2016年11月20日

『冬物語』

ブラナー・シアター・ライブで『冬物語』をみる。東宝シネマズ日本橋で、見そびれたので、吉祥寺のオデオンでみる。ロンドンのウェストエンドでのギャリック劇場での公演を録画したものだが、はじめてみるギャリック劇場の内部は、けっこうこじんまりしていて、一階席は、オデオンの客席フロアよりも狭いかもしれない。また椅子も堅そうだが、劇場としては、ちょうどよい快適なサイズかもしれない。


シェイクスピアの『冬物語』については、期待がたかまったが、正直なところをいえば、前半は面白かった。そして、これは後半への期待をいやがうえにももりあげたが、後半のボヘミアでの羊の毛刈り祭りのシーンは、まあ、まあ、こんなものだと思ったが、最後のクライマックスが、やや物足らない気がした。どうしてだろう。ブラナーをはじめとして、俳優たちの力演には文句はないが、また、舞台そのものも想定内の展開であって、不満はないのだが、この不思議な作品の最後の大団円に感動しなかった(感動しないような演出なら、それはそれでもいいのだが、そうではなかったので)。


原因は問うまい。ジュディ・デンチに気を遣いすぎたのではとも思うのだが。とはいえこの作品を、場面の省略もなく、原作通りの展開で上演してみせたということに対しては、模範的な舞台とはいえるだろう。NTライブもそうだが、これもDVD化はされないかもしれないが、されたら教材としては、理想的なものだろう。と同時に理想的な教材になるということが、逆に、欠陥かもしれないのだが。


なお『冬物語』については、このところ毎年のように論文を書いていて(その一部はネットでも読める)、いろいろ書きたいことがある。数日間、『冬物語』について書かせてもらう。


つづく

posted by ohashi at 07:08| 演劇 | 更新情報をチェックする

2016年11月18日

『人と超人』

前期の文学史の授業で、NTライブで放映されるから、まためったに上演されないから見ておくように、見ておいて損はないからと学生に伝えたくせに、自分が見そびれてしまったいたのだが、ようやく見ることができた。3時間40分の長い録画だったが、飽きさせない。そもそも、バーナード・ショウの『人と超人』が、こんな面白いラブコメだったとは、驚きとしかいいようがない。昔、読んだきりで、読みなおしたこともなく、今回、あらためて読もうと思って、時間がないため作品を読まずに映画館に。しかし、うろ覚えながら、こんなに面白くはなかったはずだ。あらためて作品を読み返してみたくなった。

とはいえ面白いことはいいことで、笑い声は、スクリーンのなかだけではなく、映画館の客席からも起こっていたので、爆笑喜劇であったことはまちがいない。『ハードプロブレム』ではスクリーンのなかで笑い声が起きていたが、何がおもしろいのかまったくわからなかったのだが、この『人と超人』は、ふつうにおかしかった。

もちろん今回の上演はレイフ・ファインズの演技が素晴らしいことに尽きるのだが、あれだけの量のセリフをまくしたてても、息ひとつ切れず、汗もまったくかいていない。ふつうだったら、あれだけしゃべったら、汗びっしょりになってもおかしくないのだが、アップになってもほんとうに汗をかいていない。感心するしかない。

そしてバーンード・ショウのこの作品は、実質的にはじめて読み、また見たといってもいいので、あらためてその現代性に感銘をうけた。ラブコメで終始してもよかったのだが、けっこうシュールな展開になるこの劇は、現代日本の劇作家が書いていても、まったく違和感がない。夢の場面をいれることで、風刺性と思想性を一挙に増殖させた手腕には、圧倒される。

また当然といえば当然なのだが、やはり地獄の場面(地獄に落ちたドン・ファンが、ルシファーや恋人の女性、その父親と対話する)で、長すぎて、それだけで上演されたり、それを飛ばして上演されたりと、いわくつきものだったが、今回も少し切り詰めての上演だったが、これをみることができたのは貴重。しかも、ショウのLifeあるいはLife forceをめぐる思想は面白くて、聞くに値する。そして退屈な天国ではなく、刺激的で楽しい悦楽の園でもある地獄の風刺性には圧倒される。そして作者自身が、やや自嘲気味ながらも、ドン・ファンに自分の思想を語らせる仕掛けも、随所に爆笑ネタを挟んでいて、まったく飽きさせない。それどころか、もう終わってしまうのかと、名残り惜しさも感じたくらいなのだ。

夢の場面が終わっても、さらに一芝居続くわけで、互いに惹かれあい、愛し合っているにもかかわらず、絶対に、そのことを認めいない二人が、強制的に結婚させられるという不幸な恋人たちを真剣に心から演じながら、最後には結ばれるという不幸な幸福な結末を迎える。とはいえ、この部分、シェイクスピアの『空騒ぎ』のベネディックとベアトリスのかけあいのようで(実際、喜志氏(後述)の指摘どおりだ)、ケンカしながら惹かれあうというラブコメ定番の展開をみえるのだが、インフェルノ(最初は「ヘル」といっていたが、途中から「インフェルノ」)の場面のほうが面白かった。

なお幕間に演出をしたサイモン・ゴドウィンへのインタヴューがあったが、次回作はファーカーのThe Beaux' Stratagemとのこと。もうすでに上演されたのだろうか、NTライブで上映してくれるとありがたいのだが(ジョージ・ファーカーというのはなじみのない劇作家かもしれないが17世紀後半から18世紀後半の王政復古演劇の作家。The Recruting Officerが代表作だが、この作品はブレヒトが翻案していて、それは、亡き岩淵達治氏による個人訳のブレヒト全集にも収録されている)。

Last and least
パンフレットには喜志哲雄氏が解説的一文を寄せていて、的確で精細にとみ、また誰にとっても有益な情報もふくまれ、さすがに優れた文章家である氏の面目躍如たるものがあると感心したのだが、最後に、「この劇の面白さはつまるところ台詞の面白さだ。どれほど深刻な主題や思想を含んでいても、台詞が面白くない芝居を私は認めない」と結ばれる。

別に異論はない。思想と台詞の面白さはとは、基本的支えあっているものであり、思想だけ深刻でも台詞の面白さがともなわなければ、その思想自体、観客に伝わらないだろうし、そもそも思想は言葉つまり台詞を通してしか伝えられないものだから、その言葉/台詞に魅力がなければ、思想そのものの退屈なものなのだ。と同時に、いくら台詞が面白くても思想性がゼロならば、それはむなしい。もっとも喜志先生は、思想性などくそくらえで、台詞が面白ければ、それでいいのだと思っているふしがある。実際には思想性のない台詞ほどつまらないものはないのだが。まあ、それはいい。問題は、「台詞が面白くない芝居を私は認めない」とある。「認めない」? いったい、おまえは何様なのだ。あんたに認められなくても、誰も、こまったりしないぞ。いったい、自分は演劇の神様だとでも思っているのか。耄碌しているのではないか。絶対に車を運転するなよ。こんな自己顕示欲と自己権威化に浸っているような人間の書くものを、私は読むに値する文章として「認めない」。



posted by ohashi at 19:24| 演劇 | 更新情報をチェックする

2016年11月15日

『インフェルノ』

予想通りの目まぐるしい展開と、どんでん返しがあって、さらに土壇場で大惨事が食い止められるという予定どおりの作品で、人間関係とか状況の把握に頭を使うことはあっても、結末については安心してみていられる。ただし、ラングドン教授のシリーズも原作では4作目、映画では3作目となるのだが、やはり定番化したフォーマットに従わざるをえないところもあり、秀逸だったのは、ラングドン教授がみる地獄のヴィジョン。この部分は、最初、驚きまた感動もしたのだが、何度も繰り返されると、また、その繰り返しの中で、徐々に教授の記憶がもどっていくために、インパクトが薄れていくという設定になっているため、当然のことだが見ている側にとっても新鮮味やインパクトがなくなる。とはいえ、この地獄のヴィジョンはみどころのひとつ。あとはフィレンツェ、ヴェネチア、イスタンブールと観光旅行させてくれるところが見どころといえば見どころか。

今回はダンテと神曲の主に地獄篇が謎ときの鍵となるのだが、といえそのダンテの使い方は、やや薄い。もう少しダンテとからめてよかったのかもしれないが、原作を読んでいないのでなんともいえないが。ひとつだけボッテチェリの映画いた地獄の絵のなかで、層がちがうとかどうのこうのとラングドン教授が語っていたのだが、あれはどうなったのだろうか。その後、話題にされないまま消えた。実際、その後の、二人の逃避行のなかで、イタリアのレンタカーシステムにびっくりして、そちらのほうに気をとられて、層問題は、忘れてしまったのだが(フェリシティ・ジョーンズが、街に駐車してある車(空車)のフロントガラスにカードみたいなものを押し当てると、ドアが開き中に入りこめるのだが、あれはいったいどんなシステムなのか。ヨーロッパでは普通に行われているらしいのだが、システムがよくわからない)。

ダン・ブラウン原作の世界的ヒット作『ダ・ヴィンチ・コード』『天使と悪魔』に続き、トム・ハンクスが三度、ハーバード大学教授の ロバート・ラングドンに扮したシリーズ第3弾。ハーバード大学の宗教象徴学者ラングドン教授は、数日分の記憶を失った状態で、フィレンツェの病院で目を覚ます。謎の襲撃者に狙われたラングドンは、美しい女医シエナ・ブルックスに助けられて病院を脱出。何者かから追われる身となったラングドンとシエナは、生物学者ゾブリストが人類増加問題の解決策として恐ろしい伝染病を世界に広めようとしていることを知る。そしてゾブリストが詩人ダンテの叙事詩「神曲」の「地獄篇」になぞらえて計画を実行していることに気づき、阻止するべく奔走するが……。ロン・ハワード監督と主演のハンクスが続投するほか、ラングドンと共に謎を追う女医シエナ役を「博士と彼女のセオリー」のフェリシティ・ジョーンズが演じる。映画.COM

原作を読んでいないのだが、原作と映画は、設定などかなりかえているらしく、上記の引用からわかるように「恐ろしい伝染病」とだけ紹介しているし、映画をみているかぎり、「恐ろしい伝染病」なのだが、原作では、この伝染病には名前があって「インフェルノ」という。このことは映画だけをみているとわからない。さらに映画では、この伝染病の蔓延は未然に防がれる(まあ、そうなるだろうと安心してみていられる)が、原作では、なんと、伝染病が全世界にばらまかれてしまう(ちなみに映画ではラングドンはケンブリッジ大学教授となっている)。

これに伴いシエナ/フェリシティ・ジョーンズの役割も変化している。原作では、彼女は、最後には、伝染病の治療薬開発に協力することになるというと、映画だけをみている人にとっては、驚きとしかいいようのない展開となる。

とはいえ最近ではスター・ウォーズ・シリーズの『ローグ・ワン』にも主役で出ているフェリシティ・ジョーンズ、昔は、嫌いな女優で、シェイクスピアの『テンペスト』の映画化(ジュリー・テイモア監督)でもミランダを演じている彼女をみて、おまえはミランダじゃないと、心の中でうそぶいていた私も、『博士と彼女の数式』でホーキンズ博士の妻を演じた彼女をみて、ちょっと見直した。歳をとって魅力が増したように思えたのだが、今回の彼女は、ラングドン教授とともに行動する女性(ボンド・ガールならぬラングドン・ガール)となって、しかもあくどさも残していて、いまや、そこも魅力となっている。

富豪の生物学者ゾブリストの存在が、たとえばそれは『キングスマン』のサミュエル・L・ジャクソンと同じなのだが、『キングズマン』は、ある種、パロディとキッチュ満載の映画だからいいとしても、『インフェルノ』では、安っぽく見えてしまう。そのゾブリストだが、演じているベン・フォスターについては、見覚えがあるのだが、あるサイト(オフィシャル・サイトではない)で次のように紹介

ベンフォスターは『X-MEN:ファイナル ディシジョン』、『パニッシャー』、『ローン・サバイバー』など話題作に出演してはいますが、まだ大スターと言えるほどではありません。しかし2016年には彼の名前を聞く機会が増え、もう一つ上のステージに上がるかもしれません。


あるいはNTライブで、『欲望という名の電車』のコワルスキー役などが紹介されているが、いずれも観たことがない。しかし彼が主役の映画を紹介しないとは、こうした映画関係者やファンは、いったいどうしたのかとあきれる。スティーヴン・フリアーズ監督の『疑惑のヒーロー』(原題The Program)は、日本でも公開されたし、主役だった。それで覚えている。この映画は、彼の出演作のなかでは(そもそも主役なのだが)、おそらく一番優れていて面白い映画だと思う。

あとイスタンブールの地下宮殿。007シリーズの『ロシアより愛をこめて』でもロケ地として使われたとのことだが、まったく覚えていなくて、今回、はじめてみることになったのだが、しかし、あんなところでコンサートをするとは考えられない。楽器は水が大敵ではないのだろうか。湿気で高価な楽器がいたむのではないかと心配になった。あと恐ろしい伝染病の菌を、あんなポリ袋に入れて水に沈めるというのは、いい加減すぎるのではと思ったが、まあ、感染させるのであれば、あれでもいいのかもしれないのだが。

テーマである、人口問題と、人類が、地球に生まれた癌であるということも、よく言われすぎて新鮮味がないのだが、しかし、この映画では、圧倒的な数の観光客がイタリアやイスタンブールにいて、人口過密になっている。少し減らしたらどうかと私が思ってしまうのは、私自身、ゾブリストに洗脳されてしまったのか。

もちろん、人類すべてが癌であるとはいえないだろう。トランプ大統領とその一派は、アメリカのみならず、全世界の健康を脅かす癌であることはまちがない。これは癌の第一候補であって、彼らは、メキシコ系の移民がアメリカを脅かす癌だと思っているかもしれないが、トランプ一派こそ、アメリカを弱体化させる癌であると声高に主張したほうがいいだろう。

そしてもうひとつの癌は、老人である。私が老人でもあるので、これは自嘲・自虐的な考えだが、高齢者ドライバーが起こす事故がこのところ目につきすぎる。車は走る凶器だと昔言われたのだが、いまでも、そのことにかわりはない。老人にその凶器を使わせるなと、いいたい。メディアでは、車がなければ生活できない地域があるので高齢者ドライバーもやむを得ないという見解も出されているようだが、そんなくだらない言い訳で、高齢者ドライバーに殺された人間とその親族や知人たちが納得すると思うのか。車がなければ生活できないというのなら、高齢者は死ぬまで車を運転するつもりなのか。ばかばかしくてものもいえない。高齢者ドライバーこそ、癌だ。そして実際、そう語っている私自身が、いや誰もが、高齢者ドライバーの犠牲になって死ぬかもしれないのだ。事態の重要性を痛感すべきである。No countries for old men.

本日は、ネットで予約し発券機で番号をうちこんだら、機会に、違うといわれた。予約番号を知らせるメールのプリントアウトももっていたので、番号を確かめ、正しく入力したつもりなのに機械からは番号が違うと拒否された。後ろで並んでいる人にも迷惑がかかるので、いったん退いて、映画館のカウンターで、プリントアウトをみせて、発券してもらおうかと思って、プリントアウトをよくみたら映画館が違っていた。そう、自分で、いつもとはちがった映画を予約したことを、すっかり忘れていた。高齢者は、これである。ぼける。そのぼけ老人の私よりももっと高齢の人間が車を運転している。ぜったいにやめさせるべきだ。No countries for old men.
posted by ohashi at 22:08| 映画 | 更新情報をチェックする

2016年11月14日

『われらが背きし者』

ル・カレの、いわゆる巻き込まれ型のサスペンス小説の映画化で、ロシア・マフィアの幹部が、新たなボスに殺される可能性を考え、家族の保護とひきかえに、ボスを裏切り情報を英国諜報部に提供することにする。その際、仲介役のようなかたちでモロッコで知り合った英国人夫妻を指名あるいは指定する。夫妻は、英文学を教える大学教授である夫と、弁護士である妻。二人は、ロシア・マフィアの幹部の裏切りと英国諜報部との駆け引きに巻き込まれていく。

ル・カレの小説はいろいろ映画化されているが、私が印象的だったのは映画『ロシア・ハウス』。あのなんともいえないサスペンスの雰囲気あるいは空気感は、見る者を酔わせる眩惑的効果をもっていた(トム・ストッパードの脚本もよかったのだが)。あるいは原作ではないが、戦後のヨーロッパを舞台に、パットン将軍暗殺計画とナチスの金塊をめぐるサスペンス映画(ジョン・カサベデスとソフィア・ローレン主演)の『ブラス・ターゲット』なども、そのサスペンスとミステリーと、ヨーロッパ的雰囲気の魔術的魅力によって見る者を陶酔させた、それと同じような、不思議な雰囲気の片鱗を感じさせるのが今回の映画だった。

パンフレットをみると、各界の有名人の絶賛のコメントが圧巻である。それほど素晴らしいかどうかは別にして、この映画のなかで誰もが気になるのは、なぜモロッコにヴァカンスに来た大学教授とその妻が、巻き込まれるのかということ。逆にいうとロシア・マフィアの幹部が、なぜ、この大学教授を選んだのか--もちろん、たまたま彼と教授が高級レストランに居合わせ、他に客もいなかったからという説明はされるのだが—が、最後まで疑問として残る。

いろいろな理由が考えられるが、パンフレットにはいろいろ書いてある――クレジットカードの16ケタの数字を、一瞬見ただけで全部暗記してしまうロシア人の才能に惹かれたというもっとも説得力のない理由から、優等生が、不良に魅惑される、その生きざまに興味をもって、のめりこんでしまうというような、もっとも説得力のある理由まで。しかし、どれもしっくりこない。

たしかにユアン・マクレガー扮する大学教授にとっては、完全に、巻き込まれなのだが、全体的にみて、脱巻き込まれの方向も強いのだ。この映画の物語を、巻き込まれ型の物語とだと、安易に、したり顔で決めてしまうことには問題があろう。

ロシア・マフィアの幹部ディア(ステラン・スカルスガルド)が、みずからと家族の実の暗線を保証するかわりに、情報を提供すると英国諜報部と取引するなか、大学教授(ユアン・マクレガー)と弁護士(ナオミ・ハリス)の夫婦を仲介役のようなかたちでまきこんでいくのだが、スカルスガルドガ、マフィアからの死の宣告を前にして、もはや逃れらないとあきらめ、自分の死に場所を求めているようにもおもわれる。

隠れ家を襲ってきたマフィアの殺し屋たちを撃退したあと、わざわざ深い追いしてぼこぼこにされること(そもそも自分の娘の反応から、敵の襲来を予知したかもしれないが、それを周囲には黙っていたことも)、そして最後に家族をユアン・マクレガー夫妻に託して、単身、英国へとのりこむこと。どちらも自分の死を予期しているようではないか。仔細にみれば、さらに、それらしいところは、さらにみつかるはずである。

つまりディア/ステラン・スカルスガルドは、自分の死を確実視し、いかに家族をまきこまないようにするのかを考えたはずである。そのために英国人夫妻を彼自身の家族に寄り添わせることは重要だった。また彼が情報を提供する前に死ねば、彼だけが死ねば、あとは家族は無事だろう。しかもその家族には英国人夫妻が同行しているとなれば、家族を殺す意味もなくなる。家族を守るために、英国人夫妻は、必要だった。家族が巻き込まれないようにするために、英国人夫妻を巻き込んだのだ。そして最後には英国人夫妻も巻き込まれずにすんだ。

すべてはディア/スカルスガルドの周到な計画に則ったものだった。もちろん英国人夫妻、とりわけ夫の教授に対しては、夫婦仲が冷えているすきまをぬって、ホモソーシャルな、それもル・カレの作品特有の男性同性愛にも接触するようなクィアな絆をしっかり結ぶことも彼の計画の一部だったのだろうが、同時に、それ以上の強度を持って男性関係は実現したようにも思われる。そしてユアン・マクレガーにしてみればディア/スカルガルドの身を守ることを第一の目的と化しながら、同時に、その逃避行のなかで、彼の家族との絆を強め、彼の家族を守ることへと目的がシフトしていく。こうなることをディア/スカルスガルドは予想していて、それは彼の死によって完結することになっていた。

このことを教授/ユアン・マクレガーは意識していたとは思われないのだが、最後には、感知したのではないかとも思われる。またここでは家族の存在が重要になる。もし当局が、かりに私の抵抗をやめさせようと思えば、私の家族に害が及ぶと脅せばよい。私は自分の身の安全など気にかけないが、家族に危害が及ぶのは恐れる(私には家族はいないが、疑似家族、同僚とか、私の知っている学生などに害が及ぶとなると、私は抵抗をあきらめるだろう)。ということは家族を殺すと脅せば、どんな人間もおとなしくなる。

逆はどうだろうか。本人は死ぬけれども、家族を守ってくれといわれたら、どうか。『真田丸』ではないが、秀吉から秀頼を守ってくれと頼まれたがゆえに、真田幸村も豊臣家のために命をかけることになったのではないか。家族を、愛する者を守ってっくれという、死にゆく者、あるいは死者から懇願は断るのがむつかしい。断るどころか、むしろ、その使命を徹底して遂行しようとするだろう。みずからの命を賭しても。おそらくこれが、ロシア・マフィアの幹部に、大学教授がかかわることについての、優等生が不良にひかれていくという以上の理由であろう。

******
なお、パンフレットを読んでいて、映画会社の無知にはあきれた。ジェレミー・ノーザムくらい紹介しておけ。この映画のなかで、ジェレミー・ノーザムは腐敗した政治家の役で、台詞もあまりないのだが、一連の事件の重要な関係者あるいは黒幕という役どころである。ジェレミー・ノーザムも出ているということは、この映画の売りではないだろうか。

あと女優で、本作品の教授の妻で弁護士役のナオミ・ハリス、かっこいい。あんな聡明で有能な奥さんがいれば、私も結婚したい(結婚の可能性はないけれども)。しかし、それ以上に、驚いたというか、なつかしかったのは、サスキア・リーヴィスである。あまり映画にも出ていないようなので、彼女についてパンフレットで触れていなくてもよいのだが(とはいえ調べてみると、コンスタントに映画には出演しているし、テレビドラマにもでている。『ウルフホール』とか『刑事ヴァランダー』などにも)。また役どころも、ディアのロシア人の妻で、台詞もほとんどないし、台詞があってもロシア語だけ。ほとんどの観客にとって彼女は、怖そうなロシアの老婦人で、名もなきロシア系の女優にすぎないだろうが。私にとってはちがう。私が英国のストラットフォード・アポン・エイヴォンにいた頃、彼女はロイヤル・シェイクスピア劇団の主役クラスの若い女優で、人気もあった。今年は新国立でジョン・フォードの『あわれ彼女は娼婦』を上演したが、私が英国でみた『あわれ彼女』のアナベラは、サスキア・リーヴスのアナベラだった。彼女の主演作品ではほかに、A Woman Killed with Kindnessもストラットフォードでみている。久しぶりにスクリーンで彼女をみることができて、個人的には感動した。

追記
ちなみに上映が終わったあと、階段で出口を目指していた私は、階段をどれだけのぼっても出口がみえず、最後には行き止まりになって、出れなくなった。なんだ、この不条理な世界は。悪夢としかいいようがなく。どうやって映画館から出たらいいのかと急に怖くなった。しかし、私は上映が地下1階のスクリーンでおこなわれ、地下から地上階にいけば出口があると思っていたのだが、実際には上演は2階のスクリーンであって、ただ1階下に降りればよかったのだ。それを息を切らして3階から4階へと向かった。ぼけ老人である。歳をとるとこれだ。老人は絶対に車を運転してはいけない。認知症でなくても、ブレーキとアクセルを踏み間違える。

posted by ohashi at 22:06| 映画 | 更新情報をチェックする

2016年11月10日

『空軍量の勝利』2

結局のところ、ディズニーがこの映画(アニメ部分と実写部分からなる)をつくって日本本土への戦術爆撃をアメリカ軍部に提案したということではないだろう。


くりかえすが、アラスカの基地から東京を空襲するという計画は、実現しなかった。たぶん、当時、中国からではなく、南方の基地(グァムとかサイパン)からボーイング社製のB29を空襲に向かわせる計画が着々と進んでいたに違いない。そのため、軍部としての、ディズニーのこの映画を、便利な陽動作戦、つまり空襲が北からおこなわれるとみせかける手段として活用したのではないだろうか。


もちろん日本側のスパイあるいは日本側が、これを陽動作戦と見抜く可能性はある。しかし、見抜かれても、そんなに損失はないだろうし、日本側が、ひっかかるか、あるいは二つの可能性のどちらかを決定できなくても混乱すれば、それだけで有意義だったのだろう。


つまりディズニーのこの映画は、軍に協力しただけのことではないか。一般人を啓蒙し、偽の情報を伝えて陽動作戦にも貢献した。あるいは積極的に協力しなくとも、軍にうまく利用されたというのではないか。


ディズニーに関しては、アリエル・ドルフマンの『ドナルドダックを読む』(共著)があって、私たちは、この本から、ディズニーのアニメ映画がアメリカの中南米への帝国主義的文化侵略に貢献したことを知っている(ちなみに日本でも翻訳があるこの本は、アメリカでは発禁処分になっている)。


したがってディズニーが軍部に協力したことについては、なんの驚きもないが、しかし、ディズニーが、日本本土への戦略爆撃を軍部に進言し、多くの日本人犠牲者を出した大空襲の元凶であるというのは、ディズニーを喜ばせるだけでの、パラノイア的な歴史観としかいいようがない。


posted by ohashi at 22:09| コメント | 更新情報をチェックする

2016年11月08日

『空軍力の勝利』

LITERAの11月5日の記事に、このようなものがあった。

ディズニーが「東京大空襲」をけしかけていた! 戦後は原発の旗振り役に…日本に災厄もたらすディズニーの黒い顔


ディズニーの黒い顔については、べつに驚きはしないが、そこで触れられているディズニーの古いアニメ『空軍力による勝利』、日本では、ソフト化されておらず、幻の映画ということだが、私は、昔、イギリスのテレビで見たことがある。その時の印象は、この記事で語られていることと少し違うので、ここでコメントを。

記事にはつぎのような言葉がならぶ。そのまま引用する。

……日本でも大人気のディズニーだが、実はかつて、日本人の大量殺戮を煽る映画をつくっていたのをご存知だろうか。

その作品とは第二次大戦中の1943年にアメリカで公開された『空軍力による勝利(原題:Victory Through Air Power)』。日本ではソフト化されておらず、知る人ぞ知るこの作品を、映画評論家の町山智浩氏が新著『最も危険なアメリカ映画』(集英社インターナショナル)で紹介し話題となっている。

中略。

そして、第二幕に入ると、この映画の原作本『空軍力による勝利』の著者アレクサンダー・P・デ・セヴァルスキー氏が登場。彼は、日本は南太平洋の島々に基地をもっているが、いくらそれらを叩いてもそのたびに自国の兵隊に死傷者が出るばかりでいっこうに本体は叩けないと現在の戦況の問題点を説明する。そして、航空機で日本の本土を攻撃するべきだと、戦略爆撃の必要性を強く主張するのだ。

そして映画のラストは、アニメーションで日本の都市に大量の爆弾が投下され街が燃え盛る様子が生々しく描かれた後、星条旗がたなびくカットで幕を下ろす。

米空軍による日本本土への戦略爆撃、空襲が本格化するのは、この映画公開の翌年、1944年からである。この日本本土空襲は200以上の都市で行われ、軍事施設だけでなく、多くの一般市民が被災。東京大空襲では11万人、合計では30万人以上が死亡したといわれている。

ようするに、ディズニーはこうした一般市民も含む大量殺戮行為を正当化し、推進するためのプロパガンダ映画をつくっていたのだ。

もちろん、戦時中は、映画でも音楽でも小説でも漫画でも演劇でも、大衆から人気を集めているクリエイターに国が戦意高揚のための作品を無理やりつくらせることは珍しいことではなく、戦時中は日本でもしきりにつくられていた。

だが、映画『空軍力による勝利』はそういった過程を経て製作された作品ではない。ウォルト・ディズニー自身が、長距離爆撃機による敵国本土への戦略爆撃の必要性を伝えたいと率先して製作した映画なのだ。この映画にかける予算やスタッフの人員を見ると、その力の入れ具合がよく分かる。町山氏は『最も危険なアメリカ映画』のなかでこのように書いている。

〈ディズニーは、まず軍部に資金援助を打診した。しかし、「陸海軍は時代遅れだ」とする本の映画化に軍が協力するはずがない。そこで、ディズニーは自分の懐から製作費七十八万八千ドルを出した。『ダンボ』(41年)が九十五万ドルだから、これは立派な予算だ。スタッフには『白雪姫』(37年)や『ファンタジア』(40年)、『ダンボ』、『バンビ』(42年)のアニメーターを投入した〉
 ディズニーはこのフィルムをチャーチル首相やルーズベルト大統領にも見せるように画策し、特にチャーチル首相はこの映画に感銘を受けていたと伝えられている。
 この映画が封切られた時点で連合国側はドイツや日本に対して小規模な爆撃を行い始めてはいたが、それが本格化し、30万人以上という大量の死者を出した無差別爆撃にエスカレートしていった背景に、ディズニーの存在があったことはまぎれもない事実だろう。


以上。

だが、その映画をみたことがある人なら、もっと別の感想を抱くはずだ。町山氏の知識と見解には、つねに敬意を表している私だが、もし、この紹介が正しければ、町山氏は、歴史と、空軍力について、なにも知らないといわざるをえない。

私よりも上の世代の人たちは、「ディズニー・ランド」という往年の1時間のテレビ番組を知っているだろう。日本ではプロレス番組とこのディズニーアワーとを隔週ごとに放送していて、プロレス・ファンではなかった私は、プロレス番組をやめて毎週「ディスニーアワー」を放送してほしいと切に願ったりしたものだ。

その「ディズニー・ランド」は、本体のディズニーランドを模して、おとぎの国、動物の国、未来の国などとジャンル分けされ、一番組に一ジャンルを放送したが、私が好きだったのは、未来の国だった。アニメや実写、インタヴューなどを組み合わせながら、たとえば火星探検というタイトルの回は、火星の歴史とか、宇宙旅行の歴史とか、テクノロジーを、インタヴューや、専門の解説、アニメを交えてわかりやすく解説し、最後には、未来の火星探検旅行はこうなるということを、リアルなアニメ(いまふうでいうなら、リアルなCG画像といえばわかってもらえるだろうか)によって説明していた。この最後の未来予想アニメが圧巻で、いつも深い感銘をうけていたことはいうまでもない。

イギリスで『空軍力の勝利』という戦争中につくられたディズニーの映画をみて、この『ディズニー・ランド』の〈未来の国〉を思い出した。作り方は、まったく同じだった。火星探検旅行編では、ラストでは、今まで見たこともない、しかも、けっこうリアルな宇宙船(スタートレックスのエンタープライズ号の円盤部分が似ている宇宙船だが、そんな姿の宇宙船は、少年漫画誌に小松崎茂だって書いていなかったのだ)が、一列になって火星の周回軌道に入っていく姿に圧倒されたのだが、この『空軍力の勝利』では、先ほどのLITERAの記事を引用すれば、「アニメーションで日本の都市に大量の爆弾が投下され街が燃え盛る様子が生々しく描かれた後、星条旗がたなびくカットで幕を下ろす」というラストとなる。

戦争中は、こうした戦争協力映画も作っていたのか、という感慨しかわいてこなかったのだが、気になったのは、またそこが恐ろしいと思ったことは、『空軍力の勝利』の未来予測が、はずれていることである。

まず、コメントしている「アレクサンダー・P・デ・セヴァルスキー」だが、Wikipediaによると、「アレクサーンドル・セーヴェルスキイ(英語読み:アレキサンダー・セバスキー)」とある(英語読みだったらアレグザンダーだろうが、そこは無視する)。つまりふつうはセバスキーという。そしてセバスキーは、のちにリパブリックと改名するアメリカの航空機メーカーであり、このセバスキーは、その創立者。したがってセバスキーと呼んだほうがわかりやすい。

『空軍力の勝利』がおかしいのは、このセバスキー/リパブリックがつくる新型の高性能戦略爆撃機というのが登場し、この爆撃機が東京の空襲を行うのである。笑える。受ける。

第二次世界大戦中にアメリカがつくった戦略爆撃機は、B17(ボーイング)、B24(コンソリデーディッド)、B29(ボーイング)、B32(コンソリデーティッド)であって、セバスキー/リパブリックの大型戦略爆撃機など影も形もない。そもそも試作されたのだろうか。リパブリックの、P47戦闘機は傑作機だが、大型爆撃機の経験のないリパブリックに試作の発注があったのだろうか。いずれにせよ、リパブリックの戦略爆撃機は存在しなかった。その存在しなかった爆撃機が、『空軍力の勝利』では東京を空襲するのである。しかもアラスカの基地から飛び立って!

本土空襲の必要性についてはLITERAの紹介記事にあるように「彼は、日本は南太平洋の島々に基地をもっているが、いくらそれらを叩いてもそのたびに自国の兵隊に死傷者が出るばかりでいっこうに本体は叩けないと現在の戦況の問題点を説明する。そして、航空機で日本の本土を攻撃するべきだと、戦略爆撃の必要性を強く主張するのだ。」ということだが、このとき説明のために使われるアニメというのが、ドイツ帝国と大日本帝国の支配権を丸い円であらわし、円の周辺をつっついても、ぱんぱんにふくれがったまん丸の風船は、かたくて穴があけられない、よしんば、穴をあけることができても、その穴はすぐに埋められてしまうというアニメなのだ。なんの比喩だといいたくなった。ドイツ帝国も、大日本帝国も鉄壁の守りということをいいたいらしいのだが、日本の場合、戦線が拡大すれば、それだけ補給補充が困難をきわめることになり不利になるのではないかと思うのだが、わけのわからない円ですべてを説明してしまうのだ。笑える。

そしてどこから本土攻撃にいくかという段になって、アラスカの基地から南下するしかないと語られるのだ。しかし、いうまでもなく、本土爆撃の戦略爆撃機B29は、南から北上してきた。本土爆撃をおこなう爆撃機は、南から飛来したのに、この映画では、アラスカか南下してくる。実際とは全然ちがう。どうしたのだ、この違いはと不思議に思い、さらに空恐ろしくなった。

つまりこれって陽動作戦ではないか。日本のスパイが、この映画をみれば、アメリカは、アラスカからの戦略爆撃を考えていると思い込むのではないか。北からくるとみせかけて、南からくる。まさに裏をかくことになって、日本は混乱する。そのような陽動作戦にディズニーは加担したのかというが、イギリスではじめてこの映画をみた私の感想だった。

つづく
posted by ohashi at 20:34| コメント | 更新情報をチェックする

2016年11月06日

『スタートレックBeyond』

スタートレック・シリーズがテレビで放映されてから今年が50年ということで、あらためて時の流れの速さを感じている。というのも、スタートレックが日本で放送されるのは、それよりも少し遅れるのだが、小学生か中学生の頃の私は、スタートレックの放送に心躍らされたからだ。つまり私は『スタートレック』よりも長生きして生き恥をさらしているのだが、その『スタートレック』がまだつづいていることについては、慶賀の念を禁じ得ない。

ちなみに当時の、アメリカのSFテレビドラマといえば、『バットマン』と『宇宙家族ロビンソン』で、『バットマン』はコミックス原作だからいいとしても、『宇宙家族ロビンソン』は、初回パイロット版での本格的SFドラマの予感を、ドラマシリーズになってから見事に裏切ってくれたことに、当時、子供だった私は、憤慨したものだった(今から見ると、そのナンセンスぶりというかキッチュぶりは、けっこう受けるのだが、当時は私は、まだ子供だったのだ)。いっぽうNHKで放送していた『プリズナーNo.6』はSF的設定ではあっても、完全に不条理ドラマだったので、バカっぽくもなく、不条理ドラマでもない『スタートレック』は大歓迎だったし、毎回、私よりも高いIQというか偏差値を誇る人向けのドラマに感激していた。

また『スタートレック』のテレビシリーズは、それまでのSFシリーズの定番を壊す要素が数々あって、そのひとつが転送装置。宇宙船が、未知の惑星に到着するとき、危険な降下と着陸に時間を費やすのがドラマの常だったが、『スタートレック』は、それを転送という手段で一瞬にして終わらせ、未知の世界のドラマの密度を濃くした。またそのぶん、かさばる宇宙服も必要なく、乗組員たちは、みんな軽装にみえ、それには驚いた(たとえば、スーツ姿のサラリーマンが全員スティーヴン・ジョブズのようなTシャツ姿になったとしたら、そこに生まれるであろう驚きと似たものといったらいいだろうか)。なんといっていいのか自信がないのだが、長袖のスウェット・トレーナーのような制服は、質素で、貧相にもみえたのだが、余分なものがなく、機能的かつ動きやすく、合理的な物語展開によく似合っているように思われた。残念ながら、映画版になって、このユニフォームは失われ、変更されたし、ジョン・ピカード艦長(パトリック・スチュワート)となったテレビ版でのネクストジェネレーションでも、ユニフォームも変わった。

そんななか『ビヨンド』では、往年のオリジナルテレビ版のユニフォームが復活したのだ。女性の乗組員の、あまり機能的ではないと思われる、いわゆる超ミニのスカートともあわせて。

ちなみに映画版シリーズには、つねにトレッキーから、これは『スタートレック』ではないという批判が寄せられ、制作側も、それにこたえるということが何度も行われてきたが、映画版の『スタートレック』シリーズで、これこそ、いかにも初代のテレビ版をほうふつとさせると思われたのは、『未知の世界』 (1991)で、これが映画シリーズの最終作となったのは皮肉といえば皮肉である。

『未知の世界』では、つぎからつぎへと、いろいろなことがおこり、それをエンタープライズ号のカーク艦長、ミスター・スポック、ドクター・マッコイの三人が、いがみあいながら、喧嘩しながら、不平不満をいいながら、最後には見事なチームプレイをして解決へ導くというドラマは、往年のトレックそのものだった。実際、映画の最後のほうで、すでに別の艦の艦長になっているジョージ・タケイ扮するカトー(とつい日本のテレビ版の表記で読んでしまうのだが、本来は、ズールー)が、久しぶりに、カーク提督(すでに提督になっている)の見事な手並みを拝見しましたと言って別れを告げるシーンがあって、これには、胸があつくなるのを覚えたのだが、今回、むりをしているのが見えるのだが、それでもトレッキーを満足させるような展開を心がけたフシがある。

前作の『イントゥ・ダークネス』は、これはテレビ版、映画版にもあった『カーンの逆襲』のリブートだったのだが、今回は、これもシリーズのどこかにあったような気もするのだが、オリジナルの脚本とのことだが、『未知の国』的なスタートレック感を目指しているように思われる。

ばらばらに、はなればなれになったクルーたちが、それぞれ自分たちの力で事態を打開しながら、最後には結集してことにあたる。またスポックとマッコイが相変わらず仲が悪いのだが、最後には協力するという設定は、まさにトレックの世界である。

物語そのものは、宇宙の平和と秩序を脅かす恐るべき敵が、実は、ということはさておき、エンタープライズ号を一気に無力化し破壊する敵勢力は、ただものではないのだが、その本拠地となるのは、惑星の狭い谷間というのは、オサマ・ビン・ラディンが住む片田舎の集落がアルカイダの本拠地だったこと(まあ『セロ・ダーク・サーティ』が事実を反映しているとしての話だが)を思い起こさせる。また、人口惑星ヨークタウンは、スター・ウォーズのデススターを彷彿させるものがあり、敵のリーダーが、二機の子機を従えて侵入するさまは、まるでダースベイダーである。宇宙へ放り出されていくのも、スターウォーズ第一作(エピソード4)のダースベイダーそのものであろう。

とはいえ、リブート版の映画化は、スタートレックの冒険アクション的要素を前面に押し出しているのだが、同時に、スタートレックがもっていた、形而上的な要素(最初の映画シリーズは、むしろ、こちらのほうを優先して不評を買った面もあったのだが)も、今後は、出してもらいたいと思う。個人的な感想として。

Last but not least
最後にクレジット直前に、レナード・ニモイに捧げるという文字が。だが、レナード・ニモイもそうだが、アントン・イェルチンもだろうと思っていたら、すぐにアントンに捧げるとあった。彼が主役を演じた『オッド・トーマス 死神と奇妙な救世主』も観た私としては、これがアントンの最後の姿かと思うと悲しい思いを禁じ得ない。冥福を祈るばかりである。
posted by ohashi at 07:09| 映画 | 更新情報をチェックする