2017年02月24日

『嫌われる勇気』

最近、体調不良で(原因は検査の結果わかっているのだが)、外出できなくなっていて、横になって休んでいることが多く、そのためテレビをよくみている。昼も、夜も。


そのため気づくことが多いのだが、ドラマでは昨日みた『相棒』の最後で「取り扱い注意」というフレーズの英語を「ハンドリング・ワーニング」と発音していたのは、いただけない。いくらカタカナ英語は元の英語とは違うといってもwarning(警告、注意)の発音は「ウォーニング」であって、「ワーニング」では絶対にない。


杉下右京も冠城亘も、どちらも「ワーニング」と発音。べつに珍しい、難しい英語じゃないし、ドラマ関係者の誰かが発音のミス(「ワーニング」という発音は絶対にない)を指摘しなかったのだろか。発音をミスったら撮りなおせばいいのだが、撮影がおして、みんな早く帰りたかったのか。まあ、それはよくわからないが、まちがいはまちがいである。


それはともかくとして、今日は『嫌われる勇気』。


アドラー心理学については、何も知らない私だが、ドラマをみるかいぎり、その教えは、きわめて常識的な気がするのだが、犯人との知恵比べのなかで、アドラー心理学の見解をどうからませるのか、そこが気になった。というか、むりにからませなくてもいいのだが、アドラー心理学という裏付けによって、常識的なことでも、妙に、斬新なメッセージをはらんでいるようにみえて、そこが不思議である。メッセージ性が、けっこう際立っていて、これは今期のドラマでは『カルテット』と双璧ではないかと思っている。


で、ここで日本アドラー心理学会の暴挙について。メディアでは、日本アドラー学会がフジテレビに対して、ドラマの内容について抗議し、ドラマを取りやめるように申し入れたというふうに紹介されて驚いた。


嘘だろうと思った。もちろん内容について、それがアドラー心理学とは異なる、あるいは誤解を生むものと抗議するのはいい。しかし、ドラマを取りやめるということまではいってはいけないし、言論と思想の自由は、守られねばならないので、そんなことを、まともな学会がいうわけがないと思っていた。


日本アドラー心理学会のホームページの文書を読むと、最後に「放映の中止か、あるいは脚本の大幅な見直しをお願いしたいと思っております。/早急にご検討いただき、善処いただければさいわいです。」とある。


これはまずい。そもそも日本アドラー心理学会というのは、「幸福の科学」と同じようなものというのは失礼だけれども、組織についてはっきりしないのだが、それについてこちらも事情がよくわからないので触れない。


問題は、相手がドラマであるということだ。フィクションであって、脚色と翻案は、当然、なされるし、たしかにアドラー心理学の専門家というような人物が、重要な原理を教える場面がドラマのなかにあるのだが、最終的には、ドラマのなかのエピソードとからんだかたちで紹介されるので、そこに独自の解釈が入る余地はある。


またドラマの進行につれてアドラー心理学の全貌も紹介されるのであって、途中の段階で抗議するのもどうかと思うが、抗議するのはよい。しかし、ドラマの取りやめというのは思想・言論・表現の自由を侵す許しがたい暴挙であって、このような暴挙をアドラー心理学ではどう考えるか、そちらのほうの意見をききたいくらいだ。まあ、売名行為だろう。


今回みたエピソードでは「共同体感覚」というアドラー心理学の考え方を紹介していて、「嫌われる勇気」と「共同体感覚」は、両立する、矛盾しないことが説かれていた。これはけっこう重要な見解で、通常のドラマで、そこまでのメッセージを入れるのは、稀かもしれない。


もちろん、これは抗議があったから、脚本に手直しをしたからかもしれないが、最初から、このような展開が予定されていたのなら、日本アドラー心理学会からの抗議は速断すぎるといわざるをない。


繰り返すが、言論、思想、表現の自由は、現行の憲法下では、絶対に守らなければならないものである(少なくとも共謀罪が適用されるまでは)。したがって、抗議はいいが、放送中止をもとめるような暴挙は、「学会」たるもの絶対にしてはいけない。またフィクションと現実との区別をアドラー心理学会ができないようでは、嫌われますよ。まあアドラー心理学会としては「嫌われる勇気」は最初からおもちなのかもしれないが、そんなことをしていたら、学術共同体のなかで居場所がなくなりますよ。まあ、売名行為なのだろうが。


くりかえすがテレビドラマ、フィクションをどうみるかの問題である。実際に、あんな女性刑事はいないだろう。だから警視庁も、現実に、ああいう女性警察官はいないので、警察活動に誤解が生ずる恐れがあると抗議してもおかしくないのだが、日本の警察は、そんな抗議をするようなバカではない。私はむしろ日本アドラー心理学会に猛反省してもらいたいと思っている。

posted by ohashi at 03:28| コメント | 更新情報をチェックする

2017年02月21日

橋本奈々未卒業

220日をもって橋本奈々未が乃木坂46から卒業するのは寂しい。2月20日は本人の誕生日。AKB48の小嶋陽菜も4月19日という自身の誕生日に卒業するのだから、同じパタンか。いつまでもいてほしかったというのは、無理な話だが、それにしても残念である。


橋本奈々未について、乃木坂46について、とくに興味をもつようになったのは、山下敦弘監督『超能力研究部の3人』(2014126日公開、配給BS-TBS)を映画館でみてからである。興行的には失敗したらしい映画で、気づくと、いまだにDVD化されていない。しかし映画館でみたかぎり、とくに人が入っていないという感じはしなかったし、映画そのものは、いわゆるフェイク・ドキュメンタリーで、ものすごく面白い映画だった。DVD化されて、多くの人に見てほしい映画である。とにかく面白いから。


主役の乃木坂46の三人(秋元、生田、橋本――とはいえ当時は、恥ずかしいことに、三人とも知らなかったのだが)のファンになったし、演技と素の境が流動的であること、そこにずっと戯れている映画は、どこまでも刺激的で、山下監督のセンスの良さを実感した。


実はネットでは、この映画をぼろくそに書いている記事があって、いわく、この程度の映画でも興行の対象になるのだから日本はおめでたい。というような誹謗中傷を偉そうに書いているバカがいることに、あきれる。その言説は、ユダヤ人が創った映画を誹謗中傷するナチスの批評家のような悪辣さがあって不愉快きわまりないのだが、そういう言説にまどわされなければ、『超能力部の三人』は、エンターテインメントとしてもじゅうぶんに面白い。おそらくヒットしなかったのは、乃木坂の知名度の低さと、さらに、そのなかでも三人の知名度の低さなのだろう(この三人、いや二人か、は、いまの乃木坂の主要メンバーなのだが)。


で、この映画のなかでクール・ビューティーの橋本に、私は大いに引きつけられた。橋本奈々未に頭踏んでほしいと本当に思ったのだが(すみませんマゾで)、もちろん、その後、彼女の人間味にも感銘をうけることになった。モデルでもある彼女は、きれいお姉さんタイプなのだが、実際に弟もいて、そのことで熱い人でもあることを実感した。ありきたりがだが、卒業してからの活躍を祈っている。

posted by ohashi at 15:27| コメント | 更新情報をチェックする

2017年02月20日

『タール博士とフェザー教授の療法』

これはネタバレになるのだが、ここでネタバレをしても、先の映画『アサイラム』をみる妨げにはならないし、またポウの原作も読んでいくと、けっこう早い段階に、このネタバレについては気づくので、迷惑をかけることはないと思うのだが。


「タール博士とフェザー教授の療法」というのは精神病院で、患者たちが、医師や看護人たちをどこかに閉じ込め、自分たちが病院長や医師、看護人、そして病院関係者になりすますという物語である。主人公/語り手が、見学にいく精神病院で、温かく迎えてくれた病院長は、実は、狂人の患者がなりすましたものだった。また病院の晩餐に集まってくる院長の身内や知人、地元の関係者というのは、皆、狂人がなりすましているのだった。


このことは物語の半分以前、すでに三分の一か四分の一くらいのところで読者にもわかってくるのだが、一般に言われていることは、南部の奴隷解放には批判的だったポウが、奴隷=精神病患者を人道的に扱い、監禁拘束せずに、自由な暮らしをさせると、早晩、病院=社会を乗っ取ってしまうぞ。油断するな。そもそも奴隷に人道的扱いなどするなという、保守的イデオロギーに基づく風刺ということである。


しかし、いまの私たちからみると、そうしたイデオロギーとは関係なく、この物語を読んで面白がる、あるいは怖がることができる。


圧巻は、病院内での晩餐の場で、病院長とその知人たち(実は、明らかに精神分析患者たち)が、珍しい患者たちの狂人ぶりを紹介するのだが(実は、それが自己紹介になっている)、その鬼気迫る狂人ぶり――ノーマルな人間のふりをしていても完全にアブノーマルなのだ――に読む者は圧倒される。ポウが展開する狂気の支配する世界の異様な迫力は、ノーマルな語り手にも感染してしまい、たとえば、題名のタールとフェザーは、それ自体で冗談なのだが、『タール博士とフェザー教授の療法』という本を、語り手は、探して見つからなかったと最後に語るのだ。これは、あるはずのない本を探すということで、冗談にもなっているのだが、同時に、語り手は偽病院長の話に感化されて本気になって探したともとれる。


それはともかく、このポウの作品を読むにつけても、私など、いまのアメリカの政権のことがどうしても思い浮かぶ。政治について、ずぶ素人が、基本的原理すら無視して好き勝手なことをしている図は、まさにおままごと、お遊び、いや、狂人が大統領府を乗っ取ったような様子を示している。トランプなんてどうみてもフェイク大統領だろう。フェイクどころか精神異常者といっていい。精神異常者を差別するのは断じていけないが、精神異常者が政権をとることには反対するべきである。ポウが描いた精神病患者が支配する精神病院の鬼気迫る描写は、いま精神病患者が支配する大統領府となって現実化しているのだ。



posted by ohashi at 21:20| コメント | 更新情報をチェックする

2017年02月19日

『アサイラム』

『アサイラム 監禁病棟と顔のない患者たち』

昨年の10月にDVDが発売になって、またレンタルもされているようだが、日本で公開されなかった。ブラッド・アンダーソン監督、主演ジム・スタージェス、ケイト・ベッキンセール、ベン・キングズレー、マイケル・ケイン、デイヴィッド・シューリス、ブレンダン・グリーソンと、まあ、よくこれだけのイギリス人俳優を集めたというか、イギリス人俳優しかいないような2014年アメリカ映画。原作はエドガー・アラン・ポウの"The System of Doctor Tarr and Professor Feather"「タール博士とフェザー教授の療法」(1845)


アメリカなどでの一般的な評判をみると、けっこう高評価。みんな面白がっている。怖すぎず、残酷すぎず、演技者たちの演技の魅力が映画を支えている。ケイト・ベッキンセールが、おそらく誰もが望んでいたような役柄だし、ジム・スタージェスは、今回は髭面で、ちょっと人相が変わっているが、相変わらず声がいい。ベン・キングズレーとマイケル・ケインは、期待通りの役柄だし、デイヴィッド・シューリスの悪役もよく似あっている。


また映画は、ポウの原作以上に、正気と狂気の関係の脱構築をおこなっているので、知的にも飽きさせることがない。


そもそもポウの原作のネタは、映画開始から30分で出尽くしているので、これから1時間余り、どうやって話をもっていくのかと心配になるのだが、最後にはみごとに予想を裏切ってくれる。伏線があったことはわかるのだが、結末は予想できなかった。


実は、この設定で、この展開なら、映像的に、映画的に、もっといろいろなことができたような気がするのだが、それをこじんまりとまとめようとしているところに、不満は残る。とはいえ、ポウの原作とともに、いろいろ考えさせられる作品であることはまちがいない。実際、最後の場面を、どうとらえるかは、オープンなのだから。


あと、これは昔の話になるが21世紀になるのは2001年からであって、2000年は20世紀最後の年だったが、この映画は1899年のクリスマスから1900年の新年にかけての物語として設定されているのに、新年に新世紀のお祝いをするのだ。う~ん、ちがっている。


またさらにデイヴィド・シューエルの役は、ゲイであることを濃厚ににおわせている。西洋社会において、ノーマルな白人と区別がつかない種類の人間がいくつかいる。狂人。ユダヤ人。同性愛者である。パッシングしている狂人の物語は、いまひとつのパッシングとして同性愛者を悪魔化しているのである。


posted by ohashi at 12:33| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年02月17日

『ウィリアム・ウィルソン』

最近、ポウの読書会をしている。私が主催しているのではなく、参加させてもらっているにすぎないのだが、誰もがポウを愛している。アメリカ文学のポウの専門家ではない院生たちが参加しているが、誰もがポウを愛しているし、また、すでに代表作は読んでいる。だからあらためて昔読んだポウの作品を読みなおし、いろいろ発見もあったのだが。それはおいおい書いていくことにして。


並行してポウの映画化作品を観ている。そんなに映画作品は多くないだろうと思っていたが、北島明弘『映画で読むエドガー・アラン・ポー (SCREEN新書)(日本近代映画社2009)という新書本もあるくらいで、けっこう映画化されているようだ。


そして今回観たのは、オムニバス映画『世にも怪奇な物語』のなかのルイ・マル監督の『ウィリアム・ウィルソン』。この三作品オムニバス『世にも怪奇な物語』では、フェリーニの「悪魔の首飾り」が有名だが、ルイ・マル監督の「影を殺した男」(原題William Wilson)も、よくできた映画だし、昔、中学生の頃にみた記憶がよみがえってきた。子どもの頃のウィルソンが、寄宿学校で、母親からきた手紙を封も切らずに不敵な面構えで破り捨てる場面など、いまもなお記憶に残っていることがわかった。アラン・ドロンとブリジット・バルドーとの必要以上に長いポーカーの場面とか鞭うたれるSM的シーン、そして人気(ひとけ)のない通りを一人走るアラン・ドロン/ウィリアム・ウィルソンなど、昔見た映画が脳裏に焼き付いていたことが、あらためてわかった。


そして、これは思いがけない発見だったが、若い頃、軍人になる前のウィリアム・ウィルソンは、医師をめざし、医学の授業を受けている。そして夜、若い女性を拉致し、教室の解剖台に彼女の裸体をさらして、生きている女性を解剖しようとするのだ。もちろん、これは原作にはない、映画のなかだけの、エロスとグロテスクを狙った物語展開だが、若い医師たち、医学校・医学部の学生の女性への暴行というのは、最近の日本の事件とめざましい通底ぶりをみせて、驚きと不快の念を禁じ得なかった。


posted by ohashi at 18:38| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年02月04日

『沈黙』

マーティン・スコセッシ監督の『沈黙』は、予想通りの大作かつ感動作で、実際には台湾で撮影しているのだが、違和感はないし、また主要な日本人配役以外にもたくさんの日本人俳優が出演している。ネット上の公式ホームページにもプログラムに言及されていないのは残念なことである。


たとえば私の気づいた範囲で、網羅的なものでもなんでもないのだが、片桐はいり、元プロレスラーの高山善廣以外にも、たとえば看守に青木崇高、またロドリゴの日本人妻は黒沢ああすかでしょう。実際、台詞の量からすれば、青木崇高のほうが、加瀬亮よりも多いのだが、プログラムや公式ホームページでは言及されていない。


まあ、それはともかく、今回は、映画そのものよりも、原作と、そこに描かれた世界について思うところを二、三、書いておきたい。


ごく素朴な問いから。なぜ踏み絵を踏んではいけないのか。そもそも踏み絵というのは偶像なので、キリスト教にとってイエスも聖母マリアも、そもそもキリスト教そのものについても、冒涜したことにはならない。イスラム教徒は厳格に偶像崇拝を禁ずるから、踏み絵などで信仰を失ったりしないだろう。同じことはキリスト教でも同じである。ロドリゴが踏み絵を踏んでもよい語るのは、原作にはない設定だったと思うが(原作にあったらごめんなさない)、それはあたまりまえのことであって、迫害される信徒たちのことをおもんばかってのことかもしれないが、そもそも原則として、それは問題ないことだろう。


カトリックは二枚舌を認めていた。カトリックの二枚舌はシェイクスピアも『マクベス』のなかで揶揄しているのだが、シェイクスピア自身、隠れカトリックだったふしがあるので、カトリックの二枚舌批判すらも、二枚舌の可能性があるのだが、それはともかくとして、二枚舌戦略は、迫害を逃れ、いたずらに殉教しないための重要な知恵というよりも行動原理のはずである。当時のイングランドは、キリスト教ではなくカトリックは徹底的に迫害され、それはユダヤ人差別に匹敵するとも言われていた。


だからカトリックにとって、本来、踏み絵など何度踏んでもいいし、棄教したことを何度言いつのっていもいいのであって、心の内は、神が知っているはずである。だから、踏み絵ごときが、そんなに問題になるのか、よくわからない。


だが、原作でもそうだが、映画のなかでは、原作以上に強調されていた気がするのだが、踏み絵を踏んでも、形式的なものであって、それ以後、なにも問わない。ただ、踏めばいいのだと審問官が迫るのである。


踏み絵など、ただのへたくそな偶像にすぎず、そんなものを踏んだところで信仰を捨てたことにはならない、と、私は考える。私は、宗教あるいは信仰の重要性は理解しているつもりだ。踏み絵を踏んだからといって棄教したことにならないだろう。


ところが同じことを審問官がいうのである。となると、これは罠なのか。


これがずっと気になっている。なぜこれが罠なのか。


もし私が、偶像など信仰心と何の関係もないと言って、踏み絵を踏んだとしよう。そして踏み絵を踏んだとしても神は私の信仰心の堅固なることをわかってくださると考えたとしよう。審問官はどういうか。おまえの信仰はそんなものか、と、そう語ることで、信仰心そのものを相対化する。絶対化しない。衣服と同じで、着たり着なかったりできるもの。それが信仰なのであって、だったら、仏教でもキリスト教でもいいわけで、仏教徒になったところで、問題ないのではないか。気が向けばまたキリスト教にもどればいいのでは。いや、信仰はそんな簡単なものではない、というのなら、おまえはなぜ踏み絵を踏んだのだと迫る。いや、あなたがちょっと踏めばいい、それで万事丸くおさまるからといったからじゃないか。事務的な手続きにすぎないと言ったじゃないかと反問すると、だったら、おまえは、私が、ちょっとあいつを殺してくれ、いや、包丁でちょっとわき腹を刺すだけでいい、事務的な手続きだからといわれたら、それをするのかと迫る。たぶんそれはできないだろう。罪もない人の命を奪うのは、悪であると知っているおまえは、誰かに命じられてもそんなことはしないだろう。命じられてもしないこともある。ところがおまえは命じられたとはいえ、基本的に、自分の意志で踏み絵を踏んだのだ。お前にとって信仰とはそんなものだ……。


ということになるのだろうか。


この問題は、もう少し、いや、もっと考えたい。

posted by ohashi at 07:29| エッセイ | 更新情報をチェックする

2017年02月02日

1UPのCM へんだ

UPCM おかしい

ネット上の紹介コメントを引用する。


俳優の瑛太が真面目な会社員「上田一」を演じる住友生命『1UP』のCMが放送されています。前回のCMでは菅田将暉が「上野一」という役柄を演じていました。

……

CMの内容は英語の資格試験を受けた上田が試験終了後、名前を書いていないことに気づいたけれども、試験時間が終わってから書くのはダメだからと「不正はしない」と、ちょっぴりバカ真面目な人柄を演じています。


Yahoo知恵袋のでの質問

今やってる1UPのCM、上田一が英語の試験を受けて名前を書くことを言ってるバージョンのですが、意味がわかりません。名前を結局書き忘れたのか、横の女性の視線の意味、結局オチは?職場のみんな疑問のようで家族も誰もわかりませんので質問させていただきます。


これに対するベストアンサー(とはいえ寄せられた回答はこれだけなのだが)


試験時間が終了して試験監督の「筆記用具を置いて下さい」と終了の合図があった時に解答用紙に名前を書いていない信じられない事実に気付く…。名前は「上田一」2秒も有れば名前を書くことが出来たのに試験監督の指示に従い、あえて名前を書くことをしなかった

(不正をしなかった)試験で1UP


これのどこがベストアンサーなのかわすれるが、こうした場合、試験監督上の規則があるのではないだろうか。


端的にいって、試験用紙を回収しにきた係りの人間に、名前を書き忘れました。いま書いてもいいですかと質問すれば、だめとは言わないだろう。あるいは、係員はほかの係員を読んで検討するのではないか。たぶん、係員立ち合いのうえ、名前を書くのを許すだろう。もちろん書き忘れた名前を書くというどさくさにまぎれて、なにか解答を書くという不正行為に及ぶ者もいるかもしれないから、係員が目を光らせ、名前以外のことを書き、解答したら、そこで即、不正として認定され、試験は無効になるだろう。しかし、名前を書き忘れたということに対して、試験監督者は、名前を書くのを許してくれるだろうと思うし、また、書き忘れた名前を書くのを絶対に認めないというようなマニュアルはないと思う。


また、試験開始に先立って、最初に名前を書くようにという指示があると思うから、書き忘れるということはないだろう。ありえないミスである。


またさらに、試験の答案は、マークシート方式だったら、受験番号をマークさせるはずなので、名前が書いていなくても、採点、合否判定に、まったく問題はない。たとえマークシート方式でなくても、受験番号で答案は管理するはずだから、名前よりは受験番号である。


ただ、いずれにしても、名前を書き忘れたのですがと試験監督者に申し出れば、監督者立ち合いのもと名前を書かせてくれるはずだから、このCMはまちがった情報というかイメージを垂れ流している可能性がある。もちろん名前を書き忘れるなという警告であれば、この時期、つまり受験シーズンなので、有益なCMなのかもしれないが。


とにかくCMのシナリオにむりがある。


posted by ohashi at 22:25| コメント | 更新情報をチェックする

2017年02月01日

『インビテーション』2

カズオ・イシグロの初期短篇に「ファミリー・サパー」Family Supperという作品がある。

「夕餉」というタイトルだったのかどうか覚えていないが、亡き出淵博先生が雑誌に翻訳されていた。大学の授業で、この作品を英語で読んだこともある。当時はまだカズオ・イシグロの名前はまだ一般に知られていなくて、学生に何を読んでいるのかと尋ねた私の同僚が、「カズオ・イシグロ」と聞いて、なんだ大橋は日本人の作品を学生に読ませているのか、英語の勉強になるのかと驚いたという逸話がある。ほんとうの話である。いまからみればなつかしい。


その‘Family Supper’だが、妻を亡くした中高年の男性が、すでに成人となっていて、家を出て行った息子や娘を、妻の一周忌かなにか(記憶を頼りにしているのでまちがっている可能性が大だが)で家に呼び寄せる。そしてこの父親は、夕食を自分で作るのだが、何をつくるのかというとフグチリというかフグの鍋である。父親は自分でフグをさばく。またフグの毒の記述があり、致死的なのだが、すぐには死なないと書いてある。


みんなが父親がつくったフグ鍋を食べて満腹になり、これら寝ようかというところで作品は終わる。とはいえ父親がフグの毒を鍋に入れた可能性があり、朝になると家族全員(父親も含め)死んでいるという可能性が不気味な余韻となって残る。


かなり怖い話であって、ネットで調べてみると、この作品、ホラー扱いされている。まあ、日本では素人がフグを自分の家でさばくということはあり得ないし、そもそも素人にフグを売ることはない。ただ、それを無視すれば(まあ、無視できないが)、かなり不気味な話である。これからどうなるのかと緊張感マックスで終わるのだが、カリン・クサマ監督の『インビテーション』も、そういう映画だといえばわかってもらえるかもしれない。


幼くして死んだ男の子がいる。その死によって両親は離婚。2年後、再婚もしくは新しいパートナーといっしょになった妻が、こちらも再婚もしくは新しいパートナーを得た夫のほうを、夫婦で暮らしていた家(豪邸だが)に、知人関係者とともに招待する。幼い息子の死。そのトラウマから立ち直れない元夫婦。そこに死は恐れるにたらぬ救済であると考えるカルト集団(再婚した妻と夫は、その一員らしい)に関係しているらしい未知のカップルがいる。となると、どういう緊迫感に満ちた怖い映画になるか、想像できる。しかも、おどろおどろしさを極力抑えて、緊迫感を高めていく。べつに残酷でグロイ場面があるわけではないが、怖い映画だった。

posted by ohashi at 19:07| 映画 | 更新情報をチェックする

『インビテーション』1

The Invitation(2015) 渋谷のヒューマントラストでの〈未体験ゾーンの映画たち2017〉について、そのすべてを観る余裕はないのだが(またすべてを観る価値があるかどうかも疑問なのだが)、カリン・クサマ監督の本作は、やはり気になる作品である。


「ある事故が原因で心に傷を負ったウィルとイーデンは立ち直れないまま別れてしまい、彼女は消息不明になる。2年後、突然ウィルの下にイーデンからディナーの招待状が届き……」とネット上の紹介にはある。


その再会パーティがなにか不穏な雰囲気で展開し、上記のウィル以外、誰も、なぞめいた不穏な様子を気にかけもしない。なにかが進行しているのである。そして何かが起こりそうな気配が、おどろどろしくないかたちで充満する。その緊張感で、観終わったあと相当疲れている自分がいる。心臓の弱い方にはおすすめできないというような表現があるが、この緊張感は、体力勝負である。だから、地味な展開であっても、決して眠たくなることはない。


カリン・クサマ監督作の高いテンションを、この作品も維持していて、3日の公開で終わってしまうのが惜しい。DVDで販売されることを希望したい。


ただ出演している俳優たちについては、誰も知らない。というか彼らの出演している映画をみているのだが、まったく記憶にない。一般に有名なスターではないが、演技に不満はない。ひとりテレビでの活躍が多い(悪役が多い)ジョン・キャロル・リンチがいるのだが、顔は観たことがあると思うが、名前は誰も知らないだろう。『プルーフ・オブ・ライフ』のレギュラーだが。


カリン・クサマ監督の映画は『ガールファイト』(2000)から、みている。『ガールファイト』で主演のミシェル・ロドリゲスが印象的だったが、彼女は、その後『バイオハザード』とか『アバター』(原住民ではなく人間の役)など出ている。最近では『ワイルド・スピード』だろうか。


そのクサマ監督が『イーオン・フラックス』の実写版を撮影すると聞いたときには驚いた。もともとアニメ版の『イーオン・フラックス』はイギリスにいるときにはじめてテレビでみて、そのグロさに驚いたことがある。敵基地に潜入したイーオン・フラックスがガードマンを殺しまくり、まさにチャポチャポと音を立てる血の海を泳ぐようなエグさに圧倒されたことがあるが、シャーリーズ・セロン主演の映画そのものは、そのポスターの画像の鮮明さに驚いたが、エグいものでなかった。評判の悪かった『ジェニファーズ・ボディ』(2009)だが、メーガン・フォックス(『トランスフォーマー』)とアマンダ・サインフェルトの共演によるテンションの高い映画で、私としては評価が高い。そして今回の映画も、評価は分かれているようだが、じわじわとしめつけてくる緊張感は、ハンパじゃない。。


posted by ohashi at 19:03| 映画 | 更新情報をチェックする