2016年09月18日

『テレーズとローラン』

原作:エミール・ゾラ『テレーズ・ラカン』 作・演出:谷賢一
[出演]木場勝己・奥村佳恵・浜田学・銀粉蝶

池袋の東京芸術劇場シアター・ウェストに地人会新社の『テレーズとローラン』を観に行く。「地人会新社」のホームページは、以下のように今回の公演を説明している。

第4回公演『クライムス・オブ・ザ・ハート』で地人会新社の理念のひとつ、「若手の演劇人たちに有形無形の財産をバトンタッチする」という命題を実現し、今回はその第二弾。現在演劇界でめざましい活躍を続ける新進の演劇人・谷賢一さんとタッグを組み、フランス自然主義文学を代表する作家、エミール・ゾラの小説『テレーズ・ラカン』を、新しい形の戯曲へと変身させ、演劇としておくり出します。 肉欲の果ての殺人。その後の後悔と恐怖。互いへの疑惑。すれ違う愛の形…。人間の根幹をなす“欲”と“エゴイズム”を克明に描くことで、究極の人間探求を!

原作は長編小説だから、これはアダプテーション、翻案である。いまさら、なぜゾラかということになるかもしれないが、パンフレットで中村翠氏(京都市立芸術大学)が書いていることだが、「『テレーズ・ラカン』のアダプテーション(翻案)が止まらない」とのことだ。恥ずかしながら、その舞台はいずれもみていないので、この長編が、これまで芝居として、どのように加工されてきたのか、わからないのだが、今回の舞台は、巧みなアダプテーションで、この単純そうにみえて複雑で長い作品を、うまく処理していたといいたいところだが、

この手法って、ハロルド・ピンターのパクリでしょ。ピンターの『背信』の。

つまり時間が逆行する。二人が死んだ場面からはじまり、最後に、二人が、どのようにテレーズの夫であり、ローランの友人である男を裏切り結ばれるかを示す場面で終わる。もし、二人が結ばれる場面から、さらにエピローグあるいはエピローグ的場面が追加されていたのなら、ピンターとは少し違うのだが、まさにここで終わったら、これってピンターの『背信』と同じじゃないか。

もちろんパクリというのは失礼な表現かもしれないが、パンフレットのどこにも、またとりわけ作・演出家の言葉のどこにも、ピンターの『背信』については一言も触れていないのは問題だろう。公演には、何も知らないない観客や、フランス文学、フランス演劇のファンや専門家だけでなく、英米演劇のファンや専門家だって来るということを忘れるな。しかも、この池袋の東京芸術劇場のシアター・ウェストだかイーストだか、どちらだったか忘れたが、昨年か一昨年、ピンターの『背信』を、ここで上演したのだ(調べたら2014年のイーストだった。あれからもう2年もたった)。もちろん私はそれを見ている。

また、もちろん時間が逆行する芝居は、ピンターの『背信』にかぎらないだろう。しかし東京芸術劇場で上演された、現代の演劇、不倫がテーマといったらピンターの『背信』しか思い浮かぶものはないだろう。たぶん作・演出家は、誰もが知っているかはべつにして、今回の演劇をみにくる演劇ファンだったら、たいていはピンターの『背信』くらいは知っている。だからあえて言及しなかったのだというだろう。パクる人間は、たいていそういうことを言う。

ポイントは、ピンターの『背信』に影響を受けたとか、その手法を借りたとか、ただひとこと言えば、何の問題もないし、作・演出家の教養と技量は称賛されることこそあっても、パクリの非難を受けることはないだろう。アダプテーションが止まらないが、パクリは止まらないになってはならない。

もちろん今回のアダプテーションでは、時間逆行という構成は一番目立つのだが(だから困る)、それよりも、人物造形とか、台詞のうまさ、興味深さにこそ、その特徴を見出されるべきだろう。配役をみてもわかるように、ここにはカミーユがいない。生きている間でも肖像画として、また死んでからは幻覚の幽霊として登場しても、その姿かたちは最後まであらわれない(当然、演ずる役者も存在しない)。また原作ではフラットな人物にすぎない元警部(原作では、捜査とか事件にまったくかかわらない)が木場勝巳演ずる洞察力溢れた存在感の大きな人物へと変貌し、銀粉蝶扮するラカン夫人とともに、この劇を支えるもう一方の極となる。つまりテレーズとローランという不倫・殺人カップルに対してラカン夫人と元警部という老人組が対峙する。これは原作にない設定であり(原作では名前のないラカン夫人と元警部に今回の作品では名前を与えている)、これこそが今回の翻案の特筆すべき加筆というべきだろう。

また原作の長編小説には、会話の部分はあるが、演劇作品ではないために、台詞の応酬の部分がたくさんあるわけではないから、ほとんどがオリジナルな台詞といっていい。そしてヴェルレーヌからランボーの詩の、謎めいた使い方とか、『ハムレット』論など、台詞で魅せるところも多く、ゾラの長編小説とはまた異なる濃密な緊張感にみちた世界を舞台に出現させていたし、演ずる役者たちも、私がゾラの原作を読んで思い描いていた人物たちと、そんなに変わらないイメージであった--もちろんこれは個人的な感想だが、それにしても、原作のイメージをそこなわなっていいないと感ずる観客も多いのではないか。

もちろん原作を読んでいなくても、結末やら展開を知らなくても、あるいはそのほうが、謎めいた死から、その原因あるいははじまりへと至る構成に、わくわくが止まらないかもしれない。もちろんルネ夫人は最後には脳卒中で体が動かくなくなるのだが、彼女の心の声の部分は、激しい身体表現を伴うのだが、これは心の声とすぐには理解できない観客もいるかもしれないが、その戸惑いもまた、今回の公演の面白さに貢献しているのかもしれない。

しかし、またアダプテーションによって失われるものもある。劇中で『ハムレット』の上演について元警部が悪人としては作中人物の行動が甘いと批判すると、全体の状況を考えると、むしろ、そうした行動が理に適っているとテレーズは反論する。このやりとりは、それ自体で面白い(また元警部とテレーズは、原作から考えると、『ハムレット』を論じられるような教育も教養もないが、そのことは問題にしない)。

と同時に、ブーメラン効果で、このことはこのアダプテーション作品そのものにもはねかえってくる。冒頭の場面で、殺し合う二人だが、男がナイフを、女が毒薬で相手を殺そうとする。これは原作とは逆である。原作の男=毒薬、女=ナイフという組み合わせは、たしかに不自然な感じもするが、小間物店の店主にすぎない女性が毒薬を手に入れるのはむつかしいという事情もあって、原作の組み合わせになったのかもしれない。まあ、今回の翻案もまた、一応納得できる変更ではある。しかし、そうすることで、二人の死が、つまり原作にあるように、互いに殺し合うつもりであったことを悟った二人が、心中のようなかたちで、そろって、抵抗もせず死に身をゆだねるという原作の最後は、舞台では、二人が死を受け入れるというよりもナイフでの殺し合いの要素が強くなった。そのほうが舞台では見栄えのいいことがわかるが、心理的強度は失われたような気がする。原作の終わり方は不自然だという批判的意見があり、いや、原作通りでいいのではという修正意見はなかったのようだ。舞台での元警部とテレーズのやりとりは、創作の場では実現しなかった。

なお原作では影がうすかった元警部(私の読んだ翻訳ではミショー元警視)を木場勝巳が演じて、出てくるたびに、その場の中心に居座る感じは面白かったし、銀粉蝶は、舞台では、久しぶりに見たのだが(他の舞台を見る機会がなかっただけだが)、私は「ブリキの自発団」の頃から、彼女の舞台はみていて(片桐はいりといっしょに知ることになったのだが)、いまやメジャーな女優になったのだが、それでも「銀粉蝶」というアングラ演劇の芸名を捨てないというのは、偉いというか、尊敬に値すると思っている。

posted by ohashi at 21:05| 演劇 | 更新情報をチェックする

2016年09月10日

『弁明』

『弁明』Apologia 作/アレクシ・ケイ・キャンベル 訳/広田敦郎 演出/上村聡史 日程:2016年9月7日[水]→21日[水] 会場:信濃町文学座アトリエ

アレクシ・ケイ・キャンベルの作品は、昨年だったが文学座アトリエで上演した『信ずる機械』を見ていなくて、『プライド』も見ていないのだが、見てみたいというより、あらためてじっくり読んでみたいと思わせてくれた今回の『弁明』であった。

一人暮らしの年老いた母のもとに、その誕生日を祝うために、息子二人、息子たちのパートナー、母の知人男性が集まり、一夜を過ごす。和気あいあいとしたバースデーパーティになるかと思いきや(というかそうなってしまっては面白くもなんともないのだが)、母と息子との対立と、その原因とがあらわになるという芝居である。

身内だけの誕生会だったら、仲がいいかどうかは別にして、互いによく知っている仲だから、あえて話すこともなく、もしそこに他人である私たちが紛れこんだら、いったい何が話し合われているのか、話されていないのか、皆目見当がつかないところ、そこは作劇術の巧みさというべきか、何気ない会話を通して、家族構成、それぞれの人生、過去のいきさつ、現在の事情が、すんなりとわかってくる。この一族がいまかかえている問題も、彼らが激突する理由も、何があったのかわからなくても、明確にみえてくる。何の変哲もない誕生会が、にわかに剣呑なものに、緊迫感に満ちた劇的機会に変貌する。

高名な美術史家で左翼の活動家でもあった母親に、息子たち二人は、反発して、ちがった生き方、母親とは正反対の女性をパートナーにしている。母親は仕事に忙しく、息子たち二人の世話をじゅうぶんにすることができなく、息子たちにすれば、母親から見捨てられたとの思いが強い。おりしも母親が最近出版した自伝のなかで、二人の息子について触れてもいない。精神的に不安定な弟(後半に登場)は、それにかなり衝撃を受けている。深夜、客たちが寝静まってから登場する弟は、手に怪我をして出血している。自殺でも図ったのかと観客は思う。実際には、ただ転んだところにガラスの破片があって、それが手に刺さったというだけのことだったのだが。

なぜ子供を見捨てたのか、子供に十分に愛情を注ぐことができなかったのかについて、仕事(アカデミックな仕事と政治活動の両方)のせいで時間がなかったという母親はいう。それはそうに違いないのだろうが、さらにもっと踏み込んだ、家族の秘密があったのではないかと思うと、それはなかった。コペンハーゲン解釈は示されなかった。

私のいう「コペンハーゲン解釈」というのは、物理学とか量子力学でいうそれの、誤解にみちた拡大解釈版あるいは歪曲版にすぎないのだが、現象を説明するときに、あらゆる要素、通常なら無関係なものと却下されそうなものも重視するような説明法だと考えている。6月にシアター・トラムでみたマイケル・フレインの『コペンハーゲン』のなかで、なぜハイゼンベルクがボーアのもとを訪れたのか、いろいろな説明(学問的、政治的、歴史的な)が提示されるのだが、そのなかでボーアの妻が、ハイゼンベルクは出世した自分の姿(ナチスに協力する筆頭物理学者となった)をかつての師ボーアにただ見せびらかしたかっただけだと説明するのだが、それだけがハイゼンベルクの動機ではなかったとしても、同時に、人間の行動に対するコペンハーゲン解釈があれば、そのような個人的・利己的動機も見逃さないだろうと、そこが革新的なところだと思った。

この『弁明』では、学問と政治活動に忙殺された母親が子供をかえりみなかった原因として、さらになにか家族の秘密、あるいは個人的な秘密が示されるかと思ったが、そうではなかった。コペンハーゲン解釈はなかった。とすれば、ここで、あらためてこの芝居のテーマがみえてくる。仕事のために子供をかえりみることができなかったのということである。ただ、それだけのことなのだが、それが出発点となる。

世代の対立と継承というのは、この作品に影を落としている。今回の公演でも母親とそのゲイの友人のふたりを演ずる山本道子と小林勝也と、その子供たちの世代の栗田桃子/松岡依都美/佐川和正/亀田佳明との間には、明らかに断絶がある。つまり、年齢的に二つの世代をつなぐ人物がいない。また次男のパートナーであるクレア(松岡依都美)がテレビ女優であるということから、彼女が『人形の家』の舞台で主役を演じたことだとか、演技・演劇に関することが話題になると、舞台そのものがメタドラマ化して、主人公の女性の生きざまと、主役の山本道子のそれとが重なって見えたりして(プライベートなことではなく、日本でいえば団塊(初代)の世代と、その子供たちとの関係性ということだが)、この作品がいまとここ(ここには文学座のアトリエもふくまれるだろう)との共振を強く要求していることを痛感させられるのである。

そしてこの世代の断絶から浮かび上がってっ来るテーマとは、ブレヒトの有名で、また悲痛きわまりない詩「のちに生まれる人たちに」のなかの有名な一節そのものだろう

ああ、わたしたちは
友愛の地を準備しようとしたわたしたち自身は
友愛をしめせなかった。
      ブレヒト「のちに生まれる者たちに」
         An die nachgeborenen


ユートピアをめざす政治運動は、その活動家たちに地獄の苦しみを味あわせ、多くの犠牲を強いることになった。人々が全員幸福になるはずのユートピア実現を目指す者たちは、不幸のどん底に落ちるしかなかった。ユートピアを目指す者たちが示すことができたのは、おのが悲惨な不幸な姿でしかなかった。

いまもなお政治活動に参加している(この年で、遠く離れたロンドンでのクルド人救済のためのデモにでかけるのだから)彼女にとって、家庭の幸福、家族との親密な触れ合いを犠牲にせざるをえなかった。ユートピアをめざす彼女にとって、家族との関係はディストピアであった。この不幸、このパラドックスを、後に生まれた者たちは、憎んだり、拒否するのではなく、理解し、共感せねばならない。その悲痛さに慄然としつつも。

アフターパフォーマンス・トーク

演出家の上村聡史と、翻訳者の広田敦郎の対談だったが、興味深い事実や解釈をいろいろ聞かせてもらい、刺激的なトークであったことは、まちがいなく、もう少し話を聞きたかったと正直思った。たとえばこの芝居の初演が、エビを焼く匂いがただよってくるようなパブの二階にある小劇場であって、劇中に同様な小劇場の描写があって、それとシンクロするというのは、メタドラマ的部分にもあらためて意識を向けさせてくれることになった。

ただし、この作品のはじめのほうで、訪問客をもてなそうとオーヴンをつけたのだけれども、それがなかなか熱くならない。また電子レンジも壊れていて熱くならないというような設定なのだが、それを翻訳者の広田氏も、演出家の上村氏も重視していて、そこにクリスティ(主人公の老美術史家・政治活動家の女性)の現在を暗示する象徴性を読みとっていた。このへんを読み取るか読み取らないかが、この芝居を理解する鍵になるのだというような主旨の発言もあった。

そこを重視するのは、鋭いと思うし、また、重視したいのであれば、その判断は大いに尊重されるべきだが、だとしたら、象徴性を読み間違えてはいないか。含意とか象徴性に対するリテラシーが、この二人は著しく欠けているといわざるをえない。

オーヴンが熱くならないのは、主人公の女性がポンコツになったり、昔の情熱を失った、あるいは端的に年老いたからではない。彼女は、先ほども書いたように、クルド人支援のデモに遠くから駆け付けるほどの情熱を、体力を、意欲をもっている。彼女はいまも熱い人だし、彼女が円熟して仏様にならずにいまなお熱い人だから、バースデーパーティの席上があんなに激しい追及と弁明の場になったのではなかったか。彼女は瞬間湯沸かし器とはいわないまでも、まだホットである。

ところが、彼女が人をもてなそう、料理をつくろうとして電気オーヴンにスイッチをいれるとオーヴンが熱くならず、料理ができない。つまり彼女がいくら不正を訴え、救済や解放を訴えても、世間が熱くならず、冷たいままなのである。彼女はホットだし、情熱も政治意識も少しも鈍化していないのに、世間が時代が、かつてのように熱くなることをやめてしまった。熱くなるのはださい、かっこ悪い、笑っちゃう、と、時代がいま、そうなっているからにほかならない。熱くならいオーブンは、彼女のことではなく、時代や状況のほうなのだ。

戦争法案の対する反対の声をあがっている、改憲して戦争のできる国にしようとする安倍政権に反対する熱い声はあがっている、しかし、日本の社会は、がたがきたオーヴンのように熱くならない。クール・ジャパンという馬鹿スローガンがこれほど不気味に響くことはない。広田と上村にいっておきたい。象徴性をとりちがえるな。ただ、このふたりの勘違いにもかかわらず、というか、勘違いがあっても、芝居そのものは演技者たちは、それにまどわされずにいた、それはそれでよかったのだが。
posted by ohashi at 14:41| 演劇 | 更新情報をチェックする