2018年02月23日

『ドレッサー』

まだ見ていない芝居について


本日から下北沢の本多劇場で上演される『ドレッサー』は、初演が、いまから30年前の1988年のサンシャイン劇場とのこと。この初演を私も30年前に観た。また人気の作品なので、それ以後も何度も再演されていたように思うし、そのうち1回は劇場で、またテレビ中継でも観た記憶がある。


シェイクスピアの『リア王』を上演する老俳優とその付き人との楽屋でのやりとりがメインの芝居で、その漫才のような駆け引きが面白いのと、シェイクスピア劇の舞台裏での話でもあって、そのあたりもメタドラマ的に興味のつきないものだった。


私がよくいう、「*******大学の関係者には絶対協力するなとは、死んだ父親の遺言です」というのは、この芝居の台詞から(なお、そういう遺言を私の父親は残していないが、内容のほうは父親の口癖であったことは確か)。また『リア王』上演中に、老俳優は楽屋で仮眠するのだが、シェイクスピアの悲劇では、主人公が途中でいなくなる(ロミオは追放処分になり、ハムレットもイングランドに追放など)が、これは悲劇の主役はたいへんなので、最後のクライマックスの場面を前にして休ませるための処理であり、たとえば『ドレッサー』という芝居では、リア王役の俳優は、嵐の場面のあと、楽屋で仮眠するというような話を、授業でいつも話している。


そういう意味では、私の人生のなかでも、かなり印象的な作品であったことは事実であり、それが30年後に再演されるというのは、感慨あらたなものがある。


ただ加藤健一の「付き人」役には、問題もあった。『ドレッサー』は映画にもなったのだが、その映画をみて、はっと思ったのだが、「付き人」役の男性は、映画ではオネエ系の男性なのである。付き人=ドレッサーが、そういう人であることは、よくあることで違和感がないのだが、ただ舞台版のほうは、オネエ系のキャラではなかった。またそのことは加藤健一氏自身が、述べていることで、つまり日本での上演の場合には、オネエ系キャラであることを消した、と。


べつにホモフォビアとして非難するつもりはない。加藤健一演ずる付き人役は、舞台に活気をもたらし、劇的緊張をたかめ、舞台を全部もっていくほどの魅力的な人物であった。加藤演出は、成功していたし、誰もが満足いや感銘を受ける優れた劇場体験を実現していた。その後、再演されたのも当然である。さらにいえば、この芝居は、第二次大戦下の『リア王』上演という設定であり、上演中に、空襲があり、ドイツ軍が爆弾を投下してくるのである。その危険な状態で、上演し続けるという点で、凄絶な芝居でもあって、そこに戦争と平和、文化とその危機など、社会問題への広がりも感じられた。それもまた演出の力であった。


だからオネエ系キャラを封印したことに批判はないが、同時に、原作や映画版にあるようなオネエ系キャラの付き人は観てみたいという気持がなかったかというと、そんなことはない。今回は、加藤健一は、付き人役ではなく、老シェイクスピア俳優を演ずることになった。となると、私たちを魅了した加藤健一の付き人は観られなくなるのだが、今回、付き人役は花組芝居の加納幸和だという。ならばこれは、オネエ系キャラにするのだろうか。何も情報は持っていないのだが、そうだとすれば、違った演出の(そして原作の設定に従った)舞台になるのかもしれない。期待が高まる。いずれ観てきたら報告したい。



付記:ちなみに花組芝居の舞台は、このところ、ご無沙汰しているのだが、昔は、よく見ていた。いまでも平凡社の編集者のひとりからは、ひどすぎるエピソードとして非難されているのだが、ジェイムソンの『政治的無意識』だったか、その翻訳の校正を、こちらの作業が遅れたので、社屋の会議室で行っていた。その時、私は、夜になるので、今日はそろそろ帰らせてくれと頼んだ。理由は? 東京パナソニック・グローブ座(ジャニーズ事務所が使う前のグローブ座)で芝居の公演があるから。編集者からは、憤怒の怒号を浴びせかけられそうになったが、許してくれた。その時の演劇作品が、花組芝居の作品(シェイクスピア劇)だった。


posted by ohashi at 13:10| 演劇 | 更新情報をチェックする

2018年02月18日

年度末会

217日には恒例の大学院年度末会。私は大学院主任ではないので、一次会で、開会のあいさつとか乾杯とか閉会の辞といったものは(べつに堅苦しいスピーチではないが)、関係なかったのだが、幹事には、二次会の挨拶(二次会だとは当日知ったのだが)を頼まれていた。べつに堅苦しいスピーチをすることはない、カジュアルな場ではあるが。


ただ当日は体調の関係もあって二次会には欠席した(お金は払ったが)。まあ昨年、一昨年と、救急車で病院に運ばれている私としては、酒の飲みすぎで倒れて迷惑をかけるのは、お家芸となっているので、今年は、それを絶対に避けるために用心して二次会は欠席とすることにした。


で幹事には申し訳ないのだが、スピーチができなくなった。ただ、こんなスピーチは考えていた。欠席したお詫びに、ここに披露する。


A案


えーこの場所(あるいは一次会の場所)は、以前にも使わせてもらったところでもあり、そんなに難しいところにある場所ではないのですが、初めてだと変に遠回りしたり、道に迷ったりしてたどり着くのに困難を覚えた人もいたかもしれません。記憶ではX先生が道に迷って、なかなか来なかったことは鮮明に覚えています。

 とはいえ以前というのはずいぶん前のことで、先生方は別にして、以前、この場所(あの場所)で年度末会をしたことを覚えている人はいますか。もしいたら、その人は古い人です。いつまで大学院にいるのだ。そろそろもうとっとと「卒業」してもいいのでは。実際、先生方のなかにも、この場所(あの場所)での年度末会は初めての先生もいるのですから。もしまだこの場所(あの場所)を記憶している人がいたら、もう去り時ですよね。

 この会には、就職が決まって大学院を去る人、あるいは修士課程から博士課程に進学する人、あるいは現状維持の人と、いろいろな人がいるわけですが、あらたな一歩を踏み出す人にとって、この日は旅立ちの日です。ただ、まだ来年度も学内に残る人たちも、進学したり新学年を迎えるかたちで残っている人も、そして前にこの場所(あの場所)で年度末会をして、ずるずるとこの日まで居残っている人たちもまた、この日を「旅立ち」の日として受けとめて、新たな気持ちで、新年度を迎えるようにしてもらうといいのではと思います。

それでは新たな旅立ちの日のために、乾杯をしたいと思います。/新たな旅立ちの日として閉会したいと思います。


B案


ここに出席された院生のみなさんに、偉そうにアドヴァイスするつもりはないのですが、ひとつだけ言えば、全員の先生あるいは関係のない先生までに伝えることはないのですが、指導教員だけには、こまめに報告を欠かさないようにしたほうがいいということです。


最近も、ある先生(別の研究室の先生ですが)から、今回Yさんが、国際学会での研究発表に応募してきたのですが、なかなか優秀な方のようですねと言われ、ええ、Yさんはとても優秀で、私からも自信をもって、Yさんのことは推薦しますよと答えたところ、推薦されるには及びません、Yさんは応募されてすでに審査にパスしていますからと、言われ、その瞬間に私はYを破門しましたね。

学会発表に応募したことなどいちいち報告する必要はないのですが、審査をパスして発表が決まったら、プライヴァシーに関係することではなく、学術活動のことなので伝えてほしかった。実際、現在にいたるまでYさんからは学会発表のことは聞いていません。

またとくに問題なのは、そうした情報が、たとえばどこどこに就職が決まったとか、結婚するとか、離婚したとか、引っ越したということを、本人ではなく、第三者から先に聞かされたり伝えられたりすることです(ちなみにYさんは結婚も離婚も引っ越しもしていません)。

これが一番腹が立つ。絶対に破門です。――いや、たまたま報告が遅れることもあるから、そんなに腹を立てるのは大人げないと言われそうですが、そうした場合、実際に、第三者から情報を伝えられ、そのあと本人から報告があったというケースは、ほとんどありません。そもそも伝える気がないのです。


ただ誤解のないようにいえば私はYさんに本当に腹を立てているわけではありません。たぶん私を指導教員と思っていないのでしょうし、また報告がなければ、こちらから世話をしたり面倒をみたりする必要もないわけで、たぶんYさんは、私から面倒を見られるのを嫌なんだろうと思います(逆にいえば報告などすれば迷惑をかけると思っているのかもしれません)。実は、私もYさんと同じような性格なので、むしろ共感すらしていることは、どうでもいいことかもしれませんが、ここに断っておきます。


ただ、どうでもよくないのは、とくに縁を断とうと思っていない指導教員に対しては、プラヴィートなことは別としても、仕事や研究のことについては連絡を密にとったほうがいいでしょうし、あなたが報告するよりも先に、第三者から報告を受けると、私のように激怒して破門するような先生もいるかもしれません、いえ、私は寛容な人間ですが、私のように寛容な先生ばかりではないので、とにかく第三者による報告よりも遅れることだけは避けたほうがいいかもしれません。

また逆に縁を切ろうと思ったら、第三者から報告させることです。また私に対しては、なにも報告してもらわないほうが、気が楽で、世話とか面倒をみるということがなくのびのびできるので、私に対して、どうかなにも報告しないでください。実際のところ、私もあと一年で辞めることになるので。


ということで変な挨拶ですみません。でも、いまの話は憶えておいたほうがいいですよ。


C案


去年ではないので、一昨年か、それ以前だと思うのですが、東京の、ある私立大学大学の大学院に講演会を頼まれ、その後、その大学の大学院の年末忘年会に招待され、先生方だけでなく院生たちとも話をする機会があったのですが、その時、東京でのいろいろな研究会で、イギリス人の先生方と交流する機会があるという話になり、その時、ローレンス・ウィリアムズ先生は、頭もよくて、また人柄もよく、すばらしい方だというほめ言葉を聞きました。

実際、ウィリアムズ先生は、素晴らしい先生なので、私もまったく同感だと話し、そこからウィリアムズ先生のような先生がいる東大英文科はほんとうにうらやましいということにもなり、私はウィリアムズ先生がどんなによい先生かを力説しました。

ただ、そのときZ先生のことも話題になり、Z先生もとてもよいイギリス人だ研究者としても人間としても素晴らしいということをその場で院生が話してくれたので、私は、思わず、そんなにいいZ先生は、いったいどこの大学の先生ですかと、本気で聞いてしまいました。

すると、その院生たちは怪訝な顔をして東大ですがと答えるので、私も、つぎに、では東大のどこの学部ですかと、ほんとうに聞いてしまいました。

私にとってZ先生が誰であるのか、ちょっと時間がかかってしまったのですが、ただ、そのとき、いや、Z先生は毎年******************とか、自分の**********ですよ、どこがいい先生なものかということを話すのはぐっとこらえました。


この時、わかったのは東大英文研究室の二人のイギリス人教員は、対外的にとても評判がいいことです。こんないい先生を二人もいる東大英文は、ほんとうに素晴らしいと称賛されていることです。ほめられれば悪い気持ちはしません。実際、お二人は素晴らしい研究者なのだと思います。日頃の言動を間近に見ている私たちにとって、素晴らしい先生は一人だけなのですが、まあ、どんなに天才でも、故郷では、あるいは家族にとって、ただの凡人か変人にすぎないのかもしれません。対外的には東大英文には素晴らしいイギリス人の先生が二人います。私的には一人しかいません。

ただ、ざんねんなのは、ひょっとしたら、ウィリアムズ先生が、お辞めになるかもしれないことです。まだ決まったわけではないのですが、またできればウィリアムズ先生には末永く教えてもらいたいのですが。こればかりはどうしようもありません。もしお辞めになると東大英文には素晴らしいイギリス人の教員はいなくなります。もっとも対外的には、まだ一人いるわけですが、私的には……ということを言うのはやめましょう。身近な人間よりも、第三者のほうが、その人の公的・社会的そして学術的価値を正しく認識していることはよくあることです。私自身、Z先生をみる眼を変える時期かもしれないと思っています。

 それでは、この会をはじめたいと/終わりたいと思います。

posted by ohashi at 23:08| コメント | 更新情報をチェックする

2018年02月17日

『ブラディ・ポエトリー』

見てない芝居についてのコメント 1

今週火曜日(13日)にチケット代金を払い損ねて観劇できなかった芝居とは赤坂のレッド・シアターで公開中の『ブラディ・ポエトリー』である。原作者、作品、翻訳者、題材、どれも興味をひくものばかりで、いくら金銭的損失はゼロだとしても、観劇できなかったことに対してずいぶん残念な思いをしていたのだが、最近、そんなに後悔しなくてもいいとも伝えられた。


というのも原作者、作品、翻訳者、題材という点では、どれも素晴らしいのだが、演出家と演技者がひどいと言われて、見なくても後悔しないと言われた。


もし、そうだとすれば、かえすがえすも残念である。


最近は、小劇場での上演は、どれもパフォーマンスとしてレヴェルの高いものばかりで、好き嫌いという評価をしなければ、どの上演も高い評価をつけられるものばかりだ。つまり下手なパフォーマンスというのはない。ところが今回、みるからに下手だったようだ。とすれば、そんな下手なパフォーマンスを見ることはめったにないので、それを私の不注意で見そびれたのは、残念でしかたがない。


自腹で観ることになっていたので、誰に気兼ねもなく、とことん批判できたのだが、その機会を失ったことも残念である。

posted by ohashi at 17:28| 演劇 | 更新情報をチェックする