2025年12月10日

『平場の月』2

十代の若者たちの青春恋愛映画(漫画とか小説なども)において、定番化していてうんざりするのは、ふたりのうち片方が死ぬこと。たいては女性のほうが、また事故死もあるが、病死が多い(殺人となると話がかわってしまうので、これはあまりない)。

10代で死ぬことの悲哀は大きいのだが、現実には10代で死ぬ、それも病死というのは、そうざらにあることではない。死によって恋愛感情を盛り上げようとするのは、姑息な感が否めないし、心中とか自殺によって愛を終わらせないための手段かもしれないが、常套化するとほんとうに鼻につく。実際、そうした映画はいまでは全く見ない。というか今でもそうした映画が作られていることは唖然とする。

以前、『殺さない彼と死なない彼女』(監督:小林啓一、主演:間宮祥太朗・桜井日奈子、2019)を、そのタイトルに惹かれて観たことがある。オフビートな青春物で私はとしては途中まで面白かった。確かに彼女(桜井日名子)は「死なない彼女」で安心して観ていたら、別に病弱そうにもみえなかった彼(間宮祥太郎)の方が途中で病死。おい、やっぱり、死ぬんかいと怒りがこみあげてきた。殺さない彼は、死んでしまう彼だったのだ。なんじゃいこれは。

『平場の月』では、中学生のとき同級生で、初恋の相手でもあった男女が、印刷会社に勤め仕事は順調だが妻と離婚し認知症の母を介護している男性(堺雅人)として、また病院の売店の店員としてバイトしながら、いくつかの男性遍歴を経て今は寂しい独り暮らしの女性(井川遥)として再会し、旧交を温めつつ、恋愛に発展する。そのため中学時代にどちらがか死ぬという紋切り型の展開とは無縁のいわゆる大人の恋愛映画として感動できるものと考えた。前評判はよかったように思う。
【ちなみに、舞台になっているTMGあさか医療センターに私が入院していた頃は、売店は、映画のように病院が経営しているのはなく、ローソンだったのだが、今はどうなっているのか不明。ただローソンの店員という設定は避けたという可能性はある。】

しかし、映画を観た人ならわかるように、結局は、死が2人を分かつのである。二人は中学時代には死ななかったのだが、死は遅れていただけで、中年になってから、ようやく追いついてきた。中学生は病死することはめったにないが、中年の男女にとって病死は身近な存在となる。結局、中学生時代に、死にぞこなったひとりが、いまようやく死神に追いつかれて死んだということか。しかし、それは死で終わる紋切り型の青春物の中年版ではないか。せっかく大人の恋を期待したのに、結局は中学生の恋愛の中年男女版にすぎなかったというのは、少々情けない。

実際のところ、映画は中学時代の出来事がフラッシュバックで入り、映画のいまとここが、中学時代のいまとここに重なって示されるために、中年版の中学生恋愛というイメージはいや増しに高まるのである。もちろん、そのぶん――中年の男女ふたりは、肉体関係ももつようになるが――二人の愛は中学生どうしのように、いや中学生以上に、純情そのものである。そこが面白いところかもしれない。中年の男女も、気持ちは、十代の中学生なのである。

そして紋切り型の青春恋愛映画のように、死が2人を分かつ。繰り返すが、それは青春恋愛映画の中年版にすぎない。そこがなんとも気に入らない。ハッピーエンディングであれ、そうでなくても、どうか死ではなく、別の要因で、愛に決着をつけてほしい。死は安易すぎる。恋愛映画における死とりわけ病死は安楽死にすぎない。

ただし中学生恋愛の中年版以外の点で、興味深いのは、女性が「太い」と語られているところである。体型のことではない。芯が太いというような、性格の強さというか堅固さを、どちらかというとポジティヴにとらえた表現で、これが映画とか原作のなかだけの表現か、一般によく使う言い方は私にはわからないが、映画のなかで井川遥は、「太い」女性として語られる。

とはつまり彼女が永遠の「少女」であるということだ。

比較的最近、映画の発明のひとつとして、何ものにも支配されない独立不羈の「少女」の存在があると語った私は、では、たとえばどんな映画がそうかと言われて、物忘れがひどい耄碌老人としての私は、すぐに作品名がでてこなくて、知名度の低い作品をなんとか引き合いに出すしかなかったのだが、よくよく考えれば、今年話題になった作品として『ルノワール』を真っ先に挙げるべきであった。あるいは河合優美が演ずる女性は、「少女」であることが多い。『ルノワール』の監督・早川千絵による『PLAN 75』(2022)の倍賞千恵子は、『TOKYOタクシー』でもそうだったが、永遠の少女というイメージがぴったりくる。彼女たちは、みんな「太い」のである。

実際、映画の中で何度も「太い」と語られる須藤葉子/井川遥は、結局、自分で人生を、生き方を、死に方を選択肢、誰にも従属しない。退院後は親族や恋人の世話になるしかないが、最後は、彼女は一人で死ぬ。誰にも迷惑をかけないのである。あるいは迷惑をかけることを潔しとしない、「太い」女性なのである。

【このことを異化的に示すのが、『殺さない彼と死なない彼女』で死ぬことになる間宮祥太朗のアウトサイダー的な芯の強い変人かつ傲慢なキャラクターである。それは誰にも支配されないまま死んでゆく少女の男性版のようなところがある。そしてこの間宮と桜井のふたつをあわせると、太い少女像が完成するようなところがある。原作の漫画とは異なる世界に映画は私たちを連れ出している。】

その意味で、彼女の現在が、中学時代の彼女と二重写しになるのは、彼女の、中年になっても少女であるという、少女性を強調することになろう(もちろんそれは中学生的心性を失わない堺雅人の感情と対になっているのだが)。そして誰からも支配されない彼女にとって、もっともふさわしいのは、ひとりで死ぬことである。

そう考えると、数多の青春恋愛映画で死ぬ中学生・高校生の女性(ヒロイン)たちは、少女性を全うするために、大人の女性として男性秩序に組み入られ、女性となる前に死ぬのだともいえよう。したがって、病死が恋愛を終わらせたり活性化したりする青春恋愛映画の紋切り型プロットに、ただうんざりするだけではなく、そこに「太い少女」の物語の可能性を、私たちは見出すべきかもしれない。

あと、堺雅人扮する青砥健将のキャラクターついて。彼女が手術後、病気の再発を怖れつつ生活し仕事をはじめると、青砥/堺雅人は、彼女との二人だけの旅行を計画しはじめる。人口肛門をつけての不便な生活を送る彼女を旅行に誘うというのは、あまりに理不尽で、これは女性を支配しようとするエゴイスティックな傲慢な男性の挙措にすぎないのではという批判の声があってもおかしくない。それは確かにそうだと思う。手術後の彼女に対する青砥/堺雅人のふるまいは、あまりに無神経であり、病人を思いやっていない。ただ、私自身の個人的経験からしても、それは起こりうることである。

私自身、母親を、須藤/井川と同じ病気で亡くしたのだが、手術後、病状から回復した母親に接して、私は母親がこれで病気から解放されて永遠に生きるものと思っていた。その思いは、もちろん幻想にすぎないことはわかっても、手術後に母親が死ぬことは想像すらできなかったのだ。私は手術後の母の余命について医師に尋ねなかった。医師としては私が余命について長くないことを自覚していると判断しただろうが、私は、母に、余命などない、母は永遠に健康な人間として老いることも病気で死ぬこともないと本気で信じていたのである。私としては、映画のなかの青砥/堺をこれ以上責めるつもりはない。私は母を旅行に連れ出そうとはしなかったが、青砥/堺の愚かさの多くを共有していることは認めざるを得ない。青砥/堺――それは愚かな私自身の姿でもあったのだから。
posted by ohashi at 19:44| 映画 | 更新情報をチェックする

2025年12月03日

『平場の月』1

「平場の月」というのがどういう意味なのか、映画をみても最後までわからなかったのだが、原作を読めばわかるのだろうか。実のところ、観る予定はなかった映画なのだが、けっこう身の回りで宣伝ポスターを見かけた。東武東上線池袋駅では、とくにそれが目についた。調べたところ、映画は、朝霞市とその周辺でロケをしたらしい。いや、そもそも原作では朝霞市が舞台とのこと。そのため観てみることにした。ちなみに私は朝霞市の住民ではない。

東武東上線では「朝霞駅」と「朝霞台駅」がある。朝霞駅を使うことはほとんどないので、映画のなかのいろいろな場面は初めて観るものばかりだったが、駅のシーンで動いている電車は東武線の電車ではないようだ。おそらく駅前のシーンはどこか別のところで撮影したのだろうと思ったが、そうではなかった。駅は北朝霞駅で、動いているのはJR武蔵野線の電車だった【東武線朝霞台駅とJR北朝霞駅は徒歩で1分もかからず移動できる、ほぼ同じ駅と考えていい】

北朝霞駅はよく利用する。大宮方面、浦和方面、また彩の国さいたま芸術劇場に行くときも、また立川、八王子方面に行くときも北朝霞駅を利用する。物語は北朝霞/朝霞台駅周辺を舞台にしているようだ。

となると、ひょっとしてと思って観ていると、堺雅人が胃カメラで内視鏡検査を受ける病院、井川遥が大腸がん手術を受ける病院は、まぎれもなくTMGあさか医療センターだった(映画内では違った名称だったが)。そう、このTMGあさか医療センターは、私が入院・手術をした病院だったので、よく知っている。

実はTMGあさか医療センターが、今の場所に移設される前の「朝霞台中央総合病院」で、私は生まれて初めて入院・手術をした。それも2回。別の病気で。そして移設後、名称も「TMGあさか医療センター」に代わってからも入院・手術。術後はまったく問題なく後遺症もなく、現在に至っている。とにかく映画の中に出てきた病院は、ほんとうになつかしい感じがした。繰り返すが私は朝霞市の住民ではないが、行きつけの病院で紹介状をもらい、こちらで受診することになった。

ちなみに当時は、コロナ禍の最中で、私が行きつけの病院では、100人を超える集団感染を出したが、その病院の紹介状をもってTMGあさか医療センターを受診したとき、私に37度越えの熱があって、コロナ患者ではないかと病院側に緊張を強いたが、検査の結果、コロナには感染していなかった。また当時、コロナ患者が優先され、私のような患者は診察してもらえるのかと心配になったが、TMGあさか医療センターは、今はどうか知らないが、当時は、感染症患者を受け入れていなかったので、私は無事に手術をすることができた。

なおもともと難しい手術ではなかったとはいえ、病院の適切な治療もあって、すぐに退院できて、当時、大学在職中だった私は、大学の授業に大きな穴をあけることなく済んだので、病院には本当に感謝している。

もう一度だけなつかしい場面を語ると、手術の際に手術室のある区画に行くと、手術室担当の看護師が出てきて挨拶をする。映画の場面とまったく同じことを経験していた。


自分のことはこのくらいにして、映画について。つづく
posted by ohashi at 20:12| 映画 | 更新情報をチェックする

2025年12月01日

『TOKYOタクシー』

ネット上での感想を2つだけ拾うと、
良い作品だとは思うが、パリタクシーを公開時に見ているので元作品は超えてないと感じた.

というのがあった。これは個人の意見なのだとやかく言えないのだが、どっちが超えている、超えていないという感想ほど、語る人間の愚劣さを露呈させるほどのものではなく、また評言の低下というか劣化を招くものはない。私も『パリ・タクシー』を公開時に観たが、『TOKYOタクシー』のほうが超えていると思った。こう語ったところで、何の意味もない。それぞれの映画に、それぞれのよさがあり、それを玩味することが重要で優劣をつけることに意味はない。

ただし、上記の評者は愚かであってもバカではない。次のコメントはバカのそれである。
止めた車に周囲の映像を組み合わせた撮影ですね。
昔はよくある手法でした。【いまでもそうだぞ。ド阿呆】
かなり良くなったとはいえ、【いまはAIでやっているので、抜かりはない】
車の振動や周囲の影などが伝わらず、【伝わるわけねーだろう。体感シアターか】
残念でした。【残念なのはお前の頭だ】
走行ルートも目茶苦茶ですね(笑)
東京人でない私でも、あそこ走った後、そこ行く?って分かりましたよ…【以下略】

こういう自分が頭がいいと思っているバカは救いようがない。これは小さな子供が訳知り顔に話しているさまが思い浮かぶ。このテレビではこの人殺されるんだけれども、これは殺されたふりをしているだけで、ほんとうは死んでないよ。ここで血が流れるんだけども、これは血のりっていって、血にみせかけた偽物なんだな。だからみんな嘘なんだ――という頭のいいバカな子供に対しては、そんなことは誰だってわかっている、ドラマのなかでほんとうに殺し合いをしているとは誰も思わない。でも、この人はほんとうに殺された、この人は平気で人を殺す人なんだと、そう頭のなかで想像してごらん、そうして恐ろしい、悲しいと思い、ショックを受ける方が、ドラマをずっと楽しめるし、ドラマの内容もよく理解できるよと教え伝えることは必要である。

その子どもがもう少し歳をとっていると、こう語るかもしれない。演技で死んでいるんだけれども、血の出かたが少ないとか、死に際の痙攣sita
ほうがいいとか、拳銃で殺すのだったら頭を狙ったほうがいいとか、わけ知り顔で話す、以前として、頭のいいバカだとしたら、この子が長じて「止めた車に周囲の映像を組み合わせた撮影ですね。昔はよくある手法でした」とクソ偉そうに語って恥をさらすかもしれないので、こうやって教え伝えた方がいい――

もしこれがほんとうに、この人は死んでしまったのだと視聴者が信じてしまうような演技なり演出をしたら、観客は不快と恐怖を感じて動転してしまうかもしれない。たとえ一瞬でもいい、そんなふうに動転してしまったら、ドラマがだいなしになるでしょう。視聴者が、なにかの場面に驚き恐怖心を抱いたらドラマの内容はそっちのけになる。この殺害場面は、ほんとうに現実で起こった殺害の再現なり真に迫った模倣なのではなく、人が殺されたという記号であればよいというか記号でないといけない。そうでないと視聴者は不快になり憎しみさえ抱いたりするからだよ、と。

さらにいうと、ほんとうに記号だったら、視聴者は白けてしまうから、ある程度、真に迫った行為というものを示す必要がある。真に迫りすぎてもまずいけれども、抽象的な記号的表現になってもまずい、その按配というかバランスがたいせつなんだね。あ、ごめん、こんな話は君にはついていけなかったね。

「走行ルートも目茶苦茶ですね(笑) 東京人でない私でも、あそこ走った後、そこ行く?って分かりましたよ…」と語っているが、たしかに、走行ルートが合理的あるいは現実的でないことは私も気づいた。そこをつっこんで、マウントをとった気分になってもいいのだが、つっこんでマウントをとることは、頭がいいと思っているこのバカにまかせておけばいい。

走行ルートの問題は、たしかに私も気づいた。監督が気づかなかった可能性もあるが、おそらくは気づいている。ただ映画の編集段階で、物語の進行上あるいは情動的な演出上の理由から、効果的な絵の配列が優先され、地理的関係は無視されたのかもしれない。さらにいえば、乗客の倍賞千恵子の自分語りは、過去と現在とを往復する。そしてまた外の景色、走行している場所とも相関関係にある。空間的・地理的にあり得ないルート、遠回りあるいは無意味なルートは、過去と現在との時間的往復運動の錯綜性と同調しているのである。

木村拓哉扮するタクシー運転手が道路の一時停止を無視したため監視していた警官に止められるところがある。ささいながら苦境にたつ木村拓哉に対して乗客の倍賞千恵子が助け舟を出す。自分は心臓の病で手術を受けなければいけないため、自分の甥であるこの運転手は、あせって、ついつい道路標識を無視してしまったのであって、どうか大目に見てほしいと、警官に語る。事情を理解した警官は、見逃してくるのだが、この場面の映画全体のなかに占める重要性はどんなに強調しても強調しすぎることはない。

ちなみに交通規則は映画のなかでは破られるためにある。公開中の『爆弾』では、人が通りの向こうで殺されそうになっているとき、横断歩道で赤信号だから立ち止まってそれを傍観しているのか、規則を破ってでも助けに行くのではないかということが語られる場面がある。これも公開中の『平場の月』では、自転車の二人乗りが登場する(映画の最後のクレジットには、自転車の二人乗りは交通規則違反だが安全に配慮して往来の少ない通りで撮影しているという言い訳が文字で示される)。

『TOKYOタクシー』では一時停止の無視が警察によって摘発されるが、口八丁の乗客の老婦人によって見逃してもらえる。いずれの場合も交通規則は破られるためにあるようだ。そしてその違反は、交通規則に限らず、多岐に及ぶ。『TOKYOタクシー』では、地理的関係なり地理的規則・法則が破られ、タクシーは寄り道と回り道、蛇行と循環を繰り返す。その「違反行為」は、乗客の老婦人の語る人生の紆余曲折という内容だけでなく、現在と過去との境界すらも一時停止せずに無視してしまう混迷と錯綜と自由闊達な語り口、そして想起の偶発性を反映している。またタクシーの後部座先には、現在の老婦人(倍賞千恵子)と若い頃の彼女(蒼井優)が並んで座る場面もある。地理的空間の迷走は過去と現在との迷走的往復を呼び寄せるのである。

実際、山田洋次監督は、規則を破るときにドラマが生まれると考えているようだ。だからこそ監督は規則には反感をもっている。以前、なにかのトークの場で、最近では映画館で上映前に観客に対して、スマホの電源を切れとかおしゃべりをするなとか前の席をけるなといったこまごまとした注意事項が語られるが、あれがうっとうしいと語って、ネット上で反感を買っていた。私はそうした注意事項は必要だと思うしマナーの悪い観客にはほんとうに腹が立つが、それとは別に、山田洋次監督の規則嫌いについて、それが映画の内容にまで浸透していることは重視すべきであることを指摘したい。

そしてこの一時停止無視の場面についていえば、これによってタクシー内でのやりとりに変化が生まれる。そしてまた、ここまでの運転手と乗客との会話が一時停止無視の迷走と迂回であり、しかも地理的規則を無視した回遊であったことがあらためて前景化される。それだけではない。乗客の倍賞千恵子の肝の座った要求、それも虚言に端を発する図々しいまでの要求は、彼女のキャラクターについて多くの示唆を与えることになる。そもそも彼女は振り返れば規則を踏みにじって来た人生であった。そのためには服役すらした。また警官に温情を求める押しの強さは、彼女が服役後、アメリカでネールアーティストの修行をして日本で成功を収めたことも、さもありなんと観客の思わせるものだ。

しかも、彼女は嘘をかたって警官を丸め込んでいる。ここからいえることは、ひょっとしたら彼女がこれまで運転手に語ってきたとは、全部、口から出まかせの嘘だったかもしれないということだ。多くの観客は、そうは思わないかもしれない。しかし、嘘だったという可能性はある。しかも、嘘であったことで、運転手と乗客の交流が意味のないものになるどころか、この巧みな嘘ゆえに(そこにはほんとうことも含まれていようが)、本来なら、生ずることのない心の交流が生まれたからである。嘘でなかったら、ふたりの会話は、凡庸で冷たいものであっただろう。嘘であったからこそ、二人の間に、おそらく一生消えることのない交流が生まれたのである。

そしてこのことは、このタクシーを都会のただの運搬手段ではなく、観光タクシーに変えた。そのため走行ルートがおかしいというコメントは作品の可能性をせばめてしまうことになる。つまりこの走行ルートは観光タクシーのルートなのだ。観光タクシーだからこそ、運転手が観光ガイドになる。また乗客も観たいところを指定して、ルートを変更させる。最短距離を最速でという効率重視の走行ルートは、もはや消え、効率の点からは無意味な迷走的な走行ルートが出現するのである。

こうしてさまざまな小さなルールの変更とルール破りの果てに、彼女の人生にボーナスのような一日が訪れる。運転手にとっても、この走行はボーナスに近い。そしてこの一日が、心温まる会話物語として成立することになる。まさにルール破り、規則違反は、映画製作に関するメタコメンタリーともなっているのである。



あとは、この映画の評価とは別に、個人的な感想を述べさせてもらう。

倍賞千恵子の回想のなかで、若い頃の彼女(蒼井優)は、夫(迫田孝也)に暴力をふるわれるわけだが、この迫田孝也扮する夫は、サラリーマンで、妻を顎で使い、気に入らなかったり、妻が反抗的であったりすると殴る。そして帰宅すると、部屋に閉じこもって、クラシック音楽のレコードを聴いている。

この場面を観ながら私は緊張しはじめた。この人間のクズの夫を表象するのに使われたタイプというのがクラシック音楽を聴くサラリーマンである。ただサラリーマンが悪人だとはいえまい。サラリーマンが職業や職種を横断してクズ人間ということにはならないだろう。となると、狭い団地の部屋で、妻や子どもとは交わらず、クラシック音楽を聴いている夫というがクズであるところの構成要素であるように思われる。妻や子供と交流しない夫はクズだろうが、そのクズっぷりと、クラシック音楽のレコード好きということが連動しているのである――あとなにかにつけて几帳面だということもクズであることの要因として映画では想定されているようである。

だが、それでいいのだろうか。たしかに映画のなかでは迫田孝也演ずるこの男は、いかにもクズという感じがするのだが、それでいいのだろうか。というのも、この男にそっくりな人間を私は知っているからである。

私の父親である。

私の父親もサラリーマンで、帰宅したら、部屋に閉じこもって自分で構築したオーディオセットでクラシック音楽のレコードを聴いていた。母はともかく私とはほとんど口をきかなかった(ちなみに私は連れ子ではない)。う~ん、やはり、やはり、私の父は、クズ人間のステレオタイプになっておかしくない人間だったのだろうか。う~ん、と、うなってしまうしかないが、そう、まさに人間のクズだった、アグリー(agree)ですとしかいいようがない。

ちなみに私も、父がいないとき、父の大事にしているレコードに触ったことがある。紙のケースからレコードを出してしげしげとみた。父親がレコードを扱うときの、びっくりするほど慎重な手つきを思い出し、それをまねながら、丁寧に扱い、もとのケースに戻して、いじったことがわからないようにした。しかし、几帳面な父親は、私がレコードをいじったことをすぐに見抜いた……。

映画を観ながら、なんで、こんなエピソードが出てくるのだと、映画館で、手に汗をかき、おしっこをもらしそうになった。私の子供の頃の話ではないか。映画のなかの虚構と、私の実人生が、なぜ重なってしまうのだ。めまいまでしてきた。

ちなみに、私は、父に呼び出され、物差しでひっぱたかれたりはしなかった。それはほんどうである。もし父が私をひっぱたこうものなら、私の母が父を絶対に許さなかっただろう。父は局部にやけどをするくらいではすまなくて、母にほんとうに殺されていたにちがいない。
posted by ohashi at 20:22| 映画 | 更新情報をチェックする

2025年11月19日

『ヴォイツェック』ふたたび

昔々、『悲しき天使』というヒット曲があった。メリー・ホプキンスの歌唱をテレビで観たとき、そのいかにもイギリスらしい素朴な、そして親しみやすいフォークソングにいたく感動した私は、全世界的にヒットしていることにも納得した。その後、英語の歌詞を検討して、昔をなつかしむというこの曲が、なぜ「悲しき天使」なのか理解に苦しんだが、当時、日本でこの曲は自由に歌詞をつけられて歌われていたから、そうした日本語ヴァージョンのひとつとマッチしていたのだろうと考えたが、あとから、当時は、なんでも無差別に「悲しき~」とか、「~の天使」いうタイトルをつけるのが流行っていたと知り唖然とした。

日本でつけたいくつかの日本語の歌詞には、ひどいもの、吐き気がするものも多くて、このイギリスのフォークソングのしみじみとした味わいに及ぶものはなかった。最近では、この曲の歌詞、“Oh my friend we're older but no wiser.”というのは、私の座右の銘にまでなっている。

ちなみにこの「悲しき天使」の原題はThose were the daysで、このなかのリフレインには、シェイクスピアの時代に使われていたようだが、なんといってもシェイクスピアの『お気に召すまま』の台詞として有名になった(テオ・アンゲロプロス監督の映画のタイトルにもなった)「永遠と一日Forever and a day」というフレーズがある。【テオ・アンゲロプロス自身は『お気に召すままの』の台詞からとったのではないとことわっているので、『永遠と一日』の英語のタイトルはEternity and a Dayなのだが。】ネット上でこの曲の歌詞を日本語訳しているサイトがいくつもあるのだが、forever and a dayがシェイクスピアに端を発していることに気づけ、そして「永遠と一日」というフレーズのニュアンスを無視して、「いつまでも」と適当にごまかして訳すなといっていやりたい。

ただし、後年になって驚いたのだが、これはイギリスのフォークソングではなくて、「ロシアの民謡」であった。そういわれれば、ロシア風の音階ではないかと納得した。しかし、それはロシアの民謡ではなく、20世紀初期に創られたれっきとした歌曲であった。ロシア的であることは納得したが、民謡ではなかったことにも驚いた。しかも曲は、クレズマーというイディッシュの民謡にルーツに持つ音楽、あるいはロマ音楽の様式をとりいれたものということになり、ロシア的でもなかったことがわかった。もう、そういわれれば……と思うことはやめたい。自分自身の判断力のなさ、あるいはいい加減な情報の流されている自分の愚かさを痛感するだけだから。

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長い前振りだったが、9月に喘息じみた咳に悩まされ観劇をあきらめた『ヴォイツェク』が、地方公演から再び東京に戻って来たので、そしてチケットがあったので、観劇することができた。

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『ヴォイツェック』の原作そのものは短い芝居であって、ふつうに上演すれば、1時間30分もあれば確実に終わるのだが、今回は、それを2時間30分(休憩20分)の作品にしたものの上演だった。つまり原作のアダプテーションであった。主人公を北アイルランドのベルファストの孤児とし、長じて、ドイツのベルリンにNATO(ネイトー)軍の英国部隊の兵士として派遣され、ワルシャワ条約機構軍と対峙する日々を送る兵士に変えた。上官の髭を剃るとか、科学者の人体実験に参加することなどは原作と同じだが、しかし、それ以外に、原作を思い起こさせる設定なり人物なりはいない。ヴォイツェクの妻を誘惑する上官たちはいない。最終的に妻を殺すことは原作と同じだが、そこにいたる過程はずいぶんと違う。

だが、これは批判しているのではない。このアダプテーションは、原作以上にヴォイツックの内面を掘り下げるというか、そのトラウマを可視化し舞台化することで、原作にはない驚くべき深みと奥行を実現しえたのは特筆に値するのだから。

実際、原作を知らずに今回の上演に接した観客は、これを冷戦期の事件を扱った、それもいかにも英国的な演劇としてとらえるだろう。社会的・政治的に緊張の高まる北アイルランドのベルファストと、東西対決の最前線であるベルリンとは地政学的に同じ位相であることは誰もが気づくであろう。また東西緊張の真っただ中に派遣された英国兵士が、その緊張の中で心を病んでゆくというのも、ある意味、必然的かつ蓋然的な展開であるように思われる。主人公がヴォイツェックという英国系でもアイルランド系でもない名前をもつのは変だが、それはドイツでの事件であることとなにかつながりがあることをにおわせているくらいにしか観客は感じないだろう。

だが観客は驚くはずである。これはドイツの戯曲であって、ドイツ人のヴォイツェックを英国人の主人公にしたものだと知ることになったら。とはいえ、それで主人公の名前がドイツ系であることに納得することになるだろう。また医師(不思議なことにドイツ人ではなくイギリス人になっている)が人体実験をするのも、ナチスの医師が強制収容所でユダヤ人に人体実験をした忌まわしい過去の歴史を彷彿とさせる設定だったのかとも納得するかもしれない。しかし、観客はさらに驚くだろう。この芝居はナチスとは関係がなく、原作は19世紀(1835年頃)に書かれたと知れば。

逆にいうと、これは英国の芝居としては、実によくできているし、英国らしさ――それがどんなものかは定義できないが、なにかよくわからないが、これこそが英国風だと思わせるような迫力に満ちている。演劇的強度、人物の掘り下げ、悲劇へと向かう緊張感など、英国現代劇の要件をすべて満たしているような感がある。

また英国ではなく外国を舞台にした作品、ここでは冷戦下のドイツベルリンに駐留する英国軍人と、現地の人々との関係など、英国の芝居にありがちな設定である。またそもそも外国において、妻もしくは愛人を嫉妬ゆえに殺してしまうというのは、オセローの世界ではないか。まあヴォイツェックは、身分的にはオセローというよりもイアーゴーに近いのだが。またヴォイツェックの上官の妻が浮気をしているというか、夫の部下の兵士たちと次々と寝ているというのは、ほんとうに浮気するデズデモーナと老将軍オセローのようではないか(ちなみに、これは原作にはない設定である)。

したがって、今回のアダプテーションは、繰り返すが、いかにも英国演劇らしさがふんぷんとしていて、原作の舞台化というよりも、独立した演劇作品、それもきわめて興味深い英国的悲劇作品とみることができる。

おそらく今回の舞台は、同じ原作をもつアルバン・ベルクのオペラ『ヴォツエック』よりも原作ばなれした、独立した作品と思っていいのだが、しかし、同時に、原作にある未完成で未整理でなおかつ空白ですらある部分を丁寧に埋めたという点で、原作のあるべき姿、その完成形を、独自の追加創作によって示したという点で、アダプテーションの見本のような作品かもしれない。原作創作時には盛り込めなかった細部を、今回のアダプテーションは可能なかぎり盛り込んでいる。そのため、原作から離れているが、離れていることは、原作を変容させその完成形を見せてくれるプロセスの成果としてある。

そして、それがまた原作とは異なる演劇性を実現してしまったという皮肉な結果になる。

というのも今回の上演は、圧倒的にヴォイツェック中心である。主演の森田剛の全舞台をみているわけではないのだが、今回の役柄は珍しいのではないかと思ったが、その経歴を振り返ると、ヴォイツェック的な人物はけっこうこれまでにも演じていることがわかる。そのすべてを観ているわけではないのだが、今回のヴォイツェックは、まちがいなく経歴のなかでベストのひとつに入るだろう。

そして言えるのは今回のアダプテーションは、ヴォイツェクの人生を徹底的に掘り下げていることで、ベルファストで孤児になったことからはじまる苦難の人生とトラウマがねちっこく語られる。これに比して、他の人物は類型的な造型にとどまる。今回のキャストは、原作にある人物だけをあげると、大佐に冨家ノリマサ、医師マーティンに栗原英雄と豪華キャストなのだが、ヴォイツェックと同棲し、彼にからみ、また殺される役の伊原六花は、ヴォイツェックの掘り下げとともに、原作にはない重要性を帯びることになるが、栗原、冨家は、スター俳優の無駄遣いという気がしないでもない。その役柄が、ヴォイツェックの圧倒的な存在感の前にかすんでしまっているからである(また原作にはない上官の妻/ヴォイツェックの母(伊勢佳世)、同僚の兵士(浜田信也)らのほうが存在感があるのも面白いのだが)。

原作では上官や医師、その他の人物(アダプテーションでは消された)らが、ヴォイツェックと同等の存在感をにじませている。それはまたヴォイツェックだけが突出するのではなく、他の人物と同等の薄っぺらさしかないのである。そう、今回のアダプテーションにおけるヴォイツェックは、立体的(ラウンド)な人物である。しかし原作の彼は、二次元的というか薄っぺらい平面的(フラット)な人物である。他の戯画化された人物たちと同等の一人であって、傑出した一人ではない。ビューヒナーの戯曲『ダントンの死』は、革命と政治をめぐるねちっこい芝居である。今回の芝居もヴォイツェックの内面を掘り下げ、その苦悩やトラウマや愛への渇望と狂気を惜しみなく舞台に現前させるねちっこい芝居である。しかし原作の『ヴォイツェック』は、ねちっこくない。

原作は、未完の複数の断章というかたちで残っているだけで、場面の順番も確定していない。そして短い場面の連続によって、ある特定の人物を掘り下げることなく、深さを拒否した平面的芝居に終始する。ベルクのオペラも、今回のアダプテーションも、ともにこの軽さには到達していない。凶器と嫉妬、社会的分断、不正と正義への要求というテーマは次々と登場するが、いずれも、ダイナミックな有機的関係を構成することなく、あるいはメタフォリックな関係性を構築することなく、メトニミックに流れてゆくだけである。

かつてアウエルバッハは『ミメーシス』の有名な序章「オデュッセウスの傷跡」のなかで、ホメロスの叙事詩は、「現在」しかない、たとえ語りのなかで過去の出来事が言及されても説明のための注釈としてしか機能しないのに対し、聖書の物語では、過去と現在がダイナミックにインターセクトする――過去は現在を変え、現在もまた過去を変える――と論じたことがある。この二つの潮流、ヘレニズム的潮流とヘブライイズム的潮流の緊張関係が、やがてヨーロッパ文学を形成するというのがアウエルバッハの議論だった。

それを思い出すなら、今回の『ヴォイツェック』のアダプテーションは、過去と現在とが交錯し、その交錯はまた西と東という二つの世界の対立(さらにイングランドとアイルランドあるいは北アイルランド)とも、交錯し、個人的な生と、政治と歴史そして社会との葛藤を私的かつ公的に展開していたといえよう。

それに比べて原作の『ヴォイツェック』は、そうしたダイナミズムを知ることはない。そこには現在しかない。過去はないし、過去との葛藤もないし、トラウマもない。いっぽうアダプテーションでは人間が動いている。過去を背負い、過去の重圧に押しつぶされている哀れなヴォイツェックがいる。これに対し原作では、輪郭だけのスケッチのような人物が動いている。そうスケッチ。天然色のアニメでもない、色のない粗削りな輪郭だけのスケッチの動画。それが『ヴォイツェック』であり、そしてだからこそ、『ヴォイツェック』は、モダニズムを超えて、ポストモダン的な演劇へと突出しているのである。

ベルクのオペラも、今回のアダプテーションも、原作をモダニズムにとどめようと、あるいはおしもどそうとしている。だが原作はモダニズムすら超えてその先をいっている。ポップなというと軽すぎるかもしれないが、戯画的で類型的で平面的な人物像が織りなす魅惑的な薄さを誇示する群像劇、それが『ヴォイツェック』の、なかなか見出してもらえない、現代性あるいはポストモダン性だと私は信じている。

今回のアダプテーションはすでに述べたように原作とは独立した演劇として観れば、とても優れた迫力のある舞台であることはまちがいない。実際、観客の誰もが息を殺して見入ってしまう力強さ、演劇的迫真性がそこにある。

けれども原作の舞台化としては、原作のもつ独自の良さ(おそらくは観る人を選ぶであろう良さ)は具現化されていない。おそらく亡き岩淵達治先生は、この舞台をみて、怒るにちがいないと思う。原作とは似ても似つかぬ劇として。とはいえ私の議論に対しても岩淵先生は同様に激怒するにちがいない。呼び出されてしっかり説教をくらうことはまちがいないだろう--お前は何もわかっていない、と。
posted by ohashi at 22:15| 演劇 | 更新情報をチェックする

2025年11月17日

『スプリングスティーン 孤独のハイウェイ』

原題:Springsteen: Deliver Me from Nowhere
2025年製作/120分/G/アメリカ 劇場公開日:2025年11月14日

映画の邦題について、映画を観ているときにはとくに意識していなかったので、「孤独のハイウェイ」というサブタイトルがどこからとられたのは、スプリングスティーンの歌詞にあるものなのか、有名な引用句なのか、映画会社が勝手につけたのか、わからない。

まず、映画.COMでの紹介
ドラマ「一流シェフのファミリーレストラン」のジェレミー・アレン・ホワイトが主演を務め、ギター、ハーモニカ、歌唱トレーニングを経て若き日のスプリングスティーンを体現。「アプレンティス ドナルド・トランプの創り方」のジェレミー・ストロングがマネージャーのジョン・ランダウ役、「帰らない日曜日」のオデッサ・ヤングがガールフレンドのフェイ・ロマーノ役、「ボイリング・ポイント 沸騰」のスティーブン・グレアムが父親ダグ役、ドラマ「ブラック・バード」のポール・ウォルター・ハウザーがサウンドエンジニアのマイク・バトラン役で共演。

この出演者紹介、本当にわかって書いているのか。AIだってもっとましな紹介をするぞ。というのも、出演者の最近作・代表作が、ジェレミー・ストロングの「アプレンティス ドナルド・トランプの創り方」以外に、どれも、代表作といえなかったり、日本人が観たこともない作品ばかりなのだ。

映画の時間での紹介
https://movie.jorudan.co.jp/film/101709/
「スプリングスティーン 孤独のハイ ウェイ」の解説
米ロック界の重鎮、ブルース・スプリングスティーンの若き日の父との確執、苦悩と創造の情熱を活写する音楽伝記ドラマ。大ブレイクする前の1980年代のニュージャージーを舞台に、わずか4トラックでレコーディングされたアルバム『ネブラスカ』制作の裏側を描く。出演は「アイアンクロー」のジェレミー・アレン・ホワイト、「アプレンティス:ドナルド・トランプの創り方」のジェレミー・ストロング、「リチャード・ジュエル」のポール・ウォルター・ハウザー。監督は「クレイジー・ハート」のスコット・クーパー。

まあこれなら問題ない。主役のジェレミー・アレン・ホワイトの最新作は『アイアンクロ―』(足を切断する四男の役)、ジェレミー・ストロングは『アプレンティス:ドナルド・トランプの創り方』で悪名高い弁護士ロイ・コーンを演じていた。ポール・ウォルター・ハウザーが主役の代表作は、なんといってもクリント・イーストウッド監督の『リチャード・ジュウェル』でしょう。あと父親役のスティーヴン・グレアムといえば、今年Netflixで配信された四話のミニシリーズ『アドルセンス』しか今のところ考えられない(彼は経歴の長い俳優で、その出演映画の多くを私は観ているのだが、どこに出ていたのかは覚えていない)。

監督のスコット・クーパーは『クレイジー・ハート』以外にも、いろいろ優れた映画を創作しているが、ただ『クレイジー・ハート』は素晴らしい映画でクーパー監督の映画の中では一番印象に残っている。

なお、CINEMA FACTORYでは、今年の8月の記事だが、予告編が解禁された時点で、こんな記事を載せている。
『スプリングスティーン 孤独のハイウェイ』スプリングスティーン役のジェレミー・アレン・ホワイトが熱唱する場面写真初解禁2025.08.072025.10.21
https://www.cinema-factory.jp/2025/08/07/86158/
【前略】
♪予告編に大反響!早くもアカデミー賞®最有力の呼び声が!

 6月18日に世界に向けて解禁された『スプリングスティーン 孤独のハイウェイ』の予告編が大反響を巻き起こしている。
 2000年に設立されたアカデミー賞®、エミー賞、ゴールデングローブ賞など、世界最大規模の賞レースを予想、分析するサイト“GOLD DERBY”が、“COLLIDER”、“Variety”など全米の権威あるサイト16名の担当記者によるアカデミー賞®ノミネート予想作品リストを発表。16人中11名が『スプリングスティーン:孤独のハイウェイ』を最有力候補作品に挙げている。
 また、米のエンタメ&ポップカルチャーサイト“Decider”は、「この予告編は、すでに『スプリングスティーン 孤独のハイウェイ』オスカー受賞の可能性を示唆している。はたして、この作品でジェレミー・アレン・ホワイトは初のアカデミー賞®受賞を果たすことになるのだろうか」と指摘。「一流シェフのファミリーレストラン」 でゴールデン・グローブ賞3年連続受賞、先に発表されたエミー賞では4年連続ノミネートの快挙となったジェレミー・アレン・ホワイトの主演男優賞受賞の可能性に言及している。“Variety”のオスカー®予想では、作品賞とマネージャー役のジェレミー・ストロングを助演男優賞にリストアップ。また“AWARD WATCH”は作品賞、主演男優賞、助演男優賞(ジェレミー・ストロングと父親役のスティーヴン・グレアム)、スコット・クーパーを監督賞候補に挙げている。

「ノミネート予想作品リストを発表。16人中11名が『スプリングスティーン:孤独のハイウェイ』を最有力候補作品に挙げている」というのは、8月の時点で、狂気の沙汰である。まだこれからいろいろな作品が公開されるだろうから。と同時に、この映画「最有力候補作」というのは、どういう賞を指しているのだろうか。

まあスプリングスティーン役のジェレミー・アレン・ホワイトとマネージャー役のジェレミー・ストロングの両ジェレミーは、それぞれ主演男優賞と助演男優賞を獲るかもしれないが、最優秀賞ではないだろう。他の賞はちょっとむつかしいと思う。

映画の出来に問題があるということではない。地味な映画、しぶい映画だからである。アメリカのサイトでは、この映画を、ヒット曲のディスクのB面を聞いているようだとコメントしている評者がいて、言いえて妙だと感心した(もっともB面という比喩がアメリカや日本の若い世代に通用すると思えないのだが)。B面なのでそれなりによくできているのだが、A面の派手さ華やかさスケール感や深さはないというか、トーンダウンしていて地味なのである。【もっとわかりにくい例を挙げると、ギリシアの頌歌における、ストロペ―に応答するアンティストロペ―との関係か。とはいえアンティストロペ―は常に暗い短調のネガティヴな歌というわけではないので(歌の陰陽はストロペ―との関係で決まる)、メタファーとしては適切ではないかもしれないが】

映画のポスターとか宣材写真ではスプリングスティーンの力強いパフォーマンスを前面に押し出しているが、それは映画の冒頭だけのことであって、ライブハウスの歌唱でもゲストに呼んだロッカーとのデュオでしかなく、有名なBorn in the U.S.A.でもスタジオ録音で盛り上がるだけで、ステージ上の盛り上がりは映像化されていない。あとはスプリングスティーンが一人で悩んでいるだけである。トラウマから逃れることができず、ロックバンド「スーサイド」のレコードを繰り返し聞いているだけである。

作る楽曲の歌詞も、社会からの不適合者、犯罪者、疎外者たちの閉塞感を表現するものであり、また他人の感情をうたいながらもどこか、それが自伝的な色彩を帯びてしまうのである。あるいは、他人に憑依して歌っているのだが、いつしか、それが憑依ではなく自分語りにみえてしまうとでもいえようか。

たとえばテレビで映画『バッドランズ』を観て、モデルとなった犯罪者の心情の吐露というかたちの歌詞を書くというのは、どこまで暗いのかと誰もがあきれることだろう――それはアルバム『ネブラスカ』のなかのタイトル曲となった。【テレンス・マリックの映画『バッドランズ』(1973)は、イギリスにいるときにテレビで観た。今回の映画で映像の一部を観て、もしや『バッドランズ』ではと思ったら、まさにそうであって、変にうれしくなった――ちなみに「バッドランズ」が、普通名詞ではなく固有名詞(地名)であることはあとで知った。】

アルバム『ネブラスカ』の曲の大部分は、1982年スプリングスティーンの自宅の寝室で4トラックのマルチトラック・レコーダーで録音され、アコースティック・ギターの弾き語りの、しかもカセットのデモテープをそのまま音源としている。文字による著述なら、未完の下書きのような作品である。それを完成体として発表するというのは、本来なら日の目をみない作業中の使い捨ての文書に、日を当てようとする行為であって、それはまたこのアルバムで歌われている内容(未完の、使い捨ての、日の当たらない人びとの不満と不安と怒りと悲しみ)とシンクロしている。

もちろん、これは深層と立体性を拒否するポストモダン的な平面的なステレオタイプの美学からすると、地味な暗い音の響きと、その古臭く雑で荒削りの録音音源の存在感を活かすために、あえて社会性や政治性を帯びた、しかし陰鬱な内容の歌詞を作り上げたということになる。つまり売らんがために、アメリカンドリームの暗部をさらすような曲を並べた、しかし、それはビジネス・メランコリーであって、捏造でありフェイクであるという見方もできないわけではない。

しかし、そうした見方を拒絶する要因がひとつはあった。つまりスプリングスティーンがほんとうに、いわゆる鬱病であったということである(いまも鬱病と戦っているらしい)。ここにある苦悩せるスプリングスティーンの姿はフェイクでもビジネスでもなく、本物なのである。

本当は元気で陽気なのに、鬱々とした曲を作っていたら、たんなる詐欺師である。この鬱々とした曲を大々的に売り出し記者会見をし、ツアーもすることは、曲に対する裏切りである。そのため宣伝をしない、スプリングスティーンの顔写真も名前もアルバムのジャケットに使わないという、まさに日の当たらない販売方式をとった。これを挑戦的と評するのはポストモダン美学に毒された見方である。むしろその販売方式は、アルバムに収録された曲に責任をとったというべきであろう。

またそうなると今回の映画そのものもどうなるのかということになる。地味で暗い、とてもアカデミー賞をもらえそうもないという私の評言は、けなしているのではない。この映画がその内容を裏切ることを拒否している点を評価しているのである。ドラマティックな盛り上がりも少なく地味で暗くて鬱々としている映画は、実に、内容とシンクロしているのだ。

残念ながら映画会社はこの映画をアカデミー賞確定の傑作映画として派手なヒステリックな販売戦略に走っているが、まあ、やむをえないというべきか。それがスプリングスティーンも映画の内容も裏切っているといってもしかたがないかもしれないが、ただそれによって醸成された観客の期待を裏切ることになると、あとにはこの映画に対する反感しか残らないのではないかという心配になる。

たとえば過去とりわけ子供時代にトラウマに悩まされ、恋人(とはいえ実際にそうした恋人がいたわけではなく、複数の人物を合体させたものらしいが)とも別れ、ひとりカリフォルニアに行きそこで自分自身に向き合おうとする――逃げるのではなく――主人公が、そこで涙を流す。この涙は何であったのか。鬱状態から回復したのか、あるいは鬱状態からの回復の最初の一歩なのか。ただ、映画はそこからすぐに10か月後にとび、大成功をおさめたコンサート(コンサートそのものの映像化はない)のあと、会いに来た両親、とりわけ父親と和解するという展開になるのだが、肝心の鬱状態からの回復のプロセスは可視化されないままである。可視化されるのは鬱状態の主人公であって、鬱状態の克服あるいは回復の映像はない。映像は、意図的に地味すぎる、あるいは禁欲的なのである。ブルースス・プリングスティーンのアルバム『ネブラスカ』のように。

スコット・クーパー監督としては、だからこそ、マサノブ・タカヤナギ(高柳雅暢)とコラボしたかいがあったというものだろう――コラボとしては5作目。同じく、スランプに陥ったアーティストの復活物語である『クレイジー・ハート』(2009)では、美しい映像にいたく感動したのだが、それと同じような映像は今回はなかった。クーパー監督の最近作というか前作は『ほの蒼き瞳』(Netflix)だが、このエドガー・アラン・ポーが登場する映画で印象に残っているのは雪景色と曇天の空である。撮影監督のマサノブ・タカヤナギの映像には晴天の日は似合わない。曇り空こそがタカヤナギの映像である。今回の映画は、もちろん曇り空ばかりではないのだが、ただ、主人公の人生の曇天の日々がメインとなって描かれているのはまちがいない。晴天ではなく曇天の映像作家となった監督。

まさにグレート・スコット。
posted by ohashi at 17:55| 映画 | 更新情報をチェックする