2017年09月23日

『プラネタリウム』

2016年フランス映画


映画のホームページには、以下のような紹介が――


野心家の姉ローラと純粋な妹ケイトは、人々の心を虜にするスピリチュアリスト。

彼女たちは、本当に“見えている”のか? それとも・・・。


1930年代。アメリカ人スピリチュアリストのローラとケイトのバーロウ姉妹は、憧れのパリへと向かう。聡明な姉のローラはショーを仕切る野心家で、純粋な妹のケイトは自分の世界に閉じこもりがちな少女。死者を呼び寄せる降霊術ショーを披露し、話題の美人姉妹として活躍し金を稼いでいた。そんな二人の才能に魅せられたやり手の映画プロデューサーのコルベンは、世界初の映画を撮影しようと姉妹と契約する。果たして姉妹の力は本物なのか?


見えない世界を見せられるのか?姉妹の運命が狂いだす―。


という宣伝文句だったが、そういう映画かと期待したところ、そうではなかった。


期待はずれというのは、良い意味と悪い意味がある。宣伝文句のような映画ではなかったが、現代の日本にも通ずる世界の映画だったといえばよい意味で期待を裏切られたことになる。映画は1943年の時点で始まる。劇場のクロークルーム係りのナタリー・ポートマンが、働いているところを、かつての知人にみつかり、現時点にいたる昔話をはじめる。それは「いまでは「戦前」と呼ばれるようになった時代の出来事で……」と。いまの日本の、いまこの時代に名前はついていないが、「戦前」という名前がつかないことを祈るばかりである。


戦前の時代のパリからナチス占領下のパリへの物語であり、戦争の暗黒を色濃く投影する映画である。それは期待はずれでよかったのだが、戦争の影におびえながら、それでも平和だった時代へのノスタルジーに胸が締め付けられるわけではなく、ナチス占領下の抑圧的暮らしぶりの恐怖、憤怒、絶望が噴出するわけではない。面白い題材なのに、また演者の力演にもかかわらず、どうして、こんな中途半端な映画なのか。どうしたら、もっと面白く(べつにセンチメンタルに、あるいはお涙頂戴でもなければ、怒りと響きの映画になれというわけではないのだが、それにしても)、なんとかならないのかという思いが最後まで消えなかった。


一般の映画評である。ステマかもしれないが――


ローラとケイト☆人の心を狂わす美しい姉妹 (投稿日:9/22)

知的な美しさ。/スタイル抜群。/パドメ姫からのファンですが…彼女の魅力は進化中。

今作でもステキなナタリー・ポートマンが観られます。/しかも、リリー=ローズ・デップが妹役。/消えてしまいそうな儚い可愛らしさ。妖精?


美人姉妹。/ポスターになっている2人のバスタイム・シーンもお見逃しなく。


英語と仏語を自在に操るこの美しい姉妹がかっこいい。/スピリチュアリストの妹。/その妹の能力を使って生計を立てる姉。/1人の映画プロデューサーとの出会いで運命の歯車が狂い出すーー。


不思議な霊の世界。/相手の見たいものを見せるという妹の才能。/姉の深い愛。/パリに降る雪や南仏の海の美しさ。/見どころ満載。/そして、ええーっ!/そう来たかーー!!の展開&結末。/


美しい姉妹とレベッカ・ズロトヴスキー監督が創り上げる独創的な世界に、身も心もを沈めちゃってくださーい。/


神秘的でダーク&知的で美しい/独特なパワーを感じる映画でした。


余談/ジャパン・プレミア。人生で一度あるか?/目の前にナタリー・ポートマンがいる!

テンション上がりました。驚いたのはナタリーの日本語力!/自己紹介がおもしろかった。酉年生まれなのね。

投稿:あらりん

評価:3 星評価


こんな映画ではないのでステマでしょう。とはいえここまでほめていたら星5つ(満点)でもおかしくないのだが、星3つというのは、ある意味、正しく映画を評価しているともいえる(私としては残念ながら星2つ以上は、拷問されても、出せない)。


この映画評では、ナタリー・ポートマンをパドメ姫(『スター・ウォーズ』シリーズ)以来のファンだというが、私は『レオン』の頃からファンではないが知っているわい。そのナタリー・ポートマン、実年齢34歳くらいだそうだが、44歳くらいにみえる。そしてリリー=ローズ・デップが現在18(撮影時は16)。これを姉妹というのは無理がある。映画のなかでは、どうみても母と娘にしかみえない(顔のアップが多いのもポートマンには不利に働いている)。


リリー=ローズ・ディップは映画『ダンサー』ではイサドラ・ダンカン役で、この時は完全に大人だったが、今回の役は実年齢にも近くて、その独特の雰囲気とあいまって、好演しているといえるのだが、いや、それをいうならナタリー・ポートマンも今回は久しぶりに裸体を見せていて(後ろからだが――なお男性も全裸位になってペニスもはっきり見えるので、これがR12の理由だろう)、好演あるいは力演している。だったら、演出でなんとかならなかったのか。


1人の映画プロデューサーとの出会いで運命の歯車が狂い出すーー。//不思議な霊の世界。/相手の見たいものを見せるという妹の才能。/姉の深い愛。/パリに降る雪や南仏の海の美しさ。/見どころ満載。/そして、ええーっ!/そう来たかーー!!の展開&結末。」とうけれど、この一人の映画プロデューサーというのが重要で、このコルベンAndre Korbenというのは、実在した映画監督・プロデューサであるベルナール・ナタンBernard Natan (born Natan Tannenzaft; 1886 –1942) のこと。


問題は、実在の人物を扱う場合、いくら名前を変えても実際の行動や業績に縛られてしまうため、映画あるいは物語の必然性から外れてしまうということだ。コルベン/ナタンがポルノ映画に出演していたというのは事実なのだが、映画のなかでは意味不明の蓋然性のない設定にみえる。いっぽうで、ナタンはパテー兄弟社という大きな映画会社やスタジオを買収し映画の技術革新にはげむのだが、そうした辣腕経営者、プロデューサーとしての側面は場面はあっても、強調されない。またコルベン/ナタンが心霊現象に興味を持ち、科学的に立証された心霊映画を撮ろうとするのは、虚構なのだが、しかし、なぜ、そうした愚行に走ろうとしたのか心理的あるいは人間的説明が希薄なために、コルベンはただの愚かな経営者にしかみえない。虚構部分を史実に組み入れたため、史実の部分が説得力がなくなり、虚構の部分がコルベン/ナタンの失脚の有力な根拠になってしまった。彼の愚行のために、ナタリーポートマンの妹リリー=ローズ・デップが、放射性物質を扱う危険な実験に供され、のちに白血病となって死ぬ原因ともなるのだから。


もちろんコルベン失脚は、当時のユダヤ人ヘイトがあったことは確かだろう。これは一見神秘的にみえる姉妹の心霊現象物語のなかに、リアルな史実を盛り込み、ユダヤ人の悲劇的エピソードとして映画を成立させようとしたから当然なのだが。


また、その意図はもちろんわかるし、イスラエル出身のナタリー・ポートマンが、全力でそれにかかわるというのも理解できる。問題は、この映画が1939年から42年をフランスの文化風景を描く際に、映画人(監督、俳優、女優、プロデューサー)の活動を物語の中枢に据え、映画の画面自体も、昔の古い映画のような作りにしているところがある点だ。正方形の画面になったり、周囲からしぼっていく暗転の技法がふつうに使われたりする。そこは面白いといえば面白い。まさにメタ映画なのだが、同時に、それによってすべてが作りごとの絵空事の空虚感が消えないのだ。コルベン/ナタンが最後に裁判所で判決を受けるとき(ただし史実では釈放されるのだが、その後、フランス政府が彼をナチスに引き渡し、最後はアウシュヴィッツに送られる)、詰め寄ったメディア関係者に、私の写真をとるな、これは喜劇ではない、これは悲劇なのだといって両手で顔を隠すというシーンがある。これなどは、まさにいかにも当時の映画の演出であり当時の俳優の演技そのままである。それは面白いのだが、面白いと思う瞬間、悲劇性は遠のいてしまう。ブレヒトなら、これを悲劇性を脱色する異化の手法とするだろうが、あいにく、この映画は、この部分を、異化的な場面とするつもりはないだろう。


さらにいえば、映画は顔のアップを多用する。まさに顔の映画なのだが、それによって、周囲の状況が、時代の変化が、社会の圧力がまったく伝わらない。あるいは暗示的に終わってしまう。暗示的手法は、この映画のなかでは、効果的に使われているとも思えない。むしろ舌足らずな、未完成な語りを思わせてしまう。そう、すべてにわたってこの演出は、退屈で眠らせるのか、いらいらして腹がたつかのいずれかなのだ。


もちろん、今という時代への警鐘であることはたしかだろう。ネットの映画評を見ても、現在の、冗談抜きの「戦前」かもしれない日本の状況とシンクロさせている感想は、私が見た限りでは、なかった。だが、あからさまな、おしつけがましい警鐘を避けるために、暗示的に控えめに表現することは、舌足らずと説明不足とは違うし、そこにセンスのなさ(はっきりいってフランス映画と思えないほど、センスが悪いのだ、最後の音楽にしてもエンドクレジットの途中で終わってしまい、あとが続かないのはどうしたわけか)、そしてすべてが映画の場面、あるいは映画の書き割りのような現実に収束させてしまうので(パリに降る雪の場面、最初のそれは本物らしい雪だが、ノスタルジックな回想の場面の雪は、羽根布団の羽のようなものにかわってしまい、ノスタルジックな回想場面の作り物性を強調している)、これではいつまでたっても、リアルに到達しないのだ。リアルに到達しない、あるいはリアルへの到達回路を示すことのできない映画が、史実をもてあそぶなと言ってやりたい。

posted by ohashi at 18:33| 映画 | 更新情報をチェックする

2017年09月17日

『三人目の殺人』2

ポスト・トゥルースの時代


結局、鈴木砂羽、土下座強要事件は、うやむやになったまま終わったようだが、最初から、うやむやな事件だった。こういう芸能記事は、芸能プロとか事務所の思惑が入り、宣伝売名行為と脚の引っ張り合いとかからまりあってまともに扱うとバカをみるのだが、同時にまた、今回の事件は、私の立場でもあるのだが、小さすぎる事件(小劇場における小劇団の小規模公演)のわりに大事件なみに扱われたので、ニュースにするほうも、実のところ、失敗したと後悔しているのではないかと思う。帝国劇場での1か月半の公演で、出演予定の女優2名が二日前に降板といっても、病気か怪我ならニュースにもならないのだが、土下座供与ならかろうじてニュースになるかどうかというところだろう。


その後の展開もひどいものだった。そもそも降板した女優は、公演に損害を与えることになったので、訴えられてもしかたがない(訴えが通るかどうかはべつにして)。ところがこれを察知したのか事務所の側の社長のほうが、意味不明の強気に出て、劇団や演出家を批判、公演をやめさせるようにとメディアに顔を出して言いはじめる。土下座させられることはひどいとしても、それで降板するのは女優側、事務所側の無責任姿勢が問われてもしかたがない。損害賠償の義務は事務所側にある。土下座強要は暴力的だが暴力をふるっているわけではない。土下座の姿をネットに流したわけでもない。


いっぽう舞台稽古とか演劇界では、演出が土下座のようなことを強いるのは当たり前で問題にならないという問題発言もあって唖然とした。なかには演出家と役者の関係は社長と社員の関係と同じだから社員は絶対服従だというバカなことをいう演出家もいて、なるほど、演劇界は、そんな閉鎖的な社会だから、バカが多いのかとも納得した次第だが、現実問題として社長が社員に土下座させたらパワハラ問題となり訴えられたら社長が不利であり、そんな会社はブラック企業以下との評判も免れない。また演劇界でも演出家が厳しく指導するのはいいとしても、いまは、パワハラになるような指導が容認される時代ではないし、時代のせいだけでなく、人間的にも、相手の人格をおとしめるような非人道的な処置は絶対にあってはならない。大学で学生が不正行為をはたらいたからといって、学生たちの前でその学生を土下座させて謝らせたら、最終的には教員のほうが訴えられるだろう。


あと社長と社員というバカ比喩を持ち出した演出家に問いたい。若くて気鋭の演出家であっても、有名俳優とか大御所俳優がいたら、その俳優に土下座させることができるのか。演出家と俳優との関係を、社長と社員という関係になぞらえるのは、現実の企業文化を考慮すればまちがっているし、演劇界の現実でもないのだ。


もちろん最大の問題は、土下座させたか、させなかったかということである。女優二人が二回目の通し稽古に出なかったということだが、欠席することは劇団に通告済みであったにもかかわらず、演出家の耳に達してなかったので、激怒した演出家が、欠席した二人の女優に、土下座させたということだとしたら、そもそも、欠席を通告していた二人は、土下座すること時代おかしい。連絡が通ってなかったとしても、誤解を正すべきであって、いくら演出家が激高していたとしても、そこは誤ってい行けない。警察の拷問的取り調べによって自白を強要されるのと同じように、演出家から、土下座を強要されたというのだろうか。そうでもしないと演出家の気が収まらなくて、土下座に至ったのか。


いっぽうで演出家の側は、土下座を強要していないと明言している。これは二人の女優が完全に虚偽の発言をしているのか、あるいは、その場の雰囲気で、自分もしくは自分たちが悪いわけではないだが、とにかくその場をおさめるためい、言われもしないのだが、自発的に土下座をして謝ったということだろうか。この場合、土下座を、強要されたわけではないが、間接的に強要されたのも同じで、また演出家は土下座を止めなかったとしたら、強要とみなされてもしかたながないということになろう。となれば演出家が、土下座を強要していないというのは真実かもしれないし、土下座を強要されたという二人の女優の証言も真実かもしれない。


ただしどちらも真実を語っているというもの真実なら、どちらも虚偽を語っているというのも真実だろう。この場合、真実がどうであるかは、両者ともに知っている。どちらかが真実を語り、どちらかが虚偽を語っているということに、本来なら、なってしかるべきなのに、そうはならない。どちらも真実であると自分をあざむいているわけでないだろう。


真相に近いのは、どちらも虚偽だと、つまり自分に有利なように印象操作するために、虚偽と承知しながら、あるいは虚偽と確定的に批判されないような虚偽を語っているとはいえないだろうか。ここで思い出されるのは、結局、法廷戦術ということを優先して、虚偽でも、あるいは虚偽に限りなく近い発言しかしないという、『三度目の殺人』における証言なのである。


『三度目の殺人』について、そういう頭のおかしな、あるいは悪魔的な犯罪者がいるということではないと思う。あるいは、どんなに真実を語っても、最初から結論ありきの裁判過程で真実は重んじられることはなく、すべてがあらかじめ決定されているという裁判批判でもないだろう(いや、裁判批判的要素はまちがいなくあるが)。重要なのは、『三度目の殺人』の世界は、発言がすべて法廷戦術と印象操作という観点から決定されているということである。この世界にはすでに名前がついているポスト・トゥルースの世界と。


『三度目の殺人』は、繰り返すが、また前回の記事ではなにも触れていないが、このポストトゥルースPosttruthの世界の現実を世界に先駆けてとはいいすぎかもしれないが、先駆けてといっていいほど、物語化・映像化しているのである。このポスト・トゥルースの世界では、人間の発言は、真実に対する責任をもたなくいいというより、なんらかの戦術によって操作されることになるのだが、一貫性だの自己同一性は存在しなくなる。いかようにでも発言を盛り込まれるまさに「器」なのである。ポスト・トゥルースの世界における人間は、戦術的に合致したものが真実として認定され、ほんとうの真実は虚偽でしかなくなる。真実として通用する虚偽と、虚偽としかみなされない真実。ポスト・トゥルース時代における人間は、こうして真実とは無縁のロボット化した人間あるいは、いかようにでも操作される心変わりする悪魔でしかなくなる。そう思うと、この映画は、確実に、私たちのリアルに近づきつつあることがわかる。

posted by ohashi at 22:38| 映画 | 更新情報をチェックする

『散歩する侵略者』

前川知大と黒沢清とのコラボとなると、ふたつのことが予想される。相乗効果か、相殺されるか。結果としては、どちらも、よいところがでていたのではないかと思う。強いて言えば、前川ファンからすれば物足りないところもあるかもしれないが、黒沢ファンからすれば、よい題材を得て黒沢ワールド全開という面もある。


結論から先にいえば愛が地球を救ったということか。圧倒的な強さの宇宙人/侵略者のまえに消滅するしかなかいと思われた地球だが、侵略と破壊が途中で突然止んで人類は救われる。これはHGウェルズの『宇宙戦争』(原題は『(両)世界戦争』)と同じパタンでしょう。つまり圧倒的な強さの火星人侵略者たちも、地球にある病原菌に対して免疫がなく、地球征服直前に死んでしまい、地球はからくも救われたということ。このアナロジーから考えれば、宇宙人の侵略が途中で止まったのは地球に蔓延している、また地球人には免疫があるが、宇宙人には毒かもしれない、愛という名の病のせいである。


この愛というのは、困ったもので、宇宙人のガイド役をやらされている長谷川博己も、最後には侵略する宇宙人のほうを応援して自らを捧げるのである。密着取材、あるいはガイドとはいっているが、人質、捕囚でもあり、この長谷川の行動は、自分を束縛・監禁する者を愛してしまうというストックホルム症候群と同じである。実際、ネット上でも宇宙人のほうを応援してしまうという声もあり、地球にいかに愛という病が蔓延しているかがわかろうというものだ。


宇宙人は、地球人から概念を奪う。地球人のことを知るためにというのはわからないわけではないが、ただ、フィクションをまじめにとりすぎるのはおかしいとはいえ、概念は基本は言語であり、言語は二項対立から成る。実際、宇宙人が奪う概念の多くは二項対立からなっている。他人の家と自分の家とか。家族と家族ではないものとか。もし宇宙人がこうした二項対立を理解できないというのなら、まず言語をもっていないことであり、言語を持たない人間が、よその星まで行ける高度な文明を持てるはずがないし、また二項対立を知らない宇宙人が、侵略などするはずがない。侵略は二項対立の概念なくしてはありえないからだ。


この点は問わないことにして、不思議なのは概念を奪われた人間が廃人になることである。まあ、これもわからないわけではない。概念ひとつとはいえ、それはシステム化して他の概念と繋がっている。だから、たとえば体から肝臓ひとつ抜いただけでも、その人物は死んでしまうのと同じということもできる。しかし映画の場合、そうではないようだ。概念を抜かれる人間は、廃人になるのではなく、その時思わず涙を流す。痛いとか苦しいとかではなく、不意の涙である。となるとこの涙とは何か。


児島一哉扮する刑事が「自分」という概念を抜かれてしまうところがある。彼の場合、その自分とは、自己嫌悪と絶望の対象である。自分のこと、自分のふがいなさが嫌でたまらない。そのため「自分」という概念が抜き取られてしまうと、ある意味、このトラウマのような自分から解放され自由になれるのである。概念を抜かれた人間たちは、立っていられなくなって廃人化するかにみえて、同時に、自由にふるまうようになる。むしろ解放され自由にふるまうようになり、これが逆にウィルスにおかされた病人扱いされる原因ともなる。概念が抜かれたあとの涙は束縛から解放されたときの喜びとまではいかなくとも、解放感の涙だった可能性がある。


もしそうなら、概念を抜かれたときに立っていられなくなるというのも、脳から重要な部分が奪われたときのショック症状ともいえるのだが、同時にそれは、人間を直立歩行させるのが概念であること。トラウマでもコンプレックスでも、理念や理想でも、義務や責任感でも、良心や正義感、とにかくなんでもいいのだが、そうしたものが人間を直立歩行させる。


それがなくなってしまうと直立歩行ができなくなる。身体のコントロールがきかなくなった状態から、体を動かせなくなる状態か、もしくは体が動きすぎる状態(子どものような遊戯的行為に、あるいは無軌道な行為に)が出現するのだが、ただ、いえるのは、それが解放された人間の姿なのである。概念は人間を直立方向させ、ひとかどの社会人にするのだが、同時にそれは人間を束縛する装置でもあった。


これに対して、概念ではなく、愛を奪われた人間はどうなるのか。概念を奪われると立っていられなくなる。しかし愛を奪われても概念という鎧が残っている以上、直立歩行はできる。しかし、そのとき、概念を束縛と感ずる愛が奪われてしまうので、無軌道な身体と精神が消えてしまい、ロボットのような、もっと正確にいえば、鎧で身動きできず、動きをとめたロボットのようになる。概念を奪われると人間は、動物化して、暴れたり自由に動き回ることができるようになる。愛を奪われると、人間は、機械化して、廃人化する。


ということなのだろうか。何を言っているのかと不思議に思った方は映画を観てほしい。ただし、ここでは手段ではなく目的を語っている。目的の部分、あるいは理屈の部分は、前川知大の原案だから、実は、しっかりしているのだが、ただ、舞台でも、映画でも、重要なのは主題を提示するという目的の部分ではなく、主題がいかに提示されるかという手段ものほうがそれ以上に重要だろう。それについては、何も語っていない。


ただ、こうは言えるだろう。全体でよくわからないが、途中の物語のプロセスと提示法は、とても面白いというのが、誰もが抱く偽らざる感想にちがいない。だから、そちらのほうに力点を置くべきだが、とりあえずの一報として、作品の「概念」について考えてみた。


posted by ohashi at 21:41| 映画 | 更新情報をチェックする