2024年11月07日

『族長の秋』

ガルシア=マルケス『族長の秋』が文庫化されると、KAI-YOUのお**記事が伝えている。

ただ、それにしてもKAI-YOUの記事、誰にでも「さん」付けしていているのはいかがなものか。偉い人は呼び捨てが原則。偉い人に「さん」をつけると、逆にバカにしているように思われるのですよ、KAI-YOUさん。【織田信長のことを、織田信長さんとは言わない(近所のおじさんじゃないのだから)。紫式部さんとも言わない(近所のおばさんじゃないのだから)。)

ガルシア=マルケス『族長の秋』が文庫化 大ヒット『百年の孤独』に続く長編第2作
KAI-YOU によるストーリー 2024年11月6日

新潮文庫が、コロンビアの小説家であるガブリエル・ガルシア=マルケスさんの小説『族長の秋』を、2025年2月28日(金)に刊行する。訳は翻訳家の鼓直さん。

この小説は、2024年6月に刊行され36万部を突破した『百年の孤独』文庫版に続くガブリエル・ガルシア=マルケスさんの長編第2作。

長らくハードカバーしか存在しなかった前作の文庫化は大きな話題に。発売前から重版が決定し、海外文学として異例の売行きが続くだけに、第2作も大きな反響を集めそうだ。
【『百年の孤独』についての紹介。略する】
悪行を繰り返す独裁者を「自身の写し鏡として描いた」【小見出し】
新たに文庫化される『族長の秋』は、1967年の『百年の孤独』刊行から8年後の1975年に発表された作品。

幼年時代に、独裁者の奇妙な評伝を憑りつかれたように貪り読んだというガブリエル・ガルシア=マルケスさんが、悪行を繰り返す独裁者の素顔を複数人物の語りによって描く。

ガブリエル・ガルシア=マルケスさんによれば、『百年の孤独』の冒頭から登場する主要人物である「アウレリャノ・ブエンディア大佐のその後を描いた」とも、「自ら自身の写し鏡として描いた」とも語られている。

筒井康隆【原文のママ。「さん」付けしていない】も「おれのお気に入り」と強く推薦【小見出しだからさん付けしないというわけのわからないルール】
日本では1983年に、鼓直さんの翻訳により集英社から刊行されていた『族長の秋』。
【中略】
また、新潮文庫での『百年の孤独』の文庫化の際には、書き下ろされた解説で小説家・筒井康隆さんが『族長の秋』について言及。

「カストロと親交のあったマルケスならでは」と評価した上で、「実はおれのお気に入りは、マルケスが本書の八年後に書いた『族長の秋』なのである。文学的には本書の方が芸術性は高いのかも知れないが、その破茶滅茶度においてはこちらの方が上回っている」と、強く推薦している。
(以下引用)
「百年の孤独」を読まれたかたは引き続きこの「族長の秋」もお読みいただきたいものである。いや。読むべきである。読まねばならぬ。読みなさい。読め。筒井康隆 - 新潮文庫『百年の孤独』解説より
(以上引用)

なお、海外文学を巡っては、2024年8月に作家のジェイムズ・ジョイスさんによる『フィネガンズ・ウェイク』の邦訳版が刊行。難解さと奇天烈さで“文学の極北”と評される作品が待望の復刊を果たすなど、世界文学は大きな盛り上がりを見せている。

私は集英社版の『族長の秋』を読んだことがある。それこそ『百年の孤独』の翻訳を人物の相関関係図とか系図を本に書き込みながら読んだ興奮冷めやらぬなか、このラテンアメリカ固有の「独裁者物語」を読んだ。

何が起こっているのか曖昧模糊として理解不能なところも多かったのだが、予備知識なしの状態で力まかせに最後まで読んだ。読了した達成感はあった。だが、その満足感はすぐに後悔にかわった。

『族長の秋』は、ガルシア=マルケスの他の小説(中編も含む)とはまったく違っている。『百年の孤独』とも違う。『百年の孤独』を念頭に置きながら、この小説を読むと困惑するだけである。つまり『族長の秋』は、ガルシア=マルケス版『フィネガンズ・ウェイク』であって、読んでもわからない。そもそも読み通せない。

読めない小説である。その読めない小説を読んでしまった私はいったいどういう愚か者なのだ。

筒井康隆のような手練れの読み手が、その独特の感性をもってこの作品に接すれば、面白く読めると思うのだが、それは例外的な事態で、ほとんどの読者にとっては、ただただ面食らうか、時には憤慨するしかない作品である。少数の賢明な読者、あるいは理解力のある読者、そしてどんな小説でも読んできた読者なら、ある程度読んだら、その先を読むのをやめるはずである。読み進めないことが正しい選択である。

それをただ淡々と読み進めた私はただのど阿呆である。たとえていえば、ひらがなしか読めない私が馬琴の『南総里見八犬伝』のめんどくさい文章を、当時の原文には漢字すべてにふりがながふってあるので、漢字の意味はわからなくても、最後まで読んだというようなものである。つまり読んだことにならない。『族長の秋』は、読めない、読もうとして挫折したというのが、正しい読者であって、私のように読んでしまった読者は、ただただはずかしいだけである。

まあそれでも『族長の秋』が、独裁者の没落物語りであることは読んでわかった。最近、ラテンアメリカではなく北アメリカに誕生したトランプとかいう独裁者のこれからの愚行とその狂気の内面と自滅とを予言しているような作品といえなくもないだろう。
posted by ohashi at 00:05| コメント | 更新情報をチェックする

2024年11月04日

500万人のパレード

本日のネット記事
玉川徹氏「25万人か、って…ちょっと」優勝パレードで16年500万人の記録…ドジャース少ない
日刊スポーツ新聞社 によるストーリー

元テレビ朝日社員の玉川徹氏(61)が4日、テレビ朝日系「羽鳥慎一モーニングショー」(月~金曜午前8時)に生出演。MLBのワールドシリーズを制覇したドジャースメンバーがロサンゼルスで開催した凱旋(がいせん)パレードについて、祝福したファンの規模に「25万人か、って…ちょっと」と首をひねった。

ニューヨークでヤンキースを4勝1敗で撃破したドジャースナインは大谷翔平(30)らを乗せた計7台のバスで市内中心部から約45分をかけて、メジャー公式サイトによると約25万人のファンに祝福されたという。

玉川氏は「25万人パレードって、すごく多いと思ったんだけど、先週の金曜(11月1日)に井口(資仁)さん、元メジャーリーガーに出ていただいたじゃないですか。彼ワールドシリーズ2回制覇しているんですけど、ホワイトソックス200万人(06年シカゴ)カブス(16年シカゴ)のときは500万人、っておっしゃってたんですよ。だから、25万人か、って…ちょっと」と話した。

月曜レギュラー石原良純(62)は「500万人、ってどうやってみるの?」と驚いた。さらに玉川氏は「シカゴの人口、って今ちょっと調べたら500万人いないんだよね(22年に約270万人、周辺都市も含めると約944万人とも)」と語ると、石原は「(500万人パレードが)間違っているんじゃないか?」と過去の公式記録にいちゃもんをつけた。玉川氏は「一応、確認したんだけど…合ってんのよ」と語った。【以下略】

実際、この番組をリアルタイムで視ていたが、玉川氏の疑問、石原氏の「いちゃもん」、ともによくわかる。

私自身、10万人のイベントに参加したことがあって、その時、知人と、会場で待ち合わせをしたら、結局、最後までその知人に会えなかった。人が多すぎて。

今だったら携帯で連絡をとりあえば、出会うことはむつかしくないのだが、当時は、携帯などなかったのだ。携帯のない時代を生きてきたというと、今では江戸時代の人間かと思われそうな気がするが、携帯がなかった時代というか、逆に携帯が生活に不可欠になった時代というのは、20年あるいは30年くらいしかたっていない。それ以前は携帯なき生活に馴染んでいた。とくに不便だと思わなかったのだ。

それはさておき10万人くらいになると人が多すぎて人間の認知能力の範囲を超える。10万人のなかから誰か目指す相手を探すというのは至難のわざである。

パレードに25万人というのはわかる。けっこうな数である。しかしパレードに500万人というのは、さすがに想像を絶する。パレードが行われる通りの両側に人が陣取ったとしても、シカゴ市の全人口よりも多い人間が、沿道に殺到したら大事故が起きかねない。

強いて言えば、高層建築の窓からパレードを観る人を考慮すると、垂直方向に収容人数を加算できるから、200万人、500万人というのはあり得ない人数ではないのかもしれないが、それにしても多い。

パレード観覧者の人数がまちがっているか、とんでもないサバ読みとしか思えない。石原良純氏に賛成である。
posted by ohashi at 19:12| コメント | 更新情報をチェックする

2024年11月03日

『八犬伝』3

『南総里見八犬伝』は、犬=人間の物語でもある。とりわけ八犬士たちは、「剣士」ではなく「犬士」である。彼らは、当時の挿絵からして、錦絵の歌舞伎役者のようないでたちで想像されることが多いのだが(またそれが曲亭馬琴と当時の読者が想定していたオリジナルの姿だとしても)、物語上の彼らはもっと犬犬しいはずである。いうなれば半獣半人であるはずだ。

『南総里見八犬伝』で驚くのは、犬の房八が伏姫に欲情することである。あらすじで確認する。

時はくだり長禄元年(1457年)、里見領の飢饉に乗じて隣領館山の安西景連が攻めてきた。【映画『八犬伝』は、ここから始まる】落城を目前にした義実は飼犬の八房に「景連の首を取ってきたら娘の伏姫を与える」と戯れを言う【いくつか褒美の条件を出して、八房を刺客犬にしようとするのだが、この条件に八房は強く反応する】。はたして八房は景連の首を持参して戻って来た。八房は他の褒美に目もくれず、義実にあくまでも約束の履行を求め、伏姫は君主が言葉を翻すことの不可を説き、八房を伴って富山(とやま)に入った。

富山で伏姫は読経の日々を過ごし、八房に肉体の交わりを許さなかった。翌年、伏姫は山中で出会った仙童から、八房が玉梓の呪詛を負っていたこと、読経の功徳によりその怨念は解消されたものの、八房の気を受けて種子を宿したことが告げられる。懐妊を恥じた伏姫は、折りしも富山に入った金碗大輔【のちの丶大(ちゅだい)】・里見義実の前で割腹し、胎内に犬の子がいないことを証した【なお富山(とやま)で八房は、金碗大輔が撃った火縄銃【アナクロニズム】の銃弾で殺されるのだが、鉄砲には二つの玉が仕込まれていて、もう一つの鉄砲玉が伏姫にあたって彼女の命を奪うことになる。私は最初、彼女が流れ弾に当たったと勘違いした。映画では、そのへんは曖昧に描かれていて、彼女が八房をかばって自ら銃弾に倒れたというかたちになっている】。その傷口【割腹の傷口】から流れ出た白気(白く輝く不思議な光)は姫の数珠を空中に運び、仁義八行の文字が記された八つの大玉を飛散させる。Wikipedia なお【 】内の太字は筆者の注

【余計な注記をさらに。オランダの初代君主オラニエ公ウィレム(英語読みするとオレンジ公ウィリアム)は、フランスのカトリック教徒の放った3発の銃弾によって殺される。Wikipediaにも「ウィレムは、突然現れた暗殺者から3発の銃弾を浴びせられ、「神よ、わが魂と愚か者たちにお慈悲を」との言葉を残して倒れたと伝えられている」とあるが、まず凶器は火縄銃ではない。それは大きくかさばり、目立つので持ち込めない。凶器は拳銃である。ただし当時の拳銃は、火縄銃の小型版ではなく、火打石を内蔵していた高度で複雑な武器だった。独りの暗殺者が3発発射したというのは、連射したわけではない。また拳銃がリボルバー式だったわけではない(それはまだ歴史に登場していない)。当時の先込式の銃(火縄銃であれ拳銃であれ)は殺傷能力を高めるために複数の銃弾を銃身の先端から入れることがあった。ちなみにオラニエ公のボディーガードはエリザベス女王が派遣した兵士たちだったが、なんの役にもたたなかった。】

上記のあらすじでは、有名な八つの大玉と八犬士の由来が語られる。また映画では大型犬の八房の背中に乗って伏姫が城から去る場面では、思わず、アニメ『スパイファミリー』におけるボンド(白い大型犬)の背中に乗るアーニャを思い出したのだが、もちろん『八犬伝』における伏姫と八房の関係はそんな微笑ましいものではない。

そこには犬と人間とのセックスが、描かれているわけではないが、否定されることによって逆に喚起されているのだ。八房は伏姫に欲情した。その性欲は読経の功徳によって消えたとあるが、伏姫は、懐妊しているのである。その性行為なき懐妊は、ダメ押しするかのように性行為を喚起する。そして伏姫の死とともに八つの大玉が飛散し、そこから八犬士が生まれたことになる。彼女は八犬士の母親である。

人間の母親は一度に8人の子供を産むことはないが、犬は一回に5匹から10匹を出産する。一度に8人の子供を産むことは人間では珍しいが、というか不可能だが、犬の場合、ふつうである。となると八犬士の父親は八房ということになる。母親である伏姫はすでに半分犬になっている。実際、原作でも語り手が語っているように、そもそも「伏姫」という名前の「伏」自体が、人間(亻=にんべん)と犬との合体「伏」なのである。彼女はその名前からして、犬とむきあい、犬と合体し、犬を宿すことが運命づけられていた。

そして犬どうしの関係は映画では馬琴と北斎との関係にもあらわれる。北斎が馬琴から『八犬伝』の構想を聞いて、そのなかの場面を絵にしながらも、描いた絵を馬琴に渡さないというのは理解できないのだが――ちなみに渡さない理由を北斎を演じた内野聖陽が新聞で語っていたのだが、映画のなかでは何の説明もなかった。映画のなかではそのとき北斎が絵を描きやすいように馬琴は、自分の背中を貸すのである。北斎は馬琴の背中に紙を置いて描く。だが、それでほんとうに絵が描きやすくなるかどうかは疑問である。しかし、そこから北斎と馬琴の仲の良さが伝わってくる。さらに、それは仲の良さを通り越して、そこに性的なものが感じられるのである。性交体位における、いわゆる後背位。英語ではこれをDoggy Styleという。そう、犬の体位。

馬琴が北斎に描きやすいように自分の背中を貸すというは、史実ではなくて、映画のオリジナルな設定だろう。もしそうなら、映画はここで、犬の体位、後背位、そして人間の男性同性愛という主題連鎖が紡ごうとしているのである。そしてそれはたんに馬琴と北斎のクィアな人間関係だけではなく、『南総里見八犬伝』の世界にもつながってゆく。

映画ではなく原作のほうの『南総里見八犬伝』における八犬士のなかにおいても、犬坂毛野は今風の言い方をすればトランスジェンダーである。原作では最初犬田小文吾は女装の毛野のこと女性と思い込んでいたし(映画『八犬伝』にはこれは描かれていない)、さらに八犬士のリーダー格で犬塚信乃は、元服まで女性として育てられていた。信乃という名前自体が女性名だし、八犬士を描いた当時の挿絵か錦絵には、信乃を女性として描いたものがある(これは絵師が人物名から判断してまちがえたということはありうるとしても、そのまちがいには意味がある)。

もちろん八人の剣士の活躍は、当然、男性集団というかホモソーシャル集団であって、そこに同性愛的なものをみるのは安易すぎると思われるかもしれないが、しかし、剣士を犬士と呼んで、あえてゲイ的要素を喚起しているのは馬琴のほうである。犬が普遍的にゲイ的なものを表象するとは思わないが、文脈によっては、たとえばDoggy Styleが問題になるようなときには、男性同性愛と結びつく。ヨルゴス・ランティモス監督の映画『ロブスター』(2015)は、異性のパートナーを見つけられないと動物に変えられてしまうという未来社会を扱う異色のSF映画だが、主人公の兄はパートナー探しに失敗して犬にかえられている。これは主人公の兄が同性愛者であることの暗示となっている。繰り返すがすべての事例がそうであるわけではないが、文脈によっては、犬は、一方で忠義・忠孝といった儒教的理念の体現者であると同時に同性愛者を強く喚起する。

映画『八犬伝』の原作、山田風太郎の同名作品は読んでいない。私の『南総里見八犬伝』についての知識は脆弱でもろい。この大長編小説の筋の展開、張り巡らされた伏線の意味など、たとえ完璧でなくても、四捨五入すれば完璧になる知識すら私は持ち合わせていない。そのためアダプテーションによって原作を見失うかもしれないし、ささいな変更については、それに気づかず、原作についてまちがった知識を定着させてしまうかもしれない。そのため私の『南総里見八犬伝』の知が確固たるものにならないまでは、アダプテーションは極力読まないようにしたい……。

そのため映画『八犬伝』について、原作『八犬伝』についての全く知らないまま語ることを許していただきたい。映画版についての指摘は、それが原作についての指摘と重なろうとも、あくまでも映画版についての話として受け止めていただきたい。

映画『八犬伝』の八犬士物語の部分では、玉梓/栗山千明が八犬士を最後まで脅かし、犬士の3人を殺す最強・最凶の悪役なのだが、原作では玉梓は最初のほうで呪いをかけて死んでしまい、物語の大団円で八犬士と対決するということはない。もちろん玉梓の分身のような悪女が次々と登場するのが原作の『南総里見八犬伝』の特徴のひとつともなっているのだが、映画『八犬伝』はそうした悪女を玉梓ひとりに集約させている。しかも玉梓は原作にはないことだが、化け猫なのである。

猫と犬との闘い。なぜこうなるのかというと、それは映画における滝沢馬琴のパートにおいて、馬琴/役所広司とその妻/寺島しのぶとの夫婦の戦いがあるからである。執筆活動に没頭し家族のことなど顧みないわがままな作家と、そんな作家に不満をかかえている妻というのは、よくある設定で、珍しくもないのだが、その夫と妻の対立が、八犬伝物語のなかにもちこまれ、epicといえるくらいの規模に膨れ上がるのである。そのため化け猫の玉梓と八犬士との対決は、動物闘争というよりジェンダー闘争の様相を色濃く呈してくるのだ。いいかえると、犬の物語を書いている夫に対し、自分は猫派だというようなことをいう妻のお百/寺島しのぶは、八犬士物語では玉梓となって、男性のホモソーシャル=ホモセクシュアル同盟を揺るがすのである。夫に対して口うるさく、つねに非難がましいことをいい、敬意のひとかけらも示すことのない毒婦のような妻。本来なら黙って男の世話をしていればいい妻。不平と不満しか口せず、夫への敬意をひとかけらも有していないこの毒婦・鬼嫁こそ、八犬士の物語にあらわれる邪悪な化け猫の起源である。ある意味、家父長制下において常態化しているこうした鬼嫁こそ、玉梓あるいは化け猫が表象する存在であり、この最強・最凶の敵を倒すことが八犬伝物語の目的となる。化け猫は八犬士の友情と結束を強める手段ではなくて、目的化する。つまりそれを倒すことが物語の目的なのである。男を、夫を呪いたおす妻を物語のなかで処刑すること、それ八犬伝なのである。

ちなみに映画『八犬伝』のなかで馬琴が鶴屋南北の『東海道四谷怪談』を嫌うのは、それが武士道の美徳を揶揄あるいは転倒させているからではなく、虐げられた妻が夫に復讐する物語だからである。馬琴の宇宙では女は邪悪の根源である。

だが馬琴物語の最後には予期せぬことが起こる。失明して執筆できなくなった馬琴は、出版元から男性の筆記者を紹介さても、その頑迷固陋な性格、こらえ性のないわがままな性格ゆえに、筆記者からあいそをつかされる始末。そして『南総里八犬伝』の完成は遠のくばかりだった。そこに死んだ息子の嫁であるお路/黒木華が聞き書きを申し出る。無学で読み書きもひらがなしかできない嫁の助力は無意味と考えていた馬琴だったが、嫁の必死の努力と執念によって、口述筆記によって『八犬伝』を完成させることになる。

ミソジニックな『南総里見八犬伝』宇宙、そして馬琴と北斎との友愛によって代表される女性を排除した男性ホモソーシャル/ホモセクシュアルな日常にあって、つねに抑圧され無用視され、さらには妨害者として邪悪化されてきた女性による献身的な努力によって、馬琴と『南総里見八犬伝』宇宙は救われたのである。ここにジェンダー闘争は、ひとつの和解を、調和的結末をみるといってもよいかもしれない。

もちろん嫁のお路/黒木華は決して弱音を吐かない芯の強い女性だが、同時に馬琴のわがままを受け入れ決して不平不満を言わない、常に男をたてる従順な女性であってみれば、家父長制における理想的な女性であり嫁であっても、男性の下位に位置する抑圧された女性であることに変わりはなく、馬琴のミソジニーを、また家父長制宇宙を、なんらゆるがすものではないかもしれず、そこにジェンダー闘争の真の解決はないともいえる。

馬琴が嫁に口述筆記させているとき、印象的な場面なのだが、病床にあった妻お百/寺島しのぶが廊下に這って出て馬琴と嫁がいる部屋の前まで体をひきずってくる。何事かと駆け寄るお路に対し、独りごとのように「くやしい」とつぶやく妻お百。おそらくこの場面こそが、たんにお百がお路に嫉妬していたという史実的伝聞の劇化というにとどまらない重要性をもつことになる。つまりその暗示性によって、あるべき和解が示唆されているのだから。

つまり馬琴の妻お百が、夫への不平不満を口にするなかで求めていたのは夫が彼女自身をよきパートナーとして扱うことだったのだ。おそらく馬琴は金目当てで履物屋の娘と結婚し、婿養子として暮らすことになるが、妻は馬琴よりも年上ということもあり、馬琴の男性性は日常的に危機に瀕していた。その反動で、『八犬伝』では化け猫退治の物語ができあがる。だが妻が密かに望んでいたのは、馬琴が自分をただの金づるならびに下女・家政婦としてのみ扱うのではなく、その創作活動を支援するパートナーとして扱うことであったはずだ。もちろん馬琴にしてみれば、無学な妻を創作のパートーナーにすることなど論外だったかもしれない。しかし、息子の鎮五郎のちの宗伯は医師になったことからわかるように、本来、彼女の地頭はよかったのだ(知能の高さは母親から伝わるといわれている)。もちろん彼女は無学だが、当時の庶民の女性はほぼ全員無学であって、無学が無能な証拠というわけではない。理想的なことをいえば(馬琴の好きな観念的理想であるが)、馬琴は嫁のお路に口述筆記をさせる前に、妻のお百を口述筆記をはじめとして創作のパートナーとして重用すべきであったのだ。そうすれば失明しても、滞りなく創作を継続できたかもしれない。もちろん妻にとっては下働きにすぎないかもしれないが、それは雑用係としての下働きではなく、夫の創作活動に参加し、みずからを高めることにもなり、また天下の大作家のパートナーとして自尊心も育むことになり、望ましい夫婦関係が実現していたかもしれないのだ。

だが馬琴のコンプレックス(武家になれない半端者としての自分、年上の女房、下駄屋の婿養子など)は妻をパートナーとすることを阻んだ【アドラー的にいうと、馬琴のコンプレックスが、結局、創作のエネルギーへと転換したともいえるのだが】。またなさけないことに、いまなお日本に根強い家父長的世界観が、女性を独立した人格、尊ぶべき個性としてみることを阻んだのである。

たとえ馬琴は、失明後に嫁に助けられ創作活動を維持できたとはいえ、映画のなかで最後には、みずからが生み出した八犬士たちに囲まれ抱きかかえられて昇天するのである。これはけっこう感動的な場面だった。実の世界(馬琴)と虚の世界(八犬士たち)とが出会い交流し仲睦まじく融合するのだから。あるいはスーパー戦隊物のヒーローたちが、その生みの親たる馬琴を祝福して胴上げしているようなイメージがあった。

だが八犬士の生みの親は伏姫であり、結局、犬の母親のように八匹の子供たちに囲まれた伏姫と八犬士の仲睦まじき絵が、馬琴を中心とする八犬士の絵によって抑圧されたということもできる。母性的な世界は、父性的な世界によってかき消される。

とはいえ女性を嫌い、女性によって危機的状況に陥る父権的世界が、最後にはもちなおして復活するという、あいもかわらぬ家父長制的物語であるとはいえ、それを貫く、男女のジェンダー闘争は(映画は、原作において陰在しているジェンダー闘争の要素を、作者馬琴の物語に縁どらせながら、顕在化させた点で、ある意味、特筆すべきものでもあるのだが)、『南総里見八犬伝』の新たな可能性を示すことになった。つまり

忠義なき正義な汚れた世の中に勧善懲悪という理想像を敢然と上書きした『南総里見八犬伝』は、そこにさらに理想的なあるべきジェンダー関係の姿を上書きされるべきものであることを、馬琴は意識していたかもしれない。

それは動物(犬)と人間との和合が、男性どおしの和合にとどまることなく、男女という宿敵の和合につながることにもなるからである。

とりあえず終わり。
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2024年10月31日

『八犬伝』2

インド出身のターセム・シン監督の長編映画第2作にあたる『ザ・フォール 落下の王国』は、長らく配信されていなかったのだが、今年の9月に世界配信となった。

ちなみに以下の記事では
『落下の王国』4Kレストア版、9月MUBIが世界配信 (2024年7月16日)


『落下の王国』(2006)【アメリカや日本における公開は2008年】、“映像の魔術師”と称されるターセム・シン監督が構想27年、CMやミュージックビデオ制作で稼いだ私財を全投入して作り上げた渾身の一作。
【中略】
カルト的人気を誇る作品だがストリーミングサービスには上がっておらず、現在は鑑賞が非常に困難となっている。

今回の4Kレストア版は来月開催されるロカルノ国際映画祭でワールドプレミア上映された後、MUBIでの配信が始まる予定だ。日本でも配信、もっと言えば劇場公開されることを願いたい。(編集部・市川遥)

とあるが、日本での配信は今のところない(DVD、ブルーレイ廃盤)。ちなみにこの映画のDVDを持っているのだが、現在発掘中。そのため以下の記述ではこの映画を見直すことなく書いているので、誤解・誤認・記憶違いがあると思うので、そこは容赦されたい。
ストーリー【Wikipedia】
1915年のロサンゼルス。無声映画のスタントマンをしていたロイは、撮影中に大怪我を負い半身不随となる。挙げ句の果てに主演俳優に恋人を奪われ、自暴自棄になっていた。
そんなとき入院中の病室に現れたのは、オレンジの収穫中に木から落ちて腕を骨折して入院していたルーマニアからの移民の少女アレクサンドリアだった。ロイは、動けない自分に代わって自殺するための薬【モルフィネだが】を少女に盗ませようと思い付き、アレクサンドリアに作り話を聞かせ始める。それは一人の悪者のために、愛する者や誇りを失い、深い闇に落ちていた6人の勇者達【正確には5人の勇者に最終的に1人加わり6人となる】が力を合わせ悪者に立ち向かう物語。【以下略】

あっさりした紹介だが、病院で大けがをしている二人(若者と少女)が出会し、青年が―少女におとぎ話を語って聞かせる―しかも、その物語は言葉で語られるだけでなく、映像化もされる。となるとなにか心温まるファンタジーあるいは童話的世界を強く予感させるのだが、この二人が病院で出会うこと自体に夢のカリフォルニアのアメリカン・ドリームの破綻が透けて見えることになる。

青年は映画のスタントマンで落下スタントに失敗して大怪我をしたことになっている。おそらく再起不能で、人生に悲観しているところ、仲良くなった少女に、モルフィネを盗ませ、それで自殺しようとする。

一方、少女のほうは、腕を骨折したようで添え木をして腕を吊っているのだが、元気で、病院内を走り回っている。おてんば娘が木登りをして遊んでいて落下したのだろうと思っていると、そうではなく移民の子の彼女が果樹園で危険な労働に従事させられた結果、そうなったのだとわかる。おそらく子供だから身が軽いと思われ、オレンジの木に登らされて果実の収穫作業のさなか足を滑らせて落下したのだ。これがわかると観ている者は慄然とする。

そうドリーミング・カリフォルニア、今年ワールドシリーズに優勝して世界一(実際にはアメリカでナンバー・ワンにすぎないのだが)になったドジャースの本拠地のあるカリフォルニア、そのカリフォルニアを支える代表的二大産業、オレンジ(フルーツ)産業と映画産業の闇を二人が体現している。

斬られ役なくして日本の時代劇が存在しないように、スタントマンなくしてハリウッドのアクション映画は成立しない。そして労働基準法などなかった時代に危険な作業に駆り出される幼い子供たちなくしてオレンジ産業は成立しない。いや、もっといえば、けがをしたスタントマン、けがをした幼い子供たちが、映画産業を、オレンジ産業を支えているのだ。いやさらにもっと言えば死者たち(死んだスタントマン、移民労働者の死んだ子どもたち)の闇によって産業が光り輝いているのだ。今、その犠牲者たちが病院で相まみえる。

スタントマンだった青年は、木から落下した少女に、悪人退治のファンタジーを語って聞かせる。そのファンタジーの部分も驚異的な映像と映像美で映画のなかに挿入される、というか病院や病室での青年と少女のやりとりと、青年が語る悪人退治物語とが交互に示される。そう、これは映画『八犬伝』(2024)と同じ構成ではないか。

いま悪人退治物語と述べたが、正確には、それは、5人(のちに1人加わり6人)の戦士たちが、それぞれに「総督」の暴虐の犠牲者であり「総督」への恨みによって結集しているのであって、この「総督」への復讐物語となっている。こうなると彼ら5人(のちにさらに1人参加)は、スーパー戦隊物の典型的なチームである(たとえ彼ら5人が、その無国籍でシュールな衣装によって統一感あるいはチーム感を出してはいないとしても)。そしてスーパー戦隊物(5人が基本)のルーツは『南総里見八犬伝』にあるとも考えられているとすれば、『落下の王国』は、スーパー戦隊物を介して『南総里見八犬伝』ともつながるのである。

【なお青年が少女に話をきかせるという『落下の王国』の構図は、『八犬伝』にもあらわれる。馬琴が北斎に『南総里見八犬伝』の内容を語るというかたちで。】

ただ違いもある。映画『八犬伝』では(べつにこの映画でなくてもいいのだが)、八犬士の活躍は、曲亭馬琴の頭のなかでつくられたファンタジーとなっている。馬琴から物語の概要を聞かされる北斎は、その想像力の荒唐無稽で大胆な飛躍に感心するのだが、登場人物に感情移入するわけではない。いっぽう『落下の王国』では、5人の戦士たちの復讐物語を語る青年自身、その物語の中ではリーダー格のスーパーヒーローとなるし、聞き手の少女も物語のなかでは、そのリーダーの娘となって活躍する。また病院関係者たちが物語の登場人物となってゆく。語り手や聞き手は、物語をわがことのように受け止めるのであって、そこが馬琴や北斎の、八犬伝物語に対する姿勢と大きく異なる点である。

【実際、この種の〈物語・中・物語〉形式では、語られる内容に、語る側の現実や状況が入り込むのはふつうのことである。つまり『落下の王国』では病院関係者たちが作中に登場するというのは、よくある趣向なのだ。ターセム監督は、ブルガリア映画『Yo Ho Ho』(監督ザコ・ヘスキジャ、脚本ヴァレリ・ペトロフ 1981年)から着想したということだが、『落下の王国』は、『Yo Ho Ho』のアダプテーションであり、残念ながら『Yo Ho Ho』をみていないのだが、そこでは聞き手は男の子で、病院関係者が語られる物語に数多く「出演」するらしい。なお『落下の王国』で女の子によりにもよって「スーパー戦隊物」のような物語を聞かせるというのも、この『Yo Ho Ho』から来ているのだろう。とはいえセーラー・ムーン・フランチャイズとかプリキュア・フランチャイズのようなものと考えれば、女の子だからというジェンダー偏見は無意味かもしれないのだが。】

『落下の王国』では、語り手の青年は、どうやら半身不随となって再起不能であるとわかって、自殺を考えている。その自殺用の薬を手に入れるために、少女を利用しようとしている。彼が物語を語って聞かせるのは、少女を手なずける手段でもある。だから悪人退治の復讐譚も、青年が人生をはかなみ、恋人も去り、映画会社からも見限られると、陰気な暗い話になってゆく。ヒーローたちは悪を打ち負かすどころが敗北を余儀なくされる。リーダー格のヒーローも物語当初の活力を失い負け続ける。まさに物語は、フォールする(負ける)物語へと闇落ち(フォール)する寸前までゆく。そしてそれを聞いている少女が抗議する。

ヒーローたちが悪をやっつける話が聞きたいのだと。スタントマンを使い捨てにする映画産業、子どもを危険な作業に従事させその人生を奪っても悔やむことのないフルーツ産業、非人間的な産業社会、資本主義の暗黒面。物語が、この巨大な世界悪と戦い勝利する物語でなくして、なんの物語か。ヒーローが巨悪に勝つ、あるいは巨悪を退治する物語がなければ、弱い立場の犠牲者たちは希望を失い破滅するだけである、弱い立場にある者たち、使い捨てにされる者たちは世界悪を克服する希望を完全に失うしかない。物語は、いつか世界悪は滅びるというユートピアの約束でなければならない。

もちろん少女は、もっと直接的な言葉で青年に物語のつづきを、それもヒーローが勝利する物語のつづきを求める。青年と少女のおかれた苦境、そしてふたりの絶望を知る私たちにとって、この部分はほんとうに涙なくして観ることができない。

『落下の王国』は驚異的な映像と物語/語りの形而上学(絶望とその裏返しのユートピア願望)によって圧倒される映画である。これに対し、同じような構成をとりながら映画『八犬伝』は、そこまでの感動はない。

たとえば馬琴が芝居小屋の奈落(地獄の意味ではなく舞台の下の空間のこと)で鶴屋南北と対決する場面は、おそらく誰が観ても、この映画の思想的核心である。馬琴が紡ぎ出す勧善懲悪物語は、鶴屋南北的な観点からすれば、社会的矛盾を想像的に解決するイデオロギー装置である(もちろん映画のなかで南北は「イデオロギー装置」とは言っていないが)。これに対し、そうしたイデオロギー装置を脱臼させるのが南北の怪談であって、忠臣蔵(八犬伝に通ずる集団復讐劇)という忠義・仇討・名誉など武士道と儒学的イデオロギー満載のキャノン的作品を反転させる裏忠臣蔵の世界を構築することによって、怪談という超現実的あるいは非現実的なジャンルをとおして、きれいごとではない現実の再現を目指したといえる。ただし、南北とは異る馬琴の現実的アプローチは、現実のあるがままの再現ではなく、現実は勧善懲悪であらねばならないという理想を求めるものである。そしてその理想が非現実的にみえるとき、現実そのものの仮借なき残酷さ、限りない不合理が逆に暗示させられるのである。となると南北も馬琴も、非情な現実のありようを再現しようとしている点で、建前では伝えられないリアルを出現させようとしている点で、たとえそのアプローチは異なっても、同じ現実をみすえていかことに変わりないのではないか。

そして『落下の王国』で劇中劇のように映画の中で語られるもうひとつの映画もまた、正義と善を希求している点で、馬琴の勧善懲悪物語(つまり『南総里見八犬伝』)と同じといえよう。だが『落下の王国』では、あれほど涙を誘った犠牲者たちのユートピア願望が、『八犬伝』からは感じ取れないのはなぜか。

映画『八犬伝』においては、『南総里見八犬伝』を語る者(馬琴)と聞く者(北斎)が、ふたりとも老人であって、『八犬伝』物語の登場人物と年齢がはなれていること、そしてまたふたりは、弱者でもなければ犠牲者でもないし、八犬士のように復讐、正義の鉄槌を求めているわけでもないし、ルサンチマンをかかえているわけでもない。忠義や孝行や人徳の欠如によって苦しんだ馬琴が、願望充足として勧善懲悪物語を書いているわけでもない。馬琴と物語との関係は希薄なのだ。すくなくとも勧善懲悪という面からみるかぎり。

おそらくこの映画における闘争は、矛盾に満ちた社会や暗黒の社会と理想的な勧善懲悪の社会との対立から生まれているというよりも別の要因から生み出されたように思われる。

戦域は勧善懲悪問題ではない別のところにある。つづく
posted by ohashi at 11:13| 映画 | 更新情報をチェックする

2024年10月30日

非公認に2000万円と投票場入場券

以下のネット記事が目についた。

自民党の惨敗を招いた「2000万円問題」の"厚顔" 赤旗「非公認に2000万円」報道で情勢が一変(泉 宏によるストーリー)東洋経済オンライン2024年10月30日
【前略】
そもそも選挙戦の「推移」を検証すると、赤旗が「2000万円」問題を報じた直後から、それまで前回比大幅減だった期日前投票が激増し、「各メディアの出口調査結果などで、その大多数が無党派層だったことが、自民惨敗につながった」(選挙アナリスト)との指摘が少なくない。
【中略】
こうした経過や結果を踏まえると、「全国的規模での期日前投票急増と、赤旗による『2000万円支給』の特ダネをメディアが一斉に後追いしたことが、タイミング的に一致しているのは確か」(選挙アナリスト)とみる向きが多く、「結果的に、自民の対応への不信や批判が有権者を突き動かし、期日前投票に向かわせた」(同)との見方が広がる。

さらに「その結果、低迷していた投票率が数ポイント上昇し、その多くが反自民票となり、各小選挙区での自民候補の落選と、比例代表での自民得票率の減少につながった」(同)との分析も説得力を持つのだ。【以下略】

今回の衆議院選挙において『赤旗』による「非公認に2000万円」報道が情勢に変化をもたらしたことはおそらく確かだろうが、ただ影響をあたえたらしいという漠然とした印象や推測ではなく、確かな証拠を求めた結果だろう、この記事は、『赤旗』の報道以後、期日前投票が増えたというデータを、その根拠としたのだ。

だが考えてみてもいい、『赤旗』による報道で、自民党はひどいということがわかった。では、自民党に票を入れないでおこうとか、野党を勝たせようと思ったというのならわかる。しかし、自民党はひどい、だから期日前投票に行こうというのは、いったいどういう理屈なのだ。

この時期に期日前投票が増えたのは、明白な理由がある。自治体の準備が遅れて有権者のもとに届いていなかった投票所入場券が、この時期、ようやく届き始めたからである。そのため期日前投票をする有権者が一挙に増えた。これ以外に理由は考えられない。

もちろん投票所入場券がなくても、期日前投票も、投票もできる。そのように各自治体は告知している。しかし、具体的にどういう手続きで投票所入場券を持たない有権者が投票可能になるのか、そうした事例に遭遇したり立ち会ったりしたことがないので具体的な手続きはわからない。そうなると不安になる。期日前投票を控える有権者も多いだろうと推測できる。そこにようやく自治体から待ちに待った投票所入場券が届く。期日前投票を予定していた有権者は、さっそく投票所に出かける。

と、まあこんなことだろう。赤旗による報道と、期日前投票の急増との間に因果関係はない。こじつけもはなはだしいと言わざるを得ない。

なお、赤旗による報道が投票率を増やすという推測も、証拠はないが、根拠は薄い。むしろ赤旗による報道によって投票率は下がったのではないかと思う。

今回の衆院選挙は前回の選挙時よりも投票率が下がった。自民党が過半数割れを起こすのではないか、野党が票を伸ばすのではないと投票前に言われ続けたこともあり、今回の選挙は国会での勢力図が変わるかもしれない、重要な選挙として、関心は高かったと思われるのだが、投票率は低かった。

これは投票所入場券の遅配送とは関係ないだろう。赤旗による報道の結果、自民党に嫌気がさした有権者のうち、これまでの自民党支持者で投票しなかった有権者が多かったからではないか。自民党に嫌気がさしても、かといって野党に投票しようとは思わない有権者は多かった。そのため投票率が下がったということだろう。

もしあなたがリベラルあるいは左翼であるとしよう、その際、野党側によい候補者が皆無だとして、では、自民党に投票するかというと、それはしないだろう。あなたはただ棄権するだけである。それと同じことが自民党支持者にも起こったと考えるしかない。

赤旗による報道は、国民を有権者を舐め切った自民党の体質の揺るがぬ証拠を白日のもとにさらすことで、自民党への批判票増大につながったと思われるのだが、批判票の増大というのは、野党候補への投票者をふやすのではなく、自民党支持者のなかに投票しないことを選択する有権者の数を増やすことになったのである。
posted by ohashi at 23:58| コメント | 更新情報をチェックする