2016年12月18日

真田幸村、実物は歯抜け、白髪説の嘘

真田幸村、実物は歯抜け・白髪説…


以下は朝日新聞の201627日の記事(執筆 神庭亮介)だが、べつにこの記事が問題ということではなく、こういう記事がネット上にあふれている。つまり真田幸村が、実は、歯抜けで白髪であったというわけだが、愚かさもここに極まれりというほかはない。


ただし以下の記事は、戦国武将のイケメン化というテーマなので、それに関しては、ここではとくに問題にしない。


戦国武将のイケメン化が止まらない。たとえば、NHK大河ドラマ「真田丸」で話題沸騰中の真田幸村。小柄な体格で、大坂の陣の時には歯が抜け、白髪交じりだったとされる。それなのに、ゲームやマンガではキラキラの美少年に。一体なぜなのか。


戦国武将たちが戦いを繰り広げる、アクションゲーム「戦国BASARA」。2005年の第1作以来、28の関連作品が発売され、累計売り上げは380万本を超える(昨年9月現在)。歴女ブームの立役者とも言われ、イベントや舞台には女性ファンがあふれる。

中略

史実によれば、大坂の陣で豊臣軍についた幸村は、大阪城に築いた出城「真田丸」で奮戦。夏の陣では、徳川家康の本陣に切り込み、一時は家康に自害を覚悟させるほどまで追い詰めたとされる。その雄姿は、敵方からも「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」とたたえられた。


そんな幸村も、大坂の陣以前、和歌山・九度山での蟄居(ちっきょ)時代には、老境にさしかかった我が身を憂うような手紙を残している。

 「去年よりにわかに年より、ことのほか病者になり申し候、歯なども抜け申し候、ひげなども黒きはあまりこれなく候」。病気がちになり、歯が抜け、ひげの白髪も増えた、という内容である。

以下略。


この手紙は、真田幸村が九度山での隠遁生活を送っていた頃、義兄にあたる小山田茂誠(幸村の姉・村松殿の婿)に宛てた書状のことらしい。慶長17年(1612年)のこと。


この手紙が、本物だとする。では、ここに書いてあることは真実なのか。真実かどうかをどうやって決めるのか? こんなことは子どもでもわかりそうなことだ。


九度山で監視されているなか、信繁/幸村が、私は元気いっぱいで、徳川家康に一泡ふかせてやれるほど、気力・知力ともに充実していると、手紙を書くとでも思っているのだろうか。手紙のあて先は、身内とはいっても、秘密を打ち明けられるほどの親密な仲ではないだろう。たとえ、どれほど親密な関係にあっても、手紙は読まれる可能性もあるから、あぶないことは書けないだろう。また、たとえ自分しか読まない日記の類でも、監視されている立場なら、読まれてしまう可能性もあるから、本当のことは書かないだろう。


したがって信繁/幸村の手紙は、当然、敵をあざむくための嘘であるみるべきだろう。九度山に閉じ込められていて、手紙に、ほんとうのことを書くなどという、愚かなことを、天下の知将、信繁/幸村がするだろうか。


もちろん、その手紙そのものではなく、手紙の内容が、嘘だという絶対確実な証拠はない。しかし、真実であるという絶対確実な証拠もないのであって、真相はわからないままだ。それを幸村は歯抜けで白髪頭であったことを歴史の真実であるかのように信じてしまうナイーヴさは、いったい何だろう。はっきりいってバカかと言ってやりたい。


しかし、こんなことは私でなくても、誰もが考えることであって、私よりももっと頭のいい人間は、もっとスマートに、この手紙の嘘(くりかえすが、の手紙の存在自体が嘘というのではなく、内容が嘘である可能性も、真実である可能性と同じくらい高いということ)を指摘するだろう。


そうした人間の一人が、三谷幸喜であって、『真田丸』のなかで、九度山を抜け出し、大阪城に登城するときの信繁/幸村は、歯抜け、白髪の老人に変装するのである。なぜ変装するのか、明確な説明はなかったような気がするが、まあ変装して敵の目をあざむくためだろう。そしてこの変装こそ、三谷幸喜の脚本が、この手紙を意識している証左である。そう、三谷は、手紙が敵をあざむく嘘かもしれませんよと、この信繁/幸村の変装を通して、けっこう挑発的なかたちで、ほのめかしているのである。


もっとも三谷脚本のこのほのめかしを、全く理解していない番組をNHKは放送していた。昼間の番組だったと思うが、例の手紙を、発見した経緯、そして当時の状況を、歴史家へのインタヴューを通して浮かび上がらせていた。NHKの番組のコンセプトとしては、信繁/幸村の手紙から、本人が歯抜け・白髪の老人だとわかるのだが、あまたの時代小説や時代劇では、幸村は、そのような老人として描かれていない。史実と虚構のギャップがここにあるということ、それを指摘したかったのかもしれない(『真田丸』人気に水をさすような番組を他局ではなく、よりにもよってNHKがつくっているのだ!)。


しかしNHKである以上、当然、『真田丸』について触れることになる。しかも歯抜け・白髪の老人に変装して大阪城に登城する場面がすでに放映されている。


この場面の映像を、あらめて示す以上、その番組のしめくくるとして、NHKのアナウンサーがいうべきことは、「歯抜け・白髪の老人であると自分のことを語る幸村の手紙も、この『真田丸』の場面が暗示しているように、敵をあざむくための幸村の嘘・策略であったのかもしれません」ということにつきる。


それで問題ないように思うのだが、実際のアナウンサーのコメントは、歴史的事実と、ドラマとのちがいがどうのこうのと、うだうだと、歯切れの悪いものだった。バカかといってやりたい。あるいは、史実=真実、ドラマ=嘘という番組作りのコンセプトが、三谷の脚本で破綻させられたのだが、その後始末を、番組制作者から、押し付けられたアナウンサーに同情すべきかもしれない。とはいえ、実際の映像からみるかぎり、アナウンサーは、三谷は『真田丸』で、どうしてこういう変装の場面をつくったのでしょうかと、まったく不思議でならないとうい表情をしていたのだが。やはりバカだ。

posted by ohashi at 22:23| エッセイ | 更新情報をチェックする

『戦争と平和』

私よりの年配のご婦人と話すことがあって、そのとき、私たちの子どもの頃は、文学全集がブームで、毎月配本される一冊を、とにかくその月に読み切って、全集全部揃えた時点で全集の全巻を読んでいるということが、子どもの頃(といっても中学生以上だが)の夢であり、またそれは、多くの人間が、夢に終わらせずに実行したことだった。


まあ日本文学の全集というのは、分量にもよるがこれはけっこうむつかしい。たとえ明治期以後のものであっても、古い日本語は、とくに知識のない子どもには読めなかったからだ。それに比べ、外国文学の翻訳は、日本語のレベルでは、一様に、現在の日本語になっていて、面白かつまらないかの差はあっても、読めないものではなかった。今の私があるのも、子どもの頃の、外国文学の文学全集のおかげである。


では、どの国の文学に熱中したかという話になって、それには、意見が一致した。ロシア文学とフランス文学である。どちらも世界文学の華そのものだった。イギリス文学は、地味で田舎臭かった。アメリカ文学はアメリカンだった。で、ロシア文学となれば、ドストエフスキーにトルストイだった。トルストイには熱中したという話になって、『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』のどれがよかったかについても、『戦争と平和』で意見が一致した。『アンナ・カレーニナ』は、中学生のクソガキだった私にとっては、中年のおばさんの不倫話で、そんなに面白いものではなかった(実際にはアンナは子どもがいても、まだ29歳くらいで、フェリシティ・ジョーンズよりも若いということに、当時は、まったく気づかなかったのだ)。いまからみれば『アンナ・カレーニナ』が一番におもしろい小説と思うだろうが、当時は、クソガキだったのだ、この私は。


『アンナ・カレーニナ』や『復活』については、いつか語れる機会があると思うので、今回は『戦争と平和』について。


ナポレオンに率いられえたフランス軍がロシアに侵略、モスクワまで到来したものの、冬の悪天候と寒さに悩まされたあげく、ロシアから撤退するまでを描く、大長編小説である。登場人物も多いのだが、読んでいくと、登場人物の名前をすべて覚えてしまうのは、まさに作品の力だろう。描き込みがはんぱではないからだ。


最初のクライマックスは、オーストリア皇帝軍とロシア皇帝軍とがナポレオンのフランス皇帝軍と戦い、オーストリア・ロシア軍が撃退されるアウステルリッツの三帝会戦であるが、しかし、やがて、フランス軍がロシアを侵略にするにつれ、アウステルリッツ以上の熾烈な戦いが展開していく。


そのなかでさまざまな人間模様が描かれていくのだが、史実を検討してゆく作者の記述もだんだんと熱を帯びていき、それが頂点に達するのが、ボロジノの戦いである。『戦争と平和』のなかでもクライマックスとなるこのボロジノの戦いは、作者は、物語を語るだけでなく、戦況を分析し、作戦を評価し、歴史的回顧のなかで戦争の実相を浮かびあがらせようとする。人物たちの去就は、おかまいなしに、地図が示され、作戦の分析が克明になされていく。


もちろん中学生のときに読んだ記憶をたどっているので、記録というよりも幻覚にちかいものかもしれないが、ナポレオン戦争において、ボロジノの戦いがいかに重要であったかということは、あるいは、トルストイが重要だと考えていたことは、しっかり受け止めたと思う。幻想でも幻覚でも遮蔽記憶でもなく。


トルストイ経由で知ったボロジノの戦いとは、それまで連戦連勝のナポレオン軍が、ロシア侵略の途上で、はじめて頑強な抵抗に出会った戦いだった。結果的にロシア軍は敗退して、モスクワをあけわたすことになるのだが、このときロシア軍は、ナポレオン軍に致命的な損害を与えていた。そしてその傷はすぐには気づかれなくとも、冬のロシアを敗走するナポレンがついにフランスで退位するに及んで、致命傷の大きさが明らかになる。


ロシアの宮廷あるいはロシアの貴族の館では、当時、フランス語が話されていて、フランス軍は侵略軍というよりも友軍のようなものである。したがってフランス軍に立ち向かい、おびただしい犠牲を出しながらも、最後には追撃に転じたロシア軍の中核はロシアの民衆なのである。ロシア民衆のナショナリズムの覚醒と自由を希求する民衆の戦いが、フランスの帝国主義を最後に倒したのである。だから、ボロジノの戦いは、敗退したとはいえ、究極的に、ロシア軍が勝利していた、そのことは、ロシア軍の総司令官クツーゾフ将軍は知っていた(トルストイは、クツーゾフをロシア貴族というのりも、ロシア農民の魂の権化のようにみている)。


もちろんナポレオン戦争によって覚醒したのは、ロシア・ナショナリズムだけではない。帝政の専制あるいは帝国主義に対して自由を求めて戦う自由主義革命思想もまた貴族たち支配層にひろがっていく。こうして『戦争と平和』は、ナポレオン戦争が終わり、平和を取り戻したロシア社会が、いまひとつの戦いをはじめる、まさに、その直前で終わる。


『戦争と平和』の終わりは、デカブリストの乱の直前の時代である。デカブリストの乱は、ロシアの皇帝専制と農奴解放を要求した、貴族の将校たちを中心とする革命運動であり、武装蜂起したものの、皇帝軍によって弾圧され、関係者が多く処刑された。ロシア文学ではプーシキンがこの時処刑されている。


『戦争と平和』のなかで、ナポレオン戦争を生き延びた登場人物たちの多くは、これから起こるであろう、このデカブリストの乱に参加することが予見される。ナポレオンの帝国主義との戦いは勝利のもとに終わったのだが、つぎにはロシア帝政との闘争が待っている。ナポレオン戦争がロシアにもたらした自由を希求する熱い思いは、いま、まさに帝政との対決を迎えようとしているのである。


もちろん『戦争と平和』の作者も読者も、デカブリストの乱の結果を知っている。ナポレオン戦争に勝利した人物たちは、すべて、デカブリストの乱で死んでいくことだろう。ロシアに萌した革命運動は、生まれてすぐに、残酷な終焉を迎えたことを、作者も読者も知っている。そして『戦争と平和』が出版されたころ、ロシア帝政が終わることなく続いていることを、作者も読者も知っている。


だがボロジノの戦いを思い出せ。ナポレオン軍に負けたロシア軍、モスクワをもあけわたす屈辱的な敗北を喫したロシア軍であったが、その戦いで、1日で死んだ数万人の兵士たち、その戦いで犠牲になった者たちは、その死を通して、ナポレオン軍に、じわじわと効き始める致命傷を確実に与えていたのだ。


希望は消えることはない。デカブリストたちは、敗れたとはいえ、屈辱的な敗北を喫したとはいえ、ロシア帝政に確実に致命傷をあたえていたはずである。ロシア帝政は、いまなおゆるぎなく存続しつづける。だが、帝国主義は、いつか必ず崩壊する。デカブリストたちの蒔いた希望の種は、あるいは彼らが、その死によって加えた致命傷は、いつかかならず帝政を、帝国主義を倒すことだろう。ボロジノの戦いを忘れるな。希望は死ななない。それがトルストイが『戦争と平和』に込めたメッセージである。


『ローグ・ワン』をみて、そんなことを思い出した。We have hope.Rebellions are built on hope.


posted by ohashi at 18:30| エッセイ | 更新情報をチェックする

2016年12月17日

『ローグ・ワン』

『ローグ・ワン』


映画そのものは、『エピソード4 新たなる希望』の直前で終わる(直前10分前のところで終わる)という、ある意味、離れ業であって、誰しも、もう一度エピソード4が見たくなる。


具体的に言えば、デス・スターに関する重要な情報が、反乱軍側の宇宙船に届く。手渡しというのがおかしい。全宇宙に送信したはずだったのだが。そしてその宇宙船にはレイア姫が載っている。この情報は「希望」だと彼女はいう。希望は死なない。そして戦域を離れる宇宙船を見送る、ダース・ベイダー卿。


このあと、ベイダー卿が乗艦する巨大スター・デストロイヤーが、レイア姫の乗艦する小型宇宙船を追う。エピソード4の冒頭となる。小型宇宙船にはストーム・トルーパーとベイダー卿が乗り込んでくる。レイア姫は、R2D2に情報を入力(ホログラムである!)、C3POR2D2は脱出ポットで宇宙船を離れる。エピソード4がこうしてはじまっていく。その直前が今回の『ローグ・ワン』である。


スターウォーズ・シリーズは、制作された時期によって、CGの技術に差がある。というかCGが、どんどん高度になってゆくので、初期の作品は、今の目からは貧弱にみえる。また作品世界のテクノロジーも、どんどん進化してゆくため、たとえばエピソード4よりも、エピソード1のほうが、文明度が高いというような逆転現象すら起こる。今回、スターウォーズの日本風にいうと外伝シリーズは(Anthologies Serieと称しているようだ)、組み込まれる時間軸の設定を極力変えないようにしている。反乱軍はエピソード4と同じように、どこかの倉庫のようなところで会議しているし、武器類も、いたずらにアップデイト化していない。なつかしいエピソード4の世界と違和感がないようにつくられている(ただしアニメの『反乱者』と同じ時代なので、映画シリーズにはなく、アニメ版にだけ使われている宇宙船などは、『ローグ・ワン』にも踏襲されている)。


あとスターがいないという不満をネットで述べている**がいたが、最近、よく映画でみるフェリシティ・ジョーンズ(30歳をすぎてから彼女は魅力的になったことは、誰もが認めるところかもしれない)、最近、映画ではあまりみていなくて、けっこう久しぶりのディエゴ・ルナ、そして言わずと知れた、マッツ・ミケルセンとフォレスト・ウィテッカーの二人。あとアジアから『イップマン』のドニー・イェンが出演。これだけでていて、よくスターがいないと言えたものだとあきれる。新シリーズの『フォースの覚醒』ではシリーズ共通の人物としてハリソン・フォードとキャリー・フィッシャーが出ているが(歳をとって)、それ以外は、新人の俳優たちである(またエピソード4の頃のハリソン・フォードとキャリー・フィッシャー、そしてマーク・ハミルだって、当時は誰も知らなかった新人俳優たちだった)。それにくらべれば『ローグ・ワン』は、スター俳優をそろえている――あとキャリー・フィッシャーの若い頃のCGとピーター・カッシング(故人)がCGで登場。なお『ファンタスティック・ビースト』のように、突然、大物俳優(ジョニー・デップ)が予告なく登場するようなことはない。。


あとスターウォーズの世界は、シェイクスピアの世界と似ているというのは、けっこう悪質なデマに近いもので、ゆるがせにできない面をもっている。まったく似ていないとか、冗談に近いとか、そういう意味ではない。シェイクスピア的世界観であるということで、このシリーズのもっと政治的な意味が隠してしまうことになるからだ。


特定の偏見を極力排除して、今回の『ローグ・ワン』をみてみよう。そうすれば、これは帝国に対して戦う反乱軍の話であり、帝国軍支配下の惑星における居住区のありようは、中東の街並みを彷彿とさせるし、反乱軍を支配している「フォース教」といい、これは、どうみて、この反乱軍こそ「イスラム国」にほかならない。


いや、なんという誤解かと反論されるかもしれない。ストーム・トゥルーパーズの恰好、あれはナチス・ドイツをイメージしたものであり、帝国軍はナチス、そして反乱軍は第二次世界大戦中のレジスタンスのイメージだと。


また、アメリカ的なコンテクストで考えると、あの白揃えしたストーム・トルーパーズと、義勇軍的反乱軍との戦いは、アメリカ独立戦争の際の、赤揃えした大英帝国軍(イングランド軍は赤い軍服で名高かった)と、アメリカ植民地現地人との戦いのイメージがあるのだろう。


あるいはダース・ベイダーの姿は日本の鎧兜を連想させるものだし、帝国軍は基本的に無国籍であり、そうであるがゆえに、特定の政治的思惑に左右されない普遍的な悪の体制の象徴となる。そこがわからないのかと、あきれらるかもしれない。


しかしナチスだの第三帝国だの、レジスタンスあるいは反政府ゲリラのイメージが時代とともに遠のくにつれ、そして帝国あるいは帝国主義のイメージが、米国、ロシア、中国の帝国主義・覇権主義として明確になるにつれ、スターウォーズの反乱軍は、ますます、イスラム国に近くなっていくといわざるをえない。


もちろん、それは製作者も、ファンも、予期せぬばかりか望まぬことかもしれないとしても、同時にまた、反乱軍のイスラム国表象化は、ある意味で、アメリカそのものも帝国として相対化し、世界のあらゆる帝国主義(とりわけアメリカ、ロシア、中国、そしてそれに加担する国々、たとえば日本の)に対する自由の戦いの象徴に、このスターウォーズ・シリーズが生成変化したことの証左ともいえるからである。


繰り返すが、もしイスラム国の戦闘員たちが、スター・ウォーズあるいは『ローグ・ワン』に登場する反乱者たちは、自分たちのことだ、「フォース」とはムハンマドあるいはイスラム教のことだ、帝国とはロシアとかアメリカのことだと主張したとき、どのような根拠をもって、それを否定できるのか。イスラム国は自由を求める反乱者たちの集団ではなく、民衆を暴力的に抑圧するストーム・トゥルーパーみたいなものではないか?と批判しても、意味があるのだろうか。そもそも、アメリカ軍は現地人や民衆を抑圧しない、自由戦士の軍隊だと思っている者など、いないのだから。


ただ、いすれにしろ、アメリカにしろ、ロシアにしろ、中国にしろ、大国の帝国主義はいつか必ず崩壊する。帝国の支配は、決して続くことはない。たとえどれほど時間はかかっても、自由は獲得されるだろう。We have hope. Rebellions are built on hope!



posted by ohashi at 10:44| 映画 | 更新情報をチェックする

2016年12月11日

『エンターテイナー』1

ブラナー・シアター・ライブで、ジョン・オズボーン原作の『エンターテイナー』をみる。作品そのものは大作で、ミュージックホール芸人の家の居間だけが舞台なのだが、そこに、ミュージックホールでのパフォーマンスが重なってくる。ケネス・ブラナーの芸達者ぶりが堪能できるのだが、まあ、それは当然なことであるのだが、ジョン・オズボーンの作品としてみると、たとえば『怒りを込めてふりかえれ』とはずいぶん異なると同時に、その延長線上にもあるという差異と類似性の両方が際立つ作品でもあったことがなんともすばらしい。


ただ、作品そのものについては、いろいろ思うところもあって、調べてみたいので、次回に。とりあえずは、今回のシアターライブで気になったことをだけを。まあ、どうでもいいことなので、読まないでください。


幕間というか前半と後半の休憩時間は20分くらい。その間、ギャリックシアターの客席を天井のカメラがうつしだすのだが、それを休憩時間にぼんやりみていたら、一階客席のあるフロアーの角で、なにかを売っている。小さなワゴンで、係員が、どうやら透明のカップに入ったアイスクリームを売っているのだ。けっこうみんな買っていて、休憩時間の終わりにはほぼ完売状態だった。


それをみてなつかしい思いがした。私もイギリスの劇場では、幕間にアイスクリームを買って食べていた。日本の劇場では、幕間にアイスクリームは、食べないのだが(糖尿なので、甘いものはあまり食べてはいけない)、それでも映画館では、アイスクリームを食べることがある。映画館には幕間はないので、映画が始まる前。また夏でも冬でも。


『ベストセラー』という映画をシネャンテでみたとき、いっしょに行ったわけではないが、私の知り合いの男性も同じ回でみていて、彼は、こういう文芸映画は、通常の映画とは異なる客層かもしれない、どういう人たちが見に来ているのかと周囲を観察したら、前の方の席で、なにか食っている客がいる。周囲をみても、たとえばポップ・コーンすらもちこんだり食べている客もいない。いったい何を食べているのかと、ひょっとしたら持ち込んではいけないものを食べているのかと、かなり気になったらしいのだが、すみません、それはアイスクリームを食べていた私でした。


そもそも、こんな冬にアイスクリームを購入する客はいないみたいで、メニューにあったので注文したら、紙のカップのアイスクリームが出てくるのに異様に時間がかかった。すみません。面倒をかけて。しかも座席でも周囲から奇異な目で見られていたかもしれないので。でも、彼のいる席からどうして、見えたのか。もちろんそれが私だったとは気づかなくて、映画が終わって立ち上がってから、それが私だとわかったと話してくれたのだが。


今回の『エンターテイナー』の幕間の最後で、画面に、作品の時代背景をなどを簡単なクイズ形式で説明する映像があって、そのなかで、1956年のスエズ動乱によって、辞任することになったイギリスの首相はという問いがあって、答えはアンソニー・イーデン。それはいいのだが、そのときの字幕が「保守派のアンソニー・イーデン」とある。


問いも答えも英語の文字で示されるので、まちがえようがないのだが、Conservatvieを「保守派」と訳すのは、字幕作成者の失敗でしょう。通常ならConservativeは「保守的」「保守派」と訳していいのだが、英国の政治家あるいは首相につけるときには「保守党」としなければ間違いである。事実、イーデン首相は保守党だった。これは日本の安倍首相を、「自民党の」党首と表記するのは問題ないのだが、安倍首相を「自由派とか民主派」あるいは「自由民主派」と表記するようなものであって、これは端的にいってまちがいである。阿部首相は、リベラレルでもないし、言論の自由など認めようとしないし、国会での強行採決をする党の党首であって、「自由主義」と「民主主義」をどちらかというと踏みにじっている首相なのだから。


なお今回、字幕作成者は、新人か、無知か、よくわからないが、問題のある字幕もあった。


つづく

posted by ohashi at 13:08| 演劇 | 更新情報をチェックする

2016年12月09日

『シークレット・オブ・モンスター』1

映画の終わりが唐突すぎてついていけないという観客もいたようだが、それは映画会社がミスリーディングなタイトルをつけたため。サルトルの『一指導者の幼年時代』にインスピレーションを得たということで(内容は大きく異なる)、英語の原題はThe Childhood of a Leader(サルトルの作品と同じ)。独裁者(サルトルの作品ではそこまでいかずにアクシオン・フランセーズの有力メンバー(つまり右翼ナショナリストの反ユダヤ主義者)になったか、それ以上の独裁者になったかは明確にされない)が、どのような幼年時代を過ごし、そして、いかにして独裁者になったのかというのがサルトルの作品の流れだから、映画も、このような幼年時代を過ごした(癇癪をおこした出来事(全部で3回)が順を追ってかたられる)があり、この悪魔的な子供が、後年、独裁者になりましたという構成になるので、違和感がない。


ところが映画会社は、後年の独裁者になった人物をモンスターと勝手に名付けたために、観客は、この子がのちになる独裁者のことをモンスターだとは、夢にも思わず(当然のことだが)、どうやらモンスター・チャイルドが、結局、どういう秘密をもったのかという疑問ともに、映画をみていた観客は、秘密が何も語られないので驚き、落胆する。最後は、独裁者になったらしい、この子供ののちの姿を垣間見て、幕。これでは違和感を抱かないほうが、おかしい。


ちなみにサルトルの短編とあるが、私がたまたまもっている『集英社版 世界の文学11 サルトル/カミュ』(1976)(今から40年も前に出版された本だけれども、きれいなほぼ新品状態。読んでいないのだが、この巻に収録された作品は、すべて、別の本で読んだので。ただしひとつだけ読んでない作品があった、それが「一指導者の幼年時代」(中村真一郎訳)で、今回、あわてて読んだ)では、小さな活字で上下2段組みで50頁以上。うすい文庫本くらいになる分量で、短編ではなく中編だろう。またサルトルの中編は、主人公が髭をのばそうかと考えるところで終わるのだが、映画でも髭をはやした独裁者が登場するので、ある程度まで原作の設定に従ったのかと思うのだが、この独裁者、スキンヘッドになっている。監督のコメントによれば、この独裁者のモデルは、ムッソリーニとのことである。


サルトルのこの中編は、第一次大戦(当時は大戦The Great Warと呼んだ)前から戦後にかけて幼少年というか思春期も含むプチブル(父親が企業の社会)の息子、頭もよく多感で、ある意味、家族とも周囲にもなじめないこの少年が、いろいろな経験を通して、最後に当時の「アクシオン・フランセーズ」の一員になり、その後、たぶん、有力な指導者になる(ひょっとしたら独裁者や総統になる)直前で終わる物語で、三人称の小説だが、主人公の視点で書かれているので、疑似一人称小説。


しかも、この作品、中編とはいえ、段落分けはあっても、章の区切りはない。物語は切れ目なく最後にいたる(とはいえ、一気に読めるようなサスペンスフルな物語ではないが)。ある意味、力業的作品で、知的で、多感で、傷つきやすく、また才能もある男の子が、なぜ、アクシオン・フランセーズなどという、右翼、反ユダヤ主義者になるのかを、その内面から語る物語。年齢的には4歳から思春期までを一気に駆け抜ける。


作品は1939年に出版されている。これが戦後の出版なら、終わった戦争と、右翼ナショナリズム思想のあやまちへの痛切な批判と風刺とみることができるのだが、1939年の時点では、まだアクシオン・フランセーズのメンバーは健在だったと思うし、また戦争の帰趨もわからなかったので、挑発的であり、大いなる賭けでもあった作品かもしれない。ひょっとしたら作者は、その長髪性ゆえに命を狙われたかもしれしない。そうでなくても、この作品、時代と心中しかねなかった。


しかし今回の映画は、独裁者の誕生を、現在の状況とシンクロさせるわけでもなく、ただ、ムッソリーニ、あるいはヒトラーという、過去の出来事とゆるやかにシンクロしているだけで、現在の状況とのリンクが乏しい。べつにサルトルの作品の映画化ではないのだから、自由に脚本をつくれるわけで、それが、ただ、怖い、不気味な話、悪魔的少年が、長じて、世界を支配するようになりましたという話は、ハリウッド映画『オーメン』の焼き直しいみたいなもので、ただのB級ホラー以下という感じもしないわけではない。


もっともこういう独裁者物は、ラテンアメリカ文学では得意中の得意なのだが、そこから学んでもよかったように思うものの、時代を第一世界大戦後と設定してしまったために、こうなるしかなかったのは残念。


サルトルの作品にもどると、語られているのは裕福な企業主の息子が、アクシオン・フランセーズの一員になるまでの精神史なのだが、それは特異な一個人の歴史であるとともに、時代の精神的文化的風土の変遷ともシンクロしている。ニヒリズム、デカダンの浮遊感・根無し草的存在から、血と土地に結びつく堅固な存在感。一少年の精神的変遷は、フランス文化の時代的変遷と重なり合う。しかもそれだけではなく、精神的変遷を、ジェンダーとセクシュアリティをからめる身体性の変遷としても語っているところがすばらしい。少年愛、同性愛から、異性愛へ。そして、そのなかで本人自身が、自明のことと考えているユダヤ人差別。右翼ナショナリストの精神構造あるいは精神風景を、ある意味、中編だが、余すところなく描いている。


それに比べると、この映画は、なんだろうか。繰り返すが『オーメン』の焼き直しのようなものであって、首とか頭部に666の数字のあざとか、ほくろみたいなものがあったほうが、この作品の世界とあっているというものだ。


つづく

posted by ohashi at 21:26| 映画 | 更新情報をチェックする

2016年12月08日

『この世界の片隅に』

テアトル新宿は、毎回、毎日満席なのだが、他の映画館では満席になることはない。だが夜8時近くの回だったが(終わりは10時)、たくさんの人が入っていて驚いた。


アニメそのものは、ほのぼのとした図柄に、戦争の現実を、さらにいえば戦時下の現実を、庶民それも庶民の女性の視点から見ることによって、類のない戦争(アニメ)映画となった。「のん」の声も、いわゆる声優の発声とは違うのだが、その個性と癖が、声優たちの演技と調和して、印象的な語りを形成していて、声を聴いているだけでも飽きない。


そして初めて見て気づいた印象としては、空襲によって焼野原となった呉軍港と周辺地区に、戦争が終わったあと、その一角に、小さく、韓国の太極旗(だと思うが)が、ひとつだけ掲げられる場面がある。一瞬だが、そのもつ意味は大きいと思う。それは呉軍港にも朝鮮半島から徴用されていた多くの艦国・朝鮮労働者たちがいたこと。彼らも、日本人とともに爆撃の犠牲になったこと。そして、ここからは推測でしかないが、日本の敗戦によって、抑圧体制が崩壊し、彼らが解放されることになり、民族のアイデンティティを主張し、日本からの独立を主張して、太極旗を掲げたということだろう。


実際、彼ら韓国・朝鮮人労働者の運命は、この映画の主人公と共通している。彼らもは、この映画の女性たちであり、この映画の女性たちは、韓国・朝鮮労働者たちなのである。いずれも、故郷から引き離されて、異郷の地で、殺されてゆく、あるいは生き延びても、過酷な運命が待っている。実際、映画の時代、女性には、参政権が認められていなかったのであり、彼女たちは、基本的に奴隷をかわらなかった、あるいは外国人労働者とかわらなかったのである。


そのことは主人公のすずが、広島の遊郭に迷い込むエピソードからもみえてくる。遊郭の女性たちに道を尋ねても誰もわからない。日本各地から集められてきているので、場所についての知識がないのである。もちろん、それをいうのなら、主人公のすず自身、ぼんやりしていて広島でも呉でも道にまよってばかりいるのだが、しかし彼女は広島から呉へと、自分で望まぬまま嫁に来たのである。彼女もまた徴用され強制移住させられた労働者と、遊郭の娼妓とかわりない。繰り返すが、この頃は、日本の女性に参政権すらあたえられていなくて、彼女たちの地位は、一市民ではなう奴隷と同じであった。


もちろん、この遊女たちの姿には、慰安婦の姿が重なる。いや、遊女と慰安婦は違うといわれるかもしれないが、どちらも好きでやっているのではない職業である。ふたつを区別しようとする議論は、遊女であれ慰安婦であれ、ともに、女性に対する犯罪であり、女性に対する人権の侵害であることを忘れている。


結局、このように強制移住させられ、男性世界に奉仕させられる市民権すらなく基本的人権を無視されている遊女と韓国・朝鮮人労働者たちが、この映画の女性たちと通底する。


すずの語りには、現実なのか夢物語なのかわからないところがあるのだが、冒頭に登場する「人さらいの鬼」は、現実に存在するとも思えないのだが、それはまた戦争そのもののまがまがしい存在そのものでもあろう。人間をさらい、移住させる悪魔。それは父権制による女性の交換を経て、戦争という人間の行動に対する拘束と強制という権力の行使という悪魔的体制へと繋がる。まさに。人さらい鬼こそ戦争であろう。そしてその行動を機転をきかせて封じ込めてしまうすずの行動が、戦争という鬼の裏をかきながら、負けずに生きていくけなげな姿に受け継がれていく。韓国人・朝鮮人労働者は、廃墟に太極旗を掲げたが、女性も、もし旗があれば、その旗を掲げてもよかった。そいういう映画なのである。


もちろん、人さらい鬼は、その愛嬌のある姿からして、人を不幸に陥れるだけではなく、新たな出会いを用意してくれる恵みの神でもあろう。すずが嫁に行くことになった相手は、象徴的な意味でも非象徴的な意味でも、この人さらい鬼によって、結ばれることになった男である。彼は、女性を家族や故郷から引き離す理不尽さを承知しており、心優しい夫として傷を負った彼女に対しても誠実にむきあい受け入れるのだから。


しかし、疫病神が幸運を運ぶ神だというのは、宗教的にはよくある話だが、しかし、下手をすると、戦争も、人との新たな出会いを準備した、善きものという馬鹿げた結論にもなりかねない。むしろ、人さらい鬼であれ、戦争であれ、それを幸運の契機にかえる主人公の女性の精神的な強さ、そしてその裏にある苦難の大きさを感知し、賞揚すべきだろう。彼女いや女性たちの前で、参政権すらない女性たちの前で、戦争の悪は、無力化する。悲しみの大きさが、戦争の悪をまがまがしい跋扈を許さないのである。


監督は片渕須直。聞いたことがないと思ったが『マイマイ新子と千年の魔法』の監督だという。このアニメは見た。


舞台は昭和30年の山口県防府市。それは私の母の故郷でもある。ただ昭和30年に母は、防府市にいなかったのだが、また『マイマシ新子……』の舞台は、同じ防府市でも母が生まれた地区とは異なるところなのだが、興味深くて、くいいるようにDVDを見た。もちろん、アニメとしても出色のできだと思う。そして高樹のぶ子の原作も読んだ。


なお『マイマイ新子……』と、『この世界の片隅に』との間に、類似性というか展開・発展性もあるように思うのだが、それはここでは問わない。


ただ私の母も、世界の片隅とはいいがたい呉軍港と呉市とは異なる、ほんとうに世界の片隅の防府市の瀬戸内海海岸で戦争中は暮らしていた。防空壕に入り、また近くで爆弾が爆発したときには、両耳を指でふさいで、口を大きく開けるという対処法は、母からよく聞かされたが、同じことをアニメのなかでも語っていた(絵は、そのように動かなかったが、耳をふさいで、口を大きく開けるという台詞ははっきり聞こえた)。ゆきとどいたリサーチのおかげか、相当に、リアルである。


かくして私の中では、戦時下の呉軍港と、防府市の海岸風景、そして主人公のすずと、私の母とは(すずよりも少し年下だが)、重なりはじめる。おそらく、戦争への憤りと嫌悪も、この重なりのなかに宿っていることだろう。

posted by ohashi at 23:40| 映画 | 更新情報をチェックする

2016年12月05日

『ヘンリー四世』

新国立の中劇場で上演中の『ヘンリー四世』二部作を、都合により第二部から先にみることになり、第一部のほうは、およそ一週間後にみた。結果として、大満足だった。というのもやはり第一部は第二部よりも面白い。


逆にいうと第二部は地味すぎる、しぶすぎるというべきか。そのため華やかな第一部をみたあと、第二部をみると、第一部の華やかさとは無縁の、鈍色というか地味でしぶい世界で、結末も、悲劇ではないが、かといってハッピーエンディングでもない、微妙な、ある意味、暗い終わり方をするので、正直言って、第二部から第一部をみたほうが、気持ちよく、終われる。


第一部はハッピーエンディングである。実際、私はひとりでみたわけではなく、グループでみたのだが、グループのメンバーも、おおむね同じ感想だった。みんな第一部が終わって顔が明るかった。私たちにとって『ヘンリー四世』観劇はハッピーエンディングだった。


まあ第一部だけ見て、あとはみなくてもいいのかもしれない――私がたまたま見た第二部では、客席も両端のほうに空席が目立ったが、第一部は満席だった。有名な第一部だけでもよいのかもしれない。第二部までみて暗い気持ちになるくらいなら、いっそ第二部から見てもよいのではないかと思う。


ただし第二部からみても、意味はある。というのも二部作というのは長い物語を機械的にまんなかで区切るというのではない。テレビドラマの前編・後編の場合もそうなのだが、前編は、後編への橋渡しをすると同時に、それだけみても満足がえられるような完結性もめざす。後編も同じであって、後編は長い物語の残り半分ということではない。後編だけでも、あるいはそれだけをみてもよい完結性を保っているため満足できるのである。


その証拠に、たとえば第一部で、武勲をたてたハル王子は、もう放蕩息子として非難されることもないかと思うと、第二部でも、相変わらず放蕩息子である。第一部で、縁が切れたと思われたフォルスタッフ一味との関係は第二部での変わらず続けられる。第一部の第二幕で、ハル王子は、ポインズとともにフォルスタッフの本性を暴くべく策略を仕掛けるのだが、同じことは、第二部の第二幕でも行われる。だから第一部と第二部、本質的に異なるドラマということではなく、同じ構成と主題をもつのであって、ただ、結末が異なる。


第一部では、反乱軍討伐がつづけられるだろう(おそらく王軍は、それに勝利するだろう)という予感とともに閉じられ、第二部では、第一部からつづいていたハル王子とフォルスタッフの関係に決着がつけられる。


もちろん第一部と第二部との構成が似ていることは、同時に、その差異にも目が行くことを意味する。第一部にくらべ、第二部の人物たちは、みんな老け込んでいる。王は病状が悪化するし、フォルスタッフも、戦場にはせ参じた武将ではなく、戦場にでることなく、旧知の老人たちとのつきあいが多くなる。そしてすでに述べたように、派手にはじける第一部と異なり、第二部は地味になる。それは第一部と同じ構成であるがゆえに、地味ぶりが目立つのだある。


第二部はみなくてもいいのではという述べたが、第二部はめったに上演されないので、見る価値はもちろんある。蜷川演出(吉田鋼太郎のフォルスタッフ、松阪桃李のハル王子)は、見ていない私は、第二部をみるのは、イギリスで見て以来のほんとうに久しぶりである。そして、第二部の面白さを今回の上演で、あらためて認識した次第。


そう、Coutries for OldMen。第二部は、老人たちのドラマであることがあらためてわかった。その意味で、老人あるいは晩年とシェイクスピアというテーマでみると、これは特権的な作品であろう。


また第二部は、全体の完結編として、ハル王子の戴冠とともに、昔の仲間が国王になったことで、それにとりいろうとするフォルスタッフが最終的に追放されるという結末は、たとえフォルスタッフと遊んでも、また、そこに友情関係が生まれても、利己的で犯罪者()であるフォルスタッフを断固しりぞけ、正義と秩序を樹立するという国王のありかたたを示すところにシェイクスピアの意図に支えられているのだが、同時に、それは遊び仲間の切り捨て、過剰なまでの秩序と清浄の追求によって、絶対王政国家に対する支持の表明にもみえてきて喜べないところもある。


もちろん、これでフォルスタッフが政権の要職にとりいれられてしまうような結末がなくてよかったとは思う。実際のところ、フォルスタッフ的な本音主義と利己主義、取り残された人びとの代弁者(実は彼らを食い物にしている)、弁舌の巧みさそして詭弁、その現代の体現者のひとりがトランプであって、トランプのようなフォルスタッフ(体型も似ている)が政権を担うことがなくてよかったと思われる『ヘンリー四世』の結末だが、演劇あるいは虚構の常套手段として、芝居=夢のなかでなら、フォルスタッフの勝利に終わってもよかったのだが、それを許さなかったところにシェイクスピア劇の高い倫理性がある。


だが、アメリカではトランプが次期大統領となった。どっちが現実か夢かわからない。まさにアメリカは夢の国だ。そしてトランプ支持者たちの低い倫理性もこれでよくわかる。


とはいえ、こういうことを考えたのは、私であって、演出そのものからわは、なにも伝わってこない。下手な解釈をするのではなくて、原典をそのまま示すという禁欲的な演出を目指したのかもしれないが、だったら、今回の上演に無数にある独自の勝手な演出はどうなるのか(第一部で、ハル王子とフォルスタッフは別々のベッドに寝ているが、もちろん原作にはない指定だが、当時の状況から考えても、二人は、同じベッドを共有しているというのが通常の解釈だろう(もちろんそこに中年オヤジと美少年/青年との同性愛的関係もあるのだが、これを無視している))。


そもそもハル王子がめでたくヘンリー五世となって、イングランドに平和と秩序が訪れて万歳では、あまりに芸がない。フォルスタッフの追放についても、ニュアンスを残すこともできるだろう。あまりにストレートといえば、むしろ聞こえがいいのだが、政治的なスタンスを示すべきところで、そこだけをネグっていることには不満である。ただ、逆にいうと、第一部では、「あとにつづく」で終わるため、そうしたことが全くないぶん、安心して、あれこれ考えなくても、見終えることができる。そういう意味で、第一部のほうは得をしている。


佐藤B作のフォルスタッフと最初聞いたとき、太っていないフォルスタッフはありかと驚いたが、いろいろな詰め物で体を太らせたこともあって、佐藤B作のフォルスタッフは、誰もがみてもフォルスタッフだったし、あれに文句を言う観客はいないだろう。


私のいる席からは見えなかったのだが、オペラグラスをつかってみた人によると俳優たちがみんなPAで話しているとのこと。それでがっかりしたという感想もあったのだが、私はPAについては気にしない。大きな劇場で、声を響かせることだけに集中して、結局、台詞を怒鳴ることしかできない上演にくらべれば、PAを使ったほうが、ずっといい。台詞も聞き取りやすいし。ただし、第二部をみたときには、音の拾い方というか音の出し方が、変で、小声だと思ったら突然、大きな声になったりと、音響効果に、やや難があると思ったのだが、第一部では、それは改善されていて違和感はなかった。とはいえ、同じ第一部を私とは離れた席でみていた人によれば、音の聞こえ方にむらがあったとのこと。座席の位置によっても、聞こえ方が異なるのかもしれないのだが。


シェイクスピアの生地ストラットフォード・アポン・エイヴォンには、18世紀につくられたシェイクスピア・モニュメントが公演に設置されている。中央の小さな塔の頂部には、椅子に腰かけているシェイクスピア。そして、この塔を四隅に、シェイクスピア劇にゆかりのある登場人物の彫像がある。それぞれ意味づけをされていて、シェイクスピア劇の人物のベスト・フォーということではないがのだが、紹介すれば、髑髏を手にして物思いにふけるハムレット、手についた血(と思い込んでいる)をとろうと手をもんでいるマクベス夫人、そして残る二体が、その太鼓腹が印象的なフォルスタッフ、そして王冠を頭上に掲げているハル王子。この父王の王冠を、みずからかぶるというのは第二部の見せ場だったが、かぶり方が、あっさりすぎる。見せ場なのだから、すこしはためてからかぶれと思ったのだが……。


posted by ohashi at 22:33| 演劇 | 更新情報をチェックする

2016年12月03日

『ガール・オン・ザ・トレイン』


映画館を調べてみたら、日比谷の「スカラ座・みゆき座」で上映中。みゆき座のほうかと思ったら、こちらは『ジャック・リーチャー』を。え、トム・クルーズ主演の派手なアクション映画だから、大画面のスカラ座かと思ったら、『ガールズ・オン・ザ・トレイン』のほうがスカラ座だった。日本で一番大きな映画館かもしれないスカラ座(なにしろ、東京宝塚劇場の地下の映画館なので、広さは、地階から上の、宝塚劇場と同じ)で、みたら、どんな感じかと、そちらのほうに興味があったので、とにかくスカラ座で鑑賞。


とはいえ最前列にでも座れば、大画面に圧倒されるかもしれないが、映画館の中ほどの座席でみる限り、他の、もっと小さな映画館でみるのとくらべても、大差ない。映画館やスクリーンの大きさとは、画面の印象とは関係がないことをあらためて知った次第。


まあ、どうでもいい話だが、映画そのものは、予想外に面白くて、最後まであきることがなかった。最初、エミリー・ブラントが通勤電車の車窓からみえる郊外の住宅街の住人たちについて、あれこれ空想している。それがたんなる空想なのか、現実なのか、わからないうちに、彼女が車窓からみている通りすがりの住宅街の住人たち(とりわけいつもみかける特定の夫婦たち)は、みんな彼女が、顔を知っている住人たちで、たんに車窓からみかけた人たちの人生を勝手に空想にしているのではないことがわかる。


また電車から、不倫の現場を目撃したと動揺する彼女だが、彼女の言動自体が、信頼のおけないもので、彼女自身、アルコール依存症のストーカーではあることがわかってくる。そもそも通勤電車に乗っていても、会社からはとっくに解雇されていて、無職状態。だんだん、話がこんがらがってくる。


しかもアルコール依存症である彼女は、肝心なところの記憶が抜け落ちている。『手紙は憶えている』(このタイトルはなんとかならないか)の場合、老人とアルツハイマー病と記憶喪失が、真実をさまたげていた。『ガール』の場合は、アルコール依存症と記憶喪失が真相をわからなくしていた。前者が、加害者が被害者と思い込んでいるとすれば、後者は、被害者が自分を加害者だ(もしくは、その可能性がある)と思い込んでいる。その違いはあれ、記憶が回復するときに真相がみえる(なおこれがネタバレではない。主人公が自分が犯人ではと思い、不安になるが、そうではないだろうという予感は、誰もが抱くのだから)。


たえずつづく不穏な雰囲気。さほど複雑な事件ではないと予想されるのだが、主人公のj記憶喪失ゆえに、肝心なところが空白で、その空白が、先をみえなくさせている。しかも主人公の記憶も戻る可能性も少なく、さらに陰惨な事件が起こるような不吉な予感も漂う。


真相は見てのお楽しみだが、三人の女たちが、どこかで深い絆でむすばれていたこと。そして男たちが、誰もが、横暴で暴力的で女を見下していることがわかる。彼女たちが男に頼ることなく生きる、行動するときに、救いが訪れる、あるいは彼女たちの連帯がみえてくるというのは、ある意味、みていて爽快である。その意味で、加害者は男たち一般である。彼らは、女たちに、女たち自身が加害者であると思い込ませる悪辣な詐欺師でもあった。


エミリー・ブラントは、まあ、おなじみだが、トム・クルーズと共演した『オール・ユー・ニード・イズ・キル』でみせたかっこいい強い女は、次の『ボーダーライン』で、継承されつつ消えてしまったのは残念だが、今回のような役柄は、よく似合っている。レベッカ・ファーガソンの共演で話題になっているのだが、彼女が、トム・クルーズと共演した『ミッション・インポッシブル』は、見ていたのに気づかなかった。まあ彼女はテレビ・ドラマ(ミニシリーズThe White Queenでエリザベス・ウッドヴィル(エドワード四世妃。シェイクスピアの『ヘンリー六世第三部』と『リチャード三世』に登場する)を演じているので、今度、じっくりみてみようと思う。


追記:

映画をみたらワインが飲みたくなったので、帰宅してボトルをワインオープナーで開けた。映画も観た人にはなんのことだかわかるはず。ちょっと悪趣味かもしれないが。


posted by ohashi at 17:41| 映画 | 更新情報をチェックする

2016年12月02日

『胸さわぎのシチリア』

A Bigger Splash (2015)


映画館でみたときは、結局、なんとつまらない映画かとあきれた。みていて、だんだん腹がたってきた。天気がよいのにどしゃぶりの雨。雨のシーンは、大雨でなくても、せめて曇り空のときに撮れ。晴天のときに撮るなとか、映画の終わりの方ではかなりいらついていた。


主人公の設定だが、彼女は声がでない。大物ロック女性歌手(ティルダ・スウィントン)の彼女は、声をつかすぎて、声帯をいため、ほんとうに小声でしか話せない。またむしろ話さないほうがいよいとされている。これではコミュニケーションできないし、映画の最後まで声が出ない彼女に対して、最後には、怒りがこみ上げてきた。こんな設定にするなよと、監督に対して憤慨した。


しかも場所はシチリア島。イタリア語がよくわらない。イギリス人と地元イタリア人との間に意思疎通ができていない。これもいらいらする原因となる。またシチリア島は、基本的に、乾燥した地域なのだろう、最初の方は、風景もかすんでいて、砂っぽく、またほこりっぽい。観光映画にするつもりもないような、くすんだ映像がつづく(シチリアのグルメ映画的な展開もないわけではないが)。


ティルダ・スウィントン、ダコタ・ジョンソン、レイフ・ファインズ、マティアス・スーナールツポールの四人の映画だが、マティアス・スナールツポールについては、『君と歩く世界』を代表作として紹介する映画会社の情報の古さにあきれる。彼は、『フランス組曲』『リリーのすべて』『パーフェクト・ルーム』に出ているし、いずれも『君と歩く世界』にくらべると、はるかに良い映画だ。


またレイフ・ファインズについてはLTライブのバーナード・ショー『人と超人』で、彼の超絶演技をみたあとなので、同じテンションの高さで登場するのは、まさに映画が、『人と超人』の続編に思えてきて、期待は高まったのだが、この映画で、印象深かったのは、レイフ・ファインズの演技というよりも、レイフ・ファインズのチンポコ、ペニスでしかなかった。


そう、この4人の俳優たちは、映画のどこかで、その裸体だけでなく、性器を丸出しにしている。なかでもレイフ・ファインズ、素っ裸になりすぎだし、チンポコみせすぎ。だがほかの三人も、しっかり性器をみせている。もしこの映画の売りがあるのなら、それでしょう。残念ながら日本の映画館では、誰のペニスもヴァギナも見えないのだが、海外版のDVD、ブルーレイならしっかり見えるはずである。日本の映画館とか日本版DVDではぼかしが入っている。とはいえDVDを海外に注文したわけではないが。


結局、途中から、男女関係がめんどくさくなるのだが、まあ、なるようにしかならないだろうし、その間、シチリアでもホリデイを楽しむイギリス人の話となって、基本的ゆるい展開しかしないだろう、だから、こちらも、脱力的な観光ホリデイ映画としてでもみていればいいかと思ったが、思わぬ展開があり、その思わぬ展開が、急展開になるかと思うと、そうでもなく、ぐだぐだになり、なんだ、あの終わり方かということにもなって、やっぱりダコタ・ジョンソンが出演すると、『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』みたいに失敗作になるんだと、映画が終わる前に、すでに完全に彼女に八つ当たり状態になっていた。


しかし、実は、気になることはあった。誰かが、この映画について、斬新な解釈をする可能性は、なさそうだけれども、否定できない。もしそうなったら、私が恥ずかし思いをするだろう。解釈ができなかったふがいなさを恥じながら。


もうひとつ、この映画が、特定の古典的あるいは著名な小説とか映画を踏まえているのではないか。パロディではなくても、アダプテーションというか翻案かもしれないという可能性は、あると思った。あるいはもしかしたら現実の、有名な事件を踏まえているのかもしれないとも思った。


斬新な解釈、アダプテーション(リメイクもふくむ)、実話物であったなら、この映画の評価はかわる。逆に、一方的に否定的な解釈をした私が恥をかくだけである。そのためちょっと調べてみた。


なるほど、予備知識をもって映画を見るべきだったと、今回は反省した。フランス映画『太陽が知っている』(アラン・ドロン、モーリス・ロネ、マリア・シュナイダー、ジェイン・バーキン出演、ジャック・ドレー監督1969)のリメイクだった。リメイクでもあるが、アダプテーションといってもいいだろう。人間関係は同じだが、場所をはじめとして、設定が違っている。『太陽が知っている』という日本語タイトルは、アラン・ドロン主演の『太陽がいっぱい』から連想してつけたのだろうが、原題は「スイミング・プール」――えっ、それってぴったりのタイトルでは。


『太陽が知っている』は、タイトルに記憶がある。見たことがあるような気もするが、結局、内容は忘れていたので、見たことはないとしかいいようがない。正直いって、『胸騒ぎのシチリア』は、見直すつもりはないが(海外版DVDを購入するつもりもないが)、『太陽が知っている』はみてみて、比較したい。


アダプテーション研究のよさは、どちらかいっぽうが駄作でも、比較対照による化学変化で、ふたつの作品が、それまで気づかなかった輝きを帯びることである。思えば、古いカップルと新しいカップルのせめぎあいという『太陽が知っている』/『胸騒ぎのシチリア』の世界は、旧作と新作とのせめぎあいという、アダプテーション関係のダイナミズムを作品内で反映されることを予期していた、あるいは、反映していたのかもしれない。とはいえ『胸騒ぎ』のほうがBigger Splashとは思わないけれども。

posted by ohashi at 21:30| 映画 | 更新情報をチェックする

2016年12月01日

『手紙は憶えている』

Remember 2016


アトム・エゴヤン監督の『手紙は憶えている』は、日本語のタイトルだけがひどいことをのぞけば期待を裏切らない、素晴らしい映画である。原題はRemember


ちなみに新宿の角川シネマでみたときは、狭い映画館(5Fつまり受付の上の階のスクリーン)は、満席で、空気もよどんでいて、以前、パニック症候群だった私は、発作がおこりそうになって困った。閉所にたくさんの人間と閉じ込められると、自分が窒息するのではないかと過呼吸になる。やばい、醜態をさらしそうだと、思いつつ、また同時に、空気の希薄さは気のせいなので、なんとか自分を落ち着かせようとしたら、エアコンも効いてきて、新鮮な空気が供給されたように思われたので(気のせいかもしれないが)、あとは安心して映画に集中できた。


予告編でみたときに、こんなオチではないかと予想したが、予想は、半分だけであたっていた。残り半分は、予想外だったので、そのぶん。先が読めなくて、最後まで緊張してみることができた。アトム・エゴヤンのタッチがもどった(とはいえ前作『白い恐怖』も、じゅうぶんに面白かったが)。


今回はホロコースト物と老人がカギとなるテーマとなる。そして記憶あるいは捏造記憶。主役のクリストファー・プラマーの名から今でも『サウンド・オブ・ミュージック』のトラップ大佐としてしか記憶していない人がいるが、これまでに数多くの映画に出ている俳優に対して、これは記憶喪失あるいは捏造記憶に近い。とはいえ今回の映画から『サウンド・オブ・ミュージック』のプラマーを思い浮かべるのは、あながちまちがいではないかもしれない。ナチ、ホロコースト物でもあるので。


あと、アメリカでは銃が簡単に買えるため、90歳の主人公も免許証(ただし、もう車は運転しないようだが)で購入する。しかし本人アルツハイマー病なので、そんな老人に銃を持たせていいのかと誰もが思う。しかも、映画のなかで、購入した銃を発砲するシチュエーションが出てくるのだが、それなど、アメリカ銃社会の危険性を痛感する(トランプ大統領になって銃規制はすすまないと思うので)。


と同時に、主人公は、銃を発砲しても、近距離ということもあるが、目標に当てることができる。これは銃社会における老人の銃使用ということ以外にも作品において意味をもつことになるのだが(それにしても、オーストリア製の拳銃であるグロック。ずいぶん普及したものだ。日本でモデルガンがはやっていたころ(いまのモデルガンは、ガスでBB弾を打つ、コンバット・ゲームで使うもの。内部構造も再現していた昔のモデルガンとは異なる)、グロックなど知っている人も少なかったし、アメリカの警察などで採用されてもいなかった)。


この映画ではアメリカやカナダに潜伏しているアウシュビッツの元ブロック長を捜す話しなのだが、当然、捜すほうも捜されるほうも老人である。Countries for Old Men. 捜すほうも記憶喪失と不自由な体で旅をするのだが、捜されるほうも、部屋にこもりっきりの老人だったり、病院に寝たきりの老人だったりと、老人たちのオンパレード。そして老人が老人を探す。主人公のハンディキャップは、映画『シチリア』では声が出ない、映画『ガールズ・オン・トレイン』ではアルコール依存症による記憶喪失、そして、この映画では老齢と記憶喪失。回復不能のハンディはつらい。


みているほうも、老人が誰だかわからない。税所のほうで、元アフリカ軍団にいて戦後から現在にいたるまでアメリカで暮らしているドイツ人の老人の顔をみていたら、しばらくして、あ、ブルーノ・ガンツだ、と、思わず声が出そうになった。年取りすぎていて、わからなかったわい。


しかし、これはわかっただけいいほうで、主人公の友人であるマックスが、マーティン・ランドーだとは、最後までわからなかった(若い人は知らないと思うが、マーティン・ランドーは日本では連続テレビドラマ『スパイ大作戦』(現在トム・クルーズ主演でシリーズ化されている『ミッション・インポッシブル』の往年のテレビ・ドラマ版)やSF映画『スペース1999』でほんとうになじみの俳優だった。今回は85歳くらいになっているので、まったくわからず)。


以下ネタバレ注意Warning: Spoiler (予告編をみていたらだいたい予想がついたオチ)


予想外の展開と意外な結末ということを目指したなら、こういう形になるしかないと思えるのだが、しかし、この結末には、もしかしたら、作者も、映画製作者側も、予期しなかった重要な意味があるのではないか。それは加害者が被害者を装っていることである。意図的にあるいは、もしかして無意識のうちに。


そしてこのことは加害者としてのナチスはひどい(そのことの記憶も薄れている)、しかも同時に、現在にいるネオナチ的・ユダヤ人差別主義者もひどいが、彼らを追跡して殺そうとする側も、ある意味、加害者であることはまちがいない。元ナチス狩りのなかで、結局、無関係な人間を殺すことにもなるのだから。


そしてまた、大きく考えれば、イスラエルは、被害者であったユダヤ人がつくった国だが、同時に建国後のイスラエルは、パレスチナ人や近隣諸国のアラブ人に対する攻撃によって、ならず者的加害者となっている現実も忘れてはいけない。いやそれだけではない。トランプの支持層(最近、アメリカにできた「キリスト国」の住民たち)は、自分たちが被害者であると思い込んでいる加害者である。あるいは加害者であったのに、そのことを隠して被害者になりおおせている悪人たちか、耄碌して記憶喪失した老人的人間たちである。


おまえたちは、被害者なんかではない。加害者であること。自分が加害者であることを思い出せ。これがこの映画の、「ホロコーストを忘れるな」「ホロコーストを風化させるな」という、これも重要なメッセージであるが、それと表裏一体化した、メッセージであろう。意図的なら、これはすごいことだが、おそらくは、このメッセージは、予期せぬかたちで、生まれてくるのだろう。現代では、ほんとうに被害者を装う加害者が多すぎるのだから。


追記

映画のなかでクリストファー・プラマーがピアノを弾くシーンが出てくる。この人のピアニストの演技は、素晴らしい。まるでほんとうにピアノを弾いているようだったと思ったが、調べるとプラマー、映画俳優になる前はピアニストを目指していたとのこと。映画のなかのピアノのシーンも、全部、自分でピアノを弾いているとのことだった。


posted by ohashi at 22:44| 映画 | 更新情報をチェックする