2016年10月22日

『フリック』

通勤電車というか正確には地下鉄なのだが、たまに、声が大きくてうるさい若い男性の二人組といっしょになることがある。不運をなげくほかはない。彼ら二人は、どなっているわけでなくて、二人組の片方が、のべつまくなししゃべりまくっていて、しかも、声が、ちょっと大きいので、周りにも、会話が、地下鉄の音を凌駕して聞こえてしまうのだ。

どなっているわけではないが、声がよくとおるのであり、また片方も時々口をさしはさむのだが、圧倒的に片方の男だけがしゃべりまくっている。もちろん二人は不法なことをしているのではない。地下鉄の車内で話すのは自由だし、大声とか奇声を発しているわけでもない。二人の男性が世間話をしているだけである。ひとりだけが一方的に話しているとしても、それは勝手である。だから多少うるさくても、がまんするしかない。実際、彼ら二人が下車すると、車内がほうんとうに静かになり、暑苦しい雰囲気が消え、さわやかな風すら感じてしまう爽快感が漂うのである。

要は、話の内容である。ある時、地下鉄の車内で、大学生(と話の内容から推測できるのだが)が二、三人で話をしていて、聞くとはなしに聞いていたら、内容は忘れてしまったが、とにかく面白くて、可笑しい。聞いている私が思わず吹き出しそうになった。誤解のないように書いておくが、私は、その大学生たちを笑っているのではなく、彼らが面白可笑しく話している、その内容に感心もし、またおかしくて笑いそうになったということだ。優れた漫才のかけあいというか、やりとりを聞いているようで、もっと、ずっと彼らの話を聞いていたいという思いにとらわれた。優秀な大学生たちの世間話は、実に面白いと実感した。

それに対して、この二人組、いっぽうが、のべつまくなし話しているこのペアの話の内容を聞いてみると(声がでかいので自然と聞こえてくる)、自分のこと、家族のことを延々と話している。話している本人は面白いのかもしれないが、どれもが、どうでもいい話ばかりで、よくもまあ、こんなどうでもいい話が、つぎからつぎと出てくるものだとあきれる。だから、この男のどうでもいい話が、自然と聞こえてくるとき、それは拷問に近い責め苦となる。どうでもいい話を延々と話している。注意することもできない――どうでもいい話はいいから、もっと面白い話をしてくれと注意などできないからだ。

新国立劇場の小劇場で『フリック』(アニー・ベイカー)を観た。もうどうでもいい話が、延々とつづき、幕間に帰ろうかとほんとうに思った。実際、これは私の意地悪な感想ではなくて、訳者の平川大作が、パンフレットでも書いているのだが、
『フリック』プレビュー一週目に「長すぎる」「間が多すぎる」と幕間で帰ってしまう観客が全体の約一割にのぼった……

とのこと。

平川は原因を、この三人芝居の、小品にみえて、けっこう長い(「三時間を超えてまで長くなるとは思わなかった」という演出家の言葉を平川は引いている)ことに求めているが、つまり長さのせいにしたいようだが、あほか、おまえは。幕間に帰る客は、べつに早く帰らないと奥さんに叱られるとか、まだ小さな子供のために食事をつくらなければならないから帰ったのではないだろ。つまらないから帰ったのだ。客のいなくなった映画館の客席での男女三人の、どうでもいい話を延々と聞かされるという、この芝居に、いいかげんにうんざりしたからだろう。この芝居は、時間の無駄だと判断したからだろう。

すでに開始から一時間半たった。幕間に帰ろうかと思った。後半に芝居が俄然面白くなるとは考えられなかったが、一縷の望みと、つまらない芝居を最後まで見極めようという自虐的思いから最後まで付き合った。頑張っている演技者たちを批判はしたくない。原作と演出がひどい。拷問だった。完璧な時間の無駄だった。幕間に帰ればよかった。
posted by ohashi at 18:53| 演劇 | 更新情報をチェックする

2016年10月10日

『エリザベート』

『エリザベート』東京宝塚劇場公演

ネット上には熱心なファンというか、専門家ともいえる人たちが上演をみた感想を書き連ね、いろいろなことが指摘されているため、私のように恥ずかしながら、はじめて『エリザベート』【宝塚版】を観る人間が、個人的な感想であれ、それを記す意味などないように思われるのだが、強いて言えば、初心者ゆえの素朴な感想は、私しか書けないかもしれないし、そこに価値があるのかもしれない。

歌も踊りもわからない私にとって、芝居の構造がなにも興味深いものだった。オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝フランツ=ヨーゼフの皇后エリーザベトの生涯を描いた『エリザベート』は、エリザベートの暗殺者ルイジ・ルケーニの登場をもって幕を開ける。彼がなぜエリザベートを暗殺するにいたったのか審問に答えるかたちで、エリザベートの生涯が提示されるという凝った造りなっている。なぜ彼は、彼女を殺したのか。

その答えが、ミュージカル全体なのだが、同時に、ルケーニは、冥府の帝王で死神のトートと、つるんでいる。ルケーニは自分の意志でというよりも、トートの命令でエリザベートを暗殺したことがわかる。そのトートは、少女時代のエリザベスに一目ぼれをし、以後、彼女の動向を、そしてその人生を、ストーカーさながら見守っている。『オペラ座の怪人』を代表とするストーカー=愛人設定が、ここにあるのだが、死神が待っているのは、エリザベートが、頃から死神を愛するようになるときである。エリザベートにとって、死神への愛こそ、彼女のが死ぬときである。まさにリーベス・トッド(愛死)。もちろん、彼女が死神を愛するということは、現実世界において愛をすべて失ったことを意味する。愛が、死神への愛となるとき、現実において愛は失われているのである。

そこまではいいのだが、エリザベートはどのタイミングで、死神の愛を全面的に受け入れるようになるのか。ここが問題である。正直いって、よくわからない。あるいは、うやむやになっている。このミュージカルを何度も観ている人に聞いてみたいと思う。

そもそもエリザベートは、息子の皇太子ルドルフが自殺したとき、愛する息子を失った悲しみから死のうとするのだが、トートは、エリザベスに対して、「(お前は)まだ私を、愛してはいない!」なぜなら死を逃げ場にしているからと(「死を逃げ場にするんじゃない!」とうのが、そのせりふ)。しかし、こうなると、現実における悲しみや絶望によって死ぬことは、死への逃避にすぎず、ほんとうに死神を愛することではない。したがって彼女の側にあることで、死への愛を受け入れられるハードルがものすごく高くなる。ただの絶望や悲嘆だけでは、彼女は死ねないのである。ハードル、高すぎ。彼女はどうやって死を迎えるというのか。

なにがルケーニに暗殺させるキューとなったのか、それがよくわからなかった。まるで朝になれば死なねばならない人物が、朝が来たから死ぬというのと同じで、暗殺されるという歴史的事件が近づいたから、ルケーニは、なすべきことをするということで、トートからナイフ(正確には尖らせたヤスリ)を受け取り、凶行におよぶことになるが、なにがキューだったのかわからない。

見過ごしたのか、歌の歌詞にヒントがあったのか(ソロの曲は歌詞もよくわかるのだが、ソロ以外の曲は音が割れて歌詞は聞き取れない場合が多い)、それとも、なんとなく、それが運命だからと、あまり深く考えるなということなのか。もう一度、見てみないといけないのだが、見る時間も余裕もない。東京公演最終日には映画館で劇場中継をするのだが、日曜日、その時間帯、つまっている。すでに発売されているブルーレイ・DVDを購入して確認するか。

補足

今回の公演は、ブルーレイ・DVDは買う価値があるだろう。朝夏まなとのトート、長髪で黒髪(舞台では黒髪にみえるが、写真でみると紫色などが入っている長髪)のすらっとした彼女は、まるでバンコランだ。いや、バンコランよりも美しい、ぞ。

フランツ・ヨーゼフ役の真風涼帆は、はじけるような役柄でも、また妖艶な役柄でもなかったので、その点、真風ファンとしてはちょっと寂しいところもあったのだが、真風ファンの女性から、フィナーレの最初に出てソロを歌う真風涼帆は、めっちゃかっこいいと言われ注目していたのだが、たしかに、銀橋で歌う彼女の衣装とたたずまいは、かっこよかった。

あと、宮廷に娼婦を迎い入れるとき(映画『ロイヤル・ナイト』でも宮廷に娼婦が招かれる)、「宅配ピザをとる」という台詞があって(ほんと)、なんのことかと驚いた。またフランツ・ヨーゼフと娼婦のからみをパパラッチが写真にとるのだが、当時は、写真があったからいいか。でもパパラッチはいなかっただろうし、宅配ピザもなかっただろう。ただ、こんな、ちょっと変なところがあって面白い。ブルーレイ・DVDで疑問点も確認しておこう。

10月7日にみたイプセンの『幽霊』の主役朝海ひかるは、宝塚退団後、東宝ミュージカルの『エリザベート』で、エリザベートを演じている。『エリザベート』で、フランス病(梅毒)の話は、息子ルドルフが生まれてからあとのおとで、彼に病気は伝わっていないが、しかし、梅毒と、息子の死を思うと、イプセンの『幽霊』における夫人とエリザベートは重なるところがある。死神と幽霊というモチーフも同じだし。偶然としても、興味深い、共振である。
posted by ohashi at 12:08| 演劇 | 更新情報をチェックする

2016年10月09日

同じ作品を翻訳して

同じ作品を翻訳した複数の翻訳が似てしまうことについて。

前回の記事で、イプセンの『人形の家』の翻訳者・毛利三彌が、原千代子訳の『人形の家』が、自分の翻訳によく似ていると批判していたことを紹介したが(毛利三彌訳『イプセン戯曲選集』(東海大学出版会1997)p.858)、同じ作品を翻訳しても、十人十色で、印象の異なる翻訳が出来上がることもあれば、似たような翻訳ができあがることもある。問題は、同じ作品の翻訳なのに、こうも違う翻訳が出来上がるのかということではなく(まあ、これもまた問題ではあるのだが)、異なる翻訳者の仕事なのに、どうしてこんなに似てしまうのかということである。この点を考えてみたい。


私自身、最近、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ物から短編2作品を翻訳して『クィア短編小説集』(平凡社ライブラリー2016年8月)に収録して出版したが、ホームズの翻訳はたくさんあって、すべてに目を通したわけではないが、そのなかでベストテンをつければ、私の翻訳は圏外だと思う。謙遜でもなんでもない。ホームズ物の翻訳は人気があり、長い伝統もある。そのなかで生まれも読み継がれてきた翻訳は、日本語表現も洗練され、表現レヴェルそのものも高い。実にうまく翻訳していると感心するばかりで、今回、既訳をいくつか読んでみたかぎりでは、私の力では、そこまで及ばないと実感するしかなかった。もしそうだったら新しく翻訳を出す必要などないのだが、今回、ホームズ物の翻訳を読んでみてわかったことがあった。誤訳だらけなのである。

すべてのホームズ物の翻訳がそうだというわけではない。正確かつ、こなれた翻訳というのはある。しかし、そうした翻訳は、あまり知られていない出版社から出ていたり、ネット上にアップされていたりして、一般に、目につきにくい。ホームズ物では、入手しやすい文庫本とか、昔から定評のある翻訳の、すべてではないが、ほとんど信頼はできない。これには唖然とした。

昔々、ホームズ物を翻訳することになった先輩から、既訳をいろいろ読み比べたら、~訳のホームズ物が、文章のこなれかた、力強さで一番よいという話を直接聞いたことがあり、実際に、文庫本で読んでみたら、まさにそうで、その先輩の目利きの確かさに敬服したことを覚えている。ただし、いまにして思うと、そこでほめられていた翻訳はりっぱなのだが、誤訳も多い。

まあ、ホームズ物にかぎらず、同じ作品を複数の人間が翻訳するとき、不思議なことに誤訳を継承してしまうことが多いのだ。これは英語力のなさというのではなく、原文から翻訳するのと、翻訳から翻訳するという、翻訳の方法が二種類あるからだ。

既訳を先に読んでしまうと、たとえ既訳からはなれて原文から翻訳しても、既訳の解釈が頭に入ってしまって、原文も、その既訳の解釈を通して読み取ってしまうので、もし既訳の解釈がまちがっていたら、その間違いを継承してしまうのである。既訳を先に読んでから原文を読むと、既訳に問題があっても、ほんとうにわからない。逆だったら、つまり原文を読んでから既訳を読むと、たいてい自分の解釈と既訳の表現とのあいだに齟齬が生まれ、こちらが間違っている場合もあるし、既訳がまちがっている場合もあって、誤訳はみつけやすい。

翻訳するとき原文をみて翻訳するの場合と、既訳をみて翻訳する場合があるというのは、こういうことである。

ホームズ物にかぎっても、原文から翻訳しているとわかる優れた翻訳と、日本語は優れているけれども、既訳から翻訳あるいは書き換えを行なっているとしか思えない翻訳とがあって、後者は、誤訳も継承している。そして実際、定評があったり、権威があったりする翻訳も、往々にして誤訳の宝庫だったりする(もちろん、それは私自身の定評のある翻訳についても言えるので、自分にはねかえってくることをある程度承知のうえでの話なのだが)。

ただ、こうしたとき、文体とか読んだ印象は違う。ただ同じ誤訳が延々と引き継がれているというにすぎない。似ているのは、誤訳の部分なのである。


似ているのは誤訳の部分だけなら、読んだ印象は、異なるのだが、誤訳がなくて、全体が似てしまう場合がある。これはどうしてなのか。

今回のホームズの翻訳経験では、まず既訳をみずに、原文をみて翻訳し、そのあとで既訳をみて答え合わせをしてみた。恥ずかしながら、自分の解釈というか翻訳がまちがっていることを既訳から教えられた部分もあって、重大なミスを回避できたのだが、同時に、私の解釈と既訳の解釈が異なっていて、私のほうが間違っているとは思えないことも多く、そうしたときには、既訳のほうが誤訳であるとわかったりする。

問題なのは、誤訳ではなく正解を出してしまったときである。つまり上手い訳語がみつからずに悪戦苦闘して、ようやく適訳ともいえる日本語表現にたどりついたとしよう。とはいっても、同じ原文である。他の翻訳者と私の頭の出来に、そんなに違いがあるわけではなく、私にひらめいた表現に、他の翻訳者、先行する訳者が到達していたということは、ごくふつうにある。そうしたとき、どうしたらいいのだろう。それを上回る表現など、もう考えられない。となると差異化するために、下手な表現で翻訳するかないのか。

だが、私は天地神明に誓って、先行訳をパクってはいない。先行訳と同じ表現、それもベストの表現に思い至ったのであり、ここで、先行訳のパクリとみなされないために、自分の訳文あるいは訳語をセカンド・ベストあるいはサード・ベストに落とすのはしのびない。そのため先行訳と同じで、パクリといわれようが、自分にやましいところはない以上、先行訳と同じ訳語なり訳文にするしかない。先行訳に敬意を表する意味もある。また読者にベストな物を提供するしかないとなると、こうするしかない。

というわけで、先行訳と、それも些末なところではなく、重要なところで、訳語が同じになってしまうことは、よくある。もし、これがパクリであって、やましいところがあったら、まるで同じとはならないだろう。むしろ、やましいところがないからこそ、先行訳と同じでも、自分なりに堂々と、胸をはっていられる。ただ、これによって、先行訳と、重要なところが同じ訳文になる。かくして、同じような訳文ができあがり、毛利先生から、叱られたりする――「~の訳がかつての私のものに近似していることに困惑している」と。

べつにパクっていても、パクっていなくとも、結果として同じになってしまうのは、なんとも皮肉なこと、困ったことである。この悲劇から抜け出す方法はないのだろうか。

posted by ohashi at 17:08| エッセイ | 更新情報をチェックする

2016年10月08日

『幽霊』

イプセンの『幽霊』(鵜山仁演出)を紀伊國屋ホールでみる。私としては、鵜山仁演出の通常の翻訳劇を観にいくつもりだったが、多くの、あるいはほとんどの観客にとっては、朝海ひかるを観るのが目的だったようだ。客席の男女比率は、圧倒的に女性が多く、宝塚劇場の客席を思わせるものがあった。

とはいえ朝海ひかるは、元宝塚女優というよりも、いまやりっぱな舞台女優だし、今回の作品もまぎれもなくイプセン劇、それも『幽霊』そのものだった。

5人しか登場しない、この劇の上演については、演者たちの力演は高く評価されていいのだが、もうすこし頑張ってもよかったのではないか、もう少し工夫があってもよかったのではと思われた。とはいえ先週みたNTライブのトム・ストッパードの『ハード・プロブレム』に比べたら、ずっとよかったことは明記しておかねばならない。またイプセンのこの劇は、有名な作品だが、そんなにちょくちょく上演するものでもないので、一見の価値はある。

以下、気づいたことをランダムに。

休憩が入るということだったので、たぶん第二幕と第三幕の間、火事のところだろうと思ったが、へんなところで入った。すくなくとも第一幕と第二幕の間ではなかった。どこで休憩が入ったのか、まだ確かめていないのだが。しかも再開の直後では、観客が忘れてしまうのを前提としているかのように、休憩の直前、それもほんの一瞬前の場面を、もう一度再現したのである。これは不思議な感じがした。テレビ番組、それもバラエティ番組のようなもので、コマーシャル後にも、コマーシャル直前の映像を流すようなものなのだが、まさかイプセン劇の伝統でもないと思うのだが。これはけっこうよくあることなのだろうか。

おそらくこれは意図的に抑えた演技なのだろうが、たとえば最後の発作の場面。もちろん梅毒にともなう脳軟化症の発作がどんなものなのか、私も含め、誰も知らないと思うのだが、もっと派手にやってほしかった。そもそも、ここは、これがギリシア悲劇の現代版・亡霊だとしたら、ここは荘厳に、残酷に、そして大仰にするべきなのではないか。なぜなら――

たとえばこの『幽霊』が、『人形の家』の後日談というかオルターナティヴな物語(もしノラが家出しなかったらというような)であるとか、因襲にとらわれた当時のノルウェー社会を背景としたリアルな家庭劇だとか、そうしたたわ言に惑わされなければ、この劇は、死んだ父親と、その妻と息子の関係、また近親相姦の可能性、そしてさらに遺伝という科学的装いのもとに示される、一種の呪いのようなもの、あるいは出生の秘密――それらを劇の主要な構成要素としている以上、これはまさにギリシア悲劇の世界の招来である。家庭劇におさまることのない、ギリシア悲劇の世界そのものである。言い方をかえれば、そもそもギリシア悲劇は、家庭劇でもあった。そしてこのことはまた『幽霊』という劇が、まさにギリシア悲劇の幽霊そのものと化しているということだ。

ちなみに今回のパンフレット、これで1500円は高い。まあそれはともかくとして、幽霊について書いている演劇評論家というのがいて、はっきりいって、退場願いたかった。イプセンの他の作品はともかくとして、この作品における「幽霊」というのはメタファーである。なにか超常現象のようなものが起こるわけではない。とはいえメタファーであるぶん、自由な発想のもとに、「幽霊」というメタファーを拡大できる。実際、この劇に登場する人物、すべてが「幽霊」であるという解釈も可能だろう。このくらいのこと(つまり誰もでも言えそうな凡庸なこと)も書けないような演劇評論家は、演劇評論家の幽霊(正確にいえばゾンビ)みたいなものである。

しかし、幽霊はほかにもいる。実際、この作品には、観客/読者の推測にまかせていることが多くて、謎は残る。ほんとうに火事を起こしたのは誰か、最後までわからない。なぜ夫人の語ることと、指物師の証言とが食い違うのか。その他、未解決な細部は、けっこう多い。成仏できない亡霊たち、未解決という幽霊たちが、この作品にはいたるところに潜んでいる観がある。

私はちなみに毛利三彌訳でこの作品を読んだが、今回の上演は原千代海訳を使っている。毛利訳との違いが気になって、ったが、違わないことがわかってきて、大丈夫なのか、逆に不安になった。どっちかが、どっちかに真似されていると怒るようなことがあってもしかたないと思われた。実際、『人形の家』の翻訳では、毛利三彌は原訳が似すぎていると怒っている。どちらがどちらかわからないけれども、翻訳が幽霊とならないことを祈っている。

posted by ohashi at 06:42| 演劇 | 更新情報をチェックする

2016年10月07日

『SCOOP!』

『SCOOP!』大根仁監督2016

福山雅治主演映画としては、『そして父になる』のときのヒットには及ばない、福山はオワコンだという悪意のあるコメントもネット上にあったが、これが悪意以外の何物でもないのは、『SCOOP』のほうはR12で最初から家族向き・万人向き映画をねらっていないし、そのぶん全国上映館も『父に』に比べれば少ない。内容も、えぐいといえば、かなりえぐい話なので、とにかく『君の名は。』のようなヒットは最初から狙っていない。だから、福山人気に陰りがといわれても、福山自身、迷惑な話だろう。

もっとも、こうした悪意を、同じ芸能ジャーナリズムを扱ったこの映画がじゅうぶんとらえきれていないことは事実で、あのような取材方法(芸能人をねらったパパラッチ的手法はまだしも、政治家や警察関連で、あの取材方法は)現実にはありえないだろう。またこの絵がのなかでのスクープ写真のいくつかは、いくら決定的な瞬間とはいっても、また被写体の人権やプライヴァシーを考慮しなくても、現実問題として掲載できるものではないだろう。

テレビドラマ化された松本清張の『十万分の一の偶然』のなかで、大事故の決定的瞬間を捉え賞を獲得する写真(「激突」と題される)も、小説のなかでなら想像するしかないが、テレビドラマ化されると、たとえば「松本清張没後20年・ドラマスペシャル 十万分の一の偶然」(田村正和主演、2012年12月15日【2016年10月7日にBS朝日で再放送された】)で示される写真は、いくらその芸術性が高くても、複数の人間が死につつあるところの写真であって、それが公共の場で多くの人の目に触れ、賞をもらうというようなことはありえない。そうなると、どうしても話が嘘っぽくなってしまう。

それはともかく『そして父になる』公開時に、映画宣伝のために出ていたテレビの番組で、こんな話をしていた。まあ、冗談としてだが、映画業界では、子供(子役)とリリー・フランキーとは共演するな、なぜなら、みんなもっていってしまうから、といわれている、と。

いや、笑い事じゃない。今回の映画、これこそ、リリー・フランキーが全部もっていってはいないか。

そして、それはともかくとして、下ネタ満載という点で考えさせられるところがあった。この場合は、男どうしの下ネタだが、下ネタをいいあって、男どうし、じゃれあうことの面白さ楽しさはわからないわけではない。しかし、あくまでも男どうし限定であって、女性にとっては、不快なものであることはまちがいない。また女性のいる前で、あるいは女性に対して、下ネタを連発することは、男性からみても、許されざる行為だと思う。

ただ、この映画は、そのことは承知しているようだ。むしろ男どうしのじゃれあいは、ゲイ文化へと変貌し吸収されるのでなければ、いまや消えていくしかない、男たちの挽歌の重要な一部を形成している。オジサンの使うたとえが、いつも野球のプレーであることも、消えゆく男文化の一部なのである。事実、そうなのだ。編集長は女性にかわり、花形記者も女性へとかわることはたしかなようだ。男たちの時代は、終わった――下ネタとたばこ(電子タバコではない)の時代はもうすこしで終わるだろう。つぎは女たちの時間が始まる。と、いうように読めた。

あと最後のエンド・クレジット。通常は黒字に白い文字が下から、上へと流れていくのだが、今回、映像を出した。映像が最後まで流れている。『秘密 トップシークレット』をみていたおかげで、あの映像が幸せな場面であると読むことができたのは、個人的には『秘密』が役にたったことになる。
posted by ohashi at 16:29| 映画 | 更新情報をチェックする