森功『魔窟-知られざる「日大帝国」興亡の歴史』(東洋経済 2024)を遅ればせながら読了した。一般書はKindleで購入するのだが、今回は書籍のかたちで今年の初めに購入し、なかなか読む時間をとることができなかったのだが、興味深い内容で、いよいよ読み始めたら、あっというまに読んでしまった。
まあ、こういうことだろうという予想通りの内容で、結局、学生やその父母が経営陣によって食い物にされているということだったが、ただ、それが取材によって白日の下にさらされた観があり、それはそれで衝撃的だった。
そもそも、たとえば太田光の裏口入学報道があり、名誉棄損の訴訟にまで発展したときでも、日大の側は何のコメントしなかった。在校生もいるし、また卒業生も多くいる。彼らの名誉を守るためにも、大学としては、自分のところは裏口入学など絶対にしていないと声明をだしてもよかったのではないか。おそらく在校生だったり卒業生だったら、それを望んでいたはずである。
結局、裏口入学などないと声明を出したら、事情を知る側から笑いものになるから出さなかったのだろう。どこの大学あるいは組織でも悪い奴はいる。そいつが裏口入学を斡旋しているということはあるかもしれない。しかし、発覚すればそれを処分すればいいのだから、とにかく裏口入学などしていないとなんらかのかたちで公言すればよかった。それをしなかった、あるいはできなかったのだから、組織だって裏口入学をやっていたことを暗黙のうちに認めたようなものである。
いっぽうでアメフト部の薬物事件では、林真理子理事長は、早々と、そのような事件はないと断言したのだが、実はそのとき事件は発覚していたのだから、単純に、嘘をつき隠蔽していたにすぎない。しかも、いずればれることを予期しなかったのだろうか。
太田光の訴訟とのきには、なんの声明も出さず、在校生・卒業生が汚名をきるにまかせ、薬物事件の際には早々と事実とは異なることを宣言して傷口を大きくし在校生・卒業生にまたも汚名をきせることになった。
経営陣は、ろくなことをしていないので、世間に堂々と顔向けできないため、隠蔽と虚偽によってひたすら逃走あるいは迷走するしかなくなっているのである。この経営陣は確かにひどい。憤りを感ずる。
私が、そんなふうに感ずるのは、短期間であれ日大で教えたことがあるからだ。アメフト部のグランドの横を週に一度通って日大文理学部のキャンパスへ赴いていた。そしてそのときの印象からすれば、日大の学生は、みんな勉強熱心で、努力家で、礼儀正しく、また人間的にも成熟した者たちばかりで、教師陣も、優秀で、教育体制あるいは研究体制も整っている。大学の学部・大学院の事務局も厳格かつ効率的に機能していて、どこからみても立派な大学である。
私は、どこか特定の大学を推薦したりほめたりすることはないが、もし私の親戚なり身内の者が、日大に行きたいという希望があれば、私は、良い大学だから入学試験に合格できるようがんばれとエンカレッジすることはまちがいない。
経営陣がいい加減だから、教育体制にも欠陥や不備があり、問題のある学生が多いと思われたら、学生たちが端的にいってかわいそうである。実際、この『魔窟』にも書かれているのだが、日大では学生の保護者たちが大学を告発している。せっかくよい教育環境が整えられているのに、ならず者のような経営陣によって食い物にされたら学生もたまったものではない。学生の保護者たちがいきどおるのも無理はない。
『魔窟』によれば、2024年度の日大受験生は、かなりその数を減らしているようだが(今年度はどうかはわからないが)、経営陣の迷走によって教育現場や学生たちのイメージが下がってしまうのは、ほんとうに心が痛い。しかも皮肉なことに、経営陣は、そのすべてではないが、その多くが日大の卒業生なのである。彼らは母校への愛がないのだろうか。母校の学生を食い物にして心が痛まないのだろうか。正常化の道はないわけではない。それは、どこかのテレビ局ではないが、トップが一刻も早くやめるしかないように思われる。
2025年01月30日
『室町無頼』
映画館で予告編を見る限り、大泉洋の時代劇は、さほど観たいとも思わなかったし、そもそも、あまりよくわからない室町時代が舞台であること。ポジティヴな期待をかきたてる唯一の要因といえば、それは入江悠監督・脚本の映画だということだった。
だから強く観てみたいと思わせるような映画ではなかったが、公開前に、この作品を絶賛しているネット記事にめぐりあったこともあり、どんな映画なのか俄然興味がわいてきた。
そこで公開まもない頃に映画館に足を運んだが、期待にたがわずというか、期待以上の映画であることが確認できた。
大泉洋も、いつもの、よく出会う役柄とはちがっていたし、NHK大河ドラマの源頼朝ともちがっていて、一見何の衒いもなく策もなく飄々と生きているかにみえて、残酷で無策な権力者への怒りを秘めつつも冷静で、敵の眼をあざむく策と用意周到な計略をもってしてことを進めるなど、一筋縄ではいかない端倪すべからざる人間性を誇る、まさにヒーローと無縁であるかにみえて、もっとも正統的なヒーローであった。
ちなみに私の祖母(私に将棋を教えてくれたが決して勝たせてくれなかった)は、剣道の心得などないはずなのに、テレビの時代劇をみてはいつも、俳優の剣の持ち方が悪いとか、腰が入っていないをはじめとして、ありとあらゆる文句をつけていたが、『室町無頼』におけるCGと組み合わされているがCGくささを感じない殺陣には、おそらく文句は言わないだろうと思った。実際、大泉洋をはじめとした演者たちの剣さばきには、映画特有の殺陣の伝統を見事に継承しているように感じた。
物語のなかで、蓮田兵衛/大泉洋の弟子ともいえる才蔵/長尾謙杜の棒術は、クライマックスにおいては地上から屋根の上へと展開する剣戟をみせるのだが、CGと協調するその殺陣は優雅であり力強く、決まった動きと予想外の動きとを見事に合体させて、たとえば映画『八犬伝』(2024)における天守閣の屋根での決闘をしのぐものがあった。
昔、セルゲイ・ボンダルチュク監督のソ連映画『戦争と平和』を映画館でみたとき、戦闘場面(ボロジノの戦いだったと思うが)において、画面の隅々から隅まで戦う兵士たちの動きが認められて大いに圧倒された記憶があるが、12万もエキストラを使った『戦争と平和』に比べれば数こそ少ないものの、強度においてそれに匹敵するほどの一揆の場面が展開していたことは特筆に値しよう。一揆に参加した民衆たち/エキストラたちが誰一人として手を抜くことなく、その絶望と怒りを発散させ、最後には祝祭的な興奮を一丸となって伝えることができていた。
おそらくそこには、黒澤明監督の『七人の侍』にみられたような、勝利をもたらしたのは農民/庶民の力だということの画像的メッセージが意図されているのだろうが、『室町無頼』においては、庶民の力の全面的肯定だけでなく、指導した蓮田兵衛/大泉洋の力もまた等しく顕彰されているように思われた。
『七人の侍』を思い出したついでに、『七人の侍』がアメリカ映画の西部劇の世界をモデルにしていたとしたら、『室町無頼』も西部劇的な世界だが、その音楽からもわかるように、アメリカの西部劇というよりもマカロニ・ウエスタンの世界である(英語ではスパゲッティ・ウェスタンという――こちらのほうが和製英語みたいだが、マカロニのほうが和製英語)。ただ西部劇もマカロニ・ウェスタンも荒野あるいは原野のなかに忽然と姿をあらわす宿場町のようなところが舞台となるのだが、『室町無頼』では、世界は荒野とか原野ではない、ただ荒廃した、累々たる死体の山が連なる地獄のようなところというか地獄そのものとなっている。その意味で、この世界は核戦争後の荒廃した世界を舞台にした『マッド・マックス』シリーズの世界、アフターアルマゲドン的世界に近い。だが、『マッド・マックス』の世界では主人公が戦う相手は地獄の大王というよりも地方の豪族みたいな連中であって、その世界の支配者や国家権力ではない(そもそも『マッド・マックス』の世界線においては国家は崩壊し世界の支配者はいない)。
映画では荒廃した京都が舞台だが、その京都は東山文化の時代ということのようだが、日本文化は御所あるいは幕府の建物以外にはもはや存在しない。これは中心部にだけ文明化されていても、その周囲にひろがるのは荒野でしかないという世界、そう映画『グラディエーターII』がみせる古代ローマ(紀元後の世界だが)の世界を強く連想させる。ただし『グラディエ―ターII』が貴種流離譚であるのに対し、『室町無頼』の蓮田/大泉は、あくまでも無頼の徒である。無頼の徒が実は将軍の落胤だったというような設定ではないところがよい。
ただし『室町無頼』から強く連想される最近の映画は、方向性が正反対で敵と味方が真逆でありながら、どこか似ている『はたらく細胞』である。戦争アクション映画はローテクであればあるほど迫力をます。そこに肉弾戦の要素が入るからである。ハッカーが戦争を起こし、ハッカーが戦争を防ぐという現代の戦争に映画的みどころは存在しない。『はたらく細胞』は、人体における生理的・化学的反応をすべて擬人化しているため、白血球も、キラーT細胞も、NK細胞もどれも、細菌をナイフで殺す――飛び道具は使わない。そしてそれは『室町無頼』における剣を使うアクションと何ら変わりない。
ただ、『はたらく細胞』との比較は、『室町無頼』の世界を照らすというよりも、『室町無頼』によって『はたらく細胞』の世界のイデオロギー的限界があぶりだされるのであって、この点は深追いしないでおくが、ただ、『はたらく細胞』と『室町無頼』は、両極にあるというか、同じ図柄を共有している絨毯の裏と表という関係にあることは明記しておきたい。
【たとえば室町幕府からみれば、一揆は、ガン細胞の増殖みたいなものである。しかし、がん細胞がいくら増殖して人体をのっとっても、人体をコントロールする力はない。それどころか人体を破滅させるしかない。一揆勢力はそれをわかっているから、国家権力に歯向かうとはいっても、農民や庶民を苦しめる証文を破棄するというかたちでとどまっている。国家転覆を目指しているわけではない。】
一揆という反乱は最後には祝祭となって終わる。庶民や農民の歓喜の踊りがそこにある。しかしまた犠牲者も多い。無血革命ではなく流血革命である。そしてそこには責任問題も生まれる。もちろん現実には、そのような成功した革命の指導者あるいは成功したテロのリーダーが責任をとらないことは多い。イスラエルの首相にもなったメナヒム・ベギンは、キング・デイヴィッド・ホテル爆破というテロ行為やデイル・ヤシーン村での虐殺事件などに関与した過激派のシオニスト=テロリストだったが、1978年にノーベル平和賞を受賞している(過去の違法なテロ行為を反省したからではない)。
文学・演劇・映画では、そのような非道を許すことはない。あるいは許さないからこそ、文学の存在価値がある。これは勧善懲悪とは違う。人を殺したら、自らもその責任をとらねばならない。いわゆるPoetic Justice(詩的正義)の問題である。ハムレットがあやまって人を殺したとき、ロミオが友人を殺した人間を激昂して殺したとき、この主人公たちは、同情に値する優れた人間であるけれども、劇の最後には死ぬのだろうと観客は予想し、そのとおりになる。だが、死による代償を払うことによって、その行為は高貴さと崇高さをまとうことになる。
『室町無頼』でも、多くの死に関係する者たちがのうのうと生き延びることはしない。生き延びてほしい人物も含めて、関係者には死の代償が訪れる。だが、それによって、行為(一揆)が無駄であったということではなく、むしろ一揆の精神が魂が後世に生き延びて行けるのである。その意味でも、けっこう正統的な時代劇であった。
【追記:私がはじめて読んだ本格的時代小説は、井上靖の『風林火山』だった。その作品が収録されている本には、さらにもうひとつ井上作品(長編)が収録されていて、それが『戦国無頼』であった。『風林火山』には史実に基づく人物が登場していたが、『戦国無頼』の主要人物はすべて虚構の人物だった。彼らの愛憎劇が主流であり、そのため子供の私にはあまり面白くなかった。またこの『戦国無頼』は映画化されていた。私が生まれるまえに制作された映画(1952年、稲垣浩監督、三船敏郎、三國連太郎、山口俶子ほか)で、いまでもDVD とか配信でみることができるのかどうかわからないが、この小説あるいは映画と『室町無頼』は関係あるのだろうか。まあ、関係ないようだが。
『国民の文学20 井上靖 風林火山 戦国無頼他』(河出書房)】
だから強く観てみたいと思わせるような映画ではなかったが、公開前に、この作品を絶賛しているネット記事にめぐりあったこともあり、どんな映画なのか俄然興味がわいてきた。
そこで公開まもない頃に映画館に足を運んだが、期待にたがわずというか、期待以上の映画であることが確認できた。
大泉洋も、いつもの、よく出会う役柄とはちがっていたし、NHK大河ドラマの源頼朝ともちがっていて、一見何の衒いもなく策もなく飄々と生きているかにみえて、残酷で無策な権力者への怒りを秘めつつも冷静で、敵の眼をあざむく策と用意周到な計略をもってしてことを進めるなど、一筋縄ではいかない端倪すべからざる人間性を誇る、まさにヒーローと無縁であるかにみえて、もっとも正統的なヒーローであった。
ちなみに私の祖母(私に将棋を教えてくれたが決して勝たせてくれなかった)は、剣道の心得などないはずなのに、テレビの時代劇をみてはいつも、俳優の剣の持ち方が悪いとか、腰が入っていないをはじめとして、ありとあらゆる文句をつけていたが、『室町無頼』におけるCGと組み合わされているがCGくささを感じない殺陣には、おそらく文句は言わないだろうと思った。実際、大泉洋をはじめとした演者たちの剣さばきには、映画特有の殺陣の伝統を見事に継承しているように感じた。
物語のなかで、蓮田兵衛/大泉洋の弟子ともいえる才蔵/長尾謙杜の棒術は、クライマックスにおいては地上から屋根の上へと展開する剣戟をみせるのだが、CGと協調するその殺陣は優雅であり力強く、決まった動きと予想外の動きとを見事に合体させて、たとえば映画『八犬伝』(2024)における天守閣の屋根での決闘をしのぐものがあった。
昔、セルゲイ・ボンダルチュク監督のソ連映画『戦争と平和』を映画館でみたとき、戦闘場面(ボロジノの戦いだったと思うが)において、画面の隅々から隅まで戦う兵士たちの動きが認められて大いに圧倒された記憶があるが、12万もエキストラを使った『戦争と平和』に比べれば数こそ少ないものの、強度においてそれに匹敵するほどの一揆の場面が展開していたことは特筆に値しよう。一揆に参加した民衆たち/エキストラたちが誰一人として手を抜くことなく、その絶望と怒りを発散させ、最後には祝祭的な興奮を一丸となって伝えることができていた。
おそらくそこには、黒澤明監督の『七人の侍』にみられたような、勝利をもたらしたのは農民/庶民の力だということの画像的メッセージが意図されているのだろうが、『室町無頼』においては、庶民の力の全面的肯定だけでなく、指導した蓮田兵衛/大泉洋の力もまた等しく顕彰されているように思われた。
『七人の侍』を思い出したついでに、『七人の侍』がアメリカ映画の西部劇の世界をモデルにしていたとしたら、『室町無頼』も西部劇的な世界だが、その音楽からもわかるように、アメリカの西部劇というよりもマカロニ・ウエスタンの世界である(英語ではスパゲッティ・ウェスタンという――こちらのほうが和製英語みたいだが、マカロニのほうが和製英語)。ただ西部劇もマカロニ・ウェスタンも荒野あるいは原野のなかに忽然と姿をあらわす宿場町のようなところが舞台となるのだが、『室町無頼』では、世界は荒野とか原野ではない、ただ荒廃した、累々たる死体の山が連なる地獄のようなところというか地獄そのものとなっている。その意味で、この世界は核戦争後の荒廃した世界を舞台にした『マッド・マックス』シリーズの世界、アフターアルマゲドン的世界に近い。だが、『マッド・マックス』の世界では主人公が戦う相手は地獄の大王というよりも地方の豪族みたいな連中であって、その世界の支配者や国家権力ではない(そもそも『マッド・マックス』の世界線においては国家は崩壊し世界の支配者はいない)。
映画では荒廃した京都が舞台だが、その京都は東山文化の時代ということのようだが、日本文化は御所あるいは幕府の建物以外にはもはや存在しない。これは中心部にだけ文明化されていても、その周囲にひろがるのは荒野でしかないという世界、そう映画『グラディエーターII』がみせる古代ローマ(紀元後の世界だが)の世界を強く連想させる。ただし『グラディエ―ターII』が貴種流離譚であるのに対し、『室町無頼』の蓮田/大泉は、あくまでも無頼の徒である。無頼の徒が実は将軍の落胤だったというような設定ではないところがよい。
ただし『室町無頼』から強く連想される最近の映画は、方向性が正反対で敵と味方が真逆でありながら、どこか似ている『はたらく細胞』である。戦争アクション映画はローテクであればあるほど迫力をます。そこに肉弾戦の要素が入るからである。ハッカーが戦争を起こし、ハッカーが戦争を防ぐという現代の戦争に映画的みどころは存在しない。『はたらく細胞』は、人体における生理的・化学的反応をすべて擬人化しているため、白血球も、キラーT細胞も、NK細胞もどれも、細菌をナイフで殺す――飛び道具は使わない。そしてそれは『室町無頼』における剣を使うアクションと何ら変わりない。
ただ、『はたらく細胞』との比較は、『室町無頼』の世界を照らすというよりも、『室町無頼』によって『はたらく細胞』の世界のイデオロギー的限界があぶりだされるのであって、この点は深追いしないでおくが、ただ、『はたらく細胞』と『室町無頼』は、両極にあるというか、同じ図柄を共有している絨毯の裏と表という関係にあることは明記しておきたい。
【たとえば室町幕府からみれば、一揆は、ガン細胞の増殖みたいなものである。しかし、がん細胞がいくら増殖して人体をのっとっても、人体をコントロールする力はない。それどころか人体を破滅させるしかない。一揆勢力はそれをわかっているから、国家権力に歯向かうとはいっても、農民や庶民を苦しめる証文を破棄するというかたちでとどまっている。国家転覆を目指しているわけではない。】
一揆という反乱は最後には祝祭となって終わる。庶民や農民の歓喜の踊りがそこにある。しかしまた犠牲者も多い。無血革命ではなく流血革命である。そしてそこには責任問題も生まれる。もちろん現実には、そのような成功した革命の指導者あるいは成功したテロのリーダーが責任をとらないことは多い。イスラエルの首相にもなったメナヒム・ベギンは、キング・デイヴィッド・ホテル爆破というテロ行為やデイル・ヤシーン村での虐殺事件などに関与した過激派のシオニスト=テロリストだったが、1978年にノーベル平和賞を受賞している(過去の違法なテロ行為を反省したからではない)。
文学・演劇・映画では、そのような非道を許すことはない。あるいは許さないからこそ、文学の存在価値がある。これは勧善懲悪とは違う。人を殺したら、自らもその責任をとらねばならない。いわゆるPoetic Justice(詩的正義)の問題である。ハムレットがあやまって人を殺したとき、ロミオが友人を殺した人間を激昂して殺したとき、この主人公たちは、同情に値する優れた人間であるけれども、劇の最後には死ぬのだろうと観客は予想し、そのとおりになる。だが、死による代償を払うことによって、その行為は高貴さと崇高さをまとうことになる。
『室町無頼』でも、多くの死に関係する者たちがのうのうと生き延びることはしない。生き延びてほしい人物も含めて、関係者には死の代償が訪れる。だが、それによって、行為(一揆)が無駄であったということではなく、むしろ一揆の精神が魂が後世に生き延びて行けるのである。その意味でも、けっこう正統的な時代劇であった。
【追記:私がはじめて読んだ本格的時代小説は、井上靖の『風林火山』だった。その作品が収録されている本には、さらにもうひとつ井上作品(長編)が収録されていて、それが『戦国無頼』であった。『風林火山』には史実に基づく人物が登場していたが、『戦国無頼』の主要人物はすべて虚構の人物だった。彼らの愛憎劇が主流であり、そのため子供の私にはあまり面白くなかった。またこの『戦国無頼』は映画化されていた。私が生まれるまえに制作された映画(1952年、稲垣浩監督、三船敏郎、三國連太郎、山口俶子ほか)で、いまでもDVD とか配信でみることができるのかどうかわからないが、この小説あるいは映画と『室町無頼』は関係あるのだろうか。まあ、関係ないようだが。
『国民の文学20 井上靖 風林火山 戦国無頼他』(河出書房)】
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2025年01月28日
『ボーダーランズ』
TVガイドWeb によるストーリー(Web2025.1.27)
まあ、観てみて面白かったのだが、しかし、アメリカでの評判はすこぶる悪い。今年度の栄誉あるゴールデンラズベリー賞にノミネートされていて、3月1日には受賞するかもしれない。記事にあるように人気のビデオゲームの映画化なのだが、そうした映画としては歴代最悪から二番目の興行収入らしい。
アマゾンのプライムビデオをパソコンとかテレビの画面、タブレットや携帯の画面などで観ていると、充分に面白いのだが、映画館の大きなスクリーンで観ると、さすがに安っぽさが目についてしまうのだろうか。
配役にも問題があるかもしれない。ゲームでは22歳という設定のリリス(主人公)を、映画では55歳のケイト・ブランシェットが演じている。映画のなかではもう若くないというようなことをケイト・ブランシェットは述懐するし、また中高年の女性が主人公で悪いということはないが、ただ、どうみても若い女性という設定のようなので、中高年の女性が女子高校生のコスプレをしているような痛々しさがある。ケイト・ブランシェット自身は、このハードなアクション役をけっこう気に入っているようなのだが、しかし、誰もが、彼女に対して仕事を選んだらと言いたくなる。あるいはケイト・ブランシェットの無駄遣いという気がしてならない。
もう一人の無駄遣いはケヴィン・ハートである。Netfixオリジナルの映画『Lift/リフト』(2024)ではお笑いを封印した役柄で、それはそれでよかったのだが、今回は、お笑いが中途半端。一輪車ロボットのクラップトラップが、ケヴィン・ハートが演じてもいい、うっとうしい色物のロボットだったが、その声をジャック・ブラックが担当していて、お笑いは彼が独占している観がある。そのためケヴィン・ハートはティナ姫を守る兵士くずれのボディガードだけれども、100%のヒーローかというと、その小柄な容姿がややコミカルで、結局、ヒーローなのか道化なのか、どっちつかず。さらにいえばティナ姫を守る巨漢のクリーグと小柄なローランド/ケヴィン・ハートという凸凹コンビも、その特徴をよく活かしていない。ケヴィン・ハートの無駄遣いである。
ジェイミー・リー・カーチス演ずる科学者タニスは、オリジナルのゲームでは、おそらくぶっ飛んだ科学者なのだろうが、映画版ではごくふつうの科学者にすぎない。彼女は、リリス/ケイト・ブランシェットとは母と娘ほどの年齢差なのだが、実年齢では10歳くらいしか離れておらず、しかも映画の中ではタニスとリリスは同じ年齢あるいは同じ世代にみえる。
またリリス/ケイト・ブランシェットの前に、生き別れになった母親がホログラムとなってあらわれるのだが、母親のほうが娘よりも若くみえるのは、設定をくずすことになる。
全体にこじんまりまとまりすぎてしまい、たとえば『マッドマックス』のような荒野での大追跡劇が、あるにはあるのだが、すぐに終わってしまい、あとは廃墟のなかでのドタバタで終わっている。物語は宇宙全体を巻き込む大事件であるのだが、大事件とは裏腹の矮小化された事件の羅列になっている。
とはいえ目まぐるしいアクション場面はそれなりに見ごたえはあるし、このグループで宇宙をところせましと飛び回るという往年のスペースオペラ的(『スター・ウォーズ』的といったほうがわかりやすいか)展開あるいは続編も見込めそうだと思うのだが、しかし、映画のはじめのほうで予想される展開はそうではなかった。
冒頭からケイト・ブランシェットによるナレーションは、設定を説明するのだが、どこか斜に構えていて、こんなくらだらいことを誰が信ずるかというアイロニカルな語調が際立っていて面白く、しかも冒頭登場するリリス/ケイト・ブランシェットは、賞金稼ぎだが、中高年女性で、人生にも仕事にも疲れ、すべての事象を距離を置いてみているのだが、それでいて有能きわまりないという、なかなか魅力的な役柄だった。彼女に仕事を依頼しに来る人間をうっとうしく思い、そのボディガードをさっさと射殺してしまうところも、変にジャンル映画におもねったりしないリアルな人物像となっていて期待がたかまった。だが期待は期待だけで終わり、実現することはなかった。
最旬!動画配信トピックス
「ボーダーランズ」見どころを紹介! ケイト・ブランシェットら個性派チームのぶっ飛び逃避行
世界中で愛される大人気ゲームを原作に、惑星・パンドラで繰り広げられるスリルとユーモアの旅を描いたアクションアドベンチャー映画「ボーダーランズ」がPrime Videoで配信中。ホラー映画の名手であるイーライ・ロスの監督最新作としても、名優のケイト・ブランシェット主演作としても話題の本作に、注目が集まっている。
物語の始まりは、主人公の賞金稼ぎ・リリス(ケイト・ブランシェット)が宇宙一の大物実業家・アトラス(エドガー・ラミレス)に娘の捜索を依頼されるところから。彼の娘であるタイニー・ティナ(アリアナ・グリーンブラット)が惑星・パンドラで行方不明になったようで、彼女を見つけ出して連れ戻すよう指示される。報酬に満足して依頼を受けたリリスは、自らの故郷でもあるパンドラへ。だが、簡単に思えた任務の裏には、宇宙を揺るがす壮大な陰謀が潜んでいた――。【以下略】
まあ、観てみて面白かったのだが、しかし、アメリカでの評判はすこぶる悪い。今年度の栄誉あるゴールデンラズベリー賞にノミネートされていて、3月1日には受賞するかもしれない。記事にあるように人気のビデオゲームの映画化なのだが、そうした映画としては歴代最悪から二番目の興行収入らしい。
アマゾンのプライムビデオをパソコンとかテレビの画面、タブレットや携帯の画面などで観ていると、充分に面白いのだが、映画館の大きなスクリーンで観ると、さすがに安っぽさが目についてしまうのだろうか。
配役にも問題があるかもしれない。ゲームでは22歳という設定のリリス(主人公)を、映画では55歳のケイト・ブランシェットが演じている。映画のなかではもう若くないというようなことをケイト・ブランシェットは述懐するし、また中高年の女性が主人公で悪いということはないが、ただ、どうみても若い女性という設定のようなので、中高年の女性が女子高校生のコスプレをしているような痛々しさがある。ケイト・ブランシェット自身は、このハードなアクション役をけっこう気に入っているようなのだが、しかし、誰もが、彼女に対して仕事を選んだらと言いたくなる。あるいはケイト・ブランシェットの無駄遣いという気がしてならない。
もう一人の無駄遣いはケヴィン・ハートである。Netfixオリジナルの映画『Lift/リフト』(2024)ではお笑いを封印した役柄で、それはそれでよかったのだが、今回は、お笑いが中途半端。一輪車ロボットのクラップトラップが、ケヴィン・ハートが演じてもいい、うっとうしい色物のロボットだったが、その声をジャック・ブラックが担当していて、お笑いは彼が独占している観がある。そのためケヴィン・ハートはティナ姫を守る兵士くずれのボディガードだけれども、100%のヒーローかというと、その小柄な容姿がややコミカルで、結局、ヒーローなのか道化なのか、どっちつかず。さらにいえばティナ姫を守る巨漢のクリーグと小柄なローランド/ケヴィン・ハートという凸凹コンビも、その特徴をよく活かしていない。ケヴィン・ハートの無駄遣いである。
ジェイミー・リー・カーチス演ずる科学者タニスは、オリジナルのゲームでは、おそらくぶっ飛んだ科学者なのだろうが、映画版ではごくふつうの科学者にすぎない。彼女は、リリス/ケイト・ブランシェットとは母と娘ほどの年齢差なのだが、実年齢では10歳くらいしか離れておらず、しかも映画の中ではタニスとリリスは同じ年齢あるいは同じ世代にみえる。
またリリス/ケイト・ブランシェットの前に、生き別れになった母親がホログラムとなってあらわれるのだが、母親のほうが娘よりも若くみえるのは、設定をくずすことになる。
全体にこじんまりまとまりすぎてしまい、たとえば『マッドマックス』のような荒野での大追跡劇が、あるにはあるのだが、すぐに終わってしまい、あとは廃墟のなかでのドタバタで終わっている。物語は宇宙全体を巻き込む大事件であるのだが、大事件とは裏腹の矮小化された事件の羅列になっている。
とはいえ目まぐるしいアクション場面はそれなりに見ごたえはあるし、このグループで宇宙をところせましと飛び回るという往年のスペースオペラ的(『スター・ウォーズ』的といったほうがわかりやすいか)展開あるいは続編も見込めそうだと思うのだが、しかし、映画のはじめのほうで予想される展開はそうではなかった。
冒頭からケイト・ブランシェットによるナレーションは、設定を説明するのだが、どこか斜に構えていて、こんなくらだらいことを誰が信ずるかというアイロニカルな語調が際立っていて面白く、しかも冒頭登場するリリス/ケイト・ブランシェットは、賞金稼ぎだが、中高年女性で、人生にも仕事にも疲れ、すべての事象を距離を置いてみているのだが、それでいて有能きわまりないという、なかなか魅力的な役柄だった。彼女に仕事を依頼しに来る人間をうっとうしく思い、そのボディガードをさっさと射殺してしまうところも、変にジャンル映画におもねったりしないリアルな人物像となっていて期待がたかまった。だが期待は期待だけで終わり、実現することはなかった。
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2025年01月25日
満票の思い出 あと二つ
前日の記事のつづき
Nobody’s Perfect.
昔読んだのでタイトルも忘れてしまったし、またいろいろなアンソロジーに掲載されるような有名な作品ではないと思うのだが、小松左京のSF短篇に、航空会社とか鉄道会社などのために、事故を起こす仕事をしている会社を扱った作品があった。事故と言っても軽い事故であり、あえて人為的に起こす事故なので、死傷者などゼロの事故である。なぜそんなことをするのか。
たとえば航空会社が安全運航を心がけ、会社設立から現在に至るまで墜落事故ゼロを誇っているとしよう。これは実際に起っていることである。たとえば新幹線は開業当初から現在に至るまで大きな事故は起こしていないし、事故による死傷者は出ていない。そういう信頼性の高い運輸関係の会社は、しかし、いつか大事故を起こすのではないかという不安が、事故ゼロがつづけばつづくほど大きくなる。定時運行・事故ゼロというのは人員輸送業務にとって理想的であり完璧な状態だが、理想的であり完璧であればあるほど、人間は不安になる。いつか大きな事故が起こるのではないか、と。
そこでこうした不安を解消するために、小さな事故を起こす。たとえば航空機がエンジンから火を噴いて離陸できなくなるだけでなく、機体に火が燃え移って丸焼けになりかねなかった事故を起こす。それで安心をする。航空会社も完璧ではない。整備不良かどうかわからないが、とにかくなにか事故を起こす。そうすると利用客のほうは、やはりこの優良な航空会社も小さな事故は防げなかった、だから安心をする。端的にいって、よいことづくめだと、悪いことがおきないかと不安になるのだ。また過失あるいは瑕疵があることで、会社側に安全意識が高まり、次に事故を起こすことはあるまいと、利用客は安心するともいえる。
(なお人為的に起こす事故が、大惨事寸前の大事故だと、会社に対する不安が高まり、逆効果になるので、あくまでも小さな事故に限られる)。
前回、教授会で私が推薦演説をした人事候補者は満票で選出されたことを書いた。そのときあまり満票が続くので、最後の推薦演説の時は、1票か2票、白票とか反対票が入るのではないかと心配したが、そのようなこともなく、研究室で提案し、私が推薦演説を担当した人事案件はすべて満票での選出に終わったのだが、満票続きだったので私も最後まで満票かどうかほんとうに不安になった。前回と同じことを繰り返すが、候補者に問題があったのではなく、投票する人間が、スイッチを間違えて反対票を入れてしまうようなアクシデントがあるのではないかと心配したのである。またたいてい満票で選出されるので、私の連続満票は偉業でもなんでもなく、ありふれたことであった。
話を戻そう。会社の求めに応じてこうした些細な事故を人為的に起こすのを仕事している会社が生まれるというSFだった。実際に、そんな会社はないだろうが、気持ちはわかる。完璧な状態というのは気味が悪いのだ。欠陥があったり事故があったりすると、それが軽微なものであれば、安心できる。そしてそうした人為的な事故に対する需要はこれからますます増えるのではないかと思う。小松左京のSF短篇にあったのような事態はこれからほんとうに起こるにちがいない。
コンピュータというかAIがいろいろな管理をおこなうようになると大事故は皆無になるだろう。このパーフェクト状態は、慣れるまでには相当時間がかかる。1世紀くらいかかるかもしれない。その間、パーフェクト状態に対する不安は募る一方であろう。事故のない交通機関はおそらくもうすぐ実現するだろうが、事故のない交通機関は人類史上、例を見ない事態であって、なにか事故でも起こってくれないと心配になる。
パーフェクトな状態はパーフェクトではない。これはおそらくAIには理解できない人間の心理なのである。
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満票信仰の呪い
昔、昔、ある学会(学術団体)が、運営方針とか活動内容を決めるときに、全会員出席の総会において、全員が賛成票を投じなれければ、議案を承認しないことをルールとしてした。
その話を聞いたときに、私はなんというバカな学会なのだと思った。総会で一人でも反対したら、議案は否決されてしまい、下手をすると、何も決まらないまま終わってしまうのではないか。
なにか変な満票信仰みたいなものにとりつかれているのではないか。そうでなければ、そんな馬鹿なことをよく決めたものだと、あきれかえった。
しかし、それは学会設立当初に決めたルールであったという。なぜという私の質問に、直接明民主制を導入したかったからだということだった。それはけっこうだが、なぜ多数決の議決にしなかったのかという問いには答えてもらなかった。やはり満票信仰のせいだろうか。私が質問した相手は、すでにその学会を辞めていたのだが。
たとえば理事会(10名前後の理事)で何かを決めるときに全会一致を原則としてもいい。理事会が会員に何かを提案するとき、理事会のなかで意見の不一致があってはたまらない。だから理事会では全会一致の原則を守り、総会では多数決で決める。それならなんら問題もないのだが、総会において全会一致の原則を貫こうとしても無理ではないかと思った。当然の心配だが、学会設立メンバーは、気にも留めなかったようだ。
総会において一人でも反対したら議案は否決されることになる。実にあやうい議事進行であり学会運営なのだが、ただ、常識で考えた場合、一人でも反対したら否決というとき、それでも反対票を投ずるのは相当に勇気のいることである。とくに私以外のすべての会員が賛成している議案に対し、私が確信をもって問題ありと考えたとしても、反対の1票を投ずる勇気はない。したがって総会で全員一致ではないと議案を承認しないというのは、ある意味、全体主義である。そんな規則であれば、自由に反対意見あるいは少数意見を述べることも、反対の意思表示もできないではないか。こんなひどい同調圧力はない。おまえが反対すれば、この学会全体が音を立てて崩れるのだと脅されたとき、異議申し立てなどできるわけがない。
総会における全会一致で議案を承認するという方法は、調和と合意を重んじていながら、実は、ひどい強制である。直接民主制における少数意見の尊重であるかにみえて、少数意見の抑圧である。全会一致でないのなら、自由に反対意見や異議申し立てができる。たとえそのような反対意見は否決されたとしても、それが未来において有効な意見となる可能性は高い。
とにかく、総会における全会一致の原則を考えた学会設立メンバーは全員が善意のバカであり悪意のバカでもあったのだろう。
実際、その学会はどうなったのかというと、総会で必ず反対意見を述べる会員がいて、結局、なにごとも正式に決まらなくなった。それだと学会がすぐにも解体してしまうので、暫定的な決定による運営方式となった。またそれだけでなく、組織・運営が、全会一致の賛成が得られず合意のないまま、考えられる限りのいびつなかたちになって変則性が常態となるという目も当てられないものになった。
私は、あきれかえって、その学会を辞めたが、私が辞めてからほどなくして、その学会も解散した。満票信仰の呪いとしかいいようがない。総会で全会一致で解散に同意したのだろうか。解散の動議は満票で承認されたのだろうか。おそらく満票での同意を得られないまま、解散したのか解散できなかったのか、宙づりのまま、それでも消滅することになったのだろう。いまでそんな学会があったことなど誰も覚えてない。
Nobody’s Perfect.
昔読んだのでタイトルも忘れてしまったし、またいろいろなアンソロジーに掲載されるような有名な作品ではないと思うのだが、小松左京のSF短篇に、航空会社とか鉄道会社などのために、事故を起こす仕事をしている会社を扱った作品があった。事故と言っても軽い事故であり、あえて人為的に起こす事故なので、死傷者などゼロの事故である。なぜそんなことをするのか。
たとえば航空会社が安全運航を心がけ、会社設立から現在に至るまで墜落事故ゼロを誇っているとしよう。これは実際に起っていることである。たとえば新幹線は開業当初から現在に至るまで大きな事故は起こしていないし、事故による死傷者は出ていない。そういう信頼性の高い運輸関係の会社は、しかし、いつか大事故を起こすのではないかという不安が、事故ゼロがつづけばつづくほど大きくなる。定時運行・事故ゼロというのは人員輸送業務にとって理想的であり完璧な状態だが、理想的であり完璧であればあるほど、人間は不安になる。いつか大きな事故が起こるのではないか、と。
そこでこうした不安を解消するために、小さな事故を起こす。たとえば航空機がエンジンから火を噴いて離陸できなくなるだけでなく、機体に火が燃え移って丸焼けになりかねなかった事故を起こす。それで安心をする。航空会社も完璧ではない。整備不良かどうかわからないが、とにかくなにか事故を起こす。そうすると利用客のほうは、やはりこの優良な航空会社も小さな事故は防げなかった、だから安心をする。端的にいって、よいことづくめだと、悪いことがおきないかと不安になるのだ。また過失あるいは瑕疵があることで、会社側に安全意識が高まり、次に事故を起こすことはあるまいと、利用客は安心するともいえる。
(なお人為的に起こす事故が、大惨事寸前の大事故だと、会社に対する不安が高まり、逆効果になるので、あくまでも小さな事故に限られる)。
前回、教授会で私が推薦演説をした人事候補者は満票で選出されたことを書いた。そのときあまり満票が続くので、最後の推薦演説の時は、1票か2票、白票とか反対票が入るのではないかと心配したが、そのようなこともなく、研究室で提案し、私が推薦演説を担当した人事案件はすべて満票での選出に終わったのだが、満票続きだったので私も最後まで満票かどうかほんとうに不安になった。前回と同じことを繰り返すが、候補者に問題があったのではなく、投票する人間が、スイッチを間違えて反対票を入れてしまうようなアクシデントがあるのではないかと心配したのである。またたいてい満票で選出されるので、私の連続満票は偉業でもなんでもなく、ありふれたことであった。
話を戻そう。会社の求めに応じてこうした些細な事故を人為的に起こすのを仕事している会社が生まれるというSFだった。実際に、そんな会社はないだろうが、気持ちはわかる。完璧な状態というのは気味が悪いのだ。欠陥があったり事故があったりすると、それが軽微なものであれば、安心できる。そしてそうした人為的な事故に対する需要はこれからますます増えるのではないかと思う。小松左京のSF短篇にあったのような事態はこれからほんとうに起こるにちがいない。
コンピュータというかAIがいろいろな管理をおこなうようになると大事故は皆無になるだろう。このパーフェクト状態は、慣れるまでには相当時間がかかる。1世紀くらいかかるかもしれない。その間、パーフェクト状態に対する不安は募る一方であろう。事故のない交通機関はおそらくもうすぐ実現するだろうが、事故のない交通機関は人類史上、例を見ない事態であって、なにか事故でも起こってくれないと心配になる。
パーフェクトな状態はパーフェクトではない。これはおそらくAIには理解できない人間の心理なのである。
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満票信仰の呪い
昔、昔、ある学会(学術団体)が、運営方針とか活動内容を決めるときに、全会員出席の総会において、全員が賛成票を投じなれければ、議案を承認しないことをルールとしてした。
その話を聞いたときに、私はなんというバカな学会なのだと思った。総会で一人でも反対したら、議案は否決されてしまい、下手をすると、何も決まらないまま終わってしまうのではないか。
なにか変な満票信仰みたいなものにとりつかれているのではないか。そうでなければ、そんな馬鹿なことをよく決めたものだと、あきれかえった。
しかし、それは学会設立当初に決めたルールであったという。なぜという私の質問に、直接明民主制を導入したかったからだということだった。それはけっこうだが、なぜ多数決の議決にしなかったのかという問いには答えてもらなかった。やはり満票信仰のせいだろうか。私が質問した相手は、すでにその学会を辞めていたのだが。
たとえば理事会(10名前後の理事)で何かを決めるときに全会一致を原則としてもいい。理事会が会員に何かを提案するとき、理事会のなかで意見の不一致があってはたまらない。だから理事会では全会一致の原則を守り、総会では多数決で決める。それならなんら問題もないのだが、総会において全会一致の原則を貫こうとしても無理ではないかと思った。当然の心配だが、学会設立メンバーは、気にも留めなかったようだ。
総会において一人でも反対したら議案は否決されることになる。実にあやうい議事進行であり学会運営なのだが、ただ、常識で考えた場合、一人でも反対したら否決というとき、それでも反対票を投ずるのは相当に勇気のいることである。とくに私以外のすべての会員が賛成している議案に対し、私が確信をもって問題ありと考えたとしても、反対の1票を投ずる勇気はない。したがって総会で全員一致ではないと議案を承認しないというのは、ある意味、全体主義である。そんな規則であれば、自由に反対意見あるいは少数意見を述べることも、反対の意思表示もできないではないか。こんなひどい同調圧力はない。おまえが反対すれば、この学会全体が音を立てて崩れるのだと脅されたとき、異議申し立てなどできるわけがない。
総会における全会一致で議案を承認するという方法は、調和と合意を重んじていながら、実は、ひどい強制である。直接民主制における少数意見の尊重であるかにみえて、少数意見の抑圧である。全会一致でないのなら、自由に反対意見や異議申し立てができる。たとえそのような反対意見は否決されたとしても、それが未来において有効な意見となる可能性は高い。
とにかく、総会における全会一致の原則を考えた学会設立メンバーは全員が善意のバカであり悪意のバカでもあったのだろう。
実際、その学会はどうなったのかというと、総会で必ず反対意見を述べる会員がいて、結局、なにごとも正式に決まらなくなった。それだと学会がすぐにも解体してしまうので、暫定的な決定による運営方式となった。またそれだけでなく、組織・運営が、全会一致の賛成が得られず合意のないまま、考えられる限りのいびつなかたちになって変則性が常態となるという目も当てられないものになった。
私は、あきれかえって、その学会を辞めたが、私が辞めてからほどなくして、その学会も解散した。満票信仰の呪いとしかいいようがない。総会で全会一致で解散に同意したのだろうか。解散の動議は満票で承認されたのだろうか。おそらく満票での同意を得られないまま、解散したのか解散できなかったのか、宙づりのまま、それでも消滅することになったのだろう。いまでそんな学会があったことなど誰も覚えてない。
posted by ohashi at 00:04| コメント
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2025年01月24日
満票の思い出
米野球殿堂は21日(日本時間22日)、今年の殿堂入りメンバーを、メジャー通算3089安打を放ったイチロー(51)=本名・鈴木一朗=を選出した。全米野球記者協会(BBWAA)の有資格投票者394人のうち、1人の記者だけが票を投じず、得票率は99・7%。マリアーノ・リベラさん(元ヤンキース)以来、史上2人目の満票選出はならなかった。
イチローに票を入れなかった記者は誰なのか、なぜ入れなかったのか。その理由について、開示してほしい、ひょっとしたら何かのミスで投票しそこねたのではと、いろいろな意見が飛び交っているようだが、アメリカ野球史上、これまで満票で選ばれて殿堂入りした選手は一人しかいなかったみたいで、どんなに優れた選手でも満票は奇跡に近いということだろう。その奇跡が今回起こらなかったのは残念だが、しかたのないことでもあるのだろう。
私は満票で選ばれて何かになったということはないが、教授会では私が推薦演説をした候補は満票で選出されていた。
これは奇跡でもなんでもなくて、人事委員会で対立候補を立てることなく一人に絞った候補者が、教授会での審議と選挙によって否決されることはないし、またそうした候補はたいてい満票で選出されていた。ここでいう候補者とは、新任の教員か、昇格する教員である。
私が退職してから何年もたつので、いまも同じ形式で人事選考をすすめているのかわからないので、あくまでも私が在職中のことである。またそれだから話して問題はないだろう。時効が成立していると思う。
私が所属している研究室で人事案件を起こす場合、研究室主任が教授会で推薦演説をする。主任は研究室メンバーのうち最年長者がなるので(事情によっては、この原則が守られないこともあるのだが)、私は在職中の最後の数年間、研究室主任として、教授会で推薦演説を行なった。
私が推薦演説を行なった人物は、満票で選出された。とはいえこれは珍しいことはない。ほとんどの候補者が満票で選出されるからだ。ただし、時々、数票の反対票か白票が入ることがある。もちろん、それくらいの数の反対票は候補者選出にまったく影響しない。全体で何票あれば選出決定かは規則に定められているし、数票の反対票があっても、全く問題ではないからだ。
ただそれでも自分で推薦演説をした候補者が満票で選出されるのは気持ちがいいものである。そして私の主任の任期中、最後の推薦演説をする時がやってきた。これまで満票での選出だったから、今回も満票であって欲しかったが、さすがに最後まで満票というのはないかもしれないと思った。
候補者に問題があるのではない。私自身よりも業績がはるかに多い、優れた候補者だったから、選出されることは100%確実である。ただ満票で決まるかどうか。反対票か白票が1票か2票入るのではないか。それもスイッチを押し間違えて反対票に入れてしまうようなミスをする者によって。もちろんひとりかふたりミスをしても選出されることは間違いない。だから選出は100%確実であるのだが、神様がいたずらをして満票にしてくれないのではないか。いままでが運がよすぎたのでは。そんな思いが渦巻いていた……。
そしてその結果、私が在職中、最後の推薦演説を行なった候補者は満票で選出された。もちろん候補者の優秀さが正しく評価された結果だが、最後まで満票であったことで私は安堵し自己満足にひたっていた。
イチローに票を入れなかった記者は誰なのか、なぜ入れなかったのか。その理由について、開示してほしい、ひょっとしたら何かのミスで投票しそこねたのではと、いろいろな意見が飛び交っているようだが、アメリカ野球史上、これまで満票で選ばれて殿堂入りした選手は一人しかいなかったみたいで、どんなに優れた選手でも満票は奇跡に近いということだろう。その奇跡が今回起こらなかったのは残念だが、しかたのないことでもあるのだろう。
私は満票で選ばれて何かになったということはないが、教授会では私が推薦演説をした候補は満票で選出されていた。
これは奇跡でもなんでもなくて、人事委員会で対立候補を立てることなく一人に絞った候補者が、教授会での審議と選挙によって否決されることはないし、またそうした候補はたいてい満票で選出されていた。ここでいう候補者とは、新任の教員か、昇格する教員である。
私が退職してから何年もたつので、いまも同じ形式で人事選考をすすめているのかわからないので、あくまでも私が在職中のことである。またそれだから話して問題はないだろう。時効が成立していると思う。
私が所属している研究室で人事案件を起こす場合、研究室主任が教授会で推薦演説をする。主任は研究室メンバーのうち最年長者がなるので(事情によっては、この原則が守られないこともあるのだが)、私は在職中の最後の数年間、研究室主任として、教授会で推薦演説を行なった。
私が推薦演説を行なった人物は、満票で選出された。とはいえこれは珍しいことはない。ほとんどの候補者が満票で選出されるからだ。ただし、時々、数票の反対票か白票が入ることがある。もちろん、それくらいの数の反対票は候補者選出にまったく影響しない。全体で何票あれば選出決定かは規則に定められているし、数票の反対票があっても、全く問題ではないからだ。
ただそれでも自分で推薦演説をした候補者が満票で選出されるのは気持ちがいいものである。そして私の主任の任期中、最後の推薦演説をする時がやってきた。これまで満票での選出だったから、今回も満票であって欲しかったが、さすがに最後まで満票というのはないかもしれないと思った。
候補者に問題があるのではない。私自身よりも業績がはるかに多い、優れた候補者だったから、選出されることは100%確実である。ただ満票で決まるかどうか。反対票か白票が1票か2票入るのではないか。それもスイッチを押し間違えて反対票に入れてしまうようなミスをする者によって。もちろんひとりかふたりミスをしても選出されることは間違いない。だから選出は100%確実であるのだが、神様がいたずらをして満票にしてくれないのではないか。いままでが運がよすぎたのでは。そんな思いが渦巻いていた……。
そしてその結果、私が在職中、最後の推薦演説を行なった候補者は満票で選出された。もちろん候補者の優秀さが正しく評価された結果だが、最後まで満票であったことで私は安堵し自己満足にひたっていた。
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