[出演]木場勝己・奥村佳恵・浜田学・銀粉蝶
池袋の東京芸術劇場シアター・ウェストに地人会新社の『テレーズとローラン』を観に行く。「地人会新社」のホームページは、以下のように今回の公演を説明している。
第4回公演『クライムス・オブ・ザ・ハート』で地人会新社の理念のひとつ、「若手の演劇人たちに有形無形の財産をバトンタッチする」という命題を実現し、今回はその第二弾。現在演劇界でめざましい活躍を続ける新進の演劇人・谷賢一さんとタッグを組み、フランス自然主義文学を代表する作家、エミール・ゾラの小説『テレーズ・ラカン』を、新しい形の戯曲へと変身させ、演劇としておくり出します。 肉欲の果ての殺人。その後の後悔と恐怖。互いへの疑惑。すれ違う愛の形…。人間の根幹をなす“欲”と“エゴイズム”を克明に描くことで、究極の人間探求を!
原作は長編小説だから、これはアダプテーション、翻案である。いまさら、なぜゾラかということになるかもしれないが、パンフレットで中村翠氏(京都市立芸術大学)が書いていることだが、「『テレーズ・ラカン』のアダプテーション(翻案)が止まらない」とのことだ。恥ずかしながら、その舞台はいずれもみていないので、この長編が、これまで芝居として、どのように加工されてきたのか、わからないのだが、今回の舞台は、巧みなアダプテーションで、この単純そうにみえて複雑で長い作品を、うまく処理していたといいたいところだが、
この手法って、ハロルド・ピンターのパクリでしょ。ピンターの『背信』の。
つまり時間が逆行する。二人が死んだ場面からはじまり、最後に、二人が、どのようにテレーズの夫であり、ローランの友人である男を裏切り結ばれるかを示す場面で終わる。もし、二人が結ばれる場面から、さらにエピローグあるいはエピローグ的場面が追加されていたのなら、ピンターとは少し違うのだが、まさにここで終わったら、これってピンターの『背信』と同じじゃないか。
もちろんパクリというのは失礼な表現かもしれないが、パンフレットのどこにも、またとりわけ作・演出家の言葉のどこにも、ピンターの『背信』については一言も触れていないのは問題だろう。公演には、何も知らないない観客や、フランス文学、フランス演劇のファンや専門家だけでなく、英米演劇のファンや専門家だって来るということを忘れるな。しかも、この池袋の東京芸術劇場のシアター・ウェストだかイーストだか、どちらだったか忘れたが、昨年か一昨年、ピンターの『背信』を、ここで上演したのだ(調べたら2014年のイーストだった。あれからもう2年もたった)。もちろん私はそれを見ている。
また、もちろん時間が逆行する芝居は、ピンターの『背信』にかぎらないだろう。しかし東京芸術劇場で上演された、現代の演劇、不倫がテーマといったらピンターの『背信』しか思い浮かぶものはないだろう。たぶん作・演出家は、誰もが知っているかはべつにして、今回の演劇をみにくる演劇ファンだったら、たいていはピンターの『背信』くらいは知っている。だからあえて言及しなかったのだというだろう。パクる人間は、たいていそういうことを言う。
ポイントは、ピンターの『背信』に影響を受けたとか、その手法を借りたとか、ただひとこと言えば、何の問題もないし、作・演出家の教養と技量は称賛されることこそあっても、パクリの非難を受けることはないだろう。アダプテーションが止まらないが、パクリは止まらないになってはならない。
もちろん今回のアダプテーションでは、時間逆行という構成は一番目立つのだが(だから困る)、それよりも、人物造形とか、台詞のうまさ、興味深さにこそ、その特徴を見出されるべきだろう。配役をみてもわかるように、ここにはカミーユがいない。生きている間でも肖像画として、また死んでからは幻覚の幽霊として登場しても、その姿かたちは最後まであらわれない(当然、演ずる役者も存在しない)。また原作ではフラットな人物にすぎない元警部(原作では、捜査とか事件にまったくかかわらない)が木場勝巳演ずる洞察力溢れた存在感の大きな人物へと変貌し、銀粉蝶扮するラカン夫人とともに、この劇を支えるもう一方の極となる。つまりテレーズとローランという不倫・殺人カップルに対してラカン夫人と元警部という老人組が対峙する。これは原作にない設定であり(原作では名前のないラカン夫人と元警部に今回の作品では名前を与えている)、これこそが今回の翻案の特筆すべき加筆というべきだろう。
また原作の長編小説には、会話の部分はあるが、演劇作品ではないために、台詞の応酬の部分がたくさんあるわけではないから、ほとんどがオリジナルな台詞といっていい。そしてヴェルレーヌからランボーの詩の、謎めいた使い方とか、『ハムレット』論など、台詞で魅せるところも多く、ゾラの長編小説とはまた異なる濃密な緊張感にみちた世界を舞台に出現させていたし、演ずる役者たちも、私がゾラの原作を読んで思い描いていた人物たちと、そんなに変わらないイメージであった--もちろんこれは個人的な感想だが、それにしても、原作のイメージをそこなわなっていいないと感ずる観客も多いのではないか。
もちろん原作を読んでいなくても、結末やら展開を知らなくても、あるいはそのほうが、謎めいた死から、その原因あるいははじまりへと至る構成に、わくわくが止まらないかもしれない。もちろんルネ夫人は最後には脳卒中で体が動かくなくなるのだが、彼女の心の声の部分は、激しい身体表現を伴うのだが、これは心の声とすぐには理解できない観客もいるかもしれないが、その戸惑いもまた、今回の公演の面白さに貢献しているのかもしれない。
しかし、またアダプテーションによって失われるものもある。劇中で『ハムレット』の上演について元警部が悪人としては作中人物の行動が甘いと批判すると、全体の状況を考えると、むしろ、そうした行動が理に適っているとテレーズは反論する。このやりとりは、それ自体で面白い(また元警部とテレーズは、原作から考えると、『ハムレット』を論じられるような教育も教養もないが、そのことは問題にしない)。
と同時に、ブーメラン効果で、このことはこのアダプテーション作品そのものにもはねかえってくる。冒頭の場面で、殺し合う二人だが、男がナイフを、女が毒薬で相手を殺そうとする。これは原作とは逆である。原作の男=毒薬、女=ナイフという組み合わせは、たしかに不自然な感じもするが、小間物店の店主にすぎない女性が毒薬を手に入れるのはむつかしいという事情もあって、原作の組み合わせになったのかもしれない。まあ、今回の翻案もまた、一応納得できる変更ではある。しかし、そうすることで、二人の死が、つまり原作にあるように、互いに殺し合うつもりであったことを悟った二人が、心中のようなかたちで、そろって、抵抗もせず死に身をゆだねるという原作の最後は、舞台では、二人が死を受け入れるというよりもナイフでの殺し合いの要素が強くなった。そのほうが舞台では見栄えのいいことがわかるが、心理的強度は失われたような気がする。原作の終わり方は不自然だという批判的意見があり、いや、原作通りでいいのではという修正意見はなかったのようだ。舞台での元警部とテレーズのやりとりは、創作の場では実現しなかった。
なお原作では影がうすかった元警部(私の読んだ翻訳ではミショー元警視)を木場勝巳が演じて、出てくるたびに、その場の中心に居座る感じは面白かったし、銀粉蝶は、舞台では、久しぶりに見たのだが(他の舞台を見る機会がなかっただけだが)、私は「ブリキの自発団」の頃から、彼女の舞台はみていて(片桐はいりといっしょに知ることになったのだが)、いまやメジャーな女優になったのだが、それでも「銀粉蝶」というアングラ演劇の芸名を捨てないというのは、偉いというか、尊敬に値すると思っている。