どなっているわけではないが、声がよくとおるのであり、また片方も時々口をさしはさむのだが、圧倒的に片方の男だけがしゃべりまくっている。もちろん二人は不法なことをしているのではない。地下鉄の車内で話すのは自由だし、大声とか奇声を発しているわけでもない。二人の男性が世間話をしているだけである。ひとりだけが一方的に話しているとしても、それは勝手である。だから多少うるさくても、がまんするしかない。実際、彼ら二人が下車すると、車内がほうんとうに静かになり、暑苦しい雰囲気が消え、さわやかな風すら感じてしまう爽快感が漂うのである。
要は、話の内容である。ある時、地下鉄の車内で、大学生(と話の内容から推測できるのだが)が二、三人で話をしていて、聞くとはなしに聞いていたら、内容は忘れてしまったが、とにかく面白くて、可笑しい。聞いている私が思わず吹き出しそうになった。誤解のないように書いておくが、私は、その大学生たちを笑っているのではなく、彼らが面白可笑しく話している、その内容に感心もし、またおかしくて笑いそうになったということだ。優れた漫才のかけあいというか、やりとりを聞いているようで、もっと、ずっと彼らの話を聞いていたいという思いにとらわれた。優秀な大学生たちの世間話は、実に面白いと実感した。
それに対して、この二人組、いっぽうが、のべつまくなし話しているこのペアの話の内容を聞いてみると(声がでかいので自然と聞こえてくる)、自分のこと、家族のことを延々と話している。話している本人は面白いのかもしれないが、どれもが、どうでもいい話ばかりで、よくもまあ、こんなどうでもいい話が、つぎからつぎと出てくるものだとあきれる。だから、この男のどうでもいい話が、自然と聞こえてくるとき、それは拷問に近い責め苦となる。どうでもいい話を延々と話している。注意することもできない――どうでもいい話はいいから、もっと面白い話をしてくれと注意などできないからだ。
新国立劇場の小劇場で『フリック』(アニー・ベイカー)を観た。もうどうでもいい話が、延々とつづき、幕間に帰ろうかとほんとうに思った。実際、これは私の意地悪な感想ではなくて、訳者の平川大作が、パンフレットでも書いているのだが、
『フリック』プレビュー一週目に「長すぎる」「間が多すぎる」と幕間で帰ってしまう観客が全体の約一割にのぼった……
とのこと。
平川は原因を、この三人芝居の、小品にみえて、けっこう長い(「三時間を超えてまで長くなるとは思わなかった」という演出家の言葉を平川は引いている)ことに求めているが、つまり長さのせいにしたいようだが、あほか、おまえは。幕間に帰る客は、べつに早く帰らないと奥さんに叱られるとか、まだ小さな子供のために食事をつくらなければならないから帰ったのではないだろ。つまらないから帰ったのだ。客のいなくなった映画館の客席での男女三人の、どうでもいい話を延々と聞かされるという、この芝居に、いいかげんにうんざりしたからだろう。この芝居は、時間の無駄だと判断したからだろう。
すでに開始から一時間半たった。幕間に帰ろうかと思った。後半に芝居が俄然面白くなるとは考えられなかったが、一縷の望みと、つまらない芝居を最後まで見極めようという自虐的思いから最後まで付き合った。頑張っている演技者たちを批判はしたくない。原作と演出がひどい。拷問だった。完璧な時間の無駄だった。幕間に帰ればよかった。