映画の終わりが唐突すぎてついていけないという観客もいたようだが、それは映画会社がミスリーディングなタイトルをつけたため。サルトルの『一指導者の幼年時代』にインスピレーションを得たということで(内容は大きく異なる)、英語の原題はThe Childhood of a Leader(サルトルの作品と同じ)。独裁者(サルトルの作品ではそこまでいかずにアクシオン・フランセーズの有力メンバー(つまり右翼ナショナリストの反ユダヤ主義者)になったか、それ以上の独裁者になったかは明確にされない)が、どのような幼年時代を過ごし、そして、いかにして独裁者になったのかというのがサルトルの作品の流れだから、映画も、このような幼年時代を過ごした(癇癪をおこした出来事(全部で3回)が順を追ってかたられる)があり、この悪魔的な子供が、後年、独裁者になりましたという構成になるので、違和感がない。
ところが映画会社は、後年の独裁者になった人物をモンスターと勝手に名付けたために、観客は、この子がのちになる独裁者のことをモンスターだとは、夢にも思わず(当然のことだが)、どうやらモンスター・チャイルドが、結局、どういう秘密をもったのかという疑問ともに、映画をみていた観客は、秘密が何も語られないので驚き、落胆する。最後は、独裁者になったらしい、この子供ののちの姿を垣間見て、幕。これでは違和感を抱かないほうが、おかしい。
ちなみにサルトルの短編とあるが、私がたまたまもっている『集英社版 世界の文学11 サルトル/カミュ』(1976)(今から40年も前に出版された本だけれども、きれいなほぼ新品状態。読んでいないのだが、この巻に収録された作品は、すべて、別の本で読んだので。ただしひとつだけ読んでない作品があった、それが「一指導者の幼年時代」(中村真一郎訳)で、今回、あわてて読んだ)では、小さな活字で上下2段組みで50頁以上。うすい文庫本くらいになる分量で、短編ではなく中編だろう。またサルトルの中編は、主人公が髭をのばそうかと考えるところで終わるのだが、映画でも髭をはやした独裁者が登場するので、ある程度まで原作の設定に従ったのかと思うのだが、この独裁者、スキンヘッドになっている。監督のコメントによれば、この独裁者のモデルは、ムッソリーニとのことである。
サルトルのこの中編は、第一次大戦(当時は大戦The Great Warと呼んだ)前から戦後にかけて幼少年というか思春期も含むプチブル(父親が企業の社会)の息子、頭もよく多感で、ある意味、家族とも周囲にもなじめないこの少年が、いろいろな経験を通して、最後に当時の「アクシオン・フランセーズ」の一員になり、その後、たぶん、有力な指導者になる(ひょっとしたら独裁者や総統になる)直前で終わる物語で、三人称の小説だが、主人公の視点で書かれているので、疑似一人称小説。
しかも、この作品、中編とはいえ、段落分けはあっても、章の区切りはない。物語は切れ目なく最後にいたる(とはいえ、一気に読めるようなサスペンスフルな物語ではないが)。ある意味、力業的作品で、知的で、多感で、傷つきやすく、また才能もある男の子が、なぜ、アクシオン・フランセーズなどという、右翼、反ユダヤ主義者になるのかを、その内面から語る物語。年齢的には4歳から思春期までを一気に駆け抜ける。
作品は1939年に出版されている。これが戦後の出版なら、終わった戦争と、右翼ナショナリズム思想のあやまちへの痛切な批判と風刺とみることができるのだが、1939年の時点では、まだアクシオン・フランセーズのメンバーは健在だったと思うし、また戦争の帰趨もわからなかったので、挑発的であり、大いなる賭けでもあった作品かもしれない。ひょっとしたら作者は、その長髪性ゆえに命を狙われたかもしれしない。そうでなくても、この作品、時代と心中しかねなかった。
しかし今回の映画は、独裁者の誕生を、現在の状況とシンクロさせるわけでもなく、ただ、ムッソリーニ、あるいはヒトラーという、過去の出来事とゆるやかにシンクロしているだけで、現在の状況とのリンクが乏しい。べつにサルトルの作品の映画化ではないのだから、自由に脚本をつくれるわけで、それが、ただ、怖い、不気味な話、悪魔的少年が、長じて、世界を支配するようになりましたという話は、ハリウッド映画『オーメン』の焼き直しいみたいなもので、ただのB級ホラー以下という感じもしないわけではない。
もっともこういう独裁者物は、ラテンアメリカ文学では得意中の得意なのだが、そこから学んでもよかったように思うものの、時代を第一世界大戦後と設定してしまったために、こうなるしかなかったのは残念。
サルトルの作品にもどると、語られているのは裕福な企業主の息子が、アクシオン・フランセーズの一員になるまでの精神史なのだが、それは特異な一個人の歴史であるとともに、時代の精神的文化的風土の変遷ともシンクロしている。ニヒリズム、デカダンの浮遊感・根無し草的存在から、血と土地に結びつく堅固な存在感。一少年の精神的変遷は、フランス文化の時代的変遷と重なり合う。しかもそれだけではなく、精神的変遷を、ジェンダーとセクシュアリティをからめる身体性の変遷としても語っているところがすばらしい。少年愛、同性愛から、異性愛へ。そして、そのなかで本人自身が、自明のことと考えているユダヤ人差別。右翼ナショナリストの精神構造あるいは精神風景を、ある意味、中編だが、余すところなく描いている。
それに比べると、この映画は、なんだろうか。繰り返すが『オーメン』の焼き直しのようなものであって、首とか頭部に666の数字のあざとか、ほくろみたいなものがあったほうが、この作品の世界とあっているというものだ。
つづく