2019年06月15日

『アラジン』

614日、日本テレビで、実写版『アラジン』の公開記念ということで、アニメ版『アラジン』を放送していた。このアニメ版、その後、続編などつくられて、今やレジェンドともいっていい作品なのだが、公開時、そのクィア性というかゲイ的要素の横溢によって評判になった。

もし、あなたが映画館で、今公開中の実写版しか見ていないとしたら、どこにゲイ的要素があるのかといぶかるかもしれない――まさに、それが実写版の問題点なのだが。もし、あなたがアニメ版だけをみていたら、あるいは昔見て、今回のテレビ放送で印象をあらたにしたら、どこにゲイ的要素があるか、指摘されるまでもなく、すぐにわかるにちがいない。そう映画版からは想像もつかないかもしれないが、魔法のランプに宿るジーニー、髭を生やしたいかついおっさんなのだが、完全に、いわゆる芸達者な「おかま」なのである。もちろんステレオタイプ化されたものであるのだが、ゲイ男性のひとつの典型となっている。そしてアラジンを助けるこのジーニーの、臨機応変で変幻自在ぶりな活躍は、主人のアラジンを食ってしまうほどの強烈なキャラで、観る者を圧倒する。毎分ごとに女装するのも、アニメ版ジーニーの特徴である。そしていわずもがなだが、このジーニーの声を担当しいていたのが今は亡きロビン・ウィリアムズだった。ロビン・ウィリアムズの名前を出すだけですべてが説明できてしまうのだが。

先週になるが木曜日駒澤大学の英文科主催の講演会で映画関係の講演会をさせてもらったが、そのとき音と映像との興味深い関係がみられる例として、ガイ・リッチー監督(!)の『コードネーム U.N.C.L.E.(アンクル)』(The Man from U.N.C.L.E. 2015)のなかの一場面を取り上げた。

講演会には、私のもと指導学生も聞きにきてくれて、この映画の引用とコメントは、このブログに以前書いたことと同じですねと指摘されたので、というか……まさに指摘どおりなので、ここで繰り返すことはしないが、かつて日本のテレビでも人気を誇ったスパイ・シリーズ物ドラマ『ナポレオン・ソロ』の劇場版リメイクでもあるこの映画では、ソロとクリヤキンの二人が、同性愛的感情でも結びついているということを、実際の場面の展開とは場違いな映画の音楽‘Che vuole questa musica stasera’の挿入によって伝えていることを簡単に示した。

イタリアの歌手ペピーノ・ガリアルディ(Peppino Gagliardi)が歌うこの‘Che vuole questa musica stasera’は、日本のお笑いタレントであるヒロシがテーマ音楽として使った曲で、この曲を聴くと、思わず「ヒロシです」という導入句を思い浮かべる人も多いと思うのだが、『ガラスの家』(Plagio,1969)で使われて、曲のタイトルも「カラスの家」と紹介されることが多いものの、それは違う。そもそも『ガラスの家』の原タイトルはPlagioは英語のplagiarizeとかplagiarism(盗用、剽窃)の親戚語で、内容は、三角関係物。先の『パラレルワールド・ラブストーリー』にも通ずる要素があって、実際、『パラレルワールド……』のタイトルも、『盗用』とか『ガラスの家』としても、けっこうぴったりくるのだが。『コードネーム……』でも、この愛の歌は、該当する場面において、水の物語との相乗効果によって、ソロとクリヤキンが深い愛で結ばれている、もしくは結ばれていくことの強烈な暗示となっていた。

映画『ガラスの家』では苦境の陥っている男を助けることから物語は発展していく。

ただ『ナポレオン・ソロ』では、それほど強く感じられなかったのだが、同じくスパイ物でバディ物でもある、これも日本のテレビでも放送されたスパイもの西部劇『ワイルド・ウェスト』(The Wild Wild West 1965年から1969年まで制作、日本での放送時期は、ずれる)シリーズにおける二人の関係は、明確にゲイ・カップル的で、エージェント役のロバート・コンラッドと、彼を補佐するもうロス・マーティンのうとロバート・コンラッドはアクション担当のプレイボーイ、そしてロス・マーティンは支援係の情報作戦担当だが、彼は同時に変装の名人で、2回に一度は女装していた。今から思えば、まさにアニメ版のアラジンとジーニーの関係そのままだった。アラジンのジーニーも『ワイルド・ワイルド・ウェスト』も、いうなれば「女房役」なのだが、女房役の男性がいると言うこと自体、興味深いジェンダー関係を提示していた。


ちなみにこの『ワイルド・ワイルド・ウェスト』は、劇場版映画(『メン・イン・ブラック』シリーズの監督(インターナショナル篇の監督ではない)作品)にリメイクされたのだが、テレビドラマ版にあったようなプレイボーイのエージェントとそれを補佐するおかま的人物というジェンダー的混淆あるいはゲイ的要素がなくなったせいか、たんに話が面白くなかったのか、原シリーズにあった、お伽噺的荒唐無稽さがなくなったのか、とにかくラズベリー賞をもらうにいたるほど酷評された。


そしてその酷評された映画版に出ていたのがウィル・スミス。ウィル・スミスとケヴィン・クラインのコンビは、オリジナルのテレビ版にあった、おそらく明確には表現できない要素をすべて消し去ったものであった。オリジナルのテレビ版にあった精神が失われていた。


このウィル・スミス、今回もやってくれたではないか。ウィル・スミスがジーニーであることは予告編でわかっていた。だが映画がはじまると、彼は、二児の父親で、彼が子どもたちに語ってきかせるのが、本編の物語というからには、もうゲイ的要素は最初から消滅しているといっていいではないか。さらにいえば、ジーニーになってからのウィル・スミスは、王女の侍女に恋をするのであり(アニメ版にはない設定)、解放されたあと、その侍女と子どもをつくり、世界を見て回るという設定なのだからあきれはてる。オリジナルのアニメにはない侍女との結婚。ガイ・リッチー監督らしさは、何処に行ったのか? 『シャーロック・ホームズ』ではホームズに嫉妬させ、そして『コードネーム』ではバディ物の絆に同性愛をもってきた監督の監督らしさは?

614日、日本テレビで、実写版『アラジン』の公開記念ということで、アニメ版『アラジン』を放送していた。このアニメ版、その後、続編などつくられて、今やレジェンドともいっていい作品なのだが、公開時、そのクィア性というかゲイ的要素の横溢によって評判になった。


もし、あなたが映画館で、今公開中の実写版しか見ていないとしたら、どこにゲイ的要素があるのかといぶかるかもしれない――まさに、それが実写版の問題点なのだが。もし、あなたがアニメ版だけをみていたら、あるいは昔見て、今回のテレビ放送で印象をあらたにしたら、どこにゲイ的要素があるか、指摘されるまでもなく、すぐにわかるにちがいない。そう映画版からは想像もつかないかもしれないが、魔法のランプに宿るジーニー、髭を生やしたいかついおっさんなのだが、完全に、いわゆる芸達者な「おかま」なのである。もちろんステレオタイプ化されたものであるのだが、ゲイ男性のひとつの典型となっている。そしてアラジンを助けるこのジーニーの、臨機応変で変幻自在ぶりな活躍は、主人のアラジンを食ってしまうほどの強烈なキャラで、観る者を圧倒する。毎分ごとに女装するのも、アニメ版ジーニーの特徴である。そしていわずもがなだが、このジーニーの声を担当しいていたのが今は亡きロビン・ウィリアムズだった。ロビン・ウィリアムズの名前を出すだけですべてが説明できてしまうのだが。


先週になるが木曜日駒澤大学の英文科主催の講演会で映画関係の講演会をさせてもらったが、そのとき音と映像との興味深い関係がみられる例として、ガイ・リッチー監督(!)、

『コードネーム U.N.C.L.E.(アンクル)』(The Man from U.N.C.L.E. 2015)のなかの一場面を取り上げた。講演会には、私のもと指導学生も聞きにきてくれて、この映画の引用とコメントは、このブログに以前書いたことと同じですねと指摘されたので、というか、、、まさに指摘どおりなので、ここで繰り返すことはしないが、かつて日本のテレビでも人気を誇ったスパイ・シリーズ物ドラマ『ナポレオン・ソロ』の劇場版リメイクでもあるこの映画では、ソロとクリヤキンの二人が、同性愛的感情でも結びついているということを、実際の場面の展開とは場違いな映画の音楽‘Che vuole questa musica stasera’の挿入によって伝えていることを簡単に示した。


イタリアの歌手ペピーノ・ガリアルディ(Peppino Gagliardi)が歌うこの‘Che vuole questa musica stasera’は、日本のお笑いタレントであるヒロシがテーマ音楽として使った曲で、この曲を聴くと、思わず「ヒロシです」という導入句を思い浮かべる人も多いと思うのだが、『ガラスの家』(Plagio,1969)で使われて、曲のタイトルも「カラスの家」と紹介されることが多いものの、それは違う。そもそも『ガラスの家』の原タイトルはPlagioは英語のplagiarizeとかplagiarism(盗用、剽窃)の親戚語で、内容は、三角関係物。先の『パラレルワールド・ラブストーリー』にも通ずる要素があって、実際、『パラレルワールド……』のタイトルも、『盗用』とか『ガラスの家』としても、けっこうぴったりくるのだが。『コードネーム……』でも、この愛の歌は、水の物語との相乗効果によって、ソロとクリヤキンが深い愛で結ばれている、もしくは結ばれていくことの強烈な暗示となっていた。

映画『ガラスの家』では苦境の陥っている男を助けることから物語は発展していく。


ただ『ナポレオン・ソロ』では、それほど強く感じられなかったのだが、同じくスパイ物でバディ物でもある、これも日本のテレビでも放送されたスパイもの西部劇『ワイルド・ウェスト』(The Wild Wild West 1965年から1969年まで制作、日本での放送時期はずれる)シリーズにおける二人の関係は、明確にゲイ・カップル的で、エージェント役のロバート・コンラッドと、彼を補佐するもうロス・マーティンのうとロバート・コンラッドはアクション担当のプレイボーイ、そしてロス・マーティンは支援係の情報作戦担当だが、彼は同時に変装の名人で、2回に一度は女装していた。今から思えば、まさにアニメ版のアラジンとジーニーの関係そのままだった。アラジンのジーニーも『ワイルド・ワイルド・ウェスト』も、いうなれば「女房役」なのだが、女房役の男性がいると言うこと自体、興味深いジェンダー関係を提示していた。


ちなみにこの『ワイルド・ワイルド・ウェスト』は、劇場版映画(『メン・イン・ブラック』シリーズの監督(インターナショナル篇の監督ではない)作品)にリメイクされたのだが、テレビドラマ版にあったようなプレイボーイのエージェントとそれを補佐するおかま的人物というジェンダー的混淆あるいはゲイ的要素がなくなったせいか、たんに話が面白くなかったのか、原シリーズにあった、お伽噺的荒唐無稽さがなくなったのか、とにかくラズベリー賞をもらうにいたるほど酷評された。


そしてその酷評された映画版に出ていたのがウィル・スミス。ウィル・スミスとケヴィン・クラインのコンビは、オリジナルのテレビ版にあった、おそらく明確には表現できない要素をすべて消し去ったものであった。オリジナルのテレビ版にあった精神が失われていた。


このウィル・スミス、今回もやってくれたではないか。ウィル・スミスがジーニーであることは予告編でわかっていた。だが映画がはじまると、彼は、二児の父親で、彼が子どもたちに語ってきかせるのが、本編の物語というからには、もうゲイ的要素は最初から消滅しているといっていいではないか。さらにいえば、ジーニーになってからのウィル・スミスは、王女の侍女に恋をするのであり(アニメ版にはない設定)、解放されたあと、その侍女と子どもをつくり、世界を見て回るという設定なのだからあきれはてる。オリジナルのアニメにはない侍女との結婚。ガイ・リッチー監督らしさは、何処に行ったのか? 『シャーロック・ホームズ』ではホームズに嫉妬させ、そして『コードネーム』ではバディ物の絆に同性愛をもってきた監督の監督らしさは?

614日、日本テレビで、実写版『アラジン』の公開記念ということで、アニメ版『アラジン』を放送していた。このアニメ版、その後、続編などつくられて、今やレジェンドともいっていい作品なのだが、公開時、そのクィア性というかゲイ的要素の横溢によって評判になった。


もし、あなたが映画館で、今公開中の実写版しか見ていないとしたら、どこにゲイ的要素があるのかといぶかるかもしれない――まさに、それが実写版の問題点なのだが。もし、あなたがアニメ版だけをみていたら、あるいは昔見て、今回のテレビ放送で印象をあらたにしたら、どこにゲイ的要素があるか、指摘されるまでもなく、すぐにわかるにちがいない。そう映画版からは想像もつかないかもしれないが、魔法のランプに宿るジーニー、髭を生やしたいかついおっさんなのだが、完全に、いわゆる芸達者な「おかま」なのである。もちろんステレオタイプ化されたものであるのだが、ゲイ男性のひとつの典型となっている。そしてアラジンを助けるこのジーニーの、臨機応変で変幻自在ぶりな活躍は、主人のアラジンを食ってしまうほどの強烈なキャラで、観る者を圧倒する。毎分ごとに女装するのも、アニメ版ジーニーの特徴である。そしていわずもがなだが、このジーニーの声を担当しいていたのが今は亡きロビン・ウィリアムズだった。ロビン・ウィリアムズの名前を出すだけですべてが説明できてしまうのだが。


先週になるが木曜日駒澤大学の英文科主催の講演会で映画関係の講演会をさせてもらったが、そのとき音と映像との興味深い関係がみられる例として、ガイ・リッチー監督(!)、

『コードネーム U.N.C.L.E.(アンクル)』(The Man from U.N.C.L.E. 2015)のなかの一場面を取り上げた。講演会には、私のもと指導学生も聞きにきてくれて、この映画の引用とコメントは、このブログに以前書いたことと同じですねと指摘されたので、というか、、、まさに指摘どおりなので、ここで繰り返すことはしないが、かつて日本のテレビでも人気を誇ったスパイ・シリーズ物ドラマ『ナポレオン・ソロ』の劇場版リメイクでもあるこの映画では、ソロとクリヤキンの二人が、同性愛的感情でも結びついているということを、実際の場面の展開とは場違いな映画の音楽‘Che vuole questa musica stasera’の挿入によって伝えていることを簡単に示した。


イタリアの歌手ペピーノ・ガリアルディ(Peppino Gagliardi)が歌うこの‘Che vuole questa musica stasera’は、日本のお笑いタレントであるヒロシがテーマ音楽として使った曲で、この曲を聴くと、思わず「ヒロシです」という導入句を思い浮かべる人も多いと思うのだが、『ガラスの家』(Plagio,1969)で使われて、曲のタイトルも「カラスの家」と紹介されることが多いものの、それは違う。そもそも『ガラスの家』の原タイトルはPlagioは英語のplagiarizeとかplagiarism(盗用、剽窃)の親戚語で、内容は、三角関係物。先の『パラレルワールド・ラブストーリー』にも通ずる要素があって、実際、『パラレルワールド……』のタイトルも、『盗用』とか『ガラスの家』としても、けっこうぴったりくるのだが。『コードネーム……』でも、この愛の歌は、水の物語との相乗効果によって、ソロとクリヤキンが深い愛で結ばれている、もしくは結ばれていくことの強烈な暗示となっていた。

映画『ガラスの家』では苦境の陥っている男を助けることから物語は発展していく。


ただ『ナポレオン・ソロ』では、それほど強く感じられなかったのだが、同じくスパイ物でバディ物でもある、これも日本のテレビでも放送されたスパイもの西部劇『ワイルド・ウェスト』(The Wild Wild West 1965年から1969年まで制作、日本での放送時期はずれる)シリーズにおける二人の関係は、明確にゲイ・カップル的で、エージェント役のロバート・コンラッドと、彼を補佐するもうロス・マーティンのうとロバート・コンラッドはアクション担当のプレイボーイ、そしてロス・マーティンは支援係の情報作戦担当だが、彼は同時に変装の名人で、2回に一度は女装していた。今から思えば、まさにアニメ版のアラジンとジーニーの関係そのままだった。アラジンのジーニーも『ワイルド・ワイルド・ウェスト』も、いうなれば「女房役」なのだが、女房役の男性がいると言うこと自体、興味深いジェンダー関係を提示していた。


ちなみにこの『ワイルド・ワイルド・ウェスト』は、劇場版映画(『メン・イン・ブラック』シリーズの監督(インターナショナル篇の監督ではない)作品)にリメイクされたのだが、テレビドラマ版にあったようなプレイボーイのエージェントとそれを補佐するおかま的人物というジェンダー的混淆あるいはゲイ的要素がなくなったせいか、たんに話が面白くなかったのか、原シリーズにあった、お伽噺的荒唐無稽さがなくなったのか、とにかくラズベリー賞をもらうにいたるほど酷評された。


そしてその酷評された映画版に出ていたのがウィル・スミス。ウィル・スミスとケヴィン・クラインのコンビは、オリジナルのテレビ版にあった、おそらく明確には表現できない要素をすべて消し去ったものであった。オリジナルのテレビ版にあった精神が失われていた。


このウィル・スミス、今回もやってくれたではないか。ウィル・スミスがジーニーであることは予告編でわかっていた。だが映画がはじまると、彼は、二児の父親で、彼が子どもたちに語ってきかせるのが、本編の物語というからには、もうゲイ的要素は最初から消滅しているといっていいではないか。さらにいえば、ジーニーになってからのウィル・スミスは、王女の侍女に恋をするのであり(アニメ版にはない設定)、解放されたあと、その侍女と子どもをつくり、世界を見て回るという設定なのだからあきれはてる。オリジナルのアニメにはない侍女との結婚。ガイ・リッチー監督らしさは、何処に行ったのか? 『シャーロック・ホームズ』ではホームズに嫉妬させ、そして『コードネーム』ではバディ物の絆に同性愛をもってきた監督の監督らしさは?

614日、日本テレビで、実写版『アラジン』の公開記念ということで、アニメ版『アラジン』を放送していた。このアニメ版、その後、続編などつくられて、今やレジェンドともいっていい作品なのだが、公開時、そのクィア性というかゲイ的要素の横溢によって評判になった。


もし、あなたが映画館で、今公開中の実写版しか見ていないとしたら、どこにゲイ的要素があるのかといぶかるかもしれない――まさに、それが実写版の問題点なのだが。もし、あなたがアニメ版だけをみていたら、あるいは昔見て、今回のテレビ放送で印象をあらたにしたら、どこにゲイ的要素があるか、指摘されるまでもなく、すぐにわかるにちがいない。そう映画版からは想像もつかないかもしれないが、魔法のランプに宿るジーニー、髭を生やしたいかついおっさんなのだが、完全に、いわゆる芸達者な「おかま」なのである。もちろんステレオタイプ化されたものであるのだが、ゲイ男性のひとつの典型となっている。そしてアラジンを助けるこのジーニーの、臨機応変で変幻自在ぶりな活躍は、主人のアラジンを食ってしまうほどの強烈なキャラで、観る者を圧倒する。毎分ごとに女装するのも、アニメ版ジーニーの特徴である。そしていわずもがなだが、このジーニーの声を担当しいていたのが今は亡きロビン・ウィリアムズだった。ロビン・ウィリアムズの名前を出すだけですべてが説明できてしまうのだが。


先週になるが木曜日駒澤大学の英文科主催の講演会で映画関係の講演会をさせてもらったが、そのとき音と映像との興味深い関係がみられる例として、ガイ・リッチー監督(!)、

『コードネーム U.N.C.L.E.(アンクル)』(The Man from U.N.C.L.E. 2015)のなかの一場面を取り上げた。講演会には、私のもと指導学生も聞きにきてくれて、この映画の引用とコメントは、このブログに以前書いたことと同じですねと指摘されたので、というか、、、まさに指摘どおりなので、ここで繰り返すことはしないが、かつて日本のテレビでも人気を誇ったスパイ・シリーズ物ドラマ『ナポレオン・ソロ』の劇場版リメイクでもあるこの映画では、ソロとクリヤキンの二人が、同性愛的感情でも結びついているということを、実際の場面の展開とは場違いな映画の音楽‘Che vuole questa musica stasera’の挿入によって伝えていることを簡単に示した。


イタリアの歌手ペピーノ・ガリアルディ(Peppino Gagliardi)が歌うこの‘Che vuole questa musica stasera’は、日本のお笑いタレントであるヒロシがテーマ音楽として使った曲で、この曲を聴くと、思わず「ヒロシです」という導入句を思い浮かべる人も多いと思うのだが、『ガラスの家』(Plagio,1969)で使われて、曲のタイトルも「カラスの家」と紹介されることが多いものの、それは違う。そもそも『ガラスの家』の原タイトルはPlagioは英語のplagiarizeとかplagiarism(盗用、剽窃)の親戚語で、内容は、三角関係物。先の『パラレルワールド・ラブストーリー』にも通ずる要素があって、実際、『パラレルワールド……』のタイトルも、『盗用』とか『ガラスの家』としても、けっこうぴったりくるのだが。『コードネーム……』でも、この愛の歌は、水の物語との相乗効果によって、ソロとクリヤキンが深い愛で結ばれている、もしくは結ばれていくことの強烈な暗示となっていた。

映画『ガラスの家』では苦境の陥っている男を助けることから物語は発展していく。

ただ『ナポレオン・ソロ』では、それほど強く感じられなかったのだが、同じくスパイ物でバディ物でもある、これも日本のテレビでも放送されたスパイもの西部劇『ワイルド・ウェスト』(The Wild Wild West 1965年から1969年まで制作、日本での放送時期はずれる)シリーズにおける二人の関係は、明確にゲイ・カップル的だった。エージェント役のロバート・コンラッドと、彼を補佐するもうロス・マーティンのコンビは、ロバート・コンラッドがアクション担当のプレイボーイ、そしてロス・マーティンは支援係の情報作戦担当だが、彼は同時に変装の名人で、2回に一度は女装していた。今思うと、これはまさにアニメ版のアラジンとジーニーの関係そのままだった。アラジンのジーニーも『ワイルド・ワイルド・ウェスト』も、いうなれば「女房役」なのだが、女房役の男性がいると言うこと自体、興味深いジェンダー関係を提示していた。

ちなみにこの『ワイルド・ワイルド・ウェスト』は、劇場版映画(『メン・イン・ブラック』シリーズの監督(インターナショナル篇の監督ではない)作品)にリメイクされたのだが、テレビドラマ版にあったようなプレイボーイのエージェントとそれを補佐するおかま的人物というジェンダー的混淆あるいはゲイ的要素がなくなったせいか、たんに話が面白くなかったのか、原シリーズにあった、お伽噺的荒唐無稽さがなくなったのか、とにかくラズベリー賞をもらうにいたるほど酷評された。

そしてその酷評された映画版に出ていたのがウィル・スミス。ウィル・スミスとケヴィン・クラインのコンビは、オリジナルのテレビ版にあった、おそらく明確には表現できない要素をすべて消し去ったものであった。オリジナルのテレビ版にあった精神が失われていた。

このウィル・スミス、今回もやってくれたではないか。ウィル・スミスがジーニーであることは予告編でわかっていた。だが映画がはじまると、彼は、二児の父親で、彼が子どもたちに語ってきかせるのが、本編の物語というからには、もうゲイ的要素は最初から消滅しているといっていいではないか。さらにいえば、ジーニーになってからのウィル・スミスは、王女の侍女に恋をするのであり(アニメ版にはない設定)、解放されたあと、その侍女と子どもをつくり、世界を見て回るという設定なのだからあきれはてる。オリジナルのアニメにはない侍女との結婚。ガイ・リッチー監督らしさは、何処に行ったのか? 『シャーロック・ホームズ』ではホームズに嫉妬させ、そして『コードネーム』ではバディ物の絆に同性愛をもってきた監督の監督らしさは?

posted by ohashi at 10:57| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年06月12日

『パラレルワールド・ラブストーリー』2

『パラレルワールド・ラブストーリー』で隠蔽されたり、捻じ曲げられたりした真実は、クィアな真実である。

前回指摘したように、真実と捏造あるいは忘却された記憶とのせめぎあいがドラマになっているこの映画では、製作者側の意図と、観客側の受容とが、うまくいかないようなところがどうしても生ずる。観客が映画製作者側の意図を汲み取れないところ、そして、これが、現在なのか、過去なのか、真実の部分か、捏造された部分か、判断できないところがある。映画は映像にめりはりをつけて、過去の回想とか、夢の部分では、映像が粗くなる。それはいいのだが、では対照的に現在時においては、映像は、くっきりと鮮明かというと、実は、そうでもなくて、ときには、これが回想なのか、現在の出来事なのかわからなくなる。

いっぽうで、これは映画の欠陥ではなくて、むしろ、そこが面白いところで、製作者側の狙いもそこにあるのだろうと思うのだが、いまいっぽうで、これは、つまり観客の側で、意味付けることができないそうした部分は、製作者側のつじつまあわせに観客がついていけないということでもあると思ってしまう。そうした部分を細かに指摘してもいいが、そうなるとネタバレになるかもしれないので、一例だけ。

実は映画だけでは設定とか全体像を把握できないかもしれないと思い、プログラムを購入した(まあ、謎が解けるという宣伝文句につられたのだが)。時系列にそって、出来事を、真実と、捏造あるいは虚偽の部分と並行して示した図があった。映画を観終わった観客は、自分が最終的に映画から受け取った全体像と、このプログラムの図とがほぼ同じで安堵すると思うのだが、こまかにみておくと、疑問が残るところがある。

たとえばガード下で、主人公の玉森が、松葉杖の男性と正面衝突しそうになる。松葉杖といっても、昔のそれではなく、今のひじから下だけの杖なのだが、しかし、不思議なオーラのある人物あるいは夢のなかのような人物は、あとでなにか出来事に関与してくるのだろうと私は考えた。ところがプログラムをみると、これは夢のなかの出来事であれ現実の出来事であれ、足の悪い老人をみて、玉森は、同じく足の悪い染谷のことを思い出すというのだ。確かにその後の展開で、玉森は染谷のことを気に掛けるのだが、製作者側のこの意図は、伝わらないと思う。映画の中で染谷は足が悪いという設定だが、べつに杖をついていない。足をひきずるだけである。いっぽうガード下ですれ違った老人は、両腕で杖をつき歩きにくそうである。玉森が、その時点で、友人で脚の悪い染谷を思い出すことについて、その可能性は否定できなとしても、それを観客が推測するのは(台詞で語られたわけではない)至難の業である。そもそも染谷は、時系列がばらばらであっても、最初から登場していて(もちろん時系列がばらばらなので、彼が染谷とずっと友人でありつづけていると錯覚にすぎないとしても、観客としては、この錯覚を真実としてみるほかないのだ)、玉森が忘れるということは、ありえないと、観客には思えてしまうのだ。

あるいは染谷が、玉森のところを訪れて、吉岡のことが本気で好きなのかと確かめにくるところがある。あれは現実の場面なのか、夢/捏造された記憶なのか。映画では最後に、一応答えをだしているが、その答えに観客が納得するかどうかはべつである。

ただし、これは映画の欠陥をあげつらっているのではない。むしろその逆であって、真実と虚偽のゆらぎ、現実と夢の境のなさ、そのなんともいえない不安定感が、映画のなかの玉森からは、ヒステリックで狂おしい怒りの反応を引き起こすが、観客としては、まさに、そこにこそ、この映画を観る価値がある。

とはいえ観客は、謎解きとしてだけ、この映画をみることはない。時系列を整理できないまま、また事の真相がつかめないまま観客は、途方にくれるかというと、そうでもない。むしろ謎が全く解けない観客のほうが、この映画のもうひとつの、おそらく、こちらのほうが重要かもしれない、物語を見抜くことができる。それは男女の三角関係のもつれである。恋人をもつ友人に嫉妬したり、友人の恋人に恋をしたり、恋人の友人に言い寄られて心がゆらいだり……。ましてや、記憶抹消、記憶捏造、現実改変といった、自我の防衛機制をめぐるフロイト的な物語あるいは夢物語全開の映画では、すべてが、嫉妬したり恋したりする男性の心象風景にみえてくる。最初の山手線と京浜東北線の並走における出会いにしても、あとから二人の関係を正当化というか必然化するような捏造された記憶かもしれないのだ(たとえ映画では一定の答えをだしているとしても)。そうなるとすべてがあやふやなこの映画の世界で、恋する男の邪悪なまでの嫉妬心や絶望と願望だけがリアルなのである。現実の因果関係よりも、あやふやな時系列よりも、嫉妬の心象風景だけは、別の選択肢のない、確定的なリアルなのである。

したがって、たまたま購入したプログラムのなかで森直人が指摘していたように、いや、指摘するまでもなく、この映画の男女関係や、漱石の『こころ』や、武者小路実篤の『友情』(森山直人の指摘――しかし、いまの時代に武者小路実篤を記憶している人間がどれだけいるのだろうか。国語の教科書に載っているのだろうか)のような、友情か恋愛かという、まさに明治以前の洋の東西を問わない古典的物語のパターンと一致する。友情か愛情か。この古い物語がいまなお反復再生産され消費されるのは、まさに古くて新しいテーマいや、まだ解決のついていない、永遠の課題なのかもしれない。

そして、そこに、この映画の願望と記憶改変に起因するドミノ現象がある。

漱石の『こころ』については、もし授業をするとすれば(いまのところ、二度と授業はすることはないのだが)、こんな説明をするだろう(とはいえ現役の頃にしていた授業と同じ内容なのだが)。『こころ』では「先生」が「学生」の頃、云々、というように、作中の呼び方を踏襲すると面倒なものになるので、機械的・事務的にXYZの三角関係として図式化して説明すると、

学生Xは、下宿している家のお嬢さんZと恋人同士になる。またXは、親友のYを同じ下宿屋に住まわせることにする(動機は? Xには、親友Yに、自分の恋人Zを見せる/見せびらかすという無意識の願望があったかもしれないが、基本的動機は、住むところがなくて困っていたYを助けるとか、親友と同じ屋根の下で暮らしたいという友情に基づくものであったように思う)。だが、Xの眼からみるとYはお嬢さんZに恋をしているよう思われる。その推測は当たっていて、いつしかXとYは、どちらがZの愛を勝ち得るかをめぐってライヴァル関係になる。最終的にXがYを出し抜いて、先に告白してZと結婚の約束をする。だが、そのことを知ったYは自殺する。なぜ、Yは自殺したのか。真相はわからない。

授業では、ここから、あるいはここに至るまでに、長いジェンダー論とかホモソーシャル論の話があって、それを使ってこの事例を考えてみるということになるのだが、ここでは、それをはっしょって、簡単に結論だけを確認すると、

Yは身寄りもない孤独な境遇のなかにいてXだけが唯一の友である。XとZの愛をめぐって競争関係になるが、同じ目的をもって互いに奮闘すること、切磋琢磨することは、楽しいことであり、関係を親密にする。しかしXは、Yを裏切るかたちで、Zとの結婚を決めてしまった。もしXがそこまで真剣にZに恋していたのなら、そのことを正直に話してくれていたのならYは、喜んで身を引いたかもしれない。ところがYには何も話さず出し抜くかたちでZと結婚することになった。男同士の絆(ホモソーシャル関係)よりも男女の絆を重視したことによって、XとYとの強い絆は、これで切れてしまう。事実、XとZとは結婚しても、Yの自殺があったこともあるが、世をはばかってひっそりと夫婦だけの暮らしをしている。またYの自殺は、彼が唯一頼りにしていた男同士の絆を、Xによって断ち切られてしまったために生きる意味を失ってしまった。あるいは、その自殺によってXとZとの結婚を呪ったのかもしれない。とにかく、本来、異性関係よりも重視すべき、またそれを失ってしまったら、この父権制社会では生きて行けない、ホモソーシャル関係が消滅してことによってYも死ぬしかなかった、というのが、ジェンダー論(ホモソーシャル編)の答えである。

しかし後年、私も考えが変わってきて、上記の説明は一理あるが、もっと単純な理由もあったかもしれないと思うようになった。三角関係になったとき、友情にひびがはいらないために、一方が身を引く、あるいは両方が身を引いて、友情を維持することを選ぶというのが、上記ホモソーシャル理論における基本的構図である。しかし、もうひとつ別の三角関係があったのではないか、べつの三角関係も共存していた、あるいは、こちらのほうが真の三角関係ではなかったか。つまりZという女性を求めて、二人の男性XとYとが競い合ったというのがホモソーシャル三角関係だけではなく、もうひとつの三角関係というのが存在していたのではないか。それは、Xという男性を求めて、女性Zと男性Yとが競い合う三角関係である。

Xは、親友Yとともに、お嬢さんZを求めて争っていると思っている。ライヴァル関係がXとYとの絆を強めていると思っている。しかし、Xは、そのとき、Yから自分に向けられた熱い視線を感じ取っていたのではないか。お嬢さんZはXのことが好きである。と同時に、YもXのことが好きである。XをめぐるZとYとの三角関係は、異性愛をとるか、同性愛をとるかのせめぎあいでもあった。おそらくXは、Zと結婚しても、Yとの友情はつづけられると思っていたのだろう。しかしYにしてみれば、Xにフラれたことになる。しかもそれは、異性愛が選択され、同性愛は意識もされなかったということであり、敗北は個人の敗北ではなく、性的選択そのもの敗北いや排斥・抑圧だったのである。相手にふられたぐらいで死ぬ人はほとんどいない。しかし同性愛者は失った恋のために自殺する。同性愛者と自殺とのいまなお消えていない深い結びつきを漱石の『こころ』は再生産していたのではないだろうか。

上記、三角関係においてYの自殺は、愛するXにフラれたからである。これがジェンダー論(ホモセクシュアル/クィア編)の答えである。

映画のなかで染谷は、脚が悪い。ちなみに脚が悪い人は、今現在、多くいると思うし、その人が脚が悪いから同性愛者だというのは、完璧な偏見なのだが、しかし、文学や文化表象の世界では、脚が悪いこともふくめて障害者は、同性愛者のイメージで表象されることが多い。

ここでいいたいのは1)同性愛者であることは悪いことではまったくない。2)脚が悪いことが同性愛者のしるしであるというのは、まったく無根拠の偏見にすぎない。3)文学・文化表象において脚の障害を含む、さまざまな傷害が、同性愛者の表象として使われてきた(この事実は、嘆かわしいと思っている)――ということである。

サマセット・モームの自伝的小説『人間の絆』の主人公は脚に障害をかかえている。モームは一般にむけてカミング・アウトしていなかったから、また小説の最後で主人公は女性と結ばれるから、読者は気づかなかったにしても、主人公の障害は、同性愛者の暗黙の記号でもあった(とはいえ私が中学生の頃読んだ文学全集のモーム編の巻に付された詳細な年譜には、モームの愛人となったアメリカ人男性の名前まで書かれていたように覚えているが、ただし、モームの同性愛者性は、解説ではまったく触れられていなかった)。

染谷が脚が悪くて中学生の頃に仲間たちからいじめにあった、それを同学年の玉森が防いでくれた、以後、二人の友情関係が成人し、ともに研究者になってからもつづいているという設定なのだが、それは染谷にある同性愛的欲望を抑圧する隠蔽記憶ではないか。

染谷にいるガールフレンドに、玉森は惚れてしまう。玉森と自分のガールフレンドの仲のよさを認めた染谷は、彼女を玉森にゆずり、自分は身を引く、いやそれだけでなく自殺する。彼はガールフレンドとの記憶を消そうと、その操作を親友の玉森に頼むのだが、実は、それは染谷が昏睡状態になるための操作でもあった。映画のなかで染谷の昏睡状態は、自殺として扱われている。状況は、『こころ』のなかのそれと全く同じである。

映画のなかでは吉岡をめぐって、玉森と染谷の親友同士が争うという三角関係になっている。しかし、玉森をめぐって吉岡と染谷が争うという異性愛か同性愛かをめぐる三角関係も存在していたのではないか。あるいはホモソーシャル三角関係に、この同性愛三角関係も影のように寄り添っていたのではないだろうか。

そしてこの影の同性愛関係を払拭し消去すべく、玉森は異性愛関係物語を捏造したのではないだろうか。山手線と京浜東北線の並走の時点にまでさかのぼって。これこそが、もうひととのパラレルワールド、つまり異性愛物語(ホモソーシャル関係物語)と同性愛物語(ホモセクシュアル関係物語)とがパラレルワールドになっていること、おそらくいまなお同性愛物語は、反社会的だと邪悪だの変態だのと、偏見でみられているので、この同性愛物語を消すことは、自我の無垢を守るためにもなるから、異性愛物語を捏造することになったのだろう。異性愛物語は、同性愛物語の記憶改変である。捏造された記憶である。同性愛物語の記憶は抹消され、異性愛物語という捏造された記憶が、現実の細部にいたるまで改変するだろう――ドミノ現象として。

『パラレルワールド・ラブストーリー』――ある意味、この映画自体がまきこまれているというか、ひとつのパラレルワールドともなっているラブストーリーについて考えてみるのは悪くないだろう。私たちの住んでいるこの父権制異性愛体制には、もうひとつの消されたパラレルワールドがあるのだから。

posted by ohashi at 22:09| 映画 | 更新情報をチェックする

2019年06月09日

『パラレルワールド・ラブストーリー』1

『パラレルワールド・ラブストーリー』は、予告編では、たしかにパラレルワールド物であった。つまり一方の世界で、津野麻由子/吉岡里帆は、敦賀崇史/玉森裕太の友人三輪智彦/染谷将太の恋人になっている。しかし、もういっぽうの世界で、玉森は吉岡と結ばれている。二つの世界は並行して存在しているのか。だとすれば、どうしてか。あるいは予告編で暗示されているのは、どちらかの世界は偽物であり、現実の世界はひとつだけしかない。それはどちらだ、ということになる。

しかし映画は正確にいえばパラレルワールド物ではない。たとえば私が眠ってみている夢の世界と、私が生きている現実世界は、夢と現実であって、パラレルワールドではない。比喩的にはそうであっても。映画『マトリックス』では人類は人間電池としてコンピューターに体内電気を利用されているのだが、脳を刺激されて自分たちは現実の世界で暮らしていると思い込まされているとき、人間電池としての現実の世界と、人間が体験させられてるヴァーチャル・リアリティの世界とは、パラレルワールドになっていない。つまり、夢と現実は、真偽の対立であり、いっぽうパラレルワールドは、どちらも真実か、どちらも虚偽なのである。

なぜ同等の二つの世界が生まれるのか、その理由を知りたくて、映画館に足を運んだのだが、パラレルワールドではなかった。夢と現実との対立、あるいは記憶喪失物の変奏であった。

記憶喪失ジャンルの約束事に支配された人物とその行動とが展開する。ジェイソン・ボーン・シリーズでもなんでもいいのだが、記憶喪失前は、天才的な能力をもった人物も、記憶喪失後の人物は、凡人かもしれないが、総じて、好人物である(もちろん例外もあって、『メンタリスト』のパトリック・ジェインが一時的に記憶を失うエピソードでは、彼は、ずる賢い詐欺師になる、もしくはもどってしまう――むしろジェインが捜査に協力するようになってから(それがシリーズのエピソードとなる)が、記憶喪失状態で善人になったところがあり、彼が、自分の妻子を殺した犯人を執拗に追い続ける過程は、ひょっとしたら彼自身が犯人でありながら、記憶を失っているのではないかという暗示すらうかがえるのだが)。記憶喪失前は、天才的かつ冷酷な殺し屋でも、記憶喪失後は、空白の過去と自己のアイデンティティ喪失に悩む凡人だが心優しく思いやりのある誰からも好かれる優れた人物となる。

べつに過去の記憶を一時的になくしても、人格まで変わる必要はないのだが、つまり有能な殺し屋が記憶喪失になったとき、人を殺す技術は忘れても、金のために人殺しをいとわない、その人格をなくす必要ないのであって、記憶喪失になったからといって冷酷非情な性格が失われるとはかぎらない。ところがたいていの記憶喪失物では、記憶喪失になって、憑き物が落ちたように、すっきりさわやか晴れ晴れとした性格に生まれ変わるのである。まるでそれまでの自分は攻撃的かつ防衛的で、必死で生きていて、余裕などない人間だったのが、記憶喪失を境に、本来の自分に、つまり肩ひじをはらない、リラックスした自然体の自分に、もどったようなところがあるのだ。

この記憶喪失者=良い人・自然体人間というイメージについては、この映画そのものが、説明をあたえているところがあって、自分の意志であれ機械的手段であれ、過去の記憶を失ったり改変したりするとき、人間は自己防衛のためにそうするのであって、その行為の中心には、つねに、防衛されるべき美しい自己が存在する。記憶喪失した人間が、無垢な人間にみえるのは、忌まわしい自分の過去や記憶を消すことが、自己防衛のためであり、美しい無垢な自分を生存させることが目的となるために、好人物の自然体の記憶喪失者は、そうした無垢な自己の投影となるのである。

あと、これはこの映画とは関係のない話だが、記憶喪失者が凡人で好人物というのは、あまたの凡人、一般人に分類される人間が、実は、自分は忘れているのだが、過去においては天才あるいは超能力者であったという、ファンタジーがどこかにあるからある。私は凡人だが、かつては神にも等しい超能力者だったという、幼くも、また痛ましいファンタジーが、記憶喪失後の人間を平凡な一般人だが好人物であるような人間に仕立て上げているのである。

そして記憶喪失物のもうひとつの重要な特徴。それは、記憶はよみがえること。記憶は絶対に失われないということである。事故で記憶を失ったり、無意識のうちに記憶を消去したり置き換えたり(フロイト的防衛機制)、あるいは記憶を強制的に消去させられたり、機械的に書き換えられたりしても(SF的設定)、記憶は完全には失われることなく、徐々にとりもどされる。失われた記憶を必死でとりもどそうとする場合は、ささいなヒントが記憶回復への大きな一歩につながることになるし、記憶の回復が謎の解明と軌を一にすることがふつうであって、失われた記憶は、失われた記憶をして葬らせよというのは、記憶喪失物では絶対にありえない。

ただ、この映画では、たぶん、映画そのものを不安定なまま漂流させる原則が導入される。映画のなかでドミノ現象とよばれるものである。たとえば、部分的に記憶を消去したり、記憶を書き換えたりするとしよう。かりに、私が昨日、人を殺したとする。私は、その忌まわしい出来事を、無意識のうちに忘れ去ろうとしたり、あるいは別の記憶(捏造された記憶)で置き換えようとしたりする――これは意識的にはできないことで、強い心的衝撃によって無意識のうちに行うか(そうでなければ意味がない)、あるいはこの映画のように脳に刺激をあたえて記憶を書き換える(ただし、それはSFのなかでの話で、現時点では実現していない)ことになる。あと人殺しというのは、あくまでもたとえ話で、映画のなかの物語とはなんら関係がない、つまりネタバレではない。

もし私がXを殺していてながら、そのことを忘却するとき、あるいはなんらかの別の記憶で置き換えるとき、つじつまをあわせるために、ほかにも記憶を変える必要がある。そのため記憶改変にともなって周辺記憶もつぎつぎと変えられ、つじつまがあうように自分の記憶が書き換えられるという現象がおこる。これを映画のなかではドミノ現象と呼んでいる。

たとえば私が親友Xを殺したとして、その記憶を抹消することによって、つぎに、「私はXを殺してない、私は昨日Xと会っていない、私はXとは誰か知らない、そもそも私はXなどという人物とは一度も会ったことはない……」というように、つぎつぎと周辺あるいは関連記憶が改変され消去されていく。ちなみに映画のなかでドミノ現象といわれているのは、有名な壊れたヤカンのジョークと同じ論法である。出所はフロイトの『夢解釈』(だとジ゙ジェイクに私たちは教えられているのだが)、そこではある人が借りた薬缶(ケトル)を壊して返してきた。薬缶を壊したことを非難されると、その人は、「私は薬缶をこわしていない」「そもそも薬缶を借りてもいない」「借りた薬缶を壊して返してはいない」と弁明したというのである。この話を紹介しているジジェクは、自分は借りた薬缶を壊して返したという現実をなんとしても認めないために、あるいは自我を守るために、相互に矛盾する言明を平気で繰り出している愚かさというふうに説明しているが、フロイトに帰れば、私たちは自我を守るためだったら、あらゆることをする、たとえ現実あるいは真実を捻じ曲げても、自分の無実を確信しようとするということであり、これはまた、自分を守るためには、現実のほうをつじつまのあうように改変することだろう。実際に、現実を改変することは不可能だが、現実についての解釈をかえることはできる――フェイク・ニュース。あるいは現実についての記憶を変えることもできる――記憶改変、捏造された記憶。

(なお、これはテレビのバラエティ番組で紹介されていたことだが、ある女性が、客にお茶を出そうとして、湯呑みを倒してお茶をこぼししてしまった、そのとき、その女性がとっさに放ったひと言とは、「わたしじゃないよ」。あるいは最近の老後2000万円貯金問題――年金問題に関して、そのことが問題になった時、政府見解は、その数字は適切ではない、誤解をあたえたから、報告書は受け取らない、そして受け取っていないから、報告書は存在しないというふうに、こわれたヤカンの議論を展開した。)

この理論というか考え方を、文学作品なり映画作品に導入すると、こまったことが生じてくる。もはや、どこまでが現実でどこまでが嘘なのか。どこまでが現実でどこまでが願望なのかわからなくなってくることである。たとえ、これが最終的真実だといわれても、それすらも捏造された記憶、願望充足的現実解釈、フェイク・ニュースかもしれないという疑いを免れえないからである。

先の『12モンキーズ』でのエピソードからすると、作者・製作者側の意図は、必ずしも受容者にそのまま伝わるとは限らないことが言えるとすれば、今回の議論では、受容者(読者や観客)は、自分の願望にそって細部をつぎつぎと誤解したり曲解したり、無視したり間違って記憶したりして、受容者が願望のおもむくままに、好き勝手に作品を解釈するということになってしまうことになる。受容者がいったん、この作品はこうだと思い込むと、どんな細部も自分の解釈あるいは印象に都合の良いように書き換えてしまう。これが映画のなかでいわれていたドミノ現象である。

受容者は、あくまでも受容者であってデータの受け皿であったのが、自分の願望、無意識の欲望によって、データを改ざんしてしまう。あるいは自分で勝手に現実をこしらえてしまう。つまり受容者(読者や観客)は、作者や映画監督でもあるということである。作者と読者、映画製作者と観客との壁がとっぱらわれてしまう。もし観客が、自分の願望にあわせて、あるいは自分を守るために、自分の都合のよいように細部をいじって改変してしまうとすれば、映画製作者側も、自分たちの願望にあわせて、自分たちの都合のよいように、細部をいじり、特定の枠に真実をねじまげていないだろうか。記憶を改変されたり、誤った記憶をもたされたりしながら、そのことに気づかず、映画をつくっていたとしたら、その映画自体が、真実を隠蔽して、改変された映像そのものではないだろうか。

フロイトが、誰であれ、子供の頃に、なにか自分にとって都合の悪いこと、自分の世界観にそぐわないこと、自分にとって不利になることがあると、それを隠蔽して偽りの記憶をもつようになると語っていた。真実を隠蔽する偽りの記憶にフロイトが付けた名前が遮蔽記憶、真実を隠蔽し、遮蔽する記憶という意味だが、英語表記すると、スクリーン・メモリーとなる。映画とは関係ないのだが、どこか映画一般にも、また個別的に、この映画についても、これはぴったりあてはまる命名ではないだろうか。つづく


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