2016年08月26日

『イレブン・ミニッツ』

イエジー・スコリモフスキー監督の、この映画が面白い。

大都会に暮らす人々の午後5時から午後5時11分までの11分間に起こる様々なドラマをモザイク状に構成した群像劇。女好きの映画監督、嫉妬深い夫、刑務所を出たばかりのホットドッグ屋、強盗をしくじった少年といったいわくありげな人物と、一匹の犬を中心に描かれるサスペンスで、多種多様な視点を駆使した映像や都市空間にあふれる音などによって、人々の悲哀に満ちた人生の陰影を表現。人々のありふれた日常が、わずか11分で変貌していく様を描き出した。


というのが宣伝文句だが(大都会という漠然としたものではなく、ポーランドのワルシャワだとわかるようになっているが)、まあ、たとえば、内田けんじ監督の考え抜かれたプロットの群像劇と同じテイストと言えば、理解してもらえるかもしれない。

むつかしそうで、めんどくさそうな映画かと最初からパンフレットを購入したが、パンフレットはなくても、十分に楽しめるし理解できる。内田けんじ監督の映画を譬えに出したのだが、11分間の出来事のなかで、人物がかわると視点もかわり、またばらばらな人物たちが最後にむすばれていくというプロットの緻密な構成は、内田けんじ監督の映画をほうふつとされる。内田けんじ映画では、張り巡らされた伏線が最後に見事に回収されていくというのがほめ言葉になるが、この『イレブン・ミニッツ』でも、そういう面が、なんとも面白い。と、同時に、回収されない、謎のままの出来事もあって、リアルと非リアルの境界と戯れる不条理感も忘れられていない。

ネタバレにならない程度に(とはいえネタバレしても、わからないものはわからないのだが、一応、ネタバレはしない主義なので)、たとえば質屋のテレビに登場する謎の老人などから、小さな例では救急隊がかけつける建物の壁に流れ落ちている液体が徐々に消えていき、時間が逆行しているようにみえるのはなぜかなど、変な細部はけっこう多い。

登場人物たちの11分間を切り取っているわけだが、たった11分間でも、それが孤立しているわけではなく、その前に何があったのか、なんとなくわかるし、その後も、どうなるかは予想がつく(その予想が外れるにしても)。たった11分間であるが、孤立し絶縁された断片的時間ではなく、継起のなかに、過去の影響と未来への不安のなかに、過去と未来との濃密な相互作用のなかにあることが痛感できる。結末がどうのというよりも、各人物の運命がからまりあうところがなんとも面白いし、わくわくするというべきか。

いろいろと語りたいことはあるが、ネタバレになるのでやめると、英米文学研究者として、この映画から連想するのはアメリカの作家ソーントン・ワイルダーの『サン・ルイ・レイの橋』である。何度も映画化されているのだが、私は、そのなかの一作品しか見たことがない。映画を通して、あの橋は、大きな事故とは関係なく、ただ足を踏み外して落ちてもおかしくないほどの、とんでもないつり橋であったことを、私は知ることができた。まあ、それは関係ないが、とにかく作品は読まなくても、映画をみてほしい。私だけの感想ではないと思うのだが、その映画を思い出すたびに、つくづく思い知るのである。人生のかぎりない虚しさを。
posted by ohashi at 02:07| 映画 | 更新情報をチェックする

2016年08月25日

ドールフ惑星?

NHK BS「コズミック・フロント」を見ていたら惑星の定義をめぐる議論が紹介されて、そのなかで冥王星のような小さな惑星を、「ドールフ惑星」とする議論があったことが紹介された。そのとき画面では英語表記が、Dwarf Planet。日本語表記が「ドールフ惑星」。

え、Dwarfの発音が「ドールフ」。登場する日本人天文学者も「ドールフ」と発音しているように聞こえる。

しかし、ちょっとあせった。Dwarfは英語なら「ドワーフ」という発音であって、「ドルフ」とか「ドールフ」にはならない。Wikipediaで「準惑星」の項目をみてみるとDwarf planetを「ドワーフ・プラネット」と表記している。

自分がまちがって発音を記憶していたのかと、冷や汗が出てきたが、それもおさまった。自分がまちがっていないことがわかったので。

ただそれにしても、なぜdwarfが「ドールフ」となるのか。少なくとも英語なら、おかしい。英語以外の言語の発音なのだろうか。なぜNHKは「ドールフ」と表記したのだろうか。

posted by ohashi at 23:08| コメント | 更新情報をチェックする

2016年08月20日

『フラワーショウ!』

Dare to be Wild (2014)

たまたまロモーラ・ガライの映画について、数日前に言及したので、その時、彼女が出演している映画を調べたらSuffragette(2015)があって、日本で公開されていないことがわかった。面白そうな映画で、多くの国で上映されているのだけれども、日本での予定はあるのだろうか、とはいえ、2015年の映画。今回の映画『フラワーショウ!』は、2014年の映画、次に扱う『奇跡の教室』も2014年の映画。上映のためには、いろいろ準備が必要なことはわかるが、なにか遅い。どうでもいい映画が日米同時公開だったりするのに。

映画としては、予想通りの楽しい映画であったと同時に、自然保護と自然との共生についての積極的なメッセージを伴った映画ともなっていて、そのふたつは、原発推進派以外は誰もが賛同することなので、たんなるエンターテインメントではない深みがあったというべきか。

ただ、チェルシー・フラワー・ショウについては全く無知なので、ただただ驚きの連続であって、最後まで飽きさせない。とはいえ主人公がエチオピアに行ってしまうエピソードは、すぐに終わるかと思うと、予想外に長い。しかも、たんなる行きがかり上の一エピソードではなくて重要なエピソードでもあって、アイルランドの森、チェルシーの人工庭園といった、それなりに心地よいイメージとは異質のアフリカの自然のイメージに戸惑うものの、またすぐには気づかないのだが、それがメッセージ性の重要な要となる部分だった。

となるとエチオピアのにおける新妻香織の活動に触れなければいけない。実際、映画の中で、新妻香織については、きちんと触れているのだが(主人公の恋人の知人として)、ただ新妻は映画のなかで言及されても、人物としては登場しない。実際のところ事実に基づいた物語のなので、主人公は実際にエチオピアに行っているし、映画のなかで彼女の恋人で会った男性は、新妻の運動に実際に協力していたのだが、その部分の扱いが、ドキュメンタリー映画ではないとしても、薄いのは気になった。

その一方で、事実か虚構か、わからないところもあって、そこも気になった。彼女は、その経歴の最初に、ほんとうにアイデアを奪われていたのだろうか。佐村河内守の件もあり、こういうことはよくあるのかと思いつつも、その扱いが、フィクションならば、もっと劇的であっていいし、事実だったら、扱いがおざなりのような気がして、違和感が残る。

いや総じて、事実に基づくことによって、虚構としてのまとまりが悪くなっているところもある。塩素の場面とか、チャールズ皇太子が自分の造園中の庭とまちがえて入って来たといのは、ほんとうのエピソードらしいが、事実を取り入れた分、フィクションとしての機能性というか意味が曖昧になったし、扱いも、中途半端になったようだ。

とはいえ、コンテストに勝つという成功物語、自然保護と人口庭園との対立葛藤と和解、仕事と恋愛の選択、自然の保護と活用、メディア戦略など、いろいろな要素が盛り込まれて、そのぶん飽きさせないと同時に、多様性はあっても分散的で終わっているという点、不満は残るといいたいところだが、メアリー・レイノルズが造ったというケルト的古代へと誘う人口庭園の驚異の前には、すべて満足に終わってしまったといっていい。
posted by ohashi at 09:09| 映画 | 更新情報をチェックする

2016年08月17日

『秘密』

原作はマンガだとは知らず、またすでにアニメ化されていることも知らず、というか、何も知らずに見に行って、最後にこれは、BL(ボーイズラブ)からDL(ドッグラブ)の話だと気づいたときも、原作がマンガだとは知らず、またすでにアニメ化されていることも知らなかったが、そのことは、BLとDLだという私の感想をあとで補強してくれるものなった。

もちろん殺人行為の再現を、主観映像でみるのは、痛いし辛いし怖い。いくら未来のテクノロジーとはいえ、死んだ人間の脳に残っている記憶を映像化してみるということなどできないと思うのだが、仮にできたとして、死んだ人間の脳が保持している記憶を生きた人間の脳のなかで一度イメージに転換しなければいけないということもよくわからない。記憶をイメージ化したものはコンピューターでモニタリングできるわけだから、最初からコンピュータによって映像化すればいいようなものだと思ってしまうのだが、まあ説明を聞き逃したか、私自身が説明を理解できなかったのかもしれない。

ただ、それにしても、もしこのような発明がなされたのなら、これはパラダイム・シフターともいえる発明だろう。映画を見る前に、ジョー・ペンフォールの『いまここにある武器』の上演をみてきたので、つい、こんな言葉が脳裏をよぎってしまったのだが、つまり世界をかえる発明品のこと。もし死んだ人間の脳内に保存されている記憶を映像化してみることができるなら、文明そのものに根本的な変化をもたらすことができるだろう。それを犯罪捜査のみに限定して使うことはもったいなさすぎる。結局、これは犯罪の犠牲者となった者への司法解剖と同じように扱われていて、パラダイム・シフト以後の無限の可能性や文明の発展などまったく考慮に入っていない。司法解剖と同じ扱いなのだから。

と同時に、人間の文明は死者を利用することによって飛躍的進歩を遂げたということもできる。死体の解剖が医学や医療にどれほど貢献したことか。もちろん犯罪捜査にも大いに貢献したことと思うが、しかし、同時に、副作用というか、破壊的帰結についても考えると、空恐ろしくなるようなところがある。

ダ・ヴィンチは、飛行機や武器を発明したのだが、生前、その発明が実現することはなかった。彼の飛行装置も武器も、机上のものであって、現実のものでなかった。だからダヴィンチは、その発明の破壊的帰結を考えることはなかったし、その必要もなかったし、また責任を問われることもなかった。しかし、空想上のものであった武器が実現してしまうとき、その責任も生じてしまう……。しまった、これもジョー・ペンフォールの『いまここにある武器』からの台詞のパラフレーズになってしまった。ただこれは重要な観点である。死者それも狂気の犯罪者の脳をのぞくことは、シンクロして、自分の脳で、他人の脳を体験する捜査官の意識やアイデンティティを危険にさらすことになる。もし、そういう装置が実現して使用可能となったら、脳をシンクロさせるものは、死者あるいは犯罪者/死者に同期してしまうだろうし、戻ってこれなくなくなるかしれない。

実際、映画のなかでのポイントはそこにあった。しかし、むこうというのが、犯罪者の狂気の世界ではなくて、それとは別の世界だったというのが、この作品のオチみたいになっている。そうだったのかということになるが、

以下、ネタバレ注意/Warning Spoiler。

実際、この映画では、私がファンである岡田将生も、また栗山千明もがんばっているのに、最後には生田斗真・松平桃李に全部もっていかれるのではないか。どういうことかといえば連続殺人犯貝沼/吉川晃司の記憶をみた鈴木/松坂桃李は、発狂して、拳銃で貝沼の脳を破壊し、みずからの脳も拳銃で破壊しようとするが、できず、薪 剛/生田斗真ともみあっているうちに、薪/生田斗真に正当防衛というかたちで射殺されたということだった。だが鈴木/松坂の脳に保存されている記憶が封印されているので、真相はわからないままになっている。薪/生田が、鈴木/松阪の脳に残された貝沼/吉川晃司の記憶と、鈴木本人の記憶に向き合うことで真相が明らかにされる。

で、どんな恐ろしい真相かというと、そうでもない。つまり貝沼/吉川と薪/生田とは過去に接点があり、ふたりの出会いが、貝沼の生田への憎悪を喚起し、生田への復讐というかたちで連続殺人を起こしたことがわかる。となると貝沼の連続・大量殺人の責任の一端を薪/生田が負うことになる。そのため薪/生田の、その輝かしい経歴を汚名から守るために、鈴木/松坂は、貝沼の脳を破壊する。そして貝沼の脳の記憶は、自分の脳のなかにも移植されていることになるから、自分の脳を破壊すべく、自殺しようとする。そして最終的に薪/生田の手を借りて自殺することになる。

だが、それは表面的なことである。そうじゃないでしょうと、見た者、誰もが思うのではないか。

以前、是枝監督の『そして父になる』の宣伝番組のなかで主演の福山雅治が、冗談ではあるが、子供と動物とリリー・フランキーと共演すると損をすると言われている、なぜなら子供も動物もリリー・フランキーも、全部もっていくからだ、と語っていた。まあ冗談なのだが、これと同じで、映画のなかで、先ほども書いたように、死んだ鈴木の恋人役の栗山千明も、また鈴木に似ているといわれ捜査現場で奔走し生田を守ろうとする岡田将生も、刑事役の眞鍋駿介/大森南朋も、連続殺人犯の貝沼/ 吉川晃司も、あるいはいつになくまじめで重厚な役の第九のナンバースリーともいえる今井/大倉孝二も、みんな熱演なのに、最後に、生田斗真と、そんなに出番がない松坂桃李とが、全部もっていってしまうのである。これは岡田将生ファンの私としてはちょっと残念だぞ。続篇があればまた話はべつなのかもしれないけれど。

どういうことかといえば、薪/生田と貝沼/吉川は、過去に接点があり、貝沼/吉川の薪/生田への憎悪が連続殺人の引き金になったとはいえ、それで薪/生田が責任を問われることもないし、経歴に傷がつくわけもない。では、鈴木/松坂は何を守ろうとしたのか。それは貝沼の生田への憎悪は、ある意味で、愛の裏返しでもあったということだ。憎しみが強くなればなるほど愛も強くなる。愛の強さが憎しみも増す。この愛と憎しみのアムビヴァレントの関係を鈴木/松坂は封印しておきたかった。薪/生田の目に触れさせたくはなかったのだ。なぜなら、鈴木/松坂も、貝沼におとらず薪/生田を愛していたからである。鈴木/松坂は、貝沼の狂気の世界にひきこまれたのではない、そうではなくて薪/生田が貝沼との同性愛の世界に引き込まれるのを防ぐために、貝沼の感情を刻印した記憶を抹消しようとしたのである。すべては貝沼と鈴木/松坂の、薪/生田をめぐる三角関係、ライヴァル関係であった。そしてこのなかで鈴木/松坂は、薪/生田が貝沼へとつづく道を歩むのを阻止したのである。みずからの命をかけて。

『小さなおうち』では、女主人松たか子に同性愛的感情を抱く使用人の黒木華は、松たか子と、その不倫の相手の最後の逢引を、松たか子のためを思って阻止する。だが、それは女主人に軽はずみな行動をとらせなかった慎重かつ賢明な判断だったのだろか。むしろ女主人に、男とあってほしくなかった、女主人を男に奪われたくなかった黒木華の嫉妬のなせるわざではなかったのか。戦時下にあって空襲によって命をおとした女主人のことを戦後長い年月がたってから思い起こすとき、なぜ、あのとき女主人を男のもとへ、最後の別れに抱かれに行かせなかったのか、ほんとうに女主人を愛していたなら、なぜ、あそこで嫉妬に狂って、松たか子の行動を止めてしまったのか。自分のなかのどす黒い嫉妬が、女主人のつかの間の至福すら奪ったのではなかったのか、そのことをいま思いかえして……、年老いた使用人は号泣する。いや、彼女がなぜ遠い昔のことを思ってなつかしむどころか号泣するのか原作では何も説明していなかったように思う。おそらく、黒木華が松たか子に自分の気持ちを伝えることができていたなら、たとえ嫉妬ゆえに、女主人の邪魔をしたことも許してもらえたのではないかと思う。だが、そういう機会もないまま、女主人は戦時下で亡くなる。

ひるがえって映画『秘密』のなかで、鈴木/松坂の行為は、愛する薪/生田を殺人犯貝沼に奪われたくなかったがゆえの、たとえ嫉妬に狂ったのかもしれないが、必死の抵抗だった。しかし、そのことは、最後に、生田にも、脳内の記憶によって伝えることができた。映画の最初のほうでは、栗山千明をめぐる松坂と生田の三角関係を予想したのだが、終わってみれば、それは生田をめぐる吉川と松坂の三角関係であり、さらには貝沼/吉川の存在も、生田と松坂の男性どうしのBL関係を強化するためのものだったとわかる。

貝沼/吉川は、独房の床の水たまり(たぶんトイレの水)に、自分の顔を映し出して、その顔が、脳内の記憶を検索している生田の眼前に現れることを予想して、メッセージを伝えるのだが、これは同性愛における水の要素、水の光景を思い浮かべずにはいられない(トイレというのも同性愛の連想軸上にある)。松坂が、このイメージを封印するのは、同性愛的感情を埋没させるためかもしれないが、そのことを通して、同性愛的感情の存在は確固たるものとなった。かくして同性愛的勘定の下支えがあればこそ、最後の風力発電の巨大プロペラがならぶ、この世のものとは思えないシュールな、それでいて安らぎを覚える、プラトニックな友情関係が脳内パラダイスに生起したのである。

そして水の物語以外にももう一つ同性愛を想起させるものがある。犬である。この映画はBLからDLへと推移する、いやBLとDLが共存する。DLというのはドッグ・ラヴの略で、私が勝手につくったもので、汎用性はないのだが、犬がでてくるところは驚いた。最後にBLが全部もっていくのかと思ったら、最後に、犬が、DLが、すべてをもっていくとは。水と同様、犬もまた、男性同性愛を強く喚起するイメージである。DLとBLの深い関係性は、もっと追究されてもいいのではないかと思う。


付記:映画の宣伝するテレビ番組のなかで、生田も岡田も、防弾チョッキをシャツの中に常につけていなければならず、暑い時期の撮影ということもあって体重がかなり減ったということを話していた。だとするなら岡田君が撃たれても防弾チョッキがあるから、大きなケガにもならないと思っていたが、結局、リハビリをすることになって、映画が終わった時点でもまだ松葉杖を使っている状態だったから、結局、防弾チョッキはどうなったのか不思議に思った。映画の中では防弾チョッキをつけているようにはみえたけれども、直接的な言及はなかった。

posted by ohashi at 15:22| 映画 | 更新情報をチェックする

2016年08月15日

勇気と忍耐

フランソワ・オゾン監督の『エンジェル』〔2007〕のなかで第一次世界大戦時に、ロモーラ・ガライ扮する主人公が反戦を訴えると、彼女の暮らす館の使用人たちですら、またも、わがまま女主人の愚行かと、あきらめを通り越して激しい怒りを抱くという場面はあった。たしかに、この段階で主人公は広壮な館に暮らす富裕層に属しながら、人生に倦みつかれた女主人で、その反戦姿勢も思想的・人道的な主張に拠るのではなく、戦時生活の規制を忌み嫌っての自己中心的な無責任な発言なので、周囲の人たちの嫌悪感はわからぬわけではないが、しかし、ここには気がかりな面もあった、いや気がかりにを通り越して恐ろしくなるような。

というのも、〈自己中心的でわがままな性格→反戦という無責任発現〉という物語の流れは、反戦を訴える側に対して体制側が強制する負のイメージを連想させるからだ。戦争へ向かうとき、あるいは戦時にあるとき、あるいは戦争を正当化するとき、反戦の主張に対して、体制側は、自己中心的・無責任・横暴・わがままという負のイメージを押し付けようとするからだ。

あるいはもっと端的に、戦争準備期、あるいは戦時という狂気が暴走するとき、反戦という正気の意思表示、それ自体、すぐれて道徳的かつ人間的主張そのものが、正気ではなく狂気、抹消すべき圧殺すべき狂気の噴出として弾劾されると考えてもいい。どうみても戦争へと進む、あるいは戦争を正当化する現在の日本の政権下においては、反戦という最も価値のある人間的主張が、狂気と悪辣な犯罪として弾劾される日が目前に迫っている、あるいは、もうその日が来ているのかもしれない。

シェイクスピアの『リア王』の舞台と、映画『ニュースの真相』を、ほぼつづけてみた印象からすると、そのキーワードである「忍耐」と「勇気」は、とりわけ強く胸に迫るものがある。

いまや国民が戦争のできる軍人・軍属となり、また国民がテロの対象国となる危険を知りつつ自己犠牲に邁進することが正しく価値あることと見なされるような、クソ右翼国家に日本がなり下がりつつある現在、反戦を唱えることで、どんな悲惨な運命が待ち構えているか、わかったような気がする。そのためにも反戦を唱えるときには、なにより勇気が必要となる。それも並大抵ではない限りなき勇気が必要となる。そのことを肝に銘じておかねばならない。

平和主義者になる、あるいは反戦をとなえることそのものに、勇気など要りはしない。問題は、そうしたあとどうなるかということである。私たちは、徹底的に軽蔑されることになるからだ。反戦が正しい主張であることを、私たちがいくら確信していても、軍国主義者にとって、それはただの愚行、自己中心的傲慢、臆病者の自己正当化、屁理屈をこねまわす卑しい犯罪行為、無責任な非人間的行為にすぎない。戦争を、必要悪、さらには美徳と考えるような社会において、平和主義者になることは、唾棄すべき犯罪と同じことになる。

そのため私たちは、屈辱を、それも並大抵ではない屈辱を味わうことになろう。際限なく、次から次へと。まさに勇気とは、この屈辱に耐える勇気のことにほかならない。平和主義者になれば、褒めてもらえるという期待は捨てねばならない。平和主義者になって、屈辱から免れることができると考えてはならない。私たちが平和主義者だとすれば、その私たちに屈辱をあたえようとする者たちにたちどころに包囲される。

そして無責任な人間のクズ、ゲスの極みとして、徹底的に貶められる。法的な弾圧にさらされる前に、ありとあらゆる批判、非難、告発、そして容赦なき反論に曝される。もはや私たちは、社会に混乱を招き入れる秩序攪乱者、犯罪者、一刻も早く石をぶつけて追放することが社会の安定につながるような危険分子となる。

私たちが、たとえまぎれもない日本人であり日本国籍をもっていても、ネトウヨからは、在日と呼ばれたり、さらには日本国籍すら奪われてしまうだろう。安逸な生活と特権を享受しているが、すべてそれは庶民を搾取する、それも伝統ある日本民族を騙し搾取することで成立するような、とにかく救いがたい悪辣な外国人として私たちは告発されるだろう。

戦争を犯罪行為、人権侵害として告発しようとする私たちには、逆に、告発されるだろう--許しがたい、また法廷での裁判になれば罰せられるであろう差別主義者、人権を侵害する凶悪犯罪者として。時をおかず、呼び出しがきて、法的手段による組織的迫害が徹底的に追及されるだろう。犯罪者として有罪になることは、最初から織り込み済みであり、いくら抗弁しようとも、抗弁のひとつひとつに対して何倍もの非難と告発があびせかけられ、完膚なきまでに叩かれる。テロに反対する私たちがテロリストと告発される。武力行使を否定し平和な社会を願う私たちが、社会を攪乱する軍国主義者呼ばわれされる。戦争に賛同することが平和主義者であり(戦争こそ平和)、平和を主張することは敵国を利する戦争行為とみなされる。

やがてCM契約は破棄され、平和主義者であり現政権を批判しただけのことが、明確な契約違反とされて事務所を解雇される、さらには膨大な違約金を取られるかもしれない。私生活を暴かれ、些細な汚点が、重大な人格的欠陥、さらには罰せられていない犯罪行為として誇張されるか、捏造される。平和主義者になれば、レイプ魔と呼ばれ、万引き犯と告発され、性格破綻者、精神異常者、倒錯者、愚人、いやそれどころか狂人として扱われる。友人・知人たちは、私たちの狂気を立証する証言者や目撃者となる。また私たちは、闇の勢力、反社会的勢力とのつながりといった、ありもしないものを詮索され、あげくのはては外国のスパイと、あるいは国際的テロリスト支援者とみなされる。一時的に検事や裁判官を言い負かせたとしても、どのような抗弁によって点数を稼いだとしても、有罪は最初から確定しているため、有罪が宣告され、ありとあらゆる汚名が着せられ収監される。刑務所では、刑務官に裸にされ、尻の穴までさらされる。

死刑だったら、執行時まで、収監されて、身体的・精神的なありとあらゆる暴力にさらされる。死刑でなくても、刑務所では、身体的・精神的な暴力に日常的にさらされる。不当な扱いに抗議しようとも、刑務官からも周囲の受刑者たちからも、私たちは、人間のなかでも最低のクズ、親族を殺したりレイプしたりする最悪の変態、悔い改めることのない連続殺人犯と見なされ、不当な扱いや人権侵害を訴えても、それでおまえたちの被害者の気持ちがよくわかるだろうと、一蹴されるだけである――平和を唱え、戦争に反対しただけで。

平和を唱え、戦争に反対しただけでも、私たちに待っているのは数限りない屈辱である。そのなかでは死は、瞬時に私たちを苦しみから解放してくる贈与の一撃かもしれない。だが戦争法案を通した政権は、死による解放など許してくれることはない。処刑した後、まるで食肉であるかのように、私たちの死体をつるし、さらし者にするのだ。死体にまで屈辱をあたえるのだ。ちょうど、戦争に反対したドイツ市民に対して、ナチスがそうしたように。

戦争は差別に支えられ、差別を助長する、だから戦争に反対すると、私たちがいくら主張しても、気づくと、私たちが差別主義者に、差別を助長する者として逆に告発されることになる。そして考えられうる、いや考えられないような屈辱の日々が待っている。たとえ私たちの心が折れてしまっても、私たちは許してもらえないだろう。私たちが屈辱のあまり精神的に破綻をきたし、生きる意欲をなくし、廃人同然の生活しか送れなくなるまで。

だから暗黒の時代に、私たちに必要な勇気は、発言・発信する勇気ではなく、発言・発信のあとに待ち構えている屈辱に立ち向かう勇気である。そしてあとは、ただひたすら耐えるしかない。耐えて、耐えぬくしか、私たちに道はない。これがどん底であり、あとはどん底から上昇する運命の転換が待っているなどと甘い期待を抱いてはいけない。これがどん底だといえるときは、まだどん底ではないのだから(『リア王』)。とにかく耐えるしなかい。もちろん、何もしなくても、これからの暗黒の時代に対しては耐えるしかない。しかし同じ耐えるのだったら、勇気をもって反戦をとなえ、みせしめのために与えられる屈辱に耐えるほうがいいのではないか。たとそれによって犬のように殺されても、人格が破綻して狂人として社会的に埋葬されるとしても。家族や知人・友人からも見放され、汚名にまみれ、墓さえも建ててもらえないとしても。たとえ私たちが生きている間には実現できなくても、政権のほうが、やがて、汚名にまみれて倒れることを信じるほうが、私たちの限りない命にも意味をもたらしてくれるのではないだろうか。屈辱に耐える人間よりも、屈辱を与える側の人間のほうが、彼らが、いくら正義のためと信じているとしても、絶対に屈辱的な存在なのだから。
posted by ohashi at 00:00| エッセイ | 更新情報をチェックする

2016年08月13日

Courage

『リア王』のキーワードは忍耐Patienceだったが、『ニュースの真相』のキーワードは、ダン・ラザーが降板する番組の最後に語った一言、Courageである。
posted by ohashi at 22:27| コメント | 更新情報をチェックする

『ニュースの真相』

『ニュースの真相』Truth
この映画については以下のような紹介文がある:
2004年、伝説のジャーナリストのダン・ラザーがアンカーマン(メインキャスター)を務める「60ミニッツII」で再選を目指すブッシュ大統領の軍歴詐称疑惑が報じられた。アメリカ・CBSニュースのベテランプロデューサーであるメアリー・メイプスは確固たる証拠の基、真実を報道したつもりだった……しかし、「新証拠」を保守派のブロガーが「偽造」と断じたことから、CBSは激しい非難を浴びる。同業他社の批判報道もとどまるところを知らず、ついに上層部は事態の収束を図り、内部調査委員会の設置を決定。そのメンバーにはブッシュに近い有力者も含まれていた。

「ブッシュに近い有力者」というのは、全員共和党の支持者・関係者で占められているので、第三者委員会などではまったくない。もちろん同じことは日本でもいえるのだが。

あるいはこんなコメントもネット上にはある:
選挙期間中、民主党寄りで知られるCBSのCBSイブニングニュースがブッシュの軍歴詐称をスクープし大騒動となるが、後に完全な誤報であることが判明したため、CBSの複数の幹部が解雇され、著名なキャスターであったダン・ラザーも降板に追い込まれた。

完全な誤報などとは誰も言えないのだが、こうして歴史は作られる。

朝日新聞の夕刊で立川志らくが『ニュースの真相』について映画評を書いていて(「(プレミアシート)「ニュースの真相」 正義ほど怖いものはない(2016/08/05))、なんという、勘違いのコメントかとあきれかえった。報道する側の正義と、大統領側の正義、正義のぶつかりあいの不毛さとか、テレビの報道を、ネットが凌駕するというような、およそ映画をみた私をふくめた多くの人が抱く感想とは、別物の感想を述べていて、社会的・政治的センスのなさに、あきれかえったのだが、ネット上の映画評をみると、立川志らくほどの素っ頓狂なコメントはなくて、ちょっと安心した次第。

映画の内容に関して、良いニュースと悪いニュースが。

気休め程度の安心でしかないが、メディアに対する政権・政府の締め付けのファシズム的厳しさ、まさに全体主義国家(北朝鮮、中国)さながらの報道への圧力は、日本という中国と北朝鮮と同列の劣等国家だけのことか思っていたら、この映画を見ると、アメリカも同じようにひどいことがわかって、暗澹たる気持ちになるのだが、強いて救いとなることといえば、これは2004年の大統領選挙の年のことであり、あの頃は、共和党が、まさに好き勝手なことをしていて、不正がまかりとおっていた。ほんとうにアメリカの暗黒時代だった。

中東戦争を起こし、結局は、泥沼化し、多くのアメリカの将兵を、またそれにもまして多くのイラク人やアラブ人を犠牲にしながらも、結局、責任をとったかというと、なにもとっていないネオコンの屑どもが、まさに当時は、跳梁跋扈していた。

ブッシュが再選された大統領選挙では疑惑が噴出し、民主国家でありながら、選挙結果ではなく、裁判で、大統領を決めたことを記憶しているだろうか。司法関係者は、みな共和党の関係者で、疑惑が生じても、ブッシュが大統領になることは、最初から決まっていた。また国民の半数が支持していないブッシュが、選挙制度の盲点をついて、結果的には圧勝し、国民の八割以上が支持したような印象をもたれた。もうブッシュ大統領と共和党の全体主義支配はゆるぎなく、まさに頂点に達したと思われた時代だった。

だが、共和党の凋落は、実際のところ2004年に始まったといっていい。この映画のなかで共和党の餌食となったジャーナリストたちだが、彼らは、確実に一矢をむくいたのだ。

悪いニュースとしては、こういうニュースは他人ごとではない。政権を批判する報道に対する悪辣かつ卑劣な攻撃は、熾烈をきわめ、いまの日本では常態化している。この映画の出来事は2004年であって、同時に2016年の日本の出来事そのものである。いや、このような事態は、世界中で起きている。そして同じような悪辣で卑劣な圧力がかけられ、メディアへの規制が、いや増しに強まっている。この点は、過去の出来事でも、他人ごとでもなんでもない。いまの私たちの問題である。

先ほどの立川志らくの映画評も、それが朝日新聞夕刊ということもあって、おそらく本人が腰が引けたというか自主規制した結果かもしれないのだが、朝日新聞の慰安婦問題報道、あるいは福島の原発報道のときも、政権にとって都合の悪い報道をもみ消すために、誤報という判定を下して、追及をそらすようなことが行なわれている。朝日の報道がでっち上げだとほんとうに怒っているのは、ネトウヨくらいのものであって、その真実性を信じている者は私を含めて多いし、残念なのは、さらなる追求が妨害され、真実が圧殺されていることである。

この映画でも同じで、ブッシュの軍歴詐称は、まずまちがいないだろう。それは、報道のしかたと、報道への圧力のパターンによって推察できるからである。

1まず政権にとって、きわめて都合の悪い報道がなされたり、情報が開示されたりする。
2次に、提出された証拠や情報が、でっち上げであったり、偽造であったりと反撃が生まる。
3情報源が特定されるが、情報源は、きわめて疑わしいことが暴露される。
4報道が誤報もしくは虚報であると攻撃される。
5誤報もしくは虚報だけがクローズアップされ、問題の追及ははぐらかされる。
6責任者あるいは関係者の処分がおこなわれる。
7問題の追及の停止、問題そのものの抹消。

ガス・ヴァン・サント監督『プロミスト・ランド』(Promised Land 2012)は、悪辣な組織は電力会社だが、反対派の勢いを削ぐために、「肉を切らせて骨を切る」ような戦術がおこなわれることを、知らせてくれる。今回の映画は電力会社ではなく政権がそうしたのだろうが、メディアが、ブッシュ大統領の軍歴詐称に関する調査をはじめたと知った政権側は、肉を切らせて骨を切るために、捏造した証拠書類もしくは本物の書類を、メディア側に渡す。このとき匿名を条件に情報源になる人物が登場するが、情報源そのものが、内閣情報調査室に雇われた贋の関係者であったり、そうでなくとも謎めいていて疑わしい人物である。メディアが、その偽の情報なり証拠を大々的に報じた時が、メディアを圧殺する最大の好機となる。政権の意をくんだ人間がブログなりツイッターで証拠の疑わしさを訴える。証拠が贋物であることが確定しさえすればいい。さらには些細な誤りだけを指摘するだけでもいい。その小さな誤り一つをもってして、すべてを疑わしい物、すべてが調査するに値しないもと決めつければいい。

そんな猿芝居を、誰が信ずるかと思っても、それ以上、追及がなされない以上、沈黙するしかない。そこが内閣情報調査室のねらい目だろう。そしてこのことは、追及するメディア側も、もっと注意して、誤報を避けろということではすまない。いや、たしかに、報道する側も、しっかりチェックしてくれよ、ミスったら、それこそ敵の思うつぼなのだからという思いは強い。しかし敵は、贋物を本物であると信じさせるのに必死だから、それを贋物と見抜くのは、並大抵のことではない。そのうえ肉を切らせて骨を断つ戦術に出られると防ぎようがなくなる--「肉」の部分は、信憑性の高い情報というか、真相そのものであるから、たちが悪いのだ。肉の部分は、信ずるの値する真実そのものなのだから。

そしてその真実の先にあるのが落とし穴ということになる。ここまでくれば、あとは一石二鳥、一石三鳥であろう。リベラレル系のCBSの報道に圧力をかけ、60ミニッツのキャスター、ダン・ラザーを降板あるいは番組終了に追い込めれば、願ったりかなったりだろう。内閣情報調査室にとっては。

また、このプロセスの中では、まずは本物を本物であるとして示して、その後に、贋物をもぐりこませる戦術であるからには、ばれてもいいというスタンスでくるし、そこに余裕と大胆さが生まれるとなると、これを出し抜くのは至難の業である。

ただ、いえることは一つの間違いで、すべてが間違っているような物言いをするのは、内閣情報調査室の人間であると疑っていいということだ。学問の世界にも、これがある。そもそも学問の世界は、間違いを前提としていて、間違いがあるからこそ、それを検討し、また正すことで、先に進めるのだが、間違い一個ですべて終わりというような断定をくだすバカがいる。おまえのことだぞ。こういう愚かな人間には、学者・研究者の風上にも置けない。内閣情報法調査室にでも行けと言っておくべきだろう。

追記
映画そのものについて。今回はケイト・ブランシェットの熱演が光る。彼女の主演映画のなかでもベストワンともいえる代表作になったのではないか。

ロバート・レッドフォードの老け方がすごいという評判になっているが、私にいわせれば、むしろステイシー・キーチの老い方がすごい。死にかかっている役ではあるのだけれど。

posted by ohashi at 21:07| 映画 | 更新情報をチェックする

Patience

シェイクスピアの『リア王』のキーワードのひとつは、Patience。

I will be the pattern of all patience

You Heavens, give me, that patiences, patience, I need !

Men must endure . Their going hence, even as their coming hither:
Ripeness is al1.
posted by ohashi at 01:05| コメント | 更新情報をチェックする

2016年08月12日

『リア王』

三越劇場は、あまり行くことがないのだが(実は、今回、何年ぶりかという感じなのだが)、行くたびに不思議な感覚にとらわれる。なにか劇場であって、劇場でないような。強いて言えば、例えばディズニーランドのなかにあるアトラクションのひとつとして造られている劇場というか、あるいは、本物というより書き割りの劇場という感じがしてならない。

これは悪口ではないし、また悪口を言うつもりもないのだが、この非現実的な違和感といか浮遊感は、三越劇場がデパートのなかにあるからかとも思ってしまう。デパートという外部から隔離された高度に人工的・装飾的な商業空間、あるいはそれ自体が外部から独立した虚構空間でもあるのだが、そのなかに造型されている劇場なので、虚構のなかの劇場という、変な非現実感にとらわれる。劇場のサイズのせいかもしれない。大きな劇場なのだが、天井が低かったりする。前の方の座席ではなかったのだが、私の座席から、ステージの上のライト類照明設備が全部見えてしまうというのは、小劇場ならまだしも、このサイズに劇場としては珍しい感じもする。大きなミニチュア劇場とでもいえようか。まあ、私の能力では、どんなに言葉を重ねても、浮遊感、違和感は、うまく表現できないのだが。

そして三越劇場では、本格的なシェイクスピア劇は、あまりないというのも、今回の浮遊感に拍車をかけた。テーマ・パークのアトラクションのひとつに、シェイクピアを上演する劇場を再現したものがある、というような乗りというか感覚で舞台に接することになったのだが、演出、演者、あるいは原作のよさ、そうしたさまざまな要因が作用して、ジオラマのミニチュア劇場に入り込んだ感覚も徐々に薄れ、シェイクスピア劇の現前に立ち会っているという感動が生まれた。

だが、たとえば今回の公演で一番力が入っているのは、ブリテン軍とフランス軍の合戦のシーンである――大掛かりで、人数も多く、そして長い。それにしても『リア王』を見に来る観客で、スぺクタクルな戦闘シーンを楽しみにしているような観客はいないだろう。だから、戦闘シーンなどさらっと流してしまえと思っていたのだが、結局、スペクタクルな大立ち回りを見せるのが、三越劇場の演出に求められていることなのだろうと思うしかなかった。その意味で、ふつうのシェイクスピア劇を期待していはいけないのところもあるのだが、しかし、奇跡的というのは、明らかに大げさながら、それでも確かに見えたのだ--まぎれもない、シェイクスピアの『リア王』が。

横内正のリア王は、その立ち居振る舞いといい、風格といい、威厳といい、また老いてなお激しく力強くテンションを高く保っていられる、これこそリア王としかいいようない演技だった。横内正は、まさに、このリア王を演ずるためだけに、年齢を重ねて今にいたったのだと、そんな思いにとらわれた。圧巻のリア王だった。

『リア王』は、昨年か一昨年に文学座のアトリエ公演で江守徹主演の『リア王』を観たのだが、芝居としてのまとまりや迫力は、文学座の公演のほうが優れていたと思うのだが、リア王の江守徹が、ほんとうに老人で、いくら激怒しても悲嘆にくれても狂気と正気の交錯する状態を露呈させても、「おじいちゃん」のふるまいになっていて、リア王本来と想定されるような、強靭な精神力とテンションの高さに到達していないところが残念で、できれば、おじいちゃんになる前の江守徹のリア王を見たかったと思ったのを、いまも鮮明に記憶している。

小松政夫の道化は、リアと同じくらい年老いている(という設定だと思ったが)、まさに、しぶく、枯れた道化でもあるのだが、これこそシェイクスピアが想定していたような道化ではなかったのかという思いを強くした。生まれて初めて、シェイクスピアが想定したであろう道化とシンクロした道化を、小松政夫の道化を通して、垣間見たような気がした。その意味で、この道化は、横内正のリアと並ぶ収穫だった。

リア王の山場というか、またリア王を演ずる者に大きな障害となってたちはだかるのは、最後のシーン、死んだコーディリアを抱きかかえて登場するシーンだろう。ずいぶん前のことになるが世田谷パブリック・シアターで佐藤信演出、石橋蓮司主演の『リア王』をみたときのことを思い出した。いま、ネットに残っている当時の劇評をみてみたら、ひどい劇評しか残っていない。石橋蓮司の台詞が聞こえなかったとかいう評があったが、そんなことはなかった。またステージが階段になっていることに文句をつけているバカがいたり(初めて舞台の階段をみたらしい――蜷川の真似かというような悪口すらも言えないバカなのだが)、ステージ上に映像を出すことにも文句を言ったり(いい悪いは別にして、当時、ロンドンの劇場では、これは日常的なものだった――まだプロジェクション・マッピングはなかった)と、ほんとうにバカ劇評が多くてあきれた。

佐藤信演出の『リア王』のなかで、石橋蓮司扮するリアが、死んだコーディリアを抱きかかえて登場し、階段状の舞台を、とにかく抱きかかえたまま、一段一段登っていくのをみて、ほんとうに驚いた。人間の体というのは、けっこう重い。抱きかかえられる側とうまくタイミングをあわせないと、お姫様抱っこは、ふつうはかなりむつかしい。もちろん力も必要で、抱きかかえて歩くだけでもたいへんなところ、抱きかかえたまま階段を上ることは、ものすごい体力を必要とする。当時、私は、役者というのはすごい、抱きかかえて階段を上ることができるくらい体を鍛えている、あるいは力があるのだと、ほんとにびっくりした。と、次の瞬間、石橋蓮司/リアは、コーディリアを、もう死んでしまったと、階段の上から、下へ放り投げたのだ。あっ、と声を出した観客もいた。私も声がでそうになった。だが、人間を放り出すわけがない。人形だったのだ。石橋蓮司が抱いていたのは、人形だった(人間と同じサイズの)。だから抱きかかえて、階段を上ることができたのだ。しかし、これは舞台を階段にしたことのツケがまわってきたのだと思う。

今回、横内正は、コーディリアを抱いて登場するかと思ったら、別人が抱いていて、そのあとに手ぶらで登場するだけだった。まあ、いくら力強いリアであったとはいえ、大人の若い女性を抱きかかえる体力はなかったかもしれないし、また腰をいためていたか、腰をいためるかもしれないという大事をとって、やめたかもしれないが。無理な要求はすべきではないが、コーディリアを抱いて登場してほしかった。なぜならコーディリア役の棚橋幸代、出演した女性陣(ゴネリル、リーガンをはじめとして脇役の女性たち)すべてのなかで、ほんとに骨と皮だけの、がりがりに痩せているのだから。あれは、抱き上げる横内正に負担がかかりすぎないように、体重を落とした結果でしょう。絶対にそうだと思うのだが、残念ながら、そのかいはなかったようだ。

posted by ohashi at 21:48| 演劇 | 更新情報をチェックする

2016年08月05日

『じゃじゃ馬ならし』

じゃじゃ馬ならしの時代3

カクシンハン公演は、前回の『リチャード三世』『ヘンリー六世三部作』は、シアター風姿花伝という、周りになにもない劇場での公演だったが、今回の公演は、周りに、いろいろなものがありすぎる新宿ゴールデン街劇場。私は新宿ゴールデン街にはほとんどというか、そこの店には一度も行ったことがないのだが、ゴールデン街の入り口でしょ、この劇場は。公演は午後5時からで、7時前には終わるのだが、劇場の周りの景色が一変していた。

ちなみに、今回の『じゃじゃ馬ならし』は昨年公演したものの再演なのだが、昨年の公演をみていない私としては、今回、みてよかった。これを見落としていたままだったら、貴重な演劇体験を得ることのないまま人生を終えるようなことになっていたかもしれない。そんな気持ちにさせられた。

『じゃじゃ馬ならし』の原題はThe Taming of the Shrewで、Shrewというのはこのブログでも書いたようにネズミにしかみえないかわいらしい「モグラ」、それも毒液を分泌する種類のモグラで、「毒モグラ」「毒ねずみ」と呼ばれることもあるもの(その毒は馬をも殺すといわれているもので、見かけとはうらはらにかなり危険な小動物である)。

日本では「じゃじゃ馬」と訳してきたのだが、その訳語はまちがっていない。そもそも人間のことをShrewというのが比喩なので、人間のことを「じゃじゃ馬」と称してもいいわけである。ところが比喩のほうが独り歩きして、ケイトのことを「馬」扱いするようにもなった(それにくらべてモグラ扱いはされることがないのおだが)。

今回のカクシンハン公演では、馬のモチーフがふんだんに使われているのだが、それは原題のShrewからずれているというような野暮なことは言わないことにしよう。日本語で『じゃじゃ馬ならし』と訳されてきた作品において、馬のモチーフを多用することは、正当化されてよいと思うし、そのモチーフの多用は、主題的にみても、演劇的・劇場パーフォーマンス的にみても、効果的であったからだ。

しかも、モグラの比喩ではなくて馬の比喩にのっかりながらも、作品のなかに間違いなく潜在的可能性として存在しているテーマを、みごとにあぶりだしてみせた。長く考え抜いたか、一瞬にしてひらめいたのか、そこは知る由もないが、演出の木村龍之介氏の手腕が、ここではさえた。つまり馴らす者が、馴らされていたというテーマが顕在化したのである。

原題にあるShrewにこだわれば、Shrewを馴らすということについては、誰を指しているのかはっきりしない。日本語で「じゃじゃ馬」というのと、これは女性のことだろう。「ぽっちゃり」というのが女性だけにかかわる形容詞であるのと同じように、「じゃじゃ馬」も基本的には「女性」にかかるものだろう。これに対してShrewというと、男女両方を意味しうる。そう、シェイクスピアの原作では、Shrewはケイトだけではなくペトルーチオも指す。馴らされるのは、ケイトだけではなく、ペトルーチオもそうなのだ。そして、タイトルに潜在的に内在するペトルーチオ馴らしのテーマは、シェイクスピアの原作では明示化されないように思うのだが(フレッチャーのThe Tamer Tamedを経て)、ショーの『ピグマリオン』あるいはその後の『マイ・フェア・レディ』を待って、馴らすものが馴らされるテーマが明確化した。そしてそれと同じ帰結に、今回のカクシンハン公演が到達していた。それも異なる効果をもってして。

まさにカクシンハン公演が、作品の潜在的可能性をもののみごとに開花させたのである。

付記
ポケット版『じゃじゃ馬ならし』と銘打っている今回の公演は、5、6人だけで、作品をすべて演じきる試みとしてある。今年、そのようなポケット版を、カクシンハン以外にもふたつみた。ひとつはイギリスの劇団がおこなった『テンペスト』の上演。これは演出上の工夫がもっとあってもよかったのでと思った。

いまひとつは野村萬斎演出・主演の『マクベス』で、これも魔女役の三名の男性、野村萬斎のマクベス、鈴木砂羽のマクベス夫人と5人で上演した。演出と翻案がみごとで、主題的にも美的にも統一がとれて、一個の芸術作品として結晶化していた。ただし強いて言うなら、アレンジがきつくて、さらには有名な作品なので、省略しすぎ、あるいはアレンジによって別物に変貌したという印象を拭い去れなかったことも事実。

今回のカクシンハン版は、大きく省略しているはずなのだが、省略の大ナタのあとは、まったく感じ取られず、むしろ、省略しなくて、最後まで上演しきったという感じがした(実際にはそうでないとしても)。その意味で、ポケット版で物足りないということはまったくなかった。今後も、カクシンハン公演を欠かさず見に行きたいと思わずにはいられない公演だった。
posted by ohashi at 14:10| 演劇 | 更新情報をチェックする

2016年08月04日

『マイ・フェア・レディ』

じゃじゃ馬ならしの時代2

学生との卒論の相談の際に、ショーの『ピグマリオン』と『マイ・フェア・レディ』で卒論を書きたいということだったので、そういえば、いま池袋の東京芸術劇場のプレイハウス(中劇場)で、ミュージカルの『マイ・フェア・レディ』を上演中だったが、君は見に行くのかと尋ねたら、それは知らなかったという。まあ、せっかくの機会だし、卒論も書こうというのだったら、見ておいて損はない、もっともチケットはもうないかもしれないから、見ようと思っても見れないか……と、話しながら、すっかり忘れていたことを思い出した。私自身、チケットをもっていた。ひょっとして、もう上演が終わったのかとあせって、後で確かめたら、8月4日のチケットだった。助かったと思いつつ、あやうく忘れかけていた(というか9月だと思っていたのだが)ので、その学生に感謝したい気分だった。ちなみに、彼は『マイ・フェア・レディ』を見ることができたのだろうか。

今回は、イライザ役が霧矢大夢と真飛 聖のダブル・キャストなのだが、どちらが人気があるのだろうか、よく知らないのだが、また二つの版を見比べることができれば、一番いいのだが、お金も時間もない私にとって、それは無理なので、選ぶなら、真飛聖のイライザしかないないということになった。

私が東京ではなく宝塚市の宝塚劇場にはじめて行ったとき、そこで見たのは、ベルばらのスピンオフ作品だったが、それはまた真飛聖の引退記念公演でもあった。そこではじめて彼女のことを知ったのだが、引退後の彼女には、テレビ・ドラマ『相棒』で成宮君の恋人となった姿で再会とすることになった。人は再会すると、記憶に定着するだけでなく、親しみも感じてしまう。そのまま、熱心ではないかもしれないが、彼女のファンとなった。べつに追いかけているわけでないが、映画やドラマで見かけるという偶然も増えた。今回のWキャストでは、ある意味、迷わず、彼女のイライザを選択した。

舞台は、演者たちが、みんな芸達者でもあって、安心してみることができ、この古典的ミュージカルを大いに楽しんだ。強いて不満を言えば、寺脇康文のヒギンズ教授。大学の教授なのに、どうしてダンディなギャングのような踊りをするのか、理解に苦しむ振り付けだった(本人は、ノリノリでやっているようなのだが、見ているほうは、しらけきった。

と同時に、舞台をみながら、私は考え込んだ。舞台や演出のせいではない。そうか『マイ・フェア・レディ』という作品、いや、そのもとになったバーナード・ショーの『ピグマリオン』、これはまさに、誰かが言っていたように、シェイクスピアの『じゃじゃ馬ならし』の続編ではないか。誰だったのか、思い出した。卒論で『ピグマリオン』/『マイフェアレディ』について書きたいと言っていた、あの四年生の彼だった。

あのときは『ピグマリオン』/『マイ・フェア・レディ』を『じゃじゃ馬ならし』の続編とみるのは、無理があるのではないかと思ったが、どうして、こうしてみると、まぎれもなく、そしてりっぱな、深く考え抜かれた、続編ではないかと思えてしかたなかった。ミュージルの舞台をみながら、そのことで頭がいっぱいになっていた――とはいえ真飛聖からは眼を話さなかったが。

シェイクスピアの『じゃじゃ馬ならし』には、他の劇作家が書いた続編がある。ジョン・フレッチャーの喜劇『じゃじゃ馬ならしがならされて』(The Tamer Tamed)がそれで、ペトルーチオと結婚したケイトは、自分を抑え犠牲にして受け入れた無理な結婚のために早死にしてしまう。そこで後妻を迎えることになったペトルーチオだが、今回は、ケイトのときのようにうまくはいかない。妻と、元妻の妹ビアンカとが結託して反旗を翻しため、ひどいめにあうペトルーチオは、最終的に新妻とビアンカによって馴らされてしまうという結末になる。この作品にはりっぱな日本語訳もある。またGary TaylorとDaileaderの子弟コンビによる注釈本もあるのだが、欠点がひとつだけある。面白くないのだ。『じゃじゃ馬ならし』はイデオロギー的に問題のある作品だが、面白いという長所がある。いっぽうこちらはシェイクスピア作品のイデオロギー性を修復する試みなのだが、面白くないという欠点をさらけ出している。そのため続編としては、気持ちはわかるが、当時の常套的な喜劇の域を出ていないといううらみがある。実に残念だ。

そうなると『じゃじゃ馬ならし』の本格的な続編は『ピグマリオン』/『マイ・フェア・レディ』というとになる。実際、後者は前者の続編、すぐれた後継者になるにふさわしいスケールと深みに到達しているのではないだろうか。

実際、庶民の娘であるイライザに正しい発音の英語を教え込んで貴婦人に思わせることに成功したヒギンズ教授は、まさに野生動物を飼いならすような調教に成功したともいえる。それは暴れ女のケイトを貞淑かつ従順な妻に仕立て上げた『じゃじゃ馬ならし』のペトルーチオの成功と軌を一にしているともいえる。

『じゃじゃ馬ならし』の場合、暴れ女から従順な妻への変貌は、たんなる性格の変化ではない。それは従順と従属によって所属階級が、社会的ステータスの変化をともなうものだった(『じゃじゃ馬』では鋳掛屋のスライが領主に祭り上げられることに象徴的示されている)。

『マイ・フェア・レディ』の場合、きれいな英語が話せることで、庶民の女を貴婦人に化けさせるというゲームは、その女性に対して、みせかけの階級上昇とは別に、確実に精神的な変化、それも精神向上をもたらすことになった。彼女は、それによって、もはや、もとの階級や生活に戻ることができなくなる。一度、調教された動物は、もはや、野生に戻ることができなくなる。それと同じことで、イライザは、庶民の女でもなければ、貴婦人でもない、まさにホームレス状態になる。

またさらにいえば、精神的な変容を遂げた女性に対して、男性は、いつまでも、野生動物に対するように扱うことはできなくなる。男性もまた変容を迫られる。相手は動物ではなく人間の女性である。一段階上の存在となった彼女を動物扱いし続けることは道徳的にも問題がある。男もまた変わらねばならない。それがまさに、男性もまたならされるということなのだ。

posted by ohashi at 23:06| 演劇 | 更新情報をチェックする

北朝鮮のミサイル

8月3日に北朝鮮が弾道ミサイルを日本の排他的経済水域に打ち込んだとのことで、日本では非難の声があがっているが、もちろん、その暴挙は、非難に値するが、同時に、それは安倍改造内閣発足に対する祝砲であろう。決して威嚇射撃ではない。

私は北朝鮮であれ日本であれ中国であれ、軍国主義者は許しがたい存在だと思っているが、彼らの敵は平和主義者であって、敵国ではない。どこの国であれ、隣国と友好的関係が恒久的につづくとなれば、軍隊は用済みとなる。あるいはその規模は最小限に縮小される。敵対関係、緊張関係こそが、軍隊を育むことになる。そうなれば、べつに裏で手を握っていなくても、べつにしめしあわなくても、軍事的威嚇をする隣国は、本国の軍隊を維持する格好の口実となる。軍事的脅威をつくりつづけることが、自国の安全を保障するのではなく、自国の軍隊の存在を正当化することになり、湯水のように軍事費を使う口実となるということだ。

安倍政権による改造内閣の右翼化をけん制するために北朝鮮がミサイルを日本海に発射したというのは真実を限りなくねじまげるものだろう。北朝鮮のミサイルを歓迎しているのは日本の右翼政権である。もう彼らはミサイルを発射してくれたことに大喜びしているだろう。軍事的緊張が高まれば、軍隊の必要性あるいは強化が叫ばれる。さらには、それを口実に改憲も思いのままとなろう。また北朝鮮にとっても、日本の軍国化の危険をあおることで、国民人口や国力に比して不釣り合いな軍隊を維持するための、よい口実ができる。互いの国の軍国主義者は、仲良く握手していては、ともだおれである。けんか腰で、威嚇しあうことによって、互いの存在基盤が強化される。

北朝鮮のミサイルは、日本の政府に対して、これから、たがいに永続的な敵対関係をつづけ、恒久的な軍隊の維持を実現していくための、よい口実となることを、べつにしめしあわさなくても、確認するものだった。それは日本の右翼政権への祝砲以外のなにものでもないだろう。

映画『帰ってきたヒトラー』では、危機的な状況こそが、ファシズムを拡大する好機だとヒトラーも述べていた。
posted by ohashi at 17:16| コメント | 更新情報をチェックする

2016年08月02日

じゃじゃ馬ならしの時代1

シェイクスピアの喜劇(『十二夜』まで)に関する講義を駒場でしたが、最終課題となるレポートは、初期の喜劇と後期の喜劇からひとつずつを選んで論じなさいというものだった。どこまでが初期・前期の喜劇で、どこからが後期の喜劇なのか、明確に決めることはできないのだが、便宜的に授業を前半と後半にわけ、『間違いの喜劇』『ヴェローナの二紳士』『恋の骨折り損』『じゃじゃ馬ならし』『夏の夜の夢』が前半、残り『ヴェニスの商人』『空騒ぎ』『ウィンザーの陽気な女房たち』『空騒ぎ』『お気に召すまま』『十二夜』を後半として、前半5作品のなかからひとつ、後半5作品のなかからひとつと、二作品のレポートを求めた。

で、ふたをあけたら、『じゃじゃ馬ならし』と『ヴェニスの商人』のふたつを選んだ学生が圧倒的に多かった。さすがにこれには頭をかかえた。

この二作品、シェイクスピア作品のなかでも、一番か二番めに、やばい(悪い意味で)作品じゃないか。『じゃじゃ馬ならし』は女性差別、『ヴェニスの商人』はユダヤ人差別、どちらもあってはならない差別だが、同時に、いまでも続く差別であって、この差別に対して、シェイクスピアはどうみても積極的に加担しているかに思われるからだ。たとえ他のシェイクスピア作品はそうでないとしても。

実際、この二作品を読んだら、なぜ、こんなクソ野郎の没後400年を記念しなければいけないのか、疑問に思う一般読者がいてもおかしくない。実際のところ、20世紀の終わり頃には、この二作品は、そんなに上演されることはなかった。こういうやばい差別を扱うことのない、それでいて、もっと面白いシェイクスピア作品は、喜劇にかぎっても、8編はある。

レポートを読むと、この2作品を選んだ理由(ただし理由を書くようには要求していない)として、有名だから、上演をみたことがあるから、教科書にあったからというのがある。嘘だろう。この二作品は、プロの劇団のお気に入りのチョイスでは絶対にないはずだ。年に1回か2回あればいいくらいで、上演されていない年もあっておかしくない。

教科書にあったとか、高校で見たという記述があったが、ほんとうなのか。ほんとうだとしたら、現在の高校教育はどうなっているのだといってもいい。この二作品、どのように解釈するにせよ、闇に葬っても人類の未来になんら影響を及ぼすことはないと思っている。よりにもよって、シェイクスピアのこの二作品がなじみ深い作品だとは。

実際、シェイクスピアていうのは、こんなメール・ショーヴィニスト・ピッグなんですよと言って説明するのも、昔はみんなこうだったから許してやってくれというのも気分はよくないし、ましてや、一見メール・ショーヴィニスト・ピッグで、アンチ・セミティストだけれども、こんなふうに見ることもできると弁護する、正当化するのも、なにか間違ったことをしているのではという思いにとらわれる。

だが、一番、いやなことがある。この二作品、ある意味、とんがった二種類の人間、それも白人男性中心主義社会にとって、目の上のたん瘤のような、あるいはひょとして秩序攪乱するような悪しき存在である女性とユダヤ人(もちろんすべての女性やユダヤ人ではない)、それも男のことをなんとも思っていないような、男勝りにのバカ女と、白人のキリスト教徒の弱みにつけこみ足元をみるような、どこか白人キリスト教を見下しているような生意気なユダヤ人、そう生意気な女と生意気なユダヤ人に、焼きを入れて、かたほうを、おとなしく従順な女、かたほうを、従順なユダヤ人(正確には敬虔なキリスト教徒に改宗させる)にする話である。生意気な奴を懲らしめるという点で、二つの作品は共通点がある――そしてこの共通点に関してはいえば、あまり、そんな芝居はみたくない。

問題は、そう、いやなことは、この二つの作品を、レポートに書く場合、『ヴェニスの商人』のユダヤ人シャイロックは、かわいそうだという意見が多くを占めるのに対し、『じゃじゃ馬ならし』で従順な女にさせられたケイトは、それで救われたのだという意見がけっこう多かったことだ。ユダヤ人シャイロックは、最後に、強制的にキリスト教徒に改宗させられる。これはかわいそうだ。あわれただ。シャイロックの悲劇である。ユダヤ人シャイロックは、キリスト教に改宗したので、これで救われたのだと考える人間は、シェイクスピアの時代のバカ・キリスト教徒か、現代アメリカのキリスト教徒原理主義者くらいなものだろう。シャイロックをキリスト教徒にしたことで、シャイロックを救済したと考えるような人物たちや当時の思想は、おかしいと正しく指摘している学生が、なぜ、従順な女になったケイトが、これで救われたのだと、男女ともに、無批判に納得するのだろうか。ユダヤ人差別には敏感なのに、女性差別に対しては、差別される側ではなく、差別する側に立ってしまうのはなぜか。

同種の作品に対して、こういう反応の差が出ることが、もっとも嘆かわしいし、なさけない。

だが、いままさに、世の中、ただ従順な女ではなく、男以上に、男性中心主義的な女性が、まるで女性の味方、女性の代表的ヒロインのようにもてはやされているのではないか。そういう嘆かわしい風潮のなかにあって、こういうレポートが出てくるのも当然なのかもしれない。それを思うと、ますます腹が立ってくる。

posted by ohashi at 17:50| エッセイ | 更新情報をチェックする

2016年08月01日

プロパガンダCM

日本が平和ボケで戦争を甘く見ているというのは、今現在、たれ流されている、自衛官募集のための不快なCMをみればわかるということになるが、募集CMよりも、もっと嘆かわしいのは、「サマージャンボ宝くじ」のCMに登場するジャンボリオンである。これは、人間が入って操縦する巨大ロボット兵器のことだが、地球の最終兵器ともいえるジャンボリオンの本体、あるいは別売りエンジンが7億円というのは、どうみたって安すぎる。

オスプレイを、日本が買うとすれば、大幅に値引きして買うとしても、一機およそ100億円らしい。あんまり根拠のない数字だが、このくらいはしておかしくない。そして、どうみてもオスプレイより強力な兵器であるジャンボリオンのエンジン価格が7億円?

平和ボケといわれてもしかたがない。逆にいえば、軍事費がいかに高いか。もし将来、オスプレイ1機購入するのを控えれば、浮いたお金で、ほんとうに多くの国民を助けることになるのだが、そうした実態を隠すために、兵器の値段が安いかのような幻想をふりまくとは、どういう根性なのだ。軍隊は高くつかない。軍隊は国防のためのもので、軍隊に利権を求める人などいませんという、ばかきれいごとを通用させよとしているのだろうか、このCMは。こんなCMは、いくらお金をつまれても作るべきではない。ましてやボランティアで造っているのなら、度し難いとしかいいようがない。

posted by ohashi at 11:18| コメント | 更新情報をチェックする