2024年12月08日

それが問題だ

今年は、彩の国さいたま芸術劇場で『ハムレット』を、またパルコ劇場で『ハムレットQ1』を観ることができて、きわめて有意義な観劇体験を得たのだが、二つの公演のプログラムのなかのエッセイで、『ハムレット』の有名な独白、“To be or not to be, that is the question”が取り上げられていた。執筆者は同じ。そのエッセイでは、この有名な独白をめぐり、それがフェミニン・エンディングになっているということから、いろいろな連想が紡がれてゆき、書き手の文才に大いに感銘を受けたので、それはそれでいいのだが、ただ、シェイクスピアの無韻詩blank verseの例として、この独白の一行は、字余り/フェミニン・エンディング以外にもやっかいなことがある。私自身、大学で教えていた頃に、この一行をシェイクスピアのブランク・ヴァースの例としてとりあげたことは一度もない。

まず、“To be or not to be, that is the question” というのは日本風にいうと字余りになっていて、ブランク・ヴァースのルールに厳密に則ってはいない。

ブランク・ヴァースの特徴である弱強のリズムで確認してみよう。

To be or not to be, that is the question (太字は強勢を置いて発音するところ。なお強勢というのはstressということだが、日本語にはこれがないため発音しにくい。日本人の場合、強くではなく長く発音するほうが発音しやすい。そこで「トゥ、ビ~、オア、ノ~ット、トゥ、ビ~」となることが多い)

通常は10音節で、弱強という二拍子のリズムが5回くりかえされる。ところが上記のセリフでは11音節となり、末尾のtionの音節が余計になる。このような行の終わり方をfeminine endingと呼んでいる。

しかし問題はそれだけではない。前半のTo be or not to beはルール通りで弱強の二拍子のリズムが3回つづき、問題はない。ところが後半は、字余りということも含めて、弱強のリズムが不自然である。

そもそもthat is the questionを「ざっと・い~ず・ざ・くうぇ~すちょん」なんて発音をするのか。この台詞を弱強五歩格のブランク・ヴァースの例として引用する人間に問いたい。あなたは、後半をどうやって発音するのか、と。まさか「ざっと・い~ず・ざ・くうぇ~すちょん」なんて発音しませんよね。

なるほど、この台詞の後半は、4音節プラス1音節で、字余りとなる一音節を除けば、弱強の二拍子になるのだが、それは文字の並びをみてのことで、実際にそのリズムで発音するとなると、isに強勢を置くことになり、変則的で不自然になる。

可能性としては、
That is the questionと、弱強ではなく、強弱のリズムとなって、通常弱く発音されるisとtheをひとまとめにすると、これで変則の強弱4音節となる。

あるいは当時は-tion語は、フランス語と同じように(もともとフランス語からきているのだが)、ti-onと二音節で発音していた(つまり「クウェス・ティ・オーン」というように発音していた)。

そこで
That is the questi-onとなって、That is theが強勢がないところで、まとめて弱部とし、queが強勢のあるところ、そしてtiが強勢のないところ、onが強勢のあるところとなると、これで末尾が字余りではないかたちのセリフとなる。

では実際の(現代の)舞台ではどう発音されるのだろう。ネット上には、この台詞を語っている舞台とか映画の映像、あるいは朗読している映像なり音声が数多くある。ぜひ、それを聞いていただきたい。

後半を that is the questionといった珍妙な発音をするものは、私が観た限りではひとつもない。まあ当然である。isに強勢が入るのは不自然だからだ(たとえ強調の意味でbe動詞が強く発音されることはあるとしても)。ではどう発音されているのか。

ひとつには
To be or not to be, that is the question この後半部を平坦にさらっと流して発音するもの(弱強のリズムはなし)。

あるいは
To be or not to be, that is the question  thatを強く発音するが、それ以下がしりすぼみになるような発音。

どちらの発音も、この一行の意味を踏まえてのことである。To be or not to beと威勢よく二つの可能性を掲げ、次にどちらかを選ぶと思われたら、どちらの可能性も選べないというかたちで、腰砕けになるのが後半なのである。威勢の良い前半部と、弱腰になる後半部。この対比は面白いし、前半部と差異化するためにも、後半部は、弱弱しく、あるいは苛立たしく、「それが問題だ」と切り替える。

そして、このような台詞の流れの中で、“that is the question” などいう機械的で不自然な弱強のリズムは、あくまでも文字だけの存在で、実際に声に出されることはない。文字と声、形式と感情とが齟齬をきたしている。

思えば、これが『ハムレット』という作品のイメージとつながっている。つまり世界文学史上屈指の名作ながら、実際には、よくわからないところ、謎めいたところが多くて、単純には割り切れない。にもかかわらず、例にあげられたり、人気演目として上演される。

一見単純でわかりやすそうなこのTo be or not to beの台詞が、前半部の意味のわからなさと、全体として無韻詩のルールに従っているかにみえて字余りになるだけでなく、発音できそうで発音できない後半部によって、きわめて謎めいている。よく知られているが、同時によくわからない。そうした矛盾のかたまり、それがこの一行であり、それは作品の人気とわかりにくさと響きあっている。

さらにいえば前半の男らしい選択肢の宣言、後半の弱腰あるいは懐疑によって、ジェンダー的(伝統的なジェンダー的)観点からいえば、この一行は、前半部が男性的、後半部が女性的であり、両性具有的なのである。あるいはトランスジェンダー的。あるいは男性原理と女性原理がせめぎあっている。

この有名な台詞は謎めいているがゆえに限りない魅力を帯びている。ただ、ブランク・ヴァースの例としてだけは引用しないほうがいいと、余計なお世話かもしれないが、ここに記しておきたい。

付記:レッシング『賢者ナータン』丘澤静也訳(光文社古典新訳文庫2020)で訳者の丘澤静也氏は、訳者あとがきで、この作品が劇詩であることを触れて、次のように書かれている。
……だが劇詩『賢者ナータン』は、めずらしく散文ではなく、ブランクフェルス(Blankvers)で書かれている。
 〈ブランク[押韻のない]+フェルス[詩]〉は英語だとブランク・ヴァース(blank verse)。ポイントは押韻ではなく強弱。弱強5歩格というスタイルがポピュラーで、たとえばハムレットのせりふ――“To(弱) be(強), or(弱) not(強) to(弱) be(強): that (弱)is(強) the (弱)question(強)”。【p.304】

結局、ブランクフェルスを日本語に反映させるのは無理なので散文訳にしたと丘澤氏はことわっておられるのだが、英語のブランク・ヴァースの一例として、丘澤氏は、人口に膾炙しているこのハムレットのせりふを一例として引用されたかと思うのだが、この一行の後半の例外的なことには触れられていない。この一行は例にひかれがちなのだが、同時に例にひかれるほどの典型性はない。丘澤静也訳『賢者ナータン』は、すばらしい翻訳なのだが、読者は、あとがきのこの例には戸惑うかもしれない。そして、では代案があるのかといわれても、それはないとしか答えられず、ほんとうに面倒なのである。
posted by ohashi at 17:56| コメント | 更新情報をチェックする

2024年11月29日

スキンヘッドの女性

以下の記事が目についた。AbemaTVで2024年11月25日放送した番組の記事

「男かと思った」 坊主頭の女性に向けられる好奇の目 「好きでやっているのに変だと言われるのは悲しい」 ABEMA TIMES (Microsoft)
今SNSで話題の女性、Chiharuさん。映画で見た女性の坊主頭に憧れ、3年前にショートカットから坊主にした。しかし、彼女に注がれたのは「女性がなんで坊主?」という好奇の目。

「“あれ、男の人かな?女の人かな?”みたいな。そういう目で見られるのは気持ち悪い。(日本は)“女はこう、男はこう”みたいな固定概念が強い部分がある。好きでやっているのに、それは変だよと言われるのは悲しい」

あちこちにはびこるルッキズムについて、『ABEMA Prime』で彼女と考えた。

Chiharuさんは坊主にしたきっかけについて、「アニメやゲームで(女性キャラの坊主頭を)見て衝撃を受けて、“私もこうなりたい”と思った。髪の毛があった時は絶望というか、人生が暗い時期だったので、“運命を変えたい。今しかない”と思った」と説明。映画『G.I.ジェーン』の役作りで坊主にした米女優のデミ・ムーアへの憧れもあったという。

坊主にすると「男かと思った」「変だ」「髪は女性の命」「女性なら美しくあるべき」「髪があったほうがかわいいのに」などの声にさらされた。また、女性トイレに入ると驚かれるため、なるべく人がいないタイミングを選ぶことも。

しかし、再び髪の毛を伸ばしたい気持ちは「全くない」という。周囲の声についても、「最初は『なんで坊主?』『よりによって』と言われていたが、自分が好きでしたし、短いのが好きすぎて突き返した」と明かした。【以下、ルッキズム問題の記述へ】

「坊主頭」という表現は差別的な表現である。スキンヘッドと言い換えてほしい。

そしてここで話題になっているChiharuさん、端的に言って、美しい方で、美女は髪があってもなくても関係ない。また、「坊主にすると「男かと思った」「変だ」「髪は女性の命」「女性なら美しくあるべき」「髪があったほうがかわいいのに」などの声にさらされた」と記事にあるが、ほんとうにバカな日本人が多くて困る。というか日本人はバカだといいたい。

このChiharuさん「アニメやゲームで(女性キャラの坊主頭を)見て衝撃を受けて、“私もこうなりたい”と思った。」と語っているのだが、なぜ現実の女性がスキンヘッドだと嫌な顔をするのか。スキンヘッドを受け入れない日本人の美意識も感性も明らかに劣化しているとしかいいようがない。

実際問題、スキンヘッドの女性は、えもいわれぬ魅力がある。私がある学術団体の事務局長をしていた頃、近くの郵便局の窓口にスキンヘッドの若い女性がいた。彼女は、郵便局の窓口業務をはじめたばかりで、他の男性の郵便局員から指導を受けていたが、みんなとても親切に指導していた。他の男性局員にも人気があったのだろうと思う。

彼女の存在には、たまたま団体の郵便物を出しにいったときに気づいたのだが、以後、事務局に行くたびに、私は率先して郵便物をその郵便局にもっていった。事務局長たる者、そんなことは事務局員にまかせればいいのだが、こまめに雑用を引き受ける事務局長だろうと思われていたにちがいない。

順番もあって、彼女のいる窓口に郵便物を出すチャンスは、そんなにまわってこなかったが、待っているときに彼女のスキンヘッドと顔をみているだけで満足していた。スキンヘッドに見惚れていた。

その後、忙しくなって事務局の近くの郵便局に行っている時間がなくなって、彼女の姿をみることができなくなったのだが、私が郵便局に足繁く通っていた時期は、スキンヘッドのヴィーナスをみた至福の一時期だった。
posted by ohashi at 00:16| コメント | 更新情報をチェックする

2024年11月28日

『六人の嘘つきな大学生』

原作が刊行されたときは、すごく評判のよい作品だったのだが、私個人としては大嫌いな作品である。とはいえこのような設定の推理小説は、おそらくはじめてかもしれず、理屈っぽい推理の部分も、丁寧かつ分かりやすい文章で、すんなり頭に入ってくるため、佳作であること(人によっては傑作と思だろうが)は、まちがいない。

以下、ネット上でのレヴューを部分的に引用して感想をまとめてみたい。実際にあったレヴューなのだが、その証拠や出典は明記しないので、嘘だと思われてもしかたがない。また省略をしたところは多いのだけれでも、文言を変えたり編集したりはしていない。

A. ミステリーの本質部分は変わっていないが、原作で意外とよいと感じて、どう映像で表現するのか楽しみにしていたところが、スルーされたのに、少しだけガッカリした。上記のように大人の事情でしかたないことは分かっている。

このコメント通りで、評判の作品なのに映画化が遅れたのは、理由がある。私も映像としてどう表現するのか興味津々だったが、上記のコメントのように完全にスルーされていた。

小説、あるいはラジオドラマでは、最後まで隠されているある事実が、映画では最初からわかってしまうので、どうするのか、と。上記レヴューアーの言うように、それは「大人の事情ではない」。小説やラジオでは可能でも映画では不可能であるというメディアの事情である。

B.……それに犯人の動機がいまいちピンとこない。ストーリーが陳腐なのが残念。結局明かされなかった嶌ちゃんの悪行は何だったのか?波多野に自分を推してくれと頼んだことか或いは⁈

上記Aの事情があって、嶌(しま)/浜辺美波の悪行というか秘密が不問のまま終わることになった。手紙は中身がわからないシニフィエなきシニフィアンで終わっている。またそのため嶌/浜辺美波の性格も原作と異なり改変されている。それは

C.原作通りなんでしょうけど、嶌の人物像が胡散臭いのが何とも言えない。
めちゃくちゃ強かで嫌な女だなって感じを上手に演じた浜辺さんが見事でした。

原作どおりではない。映画では、嶌/浜辺の人物像が確かに胡散臭いものになっている。ただし、それは全員怪しいという推理ドラマの定石でもある(それをいうのなら小説も同じ)。ただこの定石が、できるOLである嶌/浜辺に対して世界に冠たる女性差別国日本の男性に対してミソジニックな反応を喚起することになった。嶌は、波多野に自分を推してくれと頼むエゴイスティックな女性でもあるが、それを除けば好感こそ抱くことこそあれ、反感を抱くことにはならない。まあ世界に冠たる女性差別国日本の男子にとっては、浜辺美波は、戦後まもなくのころ、銀座でゴジラの爆風にふっとばされて死んだと思われるような被害者こそふさわしいのだろう。

D. 浜辺美波の弱みは何だったんだろう…

というコメントもあったが、確かに映画では弱みが描かれていない。原作には、最後のほうで(まあ、いわゆる伏線回収というところで)あかされるいくつかの弱みがある。ところが、その弱みも悪行ではない。ただし隠すことも嘘をついていたことになるのなら、彼女も嘘つきである。また原作での彼女は映画でみせるようなエゴむきだしの性格でもない。

E. 出演者、事務所、大学に忖度し過ぎた為に、オチがもう一つ。二十代なんだから、病死より事故死のほうが、よりリアル感が出せた。東大ではなく一橋にしたのも、六大学揃わずシックリこない。

しかし出演者や事務所に忖度する必要のない原作においてもオチというか犯人は同じ。もう一つといわれても、原作がそうなのだからしかたがない。東大生が混じっていないことについては原作にコメントがある。とはいえ、それほど納得できる理由ではないが。なお原作と映画では出身大学にちがいがみられる。原作では六大学ではないし、映画でも六大学ではない。

F. 勝手な最終面接がまかり通ってる、カメラ越しの訴えが通らない、最終選考の方針が急に変わるあたり、確かにダメな会社、終わってる人事だなとは思いましたけど。

むしろあんな会社だと普通の人は辞退するような。。

あと、安易に主人公を病死させてよかったのか?取り返しつかない感を安易に演出しててチープに感じました。

このコメントは正しいというか正鵠を射ていると思う。勝手な最終面接がまかり通っている。最初は6人一致団結して何か企画をつくりあげるのが課題で、でき次第では6人全員を採用してもいいという集団面接だったが、急遽、6人で相談の上、内定者を一人決めるという集団面接会議を行なうという聞いたことがない方式に変更。「確かにダメな会社、終わってる人事だなとは思いましたけど。/むしろあんな会社だと普通の人は辞退するような」というコメントはまさにそのとおり。ちなみに8年後におけるその会社の就職面接では、通常の面接なのだが、面接官がただひとりというありえない面接。原作では面接官が複数いたのだが--これでもし決まるのなら、こんな会社、辞退したほうがいい。

主人公の病死は、展開上、それなりの理由があるとしても、安易のそしりは免れない。主人公が殺されていたら、これも安易なことはまちがいないが、それほど批判されることもない。病死という設定が安易に思われる。私が原作に対していいだく不快感も、こうした安易さに原因があるのかもしれない。

「最終選考の方針が急に変わる」ことについては、急遽という感じだったが最初から予定していたことであり、なぜそうしたかについては原作に説明がある。とはいえ計画どおりだとしても、会社の人事面接の闇がうかがえる。圧迫面接あるいはそれに近いような競争させて順位を決めさせるような集団面接、混乱させて本音を引き出すような面接、いずれにせよ、下手をすると人権無視の暴力的なものになりかねない。しかも、そうまでしてベストな人間を採用するかというとそうでもない。その就職面接のいい加減さを告発するというのが犯人の目的だが……

G. とりあえず犯人の犯行動機が弱すぎる。
H.先輩が面接落とされたからってそこまでやる?笑

というように犯人の動機が弱いことは事実。実はその先輩は落とされても、その後、起業し、その社長におさまっていることから、そんなことで、そこまでするかという感想は偽らざるものだろう。

そもそも就職面接は、オーディションと同じで、会社が求める人材でなければ落とされる。落とされても、その人物の全人格が否定されたり能力が過小評価されるということではない。にもかかわらず、就職面接が、特定の仕事に対する人物の適正とか会社が要求しているもので合否を決めるのではなく、全人的な評価で決まるという前提はどこかおかしい。

しかもその前提にたって、就職面接、あるいは会社の人事部の方針なり審査のいい加減さを告発しようとしても、無理がある。いわんや就職面接はコネなども重視されるだろうから、公平な審査ではありえない。それは審査するほうも、審査されるほうもわかっている。就職面接という題材は興味深いものがあるし、共感を呼ぶテーマかもしれないが、それが犯罪につながるというのは大げさすぎる。とはいえそんなに凶悪な犯罪ではなく、死人はでない(面接後の病死者がひとりでるにしても)。

では純粋に犯人当てのゲームを楽しめばいいかというと、そうでもない。囚人のジレンマのような、だれがどのように状況を認知するかについての論理的な解決が行なわれるわけではない。せっかく、殺人事件はないことにしたのだから、もっとゲーム性や論理性をたかめればよかったのにと思うのは私だけだろうか。

I. 物語の大半が一つの部屋で展開される為まるで舞台劇を観ているかの様な錯覚を覚えます。カメラの位置を細かく変えたり、カット割りを増やしたりして舞台との差別化をはかろうとしていましたが、役者さんの演技自体が芝居がかっているので舞台劇の空気感を払拭するまでには至っておりませんでした。
個人的には舞台で本作を鑑賞したみたい気持ちにさせられてしまいました。

ヘキサゴンの部屋のなかで、6人が議論し知恵を出し合い、徐々に真相に近づいていくのだが……。という構成は、舞台劇を観ているようで、興味深い。映画ファンのなかには、舞台など観たこともないのに、演劇的なものにアナフィラキシー反応を示す**がいる。舞台劇のような映画というのは、確固たる一ジャンルを形成していて、それはそれで実に濃密なドラマ空間を提供してくれていて退屈しない。スペクタクル映画など私には退屈きわまりないしろものである。

「役者さんの演技自体が芝居がかっているので舞台劇の空気感を払拭するまでには至っておりませんでした」とあるが、設定と物語は舞台劇だが、演技は芝居がかっていはない。そもそも緊張感みなぎる設定のなかで、むしろ演技は自然そのものであって、あれを芝居がかっているというのなら、どんな映画俳優の芝居も芝居がかっている。

とはいえ「個人的には舞台で本作を鑑賞したみたい気持ちにさせられてしまいました。」というのは同感である。

実際、この『嘘つきな6人の大学生』の佐藤祐市監督は『キサラギ』(2007年)の監督でもある。【『探偵はBARにいる』の古沢良太脚本。小栗旬、ユースケ・サンタマリアなど豪華俳優が共演。自殺したアイドル・如月ミキの一周忌に集まったファンの男たちが彼女の自殺の真相に迫っていく密室劇】 この『キサラギ』を観たとき私は、てっきり芝居の原作があるものと思っていた。それくらい舞台劇のよさが出ていた映画だったのだ。原作はなかった。むしろこの映画そのものがのちに舞台化された。原作の小説は、舞台劇の感じはしないというか、謎解きの推理小説は、そもそもが舞台劇なのだが。この映画をもとに舞台化することは充分に可能菜だろう。そのときは芝居がかった演技を劇場で堪能したい。

J.……怒っている場面が多かったため鑑賞することに疲れてしまい、各々の嘘に隠された真実が暴かれた時に感動する程の気力が残っていませんでした

この人は映画版『12人の怒れる男』(1957)は観ない方がいいい。12人がみんな怒っていますから。小説を読んでいるときには感じなかったのだが、映画版をみてあらためて、これが『12人の怒れる男』のような密室劇であることに思い至った。時間を区切って、議論の結果の投票を行なうというのも似ている。もちろん陪審員の審議と就職の集団面接とは違うのだが、密室での審議という点は似ている。しいて言えば陪審員の場合、犯人は外にいるのだが、この映画では犯人は中にいるということか。

K.察しの良いミステリ好きにはバレてしまいますが、このインサート・シーンは後半に大きな意味を持つ要素で、映画ならではの魅力的な仕掛けになっていました。
後半と前半で印象が変化する作品の要でもあるので鑑賞中は撮影している側の気持ちになって観る事をおすすめします。
L.豪華な俳優陣で有名作品という事で期待したのですが、展開が読めて眠くなってしまいました。d

常に推理小説とか推理ドラマ・映画に対して先が読めてしまうという、頭のいい人が必ず現れる。マウントをとりたくてしかたのない人間は、自分がバカであることを自覚しているがゆえに、頭のよさを誇示したいバカなのだろう。原作も小説も、先が読める展開ではない。私の頭が悪いだけかもしれないとしても。

またこの作品(小説でも映画)における犯罪計画は、周到であっても賭けにでるところがあって、よくこんな緻密で大胆な犯罪を計画できたとどんなに称賛してもしきれないところがある。先が読めるというバカよりも、先が読めなくて驚いたという人こそ、賢明で誠実で、頭のよい人である。

実は原作はKindleで読んだので、密室劇が終わったときに、もうほぼ読み終わったと思ったら、まだ全体の半分しか読み進めていないことに気づいた。本で読んでいれば、まだ半分であることがすぐにわかっていたはずなのだが、Kindle版では基本的にわからない。

原作は前半が密室劇、後半は、就職が内定した一人が、病死した元候補者の遺した遺物を手掛かりに真相をつきとめる話。たしかに前半と後半では、どちらも一人称の告白だが、物語の展開は異なる。上記Kではインサート・シーンについて触れているが、これは原作でもそうで、原作のほうでも密室劇の部分に使われていて、集団面接の進行とともに、だれが最終的に内定者となったという謎の解明にかかわってくる。映画ならではの魅力的仕掛けではない。小説のほうが、もっといろいろなことができる。映画での使用は、単純すぎる。

最後に全体的なテーマとしてのこの映画の嫌なところ。通常の推理物あるいは警察ドラマでは、犯人は逮捕され罰を受ける。しかし、その犯行は、褒められたものではないし、憎むべき犯罪ながら、その動機とか、外的要因を考慮すると、犯人に同情することができる。あるいは被害者も、犯人から恨まれて殺されたようだが、意思疎通ができていたなら、被害者は加害者の味方であって、加害者から恨まれることは何もしていない。偶然のなりゆき、あるいは誤解によって、嘘によって、悲劇が起こってしまったのである。こうしたことが犯人が捕まってから解き明かされる。

これは私たちにおなじみの人情物の刑事ドラマ、推理ドラマである。

ところが一見、悪人だと思われた人間も、実は……というのがこの映画の原作で、ネタバレになるので中身を具体的に語ることはできないが、たとえば、パワハラとか公金供出で疑われ百条委員会で審査されることになった知事がいるとしよう。その知事の暴挙を、命を絶ってまでして告発した県職員もいた。議会では知事の不信任案が可決され、知事は、辞職し、知事選挙が行われた。実は、知事のことをよく調べてみると、改革を断行したものの、それを快く思わない勢力に恨まれ、ありもしないデマを流され、パワハラの悪者にでっちあげられたとわかった。知事に対する非難はすべて、抵抗勢力とマスコミがつくりあげたものにすぎない。パワハラ知事というのはフェイクである。ほんとうはとっても良い人で、責められるような人ではない。その証拠に知事に再選された。完全に無罪の人である。

という、おめでたい物語があったとしよう。これは犯人だが動機には同情の余地があるという推理小説とは異なり、犯人は犯人ではなかった。善人だったという推理小説である。裏には裏があり、容易にみかけに騙されてはいけない、たとえ何かが解決してもそれは真の解決ではないかもしれないという意識をはぐくむのが推理小説だとすれば、悪人といえども、ほんとうは全面的に善人であるというバカメッセージを垂れ流すような推理小説はクズである。ヒットラーだって、孫に対しては、やさしいおじいちゃんだったにちがいない(ヒットラーに孫はいないのだが)。だからといってヒットラーのユダヤ人虐殺を許せというようなものである。そうした不快感を原作の小説から得ることはできる。

この映画のいいところは、原作のもつ鼻持ちならない偽善的メッセージが緩和されているところである。
posted by ohashi at 22:17| 映画 | 更新情報をチェックする

2024年11月18日

『ヴェノム』2

報告
MOVIE Walkerのレヴュー欄にこんな投稿があった。

カラピー  3.5 22日前
報告
レビューなのに映画の内容には触れません、すみません、お許しください。

おそらく観ていないのに(投稿が公開前)0.1の評価をしている「ゆうすけ」「カイワレカイワレ」なる人物は(たぶん同一人物の複アカでしょう)以前も他の映画でこのような荒し行為をしていましたね


なお、この報告で言及されている「ゆうすけ」なる人物の投稿は現時点では削除されて、「カイワレカイワレ」の投稿が残っている。以下参照

カイワレカイワレ 0.1 26日前

報告
残念、ガッカリしました。

前作と同様、気持ち悪いし、つまらなく、子供っぽい映画でした。

ひどかったです。

本当に、気持ち悪く、つまらなかったです。

ひどかったです。

やっぱり、悪役の映画はダメですね。

これが「荒らし行為」の実例で、「カラピー」氏の投稿のあとも、次のような、同一人物の、あきらかに映画を観ていないコメントがあった。書式が独特で同一人物が複数のアカウントから投稿しているとわかるのだが、書式の全体はスペースの関係もあって再現しない。まあどうせクズコメントなので、正確に再現しても意味がない。
しょうた  0.1 18日前
報告
全然ダメだった。
大コケだった。

何がしたいのか分からないし、ただただ気持ち悪いだけだった。
主人公のエディを演じるトムハーディは老化してかなりおっさんになり、もう、限界だと思う。ヨタヨタの年寄りのおっさんだ。
見た目も抜け毛や薄毛になり、シワばかりで、たるんでいて、かなり老けた。
足もかなり遅かった。
【たしかにエディ/トム・ハーディはふけた。しかし彼はアクション担当ではないので、全く問題ない】

曲も選曲が悪く酷かった。
シーンに合っていないし、滅茶苦茶だった。
ゴキブリが出てきて気持ち悪いし、つまらないし、全然、ダメな大コケ映画だった。

つづいて
ミズキ 0.1 18日前
報告
とにかく気持ち悪かった。
ゴキブリも出たし…。
つまらないし、吐き気がした。
肌がかゆくなり気持ち悪くなった。
本当に気持ち悪かった。
エディも死んだし、最低でした。【最低なのはゴキブリみたいなおまえだ。理由はあとで】
ゴキブリが苦手の人は要注意の映画でした。
つまらないし、ひどかった。
最低の最後の映画だった。

さてもうひとり。同一人物。

リョウコ 0.2 18日前
報告
要注意、ゴキブリが出ます。【←この映画にゴキブリは出てこない。お前がゴキブリだ】
うわぁ、気持ち悪かった。
そんな気持ち悪い映像を見せるなよ。
つまらないし、気持ち悪いし、本当に最悪でした。
物語も意味が分からない。
敵もバレバレで分かるし何が目的なのか分からない映画でした。
見た後、気持ち悪くて、ご飯が喉を通りませんでした。
敵も汚らしかった。
気持ち悪かった。
つまらなかったです。
今年、最悪の映画でしたし、本当に、最悪の映画でした。

最悪はおまえだよと言ってやりたいし、映画会社もこういう投稿は営業妨害として罰をあたえるべきだと思う。個人の感想ではない。映画を観ていないことがバレバレだからだ。

ゴキブリについて触れているのだけれども、これだとやたらとゴキブリが大量に出てくる映画だと思うかもしれないが、本編にゴキブリは一匹も出てこない。出てくるのは、いわゆるポスト・クレディット・シーンという、最後のクレディット(10分から15分くらいある長いクレディット)が終わったあと出てくる、最後の最後の映像。

洞窟のなかからメキシコ人のバーテンダーが出てくる。彼は戦争らしきもので荒廃した町の姿を見る。その時、前景にゴキブリが一匹だけ登場。よく見ないとゴキブリとわからない。病的にゴキブリを怖がる人でないかぎり、とくに嫌悪感をもよおすような不潔でおぞましい姿のゴキブリではない。たぶん作り物かCG。そのゴキブリにシンビオートの断片が付着するような映像があって、やがてそこからヴェノムが復活するのではないかという暗示があるように思われる。

また本編でデティ・ペイン博士/ジューノ・テンプルがゴキブリは災厄や戦争の惨禍を生き延びてきた唯一の生物だというような話をしていたのだが、そこからも戦争(おそらくヌルとの戦争)や戦禍を生き延びる人たちのことが暗示されているのかもしれない。なお私はマーヴェルのスーパーヒーロー物の映画はほとんでみていないので、この映像から私よりももっと多くの情報を引き出せる人は数多くいるだろう。

それから上記「ミズキ」のコメントなかで「エディも死んだし」とあるが、エディは死んでいない。これは記憶違いではすまされない。意図的な偽情報の開示である。お金をもらって意図的に映画の評価を下げようとしているのだとしたら犯罪者で、ヴェノムに食われるといいし、ただ面白半分に観てもいない映画の悪口を言っているのなら、精神を病んでいるとしかいいようがないんで、ヴェノムに脳みそを食われるといい。さぞかしい美味しい脳みそだろ。

ただ救いはほとんどの観客が、この荒らし行為に影響を受けずに、独自の感想コメントを投稿していることである。それには感銘を受けた(兵庫県県民は見習うべきである)。

posted by ohashi at 18:16| 映画 | 更新情報をチェックする

2024年11月17日

『ヴェノム ザ・ラスト・ダンス』

映画『ヴェノム』シリーズの三作目(Venom: The Last Dance, 2024)、エディ・ブロック/トム・ハーディとヴェノムの「1年間」の共生関係の終わりを告げる完結編として、満足のゆく映画であったが、しかし2作目から感じていた不満は解消されずに残った。

コミックのほうは読んでいないので、どのような物語展開なのか知らないのだ、が第一作においてエディ/トム・ハーディがジャーナリストであるという点が実に興味深かった。つまりジャーナリストは、社会や政治の不正を暴き、政治家や権力者の真の姿を示すために、みずからならず者にならねばならないという真理を見事についた設定になっていたからだ。辣腕ジャーナリストと人間を食うヴェノムとの共生が。

エディのジャーナリストとしての能力は、ヴェノムとの共生によって、ますます強化されてゆき、エディの功績はヴェノムの危険な支援なくしてありえなかった。

同じくジャーナリストのスーパーヒーローといえば、デイリー・プラネットの記者であるスーパー・マンがそうだが、彼の場合、辣腕記者でも剛腕記者でもなく、人間としては地味なうだつのあがらない記者であり、記者・ジャーナリストとして大きな業績をあげたとも思えない。スーパーマンにとって記者としての姿は、ほんとうに正体をみやぶられないための仮の姿でしかない。

だがヴェノムにしても、第2作以降は、エディとその相棒でもあるヴェノムとの共生・共同活動によって、ジャーナリズム活動が加速化し、社会の闇を暴き、悪人を懲らしめる、公共性・社会性をフルスロットルで全開するかと思ったら、公共性・社会性は、つまりジャーナリストとしての活躍は、後退するばかりで、今回の三作めにおいては、エディはもうジャーナリストでもなくなっている。

公的次元が私的次元へと様変わりするのは、『ジョーカーII』でも同じだったが、『ヴェノム』においても社会・政治問題とジャーナリズムとの切り結びが、スーパーヒーロー物(それは決して荒唐無稽な夢物語ではなく、常にけっこうシビアな世界観・宇宙観を宿しているのだが)のなかでも異色だった。ヴィランのもつ攻撃性がジャーナリズムの攻撃性と共生することで社会を改革する力学へと変容をとげるのだから。

しかし第2作と今回の第3作はヴェノムという愛嬌もあるのだが同時に暴力的で凶悪な面もあるやっかいな相棒(バディ)との共生から生まれる奇妙な友情関係が物語の主流となり、社会性や公共性はどんどん後退することになった。

なるほどバディ物としてみると泣けるところがある。エディとヴェノムの奇妙な友情は、他者といかに共生できるかという、いまでも切実な問題を喚起する。そしてここでの他者とは、おそらく移民のことだろう。

映画『レオン』の最後、ナタリー・ポートマンが、レオンの形見である観葉植物を植木鉢から出して学校だかどこかの敷地に植える。それはイタリア系移民でもあった天涯孤独のレオンの夢の実現であった。アメリカの地に根を張ることになるのだから。ヴェノムは移民を迎えるために作られたという自由の女神をレディと呼び、このニューヨークのレディに会ってみたいものだと語っていた。その夢をエディは最後にかなえてやるのだが、それはアメリカが移民を温かく迎え入れる女神としてあってほしいというヴェノム=移民の夢なのだろう。たとえ今、アメリカの次期大統領が移民がペットを食べていると信じ、アメリカ人の半数は移民をヴェノムの姿として想像しているとしても。

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ちなみにこの『ヴェノム ザ・ラスト・ダンス』、トム・ハーデはイギリス人だが、ほかにもイギリス人は多い。前作から登場しているスティーヴン・グレアム(マリガン刑事)のほかに、有名な俳優なのに名前の読み方が決まっていないChiwetel Eijofor(とりあえずチューウィテル・イジオフォーとしておくが)、そしてジューノ・テンプル(歳をとって女性としての魅力が増したと思ったのだが、まだ35歳であった)もイギリス人、しかもそのうえリス・エヴァンズまで登場するとなると、これはもうイギリス映画ではないか(ちなみに特殊メークで顔がよくわからないのだが、ヌル(Knull)役で、前作では監督も務めたアンディー・サーキスも登場する)。

しかしこれをいうのなら、このイギリス人俳優たちが、みんなマーヴェル系のアメコミ映画の出演者でもあるということのほうが意義深いという指摘もあろう。彼らは他のアメコミ映画の登場人物として、この映画には登場しているわけではないので、他のアメコミ映画とは連続性と断絶性とが同時にあらわれることになる。ここにはなにかあるのかもしれない。

posted by ohashi at 23:01| 映画 | 更新情報をチェックする