敵こそわが友
昨年12月新国立劇場でブルガーコフ原作の戯曲『白衛軍』(演出:上田聡史、翻訳:小田島創志)を自腹で観た。そして自腹でプログラムを購入したのだが、そのプログラムは充実した内容で、いろいろなことを教えてもらったが、同時に、疑問も多くわいてきた。
旧ロシア帝国軍人からなる白衛軍をウクライナ人民共和国軍で率いる将軍パウロー・スコロパードシクィイは、「ウクライナのヘーチマン」に選出されたので、白衛軍は「ヘーチマン軍」でもある。この「ヘーチマン」というのはウクライナ語をもとにしたカタカナ表記なのだが、今回『白衛軍』のシナリオを翻訳した小田島創志氏は「ゲトマン」と表記されている。私は、英語訳(
The White Guard, translated by Michael Glenny)でこの作品を読んだから、頭のなかには「ヘトマンHetman」という表記がしみついていたのだが、ロシア語では「ゲトマン」となるのだろうと想像はついた。
岩波文庫で出始めたゲルツィンの回想録だが、私の手元にある英訳本では「ヘルツィン」である。英語読みするとそうなるがロシア語読みすれば「ゲルツィン」となるのだろう。それと同じで英語読みすると「ヘトマン」がロシア語読みでは「ゲトマン」そしてウクライナ語読みでは「ヘーチマン」ということだろうか。
しかしプログラムに「ウクライナの革命とキエフのロシア人」を寄稿されている村田優樹氏は、本文において初出時には「ヘトマン(ゲトマン)」と表記されているが、以後は「ヘトマン」とだけ表記している。いったいどういう表記が原音に近づくのだろうか。あるいはどういう表記でよしとすべきなのだろうか。
あと本題に入る前にもうひとつ。劇の第4幕ではクリスマス・ツリーがトゥルビン家の居間に置かれている。私が読んだ英語訳(今回の上演の英語訳とは異なる訳者によるもの)では、クリスマス・イヴにクリスマス・ツリーの飾りつけをしているとト書きにある。しかし、今回の舞台では、クリスマス・ツリーを片付けている。これも不思議で、どちらが原作に近いのだろうか。飾りつけか後片付けか。
私が読んだ英語訳では、ロシア圏での旧暦のクリスマス・イヴは、新歴では十二夜の前日であると注記してあった。十二夜というのはクリスマス・シーズンの終わりの日である。トゥルビン家の人々はクリスマス・イヴにツリーの飾りつけをしているのだが、新歴では、それはクリスマス休暇の終わりの前の晩なのである。クリスマス休暇の始まりの前夜とクリスマス休暇の終わりの前夜の共存。これは飾りつけと後片付けの2つのヴァージョンが生まれたことと関係しているのかもしれない。そしてトゥルビン家の人々にはクリスマスの始まりだが、新しい時代、新暦の時代にはクリスマスの終わりであって、まさに終わりの始まりという点で、この劇のテーマともひびきあう。そしてもう一度、問いたい。クリスマス・ツリーは飾り付けるの、飾りをとりはらうのか――原作では?
【なお私が読んだ英訳での第4幕のツリーの飾りつけに関する訳注の大意を記しておくと。
「1918年2月までロシアはユリウス暦を使用していた。20世紀において、ユリウス暦は、グレゴリオ暦(ロシア以外の国々で使われていた)よりも13日遅れる。グレゴリオ暦への転換以後もロシア人(ならびにロシア正教会)はユリウス暦で祭日を祝いつづけた。したがって第4幕は、グレゴリオ暦(新暦)では1月5日(十二夜の前夜)であるが、トゥルビン家の人々は、ほかのロシア人と同様に、その日がユリウス暦(旧暦)のクリスマス・イヴ(つまり12月24日)であるかのようにお祝いをしているのである。」】
ただもっと重要な問題というか情報は、スターリンがこの芝居を好み、リピーターであったということである。このことは「アプトン版『白衛軍』の原典としての『トゥルビン家の日々』」という文章のなかで大森雅子氏によって詳しく述べられている。『トゥルビン家の日々』は最初は大成功で作者の華々しいデビュー作品となったのだが、話題になるにつれて、白衛軍に身を投じた軍人と家族を描くことに対する批判が生まれてくる。窮地に陥った作者に救いの手を差し伸べたのは、スターリンだった。
私たちはスターリンのことを誤解しているのかもしれないが、本来だったら、こんな芝居を書いて大当たりした作者は粛清されてもおかしくない。そう私たちは考える。しかしスターリンはこの芝居が好きで少なくとも15回は観ていたとのこと。大森氏の説明を引用させていただく。
スターリンは『トゥルビン家の日々』を観て、「トゥルビン家のような人々までもが、武器を捨てて、民衆の意思に従わざるを得なくなり、自身の戦いが完全な敗北に終わったことを認めるならば、ボリシェヴィキは無敵ということだ。『トゥルビン家の日々』は、すべてを打ち砕くボリシェヴィズムの力を示している」と述べている。実は、『トゥルビン家の日々』では(またアプトン版の『白衛軍』でも)、ボリシェヴィキは戯曲の登場人物のなかにはいない。それでもスターリンは、白衛軍がキーウにおいて敗北する運命にあることを率直に描き出したブルガーコフの筆致の中に、「無敵」のボリシェヴィキの存在を嗅ぎ取り、『トゥルビン家の日々』をボリシェヴィキにとって都合の良い作品と見なしていた。
基本的にここに説明されているようなことだろうと思うのだが、ただスターリンが実は文学好き、芝居通であったとか、革命直後の時期へのノスタルジーに囚われていたというような方向に話題をすすめることなく、もう少し掘り下げてもいいのではないかと思う。
実際、なぜこのような作品が泣く子も黙るスターリン時代に許されたのかと不思議に思ったもうひとつの作品がある。ミハイル・ショーロホフの『静かなドン』という長編小説である(「静かな」というのはドン川にかかる枕詞のようなもの)。ソ連の社会主義リアリズムの代表的作家のひとりによる大河小説であり、ロシア革命前後の事件を扱う革命の叙事詩でもあるような作品が、なぜ、白軍(白衛軍)に身を投じ、ロシア各地を転戦する主人公の物語なのか。革命の叙事詩であるのなら、なぜ革命側、赤軍の視点から、歴史的大変動を描かないのか。革命軍側の物語が読めると思っていたら、白軍(白衛軍)しか出てこない。【なお小説の後半では、主人公は赤軍にも身を投ずる。とはいえ再び白衛軍に戻り、彼は完全に信用を失うののだが】
プロパガンダ作品に対しては嫌悪感しか持たない私だが、しかし、このようにプロパガンダ性が皆無のような作品に対しては、作者の意図がどのへんにあるのかみえなくて戸惑った。
いまとなっては、この大長編の内容はほぼ忘れてしまったのだが、しかし、中学生だったか高校生だったかも忘れたが、私は学校から帰ると、勉強もせずにこの作品を読みふけっていた記憶があるので、最後まで飽きることなく読み通せたくらいに十分に面白かったのだと思う。
【主人公はウクライナのドン・コサックの青年で、第一次大戦中、ドイツ軍と戦う。その戦いのさなかロシアで革命が起こり、ドイツと停戦してロシア軍は引き上げるのだが、ロシア領内で内戦が勃発する。主人公は白衛軍に身を投ずるという物語。最初、主人公は、馬に乗り槍をもってドイツ軍と戦うので、なんという戦法なのか、日本の戦国時代じゃあるまいしと違和感マックスだった。その違和感がなくなったのは、読んでからずっと後のこと、サム・ペキンパー監督の西部劇『ダンディー大佐』を観たときである。映画の終盤、アメリカの北軍の騎兵たちが、メキシコに進駐してきたフランス軍の騎兵と川のなかで激突する。乱戦になると銃器が使えず槍が実に有効な武器となることがわかった。と、まあそれほどまでに『静かなドン』は記憶には残っていた。】
プロパガンダ性も感じられないことがよかったのかもしれないが、しかし、ふと我に返ると、これは白衛軍に身を投じたドン・コサックの青年の話で、反革命勢力側の物語であって、ほんとうに大丈夫か。大丈夫だったようだが、では、これが許されたのはどうしてなのかと疑問がわいてきた。
あとになって知ったのだが、『静かなドン』はスターリンが大好きな本だったようだ。なぜ、好きだったのか。
『静かなドン』は、第一次大戦からロシア革命、そして内戦という激動の時代における社会の変化を白衛軍の側からみている。革命後の政権がどのようなかたちで改革を行い、国造りを行ったのか、またどのようにして大胆な、ときには過酷な改革を断行したのかについては、白衛軍の中から外をみるにすぎないために、よくわからない。よくわからないまま、白衛軍は赤軍に押され敗退を余儀なくされてゆく。時代の趨勢は革命政権のほうにあり、反革命運動は下火になるか失敗するしかなくなる。かくして年を経るにしたがい革命後の新たな社会主義体制は盤石なものとなり、もう後戻りはできないほど改革はすすんでゆく。
それに抵抗することはもうできない。ロシア革命によってもたらされた新たな生活と社会体制は、太古よりゆうぜんと流れるドン川、静かなドン川の流れをせき止めることができないと同じように、もう押しとどめることはできない段階に入っている。新しい生活は、革命による改革の痕跡を消し去り、いまや自然なものとなる。昔からあったもののように感じられる。ちょうど、悠久のドン川の流れのように。
おそらく社会主義の理念とか唯物史観における段階的変化とかを説くよりも、革命を「自然化」することのほうが、革命を定着するためには効果的なのであろう。そのためにも最初、革命に敵対していた人々が、あきらめて敗北を抱きしめること、みずからすすんで抱きしめることがなんとしても必要なのだ。赤色革命は変えようがない運命であり、唯一の選択肢なのだと、感覚的に納得することが重要なのである。最高最大のプロパガンダとは、プロパガンダなきプロパガンダなのである。このことを『静かなドン』はやってのけた。同じことはブルガーコフの『白衛軍』にもあてはまりはしないか。
まとめると、
1) 敵の側にたって、味方を外からみるようにすること。白軍にいる者の目線で、赤軍の動向を探る。その際、赤軍の詳しい動向はわからない。赤軍は、白軍にとって、遠くにいる不気味な他者として描かれる。これが次の重要な一手につながる。
2) 歴史的事実に即して、負ける側と勝利する側を区別する。白軍は敗退する側であり、赤軍は勝利する側である。赤軍は遠くにいる不気味な他者であるため動向はぼんやりとしかわからない。これは戦いの勝敗の原因が明確につかめないことにもなる。白軍の敗退は、白軍内の内紛とか腐敗によるものと想像できるのだが、赤軍側のどのような動きが勝利につながったのかわからない。ここで赤軍側のイデオロギーなり思想や倫理性が勝利につながったという露骨なプロパガンダは逆効果になるために、それは強調しない。また優位な軍事力による勝利であると、敗北する側を英雄視して利するために、勝敗は人間の意志ではなく思想でもなう善悪でもなくあくまでも運命によって決まるという印象をあたえる。このために勝利者側の赤軍については詳しく語られることはない。
3) 長い時の流れの果てにでもいいし、短いが重要な転機ともいえる事件の結果としてでもいいが、勝者側は運命によって勝者になり、この流れは抑えることのできない自然なものという印象が生まれる。勝利するのは隠れたプロパガンダである。反革命は、英雄的自己犠牲とか旧体制と国体の護持などの思想や美学を大義名分として掲げようとも、流れに取り残されて未来を失っている。そしてそれに反して、革命政権は、まさに革命的な登場、暴力的刷新や流血的改革をともなうものであったにもかかわらず、その斬新さの外貌は消え去り、新たな生活様式を、自然なもの、昔からあったもののようにして人々に受容させるのである。革命はいいも悪いもないう。ただ受け入れるべき民族の宿命となったのである。
ブルガーコフの『白衛軍』の最後に、チェーホフの『ワーニャ伯父さん』の最後のセリフが引かれるのは偶然ではないだろう。最後のソーニャのセリフをここで引用するのはやめようと思う。いつも、あのせりふを聞いたり読むたびに泣けてくるので。問題は、革命前の苦しい状況のなかで耐えてゆくことしかできない、耐えに耐えて、シェイクスピアのリア王のいう「あらゆる忍耐の雛型」the pattern of all patienceになるようなチェーホフの人物たちにとって、その苦しみ、その呻吟の原因は革命前のロシアであったとしたら、革命後のロシアでは、単純に考えれば、その苦しみも消えるはずである。『白衛軍』の最後で『ワーニャ伯父さん』の最後のセリフが引かれるのは、革命後あるいは赤軍の勝利の後も事態は好転するどころか、悪化の一途をたどるのではないかという作者の暗い予感と革命批判が原因だとするならば、あろうことか、スターリンは、そこに革命後の人々の望ましい心情をみたのである。
つまりたとえ革命に抵抗があったとしても、我慢して耐えてそれを受け入れるしかないのではないか。そうすればこれまでの苦しみも忘れ、いずれ一息つけるのだろう。こうロシアの人々、それも白衛軍に身を投じた軍人とかその親戚家族が思ってくれれば、革命は成功したも同じである。スターリンがこの芝居を好んだのは理由がないわけではなかった。革命はドン川の流れになろうとしているからである。
これはグラムシのいうヘゲモニーということかと言われればその通りである。ただしブルガーコフの『白衛軍』またそのあとに登場するもうひとつの白衛軍物語『静かなドン』の時代においても、革命を自然なもの抵抗できない運命とみるようなヘゲモニーはまだ十分に確立したわけではなかったと思われる。革命はいつなんどき転覆されるかわからなかった。そのためスターリンは、『白衛軍』のなかに、ヘゲモニーそのものではなく、ヘゲモニー確立の夢をヴィジョンを観たというべきだろう。
私はスターリン時代の粛清の実態について無知なので、とんちんかんなことを述べることになるのかもしれないが、あるいはすでに述べているのかもしれないが――あえて白衛軍物語(ブルガーコフの、また時代をくだってはショーロホフの)を許可したことに対しては、受容者の側に緊張が生まれたことは想像にかたくない。
反革命側の物語を受容することは、受容者が――その政治的立場はなんであれ――反革命側とみなされる危険性もある。だがこれが許されているということは、作品がゲリラ的な反体制的営為ではなく、それどころか革命側の意向に沿ったものだ思うしかない。では、どういう点で意向に沿っているのか。単純に考えれば白軍は負けるということである。白衛軍の歴史的使命は終わったということである。だが滅んでゆくものへの哀惜の念あるいはノスタルジアを作者が抱いていたとしても、なんらかのかたちで監視され粛清の対象となるかもしれない受容者には、それが求められていたとは思えない。
では受容者には何が求められるのか。それは、スターリンのヘゲモニーの成立の夢を、みずからの夢として引き受けることであろう。理屈でもない思想でもない哲学でもない、ただ受け入れること――革命を、ゆるぎない自然現象として受け入れるような心的傾向をもつこと。ヘゲモニーの夢を共有することである。
もし民主的な国家で言論や思想や信教の自由が保障されている場合は、これは反政府的・反体制的なゲリラ的あるいはテロ的な作品上演であろう。しかし統制国家・監視国家においては、一見ゲリラ的公演であっても、それが許可されている以上、政府とのなんらかの共謀が疑われる。そのため観客は舞台のなかにポジティヴなメッセージを読み取ろうとする。それが革命の受け入れである。あるいは革命が受け入れるであろうという想定であり予測である。観客が劇から、みずからが批判されないようなメッセージを見出すとき、観客はスターリンの姿勢と同調したことになる。おそらくこれはブルガーコフが関知しないどころか、夢にも思わなかったかもしれない。しかしスターリンにとっては観客のなかに望ましい心情を形成したことになる。
スターリンにとって、革命の英雄たちは、自身の地位を脅かしかねないために、次々と粛清されたようだが、白衛軍物語をこしらえ革命以前の時代へのノスタルジアにひたるような反革命勢力は敵でありながら同時に敵ではなかったということである。彼ら反革命勢力によって革命のヘゲモニー確立への道が開かれたのだから。
敵こそわが友であった。
エピローグ『静かなドン』の作者ショーロホフも、スターリンと同じようなことを考えて、白衛軍物語である大河小説を書いたのだろうと私は考えていた。しかし『静かなドン』の分厚い英語訳版のイントロには驚くべきことが書かれていた。
『静かなドン』は1926年(『白衛軍』初演の年)から1940年にかけての雑誌連載を本にしたものである。白衛軍に身を投じた主人公という設定には危険なものがあったが、さらに革命政権の強圧的な改革が赤裸々に描かれている部分があって、これが連載時には検閲にひっかり、連載中止の可能性が出てきた。このときショーロホフ(当時20代前半)はゴーリキーの紹介でスターリンと直談判することになった。ショーロホフとスターリンとの短い会合で何が話し合われたのかわからないが、ただ、その結果、連載再開が認められたのである。
ブルガーコフに寛容な態度を示したスターリンには、同じ白衛軍物語を書きつつあったショーロホフにも寛容な態度を示した。いったいスターリンはどういう人間なのだと言いたくなるが、それは的確な政治的判断だったのかもしれない。
『白衛軍』の上演プログラムには「ブルガーコフの生涯と作品」という短い記事があり(ヴァレリー・グレチュコ/増本浩子訳)、そのなかで若き天才詩人マヤコフスキーが自殺した直後のことで、世間を騒がせるような自殺者がもうひとり出ることをスターリンが嫌ったからではないかと書かれている。
【ちなみに1930年「4月17日の葬儀には15万人の人々が参列し、レーニン、スターリンの葬儀に次ぐ規模となった」とWikipediaは書いているが、このときスターリンはまだ死んでいない】
ショーロホフの場合はどうか。彼は20代になったばかりの頃に『静かなドン』の連載をはじめた天才的作家だったが、その作風は、伝統的なあるいは保守的なリアリズムである。革命政権に批判的なことを書いているようだが、赤軍としても戦ったショーロホフは政権にとっても利用価値の高い作家と判断したようだ。おそらくこの判断には、当時、ロシア・フォルマリズムの流行が影を落としていた。フォルマリズムというわけのわからない、エリート的、前衛的、文学理論は、ショーロホフのリアリズム小説に比べたら大衆受けもしない、大学人がもてあそぶブルジョワ理論としかみなされなかった。事実、ショーロホフに温情が示されたのとは対照的に、この時期、フォルマリズムは弾圧され、やがてフランス構造主義に見出されるまで歴史から消えることになる。
とはいえショーロホフがいくらソヴィエト政権にとって気に入られた作家だったとしても、『静かなドン』を書いたのは、敵を描くことで味方を強化するという文化的ヘゲモニー形成に加担する意図はおそらくなく、たんに社会主義政権が気に入らなかったからだ。それが今にしてみればわかる。『静かなドン』は、端的にいって、反革命の小説である。滅びゆく旧勢力とドン・コサックに捧げられたレクイエムである。前衛的(とまではいえないかもしれないが、また『白衛軍』はチェーホフ的なのだが)・モダニズム的ブルガーコフと、保守的なショーロホフがともに、ロシア革命によって失われた世界のレクイエムを作っていたのである。