テアトル新宿は、毎回、毎日満席なのだが、他の映画館では満席になることはない。だが夜8時近くの回だったが(終わりは10時)、たくさんの人が入っていて驚いた。
アニメそのものは、ほのぼのとした図柄に、戦争の現実を、さらにいえば戦時下の現実を、庶民それも庶民の女性の視点から見ることによって、類のない戦争(アニメ)映画となった。「のん」の声も、いわゆる声優の発声とは違うのだが、その個性と癖が、声優たちの演技と調和して、印象的な語りを形成していて、声を聴いているだけでも飽きない。
そして初めて見て気づいた印象としては、空襲によって焼野原となった呉軍港と周辺地区に、戦争が終わったあと、その一角に、小さく、韓国の太極旗(だと思うが)が、ひとつだけ掲げられる場面がある。一瞬だが、そのもつ意味は大きいと思う。それは呉軍港にも朝鮮半島から徴用されていた多くの艦国・朝鮮労働者たちがいたこと。彼らも、日本人とともに爆撃の犠牲になったこと。そして、ここからは推測でしかないが、日本の敗戦によって、抑圧体制が崩壊し、彼らが解放されることになり、民族のアイデンティティを主張し、日本からの独立を主張して、太極旗を掲げたということだろう。
実際、彼ら韓国・朝鮮人労働者の運命は、この映画の主人公と共通している。彼らもは、この映画の女性たちであり、この映画の女性たちは、韓国・朝鮮労働者たちなのである。いずれも、故郷から引き離されて、異郷の地で、殺されてゆく、あるいは生き延びても、過酷な運命が待っている。実際、映画の時代、女性には、参政権が認められていなかったのであり、彼女たちは、基本的に奴隷をかわらなかった、あるいは外国人労働者とかわらなかったのである。
そのことは主人公のすずが、広島の遊郭に迷い込むエピソードからもみえてくる。遊郭の女性たちに道を尋ねても誰もわからない。日本各地から集められてきているので、場所についての知識がないのである。もちろん、それをいうのなら、主人公のすず自身、ぼんやりしていて広島でも呉でも道にまよってばかりいるのだが、しかし彼女は広島から呉へと、自分で望まぬまま嫁に来たのである。彼女もまた徴用され強制移住させられた労働者と、遊郭の娼妓とかわりない。繰り返すが、この頃は、日本の女性に参政権すらあたえられていなくて、彼女たちの地位は、一市民ではなう奴隷と同じであった。
もちろん、この遊女たちの姿には、慰安婦の姿が重なる。いや、遊女と慰安婦は違うといわれるかもしれないが、どちらも好きでやっているのではない職業である。ふたつを区別しようとする議論は、遊女であれ慰安婦であれ、ともに、女性に対する犯罪であり、女性に対する人権の侵害であることを忘れている。
結局、このように強制移住させられ、男性世界に奉仕させられる市民権すらなく基本的人権を無視されている遊女と韓国・朝鮮人労働者たちが、この映画の女性たちと通底する。
すずの語りには、現実なのか夢物語なのかわからないところがあるのだが、冒頭に登場する「人さらいの鬼」は、現実に存在するとも思えないのだが、それはまた戦争そのもののまがまがしい存在そのものでもあろう。人間をさらい、移住させる悪魔。それは父権制による女性の交換を経て、戦争という人間の行動に対する拘束と強制という権力の行使という悪魔的体制へと繋がる。まさに。人さらい鬼こそ戦争であろう。そしてその行動を機転をきかせて封じ込めてしまうすずの行動が、戦争という鬼の裏をかきながら、負けずに生きていくけなげな姿に受け継がれていく。韓国人・朝鮮人労働者は、廃墟に太極旗を掲げたが、女性も、もし旗があれば、その旗を掲げてもよかった。そいういう映画なのである。
もちろん、人さらい鬼は、その愛嬌のある姿からして、人を不幸に陥れるだけではなく、新たな出会いを用意してくれる恵みの神でもあろう。すずが嫁に行くことになった相手は、象徴的な意味でも非象徴的な意味でも、この人さらい鬼によって、結ばれることになった男である。彼は、女性を家族や故郷から引き離す理不尽さを承知しており、心優しい夫として傷を負った彼女に対しても誠実にむきあい受け入れるのだから。
しかし、疫病神が幸運を運ぶ神だというのは、宗教的にはよくある話だが、しかし、下手をすると、戦争も、人との新たな出会いを準備した、善きものという馬鹿げた結論にもなりかねない。むしろ、人さらい鬼であれ、戦争であれ、それを幸運の契機にかえる主人公の女性の精神的な強さ、そしてその裏にある苦難の大きさを感知し、賞揚すべきだろう。彼女いや女性たちの前で、参政権すらない女性たちの前で、戦争の悪は、無力化する。悲しみの大きさが、戦争の悪をまがまがしい跋扈を許さないのである。
監督は片渕須直。聞いたことがないと思ったが『マイマイ新子と千年の魔法』の監督だという。このアニメは見た。
舞台は昭和30年の山口県防府市。それは私の母の故郷でもある。ただ昭和30年に母は、防府市にいなかったのだが、また『マイマシ新子……』の舞台は、同じ防府市でも母が生まれた地区とは異なるところなのだが、興味深くて、くいいるようにDVDを見た。もちろん、アニメとしても出色のできだと思う。そして高樹のぶ子の原作も読んだ。
なお『マイマイ新子……』と、『この世界の片隅に』との間に、類似性というか展開・発展性もあるように思うのだが、それはここでは問わない。
ただ私の母も、世界の片隅とはいいがたい呉軍港と呉市とは異なる、ほんとうに世界の片隅の防府市の瀬戸内海海岸で戦争中は暮らしていた。防空壕に入り、また近くで爆弾が爆発したときには、両耳を指でふさいで、口を大きく開けるという対処法は、母からよく聞かされたが、同じことをアニメのなかでも語っていた(絵は、そのように動かなかったが、耳をふさいで、口を大きく開けるという台詞ははっきり聞こえた)。ゆきとどいたリサーチのおかげか、相当に、リアルである。
かくして私の中では、戦時下の呉軍港と、防府市の海岸風景、そして主人公のすずと、私の母とは(すずよりも少し年下だが)、重なりはじめる。おそらく、戦争への憤りと嫌悪も、この重なりのなかに宿っていることだろう。