最近、体調不良で(原因は検査の結果わかっているのだが)、外出できなくなっていて、横になって休んでいることが多く、そのためテレビをよくみている。昼も、夜も。
そのため気づくことが多いのだが、ドラマでは昨日みた『相棒』の最後で「取り扱い注意」というフレーズの英語を「ハンドリング・ワーニング」と発音していたのは、いただけない。いくらカタカナ英語は元の英語とは違うといってもwarning(警告、注意)の発音は「ウォーニング」であって、「ワーニング」では絶対にない。
杉下右京も冠城亘も、どちらも「ワーニング」と発音。べつに珍しい、難しい英語じゃないし、ドラマ関係者の誰かが発音のミス(「ワーニング」という発音は絶対にない)を指摘しなかったのだろか。発音をミスったら撮りなおせばいいのだが、撮影がおして、みんな早く帰りたかったのか。まあ、それはよくわからないが、まちがいはまちがいである。
それはともかくとして、今日は『嫌われる勇気』。
アドラー心理学については、何も知らない私だが、ドラマをみるかいぎり、その教えは、きわめて常識的な気がするのだが、犯人との知恵比べのなかで、アドラー心理学の見解をどうからませるのか、そこが気になった。というか、むりにからませなくてもいいのだが、アドラー心理学という裏付けによって、常識的なことでも、妙に、斬新なメッセージをはらんでいるようにみえて、そこが不思議である。メッセージ性が、けっこう際立っていて、これは今期のドラマでは『カルテット』と双璧ではないかと思っている。
で、ここで日本アドラー心理学会の暴挙について。メディアでは、日本アドラー学会がフジテレビに対して、ドラマの内容について抗議し、ドラマを取りやめるように申し入れたというふうに紹介されて驚いた。
嘘だろうと思った。もちろん内容について、それがアドラー心理学とは異なる、あるいは誤解を生むものと抗議するのはいい。しかし、ドラマを取りやめるということまではいってはいけないし、言論と思想の自由は、守られねばならないので、そんなことを、まともな学会がいうわけがないと思っていた。
日本アドラー心理学会のホームページの文書を読むと、最後に「放映の中止か、あるいは脚本の大幅な見直しをお願いしたいと思っております。/早急にご検討いただき、善処いただければさいわいです。」とある。
これはまずい。そもそも日本アドラー心理学会というのは、「幸福の科学」と同じようなものというのは失礼だけれども、組織についてはっきりしないのだが、それについてこちらも事情がよくわからないので触れない。
問題は、相手がドラマであるということだ。フィクションであって、脚色と翻案は、当然、なされるし、たしかにアドラー心理学の専門家というような人物が、重要な原理を教える場面がドラマのなかにあるのだが、最終的には、ドラマのなかのエピソードとからんだかたちで紹介されるので、そこに独自の解釈が入る余地はある。
またドラマの進行につれてアドラー心理学の全貌も紹介されるのであって、途中の段階で抗議するのもどうかと思うが、抗議するのはよい。しかし、ドラマの取りやめというのは思想・言論・表現の自由を侵す許しがたい暴挙であって、このような暴挙をアドラー心理学ではどう考えるか、そちらのほうの意見をききたいくらいだ。まあ、売名行為だろう。
今回みたエピソードでは「共同体感覚」というアドラー心理学の考え方を紹介していて、「嫌われる勇気」と「共同体感覚」は、両立する、矛盾しないことが説かれていた。これはけっこう重要な見解で、通常のドラマで、そこまでのメッセージを入れるのは、稀かもしれない。
もちろん、これは抗議があったから、脚本に手直しをしたからかもしれないが、最初から、このような展開が予定されていたのなら、日本アドラー心理学会からの抗議は速断すぎるといわざるをない。
繰り返すが、言論、思想、表現の自由は、現行の憲法下では、絶対に守らなければならないものである(少なくとも共謀罪が適用されるまでは)。したがって、抗議はいいが、放送中止をもとめるような暴挙は、「学会」たるもの絶対にしてはいけない。またフィクションと現実との区別をアドラー心理学会ができないようでは、嫌われますよ。まあアドラー心理学会としては「嫌われる勇気」は最初からおもちなのかもしれないが、そんなことをしていたら、学術共同体のなかで居場所がなくなりますよ。まあ、売名行為なのだろうが。
くりかえすがテレビドラマ、フィクションをどうみるかの問題である。実際に、あんな女性刑事はいないだろう。だから警視庁も、現実に、ああいう女性警察官はいないので、警察活動に誤解が生ずる恐れがあると抗議してもおかしくないのだが、日本の警察は、そんな抗議をするようなバカではない。私はむしろ日本アドラー心理学会に猛反省してもらいたいと思っている。