2018年04月21日

『Photograoh51』

先週、神奈川芸術劇場KAATで、『5Days』のアフタートークでの話。宮崎秋人がゲストに来ていて、池袋の東京芸術劇場での公演を終えてから、KAATでのアフタートークにかけつけたということだった。そのとき宮崎氏自身が参加している東京芸術劇場での公演について話題になり、そういえば、そんな芝居があったと思いだし、突然興味をそそられた。幸いチケットを購入できたので、見に行くことにした。

はじめての舞台というのが信じられないほどの板谷由夏の安定感・存在感・貫録のようなものに圧倒されるし、彼女が紅一点となる状況は、昨今の日本の状況とも関連性をもっていて、とても私が生まれた頃の話とは思えないほどの切実感が、現代性がにじみ出ている。そしてシェイクスピアの『冬物語』が、ここまで重要な役割をはたすとは、予想すらできなかった。

ロザリンド・フランクリンの物語である。ワトソン、クリックの二重螺旋の発見に貢献しながら歴史から抹消された女性がいることについては、私が大学院生の頃、初めて知った。フェミニズムの文化批評の波が到来するなか、彼女の存在に光が当てられ、ワトソン、クリックは、その悪辣なセクシズムによって、歴史い汚名を残すことになった。だから、二重螺旋の話は、誰でも知っているが、その話が。ワトソンとクリックに、簡単に結び付けられることはもはやないだろう。この芝居によってロザリンド・フランクリンについてはじめて知ったであろう大多数の観客は、同時に、ワトソンとクリックについてもはじめて知ったちがいないからだ。

それにしても日本版ウィキペディアのフランクリンについての記述はひどすぎる。

フランクリンは、ワトソンが1968年に記した『二重らせん』で「気難しく、ヒステリックなダークレディ」と書かれるなど否定的な評価をされたため、フランクリンの友人で作家であるアン·セイヤーが抗議し、1975年にフランクリンの伝記『ロザリンド・フランクリンとDNA―ぬすまれた栄光』を記した。この本ではフランクリンこそノーベル賞をもらうはずであり、ワトソンやウィルキンスらを窃盗者であると非難している。そのため、友人かつ女性としての視点からフランクリンを過剰に擁護しワトソンらを不当に貶めた「単なるフェミニズムの本」とされ、ベストセラーとなった『二重らせん』で広まった彼女のイメージを変えるには至らなかった。1970年代以降はフランクリンの名前は単なるフェミニズムのイコンとして扱われる結果となった。

英語版のWikipediaは、もっと詳しく丁寧に事情を説明して、この記述のようないいかげんなまとめ方はしていないので、この日本版を書いた馬鹿は、麻生財務相に匹敵するメールショーヴィニスト・ピッグで、早く死ねばいいのにと言ってやりたいのだが、「単なるフェミニズムの本」という評価はどこからでてくるのか。当時、第二波フェミニズムの盛り上がりのなかで、男性中心文化は確実に批判され変えられた。フェミニズムの影響は大きかった。もし「単なるノーベル賞」と書く馬鹿がいたら認識の幼稚さに唖然とするほかはないが、それと同じく「単なるフェミニズム」という表現も問題がありすぎる、これを書いた単なる大ばか者よ。

『二重らせん』で広まった彼女のイメージを変えるには至らなかったというのも信じがたい。まあ大学一般で、もっともセクハラが多いのは文学部と理学部のようだが、文学部の場合は意識が高すぎてセクハラ批判が強く告発の回数が多いのに対し、単なる財務省なみの理学部では意識が低すぎて、男性による女性に対するセクハラ天国になっているからである。だから理系とはべつに、文系ではワトソン・クリックは男のクズだと評価は地に落ちている。事実、『二重らせん』で、当人は死んでいるのに、悪口を書くということは、彼らの側にやましいことがあったことの証左であるのだから。

この作品に登場する科学用語は、理系とは無縁の私には外国語のようなものだが、たとえ正確に定義したり説明できなくとも、そもそも中学校の理科あるいは高校の理系科目の基礎的知識でイメージできるものばかりなので聞いたこともない外国語のような違和感はない。つまり専門家でなくとも、DNAとか核酸とか二重らせんという言葉は聞いたことがあるからだ。それ以外のことは、この作品から教えてもらうことが多いとしても。

ところが違和感はもうひとつあって、最初の方で軽く触れられていたシェイクスピアの『冬物語』。このシェイクスピア作品が最後まで尾を引いて、まさにこの劇のアイコンにまでなりおおせるとは、予測できなかった。

舞台に飛び交う科学用語について、専門家ではないので、詳しく正確に説明できなくとも、なんとなく聞いたことがあり、なんとなくイメージできる観客(まあ私のような)は、多いはずだが、『冬物語』について、え、アンティゴナスがみる夢と夢のなかでのハーマイオニーの台詞が、そんなに重要なのかと不思議に思いながらも、『冬物語』話についていけるような、私のような観客は、そんなにいないだろう。

つまりシェイクスピア劇のファンとかシェイクスピア劇の上演に関係したりシェイクスピア研究者でないかぎり、『冬物語』といっても、ちんぷんかんぷんではないか。舞台を飛び交う専門的な科学用語とは異次元の未知の世界、それがシェイクスピアの『冬物語』なのだ。

英語圏でもシェイクスピアの『冬物語』は、『Potograph51』で言及されている名優ジョン・ギルグッド以上に知名度は低いと思われるので、舞台に飛び交う科学用語と同様、聞いたことがなくても、芝居はじゅうぶん楽しめるとは思う。しかし、もし、聞いたこともない科学用語の話で盛り上がって、それが最後の締めくくりで、作品の主題とも関係するとなるとわたしのように科学について無知な観客にはつらいのではないか。

シェイクスピアの『冬物語』は、『ハムレット』に比べれば知名度は低いと思われるが、けっこう人気作品ではある。一昨年だったか、映画館で劇場録画をみるシリーズとして上演されたケネス・ブラナー・シアターの三作品のうち、『ロミオとジュリエット』、アーノルド・ウェスカーの『エンターテイナー』以外の残り一作品が『冬物語』だったし、『ロミオとジュリエット』で名優デレク・ジャコビを使ったブラナーは、『冬物語』ではジュディ・デンチをポーリーナ(と字幕で表記、だが映像でははっきりと「ポーライナ」と発音しているにもかかかわらず)役と「時」のコーラス役に起用していた。ちなみに、このポーリーナ/ポーライナというのは、さきほど出てきたアンティゴナスの妻です――といってもなんのこっちゃと思うでしょう。ちなみにジュディ・デンチは若い頃には『冬物語』ではハーマイオニーを演じたこともあり、その舞台は、RSCの日本公演でも見ることができた(私が物心つく前の昔の話なので、私はみていないが)。

だから、この作品のネックはシェイクスピアの『冬物語』であって、これを機に、『冬物語』を読んでみようというポジティヴな観客ばかりだといいのだが、そうではないと、なじみのない科学用語と同様に、もやもやとしたものを観客がかかえるだけになってしまう。

そこで以下、ネタバレ注意と警告したうえで、語らせてもらうと『Photograph51』はネタバレはない。なにしろ実話に基づく作品で、ロザリンド・フランクリンが38歳の若さで、X線照射実験への対策不足のせいでガンで亡くなり、ノーベル賞を受けることもなかったこと、人間のクズ・クリックが、彼女ついて、書かなくてもいい悪口を書いていること、すべて歴史的な事実であって、この作品がそこからはずれることはない。ではどこにネタバレが生ずるかというと、シェイクスピアの『冬物語』である。シェイクスピア作品は、基本的に結末がわかっているものばかりで、サプライズはないのがふつうである――この『冬物語』だけが唯一の例外なのだ。

Photograph51』において二というのが鍵となる数である。二重螺旋、ワトソン=クリック、フランクリン=ウィルキンスという二人からなる二組の研究グループ。A型とB型のふたつのDNAモデル。フランクリンをとりまく二人の男性助手。さらには二人から成るグループでも、そのふたりは反目しあっていて仲がよいわけでない、二のなかの二。理由づけもつねにふたつある。実際、フランクリンが、まさに男性中心の研究者集団の紅一点として、あれほどかたくなに周囲と対立しなかったら、あれほど自己防衛に徹することなく、もっと心を開いていたら、その研究の功績も正しく認知されていただろうという認識ののほかに、彼女が、あれほど無防備にふるまわなかったら、あれほど研究者間の競争や足の引っ張り合いに無関心でなく、警戒を怠らなかったら、研究成果を盗用されて、悪口だけいわれるという悲惨な結果にはならなかったのではないか。防備と無防備、かたくなさとあけっぴろげ、警戒と信頼。また彼女の死も、ある意味、研究に没頭するあまりX線に無防備であったためでもある(自己責任)、と同時に、女性研究者を低く見ている男性中心的なアカデミーの犠牲になったともいえるという二重性。そしてふたつの腫瘍。「2」のモチーフは、これでもかといわんばかりに反復される。

また舞台そのものにも二重性がある。現在進行形のアクションはまた、回顧の眼差しにつらぬかれている。いまおこりつつある20世紀半ばの物語は、21世紀における回顧と審判の対象でもある。過去と現在、必然と偶然、一つの歴史的に出来事の線と、それに寄り添う、いまひとつの、ありえたかもしれない、可能性の並行宇宙。劇は回顧しつつ、ふたつの平行線の接点あるいは分岐点をさぐろうとする非ユークリッド幾何学的運動を展開する。

では『冬物語』のなにが二重性と関係するのか。それは『冬物語』二部構造だからである。劇が二部構造か三部構造かは解釈や主観によるのではないかと思われるかもしれないが、『冬物語』、明確に二部構造となっている。つまり前半と後半の間に16年間が経過するという設定なのだから。前半は悲劇である。妻の不倫をうたがったレオンティーズ(劇中でジョン・ギルグッドが演じたとされている――実際そうなのだが)は、妻を投獄し、心配する幼い息子を心痛のあまり死なせ、生まれたばかりの赤ん坊を、重臣のアンティゴナス(また出てきた)に捨てに行かせる。すべてはレオンティーズの妄想だとわかったとき、妻もまた心痛のあまり獄死していた。16年後は喜劇となる。捨てた赤ん坊は16歳の乙女となって帰ってくる。死んだはずの妻は生きていたことがわかる。再会の奇跡と歓喜のなか劇は、幕を閉じる。

Photograph51』のなかでロザリンド・フランクリンは、『冬物語』におけるハーマイオニーの回帰は、16年前に彼女を殺すことになったレオンティーズの妄想であって、彼女が生きていることでレオンティーズは許されることになるからだと冷淡に述べている。まさにそのとおりであろう。過去を振り返って、たとえば競争にあけくれている男性研究者(彼らは独身か、結婚していても問題のある家庭生活に甘んじていた)たちのうるおいのない人生に対して、彼女の人生は、短かったけれども、そこに愛と喜びがあったと回顧するのは、彼女を歴史的に抹殺した男性研究者たちの自己擁護あるいは自己正当化に貢献するだけである。

むしろ劇は、最終的には、ロザリンド・フランクリンが、他の男性研究者たちを超越したところにある、困難な状況のなかで科学者として責務を全うした女性、また不利な状況のなかで充実した人生を謳歌した女性としての真実を提示しようとしている。そうしてそうすることで、彼女が生きた時代の(そしていまなお根幹は変わっていないかもしれない)男性研究者とその制度の面目を失わせることになるだろう。事実、ワトソン=クリック組と、ウィルキンス=フランクリン組は、DNA構造の解明のためのライヴァルだったのだが、最終的にみんなノーベル賞をもらっている。ただフランクリンは、そのとき死んでいた。そして研究にも貢献したフランクリン、それも死んでいるフランクリンに対して、死者への敬意すら示さないまま、ただ悪口だけを残すとは。もはや競争でもなんでもない。私が二重らせんにかかわった女性研究者について知った頃のフェミニズム論文が正しく指摘していたように、競争は、研究グループ間ではなく、男女のジェンダー間での競争であり、この出来レースの勝利者は男性でしかなく、女性は、どれほど貢献しても、抹消されるしかなかった。ワトソン、クリック(そしてウィルキンス)の発見あるいは科学的功績は素晴らしいの一語に尽きるが、彼らは人間として単なるゲスであった。

ちなみに『冬物語』のハーマイオニーの娘パーディタは、この劇中でウィルキンスが述べているように、「失われた」という意味であり、命名者はアンティゴナスの夢のなかに登場する母ハーマイオニーであり、ハーマイオニーは帰ってきたかどうかわからないとしても、パーディタは、ハーマイオニーの分身として回帰する(なおウィルキンスは『冬物語』の原作というか元ネタがシェイクスピアの時代の作家ロバート・グリーンの『パンドスト』 であることを知っていて(知りすぎている)、『パンドスト』と『冬物語』の違いは、娘のパーディタがどうのと言っていたのだが、うっかりして聞き逃した。私なら両作品の違いは、娘にあるのではなく、母パーディタにあるというだろう。つまり『パンドスト』ではパーディダ(役の妻)は復活しないのである)。復活したか生存していたハーマイオニーは、男性の自己正当化と自己擁護に貢献するだけかもしれないが、娘のハーマイオニーは、母の世代の置かれた苦境と、母の世代を迫害し死に追いやったものを正しく特定し母の名の下に正しく断罪し歴史を変えようとするだろう。その意味でユダヤ人の女性科学者であったロザリンド・フランクリンは、フェミニズムの単なるアイコンではなく、女性が正しく評価される時代の幕開けを告げる決定的なアイコンになったのである――敗北することによって。



posted by ohashi at 19:02| 演劇 | 更新情報をチェックする

2018年04月19日

カクシンハン『ハムレット』2

拾遺

1顔写真NG

カクシンハン・マガジンでの木村龍之介氏との対談は、私の顔写真がないということで、申し訳なく思っているのだが、私は顔出しNGなので、対談の話をいただいた時は、せっかくの機会なので、カクシンハンや木村氏を応援したいと思いつつも、最初はお断りした。顔出しNGだからと、こちらが条件をつけてもOKという場合もあるのだが、そういうとき、結局、隠し撮りされた顔写真を使われて、事後承諾ということもないことはない。当然、こちらは憤慨して、関係者とは完全に絶交状態となる。今回も、顔出しNGの条件を出して、引き受けてもいいのだが、万が一、木村氏あるいは関係者が、小さな顔写真くらいいいのではと軽い気持ちで裏切ったりすると(基本的にそのようなことはないと承知しているが、しかし魔がさすというようなことがないわけではないから)、それで、これまで応援し、また公演を楽しみにしてきたカクシンハンと縁が切れてしまうのはつらいので、最初からお断りすることにこしたことはないと考えた。

しかし、その後、木村氏のほうから再度、顔写真なしでよいのでと打診があったので、観客は私の話には興味はないと思うのだが、対談をとおして木村氏からいろいろな話を引き出せれば、カクシンハンのファンや観客にとっては、とても有意義なことではないかと考えた、お引き受けすることにした。対談は、本郷の私の研究室で、木村氏が当日のリハーサルを終えたあとの夕方から夜にかけて、2時間以上、話していた。内容は多岐にわたり、適当なものを拾ってまとめるのにじゅうぶんな材料が用意できたと思ったが、話が長すぎて、まとめるのに大変だったにちがいなく、もっと短く、簡潔に対談していれば、あとの作業も楽だったのだろうと思い、やや無神経なところがあった点、木村氏や関係者のかたがたにお詫びしたい。

ちなみになぜ顔出しNGかという理由については、自分でも実は定かではない。まあ人に見せるような顔じゃないし、恥ずかしいからというのは確かだが(とんでもなくひどい顔なのだろうと想像してもらってもよいが)、理由は、それだけではない。ではなにかと言われると、最初に述べたように自分でもよくわからない。顔を出さないことで、かえって注目を浴びようという戦略ではないかと思われるかもしれない。モーリス・ブランショとか、一時期までのデリダがそうだったが、あいにく私はそこまで著名でもなければ偉大で優れた人間でもない。ただ、現代のような情報時代、顔を出すのを拒むことで、失う仕事、失うチャンスは多かったはずで、顔出しNGは、決して有利なことではない。

また顔を出さないという条件を提示して仕事をすることもあるので、たとえば2018年から某社の、高校の現代文Bの教科書に私の文章が掲載されているのだが、著者略歴はあっても、私の顔写真は掲載されていない。他の著者の顔写真はすべて掲載されているのに、私のだけはない。教科書会社にも、どうしても顔写真が必要というのなら、私は掲載を希望しないからと伝えたら、顔写真なしでかまわないということになった。迷惑をかけたとは思うが、そのように顔写真を私は公開していないので、もし、なにかの仕事で、あるいは著作で、顔写真を使ったら、これまで顔写真なしで同意してもらった出版社から、私は殺されるわい。だから死ぬまで、顔写真なしで通すしかないと思う。そのぶん仕事を失うことも多いと思うが、それほど仕事をしたいわけでもない。


2 リメンバー・ミー

カクシンハン公演で台本として使われているのは、松岡和子氏の翻訳だが、その翻訳のなかでRemember Meを松岡氏は「私の言ったことを忘れるな」と訳されている。それはそれでいいのだが、その台詞の原文は「リメンバー・ミー」なのである。

また実際、舞台のうえから花弁が、はらはらと落ちてくるような演出もある。そのとき、亡霊の言葉、「私が語ったことを忘れるな」が聞こえてくる。だが、その台詞、原文ではリメンバー・ミーなのである。

まあ要は、ディズニー/ピクサーのアニメ『リメンバー・ミー』と同じことをしてもよかったのに、惜しいという、カクシンハンにとっては、迷惑なコメントを書いているのだが。

ちなみにアニメの方は、メキシコの死者の日における一夜がテーマで、死者の日を象徴するのは黄色というかオレンジ色のマリゴールド。アニメのなかでは、マリゴールドの花が、まさに絨毯のように敷き詰められ、おびただしい花弁として宙を舞う。

べつにカクシンハンの舞台がディズニー/ピクサーのアニメをまねて欲しかったというような話ではない。上から落ちてくる花弁は、桃色ではなく黄色だったらよかったのにというような話でもない。ただ、勝手にアニメを連想したにすぎないのだが、その連想には理由と論理がある。

アニメの原題はCoco。これは主人公にとって、また物語全体にとっても、重要な曾祖母の名前でもあるのだが、普通名詞としてのそれは、死者の日に還ってくる亡霊のことを意味するスペイン語。日本語のタイトルのように『リメンバー・ミー』としてもよかったと思うのだが、『リメンバー・ミー』というタイトルの映画はけっこうな数、つくられていて、混同を避けるためだったのかもしれない。


また『リメンバー・ミー』というのは、すでに述べたように『ハムレット』のなかで父親の亡霊(Coco)がハムレットに語る言葉でもある。ディズニー/ピクサーの『リメンバー・ミー』は、内容面でも『ハムレット』に類似しているところもある。両者を比べる、あるいは相互に連想することは、カクシンハンの舞台を見た者のなかにおのずと生まれる衝動かもしれない――

と、マリゴールドの乱舞するアニメの関連商品のクリアファイルを見ながら考えた。

3.3.11

木村龍之介氏にとってカクシンハンの原点は3.11にあるということを対談をとおして初めて知った。

それを知ることで、思うこと、思い出すことがあった。2011年3月11日以降、大震災のあと、文学部では(まあ大学全体でそうだったのだろうが)在校生の安否確認をすることになった。というかするようにという要請があった。英語英米文学研究室では、ほとんどの学生についてはすぐに安否確認ができた。当時、私は研究室の主任だったらか、そのことはよく覚えているのだが、ただひとりだけ安否確認ができない学生がいた。木村龍之介である。この学生の指導教員は私だったから、かなりあせった。文学部からは全員の安否確認を急ぐように言われるのだが、木村君がどこにいるのかわからない。在学中から演劇活動をしていることは知っていたので、東京ではなく、どこか地方に巡業というかドサ回りでもしていて、それで連絡がとれないのかと考えた。もしそうなら、さらに心配になってきた。というのも、もしかしたら東北で震災に巻き込まれていて帰れなくなったのか、行方不明なのか、と。だとすると、一刻も早く状況を把握する必要が生ずる。

当時の3月は非常事態であった。たとえば卒業生全員を集めての卒業式がおこなえなかった。卒業式はなくなり、研究室で学生に卒業証書を手渡して終わりという、そういう状態だった。そんなか、安否確認で一番たいへんだったのは、実施的に作業をしてもらった当時の助手/助教であって、本来なら、問い合わせたりはしない実家にまで連絡をした。そしてようやく連絡がとれた。ただし、連絡は助教/助手にまかせていたので、どこにどうしていたかについては知らなかった。地方巡業ではなくて、また地震や津波に巻き込まれていなくて、安心した。

木村君のことは、当時、英文研究室でも心配したが、文学部の事務のほうでも、心配と苛立ちを募らせていた。木村君には必要な手続きをしてもらわないといけないことがあったのだが、それが3月という年度末に手続きが完了していないこともあり、文学部事務室の方でも気をもんでいた。そしてようやく連絡がとれた。大学に来てもらって、主任の私が木村君を事務室に連れて行くことになった。事務室のドアをあけ、英文の木村龍之介君が手続きに来ましたといったら、事務の人たちの間から、拍手が沸き起こった。これにはちょっと驚いたが、よくぞ木村君を見つけてくれたという私への称賛ではまったくなく、無事でいたことの安堵の拍手だったし、それほどまでに文学部事務室でも、安否確認のとれない学生について、心から心配していたということだろう。見つかってよかったという安堵と歓喜の拍手だった。

その時、木村君は、どこにいたのか。今回の対談ではじめてわかった。地方巡業にも行ったいなし、震災の犠牲者となったわけではなく、東京にいたのだ。

これを聞いて、ちょっとむっとした。あのとき研究室が、文学部事務室が、あれほど右往左往して困惑の極致にあったのは、なんのためだったのか。当時の非常事態に、連絡が取れない状態のままでいたというのは、なんという非常識な逸脱行為か、と。

ただし、木村氏によれば、当時思うところがあって、悩んでいたとのことだった。それがカクシンハンの旗揚げへとつながったのだから、そのため外部との隔離は、必要なプロセスだったのだろう。それがなければ今日のカクシンハンの舞台も存在しなかったと思うと、感慨深いのだが。

posted by ohashi at 23:10| コメント | 更新情報をチェックする

2018年04月18日

カクシンハン『ハムレット』

カクシンハン公演『Hamlet』 (414日~22日、池袋シアターグリーン)を観る。カクシンハンの新しい舞台はつねにこれまでのベストだと思っているが、今回の舞台も、文句なくベストだと思う。いや、カクシンハンの公演のなかだけではなく、現代の演劇パフォーマンスのなかで、誰が見てもベストのリストに加えるだろうと思う。いや、それほどに圧倒され言葉を失うような素晴らし公演だった。


もちろん、これはカクシンハン・マガジン『SHAKESPEARE東京』に主催・演出の木村龍之介氏との対談が掲載されているから、褒めているのではない。このマガジンを、私はプログラムと間違えていたのだが、プログラムの代わりにもかねているというかプログラムでもあるのだが、対談は公演前、リハーサルの忙しいさなか木村氏とおこなったもので、そのときは当然、公演はみていない。いろいろアイデアは聞いたが、それが今回の公演に結実していることに驚き感動したが、私の関わりはその程度で、あくまでも一観客としての感想である。とにかく一見すべき公演だと思う。


激しさと繊細さの超絶的バランス。そのカクシンハン・マガジンで私が述懐しているように、私は演出家にならなくてよかったと思う。というのも、もし私が演出家をめざすか、演出家になっていたら、木村氏の演出をみたら、絶対に私にはまねができない、私が逆立ちしても出てこないようなアイデアが噴出していて、私は自分の力不足ゆえに絶望の淵に沈むと思う。ほんとうに演出家でなくてよかったと、つくづく思う。まさにそのくらいに今回もすばらしいセンス(と軽々しく言ってはいけないとは思いつつ)あふれる舞台は、一見に値する。


また、これで何度目かという河内大和のハムレット。その神の技の域に達したともいってよい演技もまた、この舞台を異次元のすばらしさにひきあげているとはいうまでもない。


前半は、交差点の白い帯が斜めに走る路上が、ハムレットの世界に見立てられてというか、現代日本の路上(渋谷?)がハムレットの舞台と二重写しになる。それ以外に装置はなく、演者たちの言葉がさく裂し、身体が舞い、また衝突する。その簡素さは、舞台がポップに活性化しても失われることはなく、言葉と身体を、どんなに舞台がはじけても、つねに生々しくじっくり感知させる装置として機能している。


そして後半、そこでは前半のシンプルな舞台とはうってかわってパイプ椅子が増殖する。劇中劇の場面で、積み重ねられたパイプ椅子は、宮廷での観客にも、また劇中劇の舞台の一部にもみて、劇中劇が終わると、今度は、そのおびただしいパイプ椅子の群れが舞台中央の空間を半円形に囲む。それは客席のようにもみえる。この密集したパイプ椅子に囲まれた空き地のようなところで、祈るクローディアスとハムレットの場面が、またガートルードの寝室の場面が、さらには宮廷の場面が演じられる。劇場のなかに劇場が、舞台のうえにもうひとつ舞台ができたようなものだが、やがてデンマークの海岸の場面になると、規則正しく半円形に並べられていた、そのおびただしいパイプ椅子が強引に舞台の客席からみると左半分へと寄せられる。そう、このとき、この『ハムレット』がみせてようとしてきた物語が、おそらく誰の眼にもみえるようになる。木村演出の効果が、まぎれようもなく感知される。


後半においておびただし数のパイプ椅子は半円形になって舞台中央をとりかこむ観客性にようにみえる。だが、誰が見みているのか。また前半からそうだが、亡霊は二種類いる。ハムレットがみる父親の亡霊と、前半では多くの通行人もまた亡霊として登場する。後半でも亡霊たちは、パイプ椅子に座る不可視の観客として存在する。そしてガートルードの寝室の場面では、ハムレットは出てくる亡霊に話しかけるのだが、どうじにそれを複数の物言わぬ亡霊たちがみている。亡霊は、原作では、ハムレットにしかみえない。ハムレットの妄想だと彼の母親はいう。しかし、ここでわかるのは、ハムレットは亡霊を見ることができる人、死者の世界をみることができる、死者とつながっている霊媒のような存在だとわかる。


そしてデンマークの海岸、フォーティンブラスの軍隊が進軍しているところで、多くのパイプ椅子の列を数人の登場人物が(前の場面では亡霊だった複数の役者たち)が乱雑にわきによせる。そのパイプ椅子の移動のさまは、そう押し寄せる津波のようにみえる。またそれは津波の流れであり、同時に、津波によって押し流される瓦礫のようにもみえる。ここにいたって舞台は、まぎれもないかたちで、3.11の記憶を強烈に蘇らせる。木村氏は対談のなかで、カクシンハンの原点は3.11にあると語っていた。舞台は、その原点にあらためて回帰したかのようだ。


もし3.11の津波の形象があらわれたのなら複数の亡霊たちは、ある意味、3.11の犠牲者たちであると、ここで、まさに亡霊がみえるように、みえてくる。死者の蘇り、あるいは抑圧されたものの回帰。登場人物のなかで唯一亡霊をみたり亡霊と話ができるハムレットは、回帰する死者たちが、現実の人間に影響をあたえる回路でもる。つまり霊媒でもあり復讐者でもある。


木村氏が『ハムレット』について語っていたことで、忘れられないのは、『ハムレット』という作品は、すすむにつれて、その底流に死の世界が横たわっていることを感じ取れるようになるということだった。まあ、そんなものかと思っていたのだが、いつもながら、今回も木村氏に先を越されたというか、木村氏の洞察力に今回も脱帽するほかはなかったのだが、たしかに『ハムレット』という作品は、この世界のほかに、別の世界へも通じていたというか、別の世界の存在、あるいは共存を強くにじませるものがあって、その別の世界こそ、死者たちの世界でもあった。ハムレットはそれをみることができた。それは死者たちがハムレットをとおして復讐するということでもあった。


復讐劇である『ハムレット』において復讐は、父親を殺されたデンマークの王子の復讐だけではなく、死者たち、犠牲者たちの、回帰の物語も含まれる。忘れられた死者たちの回帰。それを今回の演劇では3.11の悲劇というかたちで再組織した。もしシェイクスピアがいまとここに生きていたら、どのような『ハムレット』を書いただろうか。木村氏の演出は、それに答えを出したのである。


後半、パイプ椅子が舞台の片側に押しやられ、津波のあとの瓦礫の山を彷彿とさせる舞台となったところに、放射能防護服を着たようなフォーティンブラスが登場する。もはや舞台の含意は説明をするまでもない。やがて墓堀の場面となると、パイプ椅子の山が迅速に片づけられ(まあ植木等のスーダラ節とともに)、パイプ椅子が降りたまれ積まれて、きれに整頓されるのだが、それはまた震災後に整理された瓦礫の山あるいは遺体をおさめた棺桶の列のようにもみえる。そして最後、ハムレットがクローディアスを倒して復讐を遂げたとき、死者は、ハムレット、クローディアス、ガートルード、レアティーズの4名のはずだが、舞台には、それ以上の数の遺体がずらりと並ぶ――震災後の遺体安置所のように。


『ハムレット』の世界あるいはハムレット自身が、死者の世界、別の世界に通じていることを、かつて丸谷才一は、ハムレットが小唄を口ずさむことを手掛かりに考察したことがあった(悲劇の主人公は、リア王のように完全に発狂でもしないかぎり、絶対に歌を歌くことはないのだが、ハムレットは例外的に歌をうたうのである)。その驚くべき論文以来、『ハムレット』と死の世界とのつながりについて私はずっと考えていたが、ずっと前に忘れてしまった。それを今回、木村氏の演出の舞台をとおして、ふたたび思い出すことになった。


忘れられた死者をみよ。リメンバー・ミー。回帰し蘇る死者の姿は、シェイクスピアの時代には、あるいは現代日本では、何を意味しているのだろうが。ひとつの正解ではなく、無数の可能性を、無数の正解を想起すること。カクシンハン『ハムレット』の主題の画期性もそこにある。




続きを読む
posted by ohashi at 23:08| 演劇 | 更新情報をチェックする