『アイヒマンの後継者、ミルグラム博士の恐るべき告発』2
アントン・フクワ監督の『マグニフィセント』(『荒野の七人』のリメイク)では、ラスボスとして存在感のある悪役として(つまりケチな悪役はよく演じていたのだが)登場し、デンゼル・ワシントンと対決したピーター・サースガード主演の映画。アイヒマンの後継者といのは、誰のことか、ミルグラム博士/サースガードのことかと思われるかもしれないが、そうではなく、このミルグラム博士というのは、ナチスに協力してアウシュヴィッツで人体実験をしたヨーゼフ・メンゲレみたいなマッドサイエンティストかと誤解されるかもしれないが、それもでなく、アイヒマンの後継者というのは、私たちのことである。ミルグラム博士は、私たち全員(あるいは私たちの65%以上)がアイヒマンの後継者になりうることを明らかにする心理実験をした実在した社会心理学者のことである。
この映画の唯一の短所をいえば、映画館でみなくても、テレビでみてもおかしくないような作り方をしていることである。ただ、それはよいことかもしれなくて、テレビでの放送をとおして、多くの人にみてもらうことは有意義だと思わるからである。
とりわけ日本人は第二次世界大戦中における大陸での残虐行為をねぐっているのだから、たとえ善良な一般市民でも残酷な悪魔に変貌をとげることが、この映画からもわかることは絶対にいいことだ。自分の状況によっては、残酷な悪魔にかわりうることを知っていることは、それに抵抗する力ともなるのに対し、日本人はそんな悪魔ではないという妄想にとらわれている人間は、逆に、無抵抗に悪魔になりうる可能性があるからだ。そもそも私たちの世代の父親は、日本では善良な一市民であっても、15年戦争中には、朝鮮半島や中国大陸で残虐行為をはたらいた可能性があるというか、まちがいなく残虐行為に手を染めていた。
私たちより以下の世代は、これまで一度も残虐行為に手を染めたことはなかったかもしれないが、私たちの親の世代は残虐行為を最後までやり遂げてきたのだ。他人ごとではない。ちなみに私の父親は戦争に行ってもよい年齢だったが、わけあって兵役にはついていない。抵抗したり、逃げたりしたら、父親を尊敬してもよかったのだが、尊敬も軽蔑もできない、一応、まともな理由で兵役を免除されたので、兵隊にはなっていない。
もちろん、ミリグラム実験というのは、有名な実験のようで、知らないのは、私だけかということにもなるのだが、そのミリグラム実験に、アイヒマン実験という別名があることから、今回の日本語タイトルになったかもしれない。ただし、このアイヒマン実験というのは、ミスリーディングで、アイヒマンが収容所でおこなった実験ということではない。善良な一般市民も環境や状況によってはアイヒマンに変わってしまう、つまりアイヒマン化が起きるかどうかを検証する実験なので、アイヒマン化実験というならわからないでもないが、アイヒマン実験ではわかりにくい。
ハンナ・アーレントはアイヒマンのような小市民的・小役人的人物がなぜホロコーストを行なえたのかについて、役所仕事における事務手続きで、人間が数字や記号に抽象化されたことで、生身の人間の命を奪うという感覚がなくなり、抽象的な事務処理となって、罪の意識も消えてしまうというようなことを考えたが、ミリグラムは、これを代理状態といって、ただ命令とマニュアルに従って事務手続きをするだけで、それによって自己の判断や責任を回避すると考えた。
この説に対しては、たとえばホロコーストに関係した者たちは、悪を根絶するというような正義と使命感に燃えて自ら志願して虐殺を行なった可能性があり、無垢な事務員ではないという反論がなされてきた。
まあ、間をとれば、たとえ善良な市民であっても、状況によっては悪魔化する、あるいは同じことだが正義の闘士に変わるということだ。寛容さを欠いた正義の追及は悪に反転することを私たちは忘れてはならないだろう。
この映画のよさは、ミリグラム博士の実験のありようを、丁寧に再現していることで、その実験の意味なり効果を観客に説明し観客に思考の糧をあたえてくれることである。この実験をフィクションをまじえてとりあげたテレビドラマ『レベル10』については、この映画のなかでも戯画化されて扱われているが、安易なアダプテーションでは実験の意味を取り違えたりする可能性がある。その意味でも、実験の実際と、その反響(批判もふくむ)をきちんと提示してくれるこの映画は、ミリグラム博士が観客に直接語りかけるという語りの形態とあいまって、知的な刺激を、深い内省の契機をふんだんに与えてくれる。
また時折、映画も、時折、背景が、古い映画のように、映写されることがある。いかにも古い映画ですといわんばかりに。背景が映写されたスクリーンなのだ。おそらくこれは語れる時代背景ということもあろうが、同時にまた、私たちの現実が、映画のなかの一場面、どのような重厚な現実でも虚構にすぎないことの暗示であろう。なぜ虚構なのか。それは、私たちの現実が、いうなれば、この映画の心理実験と同様に、作られたものであり、そのなかで私たちは、どのような反応を示すのか、神によって試されているという暗示だろう。この世界は、夢でも虚構でもなく、神による心理実験なのである、と。
実際、この映画のなかでも面白いシーンがある。ミリグリム博士が、ケネディ大統領暗殺のニュースもって、すでに同僚が授業中の教室にとびこんでくる。実際、大ニュースなので、いち早く、同僚や学生たちに伝えたいという気持ちなのだろう。ところが、学生たちは、また心理実験かと、ニュースを疑ってしまう。嘘じゃないから、ラジオで臨時ニュースを聞いてみろと博士が言うと、確かに、ラジオはニュースを伝えている。しかし学生はいうのだ、また、ラジオに手の込んだ仕掛けまでして実験をしようとは、と。
心理実験のしすぎで、学生たちには、現実が創られた虚構の状況にみえてしまうのである。そもそも心理実験は、人間の残虐性の証明だけではなく、一定の特殊な状況をこしらえて人間の反応をみるわけだから、現実と想定されるところの虚構は絶対に必要なのである。簡単に言えばどっきりカメラ(どっきりカメラそのものでも人間の心理的反応は観察できる)。
これは、現実を実験の場あるいは試練・試験の場として考えてしまうという弊害を生むが、それは弊害かもしれないが、同時に、神様にどうみられているのか、あるいは自分の真の姿は何であるのかを反省する契機ともなる。現実を実験場という名の虚構としてみることは、それなりに意味のあることとなる。
この点は、興味深く、また不快なところもある。今回のミリグラム実験は、興味深いこと、人間の本性をかいまみせてくれて深い洞察を得た気がした。このミリグラム実験は有名な実験でも、私はよく知らなかったが、この映画で、それのもつ意味がよくわかったように思う。またミリグラム博士の、この実験以外の実験も、実に興味深いもので、博士は頭がいい。社会心理学の実験をみなおした気がする。
またドイツ映画『es』(エス)(Das Experiment監督オリヴァー・ヒルシュビーゲル)や、そのアメリカ版リメイク映画『エクスペリメント』のモデルとなったスタンフォード監獄実験にくらべても、実験手順は、穏健で説得力がある。とはいえ『エス』は、実験を再現した虚構、つまり虚構の虚構であって実験の実情とは違う。さらにいえばスタンフォード監獄実験は、ミリグラム実験よりも強制力が強いと同時に虚構力も強い、つまり看守と囚人を演じさせるゲーム感覚が強い。ほんとうの囚人や看守ではないため、虚構性が暴力を許容するところがある。
とはいえこう考え始めると、ミリグラム実験と監獄実験との間に境界をひいても、どのような境界もうそっぽくなって困る。またどちらの実験にも不快感を感ずる人もいるだろう。
たとえば映画『愚行録』の最初のバスの場面。妻夫木聡が車内で座っていると、中年のオヤジから、杖をついて立っている老婦人に席を譲りなさいと言われる。妻夫木の反応がにぶいと、ぼさっと座っていないで、さっさと席をゆずりなさいと、かなり強く言われると、妻夫木もゆっくり立ち上がって席を譲る。ところが妻夫木は脚が悪いようで、バスが揺れると、床に倒れてしまう。この時点でわかるのは、妻夫木は、ただ自分が楽になりたくて、老人が立っていようが席りつづけていたということではなく、実は、脚が不自由で座っていた。そのことを知らずに注意をした中年のオヤジに対して文句も言わずに席をゆずったということになる。そしてその居丈高な中年オヤジは、脚が悪くて倒れた妻夫木に声をかけたり、あやまることもせず、ばつが悪そうだが知らんかおをしている。周囲もこの中年オヤジがしたことが、判断ミスとか悪意ではなかったとしても、脚の不自由な青年に痛い思いをさせたことがわかってくる。
この冒頭のエピソードにはオチがあって、すぐつきの停留所で、妻夫木は脚をひきずりながらゆっくりとバスのステップを降りる。カメラは妻夫木の脚とか靴を大写ししている。バスが去るまで足を引きずっていた妻夫木は、バスが去ると、ふつうにすたすたと歩いていく。脚が悪いというのは演技だったのだ。ここで妻夫木扮する青年は、けっこうなワルだとわかるのだ。
これは心理実験の一つとは言える。老人に席をゆずらなかったからといって、ぶしつけな若者というのではなく脚が不自由であったというような、責められない理由があることもある。またそのことを知らずに注意をし、居丈高に命令した中年のオヤジにも罪はない。悪意とか判断ミスとはいえないだろう。しかし、その中年オヤジは、事情がわかって、青年に、知らぬこととはいえ無理をさせてすまなかったと声をかけてもよかったと思う。あるいは悪くないにせよ、謝罪しもよかったかもしれない。しかし、それをせずに知らん顔をしている。ここで暴露されるのは、こうして偉そうに注意する人間は、道徳心が強いというよりも、人に注意をして、人を動かすことに快感を得ているだけで、道徳とか正義となどどうでもいいのである。自分が偉い人間であることを誇示できればそれでいい。自分の命令で人が動けばそれでいいと思っている。つまり老人たちをたたせたまま傍若無人にも自分だけ席にすわって、自分が人よりも偉いと思っているような不道徳な人間と、実は、まったく同類なのである。またおそらくこの中年オヤジは、妻夫木のような一見おとなしそうな青年だから上から目線で注意したのであって、これがヤクザっぽい怖そうな人間なら、どこまで注意したかどうかわからない。
で、さらにいえば、こういう道徳化タイプ、教育者タイプというのは、注意はし、謝罪させるが絶対に自分から謝ることはない実に鼻持ちならない人間であって、それがこの『愚行録』冒頭の心理実験で、暴露されるのである。
と同時に、これが嘘という詐欺、つまり脚が悪いふりをすることによってもたらされたことに、なにか不快なものを感じてしまう。この冒頭のくそ中年オヤジの愚行は不愉快極まりなくて、ああいう道徳家、教育者タイプの人間を、私は本当に嫌うのだが、それとはべつに、そうした状況をつくった妻夫木に対しても拍手喝采をおくるというよりも、むしろこちらにも底知れぬ悪意を感じてしまうのだ。
今回のミルグラム実験も、人間の残忍さに対しては、弁護の余地はないように思われる。しかし、それをあぶりだす実験を考案した場合、神がみそなわす試験・試練の場というのなら、許されもしようものの、人間がつくったとなると、それは、みずからの神と同列におこうとする傲慢な姿勢すら垣間見えるし、そこまで考えなくても、虚構的設定という、ある種の詐欺のなかで人間の不都合な真実をあぶりだすというのは、嘘から出た真とはいいがたい不快感、問題感が生まれてしまうのだ。
実験は、整合性あるいは客観性を高めるためには、実験者を超越的立場に置くことになるが、そのような超越的立場は、神様以外にとりようがあるのか、また、そうでなかったら、神様を詐称する人間の問題はどうなるかということになる。ここにきて外部があるのかというポストモダン的問題が立ちはだかり、ミルグラム実験も、実は、外部と内部との二つの側の行き来することなるだろう。やっかいな問題として。
つまりエレファント。映画のなかでミリグラム博士が観客に話しかけるときに、後ろに意味もなく象(本物)が出てくるシーンがある。象elephantの比喩的な意味に「厄介な所有物、持て余し物」(研究社大英和辞典)がある(ガス・ヴァン・サント監督の高校生の銃乱射事件を扱う映画『エレファント』には、どこにも象は出てこないので、タイトルは比喩的な意味となっている)。この実験そのものが、どう対応していいかわからない人間の残忍さを白日のもとにさらしたの厄介な実験なのだが、同時に、この実験の成果というか結果そのものだけでなく、実験のありようもまた、ある意味、真実性と倫理性をめぐるやっかいな問題であって、まさにエレファントが大学内を歩き回っているのである。あのエレファントの姿は面白かった。
最後に、この時期、アイヒマン裁判の直後くらいの時期に、こうした心理実験が生まれたことにも演劇史的に興味がある。実際、文学あるいは演劇は、特殊な状況をこしらえて人間の反応をみる心理実験的なところがある。あるいは心理実験のルーツは演劇や文学的虚構であるともいえる。そして追い詰めて人間の残忍性をあぶりだすような演劇、たとえばハロルド・ピンターの暴力的不条理演劇の傑作が書かれたのもこの時期である。実験性と暴力。それはまたある種の不条理演劇も確実に共有しているし、それはまたこの時期の文化的底流にある歴史的・文化的・政治的無意識ではないかとも考えている。