2017年12月06日

『ザ・サークル』

最後に「ビルへ」For Billと献辞がでるので、ビルとは誰かといぶかったが、ビル・パクストンのことだった。映画のなかでビル・パクストンは、エミリー・ワトソンの父親役だと、あとで知った。映画を観ているときは全然気づかなかった。ビル・パクストンだとすれば、かなり痩せていて容貌も変わっていた。だから気づかなかったのだが、そうなると病気ではないかと気になって調べたら、今年の2月に亡くなっていた。病気どころか逝去していた。冥福を祈るしかない。映画がビルに捧げられているのも理解できた。


『美女と野獣』の大ヒットの余勢で同じエマ・ワトソン主演映画もヒットをと願ったようだが、その願いはかなわなかったようだ。宣伝が悪いのかもしれないが、そんなにみてみたい映画ではない。コンピュータあるいはAIで支配された未来社会と、その体制に抵抗する、あるいはそこから逃亡する物語というのは、深刻な問題提起かもしえないが、同時に、ありふれていて、エマワトソンの魅力をもってしても、あるいはトム・ハンクスの貫禄をもってしも、映画を魅力的にはできなかったようだ。


しかし実際に観てみると、映画的にどうのという前に、その問題提起には慄然とするものがある。コンピュータによる監視体制について反対する意見には、悪いことをしないのなら受け入れていいのではという考え方がある。まあすべてを公開し闇の部分をつくらないことが正しい民主主義の実現に寄与するというか、それこそが民主主義であるという意見もある。これは正しい意見だと思う。問題は、まさに悪人がそれを利用するという点で問題がある。本来なら、悪人を駆逐するための制度が悪人にまんまと利用されてしまう。悪人と言ったが、ネット上にいるというよりも、ネット社会があぶりだした人間のクズあるいはクズの人間である。


要は、古くから言われていることだが、監視社会において、誰が監視人を監視するかである。監視人が不正に他人の情報を利用することを誰が監視するのかということでもあるが、同時に、それだけではない。監視社会は監視人を不可視にしてしまう。監視社会は、コンピュータが無作為に、あるがままの監視を行うだけであり、あとで情報を人間が利用すると考えがちだ。つまり情報は客観的であり無色透明だと思いがちである。しかし加工したり捏造したりしなくとも、生の情報自体が、実は加工されている、つまり志向性をもっていて、つまるところ無色透明で無垢の情報などというものは存在しない。いいかえると生の情報と思われていても監視映像であれば、監視者が必ずいて、そこには監視者の意志が貫かれているということだ。偏向しない情報は存在しない。情報となる時点で、それは偏向しているのである。


だから監視社会で一番怖いのは、無垢なありのままの情報があるという幻想をはぐくむことである。さらにいえば無垢の顔をした情報が、フェイク情報であるという危険性だ。


これは監視者の存在そのものを無色透明にすることでもある。監視社会は、この映画にあるように魔女狩り体制に容易に移行する。魔女を狩る側は、みずからの正義を信じている。まあみずからの正当性を疑うこともない。魔女狩りをする側が圧倒的に優位にたてる。監視社会で勝ち組になるには、監視する側に移行するに限る。そうすればみずからを正義で透明な存在として消し去れることができる。監視社会は、こうして不可視の監視者を輩出する。監視される側を徹底的に暴き、白日のもとにさらしながら、みずからは不可視の存在と化して安全圏にいる。そう、情報公開社会は、見えない監視者を生み出す。闇を駆逐するはずが、透明な闇を量産するのである。


結局、監視者を誰が監視するかということにつきる。不可視の監視者を暴くこと、あるいは無色透明に思われている情報の志向性と偏向性を暴くことが、監視されえる側の対抗措置となるだろう。こうした映画も、この方向を示唆しているように思われる。


ただし、映画の物語は、なんとも歯切れが悪い。エマ・ワトソンは、友人のコネもあり世界的なAI企業に就職するが、そこでCEOのトム・ハンクスの考え方に染まり、企業の若い代弁者となる。そしてみずから24時間、生活をネット上で中継させるのだが、事件があり、それをきっかけに企業の監視戦略に疑問を抱き始める。これは、よくある展開である。最初は、みずから所属する社会とか集団について全く疑いをもたないどころか、むしろ擁護あるいは正当化してたのが、なんらかの事件をきっかけに疑念が首をもたげはじめ抵抗と逃亡がはじまる。これは『ブレードランナー2』においても踏襲されている古典的設定であるが、エマ・ワトソン、理知的な感じがしすぎて、彼女は最初から企業のありかたに疑問をいだいているようにみえる。それがいつしか企業の代弁者にかわるのは、なにか違和感をおぼえる。事件をきっかけに彼女が懐疑的になり抵抗者になるのはいいとしても、彼女は最初にもどったのか、大いなる覚醒なのか、やや曖昧である。


そして結末、抵抗が成功したように思えるのだが、彼女は、こうした監視社会をどう思っているのか曖昧である。彼女の抵抗と、その成功にもかかわらず、監視体制は強化されていくようにも思えるのだが、またか院試体制がいくら強化されても、彼女は平然としていて、いつでも、監視体制の裏をかき、抵抗すると自信に満ちているようにも思われる。観客の判断の判断に任せるということかもしれないが、それは映画の作り手が積極的なヴィジョンを提起できないことをにおわせる。そこが、弱い結末とうつるようにも思われる。もやもやとしたものを残しつつ映画が終わる。すっきりしないところが、ヒットにつながらなかったということか。


ただ、しかし、ヒットしようがしまいが、この映画は考えさせられることが多い。情報社会について、さまざまに刺激を与えてくれ、けっこう緊張しながら観たことは、ここに報告しておきたい。

posted by ohashi at 20:19| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年12月03日

『クラウド・ナイン』

池袋の東京芸術劇場シアター・イーストで『クラウド9』をみる。小さな劇場を、ある意味ぜいたくに使い、張り出し舞台までもうけている。だがとくに張り出し舞台にしなくてもいいようにも思ったし、それがなければ観客席の数を増やせたのにと思ったのだが。べつに欠点を述べているのではなく、むしろ一人でも多くの人に見てもらいたい、よい舞台だからである。


これだけのメンバーをそろえた上演なので、よほどのことがないかぎり、へんな舞台になろうはずもないのだが、めんどうな原作を、優れた俳優たちが、緩急をつけて最後まで飽きさせない舞台をつくっていたし、なにより、ひとりひとりの演劇の技量に圧倒された。やりがいのある芝居だと思うし、またそのぶん見がいもあろうというものだ。内容はLGBT演劇である。強いて言うと、前半がクィアというにふさわしく、後半がLGBTというにふさわしいのではと、今回はじめて理解した。


奇しくも日本初演時、もう40年くらい前だが、私は見ている。今回、チケットを購入していたのだが、招待されたので、購入していたチケットは、人にゆずり、招待日に観劇することになった。誰が招待してくれたのか、翻訳者の松岡和子氏かと推測していたが、当時、劇場のロビーでお会いすることになり、招待していただたいことがわかった。ほんとうに感謝したい。招待されたことでだけではなく、この作品で招待されたことに対して。


おそらく、ほぼまちがいなく初演時にも松岡さんから『クラウド・ナイン』に招待されていたような気がする。今回観てみると、ここに書けないような卑猥なギャグをいまでも覚えていたことに驚いた。しかし、それよりも驚くべきは、松岡さんが、いまから40年前に、その若さでチャーチルのこの作品を翻訳され、上演に立ち会われたことだろう。この芝居は、はじめて見て、その斬新な構成に驚いたし、そこに気を取られて、これがれっきとしたレズビアン・ゲイ演劇であることに注意がいかなかったこともある。ただ、もしそうなら私は40年間、あまりにうっかり者、上の空人間だったことになるが、今回、あらためてみなおしてみて、最後のベティの覚醒の部分の印象が強くて、ゲ・レズビアン性を後景化したことがなんとなくわかった。


劇は最初は19世紀ヴィクトリア朝、アフリカの植民地を管理支配する英国人一家の物語であり、後半が20世紀の現在、時間にして100年くらい後の世界なのに、英国人一家にとっては、25年後でしかない。つまり100年前に子供であった人物が、現代の英国では20代の若者にしかすぎないという設定になっている。おまけに100年前の人物と現代の人物は演者が変わることになっている。今回、前半では独裁的な家長であった英国人管理官を演じた高嶋政宏は、後半では現代のロンドンのゲイの若者になっているというように。今回では前半でアフリカの黒人召使を演じた正名僕蔵が後半では4歳くらいの女の子を演じている(最初、召使を誰が演じているか肌の色もあって、よくわからないまま演ずる俳優がうますぎると思ったのだが、後半になって正名僕蔵とわかって、自分なりに納得した)。そう、ジェンダーも、年齢も、役柄も、前半と後半でかわるのである。前半でも三浦貴大が女性の役を演じていて、すでにジェンダーの転換も一部ある。


こうした設定というか仕掛けは、聞いただけでも、どんな舞台になるのだろうかとわくわくする。観ている側だけでない、演ずる側、演出する側も、期待を膨らませることだろう。しかも、前半と後半での人物の変換は、複数の組み合わせを指定してあって、舞台によって組合わせが違う。演出家冥利につきるというか、あるいは演出家泣かせなのかもしれないが。


とにかくこの変化がなにより観ていて楽しい。独裁的家長を演じた高嶋政宏がゲイの青年に、黒人召使を演じた正名僕蔵が4歳の女の子を演じるのだが、それ以外に、ゲイの性向をもつ男の子を演ずる平岩紙が、現代のロンドンでは育児につかれたレズビアンのシングルマザーを演ずる。ベティを演じた三浦貴大は、ハードゲイの青年を演ずるし、100年前ベティの母親だった宍戸美和公は幼い男の子を演ずる。と、まあ、変化が極端すぎて、ついていけないところもあるが、そこがまた魅力でもあろう。幸い、今回の俳優たちは、みんな芸達者であることもあって、魅力を引き出すことに成功していた。。


4私が観た初演では、英国の独裁的管理官を演じた上杉祥三は、後半では4歳の女の子を演じていた。さすがにこれには違和感がMAXで、ちょっとやりすぎではないかと思い、原作を読んだら、この組み合わせ方もありであったので、つっこめなくなった。まあヴィクトリア朝の独裁的家長は、いうなればコントロールできない自己中心的なわがまま4歳女児と同じであるというようなメッセージかと自分なりに勝手に解釈した。と同時に、後半で印象的だったのは、最後のほうに公園のベンチで、ベティがみずからの自立と欲望の目覚めを語る長い独白であり、初演時に私は、このベティを演じている女優の演技に驚嘆した。名前を知らない女優だったが、こんなすごい女優もいるものだと感嘆したが、その女優は、当時、まだそれほど名前を知られていなかった高畑淳子であった。


まあ、ベティ/高畑淳子の感動的な演技もあって、記憶から、この作品がLGBT演劇というかクィア演劇であることがすっかり抜け落ちてしまったのだろう。


ただ、今回観てみると、ベティは、後半の終わり近くになって、にわかに、予想外に、前景化され、ベティ中心の舞台になることに気付いた。予想外というのは、100年前のベティを考えると、彼女が年齢的にも心情的にも最も奥手である。彼女の娘や息子たちは、すでに現代人でありヴィクトリア朝の人間ではなくなっている。ところが彼女だけはヴィクトリア朝の人間にみえるのだが、後半の後半、彼女も夫と死別し、家を出て仕事をするようになって、女性の自立と欲望へ目覚めていくのだが、その奥手ゆえに、すれっからしになった子供たちの世代と異なり、彼女は新鮮な感動に身を任せることができ、それによって観ている側、20世紀の観客も、あらためて初心に帰り、自立と欲望の解放の喜びを思い起こすということになるのだろう。また、そういえば、後半は幼い子供二人がうるさすぎるというか、その存在をずっと主張する。子供の感性の奥手の熟年女性の感性とが舞台の情動的効果を決定するようなところがある。


日本初演時には、この作品のなかで大人三人が降霊会めいた儀式をするところがあるが、あれがキャリル・チャーチルの新作(当時)の不思議な世界に通ずるところがあると誰かと話あった気がするが。残念ながら、その後、キャリル・チャーチルの新作を追うことがなくなったので、いまどうなっているかわからない。今回の上演を機に、キャリル・チャーチルの戯曲を読みなおし、未読のものも読んでみようかと思う(ただし私にはむつかしてくよくわからない戯曲もあるので、それは昔と同様にスルーすることにして)。


いや、この終わり方ではなく別の終わり方もある--日本初演時には、松岡さんから招待券をもれるほどの、私も新進気鋭のシェイクスピア研究者・英国演劇研究者だったが、その後、道を誤ったわけではないが、演劇研究から離れて、劇場にも足を運ばなくなった時期が長かった(時間がなかったからである)。ある時、自分自身の映画と演劇の知識が、完全に過去のものとなって現在に追いついていないことを発見した私は映画館と劇場に戻ることになった。そのため、こうして何十年ぶりかで松岡さんから招待券をもらうことになった。サイクルが終わったのだろか。演劇でも小説でも、ふたたび同じことを繰り返して、物語は終わらせることがよくある。『クラウド・ナイン』の招待券をもらった私が、ふたたび同じ芝居の招待券をもらう。これによって人生は終わりに差し掛かったということだろうか。それはともかく年月のうつりかわりをしみじみと感ずる年寄りになったことは事実だろう。。

posted by ohashi at 23:44| 演劇 | 更新情報をチェックする

2017年12月02日

「忖度」まんじゅう食べた

以下日刊スポーツの記事から、その一部を引用


関西限定「忖度まんじゅう」10月まで8万箱爆売れ

                 20171202 0927分 日刊スポーツ

 「現代用語の基礎知識選 2017ユーキャン新語・流行語大賞」の発表が1日、都内で行われ、今年の政界を混乱させる象徴となった「忖度(そんたく)」が、年間大賞に選ばれた。……受賞者に選ばれたのは、話題に乗って「忖度まんじゅう」を企画・販売した、会社社長。複雑な思いを吐露した。「忖度」は、読者による投票でも1位だった。

 関西限定販売のお土産「忖度まんじゅう」(9個入り、734円=税込み)は6月中旬に発売後、爆発的にヒットしている。ヘソプロダクションによると、発売約1カ月で約1万箱、10月までに約8万箱を出荷した。新規取り扱いの申し込みも殺到しているが、同社は「人気商品により、現在取り扱い店舗を限定させていただいております。お客様にはご迷惑をお掛けしておりますが、なにとぞ、忖度の程よろしくお願い申し上げます」とホームページなどで告知している。


流行語に「忖度」が選ばれたのは、素晴らしい。確かにこの一年を代表する流行語だったし、へんな固有名詞や人名なんかよりもはるかに「流行語」の風格がある。りっぱな日本語ながら、急にこの一年使われはじめ、さらにパロディにされるまでになったのだから。


また受賞者に、それこそ安倍首相夫妻から、文科省、財務省、税務賞のトップを招待するとか直接の関係者に受賞者への招待状を出したらどうかと思うのだが。ただ、この語が流行語に選ばれた場合、誰が最初に使い始めたか特定できないし、流行語にした人間の特定もできないし、関係者だったら安倍首相以下たくさんいるのだが、誰も招待しても来ないだろうから、流行語大賞にならないのではと言われていた。


そのため「忖度」まんじゅうを企画販売した会社の社長を受賞者に呼ぶというのはアイデアの勝利。安倍政権下でのこの汚物の歴史を後世の記録する重要な言葉がここで着目されたのは、よかった。


ちなみに関西限定のようなのだが、私は食べた。関西に行ったからではない。関西のおみやげとして英語英米文学科研究室にもってきてくれた人がいたのだ。まんじゅうとしてはふつうだが、「忖度」の文字が上品な字体でまんじゅうの表皮に印字されているたたずまいは、安倍政権下における「忖度」をめぐる薄汚い歴史を感じさせない上品さをただよわせている。「忖度」というのは、なにか肯定的な価値をもっているような言葉に思えてくるから不思議である。


なお英語英米文学研究室は、一時期、「忖度」饅頭がおいてありましたが、忖度とはまったく無縁です。どうか安心してください。

posted by ohashi at 12:49| コメント | 更新情報をチェックする