大学でシェイクスピア作品を読む演習では、必須課題ではないが、演劇の授業を履修しているのだから、劇場(大中小どれでもいい。素人の演劇でも、素人とはいえ質の高い学生演劇などでもいい)に足を運んではどうか。そして観劇記(書式、字数などは自由)を書いてはどうかと、準課題を課している。対象は台詞のあるシェイクスピア劇。ただし必須課題ではないので、観劇記を提出しなくても成績には全く影響しないと伝えている。あくまでも、自由意思に基づく成績とは関係のない課題である。
毎年半分まではいかないが、それに近い学生が観劇記を提出してくれ、私自身、それを読むのを楽しみにしている。
カクシンハン版『マクベス』を池袋シアターウェストで見たが、今回は、私の下手な観劇記よりも、学生が期末レポートといっしょに提出してきた観劇記のほうが実際の上演をうまく伝えてくれているように思えたので、提出された観劇記をそのまま掲載したい。学生の承諾は得ていない。したがって名前を伏せておく。誰の観劇記はわからないのようにしておく。
とはいえ名前を伏せなくても、りっぱな観劇記であって、どこに出しても恥ずかしくない、いや、それ以上のものであって、みんな文章も洞察力も優れている。そのため、カクシンハンの舞台をどのような劇評よりも的確に伝えてくれるのではないかと思い、ここに数点、掲載する。
観劇記の対象は2016年度後半に上演されたシェイクスピア劇なので、全員がカクシンハン版『マクベス』をみているわけではないが、私の推薦、宣伝だけではなく、さまざまな情報源から、評判を聞きつけて見に行く学生(東大英文科生)が増えているのはうれしいかぎりである。最近は、劇団から英文研究室に、チラシもポスターも送られてくることはなくなっているにもかかわらず。
なおここに掲載する観劇記については、評価とは連動しない。もし自分の観劇記が掲載されていることを発見した学生諸君がいても、掲載されたから成績もよいと思わないように。とはいえ以下の観劇記を見る限り、みんな優秀であることはよくわかる。
3年生のAさん(ただしアルファベットは本人の名前といっさい関係ない)の観劇記
今回私は木村龍之介氏主宰の劇団、シアターカンパニー・カクシンハンの『マクベス』を観劇した。劇団についての事前知識はなかったが、終演後購入したパンフレットにて木村氏が蜷川幸雄氏への強い意識を持っていることを知った。観劇中、マクベス夫人の話し方や舞台装置の使い方などに彩の国シェイクスピア・シリーズで見たような既視感を覚えていたためこの記述は非常に納得のいくものだった。これらの点も含め、以下作品の演出、翻案、観劇の感想について述べる。
1.演出
1)舞台装置
本公演で最も目を引いたのが、多数のパイプ椅子だ。冒頭の合戦シーンでは剣となり、ダンカン王一行がマクベスの城に到着した際には城壁となり、また王との晩餐を抜け出したマクベスとマクベス夫人が悪事の計画を囁き合う場面では壁にも扉にもなる。合戦ではそれぞれの役者が持つパイプ椅子が立てる音も剣同士のぶつかる音として有効に使っていたし、城壁など高さのあるものを表す場合は2脚の椅子を縦に繋げて人を隠すほどの丈を確保していた。それらが並び一部が動いて扉を表すのは、あたかも彩の国シェイクスピア・シリーズでの蜷川マクベスで使用された巨大な鏡のようだった。
決して広いとは言えず客席からも近い舞台の上で様々な場面を表すためか、移動が容易なパイプ椅子やキャスター付きの台車などが用いられていた。台車は一般的にパイプ椅子を大量に運ぶために使われるものだが、劇中ではしばしばマクベスなど登場人物が乗る馬車であったり玉座であったりした。例えばマクベスの戴冠式では王夫婦が台車に乗り、家臣に押させて登場した。コミカルではあったが、不思議と違和感は感じなかった。
また、キャスターがついた装置にはもう一種類陳列棚のような形のものがあった。こちらにはスナック菓子がたっぷりと積まれており、祝宴の場面で出席者たちはここから好きなように食べ物を取って思い思いに楽しんでいた。本来はゆっくりと食卓につき豪勢な食事をとるべき場面であるが、安価でありふれた菓子はマクベスが本来王にはふさわしくないことを揶揄しているようにも受け取れた。それらを用意したのはマクベスの側なので、場にふさわしいものを用意できていない様子とも取れるだろう。
さらにここでは戦場での死者に被せられたビニール袋にも触れておきたい。大きな透明の袋が倒れ伏す人物に被せられ彼らはすっぽりとその中に収まっているのだが、それが10人近く寄せ集められたさまは異様な雰囲気を醸し出していた。戦場の異様さ、死というイメージの無機質さ、マクベスの狂気全てが表されているかのようだった。血の表現がなくともここまで「死」を表現できるとは驚きであった。
2)衣装
本作の登場人物たちは、マクベス夫妻と魔女を除いて皆がほとんど同じ白一色の服装をしている。夫人付きのメイドは白の三角巾、マクベスの命で動く暗殺者たちは白いマスクというように多少の小道具で役割の表現はあれ基本的に全身白である。一方でマクベスは黒一色、夫人は赤一色だが、終盤夫人が亡くなったという知らせを受けてからマクベスは初めて赤い上着を着て戦いに挑む。いつどこで2人が舞台に登場しても観客は彼らを容易に見分けることができる。この色についてだが、マクベスについては悪徳の黒、夫人については彼女が幻に見続けた手のひらの血の赤の象徴と取れると感じた。
魔女たちは同じく白い衣装で、ただ大きな白い布をストールのように羽織る点が他の人物と異なっている。この大きな布というのは小道具ともなり、最後にマクベスがマクダフと一騎打ちする際は魔女の魔力としてマクベスの手足を縛り剣を振るえなくさせるなど重要な役割を果たしていた。この公演ではマクベス夫妻以外は一人で複数の役を演じていたため、衣装が簡単かつ区別が少ないのは演じ分けを容易にするための配慮でもあったのではと思う。
3)映像
劇場の奥には白いスクリーンと壁があり、近年流行しているプロジェクションマッピングのような映像が用いられていた。魔女の登場やマクベスの葛藤に合わせて混沌とした雰囲気を醸し出すほか、マクベスがダンカンを殺した後に大きな×印を”sleep no more”の文字とともに映し出す、暗殺者から逃げ出したフリーアンスが劇場外を走る映像を流す、など場面によって効果的な使い方がされていたと感じる。特にフリーアンスのその後についてはただ走るだけとはいえ原作で語られない彼の後日談を見ているような気持ちになった。
舞台上に色彩が少ない分、映像に様々な色が用いられコントラストがあったのは面白かった。全ての映像に鮮やかに色が付いていたのではなく白黒のものもあったので、舞台と映像、映像自体の2種類の対比が見られたのが興味深い。
4)音楽
今作は現代劇ではないのだが、J-POPや洋楽がBGMとして多く使われていた。中には歌詞を台詞として人物に言わせている箇所もあり、従来のシェイクスピア演劇とはまた違った試みではないかと感じた。これに対しては賛否両論あるだろうが、私は原作で描かれなかった登場人物の心情を歌詞という文章に託して挿入するのはなかなかに面白い試みだと考える。完全な文章ではない歌詞の形だからこそ、シェイクスピアの戯曲の形式に沿うという可能性もあるのではないだろうか。ただ、マクベス夫人が死ぬ直前の長い引用はやや間延びした印象があった。繰り返しの多い歌詞だったせいもあるのかもしれないが、まだまだ演出家の中でも確立はされていない手法の印象を受けた。
使われていた場面にやや確証がないのだが、おそらくマクベス夫人とマクベスが揃って寝室に向かう第3幕4場のラストで2人の台詞がなくなった際BGMとして流れていたのがデヴィッド・ボウイのRock n Roll Suicideであった。この直前はマクベスがバンクォーの亡霊を見て半狂乱になる場面であり、ダンカン殺害に始まった彼らの一連の悪事が確かに彼らの精神を蝕んでいることがわかる部分であるだけにsuicideという単語がしっくりときた。自ら破滅の道を進む夫妻は緩やかな自殺を選んでいるようにも見えるからだ。
それ以外の場面で印象的だった音楽として、マクベスが幻として見たダンカン王殺害の場面で流れたJ.S.バッハの『トッカータとフーガニ短調』を挙げておきたい。有名な冒頭の旋律が重々しく、ダンカンに手を下す重々しさ、取り返しのつかなさ、マクベスの迷いを悲痛なほど感じた。コミカルな場面も多く挟まれる中、重みのある音楽の使い方は非常に効果的だったと思う。
2.翻案
1)大人数の”魔女”
原作に登場する荒野の魔女は言うまでもなく3人である。これに第4幕1場に登場するへカテを加えても魔女的人物は4人だが、本公演ではマクベス夫婦を除いた全員が魔女として舞台に登場する。配役表にも確かにそう書かれている。彼らは初めてマクベスと相対する際客席に降り、観客に向かっても魔女と同じ動作をするよう要求する。この時点で観客はマクベス、バンクォーから見れば等しく魔女である。これは小劇場かつ魔女が大人数であることならではの演出ではないだろうか。魔女の人数を増やした意図の1つはこの観客を芝居に巻き込む行為にあると考えている。
しかし最も大きな理由は、魔女の得体の知れなさや魔力の大きさ、不気味さをより際立たせるためであろう。前述した布を羽織ることによって人間とは異なる異質な存在となった魔女たちが、それらを決して与えられないマクベスと対峙するさまは対立構造を形作っている。台詞もほとんどを全員が唱和しているので、なんとも言えない響きが作り出されていた。魔女が消える表現は全員が一度に客席扉を駆け抜け退場することで表されていたが、これもまた勢いがあり良い演出だったように思う。
2)存在しないはずのマクベス夫妻
第4幕2場から3場において、本来であればマクベス夫妻は舞台に登場しない。だが今作では、マクベスは舞台の最奥部、マクベス夫人は舞台下に常に存在している。彼らは舞台上で展開される場面に全く関わることがなく、マクベスは前述の台車に膝を抱えて座り空を見つめるだけ、夫人はひたすら自分の手を調べこすり合わせるだけという対照的な行動をとる。表情についても同様に、虚ろで変化のないマクベスと不安げでいっときも休まらない夫人というように正反対な両者のそれは各々の精神状態を反映しているようだった。
まずマクベスについてだが、玉座に座しても不安の種があっては仕方がないと怯えていた面影はなくどこか諦めてしまったようにも見えた。元々は彼のほうが妻よりも小心者で気弱な人物だったはずだが、親友だったバンクォーを手にかけてしまったこと、思うように国を治められないことなど夫人とは共有し得ない部分での心境の変化があったのだろうか。夫人については前半の勇ましさが影を潜め、夫よりもずっと弱々しいような雰囲気に変化していた。彼女は前の場面でバンクォーの殺害を決意したマクベスにも怯えるような仕草を見せていたのだが、そこから彼女の性質が変化し始めたという解釈なのかもしれない。実はダンカン王の一行がマクベスの城に訪ねてくる場面ではマクベスが隠れるように舞台の下で座り込んでいて舞台上では着飾った夫人が王たちを出迎えているという演出がされており、その部分との対比も感じられた演出だった。
3.感想
『マクベス』自体は先学期の授業で読み込んでいたこともあり、話の流れやある程度の解釈は自分の中にある状態で観劇ができた。私はこの作品が非常に好きなので今回の観劇記にも選んだのだが、期せずして新しい発見や気づきを得ることができた。
蜷川マクベスを上回るかと思うほどの迫力と勢いがあり、現代的な手法や表現を多用した今作品は賛否両論様々な意見が聞かれることと思う。私はとても気に入ったので、次回同劇団で上演されるという『夏の夜の夢』も楽しみに待ちたい。
演出家の腕ももちろんだが、この観劇を通して改めて『マクベス』という素材そのものの力を感じた。どんなに斬新な演出をされても本軸は全てシェイクスピアの戯曲であり、料理と同じく素材がしっかりしていて素晴らしいものであるからこそ多様な味付けができるのだと思う。来年度もこの作品について研究・分析を進めたいと考えているので、他の公演も積極的に観劇していこうと考えている。
↑これだけでりっぱなひとつのレポートになっていて、レポートの付録の観劇記の域を超えているが、上演の様子は理解できると思う。
次は4年生のBさんの観劇記。私としてはこのくらいの分量でよいと指示はしている。
カクシンハンによって上映されている『マクベス』の千秋楽を1月29日に観に行った。カクシンハンの公演に関しては、『オセロー』、『じゃじゃ馬慣らし』、『ジュリアス・シーザー』を過去に観させて頂いており、今回も非常に楽しみにして行った。
カクシンハンのマクベス全体を通して特徴的に感じられた演出は、マクベス夫妻を前面に押し出すような演出である。他の登場人物が、マクダフなどの準主役級の東欧人物を含めて白のシャツで統一されている一方で、マクベスは黒、夫人は赤をそれぞれイメージカラーに、他の登場人物と比べ際立つような佇まいをしており非常に目を引く。場面や振る舞いに関しても、バンクォウなどが茶化されているのと対照的にシリアスな表情で前面に出ることが多いように感じる。他の登場人物間の会話のシーンにおいても、前方や後方に一人離れて立ち思いつめたような表情で佇んでいるケースも多く(マクベス夫人が終盤、自分の登場するシーン以外でも舞台下で手を洗い続けているなど)、物語全体を通して中心になるよう引き立てられていた。
そして、マクベス夫妻共に、細かい心情の変化が演技を通してうまく出ていて、とても印象的であった。最初は自信なさげで思いつめる表情が多かったものの徐々に冷徹な表情の多くなってくるマクベス、そして逆に最初ははきはきしているものの徐々に自身無げに思いつめた表情の多くなるマクベス夫人の対比的な感じがよく表れている。そして、最終盤にマクベス夫人が死んだ後はマクベスが奥様の着ていた赤い衣装にチェンジする。そうして、マクベスがマクベス夫人とともに抱いた夢幻的な野望を成し遂げるための戦いを挑んでいくことが、マクベスの戦いにおける夫人の存在感を表していると思う。
ラストのシーンにおいては、生き残った戦士たちが寝そべることで、戦士たちではなくマクベス夫妻の亡骸が地面に横たわる様にピントを当てるような終わり方となっている。そして、その様が決して過度に悲劇的な様子で描かれておらず、むしろマクベス夫妻が穏やかな表情を浮かべている状態で劇が終わる。その理由としては、無駄な野望とそれに伴う苦しみから解放されたということが間違いなく大きい。こういった形で、原作がスコットランドの興亡という歴史的に大きなスケールで終盤の展開が進んだのに対して、マクベス夫妻の心の闇との戦いというより個人的なスケールで最後まで描き切っていたことは、自分にとって印象的で、とても良いエンディングに感じられた。
次は2年生のCさんの観劇記。本郷の授業を駒場の2年生が履修できるのかといわれそうだが、今年度から一部の授業を導入科目として2年生にも開放している。
大勢の、白いタンクトップを着た男たち。想像していた「3人の魔女」とはあまりにかけ離れていて、出だしから衝撃を受けました。唯一白いタンクトップでなかったのは黒いタンクトップのマクベスと赤い服と靴のマクベス夫人だけでした。この事から暗示されるように、この物語はこの夫婦2人の物語です。2人はともに王の暗殺に手を染め、次第に罪悪感に蝕まれる妻とは裏腹に夫は殺人を重ねていきます。初め暗殺に積極的だった妻と尻込みしていた夫の立場は逆転するわけですが、2人の愛情は途絶えません。マクベスが幻視に狂わされる頃、気丈に振る舞っていた妻も徐々に悪夢にうなされるようになり、ある日夫は妻の死を伝えられます。しかし独りとなったその後も彼は向かってくる敵に対し果敢に戦い、何よりその「女の股から生まれた男」には負けない勇敢さが、英雄的に表現されていました。このマクベスを、魔女に唆され妻に押されて悪事を行った「浅はかな男」とは言えません。彼は暴君であり悪者でありながら、ヒーローでさえあるのです。マクベスの生き方にはどこか勇気を貰える所がありました。
この劇はすべての場面が印象的で、どこかツッコミを入れずにはいられないところがあるのですが、すべてを挙げるとキリがないので、そのうちの幾つかの紹介にとどめておきます。
まずは小道具の用い方なのですが、パイプ椅子が戦場で、暗殺の場で剣となったり、壁となったり、ファミリーマートの商品陳列棚になったり、足場を不安定にするものであったり(マクベスと夫人が精神的に崩れる際、抽象的な意味で用いられたのだと解釈しました)と様々なアイデアに感心しました。カップ麺の容器が王冠代わりになり、プリングルスの缶がいくつも縦につなげられマクダフの剣になるなど笑いをとりに走っているようなところも幾つか見受けられました。
これらは台詞に冗談や皮肉を忍ばせるシェイクスピアがまるで現代に再び現れたかのようで楽しく見させていただきました。魔女たちが退場する時に残された煙の描写、“You get mock’n mock’n touching a girl”(ユーゲッモークモークタッチンアガール)(湯気 もくもく たちあがる)など英語を被せたジョークも幾つかあり、(全部思い出せませんが)面白かったです。テレビの緊急速報の音とともに、気象予報の画面に「速報:ダンカン王、暗殺される。…」などの表示とスコットランドやイングランドの気象予報が流れるのも現代的で飽きませんでした。ウィーナーワルツからテクノ、現代音楽まで駆使しつつも、原文(英語の)台詞を挟むなどの工夫で、新たなシェイクスピアの世界観ができたと言っても過言ではありません。演技者の熱量も客席に非常に伝わってきて、役者さんたちが客席を走り抜けることも度々あったため制汗剤の臭いも結構充満しました…。迫力満点の演劇で、しばらく劇から遠ざかっていた私には劇場の良さを再認識させるものとなりました。当初高いと思っていた4千円も見終わった後では高く感じませんでした。革新的なシェイクスピアが見れて楽しかったです。次回があれば是非、行ってみたいものです。
まだ観劇記はほかにもあるのだが、今回は長くなったので、これで。ただ、この3点の観劇記だけからでも上演の実際のようすは伝わってくる。またこの3人は文章が上手い。これだけ書ければほんとうにりっぱなものだと思う。英文科とはいわないが、文学部生の文章力は素晴らしいと思う。