原作が刊行されたときは、すごく評判のよい作品だったのだが、私個人としては大嫌いな作品である。とはいえこのような設定の推理小説は、おそらくはじめてかもしれず、理屈っぽい推理の部分も、丁寧かつ分かりやすい文章で、すんなり頭に入ってくるため、佳作であること(人によっては傑作と思だろうが)は、まちがいない。
以下、ネット上でのレヴューを部分的に引用して感想をまとめてみたい。実際にあったレヴューなのだが、その証拠や出典は明記しないので、嘘だと思われてもしかたがない。また省略をしたところは多いのだけれでも、文言を変えたり編集したりはしていない。
A. ミステリーの本質部分は変わっていないが、原作で意外とよいと感じて、どう映像で表現するのか楽しみにしていたところが、スルーされたのに、少しだけガッカリした。上記のように大人の事情でしかたないことは分かっている。
このコメント通りで、評判の作品なのに映画化が遅れたのは、理由がある。私も映像としてどう表現するのか興味津々だったが、上記のコメントのように完全にスルーされていた。
小説、あるいはラジオドラマでは、最後まで隠されているある事実が、映画では最初からわかってしまうので、どうするのか、と。上記レヴューアーの言うように、それは「大人の事情ではない」。小説やラジオでは可能でも映画では不可能であるというメディアの事情である。
B.……それに犯人の動機がいまいちピンとこない。ストーリーが陳腐なのが残念。結局明かされなかった嶌ちゃんの悪行は何だったのか?波多野に自分を推してくれと頼んだことか或いは⁈
上記Aの事情があって、嶌(しま)/浜辺美波の悪行というか秘密が不問のまま終わることになった。手紙は中身がわからないシニフィエなきシニフィアンで終わっている。またそのため嶌/浜辺美波の性格も原作と異なり改変されている。それは
C.原作通りなんでしょうけど、嶌の人物像が胡散臭いのが何とも言えない。
めちゃくちゃ強かで嫌な女だなって感じを上手に演じた浜辺さんが見事でした。
原作どおりではない。映画では、嶌/浜辺の人物像が確かに胡散臭いものになっている。ただし、それは全員怪しいという推理ドラマの定石でもある(それをいうのなら小説も同じ)。ただこの定石が、できるOLである嶌/浜辺に対して世界に冠たる女性差別国日本の男性に対してミソジニックな反応を喚起することになった。嶌は、波多野に自分を推してくれと頼むエゴイスティックな女性でもあるが、それを除けば好感こそ抱くことこそあれ、反感を抱くことにはならない。まあ世界に冠たる女性差別国日本の男子にとっては、浜辺美波は、戦後まもなくのころ、銀座でゴジラの爆風にふっとばされて死んだと思われるような被害者こそふさわしいのだろう。
D. 浜辺美波の弱みは何だったんだろう…
というコメントもあったが、確かに映画では弱みが描かれていない。原作には、最後のほうで(まあ、いわゆる伏線回収というところで)あかされるいくつかの弱みがある。ところが、その弱みも悪行ではない。ただし隠すことも嘘をついていたことになるのなら、彼女も嘘つきである。また原作での彼女は映画でみせるようなエゴむきだしの性格でもない。
E. 出演者、事務所、大学に忖度し過ぎた為に、オチがもう一つ。二十代なんだから、病死より事故死のほうが、よりリアル感が出せた。東大ではなく一橋にしたのも、六大学揃わずシックリこない。
しかし出演者や事務所に忖度する必要のない原作においてもオチというか犯人は同じ。もう一つといわれても、原作がそうなのだからしかたがない。東大生が混じっていないことについては原作にコメントがある。とはいえ、それほど納得できる理由ではないが。なお原作と映画では出身大学にちがいがみられる。原作では六大学ではないし、映画でも六大学ではない。
F. 勝手な最終面接がまかり通ってる、カメラ越しの訴えが通らない、最終選考の方針が急に変わるあたり、確かにダメな会社、終わってる人事だなとは思いましたけど。
むしろあんな会社だと普通の人は辞退するような。。
あと、安易に主人公を病死させてよかったのか?取り返しつかない感を安易に演出しててチープに感じました。
このコメントは正しいというか正鵠を射ていると思う。勝手な最終面接がまかり通っている。最初は6人一致団結して何か企画をつくりあげるのが課題で、でき次第では6人全員を採用してもいいという集団面接だったが、急遽、6人で相談の上、内定者を一人決めるという集団面接会議を行なうという聞いたことがない方式に変更。「確かにダメな会社、終わってる人事だなとは思いましたけど。/むしろあんな会社だと普通の人は辞退するような」というコメントはまさにそのとおり。ちなみに8年後におけるその会社の就職面接では、通常の面接なのだが、面接官がただひとりというありえない面接。原作では面接官が複数いたのだが--これでもし決まるのなら、こんな会社、辞退したほうがいい。
主人公の病死は、展開上、それなりの理由があるとしても、安易のそしりは免れない。主人公が殺されていたら、これも安易なことはまちがいないが、それほど批判されることもない。病死という設定が安易に思われる。私が原作に対していいだく不快感も、こうした安易さに原因があるのかもしれない。
「最終選考の方針が急に変わる」ことについては、急遽という感じだったが最初から予定していたことであり、なぜそうしたかについては原作に説明がある。とはいえ計画どおりだとしても、会社の人事面接の闇がうかがえる。圧迫面接あるいはそれに近いような競争させて順位を決めさせるような集団面接、混乱させて本音を引き出すような面接、いずれにせよ、下手をすると人権無視の暴力的なものになりかねない。しかも、そうまでしてベストな人間を採用するかというとそうでもない。その就職面接のいい加減さを告発するというのが犯人の目的だが……
G. とりあえず犯人の犯行動機が弱すぎる。
H.先輩が面接落とされたからってそこまでやる?笑
というように犯人の動機が弱いことは事実。実はその先輩は落とされても、その後、起業し、その社長におさまっていることから、そんなことで、そこまでするかという感想は偽らざるものだろう。
そもそも就職面接は、オーディションと同じで、会社が求める人材でなければ落とされる。落とされても、その人物の全人格が否定されたり能力が過小評価されるということではない。にもかかわらず、就職面接が、特定の仕事に対する人物の適正とか会社が要求しているもので合否を決めるのではなく、全人的な評価で決まるという前提はどこかおかしい。
しかもその前提にたって、就職面接、あるいは会社の人事部の方針なり審査のいい加減さを告発しようとしても、無理がある。いわんや就職面接はコネなども重視されるだろうから、公平な審査ではありえない。それは審査するほうも、審査されるほうもわかっている。就職面接という題材は興味深いものがあるし、共感を呼ぶテーマかもしれないが、それが犯罪につながるというのは大げさすぎる。とはいえそんなに凶悪な犯罪ではなく、死人はでない(面接後の病死者がひとりでるにしても)。
では純粋に犯人当てのゲームを楽しめばいいかというと、そうでもない。囚人のジレンマのような、だれがどのように状況を認知するかについての論理的な解決が行なわれるわけではない。せっかく、殺人事件はないことにしたのだから、もっとゲーム性や論理性をたかめればよかったのにと思うのは私だけだろうか。
I. 物語の大半が一つの部屋で展開される為まるで舞台劇を観ているかの様な錯覚を覚えます。カメラの位置を細かく変えたり、カット割りを増やしたりして舞台との差別化をはかろうとしていましたが、役者さんの演技自体が芝居がかっているので舞台劇の空気感を払拭するまでには至っておりませんでした。
個人的には舞台で本作を鑑賞したみたい気持ちにさせられてしまいました。
ヘキサゴンの部屋のなかで、6人が議論し知恵を出し合い、徐々に真相に近づいていくのだが……。という構成は、舞台劇を観ているようで、興味深い。映画ファンのなかには、舞台など観たこともないのに、演劇的なものにアナフィラキシー反応を示す**がいる。舞台劇のような映画というのは、確固たる一ジャンルを形成していて、それはそれで実に濃密なドラマ空間を提供してくれていて退屈しない。スペクタクル映画など私には退屈きわまりないしろものである。
「役者さんの演技自体が芝居がかっているので舞台劇の空気感を払拭するまでには至っておりませんでした」とあるが、設定と物語は舞台劇だが、演技は芝居がかっていはない。そもそも緊張感みなぎる設定のなかで、むしろ演技は自然そのものであって、あれを芝居がかっているというのなら、どんな映画俳優の芝居も芝居がかっている。
とはいえ「個人的には舞台で本作を鑑賞したみたい気持ちにさせられてしまいました。」というのは同感である。
実際、この『嘘つきな6人の大学生』の佐藤祐市監督は『キサラギ』(2007年)の監督でもある。【『探偵はBARにいる』の古沢良太脚本。小栗旬、ユースケ・サンタマリアなど豪華俳優が共演。自殺したアイドル・如月ミキの一周忌に集まったファンの男たちが彼女の自殺の真相に迫っていく密室劇】 この『キサラギ』を観たとき私は、てっきり芝居の原作があるものと思っていた。それくらい舞台劇のよさが出ていた映画だったのだ。原作はなかった。むしろこの映画そのものがのちに舞台化された。原作の小説は、舞台劇の感じはしないというか、謎解きの推理小説は、そもそもが舞台劇なのだが。この映画をもとに舞台化することは充分に可能菜だろう。そのときは芝居がかった演技を劇場で堪能したい。
J.……怒っている場面が多かったため鑑賞することに疲れてしまい、各々の嘘に隠された真実が暴かれた時に感動する程の気力が残っていませんでした
この人は映画版『12人の怒れる男』(1957)は観ない方がいいい。12人がみんな怒っていますから。小説を読んでいるときには感じなかったのだが、映画版をみてあらためて、これが『12人の怒れる男』のような密室劇であることに思い至った。時間を区切って、議論の結果の投票を行なうというのも似ている。もちろん陪審員の審議と就職の集団面接とは違うのだが、密室での審議という点は似ている。しいて言えば陪審員の場合、犯人は外にいるのだが、この映画では犯人は中にいるということか。
K.察しの良いミステリ好きにはバレてしまいますが、このインサート・シーンは後半に大きな意味を持つ要素で、映画ならではの魅力的な仕掛けになっていました。
後半と前半で印象が変化する作品の要でもあるので鑑賞中は撮影している側の気持ちになって観る事をおすすめします。
L.豪華な俳優陣で有名作品という事で期待したのですが、展開が読めて眠くなってしまいました。d
常に推理小説とか推理ドラマ・映画に対して先が読めてしまうという、頭のいい人が必ず現れる。マウントをとりたくてしかたのない人間は、自分がバカであることを自覚しているがゆえに、頭のよさを誇示したいバカなのだろう。原作も小説も、先が読める展開ではない。私の頭が悪いだけかもしれないとしても。
またこの作品(小説でも映画)における犯罪計画は、周到であっても賭けにでるところがあって、よくこんな緻密で大胆な犯罪を計画できたとどんなに称賛してもしきれないところがある。先が読めるというバカよりも、先が読めなくて驚いたという人こそ、賢明で誠実で、頭のよい人である。
実は原作はKindleで読んだので、密室劇が終わったときに、もうほぼ読み終わったと思ったら、まだ全体の半分しか読み進めていないことに気づいた。本で読んでいれば、まだ半分であることがすぐにわかっていたはずなのだが、Kindle版では基本的にわからない。
原作は前半が密室劇、後半は、就職が内定した一人が、病死した元候補者の遺した遺物を手掛かりに真相をつきとめる話。たしかに前半と後半では、どちらも一人称の告白だが、物語の展開は異なる。上記Kではインサート・シーンについて触れているが、これは原作でもそうで、原作のほうでも密室劇の部分に使われていて、集団面接の進行とともに、だれが最終的に内定者となったという謎の解明にかかわってくる。映画ならではの魅力的仕掛けではない。小説のほうが、もっといろいろなことができる。映画での使用は、単純すぎる。
最後に全体的なテーマとしてのこの映画の嫌なところ。通常の推理物あるいは警察ドラマでは、犯人は逮捕され罰を受ける。しかし、その犯行は、褒められたものではないし、憎むべき犯罪ながら、その動機とか、外的要因を考慮すると、犯人に同情することができる。あるいは被害者も、犯人から恨まれて殺されたようだが、意思疎通ができていたなら、被害者は加害者の味方であって、加害者から恨まれることは何もしていない。偶然のなりゆき、あるいは誤解によって、嘘によって、悲劇が起こってしまったのである。こうしたことが犯人が捕まってから解き明かされる。
これは私たちにおなじみの人情物の刑事ドラマ、推理ドラマである。
ところが一見、悪人だと思われた人間も、実は……というのがこの映画の原作で、ネタバレになるので中身を具体的に語ることはできないが、たとえば、パワハラとか公金供出で疑われ百条委員会で審査されることになった知事がいるとしよう。その知事の暴挙を、命を絶ってまでして告発した県職員もいた。議会では知事の不信任案が可決され、知事は、辞職し、知事選挙が行われた。実は、知事のことをよく調べてみると、改革を断行したものの、それを快く思わない勢力に恨まれ、ありもしないデマを流され、パワハラの悪者にでっちあげられたとわかった。知事に対する非難はすべて、抵抗勢力とマスコミがつくりあげたものにすぎない。パワハラ知事というのはフェイクである。ほんとうはとっても良い人で、責められるような人ではない。その証拠に知事に再選された。完全に無罪の人である。
という、おめでたい物語があったとしよう。これは犯人だが動機には同情の余地があるという推理小説とは異なり、犯人は犯人ではなかった。善人だったという推理小説である。裏には裏があり、容易にみかけに騙されてはいけない、たとえ何かが解決してもそれは真の解決ではないかもしれないという意識をはぐくむのが推理小説だとすれば、悪人といえども、ほんとうは全面的に善人であるというバカメッセージを垂れ流すような推理小説はクズである。ヒットラーだって、孫に対しては、やさしいおじいちゃんだったにちがいない(ヒットラーに孫はいないのだが)。だからといってヒットラーのユダヤ人虐殺を許せというようなものである。そうした不快感を原作の小説から得ることはできる。
この映画のいいところは、原作のもつ鼻持ちならない偽善的メッセージが緩和されているところである。
posted by ohashi at 22:17|
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