by ohashi at 21:53| 映画 | 更新情報をチェックする

しじみの醤油漬け

他大学の先生から、卒業生が、これまでフグを食べたことがないということだったので、卒業祝いに、フグを食べさせに行ったという話を聞いた。まあ確かに若い世代は、まだこれまで一度も食べたことがないという料理とか食材は多いのかもしれない。


ただ私のような年寄りになると、よほど珍しい料理とか高価すぎるという料理ではないかぎり、たいていのものは一度は食している。しかし、映画『彼らが本気で編むときは』をみていたら、小学生の女の子が好きな食べ物を聞かれ、切り干し大根とかしじみの醤油漬けと答えて、小学生なのに居酒屋でおやじが食べるようなものが好きなのはおかしいとつっこまれていたが、その時、私は、しじみの醤油漬けというのを食べたことに気づいた。


切り干し大根は好物ではないが家庭料理、いわゆるおふくろの味でもあって、食べたことはある。しかし「しじみの醤油漬け」というのは、それと同列の家庭料理なのだろうか。調べてみたら家庭料理というよりも居酒屋の酒の肴に近い。おつまみである。


ネット上にはレシピもあるので自分でも作ってみようかと思うのだが、しじみに紹興酒を吸わせるのがむつかしいようで、まだ作っていない、食べてもいない。台湾料理のようだが、日本では圧倒的に居酒屋の品である。


たまたま知人に、このしじみの醤油漬けの話をしたら、知人も食べたことはなかった。どうしてこの料理を知ったのかと問われて、映画『彼らが本気で編むときは』で小学生の女の子の好物だったというと、そんな料理、小学生が好きなわけがない。わざと、変わった、面白おかしい設定にしているのだろうと、その知人は言ったのだが……。


映画の中で小学生の女の子がしじみの醤油漬けという居酒屋料理が好物なのは、明確な説明はないのだが、これって母親が小学生の娘を連れて、居酒屋で、酒を飲んでいて、そこでしじみの醤油漬けという、紹興酒を使うから小学生に食べさせて行けないような料理を食べさせているということでしょう。家事をするのが面倒で、なおかつ娘の世話をまともにしていない、そして男狂いの母親が、居酒屋で男と酒を飲むときに娘を同席させているということだろう(母子家庭という設定なので、家で留守番させておけなかったということか)。これは虐待ではないにし、育児放棄に近い犯罪行為であり、小学生の女の子が、その犠牲になっていたということの暗示でもあろう。その意味から映画のなかで、しじみの醤油漬けのもつ意味は大きい。


あと『彼らが本気で編むときは』は、娘との関係をこじらせた母親役で、昨年亡くなったリリーが出演しているのだが、彼女は、奇しくも、『湯を沸かすほど熱い愛』でも、娘との関係がこじれた老母役で出演していたが、映画としてみても、また物語としてみても、『彼らが本気で編むときは』のほうが、圧倒的に優れていると思う。『湯』のほうは、女優、俳優の優れた演技があっても、発想が中学生で幼すぎるとしかいいようがない。ガンで死んでいく人間、それを見守るしかない家族の悲しさと苦しみには共感できても、それ以外の点では、むしろ反発すら感じてしまうのが『湯』であった。


『彼ら』のほうにも、変なところもある。時代設定がやや古いのかもしれないが、私もつい最近、病院に入院していたこともあって、気になった。いまではどの病院も同じだと思うが、大部屋も、カーテンで仕切られて、患者同士の交流はない。入院時に挨拶もしないし、日ごろの挨拶もない。顔もわからないのが普通であって、カーテンを開け放ってベッドの上で横になっている姿が互いに見えるということはない。だからカーテンで個室性は確保できるのだから、トランスセクシュアルでも、一泊くらいなら男性の大部屋でもいいと思うのだが、もちろん性同一性障害の人間を男性病室に入れるのは間違っているともいえる。


あと差額ベッドが40万円というのは高すぎる。いくらなんでも40万円というところなどないだろう。実際、小学生の女の子の男友達が入院したとき、個室なので、見舞いに行った女の子も「個室じゃん。さすが金持ちは違うな。一泊40万円か」と聞くと、男の子は「そんなに高くない」と答えている。そうれはそうだ。40万円の差額ベッドなんて聞いたこともない。まあ映画のなかで看護師が意地悪で口から出まかせを言ったとしか思えないのだが。


つづく:『彼らが本気で編むときは』の記事に。


posted by ohashi at 20:36| コメント | 更新情報をチェックする

2017年03月28日

『キングコング 髑髏島の巨神』

『地獄の黙示録』ナウ Apocalyps Now Now


『パッセンジャー』は『シャイニング』と『タイタニック』を合体させたような映画だったが――ピコ太郎のギャグで説明しようと思ったが、まあ、時期が過ぎたかもしれないので、やめた――、『キングコング 髑髏島の巨神』は『地獄の黙示録』の世界でしょう。『高慢と偏見とゾンビ』(小説と映画)はオースティンの『高慢と偏見』の物語を再現し、プロットに変更は加えていなかったが、ただ、そこにゾンビがいて、人間・対・ゾンビの戦争が勃発していた。それと同じで、『地獄の黙示録』の世界に、コングをはじめとする巨大な異形生物が存在しているという世界だといえば、わかってもらえるだろうか。


実際、髑髏島(Skull Islandを直訳すると、昭和の紙芝居に出てくる冒険活劇の世界にふさわしい地名なのは、おかしいが)に行くシークエンスは、まさに『地獄の黙示録』そのものである。謎の島への探検に陸軍のヘリコプター部隊(空中騎兵師団の兵士)を護衛として科学者たちが行く。行くというか攻撃にでかける。またそこに特殊部隊に所属していたエージェントが同行し、さらにカメラマンも。そしてヘリコプターの群れが嵐をつききって島へ。島に到着すると、大音響で音楽を流し(なぜ音楽を流すのか不明)、地盤の様子を調べるということで爆発物を、まあ爆弾と同じようにジャングルに投下していく。完全に奇襲攻撃である。『地獄の黙示録』と同じである。


髑髏島には、原住民が住んでいる。体に色を塗り、また皮膚が傷跡のように盛り上がる印をつけている。これもまた『地獄の黙示録』の世界で、カーツ大佐/マーロン・ブランドがベトナムかカンボディアの奥地に築き上げた王国をほうふつとさせる。実際、髑髏島の居住地区は、第二次世界大戦中に島にパラシュートで降り立ったアメリカ陸軍航空隊のパイロットと日本軍のパイロットが築いたのではないが、彼ら二人が君臨していたイメージはある(原住民にとって文明人は神々とあがめられたという、植民地帝国主義時代の伝承もある)。二人は『地獄の黙示録』のカーツ大佐/マーロン・ブランドと同じような役割をはたしている。というか、さらにいえば日本人パイロットはすでに死んでいるので(しかし日本人パイロットを演じてるMIYAVI、日本軍人とは思えないクィアさが漂っているのだが、それはねらいなのか?)、ジム・ライリー扮するこのアメリカ軍パイロットが、まさにカーツ大佐みたいに君臨している。住民とは友好的なようだが。


コッポラ監督の『地獄の黙示録』は、ジョゼフ・コンラッドの『闇も奥』の映画化である。設定を19世紀のアフリカから、ベトナム戦争時代におきかえたりっぱな翻案映画である。大作映画なのでコンラッドの中編作品と相容れないように思われるかもしれないが、コンラッド作品にある要素は全部ていねに拾っていて、それを核に話を膨らませているのである。『闇の奥』では語り手はマーロウ。そのマーロウがコンゴ川のさかのぼり、奥地でクルツが築き上げた王国にたどり着く。コンラッドとマーロウ。ちなみに、この映画『キングコング』では、原住民のうえに文明人として君臨しているジム・ライリーの名前はマーローである。またトム・ヒドルストン扮する英国特殊部隊出身の男はコンラッドという。『闇の奥』と『地獄の黙示録』を連想させる名前が用意されているのだ。


あと日本の怪獣映画にも影響を受けたこと(次回作で、コングはゴジラと戦うようだから、日本の怪獣映画へのオマージュは当然かもしれないのだが)は、随所にあらわれている。そもそも髑髏島の原住民たち、寡黙で、何を考えているかわからない神秘的存在でいて、礼儀正しくお辞儀をするというのは、理想化され戯画化されもした日本人のイメージであろう(日本人は、こんなにおとなしくない。命じられれば、最後までボタンを押し続ける日本人は100%だろう――『アイヒマンの後継者…』の項目参照)。巨大コングが、巨大タコを食べたりするところ、怪獣が着ぐるみ的なところなど日本映画へのオマージュともいわれているようだが。ただし、スカル・クローラーは、あれはCGでなければつくれない怪獣と思うが、造型の荒唐無稽さは(人間の手をもったトカゲというのは、脳みそのどこをつついたら生まれてくる発想なのだろう)日本の怪獣映画に通じるところがあるのかもしれない。


俳優に関しては、トム・ヒドルストン、最初のほうでは、かっこいい男だと思っていたが、もう少し活躍あるいは存在感を大きくしてほしかったが、次回作にコング対ゴジラ(とはいえ両者が協力して巨大生物群と戦うのかもしれない。どちらも守護神なのだから)に期待か。ブリー・ラーソンは子供を育てているよりも、走り回っているほうがよく似合う。『ショート・ターム』からみている彼女(正確には『スコット・ピリグラム…』から見ているはずだが、どこに出ていたのか記憶がない)に、この映画で出会えるのはうれしい。と同時に、コングが人間の女性に恋するあるいは助けるというコング映画の定番を実現するために、彼女が登場していたこともわかる。


ただ存在感といえば。やはりミュエル・ジャックソンで、彼が、全部、もっていっていて、ヒドルストンも、ラーソンも、ジョン・グッドマンも影がうすくなっている。コングと全面対決するジャクソンは、人間でありながら、コングと同じくらいに巨大にみえる。ただしキャスティングは、なんともまずいというか、居心地の悪さを感ずる。なにしろ、この映画でのサミュエル・ジャクソンの悪役面とコングの顔は似ているのである。アフリカ系アメリカ人のことを「猿」扱いするという、絶対にあってはならない差別と、この映画は戯れているのではないかという心配がある(もちろん猿扱いされるのはアフリカ系アメリカ人だけではなくアジア系アメリカ人、あるいは日本人もそうである――「イエローモンキー」として)。最終的にコングは守護神であることがわかる。悪魔あるいは忌むべき存在では決してないのだが、その天敵に、スカル・クローラーではなく狂暴な軍人パッカード大佐/サミュエル・ジャクソンが居座るというのは、やはり居心地が悪い。差別的比喩がずっと漂っているので。ただ、アジアを侵略したアメリカ人の手先となった軍人への批判というのがあるとは思うのだが(注)。


あとヒコーキ・ファンとしてコメントを。修復不可能な問題点をひとつ。冒頭で、日本では「ムスタング」と伝統的に呼ばれてきた(つまりMustangの発音は「マスタング」のほうが原語に近い)第二次大戦中のアメリカ陸軍航空隊の戦闘機P-51が島の砂丘に墜落した姿がみえる。あろうことか、このP-51には、インヴェイジョン・ストライプスInvasion Stripesが映画かれている。これは白三本、黒二本の幅広い縦縞を胴体後部や主翼の付け根から真ん中あたりまでの上下面に描いたもので、連合軍機(米軍機や英軍機、とりわけ戦闘機や軽爆撃機)に敵味方識別用に描いたもの。ノルマンディー上陸作戦からそれ以後に使われたのだが、1944年末までには消去されたとのこと。そして重要なことは、これはヨーロッパ戦域で使われたのであって、太平洋戦域では使われていなかった。したがってこの映画のなかでP-51にインヴェイジョン・ストライプスが描かれているのはおかしい。まあ白黒の幅広い縦じまというのは、派手で、目立つので、プラモデルなどでは模型映えする塗装例に選ばれることが多いし、ストライプがデカールで提供さえることも多いので、そこから、ストライプがあるものと勝手に思い込んでつけてしまったのかもしれない。もうこれは修復不可能なミスである。


修復可能なミスとしては、ジョン・ライリーが自分の所属していた部隊をアメリカ陸軍航空隊のPursuit Squadronと言うのだが(部隊番号を忘れた)、あろうことか字幕はこれを「追跡飛行隊」と訳しているのだ。「追跡?」。何を追跡するのだ。


Pursuitは英和辞典にも書いてあると思うのだが「追撃」ということ。第2次大戦中(まあ、それ以前から)、アメリカ陸軍航空隊(空軍ができるのは戦後)では、いわゆる戦闘機のことをPursuiter「追撃機」と呼んでいた。真珠湾で日本海軍機とわたりあった米軍のP-40、山本五十六元帥搭乗の一式陸攻を撃墜したP-38、ターボチャージャーをもつ巨大なP-47、そしてP-51ムスタング、これらについているPPursuiterの頭文字のPである。戦後ほどなくして米軍航空機の命名法がかわり空軍、海軍ともに戦闘機はFighterと呼び、呼称もF…となった。だから、Pursuit Squadronは「追撃飛行隊」か、もしくは、それではわかりにくいので「戦闘飛行隊」と訳せば問題ないのであって、「追跡飛行隊」というのは最低の訳あるいは誤訳である。字幕を訂正すべきである。


注:テレビの予告編などで、泣き顔の黒人兵士の顔がクローズアップされるのだが、あれは怪獣に翻弄されて怖くて泣いているのではない。さすがにアメリカ軍兵士は、そんなへたれではない。あれは、仲間の兵士が、怪獣の攻撃を食い止めようとして、自爆覚悟で怪獣に立ち向かうとき、それをやめさせようと、涙ながらに必死に懇願するときの、兵士の顔である。


だが、手りゅう弾の信管を抜いてまちかまえている人間の自爆攻撃意図を見ぬいたかのように、怪獣(スカルクローラー)は、人間を食べるのではなく、巨大な尻尾でふりはらう。兵士は飛ばされ断崖に激突してそこで大爆発。自爆して仲間を助けるという英雄行為が、ただの無駄死にで終わる。ここに、なにやら軍隊に対する批判めいたものがかいまみえるように思うのは、私だけだろうが。



posted by ohashi at 12:25| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年03月27日

『あなたの人生の物語』

テッド・チャンのSF中編あるいは短篇「あなたの人生の物語」’Stories of Your Life’がドゥニ・ヴェルヌ―ヴ監督によって映画化された。原題 Arrival 。日本語タイトル『メッセージ』。


まあ私はSFの研究者でも、またファンといえるほどの者でもなくなっているが、テッド・チャンの短編集の翻訳『あなたの人生の物語』は、2003年書店でみつけて購入、最初のバベルの塔の話を読んだ。天上目指して上に登っていったら下に出たという話(ネタバレだったのかもしれないのでお詫び)。まあ、こんなもんかと思って、その後の作品を読まなかった。


今回映画化されたと知って、あわてて文庫本を引っ張り出したといいたいのだが、文庫本はどこにいったかわからなくなった、そのため新たに購入した。金持ちといわれてもこまる。960円の文庫本だから。しかし、いま、あらたに文庫本を買いなおすというのは、珍しいのかもしれない。それも変わり者の。一般読者、学生問わず、本などめったに買わないなだろうから。一度買った本をもう一度買うというのは大学の教員くらいだろうから。


「あなたの人生の物語」を読んでみたら、たしかにとんでもない傑作で、しかもSFSの部分が、言語学とかコミュニケーション論であるので、私にもなんとか理解できる。最近のハードSFでは、どんなに想像力をはたらかせても、イメージすらわかないものがあって、自分の科学知識のなさに唖然としたことがあるが、これはハードなSFではないし、Sの部分が、どちらかというと人文知に近い。また謎の異星人との接触とコミュニケーションと同時に、あなたの人生の物語――女性の主人公とその娘の、こじらせ要素が強い物語――が未来完了形のようなかたちで語れるという二段構えの構成もよくできている。


実際、最近の私の関心は、アダプテーションと言語行為なのだが、アダプテーション関係の論文「未来への帰還」についても最新版を完成したばかりだし、また言語の遂行性とか言語ゲームといった問題を考え続けていたので、この作品から多くのヒントを得ることができた。もっと早く読んでおけば、論文「未来への帰還」にとりこめたはずだが。「バビロンの塔」だけで終わらずに、先を読むべきだった。またバビロンの塔については上に行ったら下にでたというのは、「あなたの人生の物語」にも適用できる現象だし、私のアダプテーション論というのも、未来にある到達点が出発点であり帰還であるという「未来への帰還」という同じ現象であって、アダプテーションを考えるとき、メビウスの輪のような構造を念頭に置くのだが、これは私自身、テッド・チャンの作品から影響を受けていたからかもしれない。


ただし「あなたの人生の物語」は面白い作品なのだが、これをSF映画にするというのは可能なのか。ドゥニ・ヴェルヌ―ヴの監督の映画は『灼熱の魂』は、もともと戯曲の映画化だが、もとの戯曲は日本でも翻訳上演されて評判になった作品である。『プリズナー』はローガン/ウルヴァリンでは満足できなかったヒュージャックマン・ファンに歓迎されたし、『複製された男』は結局何だったのかよくわからなかった映画だが、不条理な世界がなんとも不気味でよかった。ただ、残念ながら、この映画で、この監督は終わったなと思ったが、終わっていなかった。つづく『ボーダーライン』では、『オール・ユー・ニード・イズ・キル』で、男っぽい役を得て魅力を増したエミリー・ブラントが女性捜査官として、その男っぽい魅了を継続するのかと思ったら、男に利用されるだけでの、バカ女の役で、これはひどい。ほかの点では不気味でグロくて、また不穏な世界ゆえに『ボーダーライン』は評価が高いのだが、エミリー・ブラントの魅力を殺したので、この監督には、これで終わってくれと思っていた。ところが今回の大作SF映画のようだ。


原作を読めばわかるのだが、この内容のSFSF映画にすることは、ちょっと無理ではないだろうか。まあ勝手にいじくりまわして、盛りに盛って、スペクタクル巨編にするのだろう。よくできたSF作品を勝手に別物に変えてほしくない。ストロガツキー兄弟の『神様はつらい』から、『神々のたそがれ』(日本で勝手につけたタイトルだが)という、わけのわからないグロテスクなSF映画というよりもファンタジー映画をつくったアレクセイ・ゲルマンの作品みたいなことになるのではないか。ゲルマンの作品は、結局、不条理なまでのグロテスクさで評価が高いのだが、誰も原作を読んでいないから、暢気に褒めていられるのであって、いくら、私がアダプテーションを評価する立場にあるとはいえ、原作のもつ社会批判性をまったくそぎ落としたグロテスク映画には正直うんざりした。だいたい、あれほど唾を吐く映画というのは空前絶後だろう。たぶん、それと同じようなことがドゥニ・ヴェルヌ―ヴ監督の今度の映画にも言えると思う――また見ていないし、観るつもりもないが。


posted by ohashi at 06:28| 文学 | 更新情報をチェックする

2017年03月26日

『パッセンジャー』


結論から先に言えば、この映画を解くカギは『シャイニング』と『タイタニック』である。‘You die, I die’は『タイタニック』の‘You jump, I jump’を踏まえている。そしてアンドロイドのバーテンダーであるアーサーがいるバーは、『シャイニング』の不気味なバーをほうふつとさせる。だがホラーの設定であってホラーではない。悲劇的カタストロフにみえて、そうでもない。そこが面白いところである。


アントワン・フークワ監督の『マグニフィセント・セヴン』(2016、荒野の七人のリメイク)で壮絶な自爆をした(比喩ではなく文字通り)クリス・プラットとジェニファー・ローレンス共演のSF映画だが、困難な状況のなか煉獄を楽園に変え消えて行ったところの、最初は不幸な、最後は幸福な二人の男女の人生というSFロマンス。


まあ意地悪な突っ込みを入れれば、やまのように入れられないこともないが、それらを好意的に解釈すれば、心地よいエンターテインメント映画の秀作なのかもしれない。


たとえば光速の50パーセントのスピードで航行している宇宙船が、流星群か小惑星群に突入するとき、スローモーション撮影をしているわけでもないのに、あんなゆっくりした衝突はありえないということもできる。もし正面衝突ならエネルギー・シールドを調整して展開している暇などないし、それを簡単に突き破ることもできるだろう。ただ、流星群と宇宙船とは同じ方向にほぼ同じスピードで移動しているとなれば、宇宙船が追い付いてぶつかることになり、それならば、ゆっくりした衝突になるから、まあ、いいかということにもなる(IMBの記述)。


すでに死んでいるかもしれないジム/クリス・プラットの体をジェニファー・ローレンスがかつぎあげで医療ポッドに寝かせるというのは船内が無重力状態でもないかぎり、ありえない。まあ火事場のバカ力ということで、すんでしまうのだろうか。


あるいはこの宇宙船は回転することで重力を得ている――キューブリックの『2001年』とのつながりも指摘されている――のだが、仮に故障して回転が止まっても、急に重量がなくなって無重力状態になることはない。それが映画のなかでは、オンとオフのスイッチがはいるかのように瞬時に重力が消えたり復活したりする。う~ん、これはどういっても説明できない。しかし無重力状態になるとプールの水がどうなるかについては、ほんとうかどうかわからないが、驚異的な映像をみることができる。それでよしとしてほしいのだが。


とはいえ5000人の乗客がいるのに、医療ポッドがひとつしかないというのは、医療ポッドに命令して冬眠できるのは一人しかできない(これは理解できる)ということであって、医療ポッドが一台しかないということにならないから、これをつっこむのは間違いだろう。


あるいは巨大恒星アルクトゥルスの重力を使って加速するスウィングバイのとき、恒星が窓から見えるというアナウンスが船内に流れるが、そもそもクルーも乗客も冬眠しているときに、この機械によるメッセージを録音している意味があるのかともいえる。しかし、これは乗客が二人、目覚めていて、船内で活動しているから、それにあわせて機械が判断してアナウンスを流したともいえる。


ここからわかること、さらにいえることは、二人が、この巨大宇宙船を貸し切っている、独占しているということだ。二人が、そこを自由な遊び場であり欲望を解放する楽天地としているのだ。だから二人のためだけにこの宇宙船は存在しているともいえる。そしてこの願望充足には意味があるともいえる。


またジム・プレストン/クリス・プラットが人口冬眠から目覚めたのは、一見、事故のようにみえて、実は、船内のコンピューターが、なんらかの意図をもって目覚めさせたというようなことかと思っていたが、実際、そのあたりが謎解きの醍醐味かと思っていたが、ネタバレをお詫びするしかないが、ただの事故であった。なんの陰謀もない。


All work and no play makes Jack a dull boy.

もし巨大な宇宙船のなかで一人だけ目覚めたら、孤独をまぎらすために、ただの暇つぶしとして船内をカートにのって動き回る。そして角を曲がると、双子の女の子の幽霊に出会う。ふたりはこちらをみている。これはホラーだ。


また孤独を紛らわすためにホテルいや宇宙船のバーに行くと、客が誰もいないバーに、バーテンダーがひとだけいる。彼に酒をだしてもらい、彼を話し相手にくだをまく。だが、このバーは、いったいどこにあるのか。ホテル内に実在しているのか、それとも私の頭のなかだけにあるのか。それともこのホテルが私を取り込むために創造した幻想あるいは妄想空間とそこに居座る悪魔なのか。ホラーだ。


たしかにキューブリックの映画『シャイニング』をほうふつとさせる設定である。アンドロイドのバーテンダーとの会話は、なにか既視感があったのだが、『シャイニング』と言われて、まさにそのとおりだと思ったが、『シャイニング』との類似性は、それだけではない。


雪に閉じ込められたシーズンオフのホテルで冬を過ごすときに、ホテルに宿る悪霊がじわじわと精神をむしばんでくるのと同じ状況のなかに、この無人ともいえる巨大宇宙船で目覚めた男は陥る。しかしホラーにはならない。まあ未来の宇宙船そのものに霊性や幽霊はまったく似合わない。危険なのはホテル、いや宇宙船ではなく、宇宙船をとりまく宇宙空間であってみれば、宇宙船内は乗客を守ってくれる安全圏というか避難空間であって、そこに不気味なものはない。


マイケル・シーン扮するアンドロイドのバーテンダーは、愛嬌はあって、人間味はあっても、キューブリック映画のような不気味さはない。ホテルに悪霊が宿るというのは怖いが、巨大宇宙船をコンピューターが動かしているというと何も怖くない。ホテルが悪魔あやつってバーテンダーをやらせている問いのは怖いが、船内のコンピューターが、アンドロイドのバーテンダーをコントロールしているというのは、まったく怖くない。だからホラーの設定であって、おかしくないのだが、ホラーにはまったくならないのである。ホラー設定をSF設定に直したら恐怖と魔力が消えてしまったといいてもいい。


もちろんジム/クリス・プラットは、オーロラ/ジェニファー・ローレンスを無理やり目覚めさせてパートナーとしたのは、オーロラ自身があとで述べているように、彼女の人生を奪う殺人に等しい暴挙である。彼女の目覚めは偶然でもなければ事故でもなく、ジム/クリス・プラットが彼女に惚れ込んで人口冬眠を解除したのである。そのことを後で知った彼女が激怒して、彼と絶交状態になるのだが、しかし宇宙船の危機的状態を脱するために二人して協力するなかで、以前よりもまして愛し合うようになる。


だが、彼女を目覚めさせたのは、溺れる男はわらをもつかまんとして、パートナーとなる女性を違法であることを承知のうえで、まよいにまよって目覚めさせたということであっても、絶対に安易に許せるものではないだろう。実際のところ、これはレイプに近い犯罪行為である。そしてレイプされた女性が、いつしかレイプした男を本気で恋するようになる、実に不愉快な男性中心主義的な願望が目に見えている。この点で、この映画は基本的にダメである。あるいはこの点は決してゆるがせにできる者ではないだろう。


ただ、同時に、この方向に進まないように映画は工夫もしている。それは女性の名前を『眠れる森の美女』と同じオーロラにし、彼女を目覚めさせるジム/クリス・プラットを白馬に乗った王子さまというようなおとぎ話的世界を重ね合わせてレイプ衝撃を和らげているだけではない。『シャイニング』につづく、もうひとつの映画『タイタニック』との類似もまた、このレイプ衝撃を和らげるはたらきがある。


You Jump,  I Jump.

ジム/クリス・プラットは目覚めた後、船内の食堂で、自動販売機のようなものから食事をだすのだが、いわゆる三等客室の乗客である彼には、口にできる飲食物に限りがある。最初は、観ていてあまり気にならなかったが、オーロラ/ジェニファー・ローレンスが一等船室の乗客で、彼女には、部屋とか食事などで特権が付与されていることがわかる。すると、これは三等客の男性(技術者・手先が器用で小物やアクセサリーをつくる才能があり芸術家気質ももっているようだ)と一等客の女性(作家)との恋なのだとわかる。そう、そうなるとこれは労働者階級の男性(デカプリオ)と上流階級の女性(ケイト・ウィンスレット)との恋。まさに『タイタニック』の世界である。


You Jump, I Jump.

実際のところ、隕石か流星とぶつかって船体に穴が開いて、そこから宇宙船の崩壊が始まるという設定は、氷山とぶつかって船体を損傷して、やがて沈没したタイタニック号の運命をほうふつとさせる。また宇宙船の乗組員たちも人口冬眠に入っていて、船体に穴が開いていることを全く知らないのだが、これは氷山との衝突のダメージを正しく認識せずに対処しなかったタイタニック号の乗組員たちに対する批判的風刺であろう。


宇宙空間で、この宇宙船は壊れかかるのだが、これを映画のなかでは沈没船にたとえているのである。宇宙空間で沈没することはないが、沈没船の比喩は、なにか腑に落ちるものがある。そしてこれはこの映画が、『タイタニック』と同じ労働者階級の男と上流階級のお嬢様との恋であることを明確に印象づけるのだ。もちろん『タイタニック』と異なり、この映画でアヴァロン号(宇宙船の名前)は壊れることもなく(沈むこともなく)、元通りの航行をつづけることになるのだが、しかし、ジム/クリス・プラットは自らを犠牲にしてオーロラ/ジェニファー・ローレンスを救おうとするのである。ちょうどケイト・ウィンスレットを救命ボートに乗せ、みずからは凍てつく海に沈んでいくデカプリオのように、彼もまた、宇宙空間で凍ったあと、救命ボートならぬ医療ポッドに彼女を乗せて救おうとするのだ。


最後の場面群は、彼女をポッドに入れて人口冬眠させたジム/クリス・プラットの脳内の妄想という可能性もないわけではないだろう。しかし、そうではなく二人で生きることを選択したとしたら、どうなるのか。結果は同じだである。この宇宙船は、彼らが自由に遊べる楽園となる。願望の全面的な解放と充足の場として宇宙船は存在する。世界が二人だけのためにあったら、どんなに素晴らしいことか。そしてこの荒唐無稽な願望は、宇宙船が二人のためだけにあることになって実現し充足される。事実、彼ら二人は、もう好き放題に宇宙船で遊びまくり、利用しつくした。彼らは、宇宙船を、木々が茂り花が咲き乱れ鳥や昆虫が飛ぶ、まさにエデンの園のような楽園にしてしまうのだ。貴重な生物種を冬眠状態から解除して宇宙船の空間の中に解き放つである。彼らにとって入植活動など関係ないのだから。


All work and no play makes Jack a dull boy.

クルーや乗客が目が覚めたときには、二人が残した楽園が存続し、目覚めた人たちは驚くことになる。これはまた彼らが二人が、この宇宙船を自由な遊び場に変えたと同時に、彼らが最終的に宇宙船に呑み込まれたということも意味している。映画『シャイニング』の終わり、ホテルのボールルームの壁にかけてある写真のなかに、管理人だったジャック・ニコルソンの姿がみえる。彼は発狂してホテルに宿る悪霊の世界に拉致されそこに取り込まれたということだろう。同じくジムとオーロラの二人も、このアヴァロン号のなかに取り込まれ消えたのである。本来ならホラー的結末なのだが、この映画のなかでは幸福な結末となっているというちがいはあるのだが。


付記:エンドクレジットのなかに、アンディ・ガルシアの名が見えて驚いた。クリス・プラットとジェニファー・ローレンス、そしてバーテンダーのマイケル・シーンのほか、あとからローレンス・フィッシュバーンが登場するが、この4名しか俳優はいない。いったいどこにと映画を振り返って、そうか最後に登場する宇宙船の船長がアンディ・ガルシアだったのだろうと推測した(あとで確かめたら、そうだった。登場時間、15秒!?)。それにしてもあれがアンディ・ガルシアだったのなら、90年先のアンディ・ガルシアを見ているようだった。老けた。

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2017年03月25日

『湯を沸かすほどの熱い愛』

たとえば学校で人気者になる。といっても数学コンテストで優勝しても、成績優秀でも人気者にはなれない。ヒーローになること。とりわけスポーツ分野で。スポーツ万能で、それなりに、すぐれた実績を残せば、クラスの学校中の人気者になれる。勉強なんかできなくても、あるいは勉強しなくても問題ない。クラスの仲間が、あるいは教師たちが、助けてくれるし、カンニングしても大目にみてくれる。卒業すれば引く手あまた。絶対によいところに就職できる。まじめにこつこつ勉強して、適当に良い成績をあげたところで、卒業後の進路が順風満帆ということはないだろう。頼まなくても助けてくれるということもないだろう。だから勉強するよりもスポーツに力を入れて、みんなのあこがれの的、人気者になること。そうすれば人生の成功は決まったようなものだ……。


こう考えた親が、あるいは父親が、自分の子供に勉強させないどころか、カンニングまで奨励して、気づくと子供が二人、成功者どころか落伍者になっていても、まったくおかしくない。独りよがり、身勝手な世界観で、教育したり行動したあげく、子どもをダメにするバカ親。まあ、これはアーサー・ミラーの『セールスマンの死』の世界だが、こういうバカ親は、いまでもいるかもしれないし、容易に批判の対象となる。だが、この逆のバカ親もけっこういるのだが、案外気づかれていない。


つまり逆に子供を「甘やかさない」親。たとえば「かわいい子には旅をさせよ」といっても、危険な地域とか遠距離を、しかも、まだ年端もゆかぬ幼い子に旅をさせるバカ親はいないだろう。もし苦労して一人で頑張ることがよいことだとしてもエジプトのカイロから、南アフリカまでアフリカ大陸を縦断する旅に、小学生の子どもをひとりで行かせる親がいたら、警察に、幼児虐待あるいは幼児殺害未遂で逮捕されてもおかしくないだろう。このときいくら親がしつけのためだと言っても自己弁護にならないだろう。テレビの「はじめてのおつかい」が問題になっているのは、まず子供一人(あるいは複数)だけで(たいてい現金をもって)買い物に行くことは、外国では考えられない危険なことであり、日本でも、その危険性は昔にくらべれば格段に高くなっている。テレビ番組では子どもの周囲に関係者を配置して、子どもの安全を確保しているが、もしあの番組をみて、親が、子どもに買い物をさせて子供を成長させようとか、感動しようとしたら、とんでもないバカ親である。「はじめてのおつかい」は人為的に演出され、安全を確保したうえで行なっているもので、「家庭では真似しないでください」という注意喚起を入れるべきか、あるいは最初からそれが前提となっているのである。


後者の事例は、子どもを甘やかすのではなく、むしろ厳しく接するものであって、前者にむけられるような、子どもを甘やかすことに対する無責任さへの非難は適用されない。しかし、後者の場合も、勝手な世界観で、子どもをしつけていると考えている無責任さは問われるべきであろう。幼児虐待をする者が、しつけでやっていたと言い訳することが多いのだが、案外、それはいいわけではなく、本気だったのかもしれない。もちろん、観念的な、限度をわきまえないしつけは、子どもを甘やかせることと同様、無責任な犯罪行為である。子どもを甘やかしても、りっぱに成長することはあるし、また子供への過度あるいは観念的な厳格さや虐待でも、それで子どもがりっぱに成長することはある。しかし、虐待を受けた子供がりっぱに成長する例があるからといって、虐待が許されることはないし。ことわざ通りに、千尋の谷に子供を突き落としたからといって殺人罪にとらわれないということはないのである。


独善的ということを、なぜ、こんなにくどくどと書いているのかというと、独善的にすぎないのに、自分が正しいと信じて疑わないバカ親が、けっこう多いからである。そして映画『湯を沸かすほどの熱い愛』を見たからである。ひとりよがりの世界観、独善的な人生観。勝手な思い込み。その観念性に、怒りの血が湯をわかすほど熱くなる。この監督の独善性(脚本も書いている)には、ほんとうにあきれる。最後にあんなことをしたら、せっかく営業再開した銭湯も、営業停止になることくらいは、誰にもわかるはずだ。


この映画の魅力は、もちろん宮沢りえの演技にあるのだろうが同時に子役がすごすぎる。子役恐るべし、こんな演技もできるのだと本当に圧倒される。それに比して、まあ勝手にやってろというところは、それはそれで問題ないのだが、いじめのところの、体育会系的なマッチョな乗りは百害あって一利なしと思えたので、どうしても触れておきたい。


自分の子どもがいじめられていたら、親はなぜ、子どもを休ませないのか。もちろん子どもを休ませたうえで、学校側に相談して対策をねる。ときには学校そのものを告発することになるかもしれない。だが、まず学校を休ませることである。そうしないと子どもがさらに傷つき、ときには殺される/自殺に追いやられかねない。実際、なぜ学校を聖域化するのだろう。そして学校を休ませることに、なぜ罪悪感を感ずるのだろう。子どもの命が危ないというのに。


こういうときに、いじめを撃退するために、あえていじめる側と対決して、いじめをやめさせる、そのためにも、いじめから、学校から逃げるのではなく、立ち向かう、こういう体育会系的ノリは、ほんとうに子供を殺すとしかいいようがない。確認しておきたいのは、子どもは勉強が嫌で、学校にいかないのではない。さぼりたい、家で楽をしたいから学校に行かないのではない。いじめられるから、学校に行くのが怖いのである。人間の尊厳と、さらには身体的な安全、命までもが脅かされ危険にさらされていて、誰も、いじめを根絶する努力もせず、観て見ぬふりをしているという、この限りない悪意に曝されることの苦しみと恐怖をやわらげるのは、逃げること、学校を休むことでしかない。一人に対して集団によって行使されるのがいじめである。暴走する象を前にして、それに立ち向かうのは愚行以外のなにものでもない。わきによける、暴走する機関車をよけることは当然の行為である、


ところが逃げるのが恥だと、嫌がる子供を学校に行かせる親がいる。悪意はないのだろう。愚かな独善性があるだけである。子どもをたくましく育てようという体育会系的な愚劣な価値観に基づく行為(誤解のないように体育会系が愚劣というのではなく、このような愚かな行為を肯定する価値観のことを愚劣といっている)が、子どもを死に追いやる。自分の子どもだ。観念的独善性に走るのではなく、もっとしっかり守れ。いじめの被害者は喧嘩に弱いのではない。それを逃げるのは恥だ、度胸をつけろ、喧嘩に強くなれという独善的な価値観に基づいて、子供を悪魔のただなかに放つ。いじめ怖さは、度胸をつけて喧嘩に強くなるか啖呵を切れればそれで終わるような、生易しいものではない。またいじめの陰湿さを肌で感じているがゆえに、子供は学校に行くのを嫌がるのであって、勉強が嫌だというわけではない。さぼりたいわけでもない。体育会系的発想の愚劣さは、困難に直面しても、心根ひとつで空も飛べる本気で信じていることだ。比喩として、心構えとしてなら、それもいい。あるいはドラマとかアニメの世界での出来事なら、それでもいい。問題は、現実においてそれが通用すると思っている愚劣さなのである。


この映画で、許せないのは、いじめにあった子供に対して、根本的理由を解決しようともせず、告発することもなく、度胸をつけ、けんかに強くなれば、いじめから解放されると本気で思っているようなバカなシナリオである。そして、それが愚行ではなく正しい行為であるかのように思い込んでいる愚劣な独善性である。この映画には愚行録とサブタイトルをつけるべきだろう。『愚行録』というタイトルの映画は愚行とは無縁である。真の愚行は、みずからの愚行を意識していないこと、独善的であることなのだから。


なおこの映画で、いじめられている娘(用心棒の木村拓哉に守られる役の杉咲花が演じている)を、むりやり学校に母親/宮沢りえが行かせるのは、余命いくばくもない母親が、自分の死後も娘がなのたくましく生きることができるようにと、根性をつけさせるための試練なのだろう。物語の世界であって、家庭では真似をしないようにとしかいいようがない。杉咲花は下着姿になっていじめをやめさせるのだが、それは、この子はヒステリックで危ない子だから、いじめをつづけると死んだりして自分たちが危ないといじめる側がおそれるということになっているが、結局、それは喧嘩に強くなるとか度胸をつけることとはちがう(杉咲花にとって、下着一枚の姿になるのは度胸のいることとはいえ)。にもかかわらず、杉咲は、自分も母親のDNAを受け継いだと誇らしげに語るのだが、映画の中の設定では、宮沢りえと杉咲は、実の親子ではない。ほんとうの母親は別にいることになっている。これってなんなのか? 異化効果でも狙っているのだろうか。愚行映画である(娘が、血のつながった娘ではないので、逆に、必要以上に愛情を注ぎ、またたくましく育てようとする宮沢りえ側のあせりみたいなのもあるのかもしれないが、それにしてもいじめを告発しない、このバカ母親は、いじめの加害者あるいは学校、教育委員会にとっては理想的な母親であり、いじめ被害者の娘にとっては最悪の母である)。


あるいは人間ピラミッド。人数は多くないから、そんなに大きなピラミッドではないし、危険性はないのだろうが、組体操の人間ピラミッドは、事故も多く、危険であることが近年指摘されていて、好ましいものではない。それをあえてしようとするのは、まず発想が体育会系。いや、この発想、ほんとうに気恥ずかしくなる、中学生の発想だろう。家庭で学校で真似をしてはいけないことを、なぜしようとする。愚行映画である。


なお最近、雪崩にまきこまれて高校生が死亡するというい痛ましい事件が報じられている。原因は、よくわからない。複合原因による重層決定によって起こった事件だろうから、簡単に原因を究明できず、責任も問えないと思う。確かな証拠はないのだが、これが体育会系的発想の愚行ではないかという心配はある。


危険な雪崩情報を無視したとか、そもそも情報が伝わっていなかったのか、指導者たちの判断ミスだとか、いろいろなことがいわれているが、体育会的発想では、情報があろうがなかろうが、雪崩の危険性があろうがなかろうが、心根ひとつで、根性させあれば、気力だけで、雪崩など簡単に克服できると、そう考えるのである。


逃げるは恥だ。雪崩など怖くない。心根ひとつで、雪崩など怖くない。高校生を指導した大人たちが、そのような愚行的発想に染まっていなかったことを祈るばかりである。


心根ひとつで空も飛べるというのは、アニメの世界での話だ。

posted by ohashi at 10:55| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年03月24日

卒業生へ

贈る言葉

324日は学部卒業式があった。卒業証書そのものは、各専修課程で研究室に卒業生を集めて手渡すことになっている。無事、手渡し終わったら、卒業を祝して、簡単なスピーチをして全員で乾杯をする。一応、専修課程主任がスピーチをすることになっている。今年度の主任は私なので、私がスピーチをすることになった。以下は、そのときの話した内容の理想形態を収録する。理想形というのは、こんなにきちんとは話すことができなかったからである。実際には、私のたどたどしいスピーチを卒業生諸君は聞くことになったのだが、ここでは、省略したり言い残したりしたことを再現することにするので、実際のスピーチとは異なるが、主旨は同じである。まあ、参考までに。


卒業おめでとうございます。

本日は、天気もよく、みなさんの新しい門出が、天も祝福しているかのようです。


話しは簡単にすませます。


実は、昨日、大学院の修了式のあと、夜、シアターカンパニー・カクシンハンの『夏の夜の夢』の公演を見に行ってきました(ここで公演のチラシを掲げて見せる)。


シアターカンパニー・カクシンハンは、私も授業で見に行くことを推奨している劇団ですが、皆さんの先輩でもある木村龍之介氏がたちあげたもので、公演の演出構成も木村氏が行なっています(注1)。公演そのものは、いつものようにパワフルでエキサイティング、そして斬新なアイデアによる翻案でありながら、シェイクスピアの台詞のよさもきちんと押さえているという魅力的な演劇空間を出現させるものです。劇団公演は、洗練の度を加えながらも破天荒な実験も忘れず、いまなお独自の進化を止めることはありません。


本日、卒業を迎える皆さんのなかには、学生の時代は、こうした芝居も見に行ったが、それも今日で卒業かと思っている人もいるかもしれません。「卒業」には、なんらかの教育課程とか教育機関において目的とか成果を達成して去る、あるいは修了するという意味だけでなく、なにかに区切りをつけるという意味もあります。ずるずると以前の状態をひきずるのではなく、きっぱりと縁を切ることも重要ですが、しかし、演劇や映画をみたりすること、あるいは小説や詩を読むこと、こうした皆さんが学生時代におこなってきた活動については、つまり文学部を卒業しても、文学は卒業しないでください。


もちろんこれからは仕事が忙しくて、小説など読んでいる暇はないかもしれません。あるいは仕事が面白くて小説には興味をしめすこともない、そんな状態になるかもしれません。それはよいことで、暇をもてあまして、毎日小説ばかり読んでいるという生活は、望ましいものではないでしょうし、皆さんが、そんなふうにならないことを祈っています。


ですから、あくまでも無理をせず、たまたま時間ができたというような時、限定なのですが、そんなときには、小説を読み、詩を読み、映画館をのぞき、劇場(大・中・小劇場)に足をはこんでみてはどうでしょうか。


文学や演劇・映画などは、皆さんの仕事には、直接役に立つということはないでしょう。文学は気晴らしに気分転換になるかもしれないと考えるかもしれませんが、それもありますが、それだけではありません。文学のなかには、皆さんの仕事に直接役にたたなくても、同時に、仕事に役立ちそうなヒントがほんとうにたくさんあります。また困難な時代に立ち向かう勇気なり洞察なり示唆を与えてくれるのも文学です。皆さんが集中している仕事からは得られない知見が、文学をとおして訪れる可能性は高いのです。


ですから、文学部を卒業しても、英語を卒業しても、文学だけは卒業しないでください(注2)。そうすることで、皆さんの生活を豊かにするだけでなく、才能豊かな皆さんの仕事の独創性や創造性を高めることになると私は確信しています。文学部は卒業しても、文学は卒業しない。このことを皆さんへの贈る言葉としたいと思います。


あらためて卒業、おめでとうございます。


注1         シアターカンパニー・カクシンハンの創始者にして演出家である木村龍之介氏がカクシンハンの裏の顔(演出家として表舞台というか舞台に出ないから裏の顔であって、否定的な意味はない)だとすると表の顔のひとりは、いまや、岩崎Mark雄大氏ともいえるのだが、岩崎氏も、英文の卒業生である。

注2         実は、このところで私は、理由なくあせったのか、混乱した言い方をした。本来なら卒業しても、英語の勉強は続けてほしいというべきなのだが、文学部を卒業しても英語と文学は卒業しないでほしいというのは、ちょっと言い方として弱いと思っていた。それもあって、実際には「文学部は卒業しても、英語学は卒業しても、文学は卒業しないでほしい」と混乱した言い方をした。「英語は卒業しないで」とういべきところ「英語学は卒業しても」とわけのわからないことになった。しかしフロイトやラカンではないが、言い間違いというのは真実の声である。たぶん英文の卒業生の99%は英語学を卒業できて、せいせいしていることは間違いないことなので。では、なぜせいせいしているのか。詳しい事情は4月上旬までに書く。

posted by ohashi at 23:33| コメント | 更新情報をチェックする

2017年03月23日

『夏の夜の夢』

Theater Company カクシンハン公演(於 シアター風姿花伝)


以前新宿のSPACE雑遊でのカクシンハン版『夏の夜の夢』公演を見たことがあって、それは面白いというか刺激的な公演であったのだが、狭いスペースを前後に二つのステージを設け、その間を花道のような通路で結ぶかたちで演劇空間をつくっていて、どの座席でも全体を見渡すことができたのだが、そのぶんどこに座ってよいかわからなくて困ったこともあったが、グロテスクなまでの戯画化(妖精の王オベロンとタイテーニアとの争いを歌舞伎町二丁目のゲイ世界における対立に見立てていたのは何とも面白かったのだが)、と『夏の夜の夢』の台詞の魅力(シェイクスピアの台詞のみごとさに感心したし、それと同時に松岡訳の美しさにも感銘をうけた)にも感動したことを覚えている。


まあシェイクスピアの『夏の夜の夢』というのは、どんな劇団がやっても笑いがとれる楽しい芝居かと思っていたのだが、同じSPACE雑遊で、別の劇団が『夏の夜の夢』を上演したのを昨年だったか見たことがあるが、シェイクスピアの台詞は丁寧にしゃべっていて、それは見事だったのだが、誰も、くすりとも笑わない、まったく冷えきった舞台で、カクシンハンの舞台に一日の長があることを納得したという思い出もある。


今回のカクシンハン版『夏の夜の夢』は、前回とはまったく違うアレンジで、風姿花伝での『ヘンリー六世』『リチャード三世』のときと同様、ユージ・レッレ・カワグチのドラムによって進行する形式。ただ今回はポケット版と銘打って、シェイクスピア作品を大胆にアレンジしている。


シェイクスピアの『夏の夜の夢』では、アテネの大公とアマゾンの妻との婚礼と、アテネの恋人たちの森での逃避行、そして森では妖精王と王妃とのいさかいがあり、またアテネの恋人たちの逃避行に妖精王とトリックスター的パックが介入することによって生ずる混乱。そしてアテネの大公の婚礼を祝して余興の芝居を上演しようと森で練習するアテネの職人たちという、多層構造になっている。アテネの職人たちは、世にも面白い悲劇だったか世にも悲しい喜劇だったか忘れたが、『ピラマスとシスビー』という芝居の上演にむけて準備するものの、婚礼の席での本番の上演では、みるもむざんなドタバタ劇しか上演できなくなるのだが、カクシンハン版では、全身タイツに身を包んで顔すらわからない得体のしれない存在たちが、全員ボトムという名で、彼らが大公の婚礼の場での余興の芝居を準備する。ところがその余興の芝居というのが、なんと『夏の夜の夢』のアテネの恋人達と妖精王の物語の部分、まあ『夏の夜の夢』そのものなのである。


これは驚きである。シェイクスピア版では職人たちが『ピラマスとシスビー』の悲劇を、捧腹絶倒のドタバタ道化劇に変えてしまうのだが、カクシンハン版では、シェイクスピアの『夏の夜の夢』そのものを、完璧なドタバタ劇、グラン・ギニョール的カオス劇に変えてしまうのである。もちろん、これはただの思いつきではないだろう。シェイクスピアの『夏の夜の夢』において悲劇をドタバタ劇にしてしまう職人たちのパフォーマンスは、アテネの恋人たちが夜の森でくりひろげた狂乱を道化劇としてみる視点を提供しているからである。カクシンハン版のアレンジは、原作にすべて、その根をもっているということだろう。


シェイクスピアの『夏の夜の夢』における最後の劇中劇(職人たちが演ずる余興の劇)を臭い演出をすると、職人たちのドタバタ劇は、とても感情移入できるようなしろものではないのだが、それでもピラマスとシスビーの悲劇(実は、同じ時期にシェイクスピアが書いていた『ロミオとジュリエット』と趣向あるいは悲劇性は同じなのだが)をまえにして観客が登場人物に思わず同情するということになる。どんなに無残な道化芝居でも、人を感動させたり、涙ぐませたりする――というような演出である。シェイクスピアの『夏の夜の夢』本体をスラップスティック化すべく立ち上げられたカクシンハン版『夏の夜の夢』では、そのよう演出はしない。そのような臭い仕掛けほど、カクシンハン版に似合わないことはないだろう。


また職人たちの余興の芝居をなくしたこと。余興の芝居は、作品の中の職人たちが、作中にこしらえるのではなく、作品そのものが、そのような余興の芝居となったことから、裏地が表に出るような、内と外とが逆転するようなことになり、余興の芝居を上演する劇中劇の場面がなくなることになった。最後の第5幕が、まるごとなくなってしまうのである。まあ、それでもいいのだが、カクシンハン版では、この消えた第5幕に、一夜の幻であるかのような夢の場面もってくる。いや、正確にいえば、夢でもあるし、パラレルワールドあるいは可能世界でもあるし、また現実の、私たちの〈いまとここ〉でもあるものを、介入させ、広くは現代の世界史の問題含みのありようを、幻燈のように回転・点滅させることになった。つかの間の夢のような、悪夢のような、いまの私たちの世界。この作品は一夜の夢かもしれないが、今の現実もまた一夜の夢あるいは悪夢かもしれない。それも目覚めるのに時間がかかりそうな。


上演は26日までで(これを書いている時点では、上演は終了している)、その魅力を、私の稚拙な文章では伝えることはできないが、シアター風姿花伝、あるいはそれに類する演劇空間での公演もつづくこと、あるいは前回の『マクベス』のように東京芸術劇場のシアター・イースト(ウェストだったのかもしれないが)という、風姿花伝にくらべれば大劇場での公演と並行することで劇団の可能性がますますひろがるとともに、私たちの楽しみと驚きも終わらないことを期待したい。


追記1 舞台に出てくることはない演出家なので「裏の顔」といえる演出の木村龍之介氏に対し、表の顔というか看板ともいえるのは河内大和であったり真以美であったりする(もちろん他にもお馴染みの優れた俳優たちがいるのだが、所属は他の劇団なので、あえて、そういう出演者をはぶくとの話だが)。


最近の公演では、岩崎MARK雄大氏が、いまやカクシンハンの顔のひとつにもなったことは、実に、うれしいことだと思う。カクシンハンの芝居に出演しはじめた当初、上から目線で恐縮だが、彼は見栄えはものすごくいいのだが、声が、ちょっと軽いような、そこに魅力を感じないようなところがあって、それがすごく残念だった。しかし、いつのころか発声を換えて、重厚な深い発声をするようになり、彼の演技の質そのものも飛躍的に向上した(誤解のないように言えば、もちろんそれまでの彼の演技の質が低いということは絶対になく、演技の幅が驚くほど広がったということだが)。またバイリンガルでもある彼が達者な英語を駆使しはじめたということもあって、いまや彼はカクシンハンの次世代エースというよりも、すでにエースとなった観がある。ありきたりな評言だが、しかし真摯な思いとして、今後のさらなる活躍を期待したい。


追記2 ポケット版について

昨年はシェイクスピアの大きな芝居を少人数でする演劇(カクシンハン的にいえば「ポケット版」)を三つくらいみた。ひとつは英国からやってきた劇団の『テンペスト』と英国からやってきた学生劇団の『ロミオとジュリエット』。あと野村萬斎演出・主演の『マクベス』。

いずれも限られた人数で芝居をする。『テンペスト』では56人ですべてを演じきったし、野村萬斎版『マクベス』は、マクベス夫妻と三人の魔女役の男優3人の計5人で演ずるのである。こうした「ポケット版」の場合、どうしても小粒になるのはやむをえないし、また一人で何役もするので、観ている側が混乱することもあり、また原作を改変したり省略することも多くなる。


昨年みた英国の劇団の『テンペスト』では、もともとこじんまりとした芝居だから6人ぐらいでできるのだろうと思っていたが、実際には、多くの登場人物のいる大きな芝居で、とても6人ではできないことをあらためて知った。また6人でするのだから、地方を回ることができる。実際、それで全世界をまわっているのだが、ただ、どこでもできるぶん、なにか芝居がシャビーになってしまい、みていてそんなに面白いものではない。


昨年の『テンペスト』は、公会堂以外にもいろいろな大学で上演して、個人的には学習院女子大学での公演をみることができたのだが、そこで得たパンフレット(パンフレットには基本情報以外に、各大学や会場で、独自の追加記事・エッセイ・情報をなどを載せることができる)のなかで、古庄教授の、すぐれたコメントには目を見張った。上演について、私の気づかなかった特徴を鋭く肯定的に指摘したエッセイで、それはそれで説得力があったが、にもかかわらず、全体の印象は、本番の舞台ではなく稽古場での、仮の衣装あるいは私腹でのリハーサルをみているようなもので、どうしても不満が残る。


野村萬斎版『マクベス』も、この少人数で世界各国をまわっているようだが、マクベス夫妻と魔女役3人の計6人ですることに、意味はある。魔女とマクベスとが織りなす芝居であるから、この構成は鋭い洞察に基づく有意味なものである。だが納得できる構成だとしても、しかし、そのためにプロットの省略はやむをえなくなる。6人で、そのうち3人だけが、何役をこなすことになるのだが、限界はある。それでもシャビーに思わせないのは、和風の美を強調した視覚効果によって舞台が華やかに大きくなっているからだ。世田谷パブリックシアターで昨年見たのだが、大きな劇場にみあったスケール大きな視覚芸術ともなっていて、これは海外でも受けるだろうと予想できた。シャビー感はまったくない。ただこの野村萬斎版『マクベス』は、河合祥一郎訳を使っているのだが、河合訳『マクベス』で、このようなコンパクト・ポケット版だけではなく本格的な『マクベス』で見てみたいと思ったのは、私だけではないだろう。そこがポケット版の問題なのかもしれない。


昨年みたカクシンハン版の『じゃじゃ馬ならし』、『ヘンリー6世』『リチャード三世』は、どれもポケット版だったが、ひとり何役もやり、またプロットや台詞を省略しながら上演しても、シャビー感がないのは、大胆かつ繊細に、原作をアレンジしているからだろう。野村萬斎版のような視覚効果は狙えないとしても、内容と演技と演出・構成の巧みさ大胆さでシャビー感を完全に払拭している。私の周囲で聞いた感想では、『リチャード三世』は長い芝居で、また有名なので、ポケット版では物足らなかったという人もいた。しかし『ヘンリー六世』のほうは、『リチャード三世』以上に省略はあるのだが、なじみのない芝居でもあって、観た人からは原作との違いがわからない、ポケット版で十分に満足したという声がきこえてきた。『じゃじゃ馬ならし』(新宿ゴールデン街の入り口にある小劇場というかスタジオでの公演)は、私にとっては、きわめて衝撃的でまた満足できるものであって、少人数でもまったく違和感もシャビー感もなかった。


今回の『夏の夜の夢』は、たしかに大胆なアレンジが加わっているので、シェイクスピア作品を題材にした独自の作品といえなくもないが、それでもシェイクスピアらしさは、まったくそこなわれていないという離れ業・すご技の連続で圧倒された。ポケット版といっても、ただひとり何役もして、それが無理なら原作を省略してしまうという、まったく芸のないやり方のそれは、観ていて感動もない。やなり演者と演出家がすぐれていないと面白くない。その意味で、ポケット版というのは、演ずるほうの力量が問われる試みであり、そのぶん緊張感をもって舞台をみることができる、稀有な演劇体験であるとあらためて知った。カクシンハンの今後の試みを応援しまた期待し楽しみにしたい。


なお今回の上演に際しては、リラックスして、この芝居を楽しんでほしいということで、飲食物をロビーで販売し、場内に持ち込んでいいということだった。実はSPACE雑遊での公演のときでも、観客に飲み物を配っていたが、ディナーショーではないが、この『夏の夜の夢』公演にかぎっては、飲み食いしながら見るということを観劇体験の要としているのかもしれない。その意味も考えてみたいが、ただ、これは失敗ではないかという気もした。芝居がはじまると、どんどん攻めてくる舞台なので、観る側も、飲み食いしているような余裕などなくなるのだから。


posted by ohashi at 23:03| 演劇 | 更新情報をチェックする

2017年03月20日

『アイヒマンの後継者…』2

『アイヒマンの後継者、ミルグラム博士の恐るべき告発』2

アントン・フクワ監督の『マグニフィセント』(『荒野の七人』のリメイク)では、ラスボスとして存在感のある悪役として(つまりケチな悪役はよく演じていたのだが)登場し、デンゼル・ワシントンと対決したピーター・サースガード主演の映画。アイヒマンの後継者といのは、誰のことか、ミルグラム博士/サースガードのことかと思われるかもしれないが、そうではなく、このミルグラム博士というのは、ナチスに協力してアウシュヴィッツで人体実験をしたヨーゼフ・メンゲレみたいなマッドサイエンティストかと誤解されるかもしれないが、それもでなく、アイヒマンの後継者というのは、私たちのことである。ミルグラム博士は、私たち全員(あるいは私たちの65%以上)がアイヒマンの後継者になりうることを明らかにする心理実験をした実在した社会心理学者のことである。


この映画の唯一の短所をいえば、映画館でみなくても、テレビでみてもおかしくないような作り方をしていることである。ただ、それはよいことかもしれなくて、テレビでの放送をとおして、多くの人にみてもらうことは有意義だと思わるからである。


とりわけ日本人は第二次世界大戦中における大陸での残虐行為をねぐっているのだから、たとえ善良な一般市民でも残酷な悪魔に変貌をとげることが、この映画からもわかることは絶対にいいことだ。自分の状況によっては、残酷な悪魔にかわりうることを知っていることは、それに抵抗する力ともなるのに対し、日本人はそんな悪魔ではないという妄想にとらわれている人間は、逆に、無抵抗に悪魔になりうる可能性があるからだ。そもそも私たちの世代の父親は、日本では善良な一市民であっても、15年戦争中には、朝鮮半島や中国大陸で残虐行為をはたらいた可能性があるというか、まちがいなく残虐行為に手を染めていた。


私たちより以下の世代は、これまで一度も残虐行為に手を染めたことはなかったかもしれないが、私たちの親の世代は残虐行為を最後までやり遂げてきたのだ。他人ごとではない。ちなみに私の父親は戦争に行ってもよい年齢だったが、わけあって兵役にはついていない。抵抗したり、逃げたりしたら、父親を尊敬してもよかったのだが、尊敬も軽蔑もできない、一応、まともな理由で兵役を免除されたので、兵隊にはなっていない。


もちろん、ミリグラム実験というのは、有名な実験のようで、知らないのは、私だけかということにもなるのだが、そのミリグラム実験に、アイヒマン実験という別名があることから、今回の日本語タイトルになったかもしれない。ただし、このアイヒマン実験というのは、ミスリーディングで、アイヒマンが収容所でおこなった実験ということではない。善良な一般市民も環境や状況によってはアイヒマンに変わってしまう、つまりアイヒマン化が起きるかどうかを検証する実験なので、アイヒマン化実験というならわからないでもないが、アイヒマン実験ではわかりにくい。


ハンナ・アーレントはアイヒマンのような小市民的・小役人的人物がなぜホロコーストを行なえたのかについて、役所仕事における事務手続きで、人間が数字や記号に抽象化されたことで、生身の人間の命を奪うという感覚がなくなり、抽象的な事務処理となって、罪の意識も消えてしまうというようなことを考えたが、ミリグラムは、これを代理状態といって、ただ命令とマニュアルに従って事務手続きをするだけで、それによって自己の判断や責任を回避すると考えた。


この説に対しては、たとえばホロコーストに関係した者たちは、悪を根絶するというような正義と使命感に燃えて自ら志願して虐殺を行なった可能性があり、無垢な事務員ではないという反論がなされてきた。


まあ、間をとれば、たとえ善良な市民であっても、状況によっては悪魔化する、あるいは同じことだが正義の闘士に変わるということだ。寛容さを欠いた正義の追及は悪に反転することを私たちは忘れてはならないだろう。


この映画のよさは、ミリグラム博士の実験のありようを、丁寧に再現していることで、その実験の意味なり効果を観客に説明し観客に思考の糧をあたえてくれることである。この実験をフィクションをまじえてとりあげたテレビドラマ『レベル10』については、この映画のなかでも戯画化されて扱われているが、安易なアダプテーションでは実験の意味を取り違えたりする可能性がある。その意味でも、実験の実際と、その反響(批判もふくむ)をきちんと提示してくれるこの映画は、ミリグラム博士が観客に直接語りかけるという語りの形態とあいまって、知的な刺激を、深い内省の契機をふんだんに与えてくれる。


また時折、映画も、時折、背景が、古い映画のように、映写されることがある。いかにも古い映画ですといわんばかりに。背景が映写されたスクリーンなのだ。おそらくこれは語れる時代背景ということもあろうが、同時にまた、私たちの現実が、映画のなかの一場面、どのような重厚な現実でも虚構にすぎないことの暗示であろう。なぜ虚構なのか。それは、私たちの現実が、いうなれば、この映画の心理実験と同様に、作られたものであり、そのなかで私たちは、どのような反応を示すのか、神によって試されているという暗示だろう。この世界は、夢でも虚構でもなく、神による心理実験なのである、と。


実際、この映画のなかでも面白いシーンがある。ミリグリム博士が、ケネディ大統領暗殺のニュースもって、すでに同僚が授業中の教室にとびこんでくる。実際、大ニュースなので、いち早く、同僚や学生たちに伝えたいという気持ちなのだろう。ところが、学生たちは、また心理実験かと、ニュースを疑ってしまう。嘘じゃないから、ラジオで臨時ニュースを聞いてみろと博士が言うと、確かに、ラジオはニュースを伝えている。しかし学生はいうのだ、また、ラジオに手の込んだ仕掛けまでして実験をしようとは、と。


心理実験のしすぎで、学生たちには、現実が創られた虚構の状況にみえてしまうのである。そもそも心理実験は、人間の残虐性の証明だけではなく、一定の特殊な状況をこしらえて人間の反応をみるわけだから、現実と想定されるところの虚構は絶対に必要なのである。簡単に言えばどっきりカメラ(どっきりカメラそのものでも人間の心理的反応は観察できる)。


これは、現実を実験の場あるいは試練・試験の場として考えてしまうという弊害を生むが、それは弊害かもしれないが、同時に、神様にどうみられているのか、あるいは自分の真の姿は何であるのかを反省する契機ともなる。現実を実験場という名の虚構としてみることは、それなりに意味のあることとなる。


この点は、興味深く、また不快なところもある。今回のミリグラム実験は、興味深いこと、人間の本性をかいまみせてくれて深い洞察を得た気がした。このミリグラム実験は有名な実験でも、私はよく知らなかったが、この映画で、それのもつ意味がよくわかったように思う。またミリグラム博士の、この実験以外の実験も、実に興味深いもので、博士は頭がいい。社会心理学の実験をみなおした気がする。


またドイツ映画『es』(エス)(Das Experiment監督オリヴァー・ヒルシュビーゲル)や、そのアメリカ版リメイク映画『エクスペリメント』のモデルとなったスタンフォード監獄実験にくらべても、実験手順は、穏健で説得力がある。とはいえ『エス』は、実験を再現した虚構、つまり虚構の虚構であって実験の実情とは違う。さらにいえばスタンフォード監獄実験は、ミリグラム実験よりも強制力が強いと同時に虚構力も強い、つまり看守と囚人を演じさせるゲーム感覚が強い。ほんとうの囚人や看守ではないため、虚構性が暴力を許容するところがある。


とはいえこう考え始めると、ミリグラム実験と監獄実験との間に境界をひいても、どのような境界もうそっぽくなって困る。またどちらの実験にも不快感を感ずる人もいるだろう。


たとえば映画『愚行録』の最初のバスの場面。妻夫木聡が車内で座っていると、中年のオヤジから、杖をついて立っている老婦人に席を譲りなさいと言われる。妻夫木の反応がにぶいと、ぼさっと座っていないで、さっさと席をゆずりなさいと、かなり強く言われると、妻夫木もゆっくり立ち上がって席を譲る。ところが妻夫木は脚が悪いようで、バスが揺れると、床に倒れてしまう。この時点でわかるのは、妻夫木は、ただ自分が楽になりたくて、老人が立っていようが席りつづけていたということではなく、実は、脚が不自由で座っていた。そのことを知らずに注意をした中年のオヤジに対して文句も言わずに席をゆずったということになる。そしてその居丈高な中年オヤジは、脚が悪くて倒れた妻夫木に声をかけたり、あやまることもせず、ばつが悪そうだが知らんかおをしている。周囲もこの中年オヤジがしたことが、判断ミスとか悪意ではなかったとしても、脚の不自由な青年に痛い思いをさせたことがわかってくる。


この冒頭のエピソードにはオチがあって、すぐつきの停留所で、妻夫木は脚をひきずりながらゆっくりとバスのステップを降りる。カメラは妻夫木の脚とか靴を大写ししている。バスが去るまで足を引きずっていた妻夫木は、バスが去ると、ふつうにすたすたと歩いていく。脚が悪いというのは演技だったのだ。ここで妻夫木扮する青年は、けっこうなワルだとわかるのだ。


これは心理実験の一つとは言える。老人に席をゆずらなかったからといって、ぶしつけな若者というのではなく脚が不自由であったというような、責められない理由があることもある。またそのことを知らずに注意をし、居丈高に命令した中年のオヤジにも罪はない。悪意とか判断ミスとはいえないだろう。しかし、その中年オヤジは、事情がわかって、青年に、知らぬこととはいえ無理をさせてすまなかったと声をかけてもよかったと思う。あるいは悪くないにせよ、謝罪しもよかったかもしれない。しかし、それをせずに知らん顔をしている。ここで暴露されるのは、こうして偉そうに注意する人間は、道徳心が強いというよりも、人に注意をして、人を動かすことに快感を得ているだけで、道徳とか正義となどどうでもいいのである。自分が偉い人間であることを誇示できればそれでいい。自分の命令で人が動けばそれでいいと思っている。つまり老人たちをたたせたまま傍若無人にも自分だけ席にすわって、自分が人よりも偉いと思っているような不道徳な人間と、実は、まったく同類なのである。またおそらくこの中年オヤジは、妻夫木のような一見おとなしそうな青年だから上から目線で注意したのであって、これがヤクザっぽい怖そうな人間なら、どこまで注意したかどうかわからない。


で、さらにいえば、こういう道徳化タイプ、教育者タイプというのは、注意はし、謝罪させるが絶対に自分から謝ることはない実に鼻持ちならない人間であって、それがこの『愚行録』冒頭の心理実験で、暴露されるのである。


と同時に、これが嘘という詐欺、つまり脚が悪いふりをすることによってもたらされたことに、なにか不快なものを感じてしまう。この冒頭のくそ中年オヤジの愚行は不愉快極まりなくて、ああいう道徳家、教育者タイプの人間を、私は本当に嫌うのだが、それとはべつに、そうした状況をつくった妻夫木に対しても拍手喝采をおくるというよりも、むしろこちらにも底知れぬ悪意を感じてしまうのだ。


今回のミルグラム実験も、人間の残忍さに対しては、弁護の余地はないように思われる。しかし、それをあぶりだす実験を考案した場合、神がみそなわす試験・試練の場というのなら、許されもしようものの、人間がつくったとなると、それは、みずからの神と同列におこうとする傲慢な姿勢すら垣間見えるし、そこまで考えなくても、虚構的設定という、ある種の詐欺のなかで人間の不都合な真実をあぶりだすというのは、嘘から出た真とはいいがたい不快感、問題感が生まれてしまうのだ。


実験は、整合性あるいは客観性を高めるためには、実験者を超越的立場に置くことになるが、そのような超越的立場は、神様以外にとりようがあるのか、また、そうでなかったら、神様を詐称する人間の問題はどうなるかということになる。ここにきて外部があるのかというポストモダン的問題が立ちはだかり、ミルグラム実験も、実は、外部と内部との二つの側の行き来することなるだろう。やっかいな問題として。


つまりエレファント。映画のなかでミリグラム博士が観客に話しかけるときに、後ろに意味もなく象(本物)が出てくるシーンがある。象elephantの比喩的な意味に「厄介な所有物、持て余し物」(研究社大英和辞典)がある(ガス・ヴァン・サント監督の高校生の銃乱射事件を扱う映画『エレファント』には、どこにも象は出てこないので、タイトルは比喩的な意味となっている)。この実験そのものが、どう対応していいかわからない人間の残忍さを白日のもとにさらしたの厄介な実験なのだが、同時に、この実験の成果というか結果そのものだけでなく、実験のありようもまた、ある意味、真実性と倫理性をめぐるやっかいな問題であって、まさにエレファントが大学内を歩き回っているのである。あのエレファントの姿は面白かった。


最後に、この時期、アイヒマン裁判の直後くらいの時期に、こうした心理実験が生まれたことにも演劇史的に興味がある。実際、文学あるいは演劇は、特殊な状況をこしらえて人間の反応をみる心理実験的なところがある。あるいは心理実験のルーツは演劇や文学的虚構であるともいえる。そして追い詰めて人間の残忍性をあぶりだすような演劇、たとえばハロルド・ピンターの暴力的不条理演劇の傑作が書かれたのもこの時期である。実験性と暴力。それはまたある種の不条理演劇も確実に共有しているし、それはまたこの時期の文化的底流にある歴史的・文化的・政治的無意識ではないかとも考えている。



posted by ohashi at 18:23| 日記 | 更新情報をチェックする

2017年03月19日

『アイヒマンの後継者…』

『アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告発』(Experimenter)は2015年にアメリカ合衆国で製作されたドラマ映画である。監督はマイケル・アルメレイダ。


アルメレイダ、やったねとしかいいようのない、すばらしい内容の映画で、拍手喝さいをおくりたい。日本語タイトルは、ややミスリーディングな感じがするが、前作の『アナーキー』(2014)で、どうなってしまったのかと心配したのだが、今作で、その心配は打ち消された。そのためなぜ『アナーキー』が心配な作品だったのかを先に語りたい(心配というのは適切な言葉ではないかもしれない。この『アイヒマン……』のほうが心配になり、また不快になるかもしれない映画なのだが)


『アナーキー』は私がみたときはスクリーンにCymbelineとタイトルが出たが、「アナーキー」というのは、内容を見て日本の映画会社が勝手につけたタイトルかと思ったが、そうでもなく、一応別名らしい。ただ、アナーキーとつけたくなるのもわからないわけではい。


シェイクスピアの作品のなかでも知名度の低い作品『シンベリン』を現代アメリカの社会に置き換えた翻案映画である。とはいえシェイクスピア作品の筋や要素は丁寧にたどっている。それが裏目にでたのかもしれない。


シェイクスピアの作品ではローマ帝国時代、属国となっているブリテンが舞台で、ローマ帝国に毎年貢物をささげていたブリテンのシンベリン王は、隷属を嫌い、貢物を拒否し、帝国に対して反乱を起こす。ブリテン島に上陸した強大なローマ軍をブリテン側は撃破し勝利する。しかしローマと和解し、反乱を起こしたのも悪い王妃にそそのかされたことであり(これはそのとおり)、誤解が解け、混乱が収まった今、ローマと元通りの友好関係をつづけたい。また貢物も送ることを約束し、めでたしで終わる(戦争が主題ではなく、シンベリン王の娘とその夫、王妃の息子などが織りなす嫉妬と誤解と陰謀がメインのドラマで、聞か快仕掛けの神的な幻想場面もある)。


この設定を現代アメリカに置き換えたのだが、その置き換え方に問題があった。ローマ帝国を地方都市の警察にした。ブリテン王国をその地方都市のギャング団にした(ギャング団の名称、なんと「ブリトンズ」)。ブリテンがローマにささげた貢物というのは、ギャング団が警察署長に送っている賄賂。え、貢物が賄賂に。この警察は腐敗している。


いろいろないきさつから、この賄賂をギャング団のボスは拒否する。そのため警察がギャング団を取り締まることになり、ギャングと警察との全面戦争になる。しかし、警察が、賄賂を出さないギャング団をこらしめるために取り締まりをするというのは、腐敗の極致である。そしてこの全面戦争のあと、シェイクスピアの『シンベリン』ではローマ帝国軍がぼろ負けするが、この映画では警察がぼろ負けする。警察車両は、撃破されて炎上、制服警官の死傷者が街にあふれているという、けっこうシュールなというか、ものすごい映像がみられる(近年の映画で、アメリカの警察が、ここまで完敗するという設定はみたことがない)。


しかし、ギャング団のボスも、悪い妻にそそのかされていたことを知り、いろいろな誤解もとけて、怒りもおさまると、すでに負傷している警察署長と和解する。そしてこれまでどおり警察と友好関係をつづけ、これまでどおり賄賂を贈ることを約束するのだ。賄賂が復活、警察も腐敗したままで終わる。


これには何の予備知識もなくみていた観客も、いや『シンベリン』の翻案とわかっていてみていた観客も、口あんぐりだろう。唖然とするしかない。もう少し、なんとかならなかったのか。ギャングが賄賂をおくって警察と仲直り? それがブラックユーモアでもなければ、社会の裏面をえぐる、社会派ドラマでもなく、ただ、喜劇的なハッピーエンドなのだから、あきれるわい。


しかもアルメレイダ監督の人徳なのか、出演陣がすごい。こんな映画がなのに。エド・ハリス、ミラ・ジョヴォビッチ、イーサン・ホーク、ジョン・レグイザモ、アントン・イェルチン、ダコタ・ジョンソン(あの悪評高い『フィフティ・シェイド』の女性)など。そのせいもあってかブルーレイでも出ているのだ。


実はシェイクスピアの『シンベリン』も、唖然とするような展開、矛盾だらけな行動など、けっこうな問題劇である(ここでいう問題というのは、問題提起というのではなく、欠陥という意味である)。私も若い頃、この作品の数々の矛盾をどうとらえるべきか、悪戦苦闘して100枚以上の「過剰のドラマトゥルギー」という論文を書いたことがある。それほどめんどくさい作品なのだが、そのめんどくさいところも、映画化にあたって温存されているので、まさにアナーキー状態の、特大のA級映画なのだ。ここでいうA級というのはアナーキー級ということだ。

posted by ohashi at 19:35| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年03月18日

『愚行録』

『ミュージアム』では妻夫木聡を最後まで認識できなくて自己嫌悪に陥ったのだが、兄と妹が仲の良い映画というと、つい最近、最終話をむかえた『カルテット』の脚本家、土井裕泰が監督した映画『涙そうそう』(2006)を思い出す(3月23日に書いています)。妻夫木聡と長澤まさみの映画だったが、美しくも悲しい物語で、また私たち(誰のこっちゃ)のなかでは、映画のなかで、小泉今日子の愛人となったアーティストのことを、勝手に「ラッパ屋」といって盛り上がっていた記憶がある(差別的な盛り上がりではなかったことは明記しておく)。美しくも悲しい映画だったが、今回は満島ひかりと兄妹となる。


痛い映画だったが、冒頭のシーンからもわかるように、妻夫木聡は一癖も二癖もある人物で、探偵役のジャーナリストなのだが、最後まで見ると、私たちが予想したのとは違ったことを妻夫木がしていたことがわかる。


つまり、探偵役のジャーナリスト妻夫木が、1年前の迷宮入り事件(一家惨殺事件)を再調査し真相に迫ろうとする物語だが、このジャーナリスト、実は、最初から犯人は誰かわかっていて、調査して真相をあぶりだす(と思っていたが)、実は、真相を隠蔽していたことがわかる。真犯人に繋がる情報なり可能性となるものを、ことごとくつぶしていたことがわかる。それがわかるときの戦慄が、この映画の特筆すべきところだろう。もちろん、こう書いたらからとって、ネタバレではない。犯人は誰かは、見ている側は、最後にならないとわからないのだから。


実際、週刊誌に1年前の事件の真相を示唆する記事を執筆するのだが、それがどんな内容かはわからないが、最後まで見ると、その記事は、真相に迫るというよりも、真相をはぐらかす、ミスリーディングな記事なのだろうと想像がつく。怖い話である。


なお階級社会は、とりわけ名門私立大学について言われる場合は、百害あって一利なし。実際、内から、つまり付属からあがってくる学生と、外部から入試で入ってくる学生との対立・葛藤はあるかもしれないが、この映画のような対立あるいは格差は現実の一面でしかない。


内部進学生たちは、上流階級の一員としてうらやましがられ、外部入学生たちは、彼らに認めら

れたり、彼らのサークルに加わりたいと望んでいるというのは、現実の一面でしかない。


実際、名門私立大学のレヴェルを維持しているのは、内部進学生たちではない。彼らは付属幼稚園とか付属小学校レヴェルではみんな優秀な生徒なのだが、それがどういうわけか大学に進学してくる頃には、道徳面や学業面で劣等生となっている。むしろ外部から受験で入ってくる学生たちがいなければ、その私立大学のレヴェルは落ちるいっぽうであって、大学の高いレヴェルは外部受験生(推薦入学生も含む)によって支えられている。


このことは大学当局は承知している。大学側の悩みは、いかにして内部進学生たちのレヴェルをあげるかである。となると付属からあがってきた学生たちは、学業面、人間性、あらゆる面で劣っているとして、逆に差別されているかもしれない。あんな金持ちの子女でも、頭空っぽの人間のクズと誰がつきあうかというふうに、外部から受験で入ってきた優秀な学生たちから、不当な差別を受けているかもしれないのだ。


どっちもどっちなんだけれども、この映画での階級格差だけが現実のではないことだけは、明言しておきたい。ただし、それで映画の価値はいささかも減ずることはないのだが。


posted by ohashi at 16:30| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年03月17日

『ラ・ラ・ランド』1

その前に『シェルブールの雨傘』(Les Parapluies de Cherbourg1964、ジャック・ドゥミ監督、音楽ミシェル・ルグラン)。この映画の問題は、やはりなぜ2年間待てなかったのだろうということに尽きる。いまではアルジェリア独立戦争として知られる時代を背景としたミュージカルで、男性は2年間の兵役につくことで、恋人どうしは離れ離れになる。


しかし2年間である。期限付きである。なぜ待てなかったのか。たとえば戦死したという誤報が入り、女性が別の男性と結婚するという戦争にまつわる悲劇ならわからないわけではない。あるいは行方不明か、さらには戦争が長引いて、年月がたちすぎる――「かくも長き不在」の悲劇だ――なら、わからないでもない。しかし、男が兵役に就いたらあっさりとほかの男と結婚してしまう。家族からの圧力があったとしても、早く結婚したほうがいいという一般論でしかない。家族に借金があってとかいう事情もない。


そもそも女のほうは、兵役についた男の子どもをおなかに宿していたのではないか。だったら、待っているべきでしょう。


現実問題としては、若さで輝いている2年間を、兵役についた男の帰りをただ待っているというのはつらいことかもしれない。私のような年寄りには、2年間などあっというまだが、若い人たちにとってはそうではないだろう。ましてや、この場合、戦争に行っているわけだから、死ぬ確率が高い。恋人が死ぬかもしれない、気が気ではない。それが2年間。だから現実問題としては、ただでさえ遠距離恋愛によって破談になることは多いところに、兵役となると、圧倒的に恋人同士が別れる確率は高くなる。ロマンチックのかけらもない、現実的な判断だが。いや、私だったら、相手が男性であれ、女性であれ、兵役に行った恋人を、待っていると思う。生還することを日々祈りながら。やはり『シェルブールの雨傘』は、釈然としないものを残す。


かつて、テレビでこのミュージカル映画をとりあげたとき、男性俳優が、駅での恋人との別れのシーンを取り上げて、ここに二人の運命を予感させるものがあったと語っていた。カメラは去ってゆく列車からホームをうつしている。カトリーヌ・ドゥヌーヴは、恋人を載せた列車がみえなくなるまで手を振る、あるいは見送っているかと思うと、そうではなく、列車が発車すると、すぐにホームから離れて改札口へ向かう。実は映画では、この後、恋人たちは、二度と会うことはない。今生の別れなのだ――いや、正確にはエピローグで再会するとはいえ、これは実質的に別れのシーンなのだ。けれども、思い入れたっぷりに、この別れのシーンを盛り上げるかというと、そうでもない。ドゥヌーヴは職場に向かう夫を見送るように、慣習化した行為であるかのように、あっさりと見送るのだ。このあっさり感。ここに恋人たちの運命を象徴するもの、彼らの関係が、実は、ものすごく深いものではなかったかの暗示があると、その俳優はテレビで説いてた。


まあ、そうかもしれない。しかし、ここで盛り上げてしまうと、恋人は戦地で死んでしまうのかと暗示することにもなりかねない。むしろあっさりした別れにして、実際、恋人は死なずに帰ってくるほうが、最終的な衝撃とまでいかなくても悲しさは伝わるのではないか。ただ、そうでなければいけないということではない。問題は、ひとつの方法を除いては、どうやっても釈然としないものが残るということである。


ここで別れた。そして別れた後、結局、恋人を裏切ることになる事情を、戦争における帰還者の悲劇(『かくも長き不在』の世界)として描くことによって、必要以上に人為的に選択の余地のない理由をでっちあげるか(悲劇性はたかまるが、現実味は失せる)、逆に、現実問題を暗示させて世間知に従った選択を行わせるのか(現実性はたかまるが、ロマンチック性は失せる)、どちらにしてもぎごちなさ、釈然としないものが残る。


最良の道は、この駅での別れのあと、5年後としてエピローグに直結することである。『シェルブールの雨傘』を見たことのある人なら知っている、ガソリンスタンドの場面になることである。途中は欠落している。しかし驚きと悲しみは確実に伝わる。『ラ・ラ・ランド』の世界である。

posted by ohashi at 12:22| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年03月16日

騎士団長

ローペ・デ・ベガの戯曲『フエンテ・オベフーナ』には騎士団長が登場する。とはいえ殺されることはないが、騎士団のナンバー2で、騎士団長補佐のような役割を果たす人間が、その領地で悪行の限りを尽くすために、領民たちが立ち上がって反乱を起こす。彼らは騎士団長補佐である領主らを皆殺しにする。君主によって反逆罪にとわれた村人たちは、首謀者あるいは殺害者の名前を言えと拷問にかけられるが、子どもに至るまで、全員、首謀者を「フエンテ・オベフーナ」としか言わない。戯曲のタイトルにもなっている、これは村の名前でもある。結局村人たちは君主に許される、領主による専制体制から解放され平和と秩序を取り戻す。


これを読んで、しまったと思った。騎士団関係者の横暴に耐えかねて反乱を起こす村人たちは、社会正義を要求する。貴族だから、騎士団幹部だからといって、法と秩序を破ることは絶対に許されない。この正義感の強さ、この社会的公正への渇望と実現、これはまさにスペインのこの時代の演劇のひとつのジャンルとも化していることを知っておくべきだった。


というのも岩波文庫から選ぶ3冊というアンケートがあって、結果は公表される。そのため、どれを選んでも角がたつ、ましてや専門の英米文学から選ぶとしても、どれを選んでも角がたつか、さもなければ、えこひいきとか身内のものしか選ばないと言われそうで困った。実は、出版社のほうでは、えこひいきでも、身内か同僚のものでもなんでも、偏った選び方をしても、それはそれで意味があると考えているのかもしれないが、私には、ちょっとできなくて、英米文学者が選びそうもない変わり種ともいえる三冊を選んだ。


そのうちの一冊がカルデロンの『人の世は夢/サラメアの村長』高橋正武訳(残り2冊については秘密。いずれわかると思う)。カルデロンの『人の世は夢』(『人世は夢』とも訳されている)は、他にも翻訳などがあるが、『サラメアの村長』と組み合わせているのが岩波文庫だけで、この取り合せがすばらしいと思った。『サラメアの村長』は貴族とか軍人の横暴を絶対に許さない姿勢、社会正義を求める妥協なき姿勢が驚きともに伝わってくるのだが、それがこの文庫本では、もう一方のメタドラマ『人の世は夢』と対になっている。一人の作家のなかにメタドラマ作家と社会派ドラマ作家が共存している。そして両者が化学反応をおこす。メタドラマが社会派ドラマにみえてくるし、社会派ドラマがメタドラマにもみえてくるという化学変化。


だが『サラメアの村長』のような、その社会正義を求める妥協なき姿勢、また社会正義を実現するある種のユートピア性は、ジャンルとしてあったのだ。そうなると、ひとりの作家が悲劇を書き、喜劇も書いたことを、ものすごく重要な意義があるかのように述べるようなものだ。たとえばシェイクスピアの悲劇しか知らない人間が、たまたまシェイクスピアの喜劇をみたり読んだりして、あの悲劇作家シェイクスピアが、こんな面白い喜劇を書いていると感心するようなもので、それってあんまり意味がない。悲劇が喜劇にみえる、逆もそうだというようなコメントはお馬鹿コメントではないか。やってしまった。しくじり先生は私ですとしかいいようがない。


とはいえ『サラメアの村長』は、社会正義が実現するだけだが、ローペ・デ・ベガの『フエンテ・オベフーナ』は反乱が成功し、革命が実現するという点では、ある意味、祝祭的だし、暴力的破壊と紙一重の秩序要求からしても、カルデロンの作品とは簡単に比較あるいは同一視できないので、まあ、いいか。つまりこのようなジャンルが確立しているとしても、個々の作品には特徴があって、その特徴を踏まえて、カルデロンの二作品を比較し、そこに化学変化をみるのは、決して、無知ゆえの妄言ではないと思うので。


ただ、それにしてもローペ・デ・ベガのこの作品、読むのが遅きに失した。というのもEric Bentley(ed) The Classic Theatre Volume3:Six Spanish PlaysAnchor Books, 1959)のなかにローペ・デ・ベガの作品として、この一作が選ばれて入っているからだ。これはリプリント版だが、学生時代からもっている。なんで早く読んでおかなかったのだろう。やっぱり私はしくじり先生か。


それはともかく、この作品に登場するのはカラトラバ騎士団 (Orden de Calatrava)(翻訳での表記はカラトラーバ騎士団)。騎士団長は実在したロドリーゴ・テージェス・ヒロン(1466-1482)(翻訳での表記はロデリーゴ・テリェス・ヒロン)。レコンキスタの時代で、『アサシン・クリード』よりも少し前の時代(とはいえ10年か20年前)の出来事となっている。問題は、この騎士団、国王から自治と認められているようで、その自治領での領主の横暴が村人たちの反乱を招くことになるが、『アサシン・クリード』のなかのテンプル騎士団のモデルにこのカラトバ騎士団がなった可能性がある(この時代、テンプル騎士団は消滅している。またカラトラーバ騎士団は赤い十字架を、ただしギリシア正教の十字架だがを紋章としている)。ただ、それにしても、このカラトラーバ騎士団、戯曲のなかで何をしているのかまったくわからない。ムーア人と戦うわけでもなく、なにかいざこざに巻き込まれてスペインの都市を攻略しているのである。またそれは国王(アラゴン・カスティリヤ、両カトリック君主)に反旗を翻す行為なのだが、すべてはナンバー2の悪徳領主の生として丸く収まってしまう。


ちなみに村人たちの反乱あるいは革命が最終的におとがめなしなのは、領主を殺しても、カトリック両君主の管轄地として、これまでの領主を差し出すからである。だから、革命なのだが、革命ではない。悪徳領主を殺して、真の君主の統治を求めるということなので。これは明治維新が、ある意味、徳川政権を倒した、りっぱな、そしてけっこう血なまぐさ革命でもあるのだが、徳川政権というフェイク政権を認めず、天皇親政を求め、天皇という真の君主に従うことになったのだからという理由で、革命が隠蔽されてしまった。しかし、ベガの作品であれ、明治維新であれ、りっぱな、そして血なまぐさい革命であることを、法と秩序を求める合法的活動へとすり替えてはいけないのではのでないだろうか。

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2017年03月15日

騎士団長殺し、もうひとつの

村上春樹作品ではなくて、映画『アサシン・クリード』Assasin’s Creedの話。


テンプル騎士団と、その支配を阻もうとするアサシン教団との闘いというゲームの世界を実写映画化したもの。テンプル騎士団は、中世に解体させられているが、映画では、レコンキスタ時代のスペインでは存続しているし、さらには現代においても隠れて存続している。そのテンプル騎士団長ともいえる人物を、映画の最後で主人公が倒す。まあこう書いても、それは予想されることなので、ネタばれとしても、大きなダメージはないだろう。もうひとつの騎士団長殺しである。


映画『アサシン・クリード』の監督ジャスティン・カーゼルについては、昨年、『マクベス』を見たこともあり、またそのときのマイケル・ファスベンダーとマリオン・コティヤールとの共演をふたたびということもあり、特に見たい映画ではなかったのだが、一応見ておこうというつもりで映画館に足を運んだ。


映画そのものの見せ場は、1492年のマドリッドにおける立ち回り(カンフー・アクションと日本のチャンバラとの合体のような)ならびに、鷹の飛翔(ドローン撮影)から入っていく過去の世界への没入が、CGとはいえ、けっこう迫力があって、身体に応えるような緊張感が走った。実際には、このアクションシーンというかスタントシーンは、CGではなく人間がやっていて、コンピュータで造った映像ではなく、実際にカメラをまわして撮影したとのこと。落下のスタントも、近年にはない高さからのものらしく、映像の迫力は一見の価値がある。まあCGかと思うと、そうではない映像をみせてくれる映画としては、『ラ・ラ・ランド』と双璧かもしれない。


映画の設定といっても、もともとゲームの設定なのだが、人間の自由意思を守り抜こうとするのがアサシン教団であり、そのルーツあるいは継承はイスラム世界にあるのに対し、人間の自由意思を根絶して平和と秩序を守ろうとするテンプル騎士団は西洋キリスト教世界に君臨し、人間の自由意思の象徴であるエデンの果実(いわゆるリンゴのこと)を見つけようとしている。そのため1492年にエデンの果実を奪い隠したアサシン教団のアギラールの子孫であるカラム・リンチ(ファスベンダー)の遺伝子記憶を操作して500年前の世界を再現。隠されたエデンの果実を探すというのは物語の大筋である。


映画あるいはもとのゲームというべきかもしれないが、この自由意思なるものを無条件に称賛しているのではない。なぜなら自由意思の行使は、極端なものになれば暴力と犯罪になりカオスを到来させる。だが平和と秩序を愛するテンプル騎士団が自由意思の暴走を阻止する善を代表しているかというと、そうではなく、むしろ騎士団長をはじめとする、このテンプル騎士団は、体制と結託して人間から自由意思を奪い、人間を従順な家畜化・奴隷化して世界支配を企む悪の集団である。アサシン教団は、イスラムと関係があり、またアルファベットのAをシンボルとしている。このAはむろんアサシンの頭文字だが、同時に、アナキズムの頭文字である(A=Anarchismのほうが歴史が古い)。対するテンプル騎士団は赤い十字架がシンボルである。


かくしてAvs  の対決となる。


そしてこれは暴走化するとテロリズムvsファシズムという対決になる。さらに現代の政治にあてあめればイスラム国 対 トランプ政権 の対立となって、どちらにしてもろくなもんじゃない。実際、最終的にどちらにも肩入れできない。この映画の対立関係は、意図的に不安定なものにされている。この不安定さが原動力となっている。


それでも、強いて、どちらに肩入れするかといえば、アサシン教団である。エデンの果実によって人間の自由意思を奪おうといテンプル軍団なんかに味方したくはない。実際、このエデンの果実は、人間の前頭葉のことを思い起こさせる。かつて前頭葉切除によって狂暴な精神病患者を治療していたが、前頭葉に人間の自由意思の秘密があるみたで、これを切除されると、人間、廃人になる。まさにケン・キージーの『カッコーの巣の上で』の世界だが、実際、映画にもなったこの小説の世界は、この映画にも反映している。この施設は、暴力的傾向をもつ患者を治療する精神病院でもあって、最後に患者が反乱を起こして、この病院から外に出ようとする。現実の精神科医は悪人ではないが、物語のなかでは、文明悪の諸要素をチャージされていて、とても共感できる存在ではない。


もちろん私は、あるいは誰でも平和と秩序を愛することだろう。それなくしては文明生活が送れない。しかし、過剰な抑制と支配、厳格すぎる規制は、フロイトが超自我について語ったように、それ自体が暴力的である。暴力に反対する敬虔さや理性的姿勢そのものが、反社会的・反体制的行動に対して暴力的になることの逆説と恐怖。テロというのは、国家テロから始まったのであり、過剰な規制と管理支配、平和と秩序を守るために、平和と秩序を犯してしまうような皮肉な法と秩序の暴力を生んだのである。


もちろんこの映画のなかでは主人公の側に共感する観客は多いだろう。自由意思は映画であれ、文学であれ、人間を人間たらしめるものとして、なによりも重んじてきたからである。しかしこの映画では、自由意思は、たんに抑圧をはねかえすだけのものではなく、歯止めのきかぬ犯罪や暴力へとエスカレートする。実際、主人公は、死刑になっておかしくない犯罪者なのである(実際に死刑になる)。つまり社会に自由をもたらすどころか犯罪という恐怖、まさに人間を暴力と恐怖で凍り付かせる、自由の対極にある不自由をもたらすものでしかない。


おそらくそのためだろう、自由意思の起源を西洋ではなく、ムーア人の世界、イスラムに設定したのだ。ある小説いわく「西欧キリスト教文明にとってなんと都合のいい逃げ道なことか」(出典はいずれ)。人間の獣性あるいは暴力性を解放する破壊的要素を非西洋起源にした。しかしそうなると自由意思は、たんなる暴力の淵源にすぎなくなって、人間の尊厳を確保する偉大な要素、破壊もするが創造もする人間の肯定的要素としての自由意思の意味がなくなって、ファシズムに道をゆずることになる。そしてファシズムの非寛容な暴力支配をゆるすことになる。と、まあ堂々巡りになる。


おそらく文明は、自由意思を解放して自己崩壊の途を歩ませるのではないが、かといって、自由意思を剥奪して人間を奴隷化して平和と秩序を守る途もとるべきではなく、自由意思の暴走をとどめて有用なものにすると同時に、平和と秩序を厳格に守りすぎてファシズムへと移行しないように配慮すること、あるいは両者のせめぎあい状態、どちらかが勝利しない永続的な葛藤状態、それが文明だといえるのかもしれない。


日本ではどうか。残念ながらエデンの果実は、テンプル騎士団の手に渡り、いま政権は、国民から自由意思を完全に奪いとることに、あと一歩のところまできている。国民は、みんな教育勅語を朗誦する幼稚園児に退行している。アサシン教団は壊滅した。そして過剰なまでに非寛容がはびこる暗黒体制になった。まあ、こんなことを書くと、アサシン教団の刺客かと思われて前頭葉を切除されるのかもしれないが。


付記:この映画のなかで、ジェレミー・アイアンズとマリオン・コティヤールの親娘のファミリー・ネイムはRikkin。字幕では「リッケン」と出ているが、映画のなかでは、ふたりとも「ライケン」と発音している。たしかにこの綴りで「ライケン」と読むのはむつかしいが、英語名というよりは、オランダ(語)とかそのへんの名前のようだ。ゲームのほうで「リッケン」と表記したために、それに従わざるを得なかったのだろうか(ゲームでの表記は確認していない)。字幕で「リッケン」、その時に、聞こえてくるのは「ライケン」。何とかしてほしい。

posted by ohashi at 16:29| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年03月14日

つり革

今日の夕方のニュースで、最近は、交通機関のつり革につかまる、あるいは触ることに抵抗を感ずる人が多くなって、直接、つり革というかつり輪に触れなくてもいいグッズが売られけっこう人気商品になっているということを伝えていた。


つり革といっても、革の部分は一部で、その革で円形か三角形のプラスチックの吊り輪というか吊り三角をぶら下げているのだが、私は18歳の時に東京へ来て以来、つり革(それもプラスチックの部分)を握ったりしたことはない。つり皮を利用しないということではなく、利用するのだが、プラスチックの部分に手をかけることは絶対にしないのである。


これを書くとみんな真似するから嫌だなと思いつつ、まあ、たくさんの人が読んでいるわけではないだろうから、あえて書くが、18の時以来、つり革はきたいないものだと思って、通常とは違うつかまり方をしている。以来45年。もう無意識の習慣になっている。


どういうことかという、プラスチックの輪に手を通さないし、輪を握ったりしない。プラスチックの輪を吊るしている革の部分を握るのである。わかりますか。革を握っても、下にプラスチックの輪があるので、握っている手が滑り落ちたりしない。輪がストッパーになる。なるべく輪には触れないようにするが、降れることがあっても、プラスチックの輪の円形の上部の、しかも外周に触れることにはなるが、指で触れる内周には絶対に触れない。


私は背は高いほうではないが(最近、病院で身長をはかったら、若い頃より45センチ身長が縮んでいて、ものすごいショックをうけた)、それでも、つり革の革の部分だけをにぎることはできるし、それでなんの不便もない。


また昔は、周囲を見回して、私と同じような握り方をしている乗客がいるか確かめたものだが、そういう人間はまったくいない。ということはつり革の革の部分に触れるのは私だけであって、他人が触れていない。清潔なのである。みんな真似しないでね。


どうしてそうなったかというと、18歳のとき、名古屋から東京に出てきた私は、大学入学前に親戚の家に泊まらせてもらった。その時、その家にあった週刊誌か月刊誌(単行本ではなかったように思う)に掲載されていた随筆を読んだ。作者は覚えていない。またどういう主題の随筆だったのかも覚えていない。ただ、そのなかで交通機関のつり革というのは、みんなが触って汚いものである。自分は、つり輪を握ったりはしない。つり輪をぶら下げている革の部分を握るようにしていると書いてあったのだ。前後の文脈は覚えていない。


それまでつり革が汚いものであったということは特に意識しなかった。そしてなるほどと思った。と同時に、当時の私は、これから東京で暮らすことになる田舎者である。東京の人とは、そうしているのだ、それが東京スタイルかと勝手に思い込んだ。たぶん後者の理由のほうが大きかったと思う。


追記1:いくら田舎者でもつり革は知っている。私は名古屋の高校生のとき、バスで市の中心までいって、そこで地下鉄に乗り換えて、高校に通っていた。つり革はふつうに利用していた。


追記2:世界のつり革には球形のものもあるらしい(たぶん日本にはない)。玉がぶら下がっているのである。Wikipedia日本版によると、この球形のものは、たいへんな握力が必要になると書いてあるが、そんな不便な球形のつり革がどうしてあるのかと不思議に思う。たぶん、この球形のつり革は、球体の部分を握るのではないのだ。それには握力がいくらあってもたりないだろう。そうではなくて、私のように、その球体を吊るしている革だか紐だか棒をつかむのである。そして球体は、つかんだ手がずり落ちないためのストッパーなのだろう。そうでなければ揺れる車内で、球体なんかつかまっていられない。また私のようなつかまり方は、グローバルなレベルでは、そんなに珍しいものではないのかもしれない。

posted by ohashi at 22:49| エッセイ | 更新情報をチェックする

2017年03月13日

しくじり先生

映画や演劇で外出することもできず、家でテレビを見ることの多いこのところなので、その感想を述べるというのもどうかと思うが、本日のしくじり先生は、瀬古利彦、川原ひろし、ソニンの三人で、実は、この三人、どれも成功者で、しくじりとは関係のない人たちと思っていたので、まあ、間接的・逆説的に自慢話になっているところもあったが、ちょっと驚いた。放送を見て、瀬古、川原の二人にも思うところがあったが、やはり最後のソニンの話は驚きと感動があった。


アイドル歌手(ユニットから)だったソニンは、いまや舞台ではトップクラスの女優になっているので、たしかにアイドル歌手時代には、いろいろなことがあったと思うので、波乱万丈の経歴かと思ったが、それもあるものの、もっと大変な経歴であったことがわかり、知らなかったことも多く、思わず聞き入ってしまった。


ネット上の記事を一部引用する


ソニンの過去が「地獄すぎる」と話題 「テレビで映していいのか」の声も

20170314 1730しらべぇ

【すみません。この記事は314日に書いています。なおタイトルにある「テレビで映していいのか」というのは当時のテレビ映像を映しているので、映していい。ネット***民のコメントを引用してセンセーショナルにあおるフ****記事の常套手段。


かつてEE JUMPのメンバーとして活動していた女優・ソニン(34)。元相方である後藤真希の弟の不祥事によりグループが解散してからの活動には「迷走している」という評価もあった。


これに関して、13日放送の『しくじり先生』(テレビ朝日系)に出演し、当時の「過酷な活動」ぶりを披露した。略


■舞台と出会い変わっていくソニンに感動の声

その後、師と仰ぐ女優・大竹しのぶ(59)に出会い、ミュージカルの世界に引き込まれていったソニン。


女優としての道を歩むことを決意し、ニューヨークに留学することを希望した。芸能活動に支障が出るため事務所はこれに反対したが、ソニンは強い要望により最終的には留学を許したという。ソニンにとって、初めて自分の意思を伝えた瞬間だった。

これにはスタジオも感動に包まれ、ネット民からも「よくやった」「がんばった」という声が。


その後、2015年には第41回菊田一夫演劇賞を受賞し、舞台女優としてのキャリアを着々と積み上げていったというソニン。この放送をきっかけにファンが増えたのは間違いないだろう。


ソニンがアイドルとして活躍していたのは知っているし、アメリカに留学していたことも知っていた。そして現在の目覚ましい舞台での活躍、菊田一夫賞受賞のことも知っていたから、アイドル歌手として消えていくのではなくて、活躍の場を舞台に移して成功した順風満帆の人生と思っていたので、あらためて彼女の存在を見直した。


ナサニエル・ホーソーンの短編に「大いなる巌の顔」などと訳されている‘The Great Stone Face’という作品がある。高い崖の岩肌に大きな人間の顔にみえる岩がって、言い伝えでは、いつか、この巌の顔にそっくりな偉人があらわれるという。少年時代からその顔をみつづけてきた主人公は、いつかそんな伝説の人に会ってみたいものだと願い、自分からも、探しにいくのだが、この巌の顔にふさわしい威厳をそなえた立派な人とは出会えないまま、むなしく齢を重ねていく。やがて、彼のもとを訪れた若い詩人に対し、昔から、あんな巌の顔のような偉人にあってみたい、またそう願いつつ、自分もまた思索を重ね、善行に励んできたと老人は述懐する。すると若い詩人は、目の前の老人にむかって、あなたの顔は、あの巌の顔にそっくりです。あなたこそ、伝説の偉人になったのです叫ぶ。


うろ覚えで書いているので、粗筋は違っていると思うが、まあ、こんな話だった。けっこう有名な話で、読んだり聞いたことがある人も多いと思う。それを思い出した。


大竹しのぶの舞台に感動したソニンは、自身、大竹しのぶ出演のミュージカルのオーディションを受け、出演決定する。それが市村正親・大竹しのぶ主演のミュージカル『スウィニートッド』。宮本亜門演出のこのミュージカルは、2007年と20011年に上演されたが、私は運悪く見ていない。東京芸術劇場だったと思うが。ただ『スウィニートッド』の日本版は、1981年の初演版をみている。鈴木忠志演出、市川染五郎(現・松本幸四郎)と鳳蘭主演。場所は確かサンシャイン劇場だったと思う(ちがっているかもしれないが)。


それはともかく、以後、ソニンは通常の舞台、またミュージカルでと、活躍している。菊田一夫賞も当然だと思う。


そして今、舞台あるいはミュージカルの世界で活躍することになったソニンに対しては、こう言わざるを得ない。かつて、あなたが大竹しのぶの圧倒的な迫力の舞台に心ゆさぶられたとしたら、いまや、あなたの舞台が、多くの観客の心をゆさぶるようになったのです。かつて大竹しのぶが、あなたの心をゆさぶったとしたら、あなたが、いま大竹しのぶになったのです、と。ホーソンの短編の人物のように。


posted by ohashi at 22:52| コメント | 更新情報をチェックする

長靴発言で辞任

入院中は新聞も読まず、テレビやラジオでニュースを見たり聞いたりしなかったが、退院してテレビをみると、こんなニュースを放送していた。


「長靴」発言問題で務台政務官辞任 後任に長坂氏

JCast ニュース 2017/3/10 20:20

   政府は2017310日午前の閣議で、被災地視察を巡り「長靴業界はだいぶもうかった」と発言した務台(むたい)俊介・内閣府政務官兼復興政務官(60)の辞任を決めた。後任には、自民党の長坂康正衆院議員(59)を充てる。

   務台氏は、1738日の自らの政治資金パーティーで、169月に被災地を視察した際、長靴を用意しておらず水たまりを随行秘書官におんぶされて渡り、批判を受けた件に触れ、「長靴業界はもうかった」などと発言。その後、批判が高まり、翌9日に責任を取る形で辞表を提出していた。


え、こんなことで辞任? そんなことで辞めさせられるのか。あまりに不条理(理不尽、無意味、ばかばかしい という意味)に、入院してから世界が大きく変わったのかと、耳を疑った。まあスケープゴートでしょう。


本人にとっては災難だが、このような些細なことでも厳格に処分するという姿勢を示して、もっと大きな罪を見逃している。あるいはこのような些細なことで処分するという犠牲を払うのだから、もう一つのほうには目をつぶってほしいということだろう。子供だましにもほどがある。


たとえば首相の妻がネオナチの集会に参加していたら、首相本人がネオナチではなくても、辞任に追い込まれて当然でしょう。それなのに、長靴を忘れて、職員におんぶされたくらいのことで、辞任に追い込まれるのが、この国なのである。まあ首相自身がネオナチみたいなものなら、ネオナチに加担しようが、全く罪に問われないということになる。たとえそれが国家の存立を危うくするような大罪であろうとも。大罪がまったく見逃されている。そのこともまた大罪だろう。

posted by ohashi at 17:35| コメント | 更新情報をチェックする

2017年03月12日

退院の日

とはいっても、12日に退院したのではありませんが。


退院がまだ決まっていなかったが、退院することになったその日、朝530分くらいには、病室も明るくなって、朝の活動を迎える。点滴も終わったというか、点滴の管もはずれたので、もう身軽になった。朝食までの間、昨日から読んでいた英語の本を、無造作にテーブルの上に置いていた。


そうしたら女性の看護師が朝の容態をうかがいにきた。そのとき、別に見せびらかすつもりではなかったのだが、その本を見られてしまった。むつかしそうな本を読んでいるといわれ、彼女に対し、私は大学の英文科の教員なのでと、身分をあかすことになってしまった。その看護師は、私は英語は全然だめなのでと謙遜していたが、同時に、シェイクスピアの本ですかとも言っていたのを聞いて、ちょっと驚いた。


看護師が去ったあと、この本をみてシェイクスピアの本であるとわかるのは、ちょっとただ者ではないと思った。


ペーパーバックの本だが、James ShapiroContested Willという本。これは映画『もうひとりのシェイクスピア』(ローランド・エメリッヒ監督)が公開されたころに、出版された本で、いわゆるシェイクスピア別人説を検証した本。もちろんShapiroは学者・研究者としての評価も高い人なので、「とんでも本」ではない。また映画公開時に、大学院の授業でも、その一部を読んだというかのぞいた。映画はオックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアをほんとうのシェイクスピアとして扱うものだったので、オックスフォード伯の章を読んだのである。


それ以外の章は読んでいなかったので、最初から読んでみることにした。もちろん知っていることは50%から70%はある。しかし、全く知らなかったことも数多く書いてあって、飽きることがない。


ちなみにシェイクスピア=オックスフォード伯説を信じていたもっとも有名な人間はフロイトである。この本によると、フロイトのオックスフォード伯説への傾倒は、並大抵のものではなく、困ったものだ、それだけはやめてほしかったと思うのだが、確かに、フロイトの『精神分析入門講義』か『夢解釈』だったかの注で、オックスフォード伯説について語っていて、世が世なら、『オックスフォード版オックスフォード全集』が出版されていたかもしれないというしょうもない冗談を書いていた。フロイトが。


これが面白くないのは、それをいうなら、『オックスフォード版オックスフォード全集』というよりも『ケンブリッジ版オックスフォード全集』が出ていたというほうが、ずっと面白いというかバカバカしくていい。しかもフロイトの時代に、シェイクスピアの作品の定本ともいうべきものは『ケンブリッジ版シェイクスピア全集』だったので、この発想は、悪くないと思うのだが。


閑話休題。英語が不得意という看護師が、この本がシェイクスピアの本だとどうしてわかったのだろう。ペーパーバックの表紙には、大中小の文字が印刷されているのだが、一番大きな文字で印刷されているのがタイトルのContested Will。中サイズの文字で著者の名前が印刷され、そして小サイズの文字で、Who Wrote Shakespeareとサブタイトルがはいる。シェイクスピアの肖像画も使われているだが、顎と首のところだけで、肝心の顔の部分は使われていない。


これでどうしてシェイクスピアの本とわかったのだろう。下手をすると私の大学の英文科の学生だってわからないだろう(というのは、言い過ぎかもしれないので、取り消しますが)。手掛かりはWho Wrote Shakespeareという文字のみ。これだって一瞥してわかったようだから、この看護師、謙遜しているようだが、ただ者ではない。まあ、その日、退院したので、その後、顔をあわせることはなかったのだが。


posted by ohashi at 23:15| コメント | 更新情報をチェックする

いびき

病室で、隣の患者のいびきで眠れなかったということを書いたが、私も歳をとって弱ったものだと実感した。昔は、どこでも眠れることを自慢にしていたし、いびきなんて関係なかった。


以前、研究合宿をしたことがあって、私は、グループのなかでは年長組だった。私よりも年上の人がいなかったわけではないが。昼間の研究会のあと、夜は、畳の大部屋三部屋で雑魚寝状態となった。


襖で仕切られている部屋が3部屋あって、一部屋は女性専用、残り二部屋は男性がつかった。人数的にいっても男性参加者と女性参加者は2:1だったので、妥当な部屋割だった。


そして夜も語りあったあと、眠ることになった。私は端の部屋で眠ることになった。雑魚寝といっても、布団はきちんと並べて眠るので、オイルサーディンの缶詰のようなもので、完璧なカオス状態ではない。あたりまえだが。しかし異変は夜に起こっていた。私が知らないうちに。


朝、目覚めてみると、部屋に異常に人が多い。その部屋に敷かれた布団以上の人数が部屋のなかで横になっている。しかも私の目の前に、誰かの足がある。足の裏が、眼前に迫っている。びっくりして起き上がると、眠る前の倍の数の人間が、まさに雑魚寝状態で寝ている。なかには折り重なって眠っている者もいる。


どうやら隣の部屋で眠っていた者たちのほとんどが、この部屋に移ってきて、夜を明かしたらしい。なぜ。


翌朝、事情を聞いたら、隣の部屋にいたメンバーの一人のいびきが強烈で、余りにうるさいので眠れない。そこで大挙して隣の、私が眠っていた部屋に移動して、そこで眠ったとのこと。すでに眠っている者がいるので、その間に、何とか体を滑り込ませたのだが、寝相が悪い者も当然いるので、朝なったら、完璧な雑魚寝状態になったとのこと。隣の部屋からの難民がやってきて、狭い部屋が満杯になったのである。幸い、夏だったので、布団がなくて眠っても問題はなかった。


そして次の夜を迎えた。部屋を決めるときに、ほとんどが、そのいびきのうるさいメンバーといっしょに眠るのを嫌がった。そこで、私は、そのメンバーと同じ部屋で寝ることを申し出た。そのいびき男といっしょに寝てもいいというメンバーは私をふくめて数人なので、その部屋はゆったりと使える。朝起きたら、誰かの足の裏が私の顔に接触しそうになっていたなんてことはないだろうから、そして、どこでも眠れることを、豪語はしていなかったが、心のなかで自信に思っていたから、いっしょの部屋であることを選んだ。英雄みたいなものである。


実際、その人がいびきをかきはじめたとき、さすがに驚いた。夜、嵐になったのかと一瞬思ったほど、ものすごい轟音が、まるで暴風雨に襲われたときのような音が、発生した。確かめてみると、それはいびきの音であった。これは、ほんとうにうるさい。いっしょに寝ていた者たちが隣部屋に逃げたのはわからないわけではない。ふつうなら、これで眠ることは不可能だ。そう思った。普通なら。しかし、当時に私は、生まれて初めてきく大きないびきだったが、そんなの関係なく、朝まで熟睡できた。昔は元気だったのかもしれない。今の私からは考えられないことである

posted by ohashi at 21:56| コメント | 更新情報をチェックする

手術3

私の病室は4人部屋で、昼間は、面会の人たちも出入りが多いのだが、そんなにうるさくもない。カーテンで仕切られていて、個室感覚なので、周囲の患者に、挨拶したり、話たりするというおっくうさはない。まあ、これは昔も同じなのだろうが。


ところが夜になると様相は一変した。昼間と異なり、うるさいのである。眠れない。ただ、これは責めるわけにはいかない。


隣のくそジジイ(責めてはいません)は、夜になるといきなり大いびきである。もちろん病人なので責めるわけにもいかず、私だっていびぎで人に迷惑をかけることもあるだろう。しかし、1時間か1時間半、病室に響くいびきを発し続けた後、はたと止まる。そして、今度は点滴などをぶらさげた器具をひきずって、トイレに行くのである。ガラガラと大きな音をたてて。ちなみに私も点滴をぶら下げた器具をもってトイレにいくのだが、病室の板の床では、その器具はゴムの車輪もついていることもあって、まったく音を立てない。廊下は床がコンクリートなので音がでるが。ところが、そのくそ***(責めていません)は、病室の段階で大きな音をたてて、外にでていく。それでいびきもやんで、うとうととしかかると、目が覚める。


そしてトイレから帰ってきたあとのその*****(*******)は、おもむろに、ベッドの脇のライトをつける。真夜中だから病室中があかるくなる。そしてひとしきり、なんのためにかわからないが電気をひとしきりつけたあと、消して静かになる。ああ、これで私もゆっくり眠れると思ったら、またいびきがはじまる。そして1時間半後に、同じ行動をくりかえす。ガラガラ音をたてって、出ていき、帰ってきたらひとしきりライトをつける。そしてまたいびき。地獄じゃい。朝までねむれんわい。


実は入院前には差額ベッドを希望していた(ここの病院は、差額ベッドが安い)。しかし入院後わかったのは、話が通っていないといことだった。ただ、私とくらべて重病の人も多いだろうし、隔離して容態をみる患者も多いだろうから、軽い術後の私(とはいえ本人は弱っているのだが)の場合、あまりわがままも言えないという気持ちと、術後一週間は入院するという予定が、希望するなら、はやめに退院してもいいと言われていたこともあって、差額ベッドをあらためて要求することは控えていた。


そして二日目の夜。同じである。いびきがはじまった。その患者の点滴をぶらさげている器具が動かすと音をたてるのは、いっぱいいろいろな袋とか器具がぶらさがっているためで、私の場合、器具には点滴の袋がひとつしかないので、動かしても音が出ない。そっちは重すぎてどうしても音がでるということだった。まあ、これは夜中音を立てて移動するなんて、無神経だと非難するわけにもいかない。


しかし二日目の夜。いびきになれると思ったがなれない。それどころか、手術を終えたばかりの患者が病室にはこばれきた。そして夜のあいだ看護師が容態を確認にくる。足をマッサージする器械が定期的にうなりをあげる。定期的に血圧をはかる器具が作動する。看護師が様子をみにきて、血圧と体温を測る。そのため、これもしかたないのだが、どうしても目が覚める。そして私のすぐ隣では、*****がいびきを立てている。定期的にトイレに行く。自分用のライトを勝手につける。この挟み撃ち。寝てられんわい。


二日目の夜も、休むどころか、ふらふらになって朝を迎えた。


朝の回診のとき、病院長は、人間は寝ているときは死んだも同然であり、翌朝になって、新しい希望に満ちた朝(ラジオ体操の歌だが)を迎え、死からよみがえるのだというような話をした。話し好きの院長なのだが、まあ、それはたしかにそうなのだが、私の場合、この二夜連続して、眠ったか眠っていなのか、わからない。手術ではなく、術後の夜に、生死をさまようことになったとは、予想だにしていなかった。


ちなみに院長からは、術後、元気ならば希望すれば、今日にでも退院してよいと言われた。まだ傷口は痛かったし、本調子でもなかったのだが、つまり、もう少し、病院で静養してもよかったのだが、夜の恐怖のことを思うと、私に選択肢はなかった。それでは退院させてくださいと希望を述べた。この日の朝、急遽、退院ということがきまった。


この日の夜、私は、自宅で一人でベッドに入り、はじめて、静かな夜を迎えたことの幸せをひしひしと感じた。この幸福感は、もう何十年も感じたことないものだった。

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2017年03月11日

手術2

手術後は、時間がたつにつれて着実に術後の痛みは和らないでいくので、希望を捨てずというほど大げさなものではないが、ただ我慢して安静にしていればいいのだが、しかし、私の場合、さすがに弱っていて、簡単な話をするのも苦しくて、付き添いの人にも早々に帰ってもらった。そのほうが、お互いに楽だし、私の場合、あとはじっと痛みが弱くなっていくのを待つしかない。


ただ寝させてはくれない。同じ姿勢でじっとしていると血栓を起こすかもしれないということで、足の裏をマッサージしてくれる。ある程度、時間をおくのだが、定期的にかなり強くマッサージしてくれる。最初、看護してくれる人がそうしてくれるものだと思って、思わず足元にいる人に礼というか、かんたんな挨拶をしようと思って、誰もいないことにおどろいた。たしかにずっといて、時間をみて足裏を強くマッサージするというか指圧のように押し付けるのはたいへんな作業かと思っていたのだが、人間ではなく器械のせいだった。声に出して挨拶する寸前だったので、恥をかかなくてすんだ。とはいえ、機械の手か、人間の手かも区別がつかないほど弱っていたということはいえる。


ただ術後の経過ということに関しては、私は弱りすぎているのかもしれない。入院2日めに、同じ病室に、手術を受けたあとの患者が入って来た。まだいろいろな管がついているので、ほんとうに手術後直後である。しかし、その中高年の男性は、付き添いの家族の人たちと、しっかりした声で話をしている。元気なものだと驚いた。私の場合、そんな話す気力などなかった。たぶん私のほうが軽い手術だというのに。しかも、私と違い、尿道に管が入ったままだというのに(あとで看護師が管を抜きにきたのでわかったのだが)。


ちなみに今回の私の手術には、尿道に管を入れなかったようだ。麻酔中にどうしたかはわからないが。前回手術したときは、つまり心臓が止まりかかったか、止まったとき、尿道に管をいれていた。術後、それに気づかず、看護師に尿意があるのですがと話したところ、看護師が管をもって、出ていますから大丈夫ですと言われて、そのときはじめて尿道に管が入っていることがわかった。自分のチンポコに管が入っているかいないかすらわからなかったのだ。その時は、一人で赤面していたと思う。


しかし、そういえば、私の母が癌の手術をしたとき、私よりもはるかに重い病状で、しかも大きな手術だったのだが、夕方か夜に、病室に戻って来た母と私は、夜明けまで語りあかした記憶がある。そのときは個室だったので話していても周りに迷惑はかけない。


まあ手術後は、看護師が短い時間間隔で、様子をみにきたり、体調を確認したりするので、眠っていられないのと、眠っていたままでもよくても目が覚めるのだが、それにしても、そのときは手術が無事に終わったあとの安堵感と興奮によって眠れない母と夜明けまで話をしていた。いまに思うと、母は、術後、どうしてあんなに意識もしっかりしていて、語りあかす元気まであったのかと、不思議な感じがする。


ちなみに316日、病院の外来待合室のテレビで、朝のワイドショーをうつしていたのだが、フジテレビのそれは、「ママっ子男子」のことを取り上げていた(この記事は、316日以降に書いています)。はじめて知ることだったのが、最近、母親といっしょに行動する若い男性が多く、以前には考えられない行動パタンということだった。母親と息子の仲の良さは、昔のマザコンの場合、母子ともに相互依存する関係だったのだが、今のママっ子男子というのは、もっとフラットな関係だと説明していた。まあ母親が親ではなく友達ということだろうか。ただ、フラットとはいっても、親には話せないことも友達になら話すという場合もあって、親密度は友達のほうが濃い場合もあって、一概にフラットはいえないかもしれない。


いまもそうだが、自分の母親のことを「クソババア」といって自らの男性性を確立した気になっているバカ男子・バカおやじがけっこういるが(それって基本的にヘイトとか差別につながるというか同じ)、それにくらべたら、はるかにまともな感じがするので、仲がいいことはよいことだろう。


そしてそれとはべつに、ただそれにしても、私の場合、術後が毎回、弱りすぎなのかもしれない。

posted by ohashi at 15:19| コメント | 更新情報をチェックする

2017年03月10日

手術1

体調不良の原因のひとつがわかったので手術をすることになった。2007年には腹腔鏡手術をうけて胆石の治療をした。その時もらった胆石2個は、私が体内でつくった人造物で、表面には幾何学模様がついている。色は、胆汁の色、つまりウンコ色であるが。


胆石手術(手術以外にも治療法はある)は、そんなに重い手術ではないだろうが、その頃、たまたま出版していた翻訳のあとがきでは、生死をさ迷ったというようなことを、自分で書いている。たかが胆石手術(とは明記していなかったが)で、何を大げさなといわれそうだが、実際に、生死をさ迷った。


というのも胆石手術は簡単だったが、手術中に私の副交感神経が刺激されたらしく、心臓が止まりかけた、あるいは止まったのである。もちろんこちらは麻酔で眠っているので、そんなことは知る由もないが。ただ、麻酔から覚めたとき、手術中に、心臓マッサージをしたから、肋骨が折れているか、肋骨にひびが入っているかもしれないと医師から注意を受けた。


え、それって、よくテレビ番組などの救急医療の場で、医師や看護人が患者に馬乗りになって体重をかけて、心臓のところを両手で圧迫するやつでしょ。それって心臓止まったということじゃないのかい。となれば、私は死にかかったわけで、あとから考えると、怖くなったし、またあの時死んでいたら、こんなに楽な死に方はなかったとも本気で思えてきた。人間、死に直面すると(正確には眠っていたので直面していないのだが)、人生観が変わるものらしい、私も変わったはずだが、10年もたつと変わったのどうか、定かでなくなった。


同じ病院で10年後に別の手術を受けることになった。前回は、まさに生死の境をさまよったわけだが、手術前には何の恐怖もなかった。当然である。それが今回は、まわりは何の恐怖もいだいていないのだが、私だけが、また不明の原因で、心臓が止まるかもしれないと心配になっていた。死に方としては楽な死に方だと思う。まあ、いま死んでしまうと、ものすごい迷惑をいろいろなところにかけてしまうのだが、死んでしまえば、そんなことは知ったこっちゃない。とはいえもともと臆病者の私としては、この手術から帰還できないのではないかと正直不安になっていた。


前回の手術では、手術室で、手術台に横たわった時、まず左腕に注射を打たれた。この腕のあたりが、さわさわしますよと看護師に言われ、なんちゅう比喩だ、さわさわ、とはと、ちょっとあきれたが、しかし、ほんとうに左腕がさわさわしたしはじめて、驚いた。と、そのとき麻酔のガスマスクが目の前にかぶさってきて、それで意識を失った。夢をみたという記憶もなく、目が覚めて、ああ、手術が終わったのだと思ったのだが、その後で、心臓マッサージの説明を受けて驚いた。


今回は、前回と同じ全身麻酔だが、もちろん手術内容も違うから、手続きも違うのだが、さわさわはなく、点滴の逆流を直した後(手術室までは歩いて行ったので、そのとき点滴が逆流した)、麻酔のガスのマスクがあらわれ、最初は、何かを吸わされ、次に、本格的に麻酔をしますといわれて、深呼吸をしていると、自分でも、意識が徐々に遠のきはじめることがわかった、あ、これで麻酔がききはじめるとわかって、意識を失った。


今回は、たぶん夢をみていたのだろう。目が覚めた時、消えつつある夢の内容(『君の名は。』の世界だ)――ほんとうにその内容は忘れてしまったのだが――の影響もあって、自分がどこにいるのかわからなかった。そもそも私は誰かわからず、ここがどこかもわからず、ここが手術室であり、帰還したのだとわかるまでちょっと時間がかかった。


たぶん、その間、私はうつろな目をしてというか、たぶんぼけた目、完全にボケ顔で、認知症の老人になっていて、まだもどってきていないことが、あるいは夢うつつであることが、周囲にもわかったのだろう、私にいろいろなことを話しかけてきて、最終的に、ここがどこか、名前を正確に言えるか、何度も質問された。


たしかに、これで手術が一応終わったのだと認識するまで、時間がかかったように思う。そのため私の意識を覚醒させるため、いろいろなことを話しかけられた。どんなことだったのか、それもまた夢の内容とともに忘れてしまったのだが、けっこうシェイクスピアの話を聞かれた。たぶんそれに答えることで、私の意識も今とここに到達したのだとしたら、シェイクスピアは私のボケを救ってくれたことになる。とはいえ、私が大学でシェイクスピアの研究をしているというのは一度だけ担当医に話しただけなのだが。


つづく


posted by ohashi at 21:21| エッセイ | 更新情報をチェックする

2017年03月04日

Bill's Kitchen

体調不良のため、テレビをみてぼんやりしていることが多いのだが、今日は、朝からBS日テレBill’s Kitchenを見た。まあBBC30分の料理番組で、現在のイギリスの、庶民的な料理ではないが、かといっておしゃれすぎる料理でもない、しかしイギリスの料理本に美しいカラー写真で紹介されているような、今風の、また健康的にもよい料理を番組でつくっている。Billがどういう人物か知らないが、ロンドンでレストランを経営していて、彼が自宅で3点か4点の料理をつくって紹介している。


まあイギリスあるいはロンドン訛りの英語がなつかしい。なにしろローズマリー・アンド・サイジと言っているし、なんだか死にたいのかダイ、ダイと連発している。自分で注を付けるのはバカだが、sageはコックニーの発音では「セイジ」ではなく「サイジ」となる。day

はコックニ―の発音では「ダイ」つまりdieと同じ発音になる。311日の放送では、オーストラリア、メルボルンの出身だと言っていた。オーストラリア英語は訛りが強い。さらに注をつければ、これは3月13日に書いている。


体調不良で食欲はないのだが、総じておいしそうな料理だった。ひとつを除いていては。ソースを作っているいるのだが、エスニック風(あるいはタイ風)のドレッシングとして生姜とニンニクをすりつぶりしてる。そこに大量の砂糖を入れている。ちょっと砂糖入れすぎで、糖尿病の私には死ねというような量だが、それはいいとしても、そこにナンプラーを大量に入れる。え、ナンプラーは臭い。しかもドレッシングだから生で食べる。サラダ油の代わりに、ナンプラーを使う。ドレッシングに。ちょっと味がどんなもののなのか、というかナンプラーをサラダや料理に生でかけて、どんな味がするのか、嫌な感じがするのだが。まあサラダ油はトランス脂肪酸が多いので、それに比べれば臭くても健康的か。


あとスポンサーが世田谷自然食品。この日は、たまたまフリーズドライの味噌汁の宣伝をしていたが、しかし、世田谷「自然食品」である。フリーズドライの味噌汁を造るのは勝手だし、便利なものだと思うのだが、「自然食品」とうたっている会社が、作るものではないだろう。そもそも味噌は生きものであって、味噌のなかでは、麹の酵素や酵母、乳酸菌は生きている。だから味噌汁を作る際には煮立つ寸前に火を止めるように言われていて、そうしないと酵素や酵母が死んでしまう。当然、フリーズドライの味噌汁では、すべて死んでいる。もちろん酵素や酵母も胃の中で死んでしまうので、腸までとどくものがないから、関係ないといわれるかもしれないが、味噌汁の効能がなんであれ、酵素、酵母、乳酸菌が最初から死んでいるの不自然食品において効能は大幅に削減されているとみなければいけない。たとえ食品添加物がゼロでも(もちろん確かめてはいないが、もし添加物があったら世田谷自然食品は少なくとも自然という名称は取るべきだろう)。

posted by ohashi at 19:32| コメント | 更新情報をチェックする

2017年03月03日

100メートル9秒

 

この時期、いろいろな不正行為が発覚する。あまり具体的なことは書けないのだが、たとえば、こんなようなことである。


たとえば、ある学生が、大学の陸上部に入って短距離走の選手になろうとしているとする。そのときコーチから、大学に入る以前の自己ベストはどのくらいかと聞かれ、その学生は、「100メートル9秒フラット」だと答えることになる。この答えに、周囲は、驚き、嘘だろうおまえ、それは世界新記録で、オリンピックや世界大会に簡単に出場できると揶揄される。それでも、この学生は、しかし、これは本当のことで、記録にも残っているとなおも言い張るとしよう。


陸上部のメンバーは、この学生が嘘をついていることをこれ以上追求することをやめ(嘘であることは歴戦としているから)、なぜ、こんなすぐばれる嘘をついたのだろか。いったいこの学生は、なぜ陸上部を選らんだのか。100メートルの世界記録がどのくらいかも全く知らない学生が、なぜ陸上部にいるのか。不思議でもあり、また自分で嘘を言って周囲を説得できると思っているのは、哀れでもある。どうして、こういうことになったのか。何も知らない陸上部競技の世界に、頼まれもしないのに、どうして入部したのか。そこを探ってみたいのだが、本人は、自分の主張が真実であるとだけしか言わない。


これは陸上部のことではない。あくまでもたとえ話なので、誤解のないように。これは、陸上部のことではなく、英文科のことである。これに類する事件が起こる。あきれるというよりも、あわれである。この学生はなぜ入ってきたのだ。なにか道をまちがっている。こんなバカげた嘘をつかなくても、楽しくやっていける場がほかにあるはずである。なぜ、わざわざ英文科に来るのだろう。なぜ自己実現を自分の手で阻んでいるのだろう。



posted by ohashi at 19:15| コメント | 更新情報をチェックする