2017年01月27日

『マクベス』(カクシンハン版)

大学でシェイクスピア作品を読む演習では、必須課題ではないが、演劇の授業を履修しているのだから、劇場(大中小どれでもいい。素人の演劇でも、素人とはいえ質の高い学生演劇などでもいい)に足を運んではどうか。そして観劇記(書式、字数などは自由)を書いてはどうかと、準課題を課している。対象は台詞のあるシェイクスピア劇。ただし必須課題ではないので、観劇記を提出しなくても成績には全く影響しないと伝えている。あくまでも、自由意思に基づく成績とは関係のない課題である。


毎年半分まではいかないが、それに近い学生が観劇記を提出してくれ、私自身、それを読むのを楽しみにしている。


カクシンハン版『マクベス』を池袋シアターウェストで見たが、今回は、私の下手な観劇記よりも、学生が期末レポートといっしょに提出してきた観劇記のほうが実際の上演をうまく伝えてくれているように思えたので、提出された観劇記をそのまま掲載したい。学生の承諾は得ていない。したがって名前を伏せておく。誰の観劇記はわからないのようにしておく。


とはいえ名前を伏せなくても、りっぱな観劇記であって、どこに出しても恥ずかしくない、いや、それ以上のものであって、みんな文章も洞察力も優れている。そのため、カクシンハンの舞台をどのような劇評よりも的確に伝えてくれるのではないかと思い、ここに数点、掲載する。


観劇記の対象は2016年度後半に上演されたシェイクスピア劇なので、全員がカクシンハン版『マクベス』をみているわけではないが、私の推薦、宣伝だけではなく、さまざまな情報源から、評判を聞きつけて見に行く学生(東大英文科生)が増えているのはうれしいかぎりである。最近は、劇団から英文研究室に、チラシもポスターも送られてくることはなくなっているにもかかわらず。


なおここに掲載する観劇記については、評価とは連動しない。もし自分の観劇記が掲載されていることを発見した学生諸君がいても、掲載されたから成績もよいと思わないように。とはいえ以下の観劇記を見る限り、みんな優秀であることはよくわかる。


3年生のAさん(ただしアルファベットは本人の名前といっさい関係ない)の観劇記


 今回私は木村龍之介氏主宰の劇団、シアターカンパニー・カクシンハンの『マクベス』を観劇した。劇団についての事前知識はなかったが、終演後購入したパンフレットにて木村氏が蜷川幸雄氏への強い意識を持っていることを知った。観劇中、マクベス夫人の話し方や舞台装置の使い方などに彩の国シェイクスピア・シリーズで見たような既視感を覚えていたためこの記述は非常に納得のいくものだった。これらの点も含め、以下作品の演出、翻案、観劇の感想について述べる。


1.演出

1)舞台装置

 本公演で最も目を引いたのが、多数のパイプ椅子だ。冒頭の合戦シーンでは剣となり、ダンカン王一行がマクベスの城に到着した際には城壁となり、また王との晩餐を抜け出したマクベスとマクベス夫人が悪事の計画を囁き合う場面では壁にも扉にもなる。合戦ではそれぞれの役者が持つパイプ椅子が立てる音も剣同士のぶつかる音として有効に使っていたし、城壁など高さのあるものを表す場合は2脚の椅子を縦に繋げて人を隠すほどの丈を確保していた。それらが並び一部が動いて扉を表すのは、あたかも彩の国シェイクスピア・シリーズでの蜷川マクベスで使用された巨大な鏡のようだった。

 決して広いとは言えず客席からも近い舞台の上で様々な場面を表すためか、移動が容易なパイプ椅子やキャスター付きの台車などが用いられていた。台車は一般的にパイプ椅子を大量に運ぶために使われるものだが、劇中ではしばしばマクベスなど登場人物が乗る馬車であったり玉座であったりした。例えばマクベスの戴冠式では王夫婦が台車に乗り、家臣に押させて登場した。コミカルではあったが、不思議と違和感は感じなかった。

 また、キャスターがついた装置にはもう一種類陳列棚のような形のものがあった。こちらにはスナック菓子がたっぷりと積まれており、祝宴の場面で出席者たちはここから好きなように食べ物を取って思い思いに楽しんでいた。本来はゆっくりと食卓につき豪勢な食事をとるべき場面であるが、安価でありふれた菓子はマクベスが本来王にはふさわしくないことを揶揄しているようにも受け取れた。それらを用意したのはマクベスの側なので、場にふさわしいものを用意できていない様子とも取れるだろう。

 さらにここでは戦場での死者に被せられたビニール袋にも触れておきたい。大きな透明の袋が倒れ伏す人物に被せられ彼らはすっぽりとその中に収まっているのだが、それが10人近く寄せ集められたさまは異様な雰囲気を醸し出していた。戦場の異様さ、死というイメージの無機質さ、マクベスの狂気全てが表されているかのようだった。血の表現がなくともここまで「死」を表現できるとは驚きであった。

2)衣装

 本作の登場人物たちは、マクベス夫妻と魔女を除いて皆がほとんど同じ白一色の服装をしている。夫人付きのメイドは白の三角巾、マクベスの命で動く暗殺者たちは白いマスクというように多少の小道具で役割の表現はあれ基本的に全身白である。一方でマクベスは黒一色、夫人は赤一色だが、終盤夫人が亡くなったという知らせを受けてからマクベスは初めて赤い上着を着て戦いに挑む。いつどこで2人が舞台に登場しても観客は彼らを容易に見分けることができる。この色についてだが、マクベスについては悪徳の黒、夫人については彼女が幻に見続けた手のひらの血の赤の象徴と取れると感じた。

 魔女たちは同じく白い衣装で、ただ大きな白い布をストールのように羽織る点が他の人物と異なっている。この大きな布というのは小道具ともなり、最後にマクベスがマクダフと一騎打ちする際は魔女の魔力としてマクベスの手足を縛り剣を振るえなくさせるなど重要な役割を果たしていた。この公演ではマクベス夫妻以外は一人で複数の役を演じていたため、衣装が簡単かつ区別が少ないのは演じ分けを容易にするための配慮でもあったのではと思う。

3)映像

 劇場の奥には白いスクリーンと壁があり、近年流行しているプロジェクションマッピングのような映像が用いられていた。魔女の登場やマクベスの葛藤に合わせて混沌とした雰囲気を醸し出すほか、マクベスがダンカンを殺した後に大きな×印を”sleep no more”の文字とともに映し出す、暗殺者から逃げ出したフリーアンスが劇場外を走る映像を流す、など場面によって効果的な使い方がされていたと感じる。特にフリーアンスのその後についてはただ走るだけとはいえ原作で語られない彼の後日談を見ているような気持ちになった。

 舞台上に色彩が少ない分、映像に様々な色が用いられコントラストがあったのは面白かった。全ての映像に鮮やかに色が付いていたのではなく白黒のものもあったので、舞台と映像、映像自体の2種類の対比が見られたのが興味深い。

4)音楽

 今作は現代劇ではないのだが、J-POPや洋楽がBGMとして多く使われていた。中には歌詞を台詞として人物に言わせている箇所もあり、従来のシェイクスピア演劇とはまた違った試みではないかと感じた。これに対しては賛否両論あるだろうが、私は原作で描かれなかった登場人物の心情を歌詞という文章に託して挿入するのはなかなかに面白い試みだと考える。完全な文章ではない歌詞の形だからこそ、シェイクスピアの戯曲の形式に沿うという可能性もあるのではないだろうか。ただ、マクベス夫人が死ぬ直前の長い引用はやや間延びした印象があった。繰り返しの多い歌詞だったせいもあるのかもしれないが、まだまだ演出家の中でも確立はされていない手法の印象を受けた。

 使われていた場面にやや確証がないのだが、おそらくマクベス夫人とマクベスが揃って寝室に向かう第3幕4場のラストで2人の台詞がなくなった際BGMとして流れていたのがデヴィッド・ボウイのRock n Roll Suicideであった。この直前はマクベスがバンクォーの亡霊を見て半狂乱になる場面であり、ダンカン殺害に始まった彼らの一連の悪事が確かに彼らの精神を蝕んでいることがわかる部分であるだけにsuicideという単語がしっくりときた。自ら破滅の道を進む夫妻は緩やかな自殺を選んでいるようにも見えるからだ。

 それ以外の場面で印象的だった音楽として、マクベスが幻として見たダンカン王殺害の場面で流れたJ.S.バッハの『トッカータとフーガニ短調』を挙げておきたい。有名な冒頭の旋律が重々しく、ダンカンに手を下す重々しさ、取り返しのつかなさ、マクベスの迷いを悲痛なほど感じた。コミカルな場面も多く挟まれる中、重みのある音楽の使い方は非常に効果的だったと思う。


2.翻案

1)大人数の”魔女”

 原作に登場する荒野の魔女は言うまでもなく3人である。これに第41場に登場するへカテを加えても魔女的人物は4人だが、本公演ではマクベス夫婦を除いた全員が魔女として舞台に登場する。配役表にも確かにそう書かれている。彼らは初めてマクベスと相対する際客席に降り、観客に向かっても魔女と同じ動作をするよう要求する。この時点で観客はマクベス、バンクォーから見れば等しく魔女である。これは小劇場かつ魔女が大人数であることならではの演出ではないだろうか。魔女の人数を増やした意図の1つはこの観客を芝居に巻き込む行為にあると考えている。

 しかし最も大きな理由は、魔女の得体の知れなさや魔力の大きさ、不気味さをより際立たせるためであろう。前述した布を羽織ることによって人間とは異なる異質な存在となった魔女たちが、それらを決して与えられないマクベスと対峙するさまは対立構造を形作っている。台詞もほとんどを全員が唱和しているので、なんとも言えない響きが作り出されていた。魔女が消える表現は全員が一度に客席扉を駆け抜け退場することで表されていたが、これもまた勢いがあり良い演出だったように思う。

2)存在しないはずのマクベス夫妻

 第42場から3場において、本来であればマクベス夫妻は舞台に登場しない。だが今作では、マクベスは舞台の最奥部、マクベス夫人は舞台下に常に存在している。彼らは舞台上で展開される場面に全く関わることがなく、マクベスは前述の台車に膝を抱えて座り空を見つめるだけ、夫人はひたすら自分の手を調べこすり合わせるだけという対照的な行動をとる。表情についても同様に、虚ろで変化のないマクベスと不安げでいっときも休まらない夫人というように正反対な両者のそれは各々の精神状態を反映しているようだった。

 まずマクベスについてだが、玉座に座しても不安の種があっては仕方がないと怯えていた面影はなくどこか諦めてしまったようにも見えた。元々は彼のほうが妻よりも小心者で気弱な人物だったはずだが、親友だったバンクォーを手にかけてしまったこと、思うように国を治められないことなど夫人とは共有し得ない部分での心境の変化があったのだろうか。夫人については前半の勇ましさが影を潜め、夫よりもずっと弱々しいような雰囲気に変化していた。彼女は前の場面でバンクォーの殺害を決意したマクベスにも怯えるような仕草を見せていたのだが、そこから彼女の性質が変化し始めたという解釈なのかもしれない。実はダンカン王の一行がマクベスの城に訪ねてくる場面ではマクベスが隠れるように舞台の下で座り込んでいて舞台上では着飾った夫人が王たちを出迎えているという演出がされており、その部分との対比も感じられた演出だった。


3.感想

 『マクベス』自体は先学期の授業で読み込んでいたこともあり、話の流れやある程度の解釈は自分の中にある状態で観劇ができた。私はこの作品が非常に好きなので今回の観劇記にも選んだのだが、期せずして新しい発見や気づきを得ることができた。

 蜷川マクベスを上回るかと思うほどの迫力と勢いがあり、現代的な手法や表現を多用した今作品は賛否両論様々な意見が聞かれることと思う。私はとても気に入ったので、次回同劇団で上演されるという『夏の夜の夢』も楽しみに待ちたい。

 演出家の腕ももちろんだが、この観劇を通して改めて『マクベス』という素材そのものの力を感じた。どんなに斬新な演出をされても本軸は全てシェイクスピアの戯曲であり、料理と同じく素材がしっかりしていて素晴らしいものであるからこそ多様な味付けができるのだと思う。来年度もこの作品について研究・分析を進めたいと考えているので、他の公演も積極的に観劇していこうと考えている。


↑これだけでりっぱなひとつのレポートになっていて、レポートの付録の観劇記の域を超えているが、上演の様子は理解できると思う。


次は4年生のBさんの観劇記。私としてはこのくらいの分量でよいと指示はしている。


 カクシンハンによって上映されている『マクベス』の千秋楽を129日に観に行った。カクシンハンの公演に関しては、『オセロー』、『じゃじゃ馬慣らし』、『ジュリアス・シーザー』を過去に観させて頂いており、今回も非常に楽しみにして行った。

 カクシンハンのマクベス全体を通して特徴的に感じられた演出は、マクベス夫妻を前面に押し出すような演出である。他の登場人物が、マクダフなどの準主役級の東欧人物を含めて白のシャツで統一されている一方で、マクベスは黒、夫人は赤をそれぞれイメージカラーに、他の登場人物と比べ際立つような佇まいをしており非常に目を引く。場面や振る舞いに関しても、バンクォウなどが茶化されているのと対照的にシリアスな表情で前面に出ることが多いように感じる。他の登場人物間の会話のシーンにおいても、前方や後方に一人離れて立ち思いつめたような表情で佇んでいるケースも多く(マクベス夫人が終盤、自分の登場するシーン以外でも舞台下で手を洗い続けているなど)、物語全体を通して中心になるよう引き立てられていた。

 そして、マクベス夫妻共に、細かい心情の変化が演技を通してうまく出ていて、とても印象的であった。最初は自信なさげで思いつめる表情が多かったものの徐々に冷徹な表情の多くなってくるマクベス、そして逆に最初ははきはきしているものの徐々に自身無げに思いつめた表情の多くなるマクベス夫人の対比的な感じがよく表れている。そして、最終盤にマクベス夫人が死んだ後はマクベスが奥様の着ていた赤い衣装にチェンジする。そうして、マクベスがマクベス夫人とともに抱いた夢幻的な野望を成し遂げるための戦いを挑んでいくことが、マクベスの戦いにおける夫人の存在感を表していると思う。

 ラストのシーンにおいては、生き残った戦士たちが寝そべることで、戦士たちではなくマクベス夫妻の亡骸が地面に横たわる様にピントを当てるような終わり方となっている。そして、その様が決して過度に悲劇的な様子で描かれておらず、むしろマクベス夫妻が穏やかな表情を浮かべている状態で劇が終わる。その理由としては、無駄な野望とそれに伴う苦しみから解放されたということが間違いなく大きい。こういった形で、原作がスコットランドの興亡という歴史的に大きなスケールで終盤の展開が進んだのに対して、マクベス夫妻の心の闇との戦いというより個人的なスケールで最後まで描き切っていたことは、自分にとって印象的で、とても良いエンディングに感じられた。


次は2年生のCさんの観劇記。本郷の授業を駒場の2年生が履修できるのかといわれそうだが、今年度から一部の授業を導入科目として2年生にも開放している。


 大勢の、白いタンクトップを着た男たち。想像していた「3人の魔女」とはあまりにかけ離れていて、出だしから衝撃を受けました。唯一白いタンクトップでなかったのは黒いタンクトップのマクベスと赤い服と靴のマクベス夫人だけでした。この事から暗示されるように、この物語はこの夫婦2人の物語です。2人はともに王の暗殺に手を染め、次第に罪悪感に蝕まれる妻とは裏腹に夫は殺人を重ねていきます。初め暗殺に積極的だった妻と尻込みしていた夫の立場は逆転するわけですが、2人の愛情は途絶えません。マクベスが幻視に狂わされる頃、気丈に振る舞っていた妻も徐々に悪夢にうなされるようになり、ある日夫は妻の死を伝えられます。しかし独りとなったその後も彼は向かってくる敵に対し果敢に戦い、何よりその「女の股から生まれた男」には負けない勇敢さが、英雄的に表現されていました。このマクベスを、魔女に唆され妻に押されて悪事を行った「浅はかな男」とは言えません。彼は暴君であり悪者でありながら、ヒーローでさえあるのです。マクベスの生き方にはどこか勇気を貰える所がありました。

 この劇はすべての場面が印象的で、どこかツッコミを入れずにはいられないところがあるのですが、すべてを挙げるとキリがないので、そのうちの幾つかの紹介にとどめておきます。

 まずは小道具の用い方なのですが、パイプ椅子が戦場で、暗殺の場で剣となったり、壁となったり、ファミリーマートの商品陳列棚になったり、足場を不安定にするものであったり(マクベスと夫人が精神的に崩れる際、抽象的な意味で用いられたのだと解釈しました)と様々なアイデアに感心しました。カップ麺の容器が王冠代わりになり、プリングルスの缶がいくつも縦につなげられマクダフの剣になるなど笑いをとりに走っているようなところも幾つか見受けられました。

 これらは台詞に冗談や皮肉を忍ばせるシェイクスピアがまるで現代に再び現れたかのようで楽しく見させていただきました。魔女たちが退場する時に残された煙の描写、You get mockn mockn touching a girl(ユーゲッモークモークタッチンアガール)(湯気 もくもく たちあがる)など英語を被せたジョークも幾つかあり、(全部思い出せませんが)面白かったです。テレビの緊急速報の音とともに、気象予報の画面に「速報:ダンカン王、暗殺される。…」などの表示とスコットランドやイングランドの気象予報が流れるのも現代的で飽きませんでした。ウィーナーワルツからテクノ、現代音楽まで駆使しつつも、原文(英語の)台詞を挟むなどの工夫で、新たなシェイクスピアの世界観ができたと言っても過言ではありません。演技者の熱量も客席に非常に伝わってきて、役者さんたちが客席を走り抜けることも度々あったため制汗剤の臭いも結構充満しました…。迫力満点の演劇で、しばらく劇から遠ざかっていた私には劇場の良さを再認識させるものとなりました。当初高いと思っていた4千円も見終わった後では高く感じませんでした。革新的なシェイクスピアが見れて楽しかったです。次回があれば是非、行ってみたいものです。


まだ観劇記はほかにもあるのだが、今回は長くなったので、これで。ただ、この3点の観劇記だけからでも上演の実際のようすは伝わってくる。またこの3人は文章が上手い。これだけ書ければほんとうにりっぱなものだと思う。英文科とはいわないが、文学部生の文章力は素晴らしいと思う。



posted by ohashi at 21:34| 演劇 | 更新情報をチェックする

2017年01月26日

『アイヒマンを追え』

『アイヒマンを追え ナチスがもっとも畏れた男』--最初、このタイトルをみて、アイヒマンを追う話かと思ったが、ナチスがもっとも畏れた男というのは誰のことかわからず、アイヒマンのことかと思った。つまりアイヒマンは、ナチスのなかでも、あるいはナチスによって、その狂犬ぶり(強権ではない)によって一目置かれていたか、恐れられていたのだろうと思ったが、そうではなかった。


アイヒマン追求に貢献したブルーノ・バウワー(ヘッセン州検事長1903-68)のことで、ある意味、彼の伝記映画である。実際、映画の冒頭で、本物のバウワーがインタヴューに答えている映像が示される。アイヒマンの映画かと思って、アイヒマン追求の関係者くらいにしか思っていなかった私がばかだった。この記録の映像の人物こそ、これからはじまる映画の主人公その人だったのだ。


となるとナチスとは誰か? 戦後の話だし、ナチスはいないはずと思ったが、それがあまかった。戦後もナチス党員は生き延びた。元親衛隊が政府や検察局の要職についている。産業界でも高い地位にある元親衛隊員もいた。ニュルンベルク裁判は、何だったのか。ナチスをひとりふたり取り逃がしたという話ではない。ナチスを追放するどころか、ニュルンベルク裁判はナチスのサヴァイヴァルに加担した茶番でしかなかったのか。とにかく「ナチスがもっとも畏れた男」というのときのナチスとは、戦後、ドイツ社会に浸透して、のうのうと暮らし、告発とか弾劾の動きに対して妨害する極右勢力あるいはナチス残党のことなのである。


似たような映画があった。ジュリオ・リッチャレリ監督の『顔のないヒトラーたち』は、実話に基づく映画だったが、このとき戦後の隠れナチスを追求し告発する検察官の上司のユダヤ人検察長が、いまから思えばブルーノ・バウワーだった。この映画(『アイヒマンを追え』)のなかでも、バウワー検事長は、収容所の元関係者の告発の準備をすすめている検察官チームがあることに触れていたが、その検察官こそ、『顔のないヒトラーたち』の主人公だったわけだ。『顔のないヒトラーたち』からみると、今回は、検事長に焦点をあてた話となる。『顔のない』でも検事長がイスラエル関係者、モサドだったかと会っているという謎めいた場面があったが、その意味が、今回解き明かされるということになる。


『顔のないヒトラーたち』のなかで主人公が直面する苦境とは、アウシュヴィッツの犯罪を暴かれるのを嫌う勢力が、基本的に、元ナチスで、戦後ドイツ社会も、一皮むけば、ナチスばかりということだった。主人公の父親も、司法関係者でナチス(映画のなかで、バウワー検事総長は、昔の司法関係者はみんなナチスになったからと寛容なところを示すが、主人公は衝撃を隠せない)。また主人公に協力するジャーナリストも、もとヒトラー・ユーゲント(もっともいまは隠れナチス追求に専念しているのだが)。まわりはナチスばかり。『沈黙の迷宮のなかで』というように訳せる原題を『顔のないヒトラーたち』と日本で変えて映画タイトルとしたのはわからないわけではない。「顔のないナチス」のほうがもっとよかったのだが、日本にいるネオナチに遠慮したのだろう。


『顔のない』ではアウシュヴィッツの数多くの関係者を告発すべく膨大な書類を調査する検察官チームの苦闘が描かれるのだが、あれほど苦労したのに、裁判で告発された人間の数の少なさに唖然とした。検察側の勝利というよりも、これだけしか告発できなかったという敗北ではないかと思った。少し時期はずれるが、その後公開された映画『アデーレ黄金の輝き』では、ナチスに奪われ、オーストリアが所蔵しているクリムトの絵画を、もとの所有者の家族のひとりの女性が取り戻そうとする話で、裁判の相手はオーストリアという国家。もともと無理な裁判だと思っていたら、最後に、裁判に勝利する。


この目覚ましい勝利に比べ『顔のない』の勝利は地味すぎると思ったのだが、今回の映画をみて、たとえ告発された人間は少なくとも、裁判の過程で数多くの関係者の証言によりアウシュヴィッツの犯罪が白日の下にさらされ、それによって「なかったことにしよう」という風潮に支配されていた戦後ドイツ社会が、あらためて過去と向き合うことになったという意味ではアウシュヴィッツ裁判の意義は大きかったし、そのことが今回のバウワー検事長の言動からもみてとれる。


今回は、南米アルゼンチンに隠れていたアイヒマンをモサドが拉致し、イスラエルで裁判にかけた事件で、それに協力したバウワーのことを映画いている。バウワーは、モサドに、調査関係で得た情報を渡したので、国家反逆罪に問われるところだった。その法を順守するか破るかのぎりぎりの駆け引きのところは、今回のポイント。アイヒマンは死刑にされてもおかしくない犯罪者だったが、そのアイヒマンをアルゼンチンから拉致するモサドのやり方には、当時、はっきりって世界中で非難されたし、今でも、あのような拉致は、まちがっていると思っている人びとは多いだろう(私もその一人)。しかもその拉致にバウワーがかかわっていたとは。もっとも『顔のないヒトラーたち』をみた時点で、それはわかっていたのだが。


バウワーは最終的にアイヒマンをドイツで裁きたかった。しかし、アイヒマン裁判によって関係者が告発されると、戦後ドイツに元ナチスが要職を占めている政権がゆるぎかねない。またイスラエルはドイツから武器を購入していたこともあって、ドイツにアイヒマンを引き渡さなかった。そのため逃亡潜伏中のアイヒマンを引きずりだしたことは勝利だが、その後のアイヒマン裁判(最近、アイヒマン裁判関係の映画がよくあるが)そのものは、真実を隠蔽する政治的圧力の産物だったこともわかった。アイヒマン拉致はまちがっているのだが、アイヒマン裁判も、ドイツでおこなわれなかったことで、真実の隠蔽に加担していたことがわかって、けっこう驚いた。

【なお、以前、ドイツの主力戦闘機メッサーシュミットBF109が、戦後、イスラエルの空軍で使用されたということを知って、腰が抜けるほど驚いたことがある。ホロコーストを遂行したドイツの、戦時中の軍用機を、イスラエルが自国の軍隊の戦闘機として使うというのは、どんなひどい間違いが起こったのかと、いぶかったが、そんなに複雑なことではなかった。】


もちろん日本でも事情は同じだろう。東京裁判について、戦勝国が敗戦国を裁くことの理不尽さとか不公正について批判するという愚行が今も行われているようだが、ほんとうにバカかと言ってやりたい。東京裁判も、ニュルンベルク裁判と同様、完全に骨抜きにされ、小物だけを裁いて、その他、関係者を無罪放免にした、茶番劇そのものであって、東京裁判は、敗戦国の戦争犯罪者を生き延びさせたことで批判されるべきである。敗戦国の戦争犯罪者を優遇したともいえるのだ。東京裁判をもっとしっかりやっていて、日本の右翼の悪にしっかりむきあっていたら、今の安倍政権など影もかたちもなかったはずだからだ。


そして言えることはアウシュヴィッツ裁判のように戦争中の犯罪という過去に向き直るような裁判が日本ではなかったことだ。元ナチスが大手をふって歩いているような国、それが日本である。東京裁判のあとアウシュヴィッツ裁判をすべきだった。とはいえ、ドイツでもネオナチの目に余る台頭がある。アウシュヴィッツ裁判があってもなくても、結果は同じだったというのは、ちょっとなさけなさすぎる。


と、ここまで確認したうえで、もうひとつ確認すべきは、この映画がゲイ映画でもあることだろう。バウワー検事長にからむ若き検察官がいるのだが、この人物は架空の人物とのこと。女装したゲイの男性に惹かれたことから、ゲイ・クラブにかよい始め、検事長の有能な右腕となるが、同時に、足をひっぱりかねない存在になる。この人物はなぜ必要だったのか。


ウェブ上のネトウヨは、この映画に関して、最近流行のゲイ問題をテーマにしていてうんざりしているという差別発言を垂れ流している。うんざりする場合は、数の多さではなく、質 の低さこそ問題にすべきである。いずれいんせよ、もちろんその種の発言は、ホモフォビアであることは指摘しておきたい。ただ、それにしても、この映画で、なぜという思いはある。しかし、映画のなかで台詞を通して示されているように、検事長はゲイなのである(最後の場面での上席検事(元ナチス親衛隊)の皮肉交じりの台詞にもそれはあらわれている)。バウワー自身、亡命先で男娼を買ったことで逮捕された過去があるらしい。ゲイの検事長が、ゲイ的傾向を持つ若い検事に惹かれた(彼が担当した裁判もゲイ関連のものだったことで、検事長の注目をひいたともいえるのだが)ということになる。


映画そのものも、たとえばバウワー検事長がテレビのインタヴューに答える場面では、いかにも当時のテレビ番組に典型的なカメラアングルを使っていて面白いのだが、ゲイ・クラブの場面などは、それこそ戦前のドイツのゲイ・クラブやキャバレーの世界をほうふつとさせるというか、まさにそのものの雰囲気とカメラアングルでとらえている。ゲイ・クラブの場面そのものが、たとえばミュージカル『キャバレー』の場面というか世界をほうふつとさせる。重要なことは、ゲイが当時、戦中も、戦後の一時期も、非合法であったことだ。若き検事も、検事長をかばうこともあって、男性と性的関係をもったことを自首(!)しに警察に赴くのだ。


それは今では考えられないことである。そしてだからこそということもあるのだが、戦争が終わりナチスの強制収容所からユダヤ人が政治犯が解放されたにもかかわらず、同性愛者だけは収容所に入れられたままだったという驚くべき事実の意味がこれでわかる。ユダヤ人や政治犯は、ナチスが勝手に犯罪者にしただけであって釈放されてしかるべきである。しかし同性愛者はナチスにとっても一般市民社会にとっても犯罪者ということで収容所にとどめ置かれたのである。ナチス下で迫害される同性愛者は、戦後も迫害された。そしてそれはナチスの悪の一つであり、また同時に、同性愛者に対する迫害は、ユダヤ人に対する迫害と同位体なのである。


実際のところ戦前のドイツは、男性同性愛解放では世界の最先端をいっていた。「ホモセクシュアル」という言葉を発明したのもドイツの同性愛解放運動のなかである(「ホモ」というのはその後差別的に使われたのでが、本来、解放運動のなかから出てきた言葉である。またそのためこの言葉の出自が差別的意味をこめた医学用語というような説明もまちがいである)。ワイマール体制下では、同性愛解放あるいは合法化の法案が議会に提出される一歩手前まできていた。それがナチスの台頭によってだめになったのだ。


もうひとつ。ナチス・イコール・同性愛という、アドルノまでが信じた図式は、いまではまちがいであると認められている。ナチスは同性愛を嫌い差別迫害したことはわかっているのだから。しかもその影響は戦後も強制収容所にとどめ置かれた同性愛者の苦難にも及んでいる。


こう考えると、バウワー検事長をめぐる映画に、同性愛がからんでくるのは、ある意味当然であり、意味のあることだとわかる。詳しいことはわからないが、当時、男娼とセックスした男性は警察に出頭、自首することもあったと知ると、驚きを禁じ得ない。


したがって検事長とゲイの世界に溺れていく若い検事との物語は、検事長の人間性を引き出しという暢気なコメントがパンフレットに書いてあったが、そうではなくてゲイ問題をユダヤ人問題と並んで強調したかったためだろう。ユダヤ人は解放されたかもしれないが、ゲイ問題は未解決のままであり、同性愛者とユダヤ人は、差別の対象であるという点で、選ぶところはなかったし、戦後も差別されつづけた同性愛者の悲惨を決して忘れてはならない。


Death by water

映画の冒頭、バウワー検事長が、自宅の浴槽で溺れ死にしそうなるのだが、映画のパンフレットによれば、これはバウアーの死を暗示しているという(松永美穂「フリッツ・バウアーとその時代」)。19687月バウワーは浴槽で死亡しているのをみつかった。たぶん、そういうことなのかもしれないが、冒頭で、浴槽での溺死可能性を示すのは、バウワー自身がゲイであることを示す暗号であった。現実のバウアーの死は、自殺なのか事故死なのか暗殺なのか判然としないものの、ただ、とても偶然とは思えない。それは自身がゲイであったことの告白であるようにも思う。ゲイ・テーマは常に水の物語を付随させるのだから。



参考までにネット上の記事を

ヘッセン州検事長フリッツ・バウアー(1903 1968年)は、戦後ドイツにおける最も重要な法律家のひとりに数えられている。ユダヤ系であったバウアーは、1936年から1949年までデンマークとスウェーデンで亡命生活を送った後、ナチスの犯罪を法廷で裁くことをめざし、それを社会全体で議論すべきテーマとして取り上げた数少ない人間のひとりだった。バウアーの存在がなければ、戦後西ドイツの社会と司法は、強制収容所とホロコーストの記憶から目を背けることができたかもしれないのだ。劇映画2本とドキュメンタリー作品1本(2010年)が、このバウアーというカリスマ的な法律家に、それぞれ極めて異なった方法で迫っている。

posted by ohashi at 22:11| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年01月21日

『アイ・イン・ザ・スカイ』

風刺的な映画である。演劇的といってもいい。舞台でするのなら、それも可能。イングランドの、あまりぱっとしない軍事基地の地下にある司令部もしくは司令部に直結した政府施設の会議室、どちらかいっぽうを舞台すればいい。あとはスクリーンを通して、アメリカの軍事基地、そして軍事基地の一角にある無人機操縦施設につめる操作員2名。これで芝居ができる。スクリーン上に別の部屋にいる人物を映し出して交信すればいい。


物語は自爆テロを企むテロリスト集団が、志願者2名に指示をあたえているところに、上空の無人機から爆弾かミサイルを撃ち込み、テロリスト集団をせん滅することをめぐって展開する。攻撃寸前になって、村の少女が路上でパンを売り始める。攻撃による爆発は彼女を巻き込む可能性があるというか、確実に彼女を巻き込む。しかし、いま攻撃しないとテロリストを逃すことになり、一人の少女の命を救うことで、何十人の犠牲者がでる自爆テロを放置することになる。このジレンマ。これをどうするかが後半の緊迫した展開の軸となる。


風刺的というのは、べつに滑稽でおもしろおかしい話ということではない。軍人も、政府関係者もがこのジレンマを解決できない。解決できないどころか自分で責任をとりたくないがゆえに決定とか決断を先送りにする。責任を転嫁しあうのだ。この時点で、もう誰にも同情できないことになる。もちろん少女を何とか救おうとすることに腐心する側と、犠牲を払ってでもテロリストを抹殺せんとする軍人側との対立はある。文民統制だから軍人も攻撃許可を得る必要がある。


ヘレン・ミレン扮する司令官は、迷彩服に身を包んでいるから野戦司令官かと思うと、そうではなくイングランドの住宅街か官庁街か、そのどこかにある小さな軍事関係施設の地下にある指令室に詰めているだけで、彼女もその施設を出れば、イングランドの平和な日常世界が広がっているという設定である――だから制服を着て端末のまえに座る戦争ゲーム、あるいは戦争ごっこめいたものとなる。彼女は軍人として攻撃を敢行したい。だが許可が得られないし、解決策はないので、少女に害が及ぶコラテラル・ダメージ率を、50%以下にもっていくように、ミサイル投下場所を少し変えるようにするのだ。なんという姑息な。しかも数字をいじって、被害率を、多少さげて、たとえ少女が救われなくても、数字の上では低い罹災率だったと弁明できるように用意するのである。なんという姑息な。


こうして一人の少女を救うか、あるいは少女を犠牲にしてテロリストを殲滅するか。そのジレンマと解決への模索、タイムリミットが迫り決断の時が来る。緊迫した展開に息をのむ。だが、冷静に考えれば、空中に待機する無人機から、テロリストがひそむ住宅地の家屋にミサイルをぶちこむというのは、どうみてもおかしい。友好国に対してとはいえ、また国際手配されているテロリストとはいえ、そんな暴挙は許されるはずがない。テロリストを監視しているのだから、現地の警察組織に逮捕あるいは攻撃はまかせればいいのではないか。高性能の空中待機する無人機は、正確な情報を地上の警察にも提供できるはずである。


だが、こういうことを書くと、いや、警察では対処できない。軍隊でないとこういうことは実行できいないのだ、素人はこれだから困るという反論が出てくる可能性がある。かつて中国漁船の領海侵犯が問題になったとき、国会で民主党の議員が、警察で処理すれば云々(でんでん)というようなことを話したら、安倍首相が、わけしり顔に、そもそも警察組織では処理できない問題であって、これは軍隊でなければ対処でいないというようなことを述べていて、このバカはほんとうに戦争がしたいのかとあきれたことがある。中国海軍が艦隊で押し寄せたのならまだしも、警察で処理できることは極力警察で対処しないと、戦争になる。また軍事行動によって、多くの被害がでる。軍隊が出てくるとろくでもないことになる。


私は専門家ではないのだが、警察権というのは、けっこうあなどれないところがあり、たとえば大艦隊に対しても、理論的には、一警官の権限で、その侵入を阻止できるというような話を聞いたことがある(相手がテロリスト集団ではなく話がわかる国家の軍隊という設定だが)。とはいえ専門家でもないので私の勝手な妄想かもしれないが、ともかく軍隊がでることで被害は多くなり、犠牲も多くなる。そもそも軍隊は警察と違い市民を守るのではく、国家を守る、そしてその国家とは軍隊を存立させる根拠そのものだから、軍隊は軍隊を守ることが第一義的な目的なのであって、市民セカンド、あるいは市民サード、いや市民ラストなのである。したがって軍事的思考ほど有害なものはない。


そして今回の映画では帝国主義・植民地主義も加わって有害さが倍加される。繰り返すが、国際指名手配のテロリストを突き止めたのなら、いくら護衛が多くても、現地の警察組織でなんとかなるはずで、その時間もあったはずである。もし警告もなしに上空からミサイルをぶち込むようなことがあれば、少女だろうが、誰だろうが、住民をまきこみ、犠牲者がでる。したがってそもそも一人の少女を救って、何十人もの犠牲者がでる自爆テロリストを見過ごすかどうかのジレンマなど、実は、主権国家に、上空からミサイルを投下する理不尽さから目をそらす口実にすぎない。というか主権国家に潜む外国人テロリストを上空から監視して殺害することが当然視されていることが問題なのである。


またさらに有害さが加わるのが、遠隔操作で無人機を操縦し、ミサイルを発射するという遠隔操作の問題である。遠いアフリカの地での出来事を、英国とアメリカで画像として見ている。テレビゲームの世界である。もちろん人を殺す/殺したという冷厳たる事実に遠隔操縦する兵士たちは衝撃を受けているが、おそらくそれは美化されている感じがする。民間人だろうがテロリストだろうが、ミサイルで殺害したら遠隔操縦する兵士たちはVサインをしてはしゃぎまわるのではないか。そのほうがリアリティがある(実際にはどちからはわからないにしても)


もちろんゲーム感覚というのは映画の中で前景化されているわけではない。誰もゲームのことなど語らない。ゲームの世界を凌駕するリアルな世界の緊迫感に映画は溢れている。しかし、誰もが責任を回避して、姑息な手段に走り、犠牲者がでても責任をとらない。とらないどころか、作戦が終われば、ドアをあけて部屋から一歩出れば、そこには、ありふれた、だが慣れ親しんだ日常が広がっている。作戦室や会議室、そしてそれらをつなぐスクリーンと、作戦現場を写すスクリーンという異世界での出来事が終われば、日常世界の現実がゆるがぬかたちでまちかまえている。これをゲームと日常といわずして、何がゲームか。


この落差。遠隔操縦の機体から送られてくる現地の映像では、大きな殺戮がおこなわれていても、操縦する側は、ゆるがぬ日常に安住しているという落差。


終わったはずの帝国植民地主義が回帰してきている。大英帝国が発展する過程で、英国軍は、海外で、熾烈な戦争をおこない、多くの犠牲も出し、残虐行為も辞さなかった。だが本国にいる英国民は、こうした植民地戦争のことを、遠い場所、遠い国の、おとぎ話の出来事のようにしか感じなかった。みずからの国土が戦場とならなかったイングランドは、植民地主義について、フェアリーテイルとしてしか受けとめなかった。植民地はドリームランドにすぎなかった。いくら人を殺しても、いくら破壊のかぎりをつくしても、夢から覚めれば、ありふれた日常が広がっていた。一夜の悪夢でしかすぎなかった。18世紀イングランドとポストモダンのイングランドとUSAが驚くべき通底ぶりをみせる。


なお少女の存在がカギを握る。すべてを揺るがす。この意味で少女を中心化する映画の伝統に、この映画も従っているのだが、少女と映画については、また別の機会に。


posted by ohashi at 11:24| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年01月20日

『お気に召すまま』

シアター・クリエにシェイクスピアの『お気に召すまま』を見に行く。同じ日に、知りあいの女性が、通りを隔てた東京宝塚劇場の公演を、たまたま見ていたので、帰りにばったりであってもよかったのだが、行った翌日、メールのやりとりのなかで、はじめて、同じ日の同じ時間帯に、それぞれが、通りを隔てふたつの劇場にいたことがわかった。


なぜ、こんなどうでもいいことを話すかというと、シアター・クリエの公演は、2015年に宝塚を退団した柚希礼音主演の公演だったので、当日、おそらく彼女のファンの女性たち、彼女たちであふれていて、私のみるところ、男性比率は、宝塚劇場よりもずっと低かった。宝塚の公演ではない。マイケル・メイヤー演出でトム・キャットの音楽をふんだんにつかったミュージカル仕立てではあっても、まぎれもないシェイクスピアの『お気に召すまま』の翻訳劇である(小田島雄志訳)。なぜ、こんなに女性が多いのか。まあ、シアター・クリエは女性客の多い劇場で、トイレの数も、男性用トイレよりも多い。しかし、それにしても、なぜ男性はいないのか不思議な気もする。


私は比較的前の方の座席だが、端っこだった。これが幸いした。もし列のまんなかに座っていたら、おまえなんでそんなところにいるのかと咎められそうな気がした(まあ妄想だが)。そして私が座っている位置から、私の前方の視界にかぎっての話だが、この視界のなかにいる、男性は、舞台の俳優だけで、客席に男性はみあたらなかった。


マイケル・メイヤーの演出は、舞台を60年代のアメリカに設定して、主人公のロザリンドらが宮廷を逃れていく先のアーデンの森を、ヒッピー/フラワーチルドレンのコミューンにした。舞台も60年代の都会の風景(なぜか古代ギリシア風建築のファサードだが)から、一気にサイケデリック・アート風の舞台に転換する――そしてそのまま最後まで同じ舞台装置がつづく。


シェイクスピアにおいて、アーデンの森へと赴くとき、ロザリンドたちは「リバティー」に行くという。これはたんに「自由」な世界へという意味だけではなく、当時、ロンドン市周辺で、市当局の管轄外の歓楽地域を指していたのであって、それは、たんに森という牧歌的世界に行くのではなく、またに対抗文化的・反体制的なコミューンに行くことも暗示されていた。陰謀渦巻く宮廷から逃れて牧歌的な平和な反世界への逃亡は、1960年代のサマー・オヴ・ラブやヒッピー文化とシンクロする面が確かにある。メイヤーの演出は、ヒッピー文化がシェイクスピア的であるということではなく、シェイクスピアの『お気に召すまま』についての新たな解釈を提供したということになろう。魅力的な解釈である。


もちろん、そのために演出は、キャラクターをフラットにしている。サイケデリックアートがそうであるように、立体的で奥行きのあるイラストというよりも、平面性を際立たせために、人物はステレオタイプ的かつ様式的になる。これはけなしているのではない。フラット・キャラクターとラウンド・キャラクターという対比はEM・フォースターが『小説の諸相』で提唱したものだが、そしてフォースター自身は、ラウンド・キャラクターこそ現代的だと考えていたようだが、現代の野心的ですぐれた作家たちは、むしろフラットなキャラクターを動かすことの意味と可能性に賭けている場合が多い。


したがって今回の演出も、人物の行動は、類型的・様式的にすることで、そこに歌を挿入でき、ミュージカル仕立てにすることができる。人物がフラットであることで、歌で全体を動かすことができる。歌は添え物ではなく、台詞と同様に意味とメッセージを表明できるし、それはまた60年代アメリカの文化とのシンクロを出現させる重要な機能を帯びることになる。


だが、もちろん、それによて失われるものがある。シェイクスピアの喜劇は、どこか突き放したところがあり、たとえば晩年の『テンペスト』などは、当時、イングランドがアメリカ新大陸に植民をはじめた頃につくられたのに、西洋人と原住民との対立を醒めた目でみているために、コロニアリズムの芝居というよりも、あろうことかポストコロニアル演劇にみえてしまうのだ。同じことは『お気に召すまま』についてもいえる。牧歌喜劇的設定を醒めて目でみているところがあり、ポスト・パストラル演劇といえるところもある(アーデンの森には、資本主義が浸透し、たんなるアルカディア的な牧歌世界ではないというか、そのよゆな牧歌世界はすでに失われたかのような世界が出現するのだ)。すでにフラワーチルドレンの時代も遠い過去となった私たちにとって、この時代にノスタルジックに熱狂すると同時に、醒めためで、その功罪を問うてもいいのだが、それは今回、スルーされたようだ。


人間関係も、実は、ロザリンドとシーリアといういとこ同士は、姉妹にも等しい濃密な女性関係を形成するのだが、それが劇の進展とともに、異性愛のために切り裂かれていく。ロザリドとシーリアとの間には隠れた同性愛的関係があるのだが、残念なながら、今回の演出は人物をフラットにすることに終始しているので、マイコのシーリアは、たんにロザリンドの行動に対する承認役で終わっていたのだが、マイコを使っていながら、これでしかないというのはちょっと残念だった。


実際、今回の演出では、冒頭に横田栄司のオリヴァーアが登場するのだが、体格もよく、レレスラーのチャールズ/武田幸三よりも、またオーランド/ジュリアンよりも強そうで怖そうなのだが、これはミスキャストだと思った。しかし、見せ場はちゃんと用意してあった。あるいは芋洗坂係長のタッチストーンは、いい味を出していて、ジェイクーズ役の橋本さとしと並ぶと、橋本さとしも顔が大きな邦画だが、その橋本が小顔にみえるのど、イモ洗い坂係長の顔が大きかったことも印象駅だった。それにくらべてマイコのシーリアは、なんの工夫も見せ場もない。せっかく、こういう演技もできることをマリコが証明しているのに、それを活かしきれていないのだ。


とはいえ全体としてみれば、たのしく、おもしろい舞台であったことはまちがいなく、少しでも多くの男性が見に行くことを願うばかりである。


ちなみに今回、すでに書いたように宝塚の公演のようにオール・フィーメイルではないにもかかわらず、客席は女性各であふれた。宝塚公演における男性観客よりも、こちらの男性客のほうが、はるかに少ないように思われた。では、オール・メイルの演出はどうか。小栗旬のオーランド、成宮寛貴のロザリンドという全員男優の蜷川演出はみていなくて、DVDでしか知らないから、客席のようすは知ることはできないが、それでも女性観客のほうが多いような気がした。同じオール・メイルでは昨年、青木豪演出によるDStageの『お気に召すまま』(下北沢、本多劇場)もみたが、これも、男性比率は、宝塚公演よりも少ないように思われた。本多劇場の客席が女性で埋まった。劇団側も女性観客の多さは意識していて、最後のエピローグでは、女性観客をいじったあと、数少ない男性観客をいじりはじめた。女性観客から求めた拍手を、数少ない男性観客からも求める流れになったが、もちろん、おもしろかったので、男性観客として拍手するのはいいのだが、ただ、ちょっと目立って恥ずかしいかなと思ったが、最後には、男性客のみに拍手を求めたのだけれども、私の隣にいた見ず知らずの女性も拍手してくれて、というか最後には女性観客の多くも拍手した、数少ない男性観客の私が目立たずにすんだ(まあ最後の拍手なので、劇場全体を盛り上げるためにも、あるいは全体の締めくくりとしても、女性観客が拍手したのだろうと思うのだが)。ということはオール・メイルでも女性客が多く、男女混合の舞台でも女性客が多いということだろう。No theatres for Old MEN,

posted by ohashi at 18:53| 演劇 | 更新情報をチェックする

2017年01月19日

虚弱体質児童選抜

『マツコ&有吉 怒り新党』(18日)のなかの記憶調査委員会のコーナーで、小学生の頃、肥満で、血液検査をさせられていたという投稿があった。これは現在でも小学校で行われているらしく、児童の肥満予防のためということらしい。確かに肥満は健康上好ましいものではないし、また子供の肥満は、成長してから悪い影響も出るだろし、生活習慣病の傾向と対策を知るためにも、児童の体調調査は、悪いことにではないかのようにみえる。


しかし学校で強制的に健康診断、血液検査をして、最終的に肥満解消のための夏休み合宿をさせるような措置は、ケアという善意と管理のゆきすぎのような気がする。たとえば、頭の悪い児童がいることは確かだ。その児童の思考パタンや脳波などを計測して、頭がよくなり、学校の成績がよくなるよう特別の措置をしてもいいかもしれないが、そうしないのは、どうしてか。人権侵害、あるいは差別化を助長するからか。健康体でも頭が悪い児童はいる。特別な措置、将来落第しないための予防措置をとってもいいかもしれないが、それをしないのなら、なぜ肥満の生徒だけ、血液検査をするのか。そこにはケアの悪用とか優生学的思考、健康向上の名目のもとすすめられる身体管理など、きな臭いものがみえてくる。


そして言えることは、学校教育の場では、こうした余計なお世話をすることが多い。実際のところ小学校では肥満児に血液検査をしないところも多いだろう。絶対の義務ではないはずなのだが、時に義務化しておこなっている自治体とか小学校があるということか。


これで思い出した。私が小学生の頃、肥満児とは逆の、身体虚弱児童に選ばれたことがある。担任が、クラスで私だけを虚弱児童に認定して、土曜日の午前だったと思うが、他のクラスの選抜虚弱児童とともに、授業を休んで、学外の医療施設で検査を受けたことがある。私は、今でもそうだが、小学生の頃も、バカだったので、土曜の午前中、授業を休んで、学外の施設へ連れて行かれるのは、非日常的な遠足気分みたいなもので、バリウムを飲まされても、そんなに気にしなかった。


しかし、このことを知った私の両親は激怒した。なぜ、うちの息子が虚弱体質児童に選ばれねばならないのか、怒り心頭に達した両親は、ふたりか、どちらかひとりが小学校に行って担任会って事情を聴いたらしい。そもそもほんとうに虚弱体質児童だったら、学校は休みがちで、学校に来ていない。休んでいる生徒から選べばいいのに、ふつうに小学校に来ている児童から、むりやり選んだのだ。実際、虚弱体質児童選抜組の私は、同じ仲間をみても、みるからに病弱という子供など、ひとりもいなかった。また、そういう小学生は、学校を休んでいる。結局、困った教員が、むりやりクラスから選んだのだ――それにしても、自分のクラスには虚弱体質児童はいないと報告する教員もいたと思うのだが、私のクラスの担任は、私を虚弱体質児童に選んだ(若い教員ではなく、定年まじかの教員が担任だった)。


理由、たぶん、私が痩せていて、色白だったので(これは昔からそうなのだが)、みるからに病弱にみえたのだろう。しかし、この判断に私の親は激怒した。理由は明白であった。私は、病弱で学校を休みがちということはなかった。実際、前の年には、皆勤賞をもらっているのだから。つまり私は一日も学校を休まなかったし、とくに病気にもならなかった。にもかかわらず、つまり前の年に皆勤賞をもらっている小学生が、なぜ、つぎの年の虚弱体質児童に選ばれて検査を受けるのだ。おかしいではないかと、私の親は、担任に強硬にクレームをつけた。


たしかにいい加減な担任だった。また、親は、らちがあかない担任にうんざりして、校長か教頭から説明を受けたいと言ったら、担任が急に折れたという。親にしてみれば、とくに担任を脅すつもりはなく、話の行きがかり上、校長からも説明を聞きたいという告げただけなのだが、思わぬ効果があって驚いたという。やっぱりいいかっげんな担任だったのだ。


結局、私が土曜の午前中にバリウムを飲まされたのは1回だけだった。私は、虚弱体質児童選抜からは、親のクレームもあって、はずされた。その制度そのものが、どうなったのかは、よくわからない。消滅したことを祈っている。実際、私の同じように検査を受けさせられた児童たちは、誰ひとりとして、虚弱体質児童と名指されるような理由をもっていなかったからだ。


しかし、肥満児に血液検査をすることが続いていることからも、結局、児童の健康向上、病気の予防のもと、不愉快な思い(ときにはトラウマになっている)をしている生徒は多いのだろうと推察されるのだが。

posted by ohashi at 19:37| エッセイ | 更新情報をチェックする

2017年01月18日

『ブラックファイル』

シンタロウ・シモサワ監督の『ブラックファイル 野心の代償』(Misconduct 2016)を観たがが、このあと観ることになる(2月1日の記事を参照)カリンン・クサマ監督の『インビテーション』に比べると、アンソニー・ホプキンズとアル・パチーノという大スターの共演のわりには、またジョシュ・デュアメルとイビョンホンの頑張りにもかかわらず、マリン・アッカーマン(ちょっと久しぶり)とジュリア・スタイルズ(ジェイソン・ボーンで死んでしまったが、今回の出演はうれしい)という女優の登場にもかかわらず、物語がちょっとどうかという感じがする。


プレディクタブル(予測可能)というのは、物語の常套的な展開を指摘して、けなす言葉となるが、予測不可能な物語というのも、困ったもので、度が過ぎると、まさに悪い意味で期待を裏切ることになる。物語が途中から予測不可になる。本来ならそれで物語が面白くなるはずだが、あまりにはずれすぎるというか、度を越えると落胆が大きくなる。


物語が本線を走っていると思っていたら、その本線が実は支線で、本線はべつのところにある、というのは意外性があっていいと思うかもしれないが、最初の本線は、気づくと、完全に消えているというのはどうかと思う。製薬会社の不正を暴くという当初の物語だったはずが、製薬会社も不正も、どうでもよくなってしまうというのはいかがなものか。すくなとくも予測不可能な手段で製薬会社の悪を暴いてくれるというのならよいのだが、製薬会社そのものがどうでもよくなってしまうというのは。


ニュー・ノワールにふさわしく、清廉潔白な人間が誰もいなくて、誰もが脛に傷を持つという設定であって、最終的に、殺人すらも真犯人が生き延びるという犯罪映画は、ノワールの後味の悪さは期待どおりかもしれないが、不満が残る。


この映画のシナリオが大スターを、また出演者のよさを活かしきれてないのは残念である。とはいえ、アメリカでの評価の低さにもかかわらず、観れる映画なのは、映像的には本格的な重厚な表現に満ちているからであるのだが。

posted by ohashi at 15:07| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年01月14日

『パシフィック・ウォー』

というのは日本で勝手につけたタイトルで、Pacific Warと英語のタイトルまで出るのだが、原題はUSS Indianapolis: Men of Courage(2016)。この原題を知ると、気が重くなって、見る気をなくしたのだが、東京都区内での上映館がたった1館。そのため一応見ておくことにした。それにしても気が重い。


なぜならUSSインディアナポリスの乗員たちは、第二次大戦末期、原爆をテニヤン島に運ぶという極秘任務を達成した帰路に、日本の潜水艦に撃沈され、海に投げ出された漂流し、半数以上が、発見・救助が遅れて死亡したという悲惨な末路をたどることになったからだ。インディアナポリスが運んだ原爆2個が広島、長崎へ投下され惨禍をもたらすいっぽう、インディアナポリスも撃沈され乗組員は4日か5日漂流し、その多くが衰弱したかサメに食べられたかで死亡。戦争に勝者はいない。いるのは死者だけであることを知らせる典型的な事件であった。


そんな悲惨な出来事の映画化は見る前から気が重い。実際、予想通りの映画だったが、有名な俳優がニコラス・ケイジとトム・サイズモアくらいで、あとは誰も知らない。また脚本がちんたらしていて、余計な物語が多い点も、やや落胆した。


そして何より違和感があったのが、日本の軍人の描き方。竹内豊という(竹野内豊ではない)、私の知らない俳優で、たぶん日本語よりも英語が達者な人物と思われるのだが、この人物が演ずる艦長は、敬虔な神道信者で、つねに死んだ父親(こちらも神道家あるいは神社の宮司か)と頭のなかで話をしている。おかしいだろ、この艦長は、と思った。また日本の潜水艦のなかで語られる日本語は、おかしい。ネイティヴの日本人の日本語ではないとすぐにわかる。この点も、予想外の違和感だった。


ああ、事実は小説よりも奇なり。潜水艦の、このおかしな艦長、もし、これが小説なら、こんなへんな艦長を登場させて批判されることはまちがいない。日本の海軍はイギリスの海軍をモデルにしたこともあり、海軍のほうが、泥臭い陸軍よりも洗練されていて士官クラスなら英語も自由に使えたというようなイメージがある。艦長が神道の信者などというのは、ありえない。これが小説なら、そうなるが、実際にイ58号の艦長は、戦後、神主になるので、史実に基づく設定である(とはいえ神主が艦長をしているようなイメージには違和感があるのだが)。まあ、真珠湾攻撃で第一次攻撃隊指揮官淵田美津雄が、戦後、キリスト教伝道師になったことからも、戦争は人を宗教的にも変えることがあるので、イ58の艦長が神主になることも、珍しいことではないのかもしれない。


ということで、うそっぽい、やすっぽい、シナリオでも、また映像的にも、もう少しなんとかならなかったのかという不満もあるのだが、史実に基づいているところもあったり、さらには史実そのものの重みもあったりして、後半から終盤にかけて、にわかに映画が迫力を増してくる。


事実、救助されて終わりかというと、それではなく、その後、クリント・イーストウッド監督の『ハドソン川の奇跡』みたいな展開になってきて、漂流中の乗員たちを最後まで鼓舞し続けた艦長が、ヒーローとして迎えられるどころか、戦後、軍法会議にかけられるという事態に発展する。これではまるで『フィリピン海の奇跡』とでもタイトルを変えたくなる。


救難信号を送ったのに、それを無視した司令部の失態、また原爆投下による連合軍側の勝利の影で生じた原爆運搬した巡洋艦の乗組員の犠牲という不祥事の責任を艦長一人に押し付けるかっこうになる。ちなみにインディアナポリスの乗組員1196名のうち300名が雷撃によって死亡、900名が漂流したが、600名が海上で死亡した。戦後5年間における広島の20万、長崎14万の死者にくらべれば微々たるものかもしれないが、数の多い少ないではない。死ななくてもいい命が失われるのは、たとえ一人であっても、許されざる大惨事なのである。


第二次世界大戦で、撃沈された艦の艦長が責任を問われたのは、この一件であり、極秘任務を成功させ、過酷な漂流を生き延びたはてに有罪になるという理不尽さには言葉がない。知らなかったのだが、インディアナポリスの艦長は1968年に自殺しているのである。2000年に名誉回復されたようだが、救助の遅れを招いた責任者は、その後、どうなったのかわからない。まあ、のうのうと暮らしたのだろう。インディアナポリスは第二次世界大戦で撃沈された最後の軍艦であり、沈没は730日。あと2週間で戦争は終わっていたのであり、運命の皮肉に言葉を失う。


映画そのものは、いまひとつのところだし、脚本も冗漫なのところ、紋切り型のところもあるのだが、史実の重みがすべてを助けている。戦争の不条理を、また悲惨を、残酷さを、そして戦争に勝者はいないことをあらためて感じさせる作品となっ。


エンドクレジットでは、右側に、当時の艦長や士官や水平たちの写真が出るのだが。死んだ彼らの写真は、名前もわからないのだが、それだけで訴えてくるものがあって、エンドクレジットよりも、その写真のほうが気になった。これも史実の重みだろう。


ほんとうに題材によって助けられている映画である。その証拠に、この映画の視覚効果担当者(特撮担当者)、はっきりいって、絶対に、軍法会議にかけたほうがいいのだから。


追記 なお、この映画の脚本には、マイケル・ベイ監督の『パール・ハーバー』が少し入っている。死んだ戦友の子ども育てるとか。はっきり覚えていないのだが、『パール・ハーバー』にはゲイ的要素があると考えたことがある。同じような設定と運命をたどる人物が登場してくる。また日本軍の攻撃に対して、通信を受け取ったにもかかわらず、海軍司令部の対応が遅れたことによって、多くの犠牲者が出たということでは、真珠湾攻撃と、このインディアナポリスの乗組員漂流は、同じ構造を共有していることを示している。そう、どちらも司令部の無能ぶりが目立つのである。


posted by ohashi at 22:59| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年01月13日

『ロミオとジュリエット』

ケネスブラナー・シアター・ライブの3作のうち、『冬物語』と『エンターテイナー』は、東宝シネマズ日本橋か、次の吉祥寺のオデオンでみたのだが、『ロミオとジュリエット』だけは、見そびれて、池袋のシネリーブルでの上映で、ようやく見ることができた。


どの映画館でも、上映が1週間で終わり、3時間超えの映画となると、忙しいと、見そびれてしまう。実際、昨年の公開されていたので、ようやく年を超えてみることができた。ちなみに、『ロミオとジュリエット』は、もう上映は終わっている。


『冬物語』と『エンターテイナー』と比べると、この『ロミオとジュリエット』が一番出来がいいのではないだろうか。映像をみるかぎり、ギャリック・シアターのカーテンコールでは、ほとんどの観客がスタンディング・オベイションをしていたが、わからないわけではない。


また、劇場中継は、予想外のことにモノクロだった。これには驚いた。劇場中継の臨場感というよりも、映画としての見栄えを重んじたようだ。これもすごいというか、変なことである。


劇場公演そのものは、モノクロではないのだが、ブラナー・シアター・ライブではモノクロ映像となる。ブラナー自身のナレーションによれば、舞台を50年代のイタリアに置き換え(原作ではヴェローナが舞台)、フィルム・ノワール的世界を出現させた。あるいはフェリーニの映画『甘い生活』のような雰囲気を出したかったとも述べているが、いや、まさに『甘い生活』。あのモノクロ映画を思い浮かべてもらえれば、それとまったく同じモノクロの世界が、劇場中継のスクリーンに展開している。


『マッドマックス』もモノクロ版が上映されはじめたので、モノクロがはやりなのか。とはいえ、このモノクロ版『ロミオとジュリエット』も、モノクロにしたことで劇場中継ではなくなる面もあって問題はあろうが、映画としてみれば実に面白い。


個々の演技者のがんばりとか、演出の妙とかは語り始めたらきりがない。実際、ジュリエット役のリリー・ジェイムズ、ロミオのリチャード・マッデンとなれば、もちろんケネス・ブラナーが監督したディズニー映画で実写版『シンデレラ』の二人なのだが、映画よりも、この舞台のふたりのほうが生彩にとんでいる。


リチャード・マッデンは、レベッカ・ホール(ならびに亡くなったアラン・リックマン)と共演した『暮れ逢い』もよかったが(『ゲーム・オブ・スローンズ』のほうが有名)、30歳にみえない初々しいロミオを力演していた。リリー・ジェイムズは『シンデレラ』『二つ星の料理人』『高慢と偏見とゾンビ』そしてNHKで放送していた『ダウントン・アビー』(とはいえ彼女が出演するシーズンが放送されたかどうか不明)、そして『戦争と平和』など、2016年には、映画館やテレビで、よくお目にかかった。なお、マッデン、リリー・ジェイムズともにイギリス出身の俳優で、実力はよくわかった。


また字幕は、校正が完璧ではないのか、日本語のミスがあるのだが、台詞はシェイクスピアの英語そのままなので、字幕製作者がシェイクスピアの英語を知らないことが明白になった。たとえばstillというのは、シェイクスピア時代の英語では、「まだ」とか「それでも」という意味ではなく、「つねに、いつも、always」という意味だった。字幕製作者は、「それでも」とか訳していて、これは端的にまちがいであった。字幕に関しては信頼のおける専門家にみてもらうしかないだろう。有名な専門家である必要はない。信頼のおける専門家というのは、ただ、名前を貸すだけではなく、ほんとうに、きちんと、丁寧に、チェックしてくれる専門家のことである。


で、それはさておき、今回の舞台の特徴は、ベテランの有名な俳優としてデレク・ジャコビを起用したことだろう。


『冬物語』ではジュディ・デンチを起用していた。ジュディ・デンチは、かつてロイヤル・シェイクスピア・カンパニー(RSC)で、トレヴァー・ナン演出で『冬物語』のヒロイン、ハーマイオニーを演じたことがある(日本にもやってきた。その頃、私は物心ついていなかったので、観ていないのだが)。そのジュディ・デンチが、さすがにハーマイオニー役は、むりなので、ポーライナ役だったが、これは妥当な選択だったように思う。しかし、彼女に「時」のコーラスもやらせて、台詞を言わせたのは、どういう意図があったのわからない。ちなみに、私は「ポーライナ」と覚えているのだが、スクリーンの字幕は、「ポーリーナ」だった。しかも、スクリーン上で、はっきりと「ポーライナ」と発声しているのに、そのとき字幕はでかでかと「ポーリーナ」とあった。字幕に問題ありだ。


それはともかく、ブラナーの最初のナレーションで、パリで、落魄したオスカー・ワイルドのエピソードに感動したことがあるので、今回の演出にも、マーキューショウ役のデレク・ジャコビに老いたワイルドのイメージを帯びさせたとあった。老いても、おちぶれても、それでもなお元気な、ゲイの芸術家ワイルドというイメージである。


実際、デレク・ジャコビのマーキューショウと聞いて、ロミオの友人だから、マーキューショウは若いはずで、それをジャコビがするとはどういうことかと疑問に思ったのだが、こういうことだったのかと納得。実際、オスカー・ワイルドのゲイ的芸術家像は、マーキュシオのゲイ的表象とも適合するし、それをゲイであることをカミングアウトしているデレク・ジャコビがするというのは、これほどのはまり役はないともいえるだろう。


マーキュシオの年齢は、かならずしも定かでないが中年のおっさんが、若いロミオに恋をしているという関係は、じゅうぶんにありだろう。シェイクスピアではフォルスタッフとハル王子の関係に似ている。このような関係を、舞台に実現してくれた点でも、今回の演出の『ロミオとジュリエット』は観る価値があるだろう。


追記:字幕の悪口を:『ロミオとジュリエット』は文字の読み書きができない人間をからかったりするところがある。そのひとつにキャプレット家の召使が、宴会への招待客リストを読めなくて、そこに通りかったロミオとベンヴォ―リオにリストを声に出して読んでもらうところがある。このリストによって、ロミオとベンヴォーリオはキャプレット家の舞踏会について知り、そこにもぐりこむことになり、ロミオはジュリエットと出会うことになる。あとの展開につながる重要なシークエンスなのだが、このとき、ロミオは、招待客を捏造しているところがある。そのひとつが「マーキューシオと、その兄/弟ヴァレンタイン」。マーキュシオの兄/弟というのは、ここだけでしか言及されない。しかも名前がヴァレンタイン。これは、マーキューシオと、この宴会に潜り込もうとしたロミオが、自分のことをヴァレンタインとして、リストに入れたというようにとれないこともない。いずれにせよ、このリスト読み上げは、興味深いところが多いのだが、同時に、省略されることも多い。数年前、日本の舞台でみた『ロミオとジュリエット』は、この場面をカットしていた。今回の舞台は、このところを省略していないのだが、字幕では、ただ「マーキュシオ」とあるだけで、his brother Valentineを省略していた。



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posted by ohashi at 22:19| 演劇 | 更新情報をチェックする

2017年01月12日

「組」

私の父は死んでから久しいが、父はサラリーマンで、ある企業に定年まで勤めていた。


その会社は、明治時代に創業した由緒正しい会社で、英語のcompanycorporationを「組」と訳して、「組」がつく社名だった。「~組」という社名である。この名前からは、建設業者を連想するのだが、またさらには暴力団を連想させるのだが、父親の勤めていた会社は、建設業者でも、暴力団でもなかった。建設業者とまったく関係がないかというそうでもなかったので「組」という名前を維持したのかもしれないが、れっきとした商社である。


いまではないことだが、私が小学生か中学生の頃は、学校に提出する書類に、親の職業のみならず、勤務先も書かせられた。私が提出した書類をみて、級友や、教員は、なにも言わなかったが、たぶん、「~組」という会社名をみて、建設業者と思っただろうし、ときには暴力団かと思っていたかもしれない。べつに建設業者あるいは暴力団と思われてもいいのだが、ただ、実際には、商社マンだったので、会社名のせいで、異なる職種と思われるのは嫌だった。


数年前、正月に、企業が、電車の中に出している、新年のあいさつの吊り広告(一枚に4社くらいの名前が記してある)のなかに、父の勤めていた会社の名前をみつけて、なつかしい感じがした。いまも存在しているのか(べつに不思議なことではないが)と感慨深いものがあった。


新年のあいさつだけではないようだが、ここ数年、毎年、その吊り広告をみていたのだが、そういえば今年は見ないのはどうしてだろうと、勝手に心配していたのだが、今日、電車のなかで、私が握っている吊り輪のすぐそばにあった吊り広告に「~組」の名前があって、一瞬驚いた。「システムとプラントの総合商社」と、うたっていた。まだ会社があったことを知り、ちょっと安心した。


posted by ohashi at 21:08| コメント | 更新情報をチェックする

2017年01月11日

犬の心臓

『ミュージアム』と『秘密』


大友啓史監督の『ミュージアム』はヒットしているようだが、DVD/ブルーレイが発売になる『秘密トップシークレット』のほうは、あまりヒットもしなかったり、なにかヘイトの標的になっているようなところがあって残念だが、映画として見れば、『秘密』のほうが断然面白い。


まあ『るろうに剣心』といい、『ミュージアム』といい、それぞれ人物たちの感情がストレートに辿れるし、またそれを受け止めることができるのに対して、『秘密』だけは、ストレートではない。これは『秘密』が(原作もそうなのだが)、れっきとしたBL作品であるということを間接的にストレートじゃないと言っているのではない。BL作品である以上、そこにはねじれや、偽装や、抑圧が当然ついてまわるのであって、そのぶん、反発も買うかもしれないということだけである。


またヘイトの標的となっているようなところがあるというのは、たとえばアマゾンの次のようなコメント。べつにDVDやブルーレイを買ったわけでもない人間が、わざわざコメントしている――「ガナリ芝居の大森南朋とやたら秘密、秘密と煽る所が鼻につき、けむにまく様な演出が相変わらずのこの監督の体質。劇場で寝てしまいました。秘密って何だったのか?特に気になりません」という、自分のバカさ加減を自慢しているような、それこそバカなネット犯罪者みたいなやつがコメントを書いている。私の言い方自体がヘイトだといわれそうだが。「けむに巻く様な演出」というのは、『るろうに剣心』のことを言っているのだろうか。


もっと傑作なのは、「吉川晃司演じる殺人犯にはリアリティがない。連続殺人犯というものは、得意とする殺害方法に収斂されていくものだが、この連続殺人犯は捕まるまでの間、すべて違う殺害方法を行なったとされる。そんな殺人犯は、記録に残っている範囲においてであるが、存在しない」――おいおい、連続殺人の権威ホームズ君。だが、記録に残っている範囲内にあるような事件を再現しても意味がないだろう。超常現象とか異次元の存在、幽霊からはては宇宙人を登場させるのは、また物理法則などを無視するようなことは、論外としても、とにかく例外的な事例を出現させることが、すぐれた作品の条件、エレメンタリーなんだよ、連続殺人犯の権威ホームズ君。


あと「原作は知りませんが、織田梨沙は明らかにミスキャストだと思います。男を翻弄する役だそうですが、どう見ても家出不良少女ぐらいにしか見えず……」というコメント。ミスキャストくらいどんな作品にもある。ミスキャストがひとつしかないのに、評価を大幅に下げるというのは、あなたがコメンテイターとしてミスキャストなんでは。


そう、まさにこの作品に対して、アマゾンにコメントを載せている、こんな連中こそが、出てきてはいけないミスキャストなのだとわかった。原作のファンで、原作との違いを批判するという人間なら、コメントを書いてもいいだろう(ありがちではあるとしても)。


そうか、たしかにミスキャストに対する怒りはわかるといえばわかる。こいつら、ミスキャストなんだ。いらいらする。こいつら、ほんとうにミスキャストなんだから。


原作は知らないないのだが、ミスキャストのコメンテイターたちが、触れていないのが、BLテーマだが、映画はBLテーマにふさわしく、最後に犬の視点がでてくる。BLはDL(Dog Love)に繋がっている。


過去に犬の視点からの映像があるものとして、ゴダールの『愛の言葉』がある。パルム・ドッグ賞をもらったこの映画だが、あの3D映像は、犬の視点なのだと院生に指摘されてはじめて、なるほどと思ったのだが。


またイエジー・スコリモフスキー監督の映画『イレブン・ミニッツ』においても、犬の視点での映像があった。


しかし犬の視点での映像となれば、この『秘密』の最後の場面の犬の視点の映像が、最高にすばらしい。犬の視界では、色彩が感知できないので、モノクロになるのだが、モノクロに近い、淡い色彩で、犬の視点からの幸福な日常が映像として展開するのだ(正確には休日、、催しものでにぎわう公園での人間たちの幸せそうな姿なのだが)。この映像をみるだけでも、この映画は価値がある。また、このよう映像の衝撃は、同じ監督のほかの映画には、ないように思われるのだ。


ただ、この最後の犬の視点にたどり着くまでは、えぐくてグロい映像が多くて、ほんらいなら暗い映像群とは対照的であるがゆえに、際立つ明るさといいたいところだが、それまでの映像が暗すぎて、明るさが感じられないというところもあって、そこはちょっと残念といえば残念なのだが。


なお『秘密』については、2016817日の記事で触れている。



posted by ohashi at 17:37| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年01月09日

成人式

最近の成人式は荒れなくなったのか、成人式の消滅を願っていた私としてはちょっと残念である。べつに成人式をぶちこわせと考えているわけではない。官製のお祝い事など、出たい人間だけが出ればいいし、そんなに面白いものでも、御利益があるわけでもないから、細々とやって、いずれ消滅する、そうなれば、それでいい。べつに残念だとも思わない。そう考えているのである。成人式であばれる若者をみるにつけ、成人式もいよいよ終わりになるかと思っていたら、まだ終わりは遠いらしい。


私は成人式に出席したことはない。とくに成人式で暴れる若者のなどいなかった昔のことである。そもそも、昔は115日だったのだが、大学の授業がはじまった時期で、東京に下宿していた私は、冬休みに帰省し、授業が始まってすぐに、成人式のために、また帰省する(115日が成人の日だったので、こういうことが起こった)というのも面倒なことこのうえもない。交通費だってばかにならならい。また成人式など出たいとも思わないし、時間とお金の無駄(どちらも当時の私にとって、また、今の私にとっても、ゆるがせにできないことだ)と思っていたし、実際、そうだった。そこで、まったく躊躇なく、東京にいた。親も、成人式のために戻ってこいなどとは言わなかった。私の親は、成人式のためにもどってこいなどという馬鹿ではなかった。


これは私が、そういう反抗的な身振りを誇示しているということではなく、私の前後の世代で、成人式に出ていないというか、そんなものは無視した人間は、ざらにいた。ふつうのことだった。べつに残念とも思わなかった。


いずれにしたって、成人式などという古代の遺物は自然消滅すると思うし、消滅しても、誰も残念に思わない。と、まあ、これが私たちの古い世代の実感とすれば、いまの若い世代は、こんなふうには感じないみたいだ。


だとすれば、その感性からは、縁をきったほうがいい。なんであれ、官製の儀式をありがたがるのは、ファシストにすぎない。成人式を荒らしたヤンキーの若者たちが、最近は元気がなくなったみたいにみえるのは、残念ではある。もし、私が新成人だったら、ああいう若者の存在は気持ちのいいものではないので出席しないだろうし、もし私が親で、新成人の子どもがいたら、ああいう若者のいる成人式など、出ないほうがいいと忠告するだろうし。


posted by ohashi at 21:37| コメント | 更新情報をチェックする

2017年01月08日

『帰ってきたヒトラー』

映画公開は、2015年の夏くらいだったが、2016年年末にDVD・ブルーレイ化されたので一言。


原作は読んでいないが、映画をみるかぎり、あるいは正確には映画をみるまえに思ったことは、これはひと昔前のことなら、ヒトラーがよみがえっても、誰もがファシズムにはこりごりで、ヒトラーの発言はたわ言か、ただの不快な思弁でしかなく、誰からも相手にされないか、あるいは本人が、かつての信念なり思想を捨てるというような展開が、蘇るヒットラーという設定の映画から予想された。


ところが皮肉なことに、いまやヘイトスピーチ、ヘイトクライム、右翼ファシスト勢力が台頭、跳梁跋扈しているし、ドイツでは、皮肉なことにネオナチが力をつけているし、ネオナチに類するというか、ネオナチと形容できる勢力は、世界中にいる。もちろん日本にもいる。そのためヒトラーが現代によみがえれば、排除・追放されるどころか、むしろヒーローとして受け入れられてしまうのではないか。ヒトラーの思想が唾棄すべき悪の思想ではなく、あるべき理念、時代を換える新たな思想として歓迎されるだろう。


まさにブラックユーモアだが、残念ながら、これが現在の世界としかいうほかはない。で、映画そのものだが、たとえばヒトラーは犬好きだった。ブルーノ・ガンツがヒトラーを演じた『ヒトラー最期の12日間』では、毒薬の効果を試すために、ヒトラーの飼い犬が毒を盛られ、それから目をそむけるヒトラーという場面があったが、『帰ってきた』でも、犬好きのヒトラーが小型犬を相手にするのだが、気の荒い、その小型犬は、ヒトラーにかみつき、やむなくヒトラーは拳銃で、その犬を射殺するという場面があった。その映像がネット上に流失し……という展開は、映画を見た人なら覚えているだろう。


犬好きのヒトラーは描かれていても、映画全体からうける印象としては、小柄だといわれていたヒトラーだが、映画のなかでは大柄である。かっぷくがよく、体格がよくて、小柄な人間には出せない、威圧感がある。そしてこの大柄のヒトラーが、街に出てインタヴューをしたりインタヴューを受けたり、実際に、本物の右派政党の事務所に残りこんで、説教を垂れるところなどみると、なにか違和感がわいてくる。


『帰って来た』ではよみがえったヒトラーの人気を確実なものにするのはテレビのヴァラエティ番組なのだが、テレビで、大柄の人物が、強いドイツを訴え、ドイツをふたたびグレートにする言って、スタジオの観客のみならず、テレビの視聴者たちを魅了していくさまは、実際のヒトラーとは異なるのではないかという違和感を強めこそすれ、弱めることはない。ではなんなのか。


そう、この大柄なヒトラー、ドイツをグレートにすると豪語するヒトラー、これはトランプ時期大統領ではないか。そう、帰って来たヒトラーは、ヒトラーその人あるいは全体主義の悪夢というよりも、アメリカの次期大統領、トランプ、その人ではないか。映画館でみたときは、すぐにトランプという連想はうかばなかったが、いまや、強いアメリカ、アメリカ・ファースト、移民排除などのトランプの主張は、まさにこの映画で、よみがえったヒトラーがおこなっていることではないか。


まだ映画を観てない人は、この際、ブルーレイ、DVDで見てみるべきである。これはトランプとしてよみがえったヒトラーの話である。ヒトラーがほんとうに現在によみがえったら、メディアを制覇し、英雄となるだろう。なんという皮肉か。戦前・戦中は、ファシズム、全体主義と戦い勝利しアメリカは、戦後は、アメリカにとっていまひとつの全体主義である共産主義と戦って勝利した。だが、皮肉なことに、その勝利をあざ笑うかのようにトランプ登場。まさに現代のヒトラーとして君臨しはじめる。そいうえば、トランプはプーチンと仲が良かったのでは。トランプ政権は、オバマ政権がおこなってきたことすべてをひっくり返すといわれているが、アメリカのこれまでの歴史すべてを否定する暴挙に出るだろう。アメリカは民主主義の国ではなく、全体主義に支配された国として歴史に名を残すだけでなく、歴史の屑籠に捨てられる日も近いだろう。


posted by ohashi at 16:44| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年01月07日

湯島神社

学問的に行き詰ったので、あとは神頼みと、湯島天神に、大学へ行く途中で立ち寄った。初詣でもある。ただ、もう正月三が日にもすぎて、日がたっているので、そんなに人は多くない。


賽銭のコインを入れようとしたが、後ろのほうで高校生が、5円玉があるとか、ないとかしゃべっている。賽銭には5円(ただし複数も可)というのは、いつから、決まったのだろう。昔からというなかれ。5円玉に、ご縁(5円)がありますようにとの語呂合わせ的な願をこめることは、昔からあったような気がするが、賽銭に、まるで義務のように5円玉を使おうとするのは、基本的に迷信どころか、ひどい悪習だと思う。5円を義務化した人間は、出てきて弁明すべきである。賽銭の額によって御利益があるかないかを決めるのは、愚の骨頂なのだが、それにしても5円がデフォルトとはみみっちすぎる。


たとえば賽銭に100円を入れたとしよう。5円の、なんと20倍の額である。ひとりで5円玉20個を入れれば同じだろうが、しかし520個というのはけっこうかさばるだろうし、そんなめんどうなことをする人はいない。繰り返すが、賽銭の額の多い少ないは関係ないといわれるかもしれないが、賽銭は少なくていいと誰が決めたのだ。その決めた誰か。


そう決めたことに対して、私は腹を立てているのである。正月早々。5円玉というのは、驚異的に安すぎる。べつに御利益にあずかるとかそういうことではなく、宗教施設に対する敬意として、5円玉はふさわしくない。にもかかわらず賽銭=5円説が蔓延しているとは、愚かさに国境はない。


境内では、並ぶことがあった。とはいっても、長蛇の列ができているとか、みんな待ちすぎて殺気だっているというようなことはない。並んでいるのは10名にも満たず、私も最後尾に立った。私につづく人は誰もいなかったが、ほどなくして私のすぐ後ろに、十代と思われる二人組が立ち、私のすぐ前の二人と、私の肩越しに話している。話のやりとりの一端から、私の前の二人の中高年女性と、私の後ろの二人の十代らしき若者は、親子か、それに類する親族だろうとわかった。まあ、すくなくとも知り合いということなので、私は、後ろに二人に、どうぞこちらにと、順番を譲った。


すると、そのふたりは、ありがとうも、すいませんも言わずに、私の前に出て、すでに私の間にいた二人に合流することになった。お礼もなにもいわずに。そこでかちんときた。本来な、私の前にいる中高年女性二人は、私の後ろに子どもか知り合いの二人がいて、なにか話すことがあるのなら、私を先きに行かせる。私に対して、どうぞ前に行ってくださいといって、自分たちは後ろに行くのが礼儀だろう。いや、そういうタイミングを逸して、しかも自分たちの子どもが、列で順番を譲られたのなら、譲ってくれた人に対して簡単に礼を言うタイミングを逸したか、無視したら、彼ら二人が私に礼を言うべきだろう。だが、この子にして、このバカ親あり、このバカ親に、このバカ子あり。


まあ、正月早々、境内で、心の中で怒っている私もバカで、罰が当たりそうだから、賽銭をはずんで、5円を二枚しておこうかと思った。


ちなみに私が賽銭にいくら使ったかは秘密だが、5円あるいは52枚ということはなかったことだけ申し添えたい。


追記:こういう礼儀知らずについて書くと、最近は、日本人じゃないのではと本気で考える愚かな日本人がいて、恥ずかしくなるのだが、私の場合、この失礼な親子は、まぎれもなく日本人であった。


posted by ohashi at 06:21| コメント | 更新情報をチェックする

2017年01月06日

『青い影』

『青い影』の原題のA Whiter Shade of Paleは、蒼白さが、より白さを加えた色合いになったという意味なので、「青い影」というのは、原意を伝えていないので、最近では、いろいろな表記がなされているようだが、歴史性を重んじて「青い影」という表記を変えないでおく。


プロコルホルムの大ヒット曲だったこれは映画『ストーンウォール』でも使われていて、まさに時代を象徴する一曲でもあったが、私にとっても、この曲は、高校時代の思い出とともに、頭にこびりついて離れない。


名古屋の高校生だった私は、バスで栄まで行き、そこで地下鉄に乗り換えて、ファインモールドがプラモデル(500分の一)を造った愛知県庁の前を通って高校まで通っていたのだが、バスと地下鉄との乗り継ぎがスムーズに行かないときは、栄の地下街の書店で時間をつぶしていた。


今思い出すと、べつにバスは1時間に一本というようなローカル線ではなく、1時間に何本も発着していたので、どんなに長く待っても10分か15分くらいで次のバスが来たのだから、バスターミナルの乗り場で待っていてもよかったのだが、1本くらいバスをやりすごしても、地下街の書店で本を見て回ることに関心があったのだと思う。


ほぼ毎日書店で本をみていたのだが、受験参考書から、一般書、雑誌、マンガ、すべてのジャンルにわたってまんべんなく見ていて飽きなかった。みているだけで、あるいは立ち読みするだけで満足して、めったに買うことはなかったのだが、その書店(いまでも地下街にあるのだろうか、「日進堂」)で、毎日、かかっていたのが、プロコルホルムの、この『青い影』だった。音楽にとくに関心がなかったので、曲に関する情報など何も知らなかったが、印象に残る曲であることはまちがいなくかった。確実に耳に残った。この曲を聞くと、条件反射のように口腔時代のことを思い出す。


実際のところ、書店は、毎日、その曲をかけていたか、疑わしいし、私の高校生活三年間のうちに、曲だっていろいろ変わっただろうし、また今にして思うと、それは書店が店内に流してた曲なのか、あるいは地下街全体に流れていた曲なのかすら、定かでないのだが、私の記憶では、その書店は三年間毎日この曲を店内に流していた。時がたつにつれて、この曲は、幻想的な曲想とあいまって、ますます頭のなかに深く刻み込まれ、高校生活そのものにとってかわる位置を占めるようになった。まさに思い出の曲なのである。


と、これで終わりなのだが、しかし、さらに書くと、この歌詞について、それがよくわからないものであること知ったのは、ずっとのちのことだった。And so it was that later(←これは歌詞の一部)。


今回、ネットで歌詞を検索してみたのだが、またYoutubeで動画もみてみたのだが、「薬のディーラーが」という訳をつけているものがあって、はたして、そんな歌詞だったのかと、あらためてみなおしてみた。


そのなかにAs the miller told his taleという一行があり、millerは粉屋だから、粉→ドラッグというイメージがわいたのかもしれない。millerに麻薬の売人という意味があるのかどうか、私は知らないのだが、しかし「粉屋」だから「麻薬の売人」というのは、発想が日本語でしょう。そんなばかな。


Millerというのはミルmill(ひきうす)を回す人ということ。直訳すれば「ひきうす回し人」。そして意味は穀物をひきうすでひいて粉状にする人、つまり粉屋ということ。さらにいえば粉屋は、粉まみれになっているというイメージもあって、millerには蛾や鱗粉というイメージと結びつく。これはふうつに辞書に書いてある。そこから麻薬の粉という発想がでてくる。Millerは、意味は粉屋だが、英語の文字に「粉」のイメージはない。


しかし私は、英文学者のはしくれで、チョーサーのファンでもある。私は大学院を修了してからも、一時期、私以外の友人(私にも昔は友人らしき人達がいた)二人とチョーサーの『カンタベリー物語』の読書会をつづけていた。ただ、べつにチョーサーの研究家でなくても、チョーサーの読書会をしなくても、英文学者なら、As the miller told his taleから、チョーサーのThe Canterbury TalesThe Miller’s Taleを連想する。


この「粉屋の話」は、艶笑譚で、読書会では読んでいない。実際、これを読書会で丁寧に読むと、ちょっと恥ずかしくなる箇所が出てくるので。


赤裸々な官能的描写はない。ないけれども、思わず、ドキッとするような露骨な表現があって、これには誰もが感心するし、また赤面する。だから、ここには書けないのだが、それはともかくとして、粉屋の話は、粉屋ではなく、大工の女房が、夫、書生、役人(だったか?)の三人の男たちを手玉にとる話である。


『青い影』の歌詞は、この「粉屋の話」The Miller’s Taleと関係するところもあり、男を翻弄してきたファムファタール的な女性が、そのことをなんとなく指摘されて、あるいは過去の裏切りの体験を思い出したか、思い出させられて、蒼白になるというイメージがある。


あまり歌われることのない三番か四番の歌詞にはIf music be the food of loveという一行があって、これはシェイクスピアの『十二夜』の冒頭の一行でもある。文学作品を踏まえていたりするので、このことからも、チョーサーの「粉屋の話」は偶然ではないような気がする。


この曲の歌詞は、なぞめいた、曖昧模糊とした雰囲気を漂わせているので、よくわからないが、失恋の歌だとも考えられる。しかし、解釈はひとつに決まらないからこそ、作品の魅力が増すとも考えられるのだから、麻薬によるトリップを暗示的に描いているという解釈も、可能だろう。


いやそもそも、曲自体が、文字表現を、意味媒体ではなく、音楽媒体として使っている。私は高校生の頃、この曲を毎日書店できいていたが、英語の歌詞はまったくわからなかった。しかし、それでいいのであって、言葉にメロディをつけたというよりも(つまりメッセ―ジ・ソングとはいわなくとも、何らかの内容をもつものというよりも)、メロディ先行で、そのメロディを活かし、歌いやすいような歌詞をつけたということだろう。



ア~ア~とか、ウ~ウ~で、メロディを伝えるよりも、歌詞をとおして伝えたほうが、伝わりやすい。しかし、機能性重視で、あまりにも脈絡がなさすぎると、逆に、メロディを、そこなうから、なんとなく隠れた主題がみえかくれするようは、ぼんやりとした脈絡をつけたということだろう。


したがってメロディ先行だから、歌詞そのものは明確さを失っていく。そのため曲と歌詞との関係は、酩酊状態になる。言葉が発せられているのだが、その意味が宙に浮いているような。そしてこのことを歌詞そのものが意識している。酒場での酩酊状態が、またひょっとしたらドラッグによるトリップが歌われているかもしれないからだ。いずれにせよ、言葉はメッセージやテーマを伝えるというよりも、うわ言になる。


ちなみにThe ceiling flew awayという表現があって、ネットではたいていのサイトがそれを屋根が飛んでいってしまったと訳している。いくらドラッグでハイになった状態の比喩だからといって、竜巻でも襲ってきたのか。屋根が飛ぶ? 辞書で確認することすら、**はしないらしい。Fly awayというのは、旗や、こいのぼりなどが、風であおられて、パタパタとはねる、はためく、なびくこと。歌詞の前後関係から判断すると、喧噪、騒音で、天井板がぱたぱたとはためくほどだったということ。つまり音響で、天井板が震えたというふうにもとれる。これだけでも十分に誇張表現だが、天井が吹っ飛ぶというのは、いったい頭のなかがどうなっているのか。まちがいなくふっとんでいる。

posted by ohashi at 06:38| エッセイ | 更新情報をチェックする

2017年01月05日

『マンハンター』

アレックス・コックスの『ムーヴィードローム』について触れたので、思い出話をひとつ。このテレビ番組でみた映画のなかで、けっこう衝撃的だった映画に、マイケル・マン監督『マンハンター』があって、この映画、ぼんやりみはじめて、予想外に怖い映画であって驚いた。犯人像は、異様すぎて、言葉を失ったし、繰り返し示される一家惨殺現場の生々しいドキュメンタリー風の映像は、リアすぎて、目を覆う感じだったし、また、捜査官にアドヴァイスをあたえる謎の受刑者がいて(いまでは、こういう設定は日本のドラマでも多くて、珍しくもなかったが、当時は新鮮だった)、不思議な感じがした。捜査官が、受刑者の指示とか暗示によって、捜査をすすめていく? そう、これは『羊たちの沈黙』の前作、『レッド・ドラゴン』の映画化だった。


トマス・ハリス原作の『レッド・ドラゴン』は、すでに2度映画化され、また連続テレビドラマ化もされているのだが、これはその最初のもの。マイケル・マン監督の骨太の演出によって不気味で迫力のあるは異色映画になっていた。ちなみにレクター博士は、ブライアン・コックスが演じていて、次作の『羊たちの沈黙』ではレクター博士は、アンソニー・ホプキンズ。レクター博士といった異様な怪人ともいえる人物が、どうして二作ともイギリス人俳優なのか、理由はよくわからないのだが。


この『マンハンター』は、『刑事グラハム/凍りついた欲望』のタイトルで1988年に日本公開。ただし当時、私は、映画をみてる時間もなくて、公開されたことすら知らず、イギリスのテレビで、カルト映画を紹介するアレックス・コックスの番組で、はじめて、この映画を知ることになり、全編見ることになった。


のちに、この映画は、『羊たちの沈黙』のヒットによって、『レッド・ドラゴン/レクター博士の沈黙』と改題されビデオ化再発売されたとのこと。また私がイギリスのテレビでみたのは、『羊たちの沈黙』のヒットによって、過去の前作にも光が当たったという事情によるのかもしれないが。


原作では、ハンニバル・レクターとかかわる捜査官のウィル・グレアムは、最後に、精神的に破綻してしまうのだが、また、そのことがあって、次作の『羊たちの沈黙』でも、クラリス・スターリングがレクター博士とかかわることで、おかしくなるという暗い可能性がつねについてまわった。いっぽう映画版『マン・ハンター』では、グレアムは精神的に崩壊することはない(なおマッツ・ミケルセンがレクター博士を、グレアム捜査官をヒュー・ダーシーが演ずる連続テレビドラマ版『ハンニバル』は、どうなっているのかは未見なのでわからず)。


ちなにに『マンハンター』でウィル・グレアム捜査官を演じたのは、ウィリアム・ピーターセン。はじめて観た時は、私の知らない俳優で、その後、テレビの仕事が多かったようで、日本では、映画館などで見ることはなかった。しかし、私は、奇しくも再会した。テレビで。


とはいえウィリアム・ピーターセンって誰だといぶかる人も多かろう。


CIS科学捜査官』(最初のラスベガスを舞台にしているシリーズ)で、日本版では「主任」と呼ばれているギル・グリッソム博士、それがウィリアム・ピーターセンだった。『マンハンター』の頃とくらべれば、歳をとった以上に、太ったのだが、しかし、それでも、すぐに、ウィリアム・ピーターセン/グレアム捜査官だとわかった。CSIシリーズは、本国では、2016年をもって終了したようだが、日本では、再放送がいまもつづいている。グリッソム博士をみるたびに、『マン・ハンター』のことを、それをテレビで見たイギリスでの日々を今も思い出す。


posted by ohashi at 04:25| 日記 | 更新情報をチェックする

2017年01月04日

『ストーンウォール』

『もうひとりのシェイクスピア』から『ストーンウォール』へ


ローランド・。エメリッヒ監督の『ストーンウォール』について触れたので、ここで感想を。ただ、その前に、エメリッヒ監督のスペクタクル映画ではない映画、『もうひとりのシェイクスピア』について、触れておきたい。なぜなら、今回の映画も、この『もうひとりのシェイクスピア』と同じような作品になったからだ。創る側にとっても、観る側にとっても。


『もうひとりのシェイクスピア』は、シェイクスピア学者・研究者を全員怒らせたと、すでに書いたが、研究者のはしくれみたいな私にとっても、その気持ちは同じで、しかも、いまもかわらないのだが、あの映画に対する不満。それは、映画がシェイクスピア別人説に基づいて虚構を構成されたことではなく(べつに評価することはできなくても、それでだめだとか、批判されるようなことではないのだが)、細部のいい加減さ、アバウトなつくりに対してむけられたものだと思う。。


たとてば『もうひとりのシェイクスピア』が依拠しているシェイクスピア別人説は、オックスフォード伯エドワード・ド・ヴィア(Edward de Vere, 17th Earl of Oxford, 1550年4月12日 - 1604年6月24日=シェイクスピア説である。めんどうなことにフロイト自身も、このオクスフォード伯=シェイクスピア説を信じていた。このことは、フロイトの著作からうかがえる(もしオックスフォード伯=シェイクスピア説がほんとうなら、オックスフォード大学出版局から、『オックスフォード版オックスフォード全集』がでていただろうという、しょうもないことを確かフロイトは、どこかで(ただし有名な著作で)書いていたはずだ)。


このド・ヴィア=シェイクスピア説の問題点は、本人の死後もシェイクスピア作品が書かれ発表されたということだ。これに対して、映画は、解答を出している。ド・ヴィアは、作品を書きためていたから、死んだのちも、作品がつぎつぎと発表されたというものだ。


しかし作品は時代とともにあり、いくら貴族が暇で、作品を書きためる余裕があったとしても、時代の空気を吸わない作品は、ほとんど価値がないし、またそれですぐれた作品が生まれるはずもない。


また、これは映画作品そのものとは関係ないのだが、メイキングなどをみると、シェイクスピア別人説を、まるで宇宙人実在説以上に、確かな可能性として製作者や俳優たちが主張していることだ。教養のある貴族ではない人間に、どうしてあんな作品が書けるのだというは、作家の取材力を見くびっているか、全く知らない無知な考え方でしかないし、これに対するもっとも有効な反論は、貴族が、あんな庶民の下卑た言葉を知っているはずがないということである。


シェイクスピア作品を高尚な英語で書かれた高尚な内容の作品と思っているのは、作品をひとつも読んだことのない無教養な人間である。シェイクスピアの言語宇宙は、はかりしれないほど広い。そこには、猥褻な語、下品な言葉、隠語など貴族が知りえない言葉が、庶民が知りえないような高尚な言葉と肩を並べている。下品な言葉は、別人(たとえば役者たち)が付け加えたものと考えることもできるが、そうなると別人説のなかに、またべつの別人説が生まれることになり、もうきりがない。


また歴史的事実の改変もある。ささいなこと、不明なことに対して、いろいろ埋めたり盛ったりすることは許されることなのだが、たとえば関ヶ原の合戦の勝者と敗者を逆にするような改変は許されない。しかし映画は、そうした改変も行っている。シェイクスピア別人説を採用したら、あとは定説覆し放題ということにはならないないと思うのだが。チューダー・ローズの実物が出てきたときには驚いた(シンボルであって事物は、あんな存在しない)。


しかし『もうひとりのシェイクスピア』は、箸にも棒にもかからない、いや、それ以上に有害な映画化というと、そうでもない。私は学生に、この映画をみるようにとすすめている。シェイクスピア別人説は信じてはいけないと釘を刺して。シェイクスピアとかエリザベス女王時代が、どのような視覚表象を組織ししてきたかを、映画を通して触れることができるからだ。いわゆる「アバウト」な描き方をしているのだが、そのアバウトさが、特定の表象の伝統について、把握することを助けてくれる。その意味で、教科書としても役に立つ。教科書は専門書ではない。細部はぼやけ、いい加減でも、特定の概念や思想や表象をがっちりつかむために、教科書ほど有効なものはないからだ。


映画『ストーンウォール』の光と影もそこにあろう。私はストーンウォール事件について、詳細な細部については知らない。実際、わからないことも多いかもしれない。しかし、私が限られた情報から抱いていたイメージとも違う。この場合、私のイメージの方が間違っている可能性は高いのだが、しかし、事情はちがっても、『もうひとりのシェイクスピア』に対するのと同じような批判が寄せられていることは興味深い。


事情が違うというのは、『もうひとりのシェイクスピア』に対しては、シェイクスピア別人説には否定的なシェイクスピア研究者が、こんないい加減な話はないと、そのありえなさを批判しているのであって、基本的に別人説を最初から否定している。いっぽう『ストーンウォール』への批判者は、事件の存在を認め、その事件を好意的にみなしていながら、事実を歴史を捻じ曲げていると批判しているのである。虚偽の出来事を、真実であるかのように描く欺瞞性への批判(『もうひとりのシェイクスピア』)と、真実の出来事を、歪曲して描く欺瞞性への批判(『ストーンウォール』)と整理できるのだが、どちらも、アバウトさが批判されている。『ストーンウォール』の場合でも時代考証がしっかりされていないと批判されている。制作側からみれば60年代から70年代にかけての移行期の流行現象や文化風土がなんとなく伝わればいいということであって、細部への厳密な配慮は、逆に映画から魅力を奪うとみているようだ。通常のエンターテインメント劇映画なら、それでいいのだが、たとえエンターテインメントでも、実録物の映画では、アバウトさは、映画から魅力を奪うしかないだろう。その意味で、批判されても当然のところもある。


そして私の評価は、『もうひとりのシェイクスピア』の時と同じで、アバウトかもしれないが、そのアバウトさが、全体の雰囲気を伝える教科書として有益だというものだ。ストーンウォールの暴動における人種的・民族的マイノリティの役割が過小評価されているという批判はあるが、それはそのとおりなのかもしれないし、また歴史的状況なり人物の把握も、なにか問題があるような気もするが、それこそアバウトな感想かもしれないが--またアバウトさへの批判は覚悟のうえで――、全体としてこの時代と事件を知る、有益な足掛かりにとなるのではないだろうか。この映画を通して、知ることよりも、隠蔽されることのほうが多いとは思わないからだ。


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個人的な感想をいえば、ジョナサン・リース・マイヤーズが、ヘンリー八世を演じてからは、けっこう貫禄がついて(太ってはない)、大人の魅力を増したように思う。また、ジュークボックスから流す曲『青い影』もバカにされていたようだが、いい曲だった。


主人公の妹役のジョーイ・キングは、どこかで見たと思ったら、エメリッヒ監督の『インデペンデンス・デイ2』に出ていたばかりだし(『シン・ゴジラ』と同時期に日本でも公開されていたが、家族みんなで楽しめるスペクタクル映画で、それがあだになって、『シン・ゴジラ』に負けたようだ)、もっと前の『ホワイトハウスダウン』にも出ていた。


兄に対する理解者たる妹なのだが、ここでは頑なにゲイである長男を認めようとしない父親に対して、母親と妹は理解者になる。女性のジェンダーに対する理解力の高さと寛容さと包容力の大きさを肯定的に示すエピソードともなっていたのは、よかたった。ちなみに、結局、『インデペンデンンスデイ2』の時と同じで、家族全員で楽しめるスペクタクル映画ならぬ、ゲイであれストレートであれ全員で楽しめる映画というポリシーは『ストーンウォール』でも貫かれていて、それが結局あだとなっているのだが。


年寄りなので、昔話を。クリストファー・ストリートという名前が映画の最初に出てきた。いまでこそ、知らぬ人とていないニューヨークのゲイ・ストリートなのだが……。もちろんストーンウォール・インがあったところなのだが。


昔々、神田神保町の東京堂書店の、洋書売り場にChristopher Streetという雑誌だったか、ペーパーバックのシリーズがあった。いまやストーンウォール・インと同様に、中高年の英米文学研究者たちにとってはレジェンンドともなったこの洋書売り場で、それをみたとき、最初、そもそも、これはどこの町のストリートなのか、また、それがどんな意味があるのか、中身をのぞくまでわからなった。今では考えられないことである。また一冊でも購入しておけばよかったと悔やまれるのだが、昔は、お金がなかったのです。いまもないけれど。


posted by ohashi at 12:10| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年01月03日

『ナイトライダーズ』

この冬に『SAD VACATION ラストデイズ・オブ・シド&ナンシー』を上演中であるものの、風邪のため外出できず、回復してから映画館をのぞこうと思っているのだが、セックスピストルズを扱った映画としては、『シド・アンド・ナンシー』が有名で、この『シド・アンド・ナンシー』によって、監督のアレックス・コックスは、おそらく主役のゲイリー・オールドマンとともに、一躍有名になった。


そのアレックス・コックスが、その昔、イギリスのBBC2で〈ムーヴィードローム〉という、うずもれていた異色作をテレビで放送するシリーズのプレゼンターをしていたころがあった。私の記憶によれば、日曜日の夜だったように覚えているが、日曜日の夜は、日本でもそうだが、よほど用件がないかぎり、外出したりしないので、イギリスで暮らしていた頃は、けっこう毎週のように見ていた。


日本映画もふくめ、そのシリーズでみて記憶に残る映画は多々あるが、そのなかのひとつに、ゾンビ映画の巨匠ジョージ・ロメロの映画『ナイトライダーズ』Knightriders(1981)があった。こんな異色作を観たことがあるのは、私くらいだろうと思っていたら、アマゾンで調べたら、すでに日本版のDVDが販売されていた。がっかり。


日本で未公開の映画だが、AMAZONへの投稿で「1990年代に衛星放送WOWWOと地上波テレビ朝日でTV放映されたので、ビデオ録画してようやく観ることができましたが」とあって、結局、私がイギリスのテレビで見ていた頃、日本でも放映されていたようなので、まあ、観ている人は多いと思う(みんなが見ているわけではないとしても)。


この映画、ジョージ・ロメロのゾンビ映画ではない、またホラー、スプラッター映画でもない異色作で、現代のアメリカを舞台に、中世の騎士の甲冑を着こんで、馬でなく、バイクに乗って、槍試合をするコスプレ、サーカス、格闘技見世物のメンバーたちを扱ったロードムーヴィーである。


実際に、そうしたサーカス的なスペクタクルがあるわけではないだろう。観客役に、ロメロの友人でもあるスティーヴン・キングが出演していて、映画のなかで、さかんにヤジを飛ばしていたことも話題になったらしい。


主役のエド・ハリスはバイク騎士団の長としてアーサー王と名乗っていた。またアーサー王に率いられた騎士団なので、アーサー王宮廷の伝説さながら、ランスロットとグネヴィアの不倫があったり、世代交代のなか、アーサー王が倒されていくなど、アーサー王の中世騎士物語の世界とシンクロさせた物語展開もあって、2時間30分くらいの長い映画だが、飽きさせない。


とはいえ波乱万丈のアクション映画ということでもないので、シブい映画ではあるので、眠くなる人がいてもおかしくはないのだが。


AMZONでは別の投稿者がこんなことを書いていた。


いぁまぁ馬鹿馬鹿しい映画もあったものだと思う、騎士である、それも20世紀後半のアメリカが舞台だ、


いうまでもないことだが、アメリカ合衆国は共和国である、王家を戴く国から来た欧州移民達で作られたアメリカ合衆国は独立に際して、ワシントンを王様に選ぶようなとん馬なことはしなかったのである、同じく指摘するまでもないがアメリカは歴史が浅い、本作など独立200年を祝った直後の作品だ、そんな国で騎士であることなどショービジネスを除いていったいどんな必要があるのだろう?主人公のお馬鹿さ加減がしれようというものだ、バイク・サーカスろ興行以下略【句読点は原文のまま。この投稿者は句読点に「。」があることを知らないようだ。】


たしかにそうなのだが、しかし、同時に、アーサー王宮廷のコスプレ、格闘技という、そのチープな嘘くさい見世物の世界のなかに、人間の悲しい真実が浮かび上がるという趣向は、なみたいていのものではない、静かな感動を呼ぶことになる。


それだけではない。なるほどヨーロッパではないアメリカが舞台なのだから、そこにアーサー王の中性騎士道ロマンスの世界は、似つかわしくないかもしれない。しかし、それをいうなら、武士階級とか武士道がなくなった今の日本でも、なお、武士階級とは縁もゆかりもない庶民が、自分たちのことをサムライになぞらえることをしているのではないか。それを愚かだというのは、簡単だが、同時に、その持つ意味を考えることはできる。


読点男(句点を使いたがらない男)は、アーサー王伝説がアメリカ文化のなかに縁もゆかりもないことを前提としているようだが、ホワイトハウスのケネディ政権時代のことをキャメロットとジャックリーヌ・ケネディが言ったのは有名である。


夫の死後まもなく(1129日)、ジャクリーンはライフ誌のセオドア・ホワイトのインタビューを受けた。その中でジャクリーンは自分が夫と共にホワイトハウスで過ごした日々を「キャメロット」と呼んだ。キャメロットは伝説的なアーサー王の都、その王宮の呼称であり、以後ケネディ政権とそこを取り巻いた人々は「キャメロット」と称されるようになる。1963126日、ジャクリーンは二人の子供と共にホワイトハウスを後にした。Wikipedia より。


したがってジョージ・ロメロのこの映画は、知ったかぶりをしていながら、読点しか知らない、読点男が、なんといおうと、アメリカの文化や社会に竿さしている。ケネディ時代とそれ以後のアメリカ政治の衰退のアレゴリーという面もないわけではない。エンターテインメントと文化史的アレゴリー、けっこう奥の深い映画ということもいえよう。


私がアレックス・コックスの紹介でテレビで見た『ナイトライダーズ』では、もうひとつ印象に残っていたことがあった。騎士コスプレ格闘技サーカスの団員たちが、休憩時間か食事の時間にギターの伴奏で歌っている歌が、なんとSignifying Monkeyの歌。歌もできているのかと驚いたが、そのさわりのメロディは今も覚えている。

posted by ohashi at 01:07| エッセイ | 更新情報をチェックする

2017年01月02日

『ストーンウォール』から『スターゲイト』へ

『ストーンウォール』を観た人、これから観ようとする人たち(とくに映画ファンではない人たち)に、監督のローランド・エメリッヒは、これまでどんな映画を撮ったのかと聞かれ、『インデペンデンス・デイ』(続編も)、『デイ・アフター・トゥモロー』、『2012』、それにアメリカ版『ゴジラ』(『ローグ・ワン』の監督がとったゴジラではなく)というと、たいていの人はびっくりする。


『ホワイトハウス・ダウン』とか『ユニヴァーサル・ソルジャー』というのもあったと言うと、困惑はさらに大きくなる。そしてシェイクスピア学者全員を怒らせた『もうひとりのシェイクスピア』という映画もあったと話しても、ただ無視されてしまう。それほどエメリッヒ監督と『ストーンウォール』との結びつきは違和感があるということか。


しかしエメリッヒ監督がカミングアウトしているゲイであることを知っている者にとっては、映画『ストーンウォール』は、ようやく撮りたい映画を撮ったのではないかと、むしろ感慨深いものがある。


ただ、ここでは『ストーンウォール』の話ではなくて、エメリッヒ監督が過去に撮った映画にどんなものがあるのかと調べていたら『スターゲイト』があることに気づいた。


この『スターゲイト』は、テレビ(地上波)でも放送したし、DVDかなにかでも観た記憶がある。連続テレビ番組版は、この映画版の『スターゲイト』からつくられた。映画版のほうは、カート・ラッセル、そして最近は頭髪がなくなって海坊主化したジェイムズ・スペイダー(『ブラック・リスト』)が出ているのだが、いまから思えば、この映画では太陽神ラーの役でジェイムズ・デイヴィッドソンが出ていることもあって(『クライング・ゲーム』(92)でドラッグ・クィーンを演じ、『スターゲイト』(94)を最後に引退している)、ゲイ的あるいはクィア的要素が多い、まさにエメリッヒ色、それも後年のアクション映画SF映画にはないエメリッヒ色が出ていてよかった。


ただ、ここでは映画版の『スターゲイト』ではなく、テレビ版の『スターゲイト』のなかで気にかかった回があったので、触れておきたい。


もう前のことなので、詳しい物語を忘れてしまったのだが、いつものレギュラーメンバーが地球以外の惑星に全員そろって来ているのだが、ドラマがすすむにつれて、彼らは、実は、贋物であることが、わかる。本物のレギュラーメンバーが登場するに及んで、このことは明確になる。彼らは、本物のそっくりさんのアンドロイドかなにかであった。


ただし、最初から登場している贋物チームも、自分たちが贋物であるとはまったく思ってもいない。演じているのも、本物のレギュラーメンバーを演じている俳優たちである。


なにかの陰謀によって、彼らは作られた。そして陰謀もあばかれ、問題も解決したので、地球から来た本物のスターゲイト・チームは帰還する。


そして後に、この贋物のスターゲイト・チームが残る。彼らは、自分たちが贋物であるとは夢にも思っていなかったから、衝撃も大きいし、贋物だから、この惑星の建物の一室に放置され、誰からもかえりみられない。自分たちは贋物だったとのかと感慨にふける彼らは、自分たちは、ここで朽ち果てるしかないのかと確認しあう。なにやら切ない雰囲気となって、終わる。


この回のドラマ、ならびに結末は、私には衝撃的だったし、なにか、もやもやしたものが残った。ふつうは本物の側から状況を描くのだが、この回は、贋物の側から世界を描き、あろうことか贋物たちが感慨にふけるところで終わるのだ。異例の事態が出来している。しかも贋物といっても、演じているのは、本物を演じている俳優たちであって、どっちが本物か贋物かわからなくなる。


そう最初、本物とすら思わなかった(つまりいつものメンバーなので)彼らが、本物そっくりにつくられたアンドロイドかなにかであると判明する物語展開であっても、見ている側にとってみれば、彼らこそ本物である。そして彼らの運命に最後まで、つきあうことになり、後から出てくる本物たちは、ある意味、どうでもいいのである。


ということは、結局、あとで贋物とわかる彼らは、実は本物ではなかったのか。その本物が贋物に変えられてしまうプロセスに私は衝撃を受けたのではなかったか。


私は後にくるはずのものの影である。


衝撃ととともに、この言葉が脳裏をかすめることになった。この正月に、この衝撃をあらためて考えてみたいと思う。


posted by ohashi at 01:04| エッセイ | 更新情報をチェックする

2017年01月01日

新年あけましておめでとうございます。

ひと昔前までは、新年あけましておめでとうございますと、年賀状に書いたものだが、いつのころからは、「新年が、あける」のはおかしい。新年があけたら、来年になってしまうととかいう愚か者が現れて、みんなそれにつられて、年賀状の印刷文例からも「新年あけましておめでとうございます」という文例が消えた。


このことは毎年書いているのだが……


日本語の語法としては、「旧年があける」という表現は、使うことがないと思うが、「新年があける」というのは全く問題のない表現である。日本語では「水を沸かす」とも「お湯を沸かす」とも両方の表現が可能なのだから。つまり結果を最初に示しても日本語として問題ないのである。あるいはどちらの表現も日本語としては問題ないのである。


まあ、ひょっとして、誰かが、あるいは日本語を母語しない外国人が、冗談で新年があけるのはおかしくないか、とでも言い始めて、その時、自分は頭がいいと思っているバカが、それを受け継いで、最初は、冗談か、誤解で、はじまったものが定説となり、日本語の用法が破壊されたということだろう。


なさけないのは、テレビで予備校の国語の教員も、「新年あけましておめでとうございます」というのは不適切な表現であると、以前(2015年に)、言い放っていたことだ。


しかし、それにしても、たとえば――「新年あけましておめでとうございます」という表現は、日本語の表現としては、全く問題ないのですが、いつの頃からか、この表現が間違いである、非論理的であるといた風評のようなものが生まれ、いまや、「新年あけましておめでとうございます」という表現は、死滅した観がありますと、述べれば、それはそれで現状と現象を正しく把握したりっぱなコメントなのだが、そう語らなかった国語教員は、日本語だけには興味がない間ではないかと思った。

posted by ohashi at 01:02| コメント | 更新情報をチェックする